こんなはずじゃなかったのに。
その懊悩は、リーゼアリアにとってエスティアが消滅した時からずっと我が身をさいなむ厄介もので、それは今も変わらない。
無限書庫に現れ、スカリエッティの使者を名乗った少女、ドゥーエ。じきに査察部が来るという忠告を受けて、リーゼアリアとリーゼロッテは彼女の手引によって本局から逃げ出した。
その足で慌ててスカリエッティのラボまで駆けつけたら闇の書が暴走していて、主であるグレアムは酷い傷を負って昏睡状態。スカリエッティとウィル、生き残ったヴォルケンリッターは、暴走を止める準備のために闇の書の元へと再び赴いていて、その成否はいまだ不明。
リーゼアリアとリーゼロッテは、準備が成功した場合に再び暴走を再開する闇の書を相手に時間稼ぎするため、ラボ直上の空で待機中、と。
八神はやてのもとに転生した闇の書を見つけてから、数年。こちらの予定通りに事が運ばず、闇の書が暴走してしまう状況は常に想定していた。それなのにいざそうなればこんなに衝撃を受けている自分が滑稽に思える。
闇の書の主を何年も監視しているうちに、主導権を握っているのは自分たちだと錯覚をするようになっていたのかもしれない。
だとすれば、自分たちがそんな驕りを抱くようになってしまったこと。それこそが最もこんなはずじゃなかったことだ。
リーゼアリアとリーゼロッテは、二人並んで肺の中の空気をすべて吐き出すような深いため息をつく。
「ま、なったものは仕方ない。まだ終わったわけじゃないんだから」
リーゼロッテが顔をあげ、肩と首を大きく回して音を鳴らしながら言い放つ。前を向いた顔には不敵な笑み、
リーゼアリアは目を閉じて、吐き出した以上の息を吸い込み、今度は細く長く吐き出す。再び目を開いた時には、焦燥も後悔も表情からは消えている。
「そうね。今の私たちにはできることがある」
こんなはずじゃなかったと、うつむきうなだれるだけの時間はとうに過ぎ去った。
ただの囮でも、時間稼ぎでも、艦橋に表示されるディスプレイを見るしかできなかったあの時よりはマシだ。
空は鉛のような灰色の雲に覆われ、眼前にそびえる山と眼下に広がる平地は渇いて枯れた色。遥か後方には闇のように昏い海が見え、そちらの方から吹く風には、わずかに潮の香りが含まれている。バリアジャケットのおかげで感じないが、海の方から身も凍えるほどの冷気を運んできているのだろう。
人類どころか、生物すらほとんどいないこの無人世界なら、周囲を気にする必要はまったくない。ただ戦いだけに集中できる。
来やがれ闇の書。一発、思いっきりぶん殴ってやる。
空の一点に巨大な歪みが生じる。
視認できるほどの空間歪曲は、それが必要となるほどの質量――エネルギーが現れようとしている証拠だ。
リーゼアリアは歪みに向けて右腕を突き出す。砲台のようにまっすぐに伸ばされた腕の先で、大きく開かれた掌のさらに先、青い魔力が集う。
空間の歪みは指数関数的に拡大する。ついに空間が歪曲に耐え切れなくなり、断裂を起こす。
世界を砕く音を先駆けに、歪みから深い闇が姿を現す。
その正体を確認するよりも早く、リーゼアリアは構築していた砲撃を放つ。
迫る砲撃に対して、現れた何か――人型をしているそれは、ついと指を向ける。その指先に黒紫の魔力が集うのに、コンマ一秒もかからない。
「ディバインバスター」
黒紫の砲撃が青の砲撃を迎えうち、空中で衝突した大魔力同士はその場で爆発を生じさせる。
「……さすが」
リーゼアリアは戦慄でひきつりそうな顔を隠しながらつぶやく。
小手調べの砲撃がまともに通ると考えていたわけではないが、敵の動きはこちらの予想を越えていた。
長距離というほど離れてはいないのに、向かい来る砲撃魔法を視認してから砲撃魔法を構築して迎撃するなんて、規格外にもほどがある。
その人外の業を見せた敵は顔色を変えることなく平然と、というよりも表情の作り方を知らないとでもいうように、無表情にリーゼアリアを見返す。
人型をしているということは、あれは闇の書の管制人格なのだろう。
幽鬼のように透き通る白銀の髪。死人のように真白な顔を彩るは血色の刺青。四肢に巻きつけられた真紅のベルトは血塗れた包帯か。金の刺繍が施された黒衣を纏い、背に二対、頭に一対――六枚の黒翼を背負った姿は、聖書に記された堕ちた悪魔めいていて、それでいてどうしようもなく見惚れてしまうほどの美しさを持っていた。
内包された魔力は仮初の肉の器に収まりきらず、紫黒のオーラとなって周囲に発散され続け、存在するだけで周囲の魔力素を揺り動かして、付近一帯に魔力流を生じさせている。
管制人格の指先に再び魔力が集い始めた、と思った瞬間には発射されていた。
リーゼアリアは短距離の高速移動魔法を行使。魔力を推進力へと変えて急加速。その場を離脱する。その背に次々と魔力弾が降り注ぐ。
連射速度は一秒あたり五発という魔力弾並の構築速度で、そのくせ一発一発の威力がリーゼアリアの砲撃に等しいという、非常識極まりない攻撃。
リーゼアリアは短距離高速移動を連続して行使し、狙いを定めさせないように、フェイントをまじえつつ絶えず上下左右に動き回って回避し続ける。光弾の雨はその軌跡を一テンポ遅れてなぞっていく。いくら威力が高くても、狙いを定めさせないように動けば回避は容易だ。
だが、管制人格の全力がこの程度のはずがない。今のままでは仕留められないと判断すれば、すぐに攻撃手段を変えてくるはずだ。
その前に再びこちらから仕掛ける。攻めるにせよ守るにせよ、戦いの基本は主導権を握り続けることにある。こちらが地力で圧倒的に劣る格下となればなおさらだ。
管制人格の背後、何もない空間が真夏の陽炎のように、はたまたそよ風になびくカーテンのように揺らめき、リーゼロッテが飛び出す。
リーゼアリアが管制人格が現れた瞬間に攻撃をしかけたのは、その直前に幻術魔法でひっそり姿を隠したリーゼロッテが気づかれにくくするためでもある。
管制人格の背後をとったリーゼロッテが力の限り振るった拳は、管制人格の周囲にただようオーラめいた魔力によって、いとも簡単に防がれる。
奇襲に気が付いた管制人格が振り向く。その前にリーゼロッテは拳を一層強く握りしめて、手に仕込んでいた一枚のカードをそのまま握りつぶす。
カードが粒子化して消失すると同時に、拳から魔力があふれだす。
カードは魔力を内蔵するタンク、いわばミッド式のカートリッジシステムだ。
闇の書封印の要となる凍結特化デバイスを開発する際、エネルギー源の確保が問題となった。闇の書を封印するほどの魔法となれば、魔導師が体内に蓄えられる魔力だけではとても足りない。
不足分の魔力を補うために、ベルカ式のカートリッジシステムを用いることはできなかった。カートリッジはベルカ式の魔法理論に基づいて設計されている。そこに蓄えられた魔力はベルカ式に合わせて最適化されているため、ミッド式に用いた場合は構築式に微細な影響を及ぼす。
その影響は純粋魔力運用では無視してもかまわないほどのズレだが、物理現象を引き起こす魔力変換ではズレが大きくなる。さらに、凍結魔法はエネルギーを生じさせる他の魔力変換と異なり、エネルギーを奪うという特殊な魔力変換。その構築式は非常に繊細で、多少のズレが看過できないほどの悪影響を及ぼす。
もしジュエルシードの紛失がその当時に起きていれば、エネルギー源とするために入手に躍起になっていただろう。だが、あいにくと当時にジュエルシードほど都合の良い品は存在せず、グレアムは選択を迫られることになる。
ベルカ式のカートリッジを用いるために、未経験のベルカ式で凍結魔法を組むのか。それともミッド式の凍結魔法を用いるために、ミッド式のカートリッジシステムを造り上げるのか。
グレアムが選んだのは後者。そのために白羽の矢がたてられたのが、かつて管理局の技術部が提唱し、不採用になっていたカードシステムだ。
すでに野に下り民間企業で活躍していた当時の開発責任者を見つけ出し、いぶかしむ彼と信頼を築き、私費を投じて秘密裏に製造する準備を整えるまでに二年の月日を必要とした。
最終的に製造された完成品は五十二枚。その一枚一枚に、AAAランクの魔法を発動させるに足る魔力が込められている。
五十二枚の内、安定性に優れた二十六枚は当初の予定通りデュランダルに内蔵されている。残りの二十六枚はリーゼ姉妹がわけあって持っている。ここまでの活動で何枚かは消費したが、まだ二十枚近く残っている。
カードの魔力はリーゼロッテの掌に集まり、小さく、それでいて高密度に圧縮された魔力刃へと姿を変える。
刃はオーラを祓い、キリのようにバリアを貫く。穴が空いて脆くなったバリアを、今度こそリーゼロッテの拳が突き破る。
管制人格は振り向き様に魔力刃を掴んで止め、刃に込められた魔力を上回る魔力で抑えこんで砕く。
続けて管制人格の前蹴り。腹部を狙ったそれを、リーゼロッテはわずかに上方へと移動して紙一重の回避。伸びきった管制人格の脚を踏み台にして、魔力を載せた膝蹴りを頭へとぶちかます。
リーゼロッテ必殺のシャイニングウィザードが脳天に炸裂した――というのに、膝はまるで巨大な岩壁にぶつかったよう。
「なっ――んて石頭!」
管制人格は表情一つ変えることなく、右拳で直突きを返す。リーゼロッテは体を翻して回避しつつ、伸ばされた管制人格の右腕を絡め取って腕ひしぎ十字固めに移行。即座に折りにいくが、やはりびくともしない。
漏れる魔力が成すオーラも、周囲に展開されるバリアも、そして全身に満ちる強大な魔力も、すべてが管制人格を守るための防壁。
魔力の差は、力の差だ。
子どもと大人が殴りあえばたいてい大人が勝つように、ボクシングが階級で分かれているように、体格の差はいかんともしがたい力の差を生じさせる。
質量が大きい方が大きなエネルギーを有しているのは自然の摂理。筋肉がある方が強く、筋肉がある方が堅く、筋肉がある方が速いのは生物の摂理。魔導師の戦いでも同じことだ。魔導師の世界では、魔力こそエネルギーにして筋肉。魔力とは攻撃力であり、防御力であり、機動力。
その差を覆すため、人は経験を蓄積し、技術を築き上げてきた。だが、それらは己のもつエネルギーを最大の効率で運用する最適化にすぎず、行使するエネルギーに差がありすぎれば勝敗を覆すには至らない。
管制人格は腕に纏う魔力を衝撃へと変え、組み付いたリーゼロッテの体を吹き飛ばす。
宙を舞うリーゼロッテに向けて追撃の砲撃魔法を放とうとして、直前で腕の向きを変える。
直径で二メートルはあろうかという極太の砲撃が管制人格を襲う。リーゼアリアが三枚のカードを使って構築した、特大の砲撃魔法だ。
カード一枚だけでもAAAランクの魔法一発と同等で、二枚ならAAA+、三枚重ねればオーバーS。リーゼアリアが反動を気にせず一度に使える限界枚数で、最大威力の攻撃魔法だ。
魔力の差で攻撃が通じないのなら、通じるようにさらなる魔力を込める。極めてシンプルな解法。
その砲撃を、管制人格は右腕で受け止める。
オーバーSの砲撃は、管制人格の右手の甲と掌を守るように覆っている黒い布地を消し飛ばした。
得られた成果はそれだけだった。
「化物め」
心を諦めが覆いつくそうとするが、すぐさま気持ちを切り替える。
まだやれることをすべてやったわけではない。一人一人の攻撃では無理なら、今度は二人の攻撃を重ねてみればいい。
冷静さを取り戻すまでの一秒足らずの間に、管制人格は次の攻撃の準備に入っていた。人間の魔導師なら詠唱を必要とするほどの高度な魔法を自前の構築能力で強引に作り上げる。
両手を大きく広げた管制人格を中心点として、周囲に巨大な魔法陣がいくつも描かれる。陣の外周上に光球が次々と構築されていく様は、さながら星屑の群れ(アステロイドベルト)。
生み出された百にも届く光球は、魔力弾ではなくそれを発射するための土台(スフィア)だ。
「フォトンランサー・ジェノサイドシフト」
その魔法は、フェイトから蒐集されたフォトンランサー・ファランクスシフトを改造して作り出された即興魔法。
ファランクスシフトは、三十六のスフィアから毎秒二百五十六発の魔力弾を高速射出する連射型射撃魔法。紙さえ破れない一滴の水でも、多くを集めて一点へと集中させれば金属をも切り裂くウォーターカッターとなるように、量で圧倒する高威力魔法だ。
ただでさえ驚異的なその魔法が、管制人格によってスフィアの数がおよそ三倍、そこから発射される一発一発の威力は砲撃魔法級という、規格外の怪物魔法へと変貌を遂げる。
さらに管制人格は、一点に集中させれば次元空間航行艦船の外装ですらたやすく撃ち貫くであろうそれを、拡散させて面制圧する範囲攻撃へと改造した。
スフィアが一斉に弾を射出する。数千の弾が並列することで面が作り出される。
迫り来る紫黒の面。
防御魔法を展開すれば凌ぐことはできる。数千の弾があっても、広げて面にしたのだからこちらに接触するのは一つか二つ。砲撃級の攻撃でも一発二発なら耐えることくらいできる。
だが、二人はそれをよしとしない。防御魔法に魔力を注ぎ込むために足を止めれば、相手に主導権を与え続けることになる。
瞬時に判断を下した二人は、自分から面へと突貫する。
迫る面は一見完全に見えるが、魔力弾という球によって構成された擬似的な面だ。弾同士が干渉し合って減衰するのを防ぐためにも、弾と弾の間には必ず隙間がある。
その隙間が三十センチメートルもあれば、二人にとっては十分すぎる。
面と接触するその直前、二人は瞬時に身体を猫へと変化させ、隙間に身体をねじ込んでくぐり抜ける。
再び人間の姿に戻ると、リーゼロッテはそのまま管制人格へと突撃。リーゼアリアはリーゼロッテが接近するまでの間、管制人格を引きつけようとその場で散弾を放つ。砲撃ですら効かない相手にただの散弾など通用するはずもないが、途中で分裂してさらに分裂してを繰り返した散弾の群れは、先の管制人格のジェノサイドシフトのように擬似的な面を生み出して、近寄ろうとするリーゼロッテの姿を隠す、はずだった。
散らばり始めた散弾が突然再び集まり出して、個々の軌道がねじ曲がって螺旋を描き、すぐに径が極小に縮まって魔法ごと空間の一点で圧壊した。
管制人格の前方、ほんの数メートルのところの空間が歪んでいた。
転移魔法による歪みとは異なるそれの正体を類推。散らばるはずだった魔法が一点に引き寄せられた。その不可解な動きから、管制人格の前方に重力場が展開されていると看破した。
だが、正体を見ぬけても意図がわからない。
重力操作系の魔法は距離による減衰が激しいため、慣性制御など、自身の周囲に補助的な役割で作用させるのが一般的で、防御するだけなら通常のシールドを展開した方が効率は良い。
まさか自分が散弾を放つのを予想して対策していたのか。管制人格の行動予測はそこまで高かったのか。と、困惑するリーゼアリアの目の前で、管制人格が造り出した重力場の中心に向かって周囲の空気が引き寄せられていく。
集うのは空気だけではない。空気とともに引き寄せられた大気中の魔力素が、渦巻き集い、圧縮されて、球を形成す。
無色の魔力素が、球体に近づくにつれて黒へ塗りつぶされる。管制人格に近づくにつれ、世界が彩りを失っていく。
膨れ上がる黒色の球体は、星が命尽きた後に誕生するブラックホールのよう。
何が起きているのかを理解した瞬間、二人は攻撃を中止してその場からの離脱を選択した。
管制人格は右手で徐々に肥大化する黒色の球体を制御しつつ、左手の指先から砲撃を連続して射出する。当てるための攻撃ではない。二人がこの場から転移魔法によって逃走するのを防ぐための牽制だ。
転移を封じられた二人は、飛行による逃走を選択し、管制人格に背を向ける。次々と飛んでくる砲撃を回避しつつ、全力で距離を取ることに専念する。
重力魔法の真の意図は、周囲の物質、正確には魔力素をかき集めること。そしてその先、かき集めた大量の魔力素を運用しての魔法――いわゆる収束魔法の構築こそが真の目的だ。
「いったい誰よ!? あんな馬鹿げた魔法を蒐集されたのは!?」
片手間で放つ砲撃ですら、リーゼ姉妹にとっては数発防ぐのが精一杯なのだ。収束魔法が直撃しようものなら、全ての魔力を防御魔法に回したとしても、それを紙くずのごとくに吹き飛ばしてリーゼ姉妹をこの世から消し去るに違いない。
発射前に止めようにも、足を止めて砲撃を構築し始めたり、接近戦を挑みに近寄れば、まだ不完全な収束魔法を強引に放ってくる恐れがある。
人間の魔導師がそんな真似をすれば制御できずに暴発させるだけでも、管制人格という規格外の演算能力と魔力制御能力なら、その無茶を通してくるに違いない。二人は二分足らずの攻防でそれを確信していた。
残された選択肢は回避のみ。ある程度距離がとれれば、管制人格の牽制の合間を縫って、多重転移でさらに遠くへ離れることができる――その二人の目論見を崩すように、管制人格が行動パターンを変える。
管制人格からの牽制射撃が止み、直後、逃げる二人の周囲に巨大な魔法陣が浮かび上がる。
そこから泥のような塊がこぼれ落ち、形を成す。
それは闇のように黒々とした生物だった。全体的なフォルムは竜によく似ていたが、身体には黒い体毛が生えている。首にはエラがあり、類人猿のように長い二本の手を持ち、背から触腕が突き出て、どんよりとしてくぼんだ知性の輝きの感じられない目で二人を捕捉して、左右で釣り合いのとれないいびつな翼で器用に空を飛ぶ。
たわむれに描かれた化物といった風貌のそれは、魔力で式に仮初の肉を与えた生物――プログラム体だ。
ヴォルケンリッターのように精密に作り上げられた芸術にも等しい一品とは異なり、ただ単に二人の足止めをするために、蒐集対象となった複数の生物の情報をもとに即興で構成された、雑なコラージュのような粗悪品。
召喚された生物――獣が、牙の生えた口を大きく広げる。口腔の更に奥では熱量が急速に高まる。リーゼアリアのバインドが獣の上顎と下顎をくくりつけ、開いた口を強引に閉じる。獣の内部で生成された炎は行き場をなくして体内で爆発を起こした。
続けて飛び込んだリーゼロッテの蹴りが、苦悶の声をあげる獣の胴に突き刺さる。
粒子となって消滅していく獣。開けた視界のその先に、周囲の魔力素を吸い込んで膨れ上がる黒色の球体が浮かんでいた。
大きさこそまだ小さいが、前方に浮かぶそれは、はるか後方にある収束魔法のそれと同質。
「遠距離収束!?」
自身から遠く離れた場所に魔力素をかき集めて構築するなど。百メートルの絵筆使って、遠く離れたキャンパスに絵を描くようなものだ。
その神業を支えるのは、管制人格の規格外の魔法構築能力。遠方の魔力素すらはっきりと認識できる、次元艦船にも負けないほどの感知能力。
そして、もうひとつ。異なる空間を長時間同期させ続ける神業。ヴォルケンリッターの一人、シャマルの絶技――旅の鏡。管制人格は己の左腕を遠方へと移し、それを起点として収束する魔力素を制御していた。
前も駄目、後ろも駄目。
さらに別方向に逃げようとした瞬間、周囲に次々と魔法陣が浮かびあがり、そこから零れ落ちた醜悪な獣の群れが二人を二重三重に取り囲む。
即興で造られたプログラム体など二人の足元にも及ばないが、収束魔法が完成するまでにこの包囲網を突破して魔法の範囲外に逃れるのは――。
――咎人たちに滅びの光を 星々よ集え、全てを撃ち抜く光となれ 照らせ、閃光
主星の死角を補う伴星の輝きが増し、ついに解き放たれる。
その瞬間、
「ディバイン、バスタァア!!」
気合の入った一声とともに降ってきた一条の光の柱が、伴星の中核を貫いた。
貫かれた球は中心のぽっかり抜けたドーナツ状に変形。かきあつめた莫大な魔力素を押し固めて球形にしていたのに、その中央が失われればどうなるか。
喪失した部分へと外側の魔力が移動する。移動した魔力と魔力は予期せぬ衝突を起こし、その衝撃が周囲の魔力へと伝播して、綻びがさらなる綻びを生むように、魔力が暴れだす。
荒れ狂う魔力を再び制御することはできなかったのか。管制人格は旅の鏡を消す。完全に制御を失った収束魔法はその場で弾け、範囲魔法のように四方八方へと破壊の力を撒き散らす。
その破壊がリーゼ姉妹のところへ到達するより先に、色とりどりの魔力の弾丸が雨あられと降り注ぎ、次々にプログラム体の獣どもを貫いていく。
包囲網に穴が空いた瞬間、天から地へと一羽の隼が翔ける。獲物を狙う猛禽の如く急降下し、すれ違い様にリーゼアリアとリーゼロッテを引っ掛けて、獣の間を縫ってその場を離れた。
その場に取り残された獣どもは、暴走した収束魔法の余波に巻き込まれてこの世から姿を消した。
「大丈夫ですか?」
「あんたは――」
リーゼロッテを死地から連れだした少女、フェイト・ハラオウンは、二人を連れたまま旋回し、上昇。
見上げれば、上空に数十の人影。デバイス、バリアジャケット、ともに精鋭たる本局武装隊の制式装備だ。
同じような装備をした局員たちの中に、異物が四つ。
一人目は重装の武装隊とは真逆、胸当てとホットパンツという水着と大差ない格好をして、獣耳と尻尾を元気よくたてる少女。フェイトの使い魔、アルフ。
二人目は民族的な意匠のバリアジャケットを纏い、もう一つの収束魔法に対抗するために、何重もの防御魔法を構築する少年。民間協力者、ユーノ・スクライア。
三人目は白地に青のラインが入ったドレス型のバリアジャケットを纏い、排熱で煙をあげる長杖型のデバイスを構えた少女。同じく民間協力者、高町なのは。
そして最後、長套型の黒いバリアジャケットに身を包む童顔の執務官。
「クロノ……」
愛弟子であるクロノ・ハラオウンが、そこにいた。
*
「まだ本命が残っている! 全員、防御魔法用意!」
武装隊を率いるギャレットの声に合わせて、全員が一箇所に固まって、何重もの防御魔法を張り巡らせる。なのはの砲撃で破壊できたのは小さい方だけで、大きな方は今もまだ膨らみ続けて、直径十メートルを超える巨大な黒の塊となっている。
クロノも武装隊とともに防御魔法を展開させながら、下方から昇ってくるフェイトに視線をやる。
フェイトに襟首を掴まれて連れてこられるリーゼアリアとリーゼロッテ。彼女たちの姿を見て初めに心に浮かんだのは、仮面の戦士としてヴォルケンリッターに協力していたことへの怒りではなく、恩師の危機に間に合ったことへの安堵だった。
アースラは数日前からこの付近を巡回していた。
この海域のどこかに闇の書の潜伏先があるのは、闇の書に内通するグレアム主従への尾行や、ヴォルケンリッターが蒐集した痕跡の分布から導き出せていたが、それだけではある程度は絞りこむことができても、詳細な場所を突き止めるには至らなかった。
刻々と時間がたつ中、リンディはついに行動を起こす。
グレアムに偽の捜査情報を伝えることで、ヴォルケンリッターの出現場所を管理局の艦船が網を張る領域に誘導する。同時に、査察の体をとって無限書庫に務めるリーゼ姉妹を拘束する。ヴォルケンリッターとリーゼ姉妹、どちらかの身柄でも確保できれば潜伏先を突き止める大きな助けになるはずだ。
その目論見は失敗に終わった。
他の海域を担当していた艦船から、蒐集に出てきたヴォルケンリッターを発見したが取り逃がしてしまったと連絡が来たのが二時間前。
リーゼ姉妹の身柄を抑えるために無限書庫に乗り込んだ査察官から、彼女たち二人が書庫にいないと連絡が来たのが一時間前。
目論見をくじかれ、次の手を考えていたアースラが救難信号を受信したのが半時間前だった。
発信源は目をつけていた無人世界の一つ。定期的に観測部隊が訪れるだけで普段は誰もいないはずの転送施設からの救難信号だ。怪しみながらも連絡をとったところ、通信に出たのはグレアムの共犯者を名乗る女だった。
彼女から驚くべき事情を聞いたアースラはこの世界へと直行した。少し移動しただけでこの世界に転送できるほど近くにアースラがあったのは、不幸中の幸いだった。
フェイトは武装隊に合流すると、リーゼ姉妹をクロノのそばで下ろす。
クロノの視線に、二人は目をそらしながら口を開いた。
「ごめん、クロノ。私たち――」
「釈明は後だ。今はこの戦いを乗り切るために協力してほしい」クロノは自身も防御魔法を多重展開しながら、続ける。 「きみたちの協力者からおおまかな事情は聞いた。あれが闇の書の管制人格なのか?」
「ええ。あの中にウィルが突入して、闇の書を内側から怖そうとしている。それが終わるまで管制人格を引きつけておくのが私たちの仕事よ」
グレアムの共犯者との通信で、仲間の一人が闇の書の中に侵入を試みていると聞いた時は、そんなことができるのかと驚いたものだが、それがウィルとなれば驚きも二重だ。
「そうか。生きていてくれたか」
今は感傷にひたっている場合ではない。闇の書の中に突入しているということは、うまくいかなかった時は死ぬということだろう。
収束魔法は肥大化を止め、攻撃に転換するために形を整えて始めている。
一方、武装隊を中心に、クロノやなのは、アルフにユーノ、合流したフェイトやリーゼ姉妹も協力して、管制人格の収束魔法を防ぐための一大防御魔法が完成する。百層を超える防御魔法に、位相をずらす結界、熱を散乱させる強力な磁場。各々が持つ最大の魔法を駆使して編まれた防御魔法の軍勢で、今まさに解き放たれようとする闇の球を迎え撃つ。
その時、収束魔法に異変が生じ始めた。
綺麗な球形が徐々にねじれて、表層に生じた綻びからクエーサーのように魔力が勢い良く噴き出る。せっかく集めた魔力素を無為に放出して、徐々に小さくなっていく。
自滅か。制御できなくなったのか。身構えていた隊員が思い思いに言葉をこぼす。
たしかに、魔力が大きくなればそれだけ制御は難しくなる。魔力にすらなっていない不安定な力――魔力素を制御するのはさらに難しい。集めた魔力素が多すぎて制御しきれなくなるのは不思議なことではない。
しかしそれは人間の場合だ。闇の書という機械仕掛けの魔道書が、制御可能な量を見誤るようなことがあるだろうか。
疑問への回答は、クロノたちの背後に唐突に現れた。吹き付ける暴風をともなって。されど幽鬼のように忽然と。
見知らぬ女。年の頃は十代の後半あたりか。
モデルのような高身長。ボディラインにフィットした青いバトルスーツを身を包み、長い手足には煌めく光の翼。踝に二対、両腿に一対、前腕に一対。計八翼。
短く切りそろえられた紫髪に、鋭い目。剣が人の形をとったような峻厳な容貌。
「遅くなった」
前方の縮んでいく収束魔法と後方の闖入者。場に混乱が生じかけた瞬間、リーゼロッテが大きな声を張り上げる。
「彼女は敵じゃないわ!」
一方、リーゼアリアは女へと問いかける。
「今のはあなたがやったの?」
「お前たちの方にばかり気をやっているようだから、後ろから突き飛ばしただけだ」
クロノは武装隊に小さくなりつつも崩壊しない収束魔法の方を警戒するように指示を下し、女に向き合い問いただす。
「きみは何者だ。なぜここにいる」
「ギル・グレアムと協力関係にある者。名はトーレ。ここには援軍となるために来た。これ以上は言えない」
トーレと名乗る女は、必要事項のみを極めて端的に答えた。
「Ⅲ(トーレ)か」
なんともわかりやすい偽名だ。おそらくは何らかの組織で与えられたコードネームか何かなのだろう。
「先に言っておくが本名だ」
「そうか。それは、その……ユニークだと思う」クロノはごほんと咳を一つして 「事態が事態だ。今はこれ以上追求しない。手伝ってくれるか?」
あやしすぎる存在でも、その是非を問うている余裕はない。なにせ、まだ闇の書との戦いは続いているのだから。
クロノは臨機応変な対応で謎の闖入者の存在を受け入れるべきと判断する。
「あの、今ので倒せたんじゃないんですか?」
横から疑問の声をあげたのはなのはに、クロノは「いいや」と言って、いまだ残る黒球に視線をやりながら答える。
「術者が倒れたなら、魔法も制御を失って暴走しているはずだ」
直径で十メートル以上はあった収束魔法は、いまや二メートルほどの大きさにまで縮みながらも、球の形を維持し続けている。
それどころか、次第に噴出する魔力の量が減少し、歪んだ楕円から再び真球へと形を戻しつつある。
黒球の一部が盛り上がり。管制人格がずるりと這い出てくる。
大量の魔力が放出されたことで生じた暴風に長い銀髪を巻き上げられながら、騎士甲冑のほとんどが消え失せて、彫像のように均整の取れた裸体をむき出しにしながら、管制人格はこちらを見ていた。
雪のように白い肌を黒い粒子が包みこむと、再び騎士甲冑が形成される。
『S』
管制人格の口から、壊れたデバイスのようにひずんだ機械音声が漏れる。
黒球が脈動する心臓のように、倍ほども大きくなったり、半分ほどに小さくなったりを、繰り返すこと数度。
『Shooting Starlight Breaker』
一気に十分の一ほどにまで収縮。そして闇が煌めいた。
極限にまで圧縮された魔力が、人為的に与えられた出口へと殺到。超高速で射出された魔力は、もはや砲撃ではなくレーザーとなって直進。百層を超える防御魔法の九割を消し飛ばした。
誰もが動くのを忘れていた。闇の極光を視認した瞬間、肉体が死を直感した。対応を間違えた。あんなものを止められるはずがない。全てが終わったのだ、と。
やがて前方に残る十数層の防御魔法を見て、再び脈打つ己の心臓の音を聞いて、自分たちがまだ生きているのだと思い出す。
そして恐怖する。圧倒的な破壊の力。滅びは生物に刻まれた原初の畏れだ。
クロノは懐にしまっていた一枚のカード、凍結特化デバイス『デュランダル』を強く意識する。
クロノたちがこの世界に到着した時にグレアムの共犯者を名乗る女が――おそらくトーレの仲間でもあるのだろう――治療を終えて眠るグレアムとともに渡してきたカード。暴走する闇の書を封印するためにグレアムが用意していたというデバイス。これを使うということは、八神はやてとウィルの命を犠牲にすること。
渡された時には絶対に使うものかと思っていたのに、使った方が良いのではないかという考えが頭によぎる。このまま戦って、全員が無事に勝つビジョンがまるで見えない。二人を救うために、何人が死ぬことになるのか。
その考えに至った時、逆にクロノの精神は落ち着きを取り戻した。
自分もグレアムがずっと感じていた苦しみを、少しでも理解できたのかもしれないと思ったからだ。
だけど、自分が感じているのは実際に部下を失ったグレアムのそれに比べれば、随分と小さいものだろう。それに負けるようでは自分を育ててくれた人たちに顔向けができない。
クロノは大きく息を吸い込むと、声を張り上げる。
「ぼうっとするな! 僕たちが呑まれてどうする!」
いまだ畏れから立ち直れない局員へと声をかける。リーゼ姉妹やギャレットなど、半数近くがその一喝で正気に戻るが、染み付いた恐怖を一瞬で拭える者ばかりではない。
そんな中、平静を保っていたトーレがクロノたちへと言い放つ。
「あれを相手に正面からかかっても一掃されるだけだ。私がスピードで翻弄する。お前たちは後ろから仕留めろ」
「その役目、私にもやらせてください」
トーレは割って入ってきたフェイトをじっと見て。
「それでは足手まといだ」
その短いやり取りで何かを理解したのか、フェイトは無言でカートリッジの弾丸をリロードする。
全身を纏うバリアジャケットが弾けた。背負うマントが消え、身体のラインに合わせてフィットした黒のボディスーツだけが残される。肩から先、太ももの半ばから先がむき出しの無防備な姿には、競泳水着のような一種の機能美がある。
だが、特筆すべきはその薄くなった装甲ではない。フェイトの周囲に展開され、姿を霞ませるほどに輝く金色の魔力光だ。
「これでも足りませんか?」
高速で飛行する魔導師は身体の周りに魔力光を纏う。G(加速度)を打ち消すために魔力光が生じるほどの慣性制御を働かせなければならないからだ。
姿さえ霞むほどの魔力光は、それだけの慣性制御が必要な速度で飛ぶのだ――飛べるのだという宣言。
「無理だと感じたらすぐに下がれ」
トーレは静かに告げると、その場から掻き消えるように飛び立った。それを追って、フェイトも飛び立つ。
それでクロノが喝を入れる必要はなくなった。
フェイトの行動をきっかけとして、青ざめていた者たちにも変化が起きていた。
いつの時代も、御大層なお題目や大義よりもなお単純で、だからこそ強い動機が存在する。
それはプライドだ。
目の前で自分より幼い子が戦っているのに、自分が退いていられるか。そんな安い大人としてのプライド。
それは次代に繋ごうとする生物の本能。滅びによる自己の消失と真逆にある強い力が、闇の書が振りまく畏れを凌駕して局員たちの心に火を灯していた。
**
熱を感じた。
この身は絶対的な庇護の下にあり、脅かすモノはどこにも存在しないのだと感じられる、暖かな温もり。母の胸に抱かれるような。父の背におわれるような。安らかな呼吸。幸福。沈む。体を丸めて。溶ける。胎児の夢。ゆだねて。
それは誕生に似ていて、死にも似ていて。自我の喪失だった。
炎。
途端、湧き上がる灼熱がこの身を奮い起こす。
あの日からいつも身体の底でくすぶり続けていた、身を焦がすような篝火が、意識を覚醒させる火花となる。
わずかに目覚めた意識に連動して、肉体が駆動し始める。動き始めた肉体は意識を深みから引きずり出す。ずっとここにいるわけにはいかない。自分にはやるべきことがある。やりたいことがある。だから、安らぎを引き剥がそうと――
カーテンから漏れる光が、寝覚めたばかりのウィルの目を焼いた。部屋の奥深くまで差し込む光が朝を告げる。
見慣れた部屋だった。ウィルが寝ているベッド。コンピュータ内蔵型の多目的デスク。デバイスに用いるパーツがケースに収められて並ぶ棚。殺風景だからと義姉が持ってきた小鉢の観葉植物。物心ついた頃から暮らしてきた、ミッドチルダのレジアス家。その二階にあるウィルの部屋だった。
着ている寝間着は、八神家に世話になった時に買ってもらい、そのまま管理世界に持って返ったパジャマだ。
寝ぼけているのか。頭はぼんやりとしていて、物事を深く考えられない。
「いかないと」
つぶやいて、ウィルは扉を開けて外に出る。廊下を歩き、階段を降りる途中
「おはよ」
階下のリビングから、声をかけられた。視線を向けると、栗色の髪の少女、八神はやてがウィルの方を向いてにっこりと笑っていた。
「朝ごはん、もうすぐできるから、ちょっと待っててな」
そう言うと、はやてはスリッパのぺたぺたという音を響かせながら、小走りにキッチンの方へと歩いて行く。
階段からは、リビングとダイニングが見下ろせた。
犬の姿でカーペットに寝そべるザフィーラと、そこに背を預けながらホットミルクを飲むヴィータ。
キッチンではレジアスの妻が食事を作り、ダイニングではシャマルとはやてが食事を運び、いち早く食卓に座るレジアスは小難しい顔をしながらニュースに目を通している。リビングのソファには、風呂あがりなのかかすかに湯気を立ち上らせているシグナムと、寝ぼけ眼でソファに身を深く沈めるオーリス。
そして――
彼らはそれぞれ、最後に起きてきたウィルに声をかけてくる。
何かがおかしいと思いつつも、何が間違っているのかがわからない。目の前に広がる光景は、幸福感とともにウィルの心の中にすっと入りこんでくる。
ウィルが階段を降りると、タイミング良く「みんな、ご飯できたでー」とはやてが声をあげ、全員食卓に向かい始める。
食卓には、一般家庭に置かれるにしては大きく、十人分の朝食が並べられている。
「ウィル、まず顔を洗ってきなさい」
なつかしい声が聞こえた。
ウィルの視線は、声の主――ソファから腰をあげた男に吸い込まれる。
短く刈られた、ウィルと同じ赤髪。服の上からでもわかる、鍛えあげられた肉体。隣に座るシグナムが小さく見える背丈。若々しい父がそこにいた。
「……父さん」
「ん? どうした?」
微笑む父の顔。それがきっかけとなった。
ウィルは目の前にいる父という存在を受け入れることができない。なぜなら、父が存在しているということ自体が、今のウィルの否定に繋がるから。
≪In order to prevent mental pollutant, unauthorized attak to master's mind has been restricted.≫
頭の中にデバイスの音声が響く。頭――というのはウィルの認識にすぎない。意識そのものへと警鐘が鳴らされた。
同時に目の前が真っ暗になる。視覚だけではなく、あらゆる感覚が失われている。思考汚染を検知したライトハンドが、外からの影響を遮断し、インストールしていたプログラムを起動したのだ。
起動したのはシンクロナイゼーションプログラム。
魔法プログラムではなく、脊髄に埋め込まれたヒューマンマシンインタフェースを通して神経に作用するこのニューラル・プログラムは、スカリエッティがヴォルケンリッターの在り方に着想を得て即興で作り上げた手慰みの一品だ。
ライトハンドに保存されているウィルの人格や記憶に関するデータを、逆に脳へと送信することで双方の同期をとるという、ただそれだけのプログラムには、記憶移植をおこなうプロジェクトFの技術が用いられていると聞く。
ただし、生み出したばかりの無垢な人間に情報を移植させ、自身の記憶と“誤認”させるプロジェクトFとは違い、情報を受け取るウィルはすでに自我の確立された一個の人間だ。有機的な生物の脳は、シナプスの結びつきは、データを送っただけで上書き保存されて書き換わりはしない。
健常な状態で起動しても、一瞬の間に様々な記憶が走馬灯のようにフラッシュバックしては消えていくのを感じるだけだ。
だが、もし使用者が正常な状態でなかったら。たとえば今のウィルのように、思考への干渉を受けているのであれば、現状認識とフィードバックされた記憶の差異が異常を浮かび上がらせ、本来の記憶を戻す呼び水となる。
はやてが自分の足で立っていること、ウィルの家族とはやての家族がともに暮らしていること、死んだ人間が生きていること。様々な差異を認識した時、ウィルの脳は外部からの干渉をはねのけて、ここに至るまでの経緯を思い出す。
自分が何をしでかして、何をするためにここにいるのか。
ここが闇の書の中なら、この肉体はただのイメージにすぎない。自分の姿を再定義。平和な夢の象徴である凡庸なパジャマを捨てて、戦いに臨むためのバリアジャケットを纏う。それにともない、生身の腕は金属の義手へと変化する。
そして、父の隣を通りすぎて、食卓のそばに立つはやてのもとへと歩み寄る。
突然姿を変えたウィルを怪訝そうに見るはやてに、ウィルは
「ごめん」
深々と頭を下げた。
「ふぇっ? ……えっ、なんで……?」
顔は見えないが、声色には困惑が多分に含まれている。
「ずっと騙してきて、ずっと黙ってて、ごめん。何も教えずに、痛さと怖さに耐えさせ続けるだけで、ごめん。はやての大切な人を傷つけて、悲しませて、ごめん」
「なんのこと――」
「この夢みたいな世界にいた方が、はやてには幸せなのかもしれない。戻ったって、もうシグナムさんも、ザフィーラも、ヴィータちゃんも、シャマルさんもいない。その足だって動かなくなって、また自分の力では動くこともできなくなる」
顔をあげて、二本の足で立つはやての、とまどいで揺れる双眸を正面から見つめて、告げる。
「でも、おれははやてに生きていてほしい。闇の書をこのまま放置したくない。だから、この夢の世界を捨ててくれないか」
「やめろ」
誰かがウィルの右腕をつかんだ。
声は背後から。振り向けば、すぐそばに銀髪の少女が立っている。先ほどまでの団欒にはいなかった、初めて見る顔。
ここが闇の書の中である以上、正体は検討がつく。
「お前が管制人格なのか」
「やめろ。主をこれ以上苦しませるな」
少女はウィルの問いかけには答えず、言葉を重ねる。その声は警告や忠告というよりも懇願に近い響きで、今にも涙を流しそうな顔をしていた。
彼女がはやてにこの夢を見せたのだとすれば、その意図は明らかだ。
だから夢から覚ましたいウィルを実力行使で排除するつもりなのではと身構えたのだが、管制人格は言葉を重ねるだけで何もしてこない。
「力づくで止めようとしないんだな。お前も本当はわかっているんだろ? こんなのはただの安楽死だ」
管制人格は悲しそうに首を横に振るばかりで答えない。
その時、空間に大きく亀裂が走った。
「あ、あ……そうや。私はさっきまでジェイル先生のところにいて……それで、グレアムおじさんが……」
はやての足から力が抜けて、その場に倒れこむ。
ウィルは管制人格に掴まれた腕を振りほどき、はやてに駆け寄ると、崩れ落ちる身体を受け止める。
腕の中のはやては、焦点の合わない瞳で虚空を見て、先ほどまで身体を支えていた二本の足は力なくだらりと弛緩している。
空間がガラガラと音をたてて崩れていく。穏やかな風景というテクスチャが剥がれた後に残ったのは闇だ。何もない、絶望のような闇が広がっている。
管制人格はのろのろとはやてのそばに寄ると、膝をつく。
「主にこんな悲しみを味わわせる必要などなかった。せめて最後くらいは、夢の中で安らかにすごしてほしかったのに」
諦めを口にする管制人格に、ウィルが抗議を口にしようとしたその時、腕の中のはやてがかすれた声で囁いた。
「私なら大丈夫やから」
はやては弱々しく微笑んで、身体を起こそうとしたが、力が入らないのか身じろぎにとどまる。
ウィルは腕にほんの少し力を入れて、はやてと管制人格の目線が合うように背を起こす。
「前にも会うたことあるよね? あの時は、夢の中やったけど」
「それも思い出してしまわれたのですか」
「うん。あなたが私にこれを見せてくれたん?」
管制人格は控えめに首を縦に振る。
「……最後はせめて幸せな記憶をと」
「ありがとな。ずっとこうなったらええって思い続けてた、このまま続きを見ていたいって思うような、素敵な夢やった。そやけど、ここまででええよ。せっかくウィルさんが起こしにきてくれたんやし、お寝坊さんなところを見せるのはかっこわるいしな」
管制人格は眉を歪め、やがて苦しげに目をつぶって、うなだれる。
わなわなと肩をふるわせ、絞りだすように声をあげる。
「ですが、術が……何もないのです。こうなってしまっては、闇の書は破壊によってしか止まれない」
伏せられた顔。嗚咽がこぼれ、涙は目元から鼻筋を伝って床に落ちる。
「私は無力だ……! ナハトヴァールに身体を利用され、主を逃がすことも暴走を止めることもできない!」
はやては管制人格の伏せられた顔に片手を差し伸ばし、そっと頬を包み込む。
「ごめんな」
「なぜ、主が謝るのですか」
「私、あなたになんて声をかけたらいいのかわからへん。今何が起こってるのかも、あなたが何を言ってるのかも、ちんぷんかんぷんや。あなたたちの主やっていうのに、ほんとに情けない」
「それは私たちが隠していたからです。主に非はありません」
「でも、きっと気づくことはできた」
はやては手を伸ばした姿勢のまま、今度は自分が顔を伏せる。
「ずっと気にしやんようにしてた。見やんようにしてたら、いつまでも幸せなままが続くと思ってた。……そんなわけないのにね。私が止まってても、周りは……世界は動いていて……そんなこと知ってたはずやのに」
はやては顔をあげる。もう一方の手も管制人格の頬に添えると、両の手に力を入れて、管制人格に前を向かせる。
「だから、聞かせてほしい。闇の書のこと。私の知らないところで、みんなが何をしてたんか、してくれてたんか」
はやては、身体を支え続けるウィルの方を見て微笑んだ。その眼には力が宿っている。自分が何をするべきか理解している者の瞳だ。
「もちろん、ウィルさんも。みんな、もう隠し事はなしにしよ」
この少女の優しさに感銘を受けたことは何度もあったが、その能力をすごいと思うのは初めてだ。
記憶が戻ってほんのわずかの間に、他人のことを気にかけながらも成すべきことと向き合った。その明敏さは非凡どころではない。
きっとはやて自身が言うとおり、彼女は周囲の嘘に気づくことができたのかもしれない。周囲に遠慮して無意識に思考のレベルを落としていただけで、本来ならスカリエッティのような天才たちと同じフィールドに立つはずの存在なのかもしれない。
自分の腕が、そんなはやての身体を支えていることに感謝した。
もし見ているだけで触れていなければ、能力にばかり目をやって、はやてのことを賞賛するだけで、気がつくこともできなかった。
抱き止める腕から伝わる、わずかな震え。それは彼女がこれまで戦いに無縁だった十歳の少女にすぎないという証。どれだけ聡明で優しくとも、このままでは死ぬとなれば怖くて当然だ。
「そうだな。まずは説明が必要だ」
現状を把握してもらうためだけではなく、彼女の恐怖を取り除くために。
ウィルはニューラル・プログラムの一つを起動。中(意識体)と外(肉体)の時間の流れを可視化する。中の時間表示が一秒二秒と時を刻んでも、外の時間表示は変わらない。
今こうしている間も、外では戦いが続いているのだろう。
だけど、これは夢だ。現実とは体感速度が違う、意識の世界。
現実で戦っている人たちに申し訳ないが、外で何分か経過するくらいまでは話をしてもいいだろう。
夢の中で語り合うのなら、それでも十分すぎるだろうから。
「少し長くなるけど、積もる話を一つずつ片付けていこうか」