八神はやてにとって、この二日間は激動の日々だった。
すやすやと眠っていたところを叩き起こされたかと思えば、目の前には仮面をつけた男と眼鏡をかけた少女の不審人物コンビ。押し込み強盗かと思って警戒するも、ただの強盗であれば頼りになる家族四人が気づかないのも不自然。
クアットロと名乗った眼鏡の少女に大人しくついて行ったのは、逆らったところでどうしようもないのも大きかったが、彼女がウィルとグレアムに頼まれたと二人の名前を出し、さらにはやての家族たるヴォルケンリッターもまたそのために行動しているのだと説明されたからだ。
誰にも漏らしていないはずの闇の書やヴォルケンリッターのことを知っている事実は、彼女がシグナムたちと結託しているという説明に信憑性を持たせていた。
その言葉は嘘ではなかったようで、到着したラボではウィルが出迎えてくれて、しばらくすると最近会っていなかったグレアムおじさんまでもが現れた。
グレアムおじさんが魔導師で、ウィル同様に管理局で働いていることには驚かされたが、そのびっくりも二人から告げられた内容――自分の余命があまりないという事実の前に吹き飛んだ。
ただし、それはあくまでも地球の医療技術での話にすぎないと、ウィルとグレアムおじさんは何度も繰り返し説明してくれて、それからラボの持ち主であるジェイル・スカリエッティ先生を紹介された。
まだ二十代に見えるのに、その若さで世界有数のお医者さんで研究者らしい。
「言葉だけで絶対に治せるなんて言われても信用できないだろう?」
先生はそう言うと、自分をここまで連れてきてくれたクアットロと先生の助手であるウーノをそばに呼び、そしてはやては彼女たちが普通の人間ではない――サイボーグのような存在であるところを見せられた。
たしかにこんな凄い技術力があるのなら、病気の一つ二つ簡単に治せるのかもしれないと思えた。……思えたが、あれはちょっとはやてには刺激的すぎた。
そうして昨日、今日と先生のもとで何度もよくわからない検査を受けて。その途中でシグナムたちも合流して。
海鳴の人たちには、病状を知ったグレアムおじさんがはやてをイギリスへと連れて行ったという形で失踪をごまかしておくと告げられ、これから数ケ月はここで暮らすことになって。
そして今。
蒼白な人工灯に照らされた一室に、このラボにいる人間全員が集められていた。
部屋の中央には円卓が置かれ、それを囲むようにして十人が席についている。
はやてのそばにはシグナムたち四人。それ以外は、ウィル、ジェイル先生、ウーノ、クアットロ。
そして一人、見たことのない子が混じっていた。年の頃ははやてと同じくらいだろうか。翡翠色の髪をした少女だ。
ウィルが立ち上がり、咳を一つしてから朗々とした声色で宣言する。
「それではみなさま、八神一家の逗留を祝しまして、鍋パーティを開催したいと思います!」
「いえー!」
「わーわー」
ウィルの宣言に合わせて、翡翠の髪の子が拳を突き上げ、クアットロがやる気のない口調で形だけの歓声をあげ、ウーノは無表情のまま拍手して、スカリエッティは無言のまま笑みを浮かべている。
そんなスカリエッティ一家の様子を、はやての家族である騎士四人は胡乱気に見ている。
はやて自身はといえば、ウーノに追従するようにおずおずと手を叩きながらも、視線は円卓の中心に置かれた直径一メートル近い巨大な鍋に自然と向かう。
「でっか……!」
なぜこんな大きなものがあるのか。わざわざ今回のために用意したのか。そんな疑惑が浮かんでくる巨大な鍋。
鍋は四つに区切られており、それぞれに異なる出汁が投入されており、すでにいくつかの具材が投入されてぐつぐつと熱せられている。
机は鍋の乗っている部分が少し高くなっていて、回転できるようになっていた。
行った経験はないが、中華料理店のテーブルがこんな感じだった気がする――と、テレビのグルメ番組で見た光景がぼんやりと頭に浮かぶ。
「では開催にあたって、家主のジェイル先生より一言!」
「早く食べよう」
「以上! いただきます!」
言うや否や翡翠の髪の少女が先走って鍋に箸を躍らせ、クアットロが続く。
ウーノは最適な煮具合のものを見極め、せっせとスカリエッティの取り皿へと移していく。
「これどうやってあっためてるん……? IH?」
はやてが思わずこぼした疑問に、ウーノ任せでまったく箸を動かすつもりのないスカリエッティが答えを返す。
「動力は魔力だね。鍋そのものに熱を発生させる簡易な魔導式を刻んである」
「へぇ~。魔力溜めた電池みたいなんでそれを……起動? 発動? させてるんですか?」
「いや、そこのウィルを見てごらん」
ウィルは右手に持った取り箸で具を取り皿にとりわけながらも、左掌を開いて鍋にかざし続けている。冬の寒い日に外から帰ってきた後にストーブに手をかざすような光景だが、まさか鍋で暖をとっているわけでもないはず。
「……あの左手は何してるんですか?」
「あそこから魔力を流し込んでいるんだよ」
「まさかの人力!? 挨拶終わってからずっとあのままですけど、もしかしてずっとああしてやんとあかんの!?」
「本当にただ式を刻んだだけだからねえ。必要以上の魔力を注入したら鍋が一気に燃え上がるよ」
「怖っ!!」
一方、ヴォルケンリッターの方は警戒ととまどいでしばらくの間は躊躇していたが、ちょうど良い煮え頃の、肉に野菜にを次々と取っていく少女たちを見て、ヴィータが観念したように箸を手に取った。
「ま、気にしても仕方ない。せっかくだから、あたしらも食べようぜ」
主催のウィルがそこまで考えていたのかはわからないが、全員同じ鍋をつつくのであれば毒も何もあったものではない。たとえ毒があったとしても、肉体の再構成ができるヴォルケンリッターには通用しないのだけど。
そう思ってヴィータが自らの前にある水炊きコーナーの、よく煮えて食べ頃だろうと思われる鶏肉へと箸を伸ばした瞬間、鍋が回転して離れていく。
目当ての肉は対面に座るクアットロの目の前に到着し、クアットロの箸がひょいと取り皿へと奪っていった。
「おい、勝手に回すな。しかもそれあたしが取ろうとしてた肉じゃねーか」
「あらぁ? 肉ならそっちにもあるじゃない」
「あたしはその水炊きの鶏肉が欲しかったんだよ」
と、文句を言いながら、鍋を回転させて先ほどの水炊きコーナーを手前に持ってこようとすれば、それに合わせてクアットロが回転をさらに加速させて、その隣のすき焼き風コーナーが手前に来る。
別にすき焼きが嫌いなわけでも、水炊きにそこまで執着があるわけでもない。
ただ、からかわれていると認識した瞬間、ヴィータの心に火がついた。
ぐるぐる、ぐるぐる。ヴィータが水炊きコーナーを自分の手前に持ってこようと回転させれば、クアットロはそこに止まらないようにさらに回転をかける。遠心力で鍋の中身が外周へと寄っていく。
「やめろ。汁が飛ぶ」
ザフィーラが机の回転部を強引に掴んで静止させた。同時に机の内側から金属の割れるような音。
沈黙の帳が落ちた中、ザフィーラがそっと机を回そうとするも、先ほどまでなめらかに動いていたはずの机はガリガリガリと擦過音を響かせて、摩擦係数を百倍にしたかのようにぎこちない動き。
「……何もしていないのに壊れた」
「どう考えても無理に止めたせいでしょ」
先ほどまでの躊躇はどこに行ったのやら。
わいのわいのと騒ぎ始めた家族の姿を見てるはやてのそばに、翡翠色の髪の少女がやって来る。
「ごめんね、うちのクア姉が迷惑かけて。いっつもああなんだよ。何かあると人をからかって、たいてい私がその迷惑をかけさせられるんだけど」
と言いつつ、はやてとシグナムの間に身体をねじこませ、腕を伸ばして鍋の具を取って食べていく。
「えっと、あなたは……」
「あー、自己紹介してなかったね。はやてのことはウィル兄から聞いてたからさ、なんだか前から知ってたような気がして。セインっていうんだ」
「よ、よろしゅう。……セインちゃんも、その……ウーノさんやクアットロさんみたいなサイボーグやの?」
「サイボーグ……まぁ、そんな感じかなー。あ、でも戦闘機人って言った方がいいかも。私は呼び名なんてどうでもいいけど、クア姉はそういうとこ気にする繊細さんだから」
「セインちゃ~ん、聞こえてるわよ」
机が壊れた原因をヴィータと言い争っていたクアットロ。セインの言葉に反応し、ヴィータを捨ておいてセインの元にやってくると、形の良い胸を張って堂々と哀れみの視線をセインに向ける。
「私にとっては、そのことに誇りを持たないセインちゃんの方が不思議よぉ。私たちはいずれ来る新人類(ポストヒューマン)へと繋がる超人(トランスヒューマン)たる戦闘機人。その完成形のナンバーズだっていうのに。自覚が足りないんじゃないかしら」
「うええ……まーた始まった……」
セインは肩を縮こめて、顔をそらす。
「あっ、あの、戦闘機人って何なんですか?」
このままでは自分の言葉が原因でセインが怒られるのでは、と心配したはやては、慌てて会話に割り込んだ。
尋ねられて気分を良くしたのか、クアットロは腕を組むと上機嫌で語りだす。
「私たちは単に肉体機能の一部を機械で代替しているサイボーグとは格が違うのよ。人工物ではあるけれど、無機物と有機物を複合させた様々な先端技術が用いられているの。おかげで骨密度、神経反応速度、筋肉量、全て生身の人間とは比べものにならない数値。もちろん身体能力だけじゃないわよ。受容体が得た情報は、普通の人間と同じように五感で認識するだけではなく、ディジタルな数値にも変換されるから、意識して特定の情報を遮断したり増幅することで、暗視や魔力視、ノイズキャンセルなんかもできるわね」
感心して聞いているはやてに気を良くしたのか、クアットロは得意気になり、ヴォルケンリッターへと視線を向ける。
「その他にもリンカーコアの安定性、魔力の運用速度、ISのような特定魔法への効率化、機人同士のデータリンクとか、いろいろあるんだけど……このあたりは魔法のことを知らないはやてちゃんにはまだ早いかしら。はやてちゃんの家族もなかなか凄いみたいだけど、私たちに比べたらたいしたことないわね」
「……お前、あたしらのことを知っててそんなこと言ってんのか?」
声をあげたのはヴィータだ。
ヴィータだけではなく、四人ともが食事をとる手を止めてクアットロを見ていた。
四人の視線を浴びてなお、クアットロはまるで意に介さずに言葉を放つ。
「プログラム体だとか言っても、結局再現してるのは人間の肉体にすぎないんだもの。それって、ただの人間とたいして違わないわよね。私から見れば、ヴィータちゃんなんてただの魔法が得意でからかったら面白そうな小さな女の子よ」
シャマルが胸の前でぎゅっと両手を握り、つぶやく。
「私たちが、人間と大差ない……」
ヴィータは呆れているような、泣いているような、そんな表情で笑った。
「ははっ、そんなこと言う馬鹿、初めてかも」
はやてには、クアットロの言葉に家族がどれほどの衝撃を受けたのかはわからない。
はやてとってヴォルケンリッターは家族だ。でもそれはプログラム体だとか、闇の書の守護騎士だとか、そういったものをよく知らず、さして興味もないからこその視点。
クアットロはヴォルケンリッターという存在の特質性を理解した上で、彼女たちを人間と同等に見ている。クアットロだけでなく、ウーノも、セインも、ヴォルケンリッターを特別視している様子はない。おそらくは彼女たちがヴォルケンリッター同様に、いやクアットロの言葉を借りるならそれ以上に普通の人間からかけ離れているがゆえの視点で。
それはきっと、はやてには与えられないものだ。
愛しい家族を人間と変わらないと認めてくれる彼女たちのことを、もう少し信用して良いかもしれないと、はやてが感じた瞬間だった。
同時に、年端もいかない女の子が自分は人間からかけ離れていると思うような改造を施している、ジェイル先生の人格と倫理観への不審は大きくなったが。
(ウーノさんもクアットロさんもセインちゃんも、みんな怖がっている様子ないあたり、悪い人ではないんやろけど……)
スカリエッティのラボの訓練場は、地下大空洞の一角に築かれた半球状の広大な部屋だ。
その外周部の一角には、データの観測や訓練用シミュレータの調整をおこなうモニタールームが併設されている。
訓練場の中心に立ち、ウィルはマニュアル通りに義手を動かして簡易な動作確認をしながら、モニタールームのクアットロへと話しかける。
「できるだけヴォルケンリッターにも積極的に絡んでとはお願いしたけど、あそこまで踏み込んだ話をするとは思わなくて冷や冷やしたよ」
『あなたがはやてちゃんがヴォルケンリッターのことを家族扱いしてるって言ってたから、話の流れでそのあたりをちょっとつついてみたのよ。私の銀幕芝居にはアドリブのできないような三流役者なんてございませんの』
ほほほ、とわざとらしい笑い声が聞こえてくる。
「食べ終わる頃には悪くない雰囲気になってたし、このままうまくいけば良いんだけどな。ここまでやったのに、日々の態度で不審がられてご破算って展開は避けたい」
『そうねぇ……っと、EEGコネクト完了、エンゲージ確認。データトリミング正常。エンベロープ限界、適正範囲内』
会話をしながらも、クアットロはウィルの義手に異常がないかを確認していく。
「システムに異常なし(オールグリーン)。それじゃあ次は展開状態の動作を確認するから、早くデバイスを起動させてちょうだい」
ウィルは言われるがまま、右腕を前へと掲げた。
右腕の肌に幾何学的な模様の光の線が走り、右腕の皮膚が消失。肌の下から曇りのない真銀の輝きが現れる。
失った腕の代わりとなる、ウィルの新たな腕。義手型デバイス。
この腕を手に入れるまでの経緯を思い返す。
輝きを感じた途端、自我のみが存在する黒い闇は消え、光の波長という外界の情報を認識する。
久々に開かれた瞳は光量の調節に手間取っているようで、視界に映る光景はぼんやりとしていて像を結ばない。
次第に鮮明になる意識で、記憶をたぐり寄せる。
みんなで遊園地に行った。病院ではやての死期が近いことを告げられた。海鳴から帰る途中、謎の男に襲われた。男はザフィーラで、その後に現れたシグナムとの会話で彼らがヴォルケンリッターであることがわかり、彼女との戦いで負けた――なら、なぜ生きているのだろう。
あの戦いは現実だったのだろうか。激昂して我を忘れていたせいか、記憶は現実感に乏しい。
瞳が光に慣れ、明確な物体の像が結ばれる。視界には、ほのかに輝く天井と壁。
体を動かそうとすると、胸が強く痛んだ。思わず腕で押さえようとしたが、そのために動かした右腕は思いの他に軽い。右腕の肘には包帯が巻かれていたが、肘より先には巻かれていなかった。巻くべき腕がないのだから、巻きようがない。
記憶の中の戦いが現実だった動かぬ証拠を見て、なぜまだ生きていられるのかと再度疑問。
絶体絶命の危機に突然生えてきた奇跡の力で逆転したのなら嬉しいが、それを期待できるほどウィルは自分の潜在能力を信じられない。
かといって、ヴォルケンリッターが見逃してくれたとも思えない。では、第三者の介入によって、ヴォルケンリッターが引かざるを得なくなったのだろうか。管理局が広域結界に気がついて、ウィルが死ぬ前に助けに来てくれたと考えれば――
頭を振って、まとまらない思考を散らした。判断するには情報が少なすぎる。
ベッドに備え付けられた端末を操作する。端末はウェブから独立しており、通常の通信はできなくなっていたが、医務官を呼び出すための限定的な通信は機能していた。
念のためにベッドから降りて扉に近づいたが、開くことはなかった。どうやらこの端末が、外界とウィルを繋ぐ唯一の糸のようだ。
「あれほどの状態から、よくここまで持ち直したな」
現れた医務官は、PT事件の際にアースラで船医をしていた老医師だった。
彼はウィルの肉体の現状――何処の骨が折れているだの、某の腱が切れているだのといった異常を丁寧に説明してくれた。
診断結果は全治三週間。管理世界では普通の骨折程度なら一週間で治るので、三週間はかなりの重傷だ。臓器系への損傷や肋骨を始めとする各部骨折のように、深刻な怪我の治療はウィルが寝ている間に終わっていたが、細やかな部分は自然治癒に任せた方が早く馴染むので、最低限の治療しかおこなわなかったと教えられた。
「左腕の骨折は十日もあれば治るだろう。だが、右腕はな。今すぐにとは言わんが、義手の手配を考えた方が良い」
義手があれば日常生活を送るには支障がない。良い義手なら、魔導師としても特筆して不利になることはない。人体が欠損すると体内を巡る魔力の流れが変化するが、それも時間が経てば適応する。義手義足の魔導師はそれほど珍しくはない。
だが、それは遠距離主体の魔導師にとってだ。
ウィルのような近接主体、それも高位の魔導師や騎士の近接戦闘についていけるほどの追従性を持つ義肢は、管理世界の医療技術でもいまだに存在しない。
四肢が万全な状態ではザフィーラ相手に偶然に近い勝利を得ることができた。だが、利き腕を失ったウィルでは、その偶然さえ起こるかどうか。ましてや、あの鬼神のごとき力を持ったシグナムが相手では、とても。
ネガティブになりそうな気持ちを切り替える。落ち込むのは後でいくらでもできる。まずは少しでも情報を得なければと話しかけたところ、老医師は顔をしかめた。
「私はこれ以上何も説明するつもりはない。状況は彼から聞け」
「彼?」
「すぐに会える」
老医師はウィルに背を向け、扉に向かう。そして最後に体を気づかう言葉をかけると、部屋から立ち去った。
一人部屋に残されたウィルは、腕を組んで目を閉じて、状況を整理しようとして
『なにを考えているの?』
突然頭の中に響いた念話に驚いて、飛び跳ねかけた身体を意志で押さえつける。
聞き覚えのある声だ。
『何から考えるべきかを考えようとしたところ。でも何を考えるにしても情報が少なすぎる。だから俺の方からもいくつか聞きたいことがあるんだけど、かまわないかな?』
『あらぁ、どんな質問かしら』
『いろいろあるよ。たとえば俺に念話を送ってきているクアットロは、いったいどこにいるのか、とか』
『あなたの左側三メートルのところよ』
ウィルは顔をそのままに、視線だけ動かして左側を見た。三メートル先はこの部屋の壁の手前だ。そこには何もなく、誰もいない。
クアットロには、いるはずなのに見えない――そんな状況を作り出すための『IS』がある。
IS――Inherent Skill(先天固有技能)
魔導師の中には、ウィルやフェイトのように魔力を特定の性質へと変換させやすいという、魔力変換資質を持つものが存在する。
ISはそれのさらに限定的なケースだ。体内の魔力の性質や流れが複雑に作用した結果、生まれながらにして特定の魔法に大きなアドバンテージを持つ者。
どのような魔法にアドバンテージを持つのかは、人によって異なる。射撃魔法や防御魔法のように、すでに技術として確立されている魔法に近しい場合が多いが、ISホルダー以外では再現できないような稀少技能まがいの場合もある。
クアットロは前者であり、効果は幻術魔法に分類される。
彼女は生まれた時から、息をするような気軽さで幻術魔法を展開できる。普通の魔導師なら周囲の状況や映し出す光景の性質を考え、デバイスの補助を受けながら構築するのに、彼女は自分の頭の中で描いた通りに、瞬時に数十の幻術魔法を並列展開できる。
そのISと戦闘機人として持つセンサーからの知覚が合わされば、生物の知覚はおろかレーダーなどの電子システムでさえも欺く世界最高の幻術魔法の完成だ。
クアットロが本気になれば、ほんの一メートルほど近くにいても、高性能なセンサーを多数搭載している次元艦船の船体に直接腰かけていたとしても、誰もクアットロに気がつくことさえできない。
あたかも、ディスプレイの中で繰り広げられる物語の登場人物が、それを見る観客を認識できないように。
そのISにつけられた名前は『銀幕――シルバーカーテン』
今のように映像を空間に投影するホロディスプレイが存在しなかった頃に、映像を投影するために用意された平面状の装置の名前からとられたそうだ。
ウィルは部屋の様子が監視されている可能性を考えて、視線を正面に戻して平静を装う。
先ほどアースラの船医が現れたことから、この部屋はアースラか、アースラにとっての拠点港である本局のどちらかにある可能性が高い。
クアットロがシルバーカーテンで姿を隠したまま念話で話しかけてきたことと合わせると、クアットロはこの部屋の主にとっては招かれざる客。監視されている可能性を考えれば、いないように振るまう方が良い。
『それにしても、あんまり驚かないのね。拍子ぬけだわ』
『このくらいでは驚かないよ』
もちろん驚いていた。それを表に出すのを良しとしなかったのは、監視されている可能性があるからだけではなく、クアットロに驚かされるのは癪だという子供じみた対抗心もある。
『じゃあ、次の質問。どうやってこの部屋に入って来たんだ?』
この部屋唯一の扉は、ウィルのベッドを基準に右側にある。扉が開いたのは、老医師が入退室をおこなった二回のみ。扉は大きくないので、高確率で老医師にぶつかってしまう。
『ああ、それならセインちゃんに頼んだのよ。ほら、ご挨拶』
『はじめまして、ナンバーズ六番、セインです』
『これはご丁寧に。ウィルです。聞いてるかもしれないけど、縁あって昔ジェイル先生にお世話になってたんだ。セインちゃんは翡翠みたいな綺麗な髪の子だよね? 調整ポッドの中に入ってたのを見かけたことがあるよ』
『綺麗って……へへ……』
『うわ、私の妹チョロすぎじゃなぁい?』
声だけだが、クアットロの呆れ顔が目に浮かぶ。
『セインちゃんのおかげって言っていたけど、やっぱりISの能力で?』
『そうそう! 私のISは――』
『素直に教えても面白くないわよ。どんなISか当てられるかしら?』
クアットロが割って入って唐突に問題を出す。
とはいえさほど難しい問題ではない。気付かれずに部屋の中に現れる能力は限られている。
『転移系だろ?』
『ざ~んねん、ハズレよ。正解は物質透過よ』
『え? ……本当に?』
予想外の答えに驚かされる。
一般公開されているような魔法にそんなことが可能なものは存在しない。
どうやらセインのISは既存の魔法の延長線上にあるものではなく、まねのできない稀少技能に近いようだ。
『ところで、何でクアットロは俺の居場所がわかったんだ?』
『私たちは反応を辿ってあなたを見つけただけよ』
『反応? なんの?』
『誕生日プレゼントであげたチェーンのことは覚えている? あれにはヴァイタルデータの計測とか、そのデータの送信をおこなう機能がついていたのよ。便利でしょ?』
『……は? ……ちょっと待って…………とりあえず、持ち主が知らない機能に便利も何もないよね? っていうか、俺のデータを取ることの意味がわからなくて怖いんだけど!?』
『えぇ~、だってぇ、去年みたいにどこか知らない世界で行方不明になられても困るしぃ』
プライバシーも何もあったものではない。
なんだかんだといってプレゼントが貰えたことが嬉しくて、なるべく身に着けていた。というより、デバイスを身に着けるためのチェーンなのだから基本的に外すことはないし、寝る時は手の届く位置に置いてあった。風呂場以外では四六時中そばにあった。
ヴァイタルデータだけならまだしも、もし音声等も送信されていたらと考えると恥ずかしくて顔も合わせられない。
『どしたの? ご機嫌斜めねぇ』
『……もう二度とつけないからな』
『でもそのおかげであなたが重症を負ったことや、本局に運ばれたこともわかったのよ? 大まかな場所しかわからないし、チェーンも治療の途中で外されていたみたいで、探しだすのに半日かかっちゃったけれど』
『本局? やっぱりここは時空管理局の本局なのか』
『ええ。そしてこの部屋はL12エリア――ネットワークにおいてはおけないような、紙媒体の法務資料が保管されている区画にある空き部屋の一つよ。普通の局員じゃこのエリアに入るのも一苦労でしょうね』
本局を利用していることから、ウィルを運び込んだ者は管理局の人間。部屋の場所から、法務系の高官が関与していることがわかる。
病棟を利用していないのは、秘密にしておきたいからだろうか? ならば、その理由は?
『この部屋を利用しているのが誰かはわからないか?』
『そこまでは無理ね。ウーノお姉さまかドゥーエお姉さまのお力を借りれば、それもできたのでしょうけど。でもそのためにウーノお姉さまにドクターの元を離れてなんて言えないし、ドゥーエお姉様にはここまでの大まかな経路を教えていただいたから、これ以上手を貸していただくなんて恥ずかしくってできないわぁ』
数字の一を表すウーノという名をつけられたのは、戦闘機人の最初の完成体。常にスカリエッティのそばにいて、彼の身の回りの世話と研究の補佐といった、内向きの仕事を任せられている。
数字の二を表すドゥーエという名をつけられたのは、戦闘機人の二番目の完成体。交渉や諜報など、外向きの仕事は彼女の領分だ。
どちらも、ウィルが初めてスカリエッティに出会った頃からいる古株だ。
ドゥーエのことを語る時、クアットロは家族を誇る少女のような幼さを見せる。父を尊敬していた、子供の頃のウィルのような。そういうところがあるからウィルはクアットロのことを嫌いになれない。
『私、ドゥーエ姉には直接会ったことないんだよね。どんな人?』
セインの問いかけ。念話の声だけで首をかしげる動作が見えるようだ。
『素敵な人よ。私の憧れでもあるわね』
『簡潔に言えば、三倍に濃縮して熟成させたクアットロだ』
『えっと、つまりクア姉の成長したような人ってこと? …………うわぁ』
セインは珍獣を目撃したかのような、えも言われぬ声をあげた。
『さて、こっちのことは教えたんだから、そろそろそっちのことも教えてほしいわね』
好奇心を隠そうともせず、クアットロが尋ねる。
ウィルは一連の出来事を包み隠さずに話した。語りが進むと、反応するセインの声のトーンが落ちた。気にかけていた子がよりによって仇の関係者で殺されかけた、という話に対する反応としては非常に常識的で癒しさえ覚える。
一方、クアットロは愉快そうに笑い始めた。
『それでそのはやてって子が闇の書の主で、その子と一緒に暮らしてたのがヴォルケンリッター? ほんと馬っ鹿みたいな話ね。仇相手にプレゼントとか送ってたの?』
念話は意識して伝えようと思わなければ届かないのに、クアットロはわざわざ愉しそうに笑う声をウィルへと届けてくれる。その親切心へのお返しに、心の中でこっそりと呪いの言葉を唱える。
『あぁ、お腹痛い。その馬鹿で腕まで失ったらどうしようもないわね』
『でも、いろいろと良い経験もできた。腕一本と引換にしても惜しくはなかった……かもしれない』
『はっきりしないわねぇ』
『そうでも思わないとやってられないって気持ちもあるから』
収穫があったことは嘘ではない。
走者が己のスタミナの限界を把握しているように、己の限界を知り、敵との力量差を把握できたのは得難い経験だ。
力はまるで足りていない。だが、どれほど足りないかもわからないほどではない。ならば、不足分を満たすための方策をこれから考えていけば良い。
『ふぅん……で、これからどうするの? 逃げるつもりなら、私たちが帰るついでに連れて行ってあげるけど。セインちゃんもできるわよね?』
『うーん……人間二人くらいなら、なんとか』
ウィルは考えこんでいるように見せるために、目を閉じた。
しかし、悩むまでもなく方針はとっくに決定している。このままスカリエッティの元に単身逃げこむのは、コインを投げて表が出ることを望むような運試しだ。
ウィルはスカリエッティの能力への尊敬と信頼の念を欠かしたことはないが、人格と倫理感を信用したことはないし、好奇心で発揮される安定しない親切心に期待をするのは危うすぎる。
たっぷり十秒ほど間を置いてから、再び念話を再開する。
『少し待ってほしい。俺をここに連れてきた人がどんな思惑を持っていようが、助けてもらったことには変わりない。お礼くらいはしておかないと』
『義理堅いわね~。……まさかそれが本心ってわけじゃないでしょうね?』
管理局の人間でありながら独自に動き、管理局が来る前にウィルを回収したとすれば、その人物は闇の書のことをあらかじめ知っていながら秘密裏に動いていた可能性が高い。
『……相手の目的を知っておきたい。闇の書の力を利用しようとしているのか、闇の書を破壊しようとしているのか、それを見極めないと。医者は近いうちに会いに来るらしいことを言っていたから、もう少しだけ本局にいてくれないか?』
『一日くらいならいいわよ。そうと決まれば、しばらく本局観光をして暇をつぶしましょうか。セインちゃん本局に来るの初めてよね? 一緒にショッピングしましょう』
『やった! あ……でもお金持ってきてない……』
『気にしなくて良いわよ。ウィルに出してもらうんだし』
『え!?』
『人を働かせるんだからそのくらいは当然でしょ?』
『…………お手柔らかにお願いします』
やがて二人からの念話が届かなくなってから、ウィルはベッドに寝転がって大きくため息をついた。これで最低限の保障は手に入った。次は、この絵を描いた者の懐にどれだけ深く切り込めるかだ。
自分の預金の行方は気にかかるが、さすがに一日では限度額もあるから大丈夫だろう。
それにもし仮に預金が全部使われてしまったとしても、闇の書さえ滅ぼすことができれば、どうだって良いことだ。
部屋の扉が開き、管理局の将官服を着た初老の男性と、彼に付き従う二人の年若い女性が入って来た。
初老の男性がベッドの横へと歩み寄る。体幹を揺らさないその歩き方は、彼がかつては実戦で戦う魔導師であったことをうかがわせる。お固い将官服を規則通りに着用していながらも、洗練された優雅と洒脱を兼ね備えていた。
付き従う二人の女性局員は男性の副官なのだろうか。印象こそ異なるが、互い双子かと思うほど似通った顔立ち。
ウィルは半身を起こして彼らの方を向き背筋を正そうとするが、傷口にはしる痛みに顔をしかめる。
男性は落ち着きはらった声と態度で、やんわりとウィルの行動をたしなめる。
「無理に動かなくてもかまわない。目覚めたばかりのきみに面会しようなど、非常識なことだとはわかってはいる。しかし、わからないことばかりで気が気でない状態では、きみも落ち着いて休めないのではないかと思ってね。無論、失礼ならおいとまするが」
「お心遣いに感謝します。ですが、英雄ギル・グレアムとお会いできるなんて、望外の光栄です。無理をする価値はあります」
「私を知っているのかね?」
驚いたような言葉とは裏腹に、男――グレアムは眉一つ動かさない。対して、ウィルの声には熱がこもる。
「教本にだって載っている英雄の名前を忘れていたら、卒業を取り消されてしまいます」
ギル・グレアム。
管理局でも最難関とも言われる執務官、その彼らを束ねる執務官長、管理局の運営に関する諮問機関たる評議会のメンバー、支局の艦隊司令など、数々の重要な役職を歴任。現在は一線を退き、法務顧問官として局に勤めている。
一介の魔導師としても、指揮官としてもその功績は輝かしい。
直接会うのは初めてだが噂はいくつも聞いていた。その大半は、ウィルの友人であるクロノからだ。
「クロノからもお話は伺っています。良き師だったと」
クロノは士官学校に入るまでグレアムのもとで指導を受けていたそうで、彼のことを非常に尊敬していた。聞いてもいないのに話を聞かされて辟易したこともある。
グレアムは微笑みを絶やさずに首を横に振る。
「私はただ心得を伝えただけで、たいしたことはしていない。クロノを鍛えたのはこの二人だ。紹介しよう。リーゼロッテとリーゼアリア。私が若い頃から使い魔として公私を支えてきてくれた二人だ」
グレアムの後ろに控えていた二人の女性が頭を下げる。
彼女たちはグレアムの護衛も兼ねているのだろう。立ち居振る舞いにまるで隙がない。
「こうして直接話すのは初めてだが、私もきみのことは以前から知っていた。クロノやリンディ君から聞いていたのもあるが……きみは私の担当した闇の書事件の被害者の遺族だ。仕事上だが、きみのお父さんとも何度か話をしたことがある」
ウィルはうなずいた。グレアムは十一年前の闇の書事件の捜査司令だ。
元捜査司令としてのグレアムに聞きたいことは山のようにある。だが、今この時に聞くべきことは、また別にある。
「グレアムさんは俺に事情を説明するために来てくださった、と考えてもよろしいのでしょうか?」
「私はそのつもりだ。もっとも、きみが何を知りたいかによるが」
「では、グレアムさんの目的を教えていただきたいです」
「随分と漠然とした質問だ。まるで私が何かを企んでいるようだね」
ウィルがここにいる理由とグレアムが無関係なわけがない。クアットロからの情報がなくとも、グレアムが不審人物であることに変わりはない。
ウィルはヴォルケンリッターと遭遇して、戦い、死に瀕した。殺される直前に管理局に助けられたのなら、まずは事情聴取に捜査官が来るはずだ。
まだこれがリンディやクロノといった旧知の面子が来るのであれば、事情聴取と共に怪我を負った知人の様子を見に来たとも思えるが、いくら接点があるとはいえグレアムが来るのは不自然にすぎる。
そして、もう一つ。グレアムを疑う決定的な理由がある。
「では、質問を変えます。おれの友人に八神はやてってかわいらしい女の子がいるんですが、ご存じですか?」
「その子と私に関係があるのかね?」
「彼女の財産管理をしている人の名前が、グレアムと言うらしいんです」
グレアムという名前自体はそれほど珍しくはない。もしもはやてからグレアムの名前を教えられた時に、ギル・グレアムのことを思い出していたとしても、管理外世界のよく知らない国に住むグレアムおじさんと、管理局の偉人であるギル・グレアムを関係づけることはできなかっただろう。
しかし今は違う。
闇の書の主である八神はやてに密接に関わる人物と、かつて闇の書事件の捜査司令の名前が同じで、なおかつウィルが闇の書の守護騎士と接触した直後に会いに来た人物がまさにそのギル・グレアム。これがただの偶然であるわけがない。
所詮は情況証拠。確実な証拠は何もない。関係ないと言われればそれで終わり。
しかし、隠しておきたいのならば、他の人に捜査官のふりをさせてウィルのもとに寄越すくらいのことはするはずだ。わざわざ顔を出すあたり、グレアムは初めからはやてとの関係を隠すつもりはない。
正確には、外界との情報を遮断されている今のウィルに知られることに何の脅威も感じていない。
それならば、その油断を利用してなるべく大きく踏み込んで情報を得るまでだ。
その推測通り、グレアムは口の端を緩めると滔々と語り始めた。
「きみが気がつかないようであれば、隠し続けるつもりだったが……私の出身は地球でね。はやて君のご両親とは私の実家の都合で面識があった。こうなるとわかっていれば、偽名を使ったのだがな」
グレアムはウィルから視線をそらし、虚空をさまよわせる。何もない宙空に、過去の光景が広がっているとでも言うように。
その仕草が疲れきった老人に似ていて、目の前の人物が超人ではなく一人の人間だというごく当たり前の事実に、ウィルはこの時はじめて気がついた。
「あの子と私の出会いは、偶然の産物だ。私は管理局に所属しながらもたびたび地球に戻ることを許されており、地球にも友人がいた。闇の書事件を解決できなかった私は当時本当にまいっていてね。責任をとるという形で前線から退いた代わりに、少しでも人の力になって気を紛らわせようとしていた。他者を己の心の救済に利用しようという、救いがたい自己満足だ。その中で亡くなった友人の遺産管理を引き受け、その手続きとただ一人残された娘に会うために海鳴を訪れ、それを見つけた」
「……闇の書」
グレアムは微笑みながら肯定する。変わらない表情とは異なり、双眸には憤怒と悲嘆の入り混じった救われない渇きが宿る。
「私は管理局には連絡せず、独自に闇の書を調べ初めた。手始めに海鳴へと秘密裏に繋がる転送ポートを用意した。次に、親交のある管理世界の学者を内密に地球に呼び寄せ、闇の書を調べた。適切な施設は用意できなかったが、いざとなれば管理局ではできないような手段で調べるつもりだった。本当にどうしようもなければ、はやて君を殺して問題を先送りにすることも。そのような方法に手をつける前に、闇の書を止める方法を見つけることができたのは幸運だった」
呼吸が途絶する。さらりと語られたおぞましい言葉への怒りも、その後に語られた事実に塗りつぶされた。
にわかには信じられない。これまで何百年の間、誰も解決法を見つけられなかったのに。
「完全に暴走し無尽蔵に肥大化していく闇の書は手のつけようがないが、蒐集完了後、銀髪の女の姿となって暴走を始めた時点では、魔力こそ膨大なものの無限にも等しいはずの再生能力がほとんど機能していない。その間であれば、凍結魔法によって闇の書の機能を完全に停止させることができる。そのための凍結封印の式と専用デバイスの開発は終えている。後はヴォルケンリッターが蒐集を終えるのを待つだけだ」
「蒐集を見逃すつもりですか!?」
発した言葉は、自分で思っていた以上に大きかった。
闇の書が完成するまでには三桁を越える人が犠牲になる。その中には家族を持つ者もいるはずだ。蒐集を見逃せば、ウィルと同じように家族を奪われる者が大勢生み出される――たとえ必要だとしても、すぐに納得できることではなかった。
「蒐集による犠牲者の心配はしなくても良くなりそうだ。ヴォルケンリッターはきみを襲った翌日から蒐集を開始したが、今のところ死者は一人も出ていない。どうやら彼らは意図的に死者を出すことを禁じているようだ。このままうまくいけば犠牲者は最小限ですむだろう」
グレアムの言葉に安堵しかけ、最小限という言葉にひっかかりを覚える。
ウィルの頭に一つの疑問が浮かび上がり、同時に背筋を氷塊が滑り落ちる。たまらず疑問を口に出す。
「凍結するのは闇の書だけですか?」
「きみが想像している通りだよ。その段階になれば、もはや闇の書と主は不可分だ。闇の書を凍結すれば、はやて君も運命を共にする」
血の気が引く音を聞いた気がした。口の中が乾き、指先が冷たくなる。
怒りか、恐怖か。歯の根が合わずに、かちかちと音をたてる。歯を食いしばって震えを止め、さらに問い続ける。
「管理局には、まだ内密に?」
「幾人かの協力者はいるが、管理局そのものは関わっていない。最初から最後まで私の判断だ」
「……でしょうね。管理局がこのことを知れば、あなたの計画も頓挫して――」
「それはない。時間はかかるかもしれないが、最終的に管理局もはやて君を犠牲にする選択をとるはずだ。それ以外に解決の方法がないのだから」
半世紀を管理局で過ごした人物の言葉には、単なる憶測ではなく確信の響きがあった。
「なら、どうして隠しているんですか?」
「管理局にその決断を下させてはならないからだ。大衆が求める管理局は弱者と正義の守護者であり、被害者の多寡を計る天秤ではない。尋常の事件であれば事件の存在そのものを秘匿することもできるが、凍結した闇の書を管理し続けなければならない以上、いつまでも隠し通すことはできない。はやて君のような罪のない子供を犠牲にしたことが知られれば、管理局への信用は著しく悪化する。ようやく安定し始めた管理世界全体のバランスを崩壊させるわけにはいかない。不祥事には代わりないが、部下を死なせ復讐に狂った老人が管理局をあざむき独断で実行し、管理局は必死に止めようとしたが間に合わずに封印が為されてしまった、という形にした方が世界全体への影響は遥かに小さくなる」
語る未来の中ではグレアム自身も罪人として裁かれているのに、そのことに対するためらいはまるで感じられない。まるで管理世界全体を舞台にしたシミュレーションゲームの結果を述べているようで。
半世紀を越えて管理世界を見てきた彼の見ているものが、ウィルには理解できない。
「あなたは……いったい何のために行動しているんですか」
「大勢が犠牲になることを防ぎ、勇敢なる局員に降りかかる脅威を取り除く。今の私はそれだけを思って行動している」
犠牲者の数を予測し、その期待値が最も低い道を選ぶ。それがグレアムの行動理念。
もしかしたら、あとちょっと待てば、ぎりぎりになれば、もっと良い方法が見つかるかもしれない。そんな希望を一蹴する、絶望に満ちた妄執。それがグレアムの原動力。
閃光のように煌めき駆け抜ける雷のようなプレシアや、掴みどころがなく名状しがたい混沌めいたスカリエッティとはまた別種の狂気。
目の前にいる人物は超人でも只人でもない。
凍結された意思を刃として振るう冷徹な管理者。まぎれもない魔人だ。
「長くとも二月以内に事態は収束する。きみはそれまでの間この部屋に監禁され、全てが終わった時には被害者として救出される。それまで不自由を強いるが、世界のためにおとなしく囚われていてほしい。……病み上がりに辛い話を聞かせてしまった。今は休みなさい」
一方的に告げて去ろうとするグレアムの背を見た瞬間、思わず声が出た。
「待ってください。……管理局以外の……たとえばロストロギアに関係する企業に協力を仰いで、今からでもはやてを犠牲にしない方法を模索することはできないんですか」
「いくつかの企業や国家とは知遇を得ているが、闇の書ほどの危険な代物を管理局に隠れて受け入れるようなまねができる所はない。古代ベルカの叡智を手にできるとしても、リスクがあまりに高すぎる」
「犯罪組織ならどうですか?」
「同じことだ。合法であれ非合法であれ、組織がこれほどの危険に手をだすことはない」
「……では、個人なら」
「私が協力してもらった学者も相当に優秀な人だったが、それでも完全な解決策はとても見つけられなかった。闇の書に対抗できる個人などいない」
頭の中で理性的な自分が警鐘を鳴らす。
スカリエッティのことを話してしまえば、闇の書事件が終わった後で自分に待っているのは破滅だ。いいや、自分が社会的に破滅するだけならかまわない。はやての命には代えられない。それに元から闇の書への復讐さえ果たせれば良いと考えて生きてきたのだ。たとえ命を失っても後悔はない。
だが、きっとグレアムはウィルとスカリエッティが個人的に付き合いがあるとは思ってくれないだろう。養父のレジアスがスカリエッティに協力していることまで知られてしまう可能性は高い。
その時、レジアスのさらに背後にいる者たちはどのように判断するのか。管理局の高官が大勢関わる恐るべき組織だとは聞いているが、それは失墜してなおいまだに強い影響力のある英雄ギル・グレアムに対抗し得るものなのか。
このままグレアムに何も告げずに、クアットロたちに逃がしてもらうのが一番確実だ。
……けれど、その選択をした後でどうする?
管理局にグレアムのことを教えたところで、グレアムの発言が正しいのであれば彼らもはやての命と引き換えにする方法を選んでしまう。
ではスカリエッティに協力してもらい、闇の書、管理局、グレアムに続く独自の第四勢力になるか? 本当に? 子供の頃から世話になっているとはいえ、自分が頼み込んだだけでスカリエッティが喜んで協力してくれると? その妄想はあまりに楽観がすぎる。
ここでグレアムの譲歩を引き出し、協力を取り付ける。それは避けられない最低条件だと直感で判断した。
「もしも……そんな人がいて、渡りをつけることができるとしたら。グレアムさんはたとえ相手が犯罪者であっても、協力を得ることをよしとしますか?」
親父ごめん、と心の中で謝る。
「考慮するまでもない。不確定な可能性のために、犯罪者に闇の書のことを教えることはできない。管理局の未来を担うべき士官が犯罪者と繋がりを持つのは感心しないが、今は聞かなかったことにしよう。きみは意識を取り戻したばかりで、うまく頭が働いていないのだろう。ゆっくり身体を休めると良い」
グレアムは話は終わったとばかりに再びウィルに背を向ける。
「なら、俺とあなたは敵同士ですね。俺ははやてを見殺しにはできませんから」
グレアムはウィルに向き直り、笑う。
「敵? 重傷を負い、デバイスを持たず、この部屋から出ることさえできない。きみは私の敵ではない」
「でしょうね。でも、もしも、万が一……俺がここを脱出できたなら。その時にはあなたの計画を白日のもとにさらして、味方になってくれる人を募って必ず全てひっくり返します。そして――」
これから語るのはただのハッタリだ。相手の協力を得るための恐喝だ。
けれど、溢れる感情の奔流とともに、自然に言葉が湧き出てくる。言葉にすることで、ウィルは遅れて自分の中に渦巻く激情を自覚した。
「はやてを殺そうとするあんたらは、闇の書と同じで俺から大切な人を奪おうとする仇だ。闇の書と一緒に殺してやる」
宣言と同時に、リーゼロッテがウィルの隣に一瞬で移動。その指先がウィルの首筋に触れる。リーゼアリアは位置はそのままに、掌をウィルに向けていた。
ウィルは先生が――スカリエッティがよくやるように、不敵な笑みを浮かべ、彼のように語る。
「さあ、選んでください。俺を敵にまわすのか、まわさないのか――あなたの自由意思で」
二人の間には、分子一つさえ動いていないのではないかと錯覚するような静謐。
時間さえ忘れそうになった時、グレアムがようやく口を開いた。
「いざという時にそなえて、蒐集は続けさせる。何も解決策が見つからないようであれば、当初の予定通りにはやて君を犠牲にすることを受け入れる。きみがこの条件を飲むなら、私もきみの提案を受け入れよう」
「約束します」
即答するウィル。しかし納得しない者が二人。
「「お父様!」」
リーゼ姉妹が、同時に抗議の声をあげた。
ウィルの首に手をやるリーゼロッテが、先に続ける。
「こいつの言葉は、私たちの自滅を狙うハッタリです! こいつがここから逃げ出すことはできません!」
続けて、瞳孔を猫のように細めながら、リーゼアリアが言葉を紡ぐ。
「私はそうは思いません。彼の言葉には、ハッタリと一蹴できない何かがあります。彼はここから脱出できるような、何らかの稀少技能を保持しているのかもしれません。逃げられないように残りの三肢を折るか、麻酔で半覚醒状態のまま留めておきましょう」
「二人とも、手を下げなさい。私はカルマン君の発言をハッタリだとは思わないし、彼が逃げることを危惧しているわけではない。敵にまわさない方が良いと決定したのだよ」
グレアムはリーゼロッテとリーゼアリアを交互に見据え、やがて二人の手がゆっくりと下がる。
死地から生還した心持ちに、ウィルは大きく息を吐いた。と、その時ウィルの腹が大きく音をたてて空腹を知らせる。
「そういえば、きみは三日も何も食べていなかったのだな。すぐに食事を用意しよう。ああ、その前に――」
グレアムが突然、指を鳴らした。その音に重なって、目にも止まらない高速で魔法が構築される。部屋の片隅で青色の光が輝く。発声ではなく、フィンガースナップの音をトリガーワードとした、極小規模な魔法。
「うぅ」「きゅう」
グレアムの青い魔力光が消えると、何もないはずの空間がカーテンが風に揺らぐように歪む。
透明なカーテンの向こう側から、二人の少女がかわいらしい悲鳴をあげながら姿を現す。クアットロとセインだ。どちらも今の魔法で気を失っている。
黙って隠れて見ていたのは、単なる見物のつもりだったのか、それともウィルがスカリエッティのことを漏らさないように監視するつもりだったのか。何のアクションもなかったところからすると、きっと前者なのだろう。
問題は、いざという時の脱出方法も、スカリエッティへの連絡方法も奪われてしまったということだ。
「先ほどから何かがいると思えば、こんな子供だったとは。きみの言葉が持つ何かも、この子たちと関係があるのだろうね。きみの発言はあまりにも自信に満ちていた。何か保障がなければ、あのような言葉は出せない」
そう言って、グレアムは声もなく笑った。
ウィルの口が酸素を求める鯉のように動く。しかし、声は喉でつっかえて出てこない。空気だけが抜けて、ひゅうと笛のような音をたてる。
「では、食事をしながらこれからのことを話しあおう。もちろん、この少女たちも交えて、ゆっくりと」