薄暗い個室。白いクロスがかけられたダイニングテーブルの上で、クリスタルが穏やかな光を放ち、照らされて銀器が輝く。
対面に座るクアットロはウィルの視線に引きつった笑いを返すくらいの余裕は残っていたが、その隣に座るセインは虜囚というなれない状況と高級レストランというなれない場所のせいで完全に硬直している。
うかがうように隣に視線をやれば、そこに座っていたグレアムは自らに向けられた視線にすぐに気づいて、ウィルに微笑みを向ける。
「楽しみにすると良い。ここの料理は絶品だ」
「高級! って雰囲気ですね。……期待しています」
経験上、料理の値段と旨さの相関は対数関数に似た曲線を描く。
クアットロとセインがグレアムに囚われてから、一日が経過した。
クアットロはその日のうちにスカリエッティとの連絡のとり方をグレアムに教えた。教えるまでずっと囚われの身が続く。そんなのは無駄な時間だ、という判断の速さはクアットロらしい。
グレアムはスカリエッティの協力を得るために早速連絡をとって、二人はこのレストランで待ち合わせをすることになった。
場所も名前も知らない。わかるのは見るからに高級だということと、グレアムが秘密の話をする場所として選ぶほどに信用されている場所ということくらいだ。
個室の扉が開くと、燕尾服の店員に案内されて、スカリエッティとウーノが現れた。
いつも着ている白衣を脱いで、オーダーメイドのスーツに身を包み、サングラスを着用している。ウーノも飾り気のない藍色のカクテルドレスを着ている。
グレアムは椅子から立ち上がって、歩み寄るスカリエッティに右手を差し出す。スカリエッティも同じように右手を差し出し、握手を交わす。
「今夜の招待に感謝しているよ」
「こちらこそ。応えてもらえてなによりだ」
スカリエッティはグレアムから視線を外してウィルを向き、なくなった右腕に目を止める。
「怪我をしたんだね。若い内はよくあることだ」
「先生はお変わりないようで」
「年齢はただの経過年数だ。パーソナリティに関与するものではないよ」
スカリエッティとウーノはグレアムの対面側の席に着く。
食前酒が運ばれてくると、スカリエッティとグレアムはともにグラスを目の高さまで掲げる。
「それでは、私たちの出会いに」
食事が運ばれてきた。
テーブルマナーも士官学校で一通り叩きこまれているが、高級店での食事など滅多にない。数年前の記憶を引っ張りだしながら、もたもたと食べ始める。
グレアムが太鼓判を押すだけはあり、素晴らしい味だった。良い料理は心を満たしてくれる。
先ほどまで緊張していたセインも今は目の前の料理に夢中だ。その食べ方はかろうじて原始人ではなく現代人類に分類されるという有様だったが、途中から急速にまともになっていく。おそらく見かねたウーノかクアットロあたりが、機人同士のデータリンクで情報を送りつけたのだろう。
食事を始めたばかりの頃は、お互いに相手の腹を探るようにとりとめのないディナー向きの会話が交わされていたが、前菜を食べ終える頃に話題のベクトルが変わり始めた。
「それにしても、クアットロとセインが囚われることになるなんて思ってもみなかった」
「非礼は詫びよう」
「責めるつもりはないよ。非は勝手に忍びこんだこちらにあるんだ。それに無傷で返してくれるというのだからなおさらだ」
言うと、スカリエッティはクアットロとセインに視線をやった。
叱られると思ったのか、彼女たちの肩がわずかに震えるが、スカリエッティはそれを見て笑みを浮かべるだけ。
「二人とも優秀な子だが、まだ幼い。今回の失敗は良い経験になっただろう。私としてはどうやってクアットロのシルバーカーテンを見破ったのかが気になるね。あれを見破るのはそう簡単ではないはずだ」
クアットロも食事を止めて、グレアムの返事に耳を傾ける。その目はいつになく真剣だ。自らのISの弱点に関係する話なのだから、当然といえば当然だが。
「話すほどのことはもない。一言で言えば勘だ。もう少し言葉を付け加えるのなら、漠然とした気配を感じただけのこと」
「気配だなんて……そんなオカルトじみたもので!?」
敬語も忘れて、クアットロが声をあげる。
グレアムはしばし瞠目し、言葉を選びながら感覚を言語化する。
「しいて言うなら……どれだけ精妙な幻術であっても、すでにあるモノを消しているわけではなく、何もないに近しい状態を作り出しているだけにすぎない。人によっては違和感を覚えることもあるはずだ」
「そんなの誤差の範囲内。そもそもそんな微小な反応にただの人間が気付けるはずが……」
「クアットロ。人間を侮るのは、きみの悪い癖だ」スカリエッティがクアットロをたしなめる。 「数値を計るだけであれば人間が機械に勝るわけがないが、物事を測るとなればまた別だ。個々の情報は微小であっても、それらが統合されてモノとモノを繋ぐネットワークが形成された時、そこに何を見出すのか。そこに生じる思考の飛躍こそ、人間が与えられた偉大な権能の一つであり、ドローンではなくきみたち戦闘機人こそが真に強者たる理由の一つだ」
クアットロは納得がいかないという顔をしていたが、しぶしぶ首を縦にふって引き下がった。
「その子たちはやはり、プロジェクトHの申し子か」
「プロジェクトH?」
グレアムが漏らした単語に、ウィルが反応する。初耳だが似たような単語に聞き覚えがある。
「カルマン君は、PT事件ですでにプロジェクトFに出会っているだろう。プロジェクトH――HYBRIDは、プロジェクトF同様にスカリエッティが表舞台から退く時に世界中にばらまいた理論の一つ。人間の遺伝子をどのようにいじくれば良いのかを記した悪魔の書だ」
「ひどい言い草だ。プロジェクトHの基礎理論は、それなりに社会の役に立っているはずだよ」
「たしかに、いくつもの遺伝子疾患の治療が可能になった。だが同時にその中に記された機械と人間を融合させた新たな人間――戦闘機人の概念に魅せられた者を生み出した。最近では戦闘機人を造りだそうとする違法研究所も現れ始めている。そのために犠牲になった人々も少なくはない」
「嘆かわしいことだね。世の中には犠牲を出した分だけ成功すると考えている科学者もどきが存在する。論理と倫理を忘れたマッドの存在は、科学者の端くれとして私も憂慮しているよ」
スカリエッティは悲しみと憐れみを含有した顔で大げさに肩をすくめた。
スカリエッティもどう考えてもマッドに分類される科学者だが、本人なりに矜持は持っているらしい。他人に理解されるのかは、また別の問題だが。
「まあ、いい。良くはないが、今は置いておこう。ジェイル・スカリエッティ、それだけの能力と実績を見込んで、公人としての立場を忘れ私人としてお前に頼みたいことがある」
グレアムが闇の書の話を語り出すと、スカリエッティは興味深々といった面持ちで、時折質問をはさみながら聞き続ける。
説明が終わると、スカリエッティはグレアムの依頼を要約した。
「つまり、きみたちは闇の書の主である八神はやてを死なせずに、闇の書だけを滅ぼす方法を私に模索してほしい、と」
管理局が追う第一級捜索指定のロストロギアを匿い、そのロストロギアはいつ何時暴走するかわからない代物。
さらに、依頼内容には解析によって得られた情報全ての開示や、グレアムとその部下のラボへの滞在許可などが含まれていた。ウィルもスカリエッティの監視のために、これから事件解決まではラボに滞在し続けることになっている。スカリエッティに任せっきりにして勝手な行動をとられないための処置だが、スカリエッティにしてみればいつ裏切るかもしれない管理局の高官に自分の居場所を把握され続けることになる。
こんな依頼をされて面白いわけがないはずだが、スカリエッティは愉しそうに笑う。
「わかった、引き受けよう。闇の書にはさして興味はわかないが、古代ベルカのプログラム生命体には関心がある。古代の人々がどのような形で人間を再現しようとしたのか。生命の意義を追求する私にとって、その手法は実に興味深い。さて、さしあたって闇の書に関する全てのデータが必要だ。管理局が所有する分はもちろん、グレアム君が独自に解析した分もね」
「私が独自に得たデータはすでに持ってきている。局が保管しているデータは、少し待ってほしい」
グレアムは懐から記録素子を取り出し、スカリエッティが手を伸ばして受け取った。
「わかったよ。それから、解析のために検体を直接私の元に連れて来てもらわなければ。きみたちだけでヴォルケンリッターを全員捕まえて、私のところまで連れてこれるかい?」
「手段はすでに考えてある。私が説得に出向いたところで、向こうがこちらの言い分を信じてくれるとは限らない。ましてや解析させろと言われて納得すまい。そこで私が管理局がヴォルケンリッターとはやて君の関連性に気がつくように誘導する。今いる家を追われて居場所を失えば、彼らも我々に頼らざるを得なくなるだろう」
「手法はグレアム君に任せるよ。できれば早く連れて来てほしいが、強引に連れてきて抵抗されるのも厄介だ。多少遅くとも自発的に解析に協力してくれる方が、私としても望ましい」
二人は他にも、必要となる資金や解析のために用いるラボの場所など、様々な条件について話し合いを続ける。その様子を見ながら、ウィルはスカリエッティが依頼を受けてくれたことに、ほっとした。
スカリエッティは興味を惹かれれば、ほぼ無償でも依頼を受けてくれる。しかし惹けなければ、いくら頭を下げたところであしらわれるだけ。そしてスカリエッティが興味を示してくれるのかは他者が予想できるところではない。幸運にも依頼を受けてくれたとしても、気まぐれを起こして本来の目的から離れた行動をとり、全てがご破算になることもある。
だから依頼を確実に受けさせ、最後までやり遂げてもらうためにも、スカリエッティに対するカウンターとなり得る強い力を持った第三者が必要だった。
グレアムにはそれだけの力がある。
グレアムは何も言わないが、今このレストランの近くに何らかの形で管理局の部隊が伏せられていてもおかしくはない。グレアムほどの人物に頼まれれば、詳しい事情を聞かされずとも協力する者もいるだろう。むしろこのレストランはそういう者の力が及ぶ地区にあるからこそ会談場所に選ばれたのではないか、と想像もできる。
実際にそうしているかは問題ではない。グレアムにはその想像を実現できるだけの力があることが重要だ。
そして、スカリエッティはレジアスをはじめとする管理局の上層部に繋がりを持っているが、上層部の中でもスカリエッティに協力しているのは極一部で、大多数の人間はまさか犯罪者と管理局に繋がりがあるとは思ってもいない。
通常の捜査でスカリエッティを追いかけても、途中で圧力をかけられて捜査を断念させられてしまう。しかし、彼らの手の届かないところで逮捕されてしまえば、それをなかったことにするのは非常に困難だ。
スカリエッティにとっても、逮捕されるような事態になるのは非常に困るはずだ。
スカリエッティは逮捕されたくないので、依頼を達成するために努力しなければならない。
グレアムは闇の書についての事情をスカリエッティたちに知られているので、おいそれとスカリエッティを切り捨てて、はやてを犠牲にする元の計画に戻すことはできない。
お互いに相手を潰す切り札を持ち合うから、共倒れになることを防ぐために争いをさけて妥協し合う。
そんな構図ができあがる――と良いなぁ、というのがあの時グレアムに凄まれる中でウィルが考え付いた絵図だ。
それが今後どの程度機能するのかは未知数だが、ひとまずスカリエッティが依頼を引き受けてくれたことに安堵する。
予定通りに事態が進んでヴォルケンリッターが加われば、スカリエッティとギル・グレアム、そしてヴォルケンリッターの三すくみの均衡ができあがる。
そうなれば、いずれかの陣営が主導権を握って専横を企んだり、途中で裏切る可能性はさらに低くなるはずだ。下手な行動をとれば、残りの二陣営に叩き潰されるから。
グレアムとスカリエッティの同盟が締結すると、ウィルたちの身柄もそのままスカリエッティへと引き渡され、そのままスカリエッティの現在の拠点へと連れて行かれた。
スカリエッティは人も寄らないような辺境に築かれたラボを拠点にしていることが多いが、今回到着したのはとある学術研究都市の中に築かれた医療研究センター。
スポンサーの息がかかった研究所で、独立した権限を与えられた架空の研究者として活動しているらしい。
数多くの研究棟が立ち並ぶ中、スカリエッティに与えられた一棟に足を踏み入れる。
最上階の一室、ガラス張りの壁から入る陽光に照らし上げられた部屋。デスクに頬杖をついて思索にふけっていた黒髪の女性が、入ってきたスカリエッティたちに気が付くと、無言のまま立ち上がった。
羽織る白衣をなびかせて足音高らかに歩み寄ると、スカリエッティではなくウィルの前に立ち、
「久しぶりね」
再会の挨拶とともに振り抜かれた右手が、ウィルの頬に真っ赤な紅葉型の手形を残す。
「いったい!」
「不意打ちしてくれたお礼よ。それからクアットロ、どこに行っていたの。整理してほしいデータが溜まっているのよ」
女性は用件はそれで終わりとばかりに踵を返し、デスクへと戻る。
クアットロは横目でウィルを見ると肩をすくめ、やる気のない声で返事をしながら女性の元へと向かう。
半年ぶりに再会した彼女は、顔にも声にも張りがあり、所作には無駄を嫌う鋭さがあった。以前に会った時のような燃え尽きる直前の輝きではなく、意思持つ者が自然と有する生命力(バイタリティ)に溢れていた。
「お元気そうで何よりです。プレシア・テスタロッサ……さん」
「さてと、新たなクライアントから仕事をいただいたのでね。そのことについて打ち合わせをしよう」
室内の椅子をプレシアのデスクの周囲に寄せ集めて座ると、スカリエッティはグレアムとの会談の内容について、プレシアに語った。
「それで、私にも闇の書の解析に協力しろと? 延命してもらったとはいえ、私に残された時間に限りがあることは、他ならぬあなたが一番よく知っていると思っていたのだけど」
長い脚を組み、コーヒーを飲みながら話を聞き終えたプレシアは、不機嫌を隠そうともせずにスカリエッティを睨む。
腰まで伸びて広がっていた黒髪はゆるく束ねられて、黒が基調なのは相変わらずだがゆったりとしたブラウスの上に白衣を羽織るその姿は、以前のような病的な淀みや、触れれば折れそうな雰囲気がない。
依然として病魔に犯されているようだが、今の状態が本来のプレシア・テスタロッサという女性に近しいのかもしれない。
射ぬかんばかりのプレシアの視線を受けても、スカリエッティにひるむ様子はないどころか、楽しそうに会話を続ける。
「解析は私が主導で進めるから、あまり時間をとらせはしないよ。それに私だけではなく、きみもヴォルケンリッターというプログラム体には興味をそそられるんじゃないかと思ってね。彼らは何度消滅しても、闇の書がこの世界に舞い戻るたびに姿を現す。しかも記憶や人格の変化を引き継いだままに」
「記憶と人格情報の選択と保存……なるほど、たしかにそれがわかればアリシアの人格の完全なコピー、いえ、補完も可能に……壊れてしまった細胞も、人体構成式で代用して……あとはそれを維持するための魔力源さえあれば……」
プレシアの双眸に、雷光の如き光が煌めく。
「わかったわ。私もこの件に協力する。いえ、絶対に噛ませなさい」
「興味を持ってもらえたようで嬉しいよ」
スカリエッティは満足そうに笑うと、あらためて今後の予定を語り始める。
「全員が一ヶ所に固まるのはリスクが高い。きみにはナンバーズの半分を連れて私とは別行動をとってもらいたい。私は適当な無人世界のラボに移り、そこで闇の書の解析を進める。連れていくのはウーノとクアットロとセインの三人にしよう」
「なら、私の方はトーレとチンクとディエチ。あなたの方は非戦闘型ばかりで、こちらは戦闘型ばかりね。もう少しバランス良くしたら?」
「ヴォルケンリッターに本気で敵視された場合、その場にいる者だけで対処するのはリスクが高すぎる。それなら逃走に適しているクアットロとセインを選んだ方が良い。きみの方は私の側に問題が発生した場合に、トーレたちを使ってグレアム君と協力してヴォルケンリッターを抑え込んでほしい。そして私に何かあった時には、娘たちと私の研究を引き継いでくれると嬉しいね」
「面倒だから何かあっても生きて戻ってきなさい」
「善処しよう」
二人の会話が一段落つく頃合いを見計らって、ウィルが声をあげる。
「あの、俺も先生の方について行ってもいいですか?」
「もちろんだとも。闇の書の主の精神状態を安定させるには、顔見知りがいた方が良い。グレアム君に常に私のラボに滞在してもらうわけにはいかない以上、きみがその要だ」
スカリエッティの言葉を聞き、プレシアがウィルのなくなった右腕に視線を落とす。
「それなら、腕を何とかした方が良いわね。久しぶりに会う大切な人の腕がなくなっているなんて、結構ショッキングよ」
指摘通り、右腕の欠損は解決しておかなければならない問題だ。はやてのためだけではなく、その後のことを見据えても。
「そのことで、先生にお願いがあるんですけどかまいませんか?」
「昔のように再生治療がお望みかな?」
十年前にウィルが巻き込まれた大規模爆破テロは、多くの人々の命を奪った。レジアスの妻もその中の一人だ。
ウィルはかろうじて生き残ったが、左手首の先と両脚の膝から下など、人体のおよそ二割以上を損なう重傷を負った。
当時のレジアスとスカリエッティの間に、どのようなやり取りがあったのか。レジアスは語らず、スカリエッティも口止めされているからと教えてはくれない。知っているのは、スカリエッティはウィルを治療するというレジアスの依頼を受けたということだけ。
スカリエッティの治療により、ウィルは健康体を取り戻した。後から聞いたところによると、その内容はまだ五歳になったばかりの子供が受けるのは相当に厳しいものらしい。
スカリエッティ曰く、強い欲望が――生への執着があったから乗り越えられたのだと。
その言葉はすんなりと受け入れられた。復讐するためには、なにがなんでも生き延びて体を取り戻す必要があった。死ぬことより、このまま何もできずに終わることの方が怖かった。
それは昔も今も変わらない。
「あの頃は、再生してもらった左手と両脚がまともに動かせるようになるまで、結構かかりましたよね」
「神経が完全に繋がるまでにおよそ半月。それから以前のように動かせるようになるまで三ヶ月かかっていたね。普通の人間に比べればなかなか驚異的な速度だったよ」
「二ヶ月以内に完治する方法はありませんか? この事件が終わるまでに戦えるようになっておきたいんです。いつ力が必要になるのか、わかりませんから」
「再生治療では不可能だ。一刻も早く戦える体に戻ることを優先するなら、素直に義手にした方が良い」
「それも考えました。でも、義手では戦力が落ちると聞いています。何か方法はありませんか?」
反応速度と追従性の両立は、義肢開発の大きな壁だ。
脳波や脳血流量、筋電位や視線など、生体反応の変化を重点的に感知することで、反応速度を向上することはできる。だが、それらだけでは高位の近接魔導師が欲する、薄皮一枚のみを切るような精密な動作を再現することはできない。
だからといって、民間の義肢で使われるような思考制御では、反射にも等しい動作速度にはほど遠い。
「ないわけではない。やろうと思えば、義肢と神経を直接繋げることもできるからね。ただ、神経に強く干渉するため、持ち主の肉体に大きな負担を与え、蝕む。実用化されている義肢はそれを防ぐために、所有者の意思を読み取ってスタンドアローンで動作して――」
スカリエッティは言葉を止め、しばらくしてから笑う。
「ふむ……この手があったか、義手だけに」
「……何か方法が?」
「戦闘機人のように、発想を逆転させれば良いのさ。人間と義手は、生体反応や思考を読み取り、分析し、動作する――複雑な伝言ゲームで繋がっている。これでは速度も正確さも落ちて当たり前だ。それなら、はじめから義手の中に義手を操作するウィルを用意すれば良い」
「……意味がわからないので、もう少し詳しく」
「プロジェクトFの応用だよ。義手にきみ自身の脳内データを移植した人工知能を搭載する。義肢のセンサーで得られる入力情報から、人間の感覚器官で得られない情報を動作判断からはずすことで、ウィルと義肢の入力情報を限りなく等しくさせることができる。入力される値と計算式が等しければ、自然と解――動きも等しくなる」
「そんなことができるんですか? プレシアさんからは、プロジェクトFではもとになった人間を再現することはできなかったと聞いていますが」
と、プレシアを見れば、返ってきた返事は予想に反して「可能よ」と。
「完全な再現は不可能だけど、戦闘という限定環境での動作程度ならやりようはあるわ」
プレシアの答えにスカリエッティはうなずき、その指先で椅子の肘掛けを軽やかに叩きながら、その旋律に乗せて謳うように言葉を紡ぐ。
「ただ、いくつか問題点も思いつく。その解消のために他の機能も追加してみよう。たとえば、機人がどんなものか、ほんの少しだけ体験してみる気はないだろうか?」
ウィルは戦慄に貫かれていた。かすれた声で問う。
「俺もなれるってことですか? ……戦闘機人に」
ウィルはかつて、戦闘機人になりたいと頼んだことがある。強さを求めた幼少期のウィルが戦闘機人の力に憧れないはずがなかった。
しかし当時はその頼みは技術的に不可能だからと、すげなく断られた。
戦闘機人の素体は、生まれる前の遺伝子の段階から調整を繰り返さなければならない。それは選別され精錬された上質な鉄を打って鍛えた、一振りの刀のような芸術品。ウィルのような石ころを打ったところで砕けるだけだ。
その機人に、なれるというのか――が、スカリエッティは笑って首を横に振った。
「後天的に戦闘機人になることは今でも不可能だ。だが、機人はもともとそれ自体が完成形でありながらも、機械と人体を融和させる技術のテストベッドとなるという役割も持つ。機人に用いている技術には、普通の人間にフィードバックできるものもいくつかある。そのいくつかを、きみで試してみたいと思ってね」
スカリエッティの瞳には、友人の願いを聞いてあげようとする親愛と、実験動物に注ぐ興味の双方が、矛盾せずに含まれていた。
「機人ではない普通の人体への試験はいまだにおこなったことのない技術だ。だから、これに関してはきみの自由意思に委ねよう」
「お願いします」
患者ではなく実験体であったとしても、それで強くなれる可能性があるのならウィルが迷うわけもない。
元より義手の件に関しては、スカリエッティを引き込むためにグレアムという抑止力を抱き込んだ先ほどとは異なり、完全にスカリエッティの好意と気まぐれを期待して頼み込んだお願いでしかない。
ならば、その代償に実験体になる程度の危険を支払うのは当然の対価――と覚悟を決めて答えたが、その悪魔の契約にプレシアが割り込む。
「ヴォルケンリッターや闇の書が来るまでには、まだ時間があるのよね? なら、私もデバイスの製作に協力するわ」
「いいんですか?」
「どういった風の吹き回しだね?」
思わぬ申し出に、ウィルとスカリエッティは二人揃って目を見開いた。
「さっき不意打ちされた分は返したから、次は私が死なないように立ち回ってくれた借りを返すだけよ。デバイスの製作と、この男が無茶な改造しないように見張るくらいはしてあげるわ。それで貸し借りはなしで良いかしら?」
プレシアは朱色の唇に艶やかな笑みを浮かべて、ウィルへと微笑みかけた。
その後、スカリエッティとプレシアは共同でウィルの義手とちょっとした人体改造を行った。並行して、グレアムに渡されたデータを元に検討を重ねつつ、必要な機材を無人世界のラボに移動させて研究環境を整える。
一方、グレアムはスカリエッティの監視のためにリーゼ姉妹を交互に寄越しながら、自らは本局で古代遺物管理部やリンディたちと接触して、管理局の動きを調整し続けた。
管理局の武装隊とヴォルケンリッターが激突したのは、スカリエッティとグレアムの会談がおこなわれた十五日後。
そしてその翌日、スカリエッティとグレアムとヴォルケンリッターの三者の間に協力関係が結ばれた。
『せっかく人が付き合ってあげてるんだから、きびきびと動くのがマナーじゃない?』
義手となった右手を見て、物思いにふけっていると、モニタールームのクアットロがしびれをきらして催促の声。
「ごめん、すぐに準備する――――行こうか、ライトハンド」
真銀の輝きを放つ右腕。義手型インテリジェントデバイス『ライトハンド』からの返事はない。
ウィルもこれまでの癖で呼びかけているが、本来ならその必要もない。
ライトハンドの制御用人工知能は、ウィルと同質の思考を持つ。声をかけた時にはすでにバリアジャケットの生成とデバイスの展開が始まっていた。
ライトハンド内部に量子として収納されていた合金が解放され、宙空で結合されてウィルの身体を覆う。
両脚にはかつてのハイロゥと同質の銀色の金属ブーツ。そのくるぶしの部分には飾りのような可動肢が付属している。
両腕には肘まで覆う銀の手甲。そちらにもまた飾りのような可動肢が付属している。
そして右手の先に出現した一振りの銀剣を握る。形状はかつてのF4Wと同じく刃渡り一メートルの片刃。
広大な訓練場に魔力で形作られた戦闘空間のテクスチャが貼り付けられ、固定されていく。
続けて、戦域に十体のドローンが姿を現す。
ウィルは飛行魔法で宙に浮き、剣を構える。同時にドローンの周辺を囲んでいたリングが砕け、シミュレーションの始まりを告げた。
銀脚『ハイロゥ』から圧縮空気が噴出する。向上した魔力変換効率は以前を上回るエネルギーをウィルに与え、加速する。
以前のハイロゥも手慰みとはいえスカリエッティが製作した一品。その演算速度は通常のデバイスに比べても圧倒的であったが、スカリエッティに加えプレシアの手が加わったライトハンドのそれは、右腕一つ分という本体の大きさゆえの演算速度の高さも相まって、人工知能に処理の一部を割かれているにも関わらず以前のハイロゥを上回る。
音速を越えて発生した衝撃破を逃すため、訓練場の壁全体にかけられた衝撃吸収魔法が発動し、空間が魔力の光で一瞬鮮やかに彩られる。
ウィルは正面のドローンへ向かうと見せかけ、途中で軌道をずらして右斜め上空のドローンに接近。ドローンがウィルに狙いを定める前に、振り切られた剣がすれ違いざまに両断する。
もともと実体を持たないドローンは、剣によって与えられる衝撃を計算、設定された耐久値を越えたことで消滅する。
残敵と己の間に通る射線が限りなく少なくなるような軌道を取りつつ、ウィルは急減速をかけた。
ドローンがウィルに狙いを定めて魔力弾を発射した瞬間、ウィルの左腕を覆う手甲の可動肢から不可視の翼が――圧縮空気が噴出する。ウィルの体は右方向へと急加速。襲いかかる光弾を回避する。
ドローンが照準を移してウィルを追いかけようとするが、当のウィルはすでに上方へと移動ベクトルを変えていた。上方へと照準が追いかけた時には、すでに右斜め下方へ、続けて右斜め上方、左斜め上方、切り返して右。次々と方向転換をおこない、狙いを定めさせない。
両腕両脚に備え付けられた四つの可動肢『フェザー』は、推力偏向(ベクタード)ノズルだ。
思考制御された可動肢は、ウィルの意志のままに角度を変えながら、圧縮空気を噴出させる。
口が小さいため噴出できる空気量は少なく、ハイロゥに比べると加速力は落ちるが、四個のスラスターを四肢に分散して配置したことで以前よりさらに繊細な機動が可能になる。
足裏という一方向に空気を噴出させるハイロゥというメインブースター。
両手両足に備え付けられた四つの可動肢フェザーというサブスラスター。
この二種の加速を織り交ぜることで向上したのは機動力だけではない。
斬撃の瞬間に腕部のスラスターを噴かし、加速した剣撃がドローンを両断。
続けて姿勢を制御しながら右脚のスラスターを噴かせば、加速した右足による回し蹴りが、背後から接近を仕掛けようとしていたドローンへと叩きこまれる。
威力が足りなかったか、蹴りはドローンに受け止められたが、再度圧縮空気を噴出させれば、再加速して威力を増した右脚がドローンを吹き飛ばす。
吹き飛んだドローンに向かって左腕を振るう。左腕を覆う手甲に魔力が通い、大気と混ざり合って衝撃波を生み出し、ドローンが姿勢を取り戻す前に直撃、破壊する。
四肢のスラスターを攻撃のタイミングに合わせて使用すれば、部分的に速度を上昇させることで攻撃力を高めることができる。
ウィルは止まることなく、次の標的へと向かって移動を始める。
両手両足のスラスターを断続的に吹かし続け、移動のベクトルを常に変化させ続けながら、魔力弾の雨をくぐり抜けてドローンを落とし続ける。
戦闘開始から二分後、ウィルはシミュレーションで形成されたドローン十体全てを破壊し終えた。
『はいおつかれさま~。ウィルの方で何か問題は感じられた?』
「相変わらずだけど、動作タイミングに何度かずれを感じることがあったな。そっちでも観測できてるだろ?」
『それに関してはどうしようもないわね~。これからもこまめに戦闘データを更新して、覚えさせ続けるしかないわよ』
ライトハンドの人工知能がウィルの脳内情報をコピーしているとはいえ、ライトハンドはデバイスでウィルは人間だ。
同じ入力情報、同じ計算式。限りなく近くとも、機械と人では出力される情報が異なる時が稀にある。その差異を埋めるためにも、クアットロにサポートしてもらってのシミュレーションの繰り返しは非常に重要だ。
そして何より、フェザーという四つのベクタードノズルが増えたことにより、戦い方は以前よりさらに複雑さを増している。
新しい力を活かすためには、どのような戦えば良いのか。まずはデスクに向きあって理屈を噛み砕いて理解し、次に反復訓練によって基本的な動作を身体に覚えこませ、シミュレーションによって動作を繋げ、己の戦闘スタイルへと昇華させる。今のウィルに必要なのはその繰り返しだ。
新たなデバイスでの戦い方を身につけにして、ウィル自身に加えられた改造による新たな領域――アセンションの世界を己のものにした時、きっとウィルの刃はヴォルケンリッターにも届き得るという確信がある。
「というわけで、さっそく次のシムを頼むよ」
『りょ~かい。じゃあとっておきのいくわね』
「へえ、楽しみ……!?」
眼前に現れたのは、モデルのような高身長の美女。
ボディラインにフィットした青いバトルスーツを身を包み、長い手足には刃を削ったかのような八つの光。
その鋭い目に何の感情も浮かんでいないのは、これがシミュレーションというのもあるが、もともとの本人の気質によるところも大きい。
ウィルにとっての憧れの人――ただし戦闘面に限る。
「ちょっ……! 待て待て待って!! いきなりトーレ姉さんとか無理――」
『はいスタート♪』
ナンバーズ三番目、トーレ。スカリエッティが認める現時点で最強の戦闘機人。
ISとして発現した極限まで研ぎ澄まされた飛行魔法を、戦闘機人の中でも最高の肉体強度を誇るトーレが用いる。その加速力と戦闘機動は人類という種が到達できる領域を超えている。
勝てるわけがないという認識が身体を後ろに後退させかけた時、ウィルの脳裏をシグナムの姿がよぎる。圧倒的な強さで、ウィルを完膚なきまでに叩きのめし、死の寸前にまで追いやったその姿。
トーレは戦闘機人の中でも別格の強さだが、シグナムがトーレよりあきらかに劣るとも思えない。シミュレーションのトーレにすら勝てないようで、シグナムに勝てるはずがない。
「上等だ! 全力で――」
十分後、両手を地面につけた四つん這いの姿勢で、汗を滝のように流しながら荒い呼吸を何度も繰り返す。
高機動近接型同士の戦闘はそう長引かない。長くても一分とかからず、最初の一合ではっきりと優勢が決まり十秒もかからず決着がついたこともあった。
一戦が終わるたびにすぐさま次の戦いが始まり、わずか十分間で何度も打ちのめされて、何度も叩き落されて、途中からはいまだに試験すらほとんどしていないアセンションをも発動させ、その果てに。
「ど……うだっ! 見てるかクアットロ! 勝ったぞ!」
掴み取ったのはわずかに一勝。しかも相手はシミュレーション上の存在であり、本物のトーレには及ばない。
しかし子供の頃から憧れていた背中が手の届くところに来た手応えは、連戦による酸素の欠乏と全身にかかるGによ嘔吐感の苦しさを跳ね除けるほどの充足感を与えてくれた。
けれど、クアットロからの返事はいつまで経ってもない。この結果に賞賛であれ皮肉であれ、何かを返してくれることを期待していたのに。
疑問に思って顔をあげようとしたその時、不意にそばで足音が鳴り、俯き下を向いた視界の端に映る蒼の靴。
「だらしないわねぇ」
声はモニタールームからの通信ではなく、すぐそばから空気を振るわせて耳を軽やかに打つ。
顔を上げれば、すぐそばにクアットロの顔。膝を曲げて腰を折り、視点を合わせるために前傾してウィルの顔を覗き込んでいた。
丸眼鏡の下、金色に輝く大きな瞳を彩る睫毛は長く、鼻筋はすらりと通り、桃色の唇が弧を描き、悪戯っぽい微笑みを浮かべている。
伏したウィルを覗き込むクアットロの顔は随分と大人っぽくなっていて、しかしその姿勢は十年前の記憶を想起させる。
「こうしていると、初めて会った時のことを思い出さない?」
考えていたことを先に口に出され、言葉に詰まる。
脳裡に去来するのは、幻燈画と呼ぶには鮮やかすぎる在りし日の、過ちの苦さと懐かしい温もりの記憶。
己の肉体が五体満足に戻っているのを見た時、幼いウィルは喜びで涙を流したが、その喜びもつかの間、戻ったばかりの身体は自らのものとは思えないほどに重く、頭で考えた通りに動いてはくれなかった。
そこからは一刻も早く元のように身体を動かせるようになるためのリハビリの日々。並行して、いつか闇の書に立ち向かえるような魔導師になるための訓練を始めた。
ゲイズ家では、子供にはまだ危険だと魔法も戦い方も教えてはもらえなかったが、スカリエッティのラボは違った。
ナンバーズの二番目ドゥーエは、魔法の使い方をはじめとした様々な知識を教えてくれた。
ナンバーズの三番目トーレは何も教えてはくれなかったが、訓練場で見かける彼女の圧倒的な強さは、ウィルに目指すべき目標を示してくれた。
ドゥーエが与えてくれる知識を一つとして取りこぼさぬように。トーレが見せる戦い方に一歩でも追いつけるように。震えてペンも持てない指を握りしめて、崩れ落ちそうになるか弱い足に力を込めて足掻き始めた。
苦しいとは思わなかった。心の底には父の死を理解した瞬間に熾った炎が燃え続けている。炎が与える熱がウィルの身体を突き動かしてくれた。
そんなラボでの生活が続いたある日、ウィルはいつも通り、トーレが使用しない時間帯を見計らって訓練場で魔法の練習をしていた。
その頃のウィルはトーレの真似をするべく、飛行魔法の訓練にとりかかっていた。
初めて見たトーレの訓練の光景が目に焼きついていた。自在に訓練場を飛び回り、鋭角的ともいえる軌道で瞬く間に敵へと接近し、両手両足の光刃で切り裂いていく姿には、美しさすらあった。
ウィルは父が戦っている姿を見たことがない。だからトーレのその姿は、幼いウィルにとって圧倒的な力の象徴だった。
その力に一歩でも近づくため、ドゥーエに教えてもらった通りにバリアジャケットを展開して、訓練場の中を飛ぶ。
最初は浮くだけで精一杯で、気を抜けばバランスが崩れて落下しそうになる始末だったが、不格好でも何度も何度も繰り返せば、少しずつ軌道が安定していく。
自分は少しずつ上達している。成長している。その実感が充足感を与えてくれる。
そういえば、トーレは以前にシミュレーションで様々な地形やコースを作って、そこを駆け抜ける訓練をしていた。
今度、ドゥーエに頼んで自分もそれをやらせてもらおう、と。
飛行中に余計なことを考えてしまったのが良くなかった。
マルチタスクもうまくできず、デバイスも持たない。そんなウィルが使用する魔法以外のことに頭を回せば制御できなくなるのは当たり前。
飛行魔法に綻びが生まれたことで、慣性制御の効果が低下。先ほどまでは何の負荷もかかっていなかった身体に、突然押し付けられるような圧力がかかる。
混乱と痛みがさらに判断と思考を狂わせ、飛行魔法が完全に崩壊してウィルの身体が空中に放り出される。
高度は低く、速度もそれほど上げておらず、バリアジャケットを纏っていたおかげだろう。そのまま訓練場の床を十メートル以上転がって全身を強く打ち付けても、幸運なことに大きな怪我はなかった。
うつ伏せに倒れている姿勢から、手足に力を入れて身体を起こす。
四つん這いの姿勢から立ち上がろうと腕に力を込めれば、再生治療で戻ったばかりの左手に力が入らずに滑り、再び崩れ落ちる。
這いつくばった状態で何度か深呼吸をしてから、息を止めて歯を食いしばり、もう一度全身に力を入れて四つん這いの姿勢に戻る。
馬鹿な失敗をした自分が情けなかったのか、それとも立ち上がることすらできない我が身が悲しかったのか、涙で視界がにじみそうになるが、まぶたを強く閉じて涙を抑えこむ。鼻の奥が痛くなるのを歯を食いしばって耐える。
泣いちゃダメだ。止まっちゃダメだ。
こんなところで止まっていては、自分はどこにも辿り着けない。
もう一度挑戦だと、決意を固めてまぶたを開けば、ウィルの視界に影がさしていた。
顔を上げれば、栗色の髪の女の子がウィルを見下ろしていた。
年の頃はウィルと同じ五歳くらいだろうか。金色の瞳には見た目の年齢には合わない理知的な輝きがあり、五歳年上のオーリスを連想した。
誰かは知らないが、かっこ悪いところを見られた羞恥で顔が赤くなるのを感じる。笑われるのか、慰められるのか。どちらにしても恥ずかしい。
女の子の小さな唇がゆっくりと開かれて
「あなた、どうしてそんなに馬鹿なことをしているの?」
放たれた言葉は予想だにしない辛辣。
「きみは……?」
「質問の内容も理解できないのかしら? まぁいいわ。私はクアットロ。ナンバーズの四番目――こういえば、さすがにわかるわよね?」
その存在は知っていた。ラボには、すでに完成しているウーノ、ドゥーエ、トーレの他に、遺伝子の設計が完了し生まれたばかりの子が二人いた。ナンバーズ四番目のクアットロと、五番目のチンク。
彼女らは生み出された後、急速成長で五歳児程度にまで肉体を成長させられ、それから成長速度を普通の人間と同じレベルに落とし、埋め込まれた機械に馴染むように、そして個々が持つ資質を活かすように肉体を改造されていく。
ただ、普段は調整用のポッドの中で眠るように揺蕩っているため、顔を合わせたのはその時が初めてだった。
後から知ったことだが、外界の情報を正しく認識できるか、他者と言語でコミュニケーションをとるだけの知能が発達しているかなど、いくつもの項目をチェックするために時々ポッドから出して活動させていたらしい。
「おれの名前は――」
「いらないわ。知ってるもの」
自己紹介はすげなく断ち切られ、この時点でウィルは結構苛々とし始めていたが、世話になっている先生の娘で、自分に様々な知識を教えてくれるドゥーエの妹だ。怒っちゃダメだと自分に言い聞かせながら、質問に答える。
「父さんを死なせたやつを、おれがたおすんだ。そのためには、強くならないと」
堂々と、胸を張って宣言する。
ゲイズ家では、みんな悲しそうな顔をしたり、気まずそうな顔をしたり、時には怒ることもあった。この願いは口にしない方が良いのだと、その時に学んだ。
でも、ここでは違う。
先生は強い願い、強い欲望を持つのは素晴らしいことだと褒めてくれた。ドゥーエもその意志の強さがあるのならと勉強を教えてくれた。
その二人が認めてくれた願いだから、きっとクアットロもわかってくれると思って口にしたのに――
「それも知ってるわ。私が聞きたいのは、どうしてそんな馬鹿なことをしているのってこと」
本当にあっさりと、あたりまえのことを告げるかのように、ウィルの願いは切り捨てられた。
「な、なんだよっ! おまえも、ダメだって言うのか!?」
願いを否定された怒りがウィルを動かす力になる。足に力を込めて立ち上がり、クアットロに掴みかかろうと一歩前に踏み出す。
感情を顕わにし怒りの形相で寄るウィルを見て、クアットロは汚らしいものに触れられるのを嫌うように避け、足払いをかける。
ウィルの体は再び地面にたたきつけられ、あおむけのままクアットロを見上げる形になる。
ウィルを高みから見下すように、のぞきこみ。クアットロは大きくため息をついた。
「ドクターもドゥーエ姉様も、どうしてこんなのを置いているのか理解に苦しむわ」
幼子にあたりまえのことを言い聞かせるように、クアットロは淡々と言葉を紡ぐ。
「父親が死んだのは残念なことよね。自分を庇護する者がいなくなってしまうんだから。それで? 今のあなたがするべきことは新しい庇護者に気に入られることじゃないの? 失われた者に固執してそんな無様をさらすことにどんな意味があるの?」
「父さんは、すごい人だったんだ! 世界を守るために、ずっとがんばってたんだ! そんな父さんをころしたやつは死ななきゃならないんだ!」
「それも理解できないわね。死んだのはただ力が足りないから。第一、あなたの父親にそれだけの価値なんてないでしょう」
告げられた言葉に、心臓が大きく脈打った。
鼓動に合わせて全身を巡る血流が熱湯のように熱い。その源泉は胸のさらに奥。心の底から。
「子が親に感謝を抱くのは、親が子を庇護するから。でもあなたの親は知人に子を預けて、世話を任せていた。その上、あなたを残して死んだんでしょう?」
心の底には扉がある。扉の向こうで燃える炎の熱が、ウィルに力を与えてくれる。
「子供を育てる義務を果たせなかった使えない親のために人生を浪費するなんて。復讐なんて馬鹿みたい」
体をどのように動かしたのかもわからず、湧き上がる熱に突き動かされるようにして、ウィルはクアットロに飛びかかっていた。
今にして思えば、ウィルの激情に呼応して体内で魔力変換が発生し、ウィルの身体をそのまま動かしたのではないか、と思う。
クアットロは戦闘が主体ではないとはいえ戦闘機人だ。幼いとはいえ、本来ならばリハビリ途中で稚拙な身体強化魔法しか使えないウィルなんて返り討ちにされるはずだった。
ただ、クアットロもまた一時的にポッドから出されただけの調整中で、機械が身体に馴染んでいなくて、十全に動けなかったのかもしれない。
理由はわからずとも、結果は一つしかない。
ウィルはクアットロを押し倒し、胴の上に馬乗りになって左手で首を押さえつけ、右手でクアットロの顔を殴った。
そして二発目をたたき込もうと、右手を大きく振りかぶった時、自分を見上げるその顔に浮かんだ怯えと目尻に溜まった涙を見て、体が動かなくなった。
父親は凄い人だ。かっこいい人だ。正義の味方だ。その認識に変わりはない。
それで、その尊敬する父親の子である自分は、嫌なことを言われたからと、何をしているのか。してしまったのか。
急速に戻る理性。
すぐにクアットロから離れようとするが、先ほどの激情が消えたウィルの身体は、いまだリハビリ途中の脆弱な肉体へと戻っていた。
震える手に力を入れて、首を押さえつけていた左手を引きはがす。震える足に力を入れて、クアットロの上からどこうとした時、クアットロが身体を起こして掌でウィルの胸を突いた。
機人の膂力は子供の姿でも大人を凌駕しており、その衝撃でウィルの身体は後方に飛ばされる。
立ち上がったクアットロが、尻もちをついたウィルを睨む。
その顔にはやられたことへの怒りではなく、事態を理解できていない困惑が張り付いていた。
お互いに睨み合っていた時間は十秒くらいだったか。
「その――」
「―――!!」
謝ろうとしたウィルが声をあげた途端、クアットロはその場から飛びのいて訓練場から走り去った。
慌ててウィルも後を追いかける。どうすれば良いのかわかっていたわけではない。とにかく謝らないとという一念で、壁に手をつきながらクアットロを追いかけて訓練場を飛び出し、気が付いたらベッドの上で目を覚ました。
疲れが出たのか痛みのせいか、通路の真ん中で気を失って倒れていたのを、訓練場に向かおうとしていたトーレが見つけたらしい。
様子を見にやって来たスカリエッティに事情を説明して、クアットロに会わせてほしいとお願いしたが、すでに外に出ていられる時間は終わり、再び調整用ポッドの中に戻ったのでしばらくは出てこれないと告げられた。
ショックだったのは、事情を知ったスカリエッティは、起きたことにさして興味もないようで。彼だけでなく、ウーノも、ドゥーエも、トーレも。誰もウィルのことを叱りもしない。
それまでは、復讐という願いを話しても肯定してくれる此処の人たちはみんな良い人なのだと思っていた。
きっとこの時からだろう。此処にいる人たちはみんなどこか普通ではないのだと感じるようになったのは。
何週間かたって、クアットロが再度目覚めると教えてもらったウィルは、通路の真ん中に立って彼女を待っていた。
扉からクアットロが顔を出した瞬間、有無を言わさず頭を下げて謝った。
クアットロはわずかに眉を歪めて、一言「そう」と言っただけ。「許す」とも「許さない」とも言わず。その場から去った。
ああ、きっとクアットロはウィルにはもう関わりたくもないのだろうなと。
悲しいけれど、傷つけるというのはそういうことなんだと思って。
だというのに、その日からウィルがラボで何かをしていると、よくクアットロがそばにいて、それを見ているようになった。
仕返しの機会でも伺っているのかと思っていたが、クアットロは本当に見ているだけ。見られることに慣れ始めると、次第にウィルのやり方に口を出してくるようになった。
苛立つことも多々あったが、以前に押し倒した負い目があって強く出ることができず。
そんなクアットロの変化にスカリエッティも思うところがあったのか、それからというもの、クアットロはチンクに比べて調整ポッドの中にいる期間は短くなり。
結局、スカリエッティのラボを出てレジアスのところに戻るまでの一年ばかり、ウィルとクアットロはよく一緒に行動していた。
共にドゥーエから学び、トーレを真似しようとするウィルをクアットロが見ていて、一緒に食事をして。
そんな日々を過ごすうちに、いつの間にかかつて喧嘩の原因になった復讐について語れるようになっていて。お互いに復讐に対する考え方は相変わらず合わなかったけれど、その違いを流せるようになって。
チンクが調整用ポッドから出てくる頻度が増えるようになると、彼女も混ざるようになり、ウィルとチンクで模擬戦めいたことをすることも増えた。
ウィルが息をするように飛べるようになると、これまでは教えてくれることのなかったトーレがたまに空戦機動を教えてくれるようになったり(大半は身体能力が違いすぎて何の参考にもならなかったが)、
ウーノがデバイスの基礎理論を教えてくれて、ウィルも自分のデバイスを組んでみたが結局うまくいかず、最後は先生がクアットロやチンクのISを制御するための装備と一緒に手慰みで作ってくれたこともあった。
その時に作ってもらったハイロゥは、以来十年間ウィルの相棒として活躍してくれた。先日のシグナムとの戦いで完璧に壊れてしまったが。
子供の頃に漠然と感じたように、スカリエッティとその娘たちはどこか普通とずれている。それは常識であったり、感覚であったり、倫理観であったり、様々だ。
その思いはラボから帰って、親戚のおじさんから正式に養父となったレジアスの元で暮らし、似たような境遇のクロノと出会い、士官学校で大勢の仲間たちと過ごし、管理局で働くようになってからはさらに強くなった。
けれど、ウィルが普通に生きられるようになったのは、先生とその娘たちの、なによりも一緒にいてくれたクアットロのおかげだった。
あの日々の輝きは、大切な存在を失い己の無力を呪うウィルに与えられた救いだった。
「覚えているよ。あれは俺の愚かさの象徴だ。忘れるわけにはいかない」
「私も愚かだったわ。愚か者が事実を指摘された時に逆上するだなんて、そんな当たり前のことも考慮に入れてなかったんだもの」
言って、お互いに笑う。
いつまでも四つん這いで顔だけ上げているのも疲れるので、ウィルはそのままごろんとひっくり返り、あおむけに寝転んでクアットロを見上げる。
「お腹をさらすなんて、なんだか服従を誓う犬みたい」
クアットロはウィルの頭のすぐそばに腰を下ろすと、ウィルの頭を少し持ち上げてその間に自らの太腿を差し込む。
ボディスーツ越しに感じられるクアットロの身体は、その内側に様々な人工物が秘められているとは思えないくらいに柔らかい。
「トーレ姉さまに勝ったご褒美。どう?」
「予想以上のサービスで後が怖い」
「なんてサービスし甲斐がないのかしら。……それで、十年間待ち望んでた仇に出会えて、あまつさえ同居している気持ちはどう?」
「たいしたことはないよ。もちろんこのまま許すつもりなんてさらさらないけれど、まずは闇の書のことが解決してから――」
いつものように言葉を重ねる。自分はいつだって冷静だと、想定外の事態に巻き込まれることは多いが、その場その場でやるべきことをやるだけだと。
そう思っていたのに、言葉が突然喉でつっかえて、代わりに出てこようとするのは形も音もない嗚咽。
歯を食いしばって、せりあがるそれを抑え込みながら、言葉を繋ぐ。
「ごめん……思ってた以上にきつい、みたい」
吐き出した弱音は、自分の声とは思えないほどに弱弱しくて。
一度弱音を吐くと、堰を切ったように溢れて止まらない。
「なんで、はやてなんだよ。はやてじゃなければ、あんな人たちだって知らなければ、今頃……何も考えずに、戦えてたのに」
ヴォルケンリッターに襲われてからずっと、忙しさを理由に目をそらし続けてきた不満と不安が、ヴォルケンリッターの協力を取り付けられて余裕ができたせいで湧き出してくる。
「自分が何を考えてるのか、わからないんだ。頭の中じゃ、闇の書が解決したらそれで終わるべきだって思ってる。あの人たちを殺せたとしても、それじゃあはやてが悲しむ。それに、あの人たちだって……。でも、俺の気持ちは、あの人たちを――あいつらに、今すぐにでも報いを与えたくてたまらない。そんなことをしたらはやてがどうなるかなんて、わかってるのに」
「問題を混ぜて考えるから悩むのよ。まずは闇の書の問題が解決するまで我慢するのが辛いってことよね。それについてはこう考えたらどうかしら? あなたは今、復讐という料理を冷ましているの」
「……料理? 復讐が?」
「聞いたことない? 復讐という料理は冷めれば冷めるほどおいしいそうよ。だから、あなたは復讐をしないでいるんじゃないの。おいしく食べるために、我慢しているところなの。十分にお腹を空かせて、充分に冷えきってから、フォークを突き立てて、口に運んで、咀嚼して、飲み干すの。今はそのための準備期間」
語りながら、クアットロはウィルの頭を撫でながら、赤髪に指を通し、指に巻いては離してを繰り返す。
「俺があの人たちを殺したら、はやては悲しむだろうな……」
「ええ、そうね。それがあなたを悩ませる二つ目の問題。あののほほんとした子を悲しませてまで、ヴォルケンリッターに復讐するかどうか。……でも、その答えは決まっているわよね。我慢なんてできないんでしょう? そんな思いを抱えたまま、平気な顔をして罪を犯した者がのうのうと暮らしていくのを眺めてなんていられないんでしょう?」
「…………ああ、そう……だな」
「なら、受け入れるしかないわよね。忘れないで。敵は復讐相手だけじゃなくて、あなたの復讐を邪魔しようとする相手も敵よ。容赦しては駄目」
結論なんて最初から決まっていた。
はやてが敵に回る――その未来を想像するだけで、胸が引き裂かれそうに苦しくて、もしかしたら自分が我慢するべきなのではないかと、そうできるだけの強さがあるのではないかと、思い込もうとしていただけだ。
ウィルの前に広がる道はただ一本。
同じように愛する家族を奪われたクロノとリンディは、どちらを選ぶのだろう。
大切な家族を奪った闇の書とその尖兵のヴォルケンリッターを許さず、ウィルに協力してくれるだろうか。
それとも、闇の書という根本を解決できれば、ヴォルケンリッターのことは見逃すのだろうか。
もしそうだとすれば――
「もしかしたら管理局も……世界全部が敵になるかもしれない」
「そうなるかもしれないわね。管理局のことだから、何かと理由をつけて、あの子ごとヴォルケンリッターを取り込もうとするかもしれないわね」
管理局が下した判断に逆らうなら、管理世界全てがウィルの邪魔をする敵になる。
はやても、レジアスも、オーリスも、クロノも、エイミィも、リンディも、なのはやユーノだって、みんな、敵になる。
これまで繋いできた絆が、人々の温かさが離れていくのが怖くて。
ウィルは頭の下にある、触れ合う温もりにすがりつくように声をあげた。
「なあ、クアットロ。もしも、世界全部が敵になっても、お前は俺の味方でいてくれるか?」
クアットロは微笑を消すと、ウィルの髪から右手を離し、眼鏡と髪留めをそっと外す。
意外と鋭い金色の双眸と、腰まで伸びる栗色の綺麗な長髪。
眼鏡をしている最近のクアットロもかわいいと思うが、やっぱり初めて出会った時と同じ、こちらの方がウィルは好きだ。
クアットロの顔が音もなく近づいてきて、瞳に映るウィルの姿すらわかるほどに近くなり。
額に、温かで、柔らかな感触。
一瞬触れて、すぐさま離れていった。
「私はあなたが復讐を諦めないことを望んでいるわ」