シグナムは居住区の壁を破壊して、ラボの外、地下空洞へと飛び出した。
右腕は力なくだらりとぶら下がっていて、貫かれた右肩の傷からは血が流れ続けている。腕につながる筋皮神経が損傷したようで、右手がうまく動かない。人間なら致命的な怪我だ。
しかしプログラム体であるヴォルケンリッターにとって、肉の現し身は式の写し身にすぎない。肉体がどれほど酷く損傷したところで、魔力を消費して再構成すれば怪我はなかったことにできる。
ただし、そのために必要とする数秒の時間を相手が与えてくれるとは限らない。
一拍置く間もなく、砂塵を裂いて姿を現したウィルが急迫。殺意が刃に乗って迫り来る。
傷を治して右腕を使えるようにするだけの猶予はない。レヴァンティンを左手で握ったまま迫る刃を受け止める。
金属がぶつかり合うけたたましい音が空洞に反響する。
二つの刃が拮抗したのは一瞬。迫り合いに押し勝ったのはウィルの方。
シグナムといえど利き腕ではない腕一本だけで受け止められるほど、速度の乗ったウィルの突撃は甘くない。
受け止めきれないなら受け流すまでと、押し込むウィルの動きに合わせてあえて剣を引き、相手の突撃の威力を利用した前蹴りを放つが、槍の鋭さをもった蹴撃は空を切った。
ウィルはあらかじめ予測していたかのように、身体を半身にして蹴りを回避すると、動きを止めることなく後ろ回し蹴りに移る。
シグナムはとっさに蹴り足を引き戻して、身体の前で折り曲げて盾とする。回避の態勢から強引に放たれる蹴りなら威力は低い。十分受けきれるはず。
その瞬間、ウィルの蹴り足を覆う金属製のブーツ、そのくるぶしあたりに取り付けられたノズルから、圧縮された空気が噴出する。
急激に加速した蹴りの衝撃は、盾とした右脚を突き抜けて全身に響き渡り、シグナムの身体を弾き飛ばす。
飛ばされながら、飛行魔法で姿勢を制御するよりも先に、レヴァンティンに魔力を送り込んで空を裂くように振るう。
「陣風」
刀身に込められた魔力が大気と交じり合い、指向性を持つ衝撃破を生み出して、追撃を目論むウィルを迎撃する。
「アナテマ」
呼応するようにウィルが何もない空間を蹴った。脚に込められた魔力が大気と交じり合い、指向性を持つ衝撃破を撃ち出す。
同質の技、二つの衝撃波が宙空で激突。
衝撃波に指向性を持たせていた魔力が干渉し合い、崩し合う。
指向性を失い四方八方へ撒き散らされた衝撃波が、周囲の岩壁やラボの壁を砕く。
散乱する衝撃波と飛び散る瓦礫の合間を縫ってウィルが迫る。
直進できない分、飛行速度は先ほどより落ちている。この速度からの突撃なら左腕だけで競り負けることはない。
ウィルもそれは承知しているのか、シグナムの手前で急激に速度を落としつつ、魔力運用で足裏に形成した膜で衝撃を吸収しつつ着地。その足で地を蹴って、飛行から走行へと移る。
ここからは刹那に渾身の一撃を交わす騎兵の戦いではなく、技巧で相手を詰ませる剣士の戦いだ。
斜め左から切り上げるウィルの剣を、金属製のコンバットブーツの裏で受け止め、上段に構えたレヴァンティンを振り下ろす。
ウィルは左足を一歩踏み込んで前身し、剣の軌道から外れながらシグナムの右斜め前方の至近距離に位置取り、剣を引き戻す動きに連動して、左肘で弧を描くようにしてシグナムの顔を狙う。
顔を上体ごと後ろに逸らしてかろうじて回避したその瞬間、肘打ちの動きに連動して動いていたウィルの左膝が右脇腹に突き刺さる。
シグナムの身体が逆くの字に身体が曲がり、がら空きになった首筋めがけて、かついだ剣が振り落ろされる。
その確かな殺意にシグナムの肉体が反応した。
首筋に打ち落とされる剣をレヴァンティンの柄で受ける。そして剣との接触点を中心として弧を描く斬撃。
ウィルは剣を引きつつ立ててこれを防御。その間にシグナムは後方へ跳躍。
距離をとらせるものかとウィルが再び突撃し、剣と拳と脚を駆使した攻防が再度繰り広げられる。
攻め続けるウィルと防戦一方のシグナム。
片腕が使えないのだから手数が落ちて守勢に回るのは当然の成り行きといえ、シグナムの劣勢はそれだけが原因ではない。
シグナムの動きは本来よりワンテンポ遅れている。
戦うために造られ、何万という戦いを経験として蓄積してきたシグナムにとって、肉体が勝手に動くというのはごく自然なことだ。
個々の動作すべてを頭で考えているようでは、瞬間的な対応を要求される近接戦で一流と言われる領域に上がることはできない。
かといって、思考を放棄して本能のままに動くのでは動物と同じ。頭脳に求められるのは細やかな指示ではなく大まかな方針だ。頭脳は管理者、末端の肉体は労働者。方針を定めさえすれば、優秀な肉体はいちいち指示をしなくとも最適な行動をする。訓練とはつまるところ肉体という部下を教育するようなもの。
逆に、頭脳が方針を打ち出せないうちは、どれだけ優秀であっても目指すところがわからず、明確な反応を返してくれない。
今のシグナムの状況はまさにそれ。彼女の内にあるためらいと迷いが、肉体の判断を妨げている。
肉体を働かせるためには、決めなければならない。
目の前の障害をどのようにして排除するのか。
いや。
本当に排除しなければならないのか。
受け入れた方が良いのではないか。
襲いかかるウィルの絶対的な殺意に満ちた瞳は、ひび割れ、歪み、怒りと歓喜と嘆きがないまぜになった狂相に包括されている。
ここで戦うことがどれほど愚かな行為か、彼が理解していないはずがない。
戦いの果てにシグナムが討たれて、もしくはウィルが返り討ちにされて、命を落とすようにことになれば、はやての精神にどれほどの悪影響を与えるか。大きなストレスが闇の書の暴走を引き起こす可能性があると、シグナムに語ったのは彼自身だ。
それなのに、なぜ、こんなことを。
――はやてには幸せになってほしいんです
あの言葉は偽りだったのだろうか。シグナムを騙すための心にもない言葉だったのか。
それは違う、と断じられた。
人は物事に優先順位をつける。
シグナムも人を傷つけてきたことに罪の意識を覚えるようになってなお、はやてのためにさらなる罪を犯す道を選んだ。
彼も同じことなのだろう。
はやてを助けたいと願う彼も、シグナムを殺したいと狂う彼も、どちらも真実で、シグナムを殺すことを優先したからといって、はやてを助けたかった気持ちが嘘にはならない。
はやてを大切に思う彼に、その想いを踏みにじるほどの憎悪を抱かせてしまったのは、シグナム自身だ。
(そうか……私はこの人を――こんな人たちを生み出し続けて来たのだな)
命を奪われた一人一人に人生があり、未来があり、家族がいて、愛する者がいた。
奪った命はもう戻ってこない。命の重さは不可逆だ。
はじまりは他者の認識。それは罪の認識。
プログラムの写し身でしかないはずの肉の躰に、臓腑を焦がさんばかりの火が熾こる。
闇の書の騎士(ヴォルケンリッター)としてではなく、シグナムという一個人が生み出した、それは怒りだ。
知らず、理解せず、体を動かして、心を凍りつかせて、時間だけを重ねてきた、唾棄すべき己への。
仕方がなかったのかもしれない。
罪の認識や死への忌避は、生を尊ぶ世界、優しい主の元へ召喚されたからこそ手に入れられたものであり、過去では理解することが不可能だったのかもしれない。
システムの一部である自分がこのように人間めいた倫理感を有することこそがイレギュラーで、本来ありえないことなのかもしれない。
言い訳はいくらでも思いつく。
だが、その理屈を罪から逃れる口実にしてしまった時、二度と自分を許せなくなるという確かな予感があった。
闇の書は多くの人びとの命を奪った。守護騎士もその尖兵として、多くの人々の命を奪ってきた。
騎士に命令を下していた過去の主はもういない。今の主に罪はない。罪を覚えているのは騎士だけだ。
誰かが嘆きと怨嗟に応えなければならないのであれば、それをすべきはシグナムを置いて他にない。守護騎士の将として、重ねてきた罪と向きあわなければならない。
彼の憎悪の刃をこの身で受け止めることで、それが成せるのであれば――
そう思ったはずなのに、湧き上がる贖罪の念と同時に、シグナムの頭に浮かぶものがある。
微笑みを浮かべた少女の姿。自分たちに幸福の意味を教えてくれた最高の主。
シグナムとウィル。どちらが勝利したとしても、それが死を伴うものであれば、はやては嘆き悲しみ、闇の書の暴走を引き起こしてしまうかもしれない。
はやてのためにはここで死ぬわけにはいかない。まだウィルの復讐に決着をつけさせるわけにはいかない。
物事には優先順位がある。
シグナムにとって最も優先することは、優しい主が生き残らせること。
そのために殺さない範疇で彼を無力化させる。それがシグナムの下した判断だった。
目的意識が明確になったことで急速に肉体が活性化を始める。
頭部を狙う剣閃を、レヴァンティンで受ける。それは予測の上と、ウィルは続けて足元を横に薙ぐ。
軽く跳躍して回避。瞬間、ウィルの腕部にある小型スラスターから圧縮空気が噴出。全力で振るわれた剣が、瞬時に真逆の方向に斬り返される。
地面にレヴァンティンを突き立てる。ウィルの剣が突き立てられたレヴァンティンと衝突して、その動きが鈍った刹那。
シグナムはレヴァンティンから手を放し、姿勢を低くしてウィルの懐へと飛び込んだ。
突進の威力を乗せた左肘がみぞおちへと突き刺さり、ウィルの口から声にもならない苦悶をあげさせる。
間髪いれず、がらあきの顎を左手の掌で打ち上げる。
跳ね上がるウィルの頭。掌には意識を断った確かな感触。
昔のシグナムなら、さらに攻撃を続けてとどめを刺していたはずだ。
今のシグナムが望むのは、相手を殺さずに無力化すること。意識を断ったという手応えがある以上、これ以上の攻撃はウィルにいたずらにダメージを与えるだけで必要ない。
だからそこで動作を止めてしまった。
モードシフト スタンドアローン
『I have control』
ウィルの脚部のノズルから圧縮空気が噴出。人間一人に音速を突破させるだけのエネルギーで加速したウィルの膝が。
胸が潰れ、胸骨が割れ、心臓が一瞬鼓動を止めた。
『Meister!!』
瞬間、とっさに声のした方に手を伸ばす。手に触れたのは、先ほど地面に突き立てていたレヴァンティンだ。
吹き飛ばされる最中、再びレヴァンティンを地面に突き立てる。刃は地面をガリガリと削り取りながら、錨となって吹き飛ばされる速度を減少させる。
地に足をつけ、ウィルの姿を探す。
膝蹴りの威力そのままに飛び上がったウィルは旋回を終え、シグナムへと狙いを定めて突撃を始めている。
意識は断ったはずなのに、どのような理屈で動いているのかはわからない。たしかなのは生半な攻撃で彼を止めるのは不可能だということ。
止めるには、一撃で行動能力を奪うより他にない。
左腕でレヴァンティンを掲げ、刃を返しつつ上段に構える。
最も頼れる技(フェイバリット)で迎え討つと心に定める。
紫電一閃
身体の動きも魔力の運用も最速最強の一撃を放つことに特化させる一閃は、回避された時の隙が大きい諸刃の剣だ。
第一、必殺技というものは技単体で必殺足りえるのではない。その技を確実に当てるまでの行程を無視して放つ必殺技は、格下に付け込まれる隙になる。
それでもここでこの技以外を頼る気にはなれない。肺をやられた以上、手数が増えるほどこちらが不利になる。
それにウィルはもはや格下ではなく、本気で戦うに値する難敵だ。純粋な技量のみであればいまだシグナムに及ぶところではないが、彼の狂固な殺意はその差を埋めかねない領域に到達している。
そのような相手にリスクを負わずに勝とうとするなら、その思考こそが付け込まれる新たな隙になる。
だからもてる全力をこの一閃につぎ込む。最適のタイミング、最高の速度で、最高の一撃を。
訪れる一瞬の交錯に全神経を集中させた、その時。
風切る音が耳に届き、同時に上段にかまえたレヴァンティンが弾きとばされた。
事態を把握するより早く、真横から何者かの突撃を受けて押し倒される。
完全な意識外からの攻撃に反応が遅れ、その間に馬乗りになられて、両腕を地面に押さえつけられる。
女の自分よりも細い、子どもの腕。赤いおさげがシグナムの顔をくすぐる。
仲間のはずのヴィータが、シグナムの身体を押さえつけていた。
見た目は子どもでも、単純な腕力においてはザフィーラに次ぐ怪力だ。マウントポジションを取られればなすすべがない。
「どけ! このままでは――」
シグナムは上に乗るヴィータをどかそうと、声を張り上げようとするが、肺をやられたせいで声はかすれていた。
ヴィータが乱入したからといって、今のウィルが矛を納めるとは思えない。取り押さえようとるヴィータごとシグナムを両断しようとするだけだ。
このままでは二人とも死んでしまう――と、そこで早とちりに気がつく。争いを止めるために、片方だけを抑えるような愚をヴィータが犯すはずがない。
視線を横にずらすと、そこには乱入してきた男により、突撃を不本意な形で止められたウィルがいた。
*
剣が肉を裂く感触で、ウィルは意識を取り戻した。
意識の覚醒を検知したライトハンドが、主の意識レベルが低下した状態における自律行動モード、スタンドアローンを解除する。
身体の自由を返されたにも関わらず、ウィルは目に映る光景を受け止めきれずに動けなかった。
「……しくじってしまったか」
苦しげな男の声。
ウィルの刃が切り裂いたのは、紅花染めの戦衣に身を包む赤い髪の佳人ではなく、穏やかで上品な仕立てのスーツを着こなした灰色髪の初老の男。
肩口から体の半ばまで切り裂かれながらも、グレアムは酷く穏やかな瞳でウィルを見つめながら、右手の杖を掲げた。
剣はグレアムの身体を切り裂いたその状態のまま氷で覆われた。
「グレアム、さん…?」
熱狂に身を任せていた意識は冷水を浴びせられたように鮮明になり、正気へと引き戻される。
グレアムはウィルが止まったのを見た表情を和らげると、膝から崩れ落ちる。
呆然としてまとまらぬ思考を抱えたまま、肉体は倒れるグレアムの体を正面から支える。
「……なんで」
ウィルの心を代弁するかのようなその声は、聞き逃してもおかしくないほどに小さく。しかし、静寂を壊して、辺りにしっかりと響いた。
細い、細い、子供の声。
八神はやての声が、空洞に響いた。
はやては居住区の前で、移動用のドローンに腰掛けたまま、目を見開いていた。
彼女が声を発した瞬間まで、誰もその存在に気が付かなかった。
放つ魔力が風を巻き、剣戟と拳が交わす高音と低音が溢れる命を賭した戦い。それがあまりに鮮やかで。見ているだけの少女に誰も気が付かなかった。
「……なんで」
呆然とし、言葉を失う三人の耳朶を、再びはやての声が打つ。周囲は驚くほどに静かで、遠く離れているのに声がはっきりと届く。
誰も答える声を出せなかった。
腕の中のグレアムがびくんと身体をはねさせ、口から真っ赤な血を吐いた。
ウィルの服が、腕が、血で染まる。
「はっ――はやく手当て! ジェイル先生に連絡せんと!」
鮮烈な赤色は離れていても見えたのか、呆然としていたはやては狼狽しながらもそう口にする。
ウィルの身体は動かなかった。ウィルだけではない。誰も彼もが、氷漬けにされたようにその場から動くことができず、視線を外すことができなかった。
その様子を見て、狼狽していたはやての、常に優しげで、年齢にそぐわない落ち着きをたたえていて、ほんの少しの寂しさを残していた顔が、いびつに歪んだ。
「なんで誰も動かんの! おじさんがそんな怪我してんのに、なんで私の方ばっかり気にしてるん!」
大きな声を出すことなど滅多になかったからか。詰問の声は滑稽に裏返っていて。
そんなはやては、まるで知らない人を見るような目でこちらを見て。
そんな目で見たことを自覚して、自己嫌悪でさらに顔を歪ませて。
誰もが動けなかったのは、グレアムのことがどうでも良かったからではない。
はやての隣に、いつの間にか黒ずんだ闇が現れて、書の形を成していたからだ。
金色の剣十字が刻まれた、黒より昏い装丁の。実験棟に保管されているはずの。
心臓の鼓動が体に響くように、“闇の書”の鳴動が空間を大きく揺らした。
頁の隙間から様々な色の絵の具を混ぜて煮詰めたような、黒く汚れた光があふれる。
はやてを中心にして、周囲の地表を覆い隠すように巨大な魔法陣が描かれ始める。
陣を成す線は視覚化されたプログラムの塊だ。
現在の収集状況は六百頁と少しと聞いている。
未完成の闇の書の起動。それが示す状態は、すなわち
――暴走が起こる
ウィルの腕に支えられたグレアムが絞り出した言葉は小さくて、口からあぶく血で濁って明瞭としていなかったが、たしかにそのように聞こえた。
書からあふれる黒が軟体生物の触腕のような形を成し、はやての四肢に抱きしめるような優しさで絡みつく。
「すまない」
かすれた声を発したシグナムの方に振り返る。視線が交錯した次の瞬間には、スタートを切っていた。
途中に転がるレヴァンティンを拾い、闇の書に囚われたはやてに向かって一直線に。
「わるい」ヴィータはグレアムを見てつぶやき 「そいつを死なせないでくれ」
ウィルに向けてそう言うと、同じように闇の書に向かって突撃した。
書から溢れ出る黒の触腕は四方八方へ伸びて、暴れまわる。
シグナムとヴィータを追って、闇の書の元へと突っ込むべきか。
逡巡するも、腕の中の冷たい身体を再認識した瞬間、ウィルはグレアムを抱えたままその場から飛び退いた。
直後、先ほどまでウィルたちがいた場所を、触腕が空間をえぐり取るように通過する。
突撃するシグナムとヴィータは、それぞれカートリッジの弾丸をデバイスへと装填する。
そこに容赦ない一撃が襲いかかる。
ヴィータは振りかぶったグラーフアイゼンを狙い定めてぶん回し、迫る触腕を打ち返す。
強い威力には強い反動。ヴィータ自身も数メートル後方に吹き飛ばされたところを、間髪入れずに触腕の追撃。ふりかぶる猶予はない。カートリッジに込められていた魔力が解放され、推進力となってグラーフアイゼンを加速させる。
迫る触腕の一本目は一撃を受け真っ二つに。直後に襲いかかった二本目は打ち返され、三本目で拮抗し、四本目でグラーフアイゼンが押し負け、五本目がヴィータの身体を串刺しにした。
シグナムは襲いかかる触腕を紙一重で回避しながら、はやての元へと向かう。
闇の書へと近づくにつれ、触腕の密度は上昇し、ついには避けようのない全方位からの攻撃を受ける。
カートリッジに込められた魔力が解放され、刀身が分割され、ワイヤーで繋がれた連結刃へと姿を変える。シグナムを囲うように張り巡らせた、触れるものを両断する刃の結界。
膨大な数の触腕が次々と殺到し、物量が刃ごとシグナムを飲み込んだ。
ウィルはグレアムに負担を与えないように、出口であるエレベーターへと飛ぶ。
まずはグレアムを安全なところに連れて行って、治療をほどこさなければならない。
だが、ウィルだけでは何もできない。治癒力をわずかに高める程度の回復魔法でどうにかなるような傷でないことは、傷を与えたウィル自身が何よりも理解している。
頼みの綱のスカリエッティはまだラボにいる。ラボにはウーノもクアットロもチンクもセインも残っている。スカリエッティなら他の脱出手段くらいは用意していて、みんな脱出できるはずだ。そうであってくれ。
もしなければ、みんな死ぬ。ウィルのせいで死ぬ。
その時、空洞全域に特殊な場が展開された。
突然、飛行魔法の制御がきかなくなる。肉体の周囲を覆う慣性制御場が解けていく。
AMF――魔力の結合を崩す特殊な空間が空洞全体に展開されていた。
その影響は飛行魔法に限らない。魔力を体外に出そうとすると即座に結合がほどけて魔力素へと戻ってしまう。それどころか体内に巡らされる魔力すら気を抜けば崩れてしまいそうだ。
肉体強化がとける前にと、飛行魔法を完全に解除して着地する。
空洞のあちらこちらから現れたドローンが闇の書に向かって突撃を始めた。
魔力によらない動力で動いているのか、ドローンはAMFの環境下でも次々に闇の書へと殺到する。
一方、魔力で構成された闇の書の触腕は、AMF環境下で次第に動きを鈍らせていく。
はじめは一撃でドローンを破壊していたのに、二度三度と打ち据えなければ壊せなくなり、次第にドローンの接近を許すようになる。
いくつかのドローンは触腕の一撃で破壊されていったが、そのたびに新たなドローンが闇の書へと向かう。破壊されたドローンを盾に新たなドローンが突撃し、やがて一体のドローンが闇の書の至近距離へと到達すると、己を中心にさらなるAMFを展開した。
さらなるドローンが闇の書へ。取り付くと同時にAMFを展開。さらに新たなドローンが。まるでスズメバチを包み込むミツバチの大群だ。
それを何度も繰り返すたび、ドローンが発生させるAMFは強固になっていく。
「いつまで呆けているつもりだい」
いつの間にか、そばにはスカリエッティが立っていた。
彼の後ろには、ウーノにクアットロ、チンクにセイン。ラボにいる戦闘機人が全員無事に揃っていた。
「まずは逃げよう。話はそれからだ」
**
ラボに最寄りの転送施設。一見しただけでは発見されないような場所に秘密裏に建造されたその小屋が、彼らにとっての逃げ場だった。
部屋の隅には無菌状態を作り出す結界が張られ、その中でスカリエッティがグレアムを治療している。
ウーノは離れた場所で目を閉じているが、指先は宙空に浮かぶコンソールを操作し続けており、この事態に何らかの対応をとっているのは明らかだ。
何もしていないのは、残りの四人。すなわち、クアットロ、チンク、セイン、そしてウィル。
ウィルは小屋の壁に背を預け、胸の内を後悔で焼かれていた。
全てが頭から飛んで、ただ腹の底から湧き上がる熱さに身を任せて襲いかかった、あの時の自分の愚かさ。
闇の書に記された守護騎士の実体化プログラムは、膨大な魔力、またはそれに相当する頁を消費して、守護騎士を顕現させる。たとえあの場でシグナムを殺せたとしても、また実体化させることができる。闇の書そのものをどうにかしない限り、ヴォルケンリッターを殺すことに意味はない。
それを理解していたのにあのザマだ。
初めてシグナムと戦い負けて、本局で目覚めた時に思ったはずだ。次こそは熱に飲まれて冷静さを失わないようにしよう――と。
その決意を持ったウィルのやったことといえば、グレアムを殺しかけ、闇の書の暴走を招き、大切なはやてを死なせ、仇は討つ前に失った。
闇の書は再び転生する。次の闇の書が出す犠牲は、ウィルが出したようなものだ。
失敗は良くはないが、まだいい。それを活かせないどころか悪化させたのは最低だ。愚かと軽率と無意味の救いがたい三位一体だ――などと、延々と続いていた悔恨と慙愧は、扉が荒々しく開けられる音で打ち切られた。
入り口に立っていたのは、蒐集に出ていたザフィーラとシャマルだ。
「何があった」
ザフィーラの鋭い視線が、部屋の中を横切る。
その後ろからシャマルが不安気な顔をのぞかせる。
「闇の書が暴走したのよ」
億劫そうに顔をあげたクアットロが疑問に答える。
「私も自分の目で見たわけじゃないのだけど、ウィルとシグナムが殺し合いを始めて、グレアムおじさまが巻き込まれて、それを目撃しちゃったはやてちゃんがショックで暴走したみたい。シグナムとヴィータは闇の書に飲まれちゃったみたいね」
目を見開いて茫然と固まったのもつかの間、シャマルは困惑と怒りをもってウィルを睨みつける。
「どうしてそんなことを!?」
シャマルは問い詰めんと寄ろうとしたところを、隣のザフィーラのたくましい腕に制止されて、その場でたたらを踏んだ。
ザフィーラの視線はウィルに向いていなかった。
「それは後回しだ。主を助けるために、俺たちは何をすればいい」
その先には、結界から出てきたばかりのスカリエッティがいた。
彼は抗菌性を高めた医療用バリアジャケットを解除して、ザフィーラの元へと歩み寄る。
「良いタイミングで戻ってきてくれた。きみたちがいないとどうにもならないところだ」
「戻る途中でウーノさんからの緊急信号を受信しましたから」幾分か落ち着きを取り戻したシャマルが答える。 「でも、私たちがどこにいるかわからなかったとはいえ、あんな広域に発信すると管理局にも見つかってしまいませんか?」
「管理局とそれ以外の何人かに知らせるのも目的のうちだよ。事態を収束させるには、兎にも角にも戦力がいる」
話の邪魔とわかっていながらも、ウィルはスカリエッティに尋ねる。
「グレアムさんの容体はどうでしたか?」
「命に別状はないよ」スカリエッティはウィルに向き直ることなく答える。 「傷は深かったが、自分で傷口に凍結魔法をかけて出血を抑えていた。すぐに解凍できたから神経組織への損傷もさほど深くはない。平常ではなかったとはいえ、さすがの判断力だ」
「そうですか……」
良かった、と続けかけた言葉を喉の奥に飲み込み、うなだれる。
グレアムは当初、はやてを犠牲にしてでも闇の書を滅ぼそうとしていた。ウィルははやてを救うため、グレアムの計画を捻じ曲げさせてスカリエッティと会わせた。それなのに、このままでははやては死に、闇の書の悲劇はまた繰り返す。
目が覚めた時にグレアムは死すら救いに思えるほどの絶望を味わうに違いない。
「スカリエッティ、主を助けることはできるか?」
「可能性は極めて低いが、途絶えてはいない」
その言葉に、ウィルは弾かれたようにスカリエッティの顔を見上げる。
「ウーノ、ラボはどうなっているかな?」
「三分前に、闇の書を取り囲んでいたドローンはすべて破壊されました。闇の書はAMF環境下で行動を鈍らせながらも、徐々にラボ全体に侵食を進めています」
ラボのある空洞全体を包むように、肉体強化などの体内に作用する魔法すら効果を失うほどの超高密度AMFが展開されている。
ラボは危険なロストロギアを取り扱うこともあるため、壁面は次元干渉型の実験の影響すら外に漏らさない構造をしている。セキュリティは、スカリエッティ自らが改良を加えた特製で、次元空間航行艦船に搭載されているそれをゆうに上回る。
現在のラボは一種の隔離空間だ。
それでも、暴走する闇の書を抑えられる時間は限られている。
「後どれほどもつ?」
「多めに見積もって一時間。短くて四十分。それだけの時間があれば、闇の書ならラボの動力炉を掌握できるでしょう」
動力源たる炉を落とされれば、AMFは効果をなくす。
AMFによる弱体化がなければ、闇の書はあっという間に地上へと姿を現すことだろう。
「結構。それだけあればこちらも手を打つことができる」
ウーノの報告を聞き終え、スカリエッティは再びザフィーラたちに向き直る。
「どうやらグレアム君が尻尾を掴まれていたようでね。アルカンシェルを搭載している艦船が近隣海域に来ている。さっきザフィーラ君とシャマル君宛の信号を広範囲に発信したから、何時間もしない内にここまで来るはずだ。そうなれば、アルカンシェルで闇の書を消してくれるだろう」
万が一、闇の書が暴走した時に周囲の被害を気にすることなく破壊できるように、わざわざ無人世界で活動していたのだ。
だが、それはここにいる面子にとっては求めるべき手段ではない。
「俺たちが求めるものは主を救うための手立てだけだ」
「わかっている。彼らはあくまでも私たちが失敗した時の保険だ。私はこれから暴走する闇の書へ赴いて、はやて君を救い出すための仕掛けを施す。そのために、ザフィーラ君、シャマル君、そしてウィルには同行をお願いしたい」
スカリエッティはちょいと腰をかがめて、座り込んだままのウィルと視線を合わせると、挑発的な笑みを浮かべる。
「グレアム君のことは私にも責任の一端がある。彼の精神状態が万全なら、自分が傷つくという愚は犯さなかったはずだ。だから私はきみを責めはしない。しかしだ、もしきみが――」
「やります。おれにできることなら、何でも」
「良い返事だ」満足そうにうなずくと 「ザフィーラ君とシャマル君は聞くまでもないね。それでは説明を始めよう。なに、気負わなくてもきみたちにやってもらうことは至極簡単だ」
そうして語られた、命を賭けるというより支払うような計画に、周囲で聞いていたセインやチンクが息を呑む音が聞こえる。
ただ、参加者たちは誰も顔色一つ変えることなく、余計な口を挟むこともせず、耳を傾け続けていた。
数分後、スカリエッティが計画を語り終えると、
「たしかに俺たちがいなければ不可能な計画だ」
「ひとまずラボの手前まで行きましょう。準備が整ったらすぐに突入できるように」
ザフィーラとシャマルは即座に背を向け、扉へと向かう。
ウィルもその後に続こうとして、立ち止まり、振り返る。視線は部屋の隅でドローンに寝かされたグレアムへ。
遠目ではよくわからない。近寄ってこの目で容体を見たいと思ったが、顔をそむけて扉の方へと歩を進める。はやてを助けて闇の書を滅ぼすまでは、合わせる顔がなかった。
「彼女たちが到着したら連絡してくれ。グレアム君はやってきた管理局に引き渡せば良いだろう。見物していてもいいが、適当なところで引き上げるように。きみたちを失うのは惜しい」
「ドクターはいかがなされるおつもりですか?」
「生き残れたら適当な手段を見つけて戻る。無理ならその時は頼むよ」
「承知いたしました。……ご無事なお帰りをお待ちしております」
スカリエッティはウーノと簡単な言葉を交わすと、先に出て行った三人の後を追って、扉から小屋の外へと出て行く。
残された面々の様子は変わらない。
ウーノは相変わらずコンソールを操作し続け、セインは所在なさ気にうろうろと小屋の中をうろついて、チンクは壁に背を預けたまま動かず。
そしてクアットロは座り込んだまま四人が出て行った扉をじっと見つめて、ぼそりと
「――――――」
近くを行きつ戻りつしていたセインが、首をかしげる。
「クア姉、何か言いました?」
「セインちゃんには関係のないことよ」
クアットロは唇をとがらせながら、自分の首を愛撫するような愛おしさでなぞった。
***
山のふもとにある洞窟を進むと、途中から岩肌は銀灰色の金属質な通路に変わる。
地中のケーブルが途中で断裂したのか、脱出する時には付いていた照明は消えていた。ウィルたちが光源として生み出した魔力光が通路をほのかに照らすが、浮かび上がる金属の無機質な輝きは、どこか不気味さを感じさせる。
四人はその先の、本来ならラボに入るための生体認証がおこなわれる小部屋で、待機することになった。
四人はあくまでもはやてを救うための最初の段階の担当で、たとえ成功したとしてもその後に続いてくれる者がいなければ、事態はより悪化しかねない。
ウーノは闇の書が動力炉を落とすまでに、最短で四十分かかると言っていた。スカリエッティが計画を説明して、小屋から出るまでに十分弱。小屋からラボの入り口まで五分ほど。ラボの入り口から闇の書のいる空洞へも同じくらいかかると考えて、後二十分は待ってみることにした。
「今のうちに、聞いても良いかしら?」
おずおずとながら、シャマルが話しかけてきた。
ぼんやりと暗がりに目をやるばかりのウィルが、内心では次から次へと湧き上がる慙愧の念に焦がされていると見とったのか、見かねたのか。
「シグナムさんとのことですか?」
暗いが、シャマルがわずかに首を縦に振ったのが見えた。
「私たちは表面上だったかもしれないけれど、仲良くやってこれたと思っていたの。でも、あなたにとってはそうではなかったのかしら。……やっぱり、私たちがあなたを襲ったことを恨んでいるの?」
だらんとぶら下げていた両手を胸の高さまで持ち上げて、じっと見る。
暗がりにあってわずかな光を受けて、陰影をはっきりとさせる生身の左手、反射させて鈍い輝きを放つ金属の右手。
腕を奪われたのは恨むには十分な理由かもしれないが、ウィルにとってはどうでもいい。
「おれの父さんは、十一年前の闇の書事件に参加していました。エスティアという船に配属されていた武装隊の一員です」
「エスティアって、たしか……」
即座に事情を理解したシャマルが、口元を手で押さえ息を呑む。
十一年前、確保した闇の書とその主を運ぶことになった、管理局の艦船。途中で闇の書が暴走し、闇の書ごと消滅した。その存在は、ヴォルケンリッターがラボに連れてこられたその日に見せた映像にも映っていた。
「それじゃあ、ずっと闇の書のことを……私たちのことも恨んでいたの?」
「あなたたちと闇の書を滅ぼすために生きてきました」
「で、でも、どうして今なの?」
「シグナムさんが言ったんです。おれの父さんを殺したのは自分だって」
シャマルは怪訝な表情で、ウィルの発言を咀嚼するように数度呼吸して、それでも納得できずに首を横に振った。
「前回の私たちは分断されたところを各個撃破されたのよ。それはザフィーラも同じよね?」
シャマルに話を振られたザフィーラは無言で首肯する。
「本人から最期を聞いたわけじゃないけれど、わざわざシグナムだけ生け捕りにされたとは思いにくいわ」
「そうですね。おれも嘘か勘違いじゃないかと考えなかったわけじゃありません」
シグナムに呼び出されて、まず最初に尋ねられたのは、ヒュー・カルマンという名前に聞き覚えがあるかということだった。
どこからその名を聞いたのかと動揺しながらも、肯定する。
やはりそうか、と。シグナムは顔を伏せ、そして告白した。
――私は貴方の父親と戦い、殺した
前回の闇の書事件で、ヴォルケンリッターは各個撃破されて消滅している。それはグレアムから聞いた確たる事実だ。
――彼が死ぬ前に見ていた端末に写っていた子どもは、貴方だったのだな
その後、書から再召喚される前に闇の書と主を確保した以上、エスティアにヴォルケンリッターが現れるはずがない。
――謝って許されることではないとわかっている
しかし、ヴォルケンリッターは魔力さえあれば何度でも召喚できる。暴走時かその前か、消滅したシグナムがエスティア内で再召喚されたという可能性もあるのかもしれない。
混乱するウィルの眼前で、シグナムが頭を下げた。
――今の私にはこうすることしかできない。すべてが終わった後で
自分から視線を外した彼女を見た瞬間、
「でも、許せなかったんです」
もしかすると、実験のせいで闇の書そのものの記録だとかそのような某が混じって、シグナムはただそれを自分の記憶だと勘違いしただけなのかもしれないと、そのような可能性も想像できた。
可能性。所詮は可能性にすぎない。
エスティアの中で何が起きていたのか、真相を明らかにする手段はない。それなのに本人の罪の告白を無視して、自分の考えた根拠のない可能性を優先できなかった。
ウィルにとってシグナムが唯一無二の大事な人で、絶対に死なせたくないと思っていたのなら、その可能性を信じ込もうとしたかもしれない。だが、ウィルにとってのヴォルケンリッターははじめから敵で、ためらう理由はなかった。
というのは後からつけた理屈で、そこまで考えて行動できたわけではない。
あの時はただシグナムがここに存在しているという事実が許せなかった。
「盛り上がっているところ悪いが、ウーノから連絡がきた。彼女たちが到着したようだ」
離れた場所で一人座り込んで何事かのプログラムを組んでいたスカリエッティが、腰を上げて呼びかけてきた。
「さて、後詰も用意できたことだし、私たちは死にに行こうか」
無言で通路を進む内に思い出したのは、もう何ヶ月もあっていないなのはのことだった。
誰かの力になりたい、放っておけないからと、自分がやる必要なんてないのに、鉄火場に飛び込んでいく、無鉄砲な少女。
もしもウィルがなのはなら。無謀で無茶で、優しく勇敢な、彼女のようであれたのなら。
きっとヴォルケンリッターとも信頼関係を結ぶことができて、誰もが幸せな未来があったのかもしれない。
もちろんそんなのはありえない。恨みや憎悪を消し去ることは不可能だ。きっと、何があってもヴォルケンリッターが憎いという思いは変わらない。
それでも、だ。
――お話がしたいんです
彼女のように相手ともっと話をしようとしていれば、胸襟を開いて語り合えていれば、何かが変わったかもしれない。
そのせいで信用されずにご破産にしてしまっていたかもしれないが、殺意を笑顔の仮面の裏に隠して暴発させてしまうよりは、よっぽどマシな結果を引き寄せることだってできたかもしれない。
可能性。これも所詮は可能性にすぎない。
あれこれ可能性を考えて、その都度自分の意志を肯定したり、行動を否定したり、せわしないことこの上ない。
そんな愚かさに辟易しつつ、ここまでのことをやらかして思い悩まないようであればもっとひどい自己嫌悪に陥っていただろう――ほら、また否定と肯定を繰り返している。
結局こんなのは反省のふりをして、後出しの理屈で自分の歩いた後を舗装しようとしているだけだ。
今度はユーノのことを思い出す。
自分が見つけたジュエルシードのことで事件が起きてしまったことを悔やみながらも、すぎたことを悔やんで落ち込むよりも、これからどうするかを考えるべきだ。そう言い放った彼の強さを今更ながら実感する。
なのはもユーノもまだ十歳で、ウィルより五つも若いのに、比較にならないほどの心の強さを持っている。
彼らの強さを妬みながら、彼らのようになれない自分を呪いながら、今はただ目の前にある問題に取り組もうと決意を固めた。
はやてを助ける。
すべてはそれをなしてからだ。
通路の突き当りに到着する。ここのエレベーターに乗って、ラボのある空洞へ降りる。
電源が落ちているエレベータの扉をこじ開ける。エレベーターは逃げる時に使ったままそこにあったが、電源が通っていないので動かない。
床に穴を開け、そこから縦穴へと降下する。
先頭はザフィーラで、次にシャマルとスカリエッティが続き、一番後ろがウィルだ。
先をサーチャーで確認しながら、真っ暗な縦穴を魔力光で照らしながら慎重に降下する。
下りゆく縦穴は、いつもなら慣性制御されたエレベータが終点まで高速で運んでくれるのだが、こうして見やれば果て知れぬほど深く、延々と地獄まで続いているような錯覚を覚える。
もっとも、底にはお伽話の死神などより恐ろしい闇の書が待ち構えているのだから、行き先が地獄なことには違いない。
「ウィル」
突然、先に進むスカリエッティが、降下しながらもくるりと姿勢を入れ替えて、後に続くウィルに向き直る。
「なんですか、先生。ちゃんと下を向いてないと危ないですよ」
「きみはきみの思うように生きるといい」
「唐突ですね」
「いろいろと思い悩んでいるみたいだったからね」
スカリエッティも心配してくれていたのかと、嬉しさが半分、申し訳なさが半分。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
「きみのためじゃない。私も常々見たいと思っているんだよ。思うがまま進んで夢を実現できた時のきみをね。そうすれば、私が求めていた答えが見えてくるかもしれない」
それだけ言うと、スカリエッティはまた反転し、再び下方へと向き直る。
「こんな時にまで、意味深で抽象的なことを言ってミステリアスぶらないでください」
後ろから投げかけた文句が聞こえているのかいないのか。
「そろそろAMFの範囲内に入る。飛行魔法はしまうとしよう」
スカリエッティの右手に鉤爪のようなデバイスが取り付く。
己の頭脳だけでほぼ全ての魔法を演算できる彼がデバイスを使うのは初めて見る。闇の書が相手となればスカリエッティも本気にならざるを得ないということか。
と、スカリエッティはその鉤爪型デバイスでエレベータのロープをつかみ、するするとラペリング降下じみたことを始めた。
若干複雑な思いを抱きつつも、ウィルもスカリエッティにならって右腕でロープを掴んで同じようにする。空戦魔導師のウィルだが、状況によっては飛行魔法が使えないこともあるからと、カリキュラムにはラペリング降下の訓練も含まれていた。
スカリエッティよりさらにを下では、ザフィーラもまた同様に降下している。が、片腕にシャマルを抱え、ウィルやスカリエッティのようにデバイスをかませることもなく、魔力運用で膜のようなものを作ってもおらず、素手の握力のみで降下速度を調節しているようで。やはり守護獣。素の肉体の強度は人間を遥かに凌駕しているようだ。
AMFの範囲に近づくと、灯代わりにしていた魔力光が次第に薄れていく。
スカリエッティの鉤爪が光を放ち、新たな灯となる。おそらく魔力を用いない電気式の灯なのだろう。
もしかしてあの鉤爪はデバイスではないのだろうかと思いつつ、しばらく降下すると、縦穴の片側が金属から透明な繊維強化樹脂に変わる。
いつもなら、そこからは地下に広がる空洞と淡く輪郭を輝かせるラボが見えるのだが、今や透明な壁に、樹の根のような、あるいは脈動する血管のような、闇の書の触腕がびっしりと張り巡らされていて、空洞の中は触腕のわずかな隙間からうかがえるのみだ。
突然、壁面にひびが入る。
「さすがに気がつくか」
張り付いていた触腕が蠢き出す。ウィルたちの来訪に気がついて襲いかかろうとしている。
特殊な繊維強化樹脂とはいえ、肉体を強化したウィルなら助走がなくても破壊できる程度の硬度だ。それを触腕が一瞬で破壊できないのは、AMFが効いているおかげだ。
とはいえ、じきに破壊してウィルたちに襲いかかるのは確実で、その時、降下中で身動きがとれず、魔法による肉体強化もできないウィルたちではなすすべがない。
「さあ、スタートだ」
スカリエッティの宣言と同時に、AMFの濃度が低下する。
依然として外部に放出するタイプの魔法は構築できないが、体内――肉体を強化する程度なら可能となる。
その恩恵は触腕にも等しく訪れる。先ほどまで手こずっていた強化樹脂を一瞬で破壊し、降下中のウィルたちに迫る。
が、反対側の壁を足場にして跳躍したザフィーラが迫り来る触腕を拳で打ち砕き、その勢いのまま壊された強化樹脂の穴から空洞へと跳びだしていった。
ウィルはスカリエッティとシャマルの襟首をつかむと、同様に壁を蹴ってザフィーラの後に続く。
広がる大空洞は闇の書に侵されながらも一部の照明が残っていて、月のある夜ほどの暗さだった。
居住棟や研究棟、それどころか地面や壁にまで、あらゆる部分が木の根とも血管ともつかない黒色の触腕に覆われていた。
エスティアの中もこんな風になっていたのだろうかと一瞬だけ考え、余計な思考は捨てた。
穴から地面までの二十メートルほどを自由落下する。襲いかかる触腕は先駆けとなったザフィーラが四肢を駆使して次々と迎撃している。
濃度が低下したとはいえど、空洞全体にはいまだAMFが展開されている。触腕の動きは暴走直後に比べると遥かに緩慢だ。
そうでもなければ、いくら身体能力が高く守りに優れたザフィーラといえど耐えられない。なにせ彼と同等の実力を持つシグナムとヴィータが十秒足らずで屠られたのだから。
それを考えれば、真に恐るべきはこちらが対処できるギリギリのAMF濃度を算出していたスカリエッティなのかもしれない。
二十メートルほどの自由落下を終え、足から着地する。
着地と同時に回転して受け身をとって良いなら余裕のある高さだが、両手にスカリエッティとシャマルを抱えている以上それはできない。
いくら強化した肉体とはいえ、この高さから落下した衝撃を足だけで受けるのは相当に痛い。
抱えていた二人を下ろすと、三人並んで先行するザフィーラを追いかける。
ザフィーラの向かう先は、触腕の中心にある闇の書だ。
触腕を四方八方に伸ばして侵食しているが、本体となる闇の書の位置は暴走を始めた時と変わっておらず、その周囲には破壊されたドローンの破片が散らばっている。
あそこに四人とも健在で到着するのが最低条件。
そのための露払いがザフィーラであり、肉体的には貧弱なシャマルとスカリエッティを護衛するのがウィルの役目だ。
飛行できないとはいえ、強化した肉体なら十秒とかからない距離だが、襲い来る触腕を迎撃しながらとなると、その三倍はかかる。
ましてや守らねばならない護衛対象が二人もいるのだ。出し惜しみをしている余裕はない。
デバイスから武器となる剣を出しながら、頭の中で命じる。
モードシフト スタンドバイ
『You have control.』
音もなく、世界が塗り替わった。
新しい世界は光で埋め尽くされていて、ずいぶんと明るい。
前方には白い光。後ろには赤と翠の光。そして空洞全体に系統樹のように張り巡らされた黒い光。
駆けるウィルたちの右方、黒い光がさらに明るさを増し、直後に二条の黒光がこちらに向かって伸びてくる。
ウィルは体の中を巡る赤を剣に通わせ、一直線に伸びる黒の軌跡を遮断するように刃を置いて両断。返す刀で薙ぐように伸びる黒を斬り下ろしの一刀で両断。それで二つの黒は散って消えた。
ウィルの脊髄には、人間の神経と電子機器を接続するヒューマンマシンインタフェースが埋め込まれている。
戦闘機人が身体各所に埋め込まれた人工機器を制御するために用いられているこのサイバーウェアは、人工物への拒絶反応を示さないデザイナーチャイルドの遺伝子地図と並び、プロジェクトH(機人計画)の中枢となる技術である。
このインタフェースは、普段はリミッターがかけられていて、義手型デバイスであるライトハンドの動作を補助するにとどまっている。
そのリミッターを一時的に解放し、デバイスと神経をリンクさせるのが『モードシフト』
その先に二つの形態(モード)がある。
主の意識レベルが低下した時、デバイスからインタフェースを通して主の肉体を直接操作する『スタンドアローン』
そして、人間の知覚と機械の認識を結びつけて同調させる『スタンドバイ』
スタンバイモードでは、デバイスに取り付けられたセンサーが得た人間には知覚できない、できても定量化できない情報――不可視光線、超音波、魔力波、魔力密度、その他様々なものをすべて五感の延長線上として認識させる。
攻撃をしかける時には、より強い魔力を通わせ、構造を強化するのが基本。まして闇の書の触腕のように魔力で造り出されたものであればなおさらだ。
その魔力密度の変化を光の大きさとして認識することで、ウィルは敵が動き出すよりも一歩早く迎撃に移ることができる。
背後で黒い光が強くなる。今度はウィルではなく、翠の光の塊――おそらくシャマルを狙って、黒い光が動いた。
感知できているのだから、振り向く必要もない。後方へと剣をつきだして、光の軌跡を両断する。
足元の黒光が強くなり始めれば、集まる前に突き立てて散らす。
触腕の動きは単調で、この調子であればいくらでも対処できそうだが、ウィルの心には微塵の油断もない。
ウィルが対処できているのは、あくまでもAMFの影響で触腕の動きが鈍り、構造も脆くなっているから。もし何の枷もない暴走状態の闇の書が相手なら、両断しようとしても剣ごと触腕に弾き飛ばされるのが関の山だ。
さらに、最も密度が高い前方からの攻撃を受け持っているのはザフィーラだ。
そのザフィーラとウィルたちの距離が詰まってきている。闇の書に近づくにつれて密度を増し続ける触腕の攻撃が、次第にザフィーラの対応速度の限界に近づきつつある証左だ。
ザフィーラが落ちれば、ウィルだけでは四方八方からの攻撃に対処できず、すぐに触腕の餌食となる。そんな状況で油断できるわけがない。
後三十メートルを切った時、ついに猛攻はザフィーラの許容量を越えた。
一本の触腕がザフィーラの両手両足を駆使した迎撃をかいくぐる。身体を打ち据えられたザフィーラはその場に踏みとどまったが、崩れた態勢を立て直すよりもなお早く、次の触腕がザフィーラの身体を地面へと叩きつける。
片膝をついたザフィーラに追い打ちとばかりに触腕が襲いかかり、次の瞬間、糸でその場に固定された。
その糸は、人間の視覚では赤に見えただろう。だが、魔力を中心に世界を見ている今のウィルにとっては、闇の書の黒い魔力よりもさらに暗い無に見えた。
色の無い線――魔力をもたない糸。いや、色を奪う線――魔力の結合を阻害する糸。つまりはAMFを応用したバインド。
その出処はウィルのすぐ後ろ。スカリエッティだった。
AMF環境下で使ったということは、おそらくドローンに搭載されているのと同じ機械式なのだろう。
バインドによる拘束は一秒ももたない程度であったが、その一秒の間に、さらに襲いかかろうとした触腕が、拘束された触腕に激突し、双方がその場に崩れて落ちて、ウィルたちを守る遮蔽となる。
そうして産み出された猶予は、四人全員が残りの三十メートルを駆け抜けるには充分な時間だった。
四人揃って闇の書へとゴールイン、となるその直前に、スカリエッティの鉤爪がザフィーラとシャマルを同時に薙いだ。
魔力的視界をもつウィルには、ザフィーラとシャマルを構成する魔力のコアようなもの、人間でいうところのリンカーコアが、スカリエッティによって抜き取られたのがわかった。
二つのコアを掴んだ鉤爪が闇の書へと突き刺さると、あれだけ動いていた触腕が一斉に動きを止めた。
「あとは頼んだぞ」
「はやてちゃんをお願いします」
コアを抜き取られても、ザフィーラとシャマルは恨み言を口にしない。
これはあらかじめ決まっていた筋書きだ。
ヴォルケンリッターは守護騎士機能によって、魔力を用いて構成された存在だ。
闇の書が主の元に現れてから守護騎士が顕現するまでに年月を必要とするのは、構成に必要な魔力を主から少しずつもらって蓄積しなければならないから。
そして、蒐集にはヴォルケンリッターの魔力を戻すことで頁を埋めるという裏技がある。
そのような方法があると知らなかった管理局が、主をあと一歩のところまで追い詰めたものの、この方法を用いられて闇の書の完成を許してしまったことがあった。
闇の書の蒐集はすでに残り一割を切っている。ザフィーラとシャマル、二人の魔力に今日彼らが集めてきた魔力を重ねて返上すれば、計算上では闇の書の蒐集は完了する。
これは命を賭ける計画ではない。ヴォルケンリッターにとっては文字通り命を支払う計画。
返したところで闇の書が受け取ってくれるかもわからない、あまりに分の悪い賭けだったが、闇の書が動きを変えたということは目論見はうまくいったようで。
それでもまだ細い細い綱渡りのような計画の、第一段階にすぎない。
スカリエッティの腕に無数の式が浮かびあがる。頁が埋まるという変化によって動作を変えようとするその隙を狙って、闇の書へと干渉をしている。
スカリエッティの目的は、闇の書自体の改竄ではない。この短時間でそんなだいそれたことはできない。
これはただ闇の書に備え付けられたたった一つの魔法プログラムを発動させるだけの干渉。
『Absorption(吸収)』
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闇の書から放たれた光がウィルを包み込み、その姿が掻き消える。
一人残ったスカリエッティは、これで自分の役目は終わりとすぐさまその場から離れる。
後ろを向いた時に、シャマルとザフィーラの肉体が視界に入った。
コアを抜き取られて肉体の構築を維持できなくなり、身体が粒子となって消滅していくその様が興味深く、横を通り過ぎる時に視線で追ってしまったせいで、突然動きだした触腕に気がつくのが遅れた。
強い衝撃を受けた次の瞬間には、視界はぐるぐると回転しながら高速で移動していた。身体が地面か、壊されたドローンや建造物の破片か、もしかしたら他の触腕にぶつかり、やがてひときわ大きな衝撃をともなって回転する視界が停止した。
声が出ない。身体は動かない。そもそも感覚がない。顔を動かして傷を見ることさえできないが、確実な致命傷を負ったということくらいはわかる。
うまく行きかけていたのに、最後にくだらないミスをした。
幼いころに、数少ない同朋にきみは頭は良いのに詰めが甘いなと言われた記憶が脳裏をよぎる。
それもつかの間、血液が身体から抜け落ちていき、血という動力を失った肉体の動きは急速に低下する。
酸素の供給量が減って、脳細胞が死滅し、スカリエッティという個を構成する知性が失われていく。彼を縛る鎖を道連れにして。
その果てに望んでやまなかった境地を垣間見て。
命が消える刹那、スカリエッティは穏やかな笑みを浮かべていた。
一人の男の命が潰えるのと時を同じくして、一人の少女が生まれ変わろうとしていた。
触腕は暴れるかのように蠢きながらも闇の書へと還って行く。
全ての触腕が集い、大きな繭を形作り、すぐに弾けた。
中から現れたのは、目を閉じた妙齢の女性。
腰まで伸びる白銀の髪。金の刺繍が施された黒衣を纏い、背に二対、頭に一対――六枚の黒翼を背負った姿は、お伽話に謳われる世に福音をもたらす天の御使いめいていて、性別を超越した美しさを持っていた。
内包された魔力は肉体という器に収まりきらない。何の魔法も使っていないにも関わらず、AMFで結合を崩し切れないほどの濃密な魔力光という形で周囲に放出されている。
その色は淀んだ黒の混じった紫。
これこそが五人目のヴォルケンリッター。闇の書のシステムを統括する管制人格の姿。
空洞の各所で爆発が起き、崩れ始める。
証拠隠滅用にスカリエッティが地下空洞に仕掛けていたものが起爆したのだ。
空洞全体を崩壊させ、全てを灰塵に帰すだけの爆発が、屍と化したスカリエッティと生まれ変わった少女を等しく飲み込む。
その刹那、管制人格から膨大な魔力が放たれ、周囲のAMFを強引に押しのけた。
自らの周囲からAMFの影響を排除し、さらなる魔力をもってして空間を歪める。
AMF環境下で転移魔法を行使するという離れ業をいともたやすくおこなって、管制人格は爆炎に包まれる空洞から姿を消した。
空洞より上方へと三百メートル。地上の高度百メートルに管制人格が姿を現した。
管制人格の閉じられた目が開かれる。
何の感情も浮かばない血を塗った紅眼に映ったのは、鈍色の曇り空に輝く青。青色の魔力光。
待ち構えていたリーゼアリアの砲撃が、管制人格めがけて放たれた。