潮風が混じった夜気が渦巻いては消える。
ヴォルケンリッターは、海鳴市港湾部にある倉庫群に到着した。対岸のガントリークレーン周辺は照明に煌々と照らされて明るかったが、仮面の戦士が指定した座標周辺には最低限の灯りしかない。
ヴォルケンリッターとほぼ同時に、二人の仮面の戦士も到着する。彼らはヴォルケンリッターが四人とも揃っていることを確認すると、近くの倉庫に入るようにうながした。
「途中で何があった?」
海風にあてられたせいできぃきぃと音をたてる錆びた扉をくぐりながら、シグナムがヴィータへ訊く。
「家に戻ったら、はやてがいなくて代わりにこいつがいたんだ。あたしたちがいない間に管理局の奴らがはやてを狙って来たのをこいつらが撃退して、それからこいつらの仲間がはやてを拉致して別の世界に連れて行ったらしい」
「認識の相違だな」前を歩む仮面の戦士が会話に割り込む。 「拉致ではなく、保護だ」
「ものは言いようだな」
ヴィータはふんと鼻を鳴らす。
仮面の戦士は足を止めることなく進み、淡い光を放つ転送ポートの前に立つ。
「八神はやてには、一足先に我々の隠れ家へと向かってもらった。ついて来てもらおう」
「今の私たちは、お前たちに従う他ないようだ。だが、主はやてにもしものことがあれば、その時は相応の報いを受けてもらうぞ」
「その心配はいらないわね。私たちも八神はやてのために動いているのだから」仮面の戦士の声と口調が、女性のものに変化する。 「いつまでもこの姿のままでもいられないのだし、姿くらいは見せましょうか」
仮面の戦士たちの姿が輪郭を失い、消失する。その後に現れたのは、十代半ばの容貌をした女性二人。リーゼロッテとリーゼアリアだ。
「若い女か……いや、まっとうな人間ではないな」ザフィーラが目を細める。 「そうか、お前たちは守護獣だな」
「この時代では使い魔っていうんだよ」リーゼロッテが転送ポートの中に入る。 「さ、ついて来て」
それからは、転送ポートで他の世界に渡り、渡った先からまた別の転送ポートでさらに他の場所、他の世界に渡る。公的機関が作った合法と思われるポートもあれば、隠された場所にひっそりと建てられている非合法と思われるポートもあった。
先導するリーゼ姉妹はまっすぐに目的地に向かっているわけではなく、意図的に遠回りをしているように思えた。その理由が管理局の捜査への撹乱なのか、ただの時間稼ぎなのか、それともヴォルケンリッターに現在地を掴ませないためなのかはわからない。
海鳴を離れてから一日が経過した頃。何度目かの世界間転送を終えて、転送ポートの外に出る。
転送ポートのある建物は鬱蒼と茂る森の中に立てられていた。木々の向こうに、なだらかな傾斜の山が見える。
「到着。ここは無人世界だから簡単に見つかることはないけど、ところどころに観測用のプローブが置かれているから、寄り道せずについて来て」
山のふもとにある洞窟に入る。なめらかな岩肌は、洞窟が人工物である証拠。一分ほど歩き続けると、岩の洞穴から銀灰色の金属質な通路へと変わる。突き当りにある扉が、リーゼロッテとリーゼアリアを認識して開く。
扉の向こうには広大な空間が広がっていた。壁がぼんやりと発光しており、正面にはさらに扉が続いている。
こちらが近づく前に、前方の扉がひとりでに開いた。扉の向こうから現れた男の姿を見て、リーゼロッテとリーゼアリアが眉をひそめる。
「あなた自ら出迎えてくれるなんてね」
「ゲストを歓待するのはホストの務めだからね」
現れたのは、紫の髪に金の眼の優男だ。白いシャツと品の良いスラックスを着たその姿は、世間を知らない良家の子息のようにも見える。しかし彼の金色の双眸は、金融市場の最前線で戦う投資家よりも、布教に燃える殉教者よりも、さらに強い光を宿していた。
暗闇の中にありて、他者の思いを自然と惹きつける魔眼めいた瞳をしている。
「はじめまして、ヴォルケンリッターの諸君。私はジェイル・スカリエッティという者だ」
いち早く魔眼の呪縛から逃れたシグナムが、スカリエッティに問う。
「お前が主はやてをさらったのか?」
「共犯者だが、首謀者ではない。私はそこのリーゼ姉妹の主からの依頼を受けた身だ。追加オプションで、人材を貸し出したり、このラボを隠れ家として提供してもいる」
「依頼とは?」
「八神はやて嬢と闇の書の治療さ」そう言い、ヴォルケンリッターに背を向ける。 「いつまでも玄関で話しているのも行儀が悪い。ついて来たまえ」
先に続く通路は、ヴォルケンリッター全員が横一列に並んで歩けるほどの広さを持っていた。
少し歩いただけで通路は終わり、前方にはまた新たな扉。スカリエッティが触れると扉が開き、四方の壁が黒色の小部屋が現れる。
まずはスカリエッティが入り、続いてリーゼロッテとリーゼアリアが続く。ヴォルケンリッターは躊躇するが、ここで踵を返したところではやては戻ってこない。意を決して部屋に入ると、後ろで扉が閉まり、部屋全体に魔法がかけられた。罠かと身構えるが、すぐにただの慣性制御だとわかり拍子抜けする。
「心配しなくても、これはただの昇降機(エレベーター)だよ。貴重なモノを搬入することもあるから、魔法が必要なのさ」
昇降機の壁が、突然色を変える。黒だと思っていた壁は実際には透明であり、先ほどまでの黒は昇降機が通る竪穴の色であったのだとわかる。
透明な壁の向こうには、地中に広がる大空洞があった。空洞にはドームのような建物がいくつか並んでおり、その外壁は淡い光を放っている。空洞の壁面近くでは藍色のカプセル型の機械がふわふわと浮きながら、何かの作業をおこなっていた。
幻想的な光景に見とれているうちにも、昇降機は秒速十メートルほどの速度で急速に下降を続け、すぐに大空洞の底に到着する。
再びスカリエッティが先頭に立つ。正面にあるドームへと歩を進める彼の後に、ヴォルケンリッターは警戒しながら続く。
「先ほど治療と言っていたな。どういうことだ? 主はやてはわかるが、闇の書の何を治療する必要がある」
シグナムの問いに、スカリエッティは変わらず軽い足取りで歩みながら、振り返ることなく答える。
「それは私が答えるべきではないよ。これから会う首謀者たちが、たっぷり教えてくれるだろう」
*
案内された室内には、机と椅子が数脚ずつ置かれており、談話室といった様相だった。机の一つで青年と初老の男が紅茶を片手に談笑している。
青年――ウィルは右手に持ったティーカップを下ろすと、椅子に座ったままヴォルケンリッターに微笑みかける。
「無事なようで何よりです。心配しましたよ」
仮面の戦士に連れて行かれた彼が、仮面の戦士の隠れ家らしいこの場所にいることは予想できていた。しかし、その態度は予想とはまるきり異なった。
彼は自らを殺しかけた相手と相対しているはずなのに、友好的であった。その態度にシグナムは強烈な違和感を覚えた。あの夜の戦いで見せた強烈な憎悪が、今のウィルからは感じられない。
しかし、そのことを追求している余裕はなかった。もう一人の存在が、ヴォルケンリッターの注意をより強く惹きつけたからだ。
「あそこまでしたのだ。来てもらわなければ困る」
たった一日前までヴォルケンリッターと戦っていた人物。グレアムが椅子に座っていた。
四人の全身を魔力が駆け巡り、騎士甲冑を形成。それぞれが自らの得物に手をかける。
可燃性のガスよりも危険な、ヴォルケンリッターの敵意が空間に充満する。だというのに、ウィルもグレアムも、そしてスカリエッティも、誰一人として戦闘の準備どころか警戒さえしない。
ウィルが椅子から立ち上がり、両腕を横に伸ばす。相手に向かって胸襟を開く――友好を示すジェスチャーが、妙に不気味に映る。
「落ち着いてください。おれたちはみなさんに危害を加えるつもりはありません」
グレアムもまた、敵意などまるで意に介さない様子で、優雅ささえ感じる仕草でティーカップをソーサーに下ろし、口を開く。
「昨日の私は、管理局の局員として“仕方なく”お前たちと戦わなければならなかった。だが、今日の私は管理局の局員ではなく、はやて君の後見人であるギル・グレアムとしてここにいる。カルマン君の言うように、お前たちと敵対する意思はない」
聞き覚えのある名前に、シャマルが目を見開く。ギル・グレアム――はやてがグレアムおじさんと呼ぶ人物の名前と同じだ。
グレアムはテーブルの上に乗っている端末に手をのばす。
「我々がなぜこのような手間をかけてまで、お前たちをここに連れてきたのか。それを教える前に、見てもらいたいものがある」
グレアムが端末のコンソールに触れると、部屋の中に大きなホロ・ディスプレイが投影される。
映しだされたのは、怒号と爆発音が鳴り響く戦場だった。大勢の魔導師が矛先を揃えて突撃し、魔法が放たれる。さらに後ろにずらりと並んだ砲台や空を飛ぶ船から、レーザーが発射され続ける。
それら全てはたった一つの目標に向かっていた。
「なんだ、これは」
それを正確に表す単語など、どのような言語体系にも存在しない。ありとあらゆる生物を無思慮に思いつきのままに混ぜたそれは、既知の生物のあらゆる特徴を持ち、どれにも完全一致せず、ただただ“化物”と抽象的に表すより他にない。
その姿は見るだけで怖気がはしるほどに醜悪で、強靭。山のように大きな体が身じろぎをするたびに、周囲の物体が吹き飛び消える。
立ち向かおうとする魔導師たちが、化物の触腕の一振りで四散。かい潜って近接を試みた魔導師を小さな触手が捕える。細い触手が魔導師の皮膚を破り、肌と肉の間を触手が蠢く。耐え難い激痛に、男の魔導師が女のように高い声で絶叫をあげる。やがて抵抗する力を失い肉塊となった魔導師は、ずぶずぶと化物に取り込まれていった。
質量兵器であろう砲台が化物を撃つ。放たれた熱線は化物の周囲に多重展開された巨大障壁を突破できない。続けて化物が放つ砲撃によって、砲台の半分が消失。残り半分は化物から伸びる触手が触れると、非生物と生物の中間ともいえる異形の魔砲へと変化して、かつての味方を撃ち放ち始める。
人の命が塵芥のように吹き飛ぶ、地獄が広がっていた。
「これは二百年前。今は第十九管理世界と呼ばれる地で、現地政府の軍隊と闇の書が戦った時の映像だ」
「な……!」シグナムは呆然、そして激昂する。 「この化物と闇の書に、いったい何の関係がある!」
「これが蒐集が完了した後に闇の書を待ち受けている運命だ。蒐集が完了した闇の書は異形の化物となって、無差別な破壊を始める。そこに書の主の意思が介在する余地はない」
何を言うべきかわからない。出鱈目をと一笑に付すか。馬鹿なことをと憤るか。告げられた事実は、どちらもできなくなるほどに突拍子がなかった。反論するより先に、もう一度ディスプレイを見る。破壊の限りを尽くす化物――これが闇の書?
「闇の書は、蒐集しなければ主の体を蝕み、蒐集で多くの人々を傷つける。しかし、管理局が最も恐れているのは、ヴォルケンリッターによる蒐集などではなく」指でディスプレイを示す。 「蒐集が終わった後に現れ、無尽蔵の魔力を用いて世界を破壊するこの化物だ」
ディスプレイの中の化物はさらに暴れ続ける。周囲の地形が崩壊。山脈は消え、海洋は枯れ、大地を、雲海を、動物を、機械を、魔導を、この世界に存在するありとあらゆるモノをあまねく全て取り込んで、その体躯を指数関数的に肥大化させる。
「この時の映像はここまでだ。伝聞によると、質量兵器による飽和攻撃で闇の書を破壊したが、その代償に星の四分の一が人の住めない土地になったと言われている」
「この映像が本物だという証拠は?」と、ようやくザフィーラが問う。 「これだけでは本当に闇の書と関係があるとは言い切れない」
「映像はこれだけではない。嘘だと思うなら、これ以外も見せよう。その中には、お前たちの覚えのある光景もあるはずだ」
新たな映像が映し出される。
戦いながら蒐集するヴォルケンリッター。対する相手の衣装は、知識ある者が見れば百年以上前――黎明期の管理局の服だとわかる。
局員の奮戦むなしく、ヴォルケンリッターによって頁が埋められ、闇の書は完成。主が闇の書を起動させようとした途端、書から闇色の閃光がほとばしる。主の姿が化物へと変化して、慌てふためくヴォルケンリッターさえも巻き込んで、先ほどの映像と同じように周囲を破壊し始める。
「これは管理局と闇の書が始めて交戦した時の記録だ。この後、近隣宙域に待機していた管理局の艦船が、対消滅砲アルカンシェルによって周囲の空間ごと闇の書を消滅させた。以来、管理局は闇の書が暴走した時に備えて、事件を担当する艦船にアルカンシェルを装備を義務付けるようになる」
「こんな映像は嘘っぱちだ! たしかに、こんな戦いがあったことは覚えてる! でも、あんな化物は現れなかった!」
ヴィータが叫ぶ。いつも以上に大きな声で強気に否定するのは、不安の表れか。
「では、お前はこの時の戦いがどのように終わったのか、覚えているのか?」
「それは……覚えてねーけど……でも、今の映像だと蒐集が終わった後もあたしたちの何人かが残っていた! この映像が本物なら、あたしたちの誰も化物のことを覚えてなかったなんて、おかしいじゃねーか!」
「そうでもないさ」
今まで黙っていたスカリエッティが突然発言した。いつの間にか椅子に座っており、新しいティーカップに紅茶を注ぎながらヴィータに答える。
「きみたちヴォルケンリッターは、それまで肉体が消失しているにも関わらず、過去の記憶を持ったまま新たな主のもとに作り出される。つまり、きみたちは消滅した時のバックアップとして、記憶をはじめとした様々な固有情報を定期的に闇の書へと保存しているわけだ」
その指摘は事実だった。その特性ゆえに、ヴォルケンリッターは自分が死ぬ瞬間の記憶を持たない。
ピッチャーからミルクを注ぎ、スプーンでかき混ぜる。世間話をしているような気軽さで、話を続ける。
「蒐集後の暴走が書の主やヴォルケンリッターでさえも止めることはできないという事実は、暴走中の闇の書は外部からの操作を受け付けないことを証明している。そんな状態の闇の書が、ヴォルケンリッターという外部からの記憶情報を受け取らなかった。ありえないことではない。他にもいくつか仮説はあるが……ふむ、この紅茶はグレアム君が持ってきたのかい?」
話している途中でスカリエッティの興味は紅茶に移ったようで、グレアムに紅茶について尋ね始める。グレアムに無視されると、スカリエッティは机の上のビスケットを食べ始めた。ウィルでさえ緊張した面持ちでいるというのに、スカリエッティ一人だけが場違いなほどに緊張感を持っていない。
それから、時の流れに沿って、管理局が担当した闇の書事件の映像が流され続けた。闇の書が事件を起こすスパンは十年から二十年。管理局が設立してからは百五十年と少し。管理局と闇の書が関わった回数は、両手で数えられるほどだ。
数々の映像の中には、十一年前のグレアムたちとヴォルケンリッターの戦いの映像も含まれていた。その戦いの結果は、分断されたヴォルケンリッターが各個撃破されて終わった。
再び画面が切り替わる。漆黒の宇宙空間に、数隻の次元空間航行艦船が陣形を組んで整然と進んでいる。いや、その内の一隻のシルエットは他の艦船と比べて明らかに異質だった。映像はズームアップ、その一隻を大写しにする。
「私がきみたちと戦った後の映像だ。闇の書とその主を輸送していた巡航艦エスティアが、闇の書の暴走によって機能を停止した」
巡航艦エスティア。白銀に輝く外観は、木の根にも血管にも見える無数の触手にまとわりつかれていた。触手がまだ届いていないシャトルベイから、数隻の脱出艇が飛び出す。映像が早回しになる。触手が艦船の大部分を侵食する。一方、シャトルが急速に艦から離れていく。
時間表示では半時間後、宇宙の闇を裂いて一条の光がエスティアに突き刺さる。それは一個の魔導弾頭が描く軌跡。着弾と同時に、魔法を構成する式が開放される。無数の魔法式が弧を描き、闇に包まれた宇宙空間に円環の虹が現れる
世界が歪む。桁違いの魔法が、半径百キロメートルを超える空間を歪曲させていた。音のない宇宙空間を映しているはずなのに、見る者は空間そのものが発する絶叫をはっきりと感じた。
時間にして一分。エスティア周辺の宇宙空間に、再び漆黒が戻る。エスティアはおろか、歪曲された空間内に含まれていたデブリや岩石でできた小惑星、その全てがこの世界から消えてなくなっていた。目に見えない微粒子になったのではなく、対消滅による完全な消滅だ。
「私はアルカンシェルによって、エスティアを消滅させた。この時、二名の乗員がエスティアと運命を共にした」
映像が消えると共に、部屋から音が消え去った。呼吸音すらしない。誰もが息をすることさえ忘れて、映像に見入っていた。
「……どうして?」沈黙を破って、シャマルが問う。 「これだけのことがわかっていたのに、どうして私たちがはやてちゃんのもとに現れた時に教えてくれなかったの?」
「遅くなったことは謝罪したい。初めは、ヴォルケンリッターに人間らしい意思があると信じられなかったからだ。お前たちがはやて君のもとで人のように生きていることを知ってからも、口で伝えるだけでは信じてもらえるとは思えなかった」
シャマルは沈黙した。映像として見せられた今さえ、容易には信じられない――信じたくない。言葉だけでは信じられたかどうか。
「これらの映像は厳重に保管されており、かつて捜査司令であった私でさえ、必要がなければ持ち出すことを許されていない。そこで私はお前たちが蒐集を始め、管理局が事件の解決に乗り出すのを待った。幸いにも今回の闇の書事件の主要捜査員には、私と旧知の仲の者たちが選ばれた。彼らに接触し、協力するふりをして闇の書に関する映像を複製するのは造作も無いことだった」
グレアムの説明が終わると、もう誰も問いを発さなかった。
見せられた光景、紡がれた論理。それを打ち崩すだけの言葉は誰も持ち合わせていなかった。
やがて、ヴィータがグラーフアイゼンを取り落とした。シャマルは押し寄せる嘔吐感を抑えるように口元に震える手をやる。ザフィーラは犬歯をむき出しにして、耐えるように歯を食いしばる。
誰もがうちひしがれていた。この瞬間に襲われたとしても、ろくな抵抗もできずに倒されてしまうだろう。もしかしたら、襲われることを望んでいたのかもしれない。そうすれば、先ほどの映像はヴォルケンリッターを動揺させるための罠だと思い込むことができるかもしれない。
だが、誰もそのようなことはしなかった。
明かされた事実は、ヴォルケンリッターから希望と誇りを奪い取った。
身に刻まれた使命のせいだとはいえ、多くの人々の命を奪った。それが主のためであったなら、忠義と言い繕うこともできた。だが、その実はまるで逆。蒐集の完了は主の死と同義であり、ヴォルケンリッターの活動は主の死期を早めていただけであった。
何人、何百人、何千人、何万人。あの化物がやった分も含めれば、その数は億に届くかもしれない。それだけの人々をただ殺しただけで、何も生み出せなかった。快楽殺人症のサイコキラーの方が、殺人者が満足するだけ意味がある。殺した自分たちも、殺された者たちも、誰も望まず、誰の目的も果たされない。犠牲に意味はなく、意義もたったいま失った。
何百年の時をかけて、無意味な殺戮を繰り返しただけ。屍で山を築き上げ、夜空に輝く星をつかみとろうとする愚行。
これまで彼らを支えてきたアイデンティティが、粉微塵に砕け散る。
耐え切れず、シグナムはその場に膝をついた。まるで、足元に積み重なった死者の手が、足首をつかんで引っ張ったかのようであった。
立ち上がろうとしても、足は六十キログラムにも満たない己の体さえ支えることすらできなかった。死者の手が足首だけでなく、腕や肩をもつかみ、シグナムを引きずり込もうとしているようだ。
このまま死者の重さに押しつぶされて、消えてしまうべきなのだろうか?――いいや、それは許されない。シグナムの脳裏に主のあどけない笑顔が浮かぶ。
部屋に甲高い金属音が響く。シグナムは硬質的な床にレヴァンティンをまっすぐに突き刺し、杖代わりとして再び立ち上がる。
ここで絶望に飲まれて、立ち止まることは簡単だ。だが、それは今を生きるはやての命をも諦めてしまうことだ。
はやては死を振りまいてきた自分とは違う。彼女は他人に注いだ愛情のぶんだけ、これからずっと、もっと、幸福になるべき人だ。死なせるなんて許されない。
「私は、主はやてを助けたい」
その言葉を待っていたというように、グレアムが満足気にうなずく。
「私は闇の書が引き起こす破滅を防ぎたい。はやて君が死なない方法があれば、それが最善だ。我々の利害はある程度は一致していると言える」
「何をすれば良い? ただ真実を告げるためだけに、私たちをここに連れてきたわけではないだろう」
「連綿と続く悲劇を阻止するには、はやて君とヴォルケンリッター、そして闇の書を、より詳細に解析する必要がある。そのためには、お前たちの自発的な協力が不可欠だ」
「わかった」即答。シグナムは続けて、血反吐のように言葉を紡ぐ。 「必要とあれば、私の体を最後の一片まで切り刻んでくれても良い。だから、お願いだ。主はやてを救ってくれ」
「わかった……と言いたいが、あいにく私の仕事は状況を作り出すまでだ。その願いは、この男にした方が良いだろう」
グレアムが指し示した先には、ビスケットを食べているスカリエッティの姿があった。彼は初めてその顔から笑みを消し、ヴォルケンリッターを見据えて口を開く。
「きみたちの願いは聞いた。このジェイル・スカリエッティ。無限の欲望の名前にかけて、きみたちに纏わりつく闇を打ち祓ってみせよう」
グレアムとは異なる種の、しかし勝るとも劣らない圧をもって、スカリエッティは願いに応える。口の端についたビスケットの欠片が、いささかならず雰囲気をダイナシにしていたが。
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「それじゃあ、行きましょうか。はやてもみなさんの到着を待ちわびていましたから、顔を見せれば喜ぶと思いますよ」
シグナムたちはウィルに連れられて、はやてに会いに行くためにラボの中を歩く。はやてはシグナムたちの半日ほど前に到着しており、ここに到着してからは検査を受けていた――と、ウィルは歩きながら語った。
「主はやては事情をご存知なのか?」
「いいえ。おれとあなたたちが戦ったこと、病気が闇の書のせいであること、あなたたちが蒐集をしていたこと。そのあたりの、はやてが悲しむような事実はでき得る限り伝えていませんし、これからも伝えるつもりもありません。……十一年前の、蒐集完了前の闇の書の暴走。その原因ははっきりとはわかっていませんが、グレアムさんやジェイル先生は、捕えた闇の書の主に大きなストレスがかかったことが原因なのではないかと考えているようです」
「闇の書が主の危機に反応したということか?」
「ええ。……確証はありませんよ。ですが、リスクはなるべく避けた方が良い。だから、はやてには必要な時が来るまでは、真実を伝えないことにしました」
「それなら、主はやてはこの事態をどのように捉えているのだ?」
ウィルやグレアムといった親しい人の言葉であれば、信用してもらいやすいとはいえ、はやては寝ているところを叩き起こされて、どこともわからない場所に連れてこられたのだ。それなりに筋の通った嘘でなければ納得できないだろう。
「このまま放置すれば、はやてが近い将来どうなってしまうか。遊園地に行った日に、石田先生がその予測される未来を教えてくれましたよね」
「ああ。覚えている」
ただの確認のように答えたシグナムとは対照的に、シャマルはわざわざその時のことを持ちだした意味を理解し、顔を青くして詰め寄る。
「まさか、伝えたの!?」
「ええ。石田先生からの話は、そっくりそのまま伝えました」
「でも、さっきは伝えるつもりはないと言ったじゃない!?」
「伝えないのは、闇の書に関することだけです」
シグナムも理解する。ウィルは、はやての余命が残り数ヶ月であることを伝えたのだ。
「それでは本末転倒だ。死期が近いという事実こそ、主はやての精神に大きな負担をかけてしまう」
「でしょうね。でも、管理世界でなら病気は治すことができる――そんな嘘を一緒に伝えれば、精神的負担は大きく減少するとは思いませんか?」
世界を移動できる船を造るだけの技術力を持ち、魔法という未知の力を持つ世界の医療は、管理世界に関する知識を持たないはやてには万能に見える。絶対に治るという嘘を信じこませることはたやすい。
死期が近いという影と、助かるという光。それらを隠れ蓑にすることで、さらなる闇からはやての目をそらさせるのが、ウィルの考えだった。
「他にもいろいろと質問されましたが、事前に知らせなかったのは、管理局に連れ出すための仕組みがばれかけたので、急遽予定を前倒しにしたから。みなさんと一緒じゃなかったのは、みなさんがはやてを確実に他の世界に連れていくために、管理局の目を引く囮になったからと、そんな感じでごまかしておきました。おれたちの方からみなさんに望むのは、できる限りいつも通りに振る舞うことくらいです。その方が、はやてが安心するでしょうから」
ヴォルケンリッターが何を考える必要もない。全ての答えがあらかじめ用意されていた。
手のひらの上で踊らされている感覚に不安と気味の悪さを感じるが、用意された状況がヴォルケンリッターの望むものでもあるため、反対する理由が存在しない。できることは、欺かれていないかと彼らを観察するくらいだが、用意周到な彼らは簡単に尻尾をつかませてくれはしないだろう。
シグナムは何かを言おうとして、ふと気がつく。
「ところで、その腕は?」
「ああ、右手ですか? 義手ですよ。一見だと、本物の腕のように見えるでしょう? 一皮むいたら、中身は機械ですけど――おっと」
ウィルは扉の前で立ち止まる。
「この扉の向こうです。……重ねて言いますが、くれぐれも闇の書のことは内密に」
***
一日ぶりに見たはやては、変わりないように見えた。ウィルとヴォルケンリッターに気がつくと、はやての顔にぱっと喜色が散るが、すぐに悲しそうになった。
はやては、ヴォルケンリッターが病気のことを知りながらも隠していたことを責めたりせず、むしろ隠し続けるのは辛かっただろうと気づかった。それから、自分の病気せいで迷惑をかけてしまったと、頭を下げて謝った。
シグナムははやての顔にそっと右手を伸ばして、頬に添える。
「気になさらないでください。主の御心をお守りできなかった、私にこそ責があります。どうか、この身の不忠をお許し下さい」
せめてもの慰めは、ひどく空虚に響いた。もしかしたら、真実を話すことなく、うまく慰める方法があったのかもしれない。しかし、シグナムにはそんなうまい方法は思いつかない。
はやてはシグナムの言葉を否定せず、「うん」とうなずいた。シグナムの言葉に納得したからではない。否定して自分に責任があると言い張れば、シグナムをさらに悲しませてしまう。そう考えたがゆえの優しい嘘だった。
主の年に合わぬ明敏さが無性に悲しく、それをさせてしまう己がどうしようもなく情けなくて、シグナムは造りだされて初めて、涙を流しそうになった。