舗装された山道。両端の木々が作り出す天然自然の梁(アーチ)の隙間から、わずかな月の光が差し込む。
夜の山中だというのに、夜気は微塵も感じられない。鼻孔に香る山の匂い、夜の音の響き、吹く風の肌触り、全てが先ほどまでと同じようで、どこか違う。何より目に映る光景は、彩度を変えた写真のように色褪せていた。
ここは結界。この領域に存在する生命は、結界の主が望んだ者のみ。そして入った者は出ることの能わぬ世界。今の主は白髪褐色の偉丈夫――ザフィーラ。彼がウィルという獲物を狩るために造った狩場だ。
跳びかかる野獣を思わせる前傾姿勢をとるザフィーラ。その姿がわずかに揺らいだ瞬間、ウィル目掛けて駆けていた。疾風のごとき俊敏さを生み出すのは、足元のアスファルトを砕くほどの踏み込み。両者の距離が一瞬で縮まる。
それが零になる前にウィルは飛行魔法で空に飛びあがり、上空の木の枝など意に介さずに折りながら上昇、木の梁の上に出る。空には刀剣より細い三日月が薄い輝きを放っていた。
続いてザフィーラも強く踏み込み、跳躍。そして飛翔。ウィルの後を追うようにして空中に上がるも、木々を抜けた瞬間に上から赤色の魔力弾四発が降り注ぐ。
スティンガーレイは威力こそ低いが、弾速が速いため回避は難しく、防御系魔法に対する貫通力にも優れているため防ぐことも難しい。これは相手の実力を探るための攻撃。この程度の攻撃も防げないようでは、敵は三流だ。ヴォルケンリッターであるはずがない。
そう――『ヴォルケンリッター』
ウィルは戦っている相手が“それ”ではないかと疑いながらも、確たる証拠を持っていない。敵の行使する魔法が古代ベルカ式の魔法体系に属するということ。そして“魔力の蒐集”という言葉を用いたという二点だけ。判断材料としては十分ではない。
そして、ヴォルケンリッターにしては活動を始めるのが早すぎることも、ウィルを躊躇させる一因。これまで闇の書に関する事件は、多少の差はあっても十五年から二十年周期で繰り返されており、ウィルもその年月を前提に自らを鍛えていた。
今はまだ前回から十一年しかたっていない。練習中の魔法もあり、今のデバイスにも愛着があるが時が来れば新調するつもりだった。つまるところ今のウィルは未完成であり、せいぜい二流止まり。一流の騎士と戦うほどの実力を持ちえていない。
不安が鎌首をもたげるが、余計なことを考えている余裕はない。真偽がどうであれ、この場を逃れなければウィルに未来はなく、結界によって逃亡が禁じられているのならば、敵を制するより他に道はないのだから。そのためにまず最初にやるべきことは対敵の力量の把握だ。ヴォルケンリッターにふさわしい実力を持たないようであれば、ただの騙りとして加減して打ち据えて捕縛できる。
ザフィーラは魔力弾を避けるどころか、防ぎもしなかった。四発全てを正面からその身に受けるが、まったくの無傷。突撃の勢いも微塵も衰えていない。ベルカ式にも、騎士甲冑と呼ばれるバリアジャケット相当の防護服が存在するが、それを身に纏っているとはいえ、尋常ではない防御力だ。
ウィルは後退をやめ、前進。同時にデバイスに魔力を通し、纏わせる。これは相手を傷つけても良いと判断した時のウィルの攻撃。魔力で相手の騎士甲冑を破壊し、剣による物理攻撃を確実に肉体へと伝える技。刃を返して峰を向けているのが、せめてもの良心か。
ウィルの剣に合わせ、ザフィーラも手甲に覆われた左拳をふるう。だが反応されることは想定内。
剣と手甲、どちらが有利かは明白だ。もしもザフィーラの拳の方が弱ければ、ウィルの剣が手甲ごと拳を砕く。逆に、ザフィーラの方が強くとも、デバイスのボディ(刀身)が傷つくだけでウィル自身は傷つかない。そしてデバイスはコアが損傷しない限り、魔力さえ通せばボディは再構成できる。
押し勝てば、腕を壊し体勢を崩した相手にそのまま続けて攻撃する。押し負ければ、素直に吹き飛ばされて一旦距離をとる。しかるのちにデバイスを再構成し、相手の実力に応じて攻撃方法を新たに選択する。ウィルにとっては、この一合も所詮は相手の実力を測るための単なる試金石に過ぎない。
油断はしていなかった。考えた上で常識的かつ合理的な戦法を選択しただけだった。
それでも、本物のヴォルケンリッターを相手どるには、あまりにも甘すぎた。
剣と拳がぶつかる直前のザフィーラの所作は、ウィルの予想を根底から覆す。ザフィーラは剣を鋼の手甲に覆われた拳でなく、ただの肉である掌で受け、そのまま掴み取った。
行動そのものは驚くほどのものではない。掌を開き、正面から剣を受ける。剣は止まる。そして掌を閉じることで、静止した剣を掴み取る――わかりやすく単純だ。が、鋼を肉で受けるなど誰が想像できるものか。
実力が足りなければ、ただいたずらに手を砕かれるだけ。それだけ自身の騎士甲冑に自信があったのか――違う。剣と纏わせた魔力を通して伝わった感触は、たしかに生身のものであり、騎士甲冑による防御は抜いている。
ようやく、ウィルは思い違いを悟った。あの手甲は攻撃のためでも、受けるためのものでもない。あれはただの装身具。対敵の真価は人体の極限を越えるほどの肉体強化。生半な金属など比べることもおこがましい金剛の体。騎士甲冑でさえも、彼にとってはおまけのようなもの。
極限まで鍛えられた肉体が、防御でなく攻撃に転じれば――危機感を抱き、距離をとろうとする。だが、それはかなわない。剣が――F4Wが相手に握られたままだから。
F4Wを手放して、なりふり構わず逃げることはできる。だがそんなことをすれば汎用デバイスを失い、残るのは両足にある加速用に特化したハイロゥだけになる。ウィルの力は大幅に削がれるため、選択としては論外。
構えられたザフィーラの右腕が静止し、震える。怯えでもなければ迷いでもない。限界までに引き絞られた弓が放たれる、その直前の弦と同じ震え方。
瞬間、ウィルはハイロゥを起動。一瞬だけ噴出された圧縮空気によって体が上へと持ち上げられるも、右腕は剣を握ったまま。したがって剣が碇となり、体が腕の長さ以上に剣から離れることを阻止する。それでもなお上に行こうとする体は、足を天に頭を地に向けさせ、一瞬の内に視界の天地上下が逆転した。
逆さまになったウィルの頭の下を、弩のごときザフィーラの右拳が通過した。赤髪の数本をかすめながらも、拳は空を切る。
空振って前傾しているザフィーラの後頭部に向かって、ウィルは右足を蹴り上げる。街灯でさえへし折る蹴撃が、ザフィーラの頭上に振り下ろされる。
直撃寸前に、ザフィーラはさらに前傾。白髪をかすめながらも、蹴りは空を切る。死角からの攻撃を見もせずに、最低限の動きで避けた。いかなる魔術を用いたわけでもない、実戦経験とそれに裏付けされた勘による行動だ。
空振って姿勢を崩したウィルに、今度こそザフィーラの攻撃が襲い掛かる。野生の獣の敏捷さで、前屈から全身をばねとしたアッパーカットへと移行。まともにくらえば、吐瀉物と血をまき散らす打ち上げ花火ができ上がる。
姿勢を制御するも、回避はできない、“してはいけない”
即座に左腕で体を守り――
樹の幹を力任せに折ったような、ひどく嫌な低音が響いた。
左前腕への衝撃はそのまま上腕に伝わり、守ったはずの体まで響きわたる。激痛が電流のように全身を駆け巡り、脳髄をしびれさせる。
耐えられず上空へと吹き飛ばされるウィル。追撃せんと追いかけるザフィーラ。しかしウィルはすぐさま姿勢を制御し、ハイロゥのジェット噴射を使って加速し、離れる。速度では勝負にならぬと判断し、ザフィーラは追撃せずにその場に留まった。
離れた場所で、ウィルはザフィーラに向き直る。その右手には剣が握られていない。それも当然か、ザフィーラにつかまれた剣から手を離さなければ、このように距離をとることはできなかったのだから。そしてザフィーラの手には、ウィルが残した剣が――ない。
ウィルの右手には腕輪――“待機状態”のF4Wだ。それは即座に展開され、剣となりウィルの右手に吸い込まれるようにおさまった。
逆さまの状態になってすぐのこと。蹴りを放つ前に、ウィルはすでにF4Wに待機状態に戻るように命令を下していた。ザフィーラの掴んでいた刃の部分――ボディは後から形成されたものにすぎない。待機状態に戻せば物質結合が解かれ粒子状態に変化し、デバイスの本体たるコアに収納される。これを利用し、ウィルはザフィーラの手から剣をとり返した。
しかし、ボディを収納して待機状態に戻るまでには一秒未満だが時間が必要で、その間にあまりに距離が離れすぎると動作不良を起こしてしまう。そこで、収納までの時間稼ぎのために蹴りを放った。その後のザフィーラの攻撃を回避しなかったのも同様の理由。あの時点ではいまだ待機状態に戻っておらず、回避のために離れると手元に戻ってこない恐れがあったから。だからたとえ攻撃を受けることになっても、ほんの少しでも長くあの場にいなければならなかった。
そこまで粘ってもデバイスが戻ってこない可能性もあったが、もはやそれは賭け。そしてウィルは賭けに勝ち、デバイスを取り戻した。もっとも、だからと言ってウィルが優勢になったわけではない。所詮は大負けを小負けに留めただけだ。
ウィルは周囲に気を配りながら、体の状態を確認。まずは殴られた左腕だ――と左を見て、思わず笑いがこぼれる。
腕の関節は肘と手首の二つにしかないはずだが、その自分の知識が間違っているのかと思わず考え込みそうになる。それほど見事に、前腕が――肘と手首のちょうど真中で折れていた。まるで初めからそこに間接があったとでも言うように。このまま前衛アートの展覧会に腕だけを並べられそうだと口元が緩んだ。笑いごとではないが、何事も過ぎたれば笑いに通じる。痛みもまた然り。
左手はもうこの戦闘では使い物にならないが、命の身代わりになったと考えれば上等。それに左手はウィルの戦闘スタイルの中では最もいらない物。
両足はハイロゥの制御のために必要。右手は剣を振るうために必要。左手はなくても戦える。
だがぷらぷらと揺れるたびに、激痛が左手から波紋のように広がるので、腕にバインドをかけ、左手を固定した。動くことがなければ少しは痛みも軽くなる。
それでも襲いかかる激痛は歯を食いしばって耐えれば良い。そう思い、痛みが消えるくらいに歯を食いしばった。……奥歯が割れるような音がしたので、ほどほどに食いしばることにした。
両者は互いに睨みながら、一定の距離を維持したまま向かいあう。ザフィーラはウィルの逃げる範囲を狭めるように近付き、ウィルは逃げる範囲が広くなるように後退するという、ちょっとした駆け引きを繰り広げているのだが、それでも先ほどの一瞬の攻防に比べれば、無限の時間にも等しい緩慢さ。
距離を保ちながら、マルチタスクで分割した思考の一部で距離の駆け引きを、別の一部でこれからどのように戦うべきかを考える。
確証こそないものの、相手の実力は十分すぎるほど。よって、ヴォルケンリッターを相手にしていると前提をおき、思考する。
まず、接近戦は論外だ。
敵の膂力と頑健さはウィルをはるかに上回る。さらには戦闘経験も極めて豊富だ。あれだけの頑健さを持っていながら、ウィルの蹴りを回避――それも即座に反撃に移るために最小限の動きで――できたことからも、そのことが見て取れる。
高ランクの魔導師でさえ、高い魔力にものを言わせたバリアジャケットと防御魔法を持つがゆえに、危機に対する感知能力が低い者は珍しくないが、そのような人たちとは文字通り住む世界、潜り抜けてきた戦場が違う。
攻、防、経験、全てにおいて上回る相手に対して接近戦を挑むのはただの自殺行為。
では、このまま距離をとるのはどうか。
ウィルの射撃魔法が通用しないのは先刻証明済みだが、相手もおそらく遠距離は苦手だ。ベルカ式は純粋な魔力のみを用いるような射撃系魔法に向いていない。反面、ベルカ式は物質の強化に優れるという特性があるため、必然的に魔法も物質を用いて戦う近接に特化したものになる。ミッド式の魔法も使える近代は比較的この傾向が小さいが、古代ベルカ式となればほとんど近接のみと考えて良い。
したがって距離さえ取れば、ひとまずの安心は確保できる――と考えるのは早計だ。
たしかに古代ベルカ式は近接特化だが、弱点とわかってそれをカバーしない者もいない。近年の形骸化した古代ベルカ式の使い手ならともかく、戦乱ただ中の旧暦では、優れた騎士は苦手な遠距離においても何らかの奥の手――切り札となる強力な魔法を一つ取得していたと聞く。
いまだ何かをしかけてくる予兆はないが、相手が本物のヴォルケンリッターであれば、当然持っているはず――と、ウィルは考えた。
事実、ザフィーラには奥の手がある。広域型拘束魔法『鋼の軛(くびき)』
数十メートルにも及ぶ槍にも似た拘束条が大地から現れ、突き刺した相手の動きを停止させる魔法。一度捕えられれば逃れることはできず、その光景は百舌の早贄かヴラド公の串刺しか。もしもこれが発動されれば、ウィルは回避さえできずに敗れる――が、両者が対峙する高度は上空の百から二百メートル。残念、届かない。
もう一つ、この軛を外見通り巨大な槍か剣のようにして薙ぎ払うという使い方もあるが、ザフィーラはそれをする気はなかった。大技とは生じる隙も大きくなるもの。高速機動型の敵に隙の大きな技を出すのは悪手だ。
そもそも、そこまでして倒す必要はないのだ。なぜなら、ザフィーラがシャマルに受けた指示では、対象の無力化はあくまでも“できれば”のことだから。
ウィルはザフィーラたちの背景を知らない。だから結論とそこに至る過程は少々異なることとなったが、すぐにザフィーラの狙いを看過した――敵が優先すべき目的は足止めである、という考え。
ヴォルケンリッターは四人組であると聞く。だとすれば残りの三人はどこにいるのか。もしも何らかの理由で男が先に仕掛け、後から来る増援を待っているのであれば――睨みあっている間に増援が来るのであれば――時間をかければかけるほど、状況が悪くなる。
だが、それだけならばまだ良い。なぜウィルに一人だけで襲い掛かってきたのか、その背景を考えた時、さらに悪い可能性が頭に浮かんだ。
海鳴には“高町なのは”がいる。ウィル以上の魔力量を持つ、彼女が。
目的が二つ存在し、双方とも逃したくない場合、各個撃破はふさわしくない。一人を確実に仕留めても、もう一人がその間に逃げる可能性がある。
ならば、手ごわそうな方に多くの戦力を振り分け、もう一方には時間稼ぎのために防御に優れた者を送りこみ、足止めさせる。そして手ごわい方を迅速かつ安全に倒し、返す刀で弱い方を倒す――悪くはない。
この考え通りなら、今ごろなのはが残りの三人に襲われていることもありえる。なのはは素質は高いが、実戦となるとまだ経験が浅い。これほどの使い手三人が相手では、もうやられているだろう。だが彼女は高い魔力による堅牢な防御魔法と、限定的ではあるが高い観察力による行動の先読みを持っている。守りに徹すればある程度は持ちこたえている可能性も残っている。
それでも、こうして睨みあっている間にもやられてしまうかもしれない。目的が蒐集ならばすぐに殺すことはないだろうが、それでも――
さすがにこれはウィルが深読みしているだけで、真実には微塵もかすっていないが、ウィルの視点からは妙につじつまが合ってしまうため、無視できない可能性として膨れ上がっていた。
数秒の葛藤の末、ウィルは結論を下し、ゆっくりと刃を返した。峰打ちをやめる、斬る、殺すという決断。ウィルは迅速かつ確実な決着のために、対象の殺害を決意した。
かすかに腕が震える。死んでも仕方ないと思って戦ったことは何度かある。ウィルには悪癖とでもいうか、余裕がなくなると手段を選ばなくなるところがある。不意打ちをしてでも、それこそ相手が死ぬかもしれないとしても、目的を達成しようとしてしまう。だがそれはせいぜい死ぬ“かもしれない”という可能性。明確に殺そうと思い定めていたわけではない。
それも相手が確実に怨敵ヴォルケンリッターであるというならともかく、ただ強いだけの犯罪者であるという可能性もまだある。だからだろうか、いつもなら復讐のことを考えるだけで体の奥から生じる熱が、今はまだ感じられない。
できれば殺したくない――そんな思いから、最後にウィルは相手に念話を送った。
≪おれの方が重傷なのに、こういうことを言うのは非常にかっこ悪いんだけど……投降するつもりはない? これ以上やるなら、命の保証はできない≫
≪愚問。戦場は生命をかけるもの。失う覚悟なしに出て来はしない≫
使う魔法にふさわしく、考え方も古風。きっと、この意志は曲がらない。
≪そうか。なら――≫
理性を強制的に遮断する。全霊をただ殺害のためにかける。
殺すとは言わない。本気の殺意は、まず最初に自らの言葉を殺すと知った。
ウィルは剣を肩に担ぐ。
どれだけ普段策を弄していようが、結局のところウィルの最も信を置く攻撃は“これ”――突撃からの斬撃、だ。
まさにこのような状況――たった一人でも格上の敵に勝つために鍛えた。歪であろうとも、ただ一点に特化して鍛えれば、もしかしたら自分の力だけでヴォルケンリッターを殺せるようになるかもしれない。そんな願望を込めた技だ。
理念は単純にして明快。目で捕えられないような、高速移動。捕えられたとしても、なお相手よりも早く到達する剣閃。防がれたとしても、守りごと相手を切り裂く重さ。
一撃、必殺。
ウィルは駆けた。生みだした光輪と全ての音を置き去りにして。軌跡さえも残さない。
魔力を力に転じ、力は速さを生み、速さは威力へと変わる。ただ光のごとく最短距離を進み、万難排して敵を裂く。
ウィルが動いたその直後、ザフィーラは動物めいた直感に従い、迷うことなく防御を選択。前方に障壁を展開。
急速に拡大する互いの姿を確認しながら、ウィルとザフィーラは互いに相手の目を見る。目蓋を閉じるのは決着がついた後と思い定めて、目を見開く。
ウィルが駆ける。ザフィーラが待つ。
ウィルの右手が動いた。いままさに放たれんとする刃はどこを狙う。唐竹か袈裟か逆袈裟か胴薙か――袈裟!
超音速から繰り出された斬撃。その全力になおザフィーラは反応した。自身の左上方から袈裟切りにせんと迫る剣に、左腕を折り曲げて盾とする。
ここまでは互いに十全。矛が勝つか、盾が勝つか。それを決するのは互いの力量のみ。
刃はザフィーラの障壁を飴細工のように砕き進む。手甲を砕きながらそれでも進む。刃はついにザフィーラの手首に食い込み、筋線維をひきちぎり尺骨を割りながらさらに進む。ついに手首を切り落とすも、肩に三寸食い込み――動かなくなった。
先ほどの光景の焼き直し。刃は肩に食い込んでいて、抜けない。
ザフィーラの右手が伸び、ウィルの折れた左腕を掴んだ。デバイスをつかまれた先ほどとは違い、もう逃げることはできない。だがザフィーラの右腕と同時に、ウィルの右腕もまた動きだしていた。剣から右手を離し、前へ伸ばす。つかむのは相手の顔。そして体ごと飛びこむ。
体当たりの衝撃はザフィーラとウィルに等しく訪れたが、体格でも防御力でも劣るウィルが受ける反動の方が大きい。しかしザフィーラも無傷とはいかない。衝撃で体勢は崩れ、ウィルを攻撃するのが少し遅れる。その少しで十分。突撃からの斬撃、そして突撃からの体当たりの二段構え程度で終わらせるつもりはない。
朦朧とする意識の中、ウィルは突撃の威力を緩めることなく、さらに加速した。
ザフィーラもウィルの意図に気付き、急いでウィルを突き放そうと膝蹴りを放つ。ウィルの腹部に直撃し、肋骨が数本折れて内臓を傷つける。跳ね上げられた横隔膜が痙攣して呼吸ができなくなる。だが、密着している状態では威力は減殺され、致命傷には至らない。そして胃の中身が撹拌されているかのような痛みは、逆に朦朧としていた意識を覚醒させてくれた。
ザフィーラは二撃目を放とうとするが、もう間にあわない。二人の戦っていた高度は百メートル程度。一人から二人に重量が増えたところで、一秒もたたずに“地面”との距離を零にできる。
もはや音など聞こえないはずの速度の中、ザフィーラはたしかに声を聞いた。
――堕ちろ
*
四人用の病室に二人きり。先ほどまでは看護師がいて、入浴時間について簡単に説明をしていたが、看護師が去った今は、はやてとヴィータの二人だけだ。この時期あまり入院患者はいないのか、そうでなければこの病室は急な入院患者が発生した時のために開けてあったのだろう。
はやてはベッドから体を起こして、ベッドの横で見舞客用の丸椅子に座るヴィータに話しかけていた。が、そのヴィータはと言うと、はやてではなく窓の外を横目で見ていて、心ここにあらずと言う有様。珍しい事態に、はやてはじっとヴィータの顔を見つめる。
ヴィータは先ほどからかすかに魔法の気配を感じていた。気配は一定で変化しないことから、空間生成系の魔法『封鎖領域』であることもわかる。だが、それ以上のことは距離が離れすぎていてわからない。
大学病院の位置は、なのはがぎりぎり気付いた高町家よりも現場からさらに離れている。だというのに、ヴィータが気付けたのは経験と環境の違いが大きい。
いついかなる時に敵が襲い来るかわからない戦いを生きて来た経験は、周囲の魔力の動きへの察知能力を高めた。そして、かつては魔法が日常的に利用されていた世界(環境)にいた彼女たちにとって、魔法を使われないこの世界は静かすぎる。静寂の中では衣擦れの音でさえ響くように、かすかな気配ですらはっきりとわかった。
何かが起こっていることはわかるが、ヴィータは動けないでいた。
それは魔法を感知する直前のシャマルからの念話。「ヴィータちゃんははやてちゃんの傍にいて」との一言があったから。
よくあると言えばよくあることだ。ヴォルケンリッターはその全てが主のもとに同列だが、個体ごとに役割はわけられている。主がいなければ将たるシグナムが決断を下し、シャマルが参謀として補佐する。総体としての意思決定はこの二人によってなされ、ヴィータやザフィーラには指示こそ与えられたとしても、理由が説明されないことはたびたびあった。
そのような時はだいたい、時間がなかったり、聞いても理解できなかったりするので、理由を教えられずとも怒ったりはしない。そも、はやての元から離れろという命令ならともかく、護衛を続けろと言う命令は当り前のこと。従わない理由はない。
だというのに――
(あぁもう! あたしはいったい、何にこんなにいらついてるんだ!)
だというのに、ヴィータは苛立っていた。何かはわからないが不快だ。心の内にもやもやがある。それが何なのかわからず、次第に苛立ちのボルテージが上昇する。
ヴィータは知らない内に体を揺らし、そのたびに丸椅子の四脚は病室の床でタップダンスを踊る。がたんがたがた。
「こら! ヴィータ!」
「え……うわぁっ!」
見かねたはやてが叱る声が、ヴィータを驚かせ体を硬直させる。しかし椅子が傾いた状態のまま動きを止めてしまったものだから、椅子はそのまま慣性と重力に導かれ、横に倒れる。
ヴィータ、倒れる前に椅子を手で強く押す。椅子はそのまま下に転がるが、反面ヴィータの体は宙に跳びあがり、そのまま屋根上から落下する猫のごとく体をひねり、ねじり、見事に足から着地した。
「おぉ~!」これにははやても思わず拍手喝采。 「って、そやなくて! ……この部屋に私らしかいないからって、うるさくしたらあかんよ。ここは病院なんやから」
「はぁい」
ヴィータはしゅんとなり、うなだれるながらも倒れた椅子をもとに戻そうとする。
その時、はやてがぽつりとつぶやいた。
「それにしても、シグナムもシャマルも遅いなあ……ま、病院の中やから心配いらんけど」
何気ない一言が、ヴィータの心にかかったもやを晴らした。
「心配……そっか。心配なんだ」
呆然としたかと思えば、妙に得心したような面持ちになって、ヴィータははやてに向かって言う。
「ごめん、はやて! すぐに戻って来るから心配しないで!」
「え? ちょっ――」
赤い閃光かという勢いで、ヴィータは病室を飛び出る。扉のあたりでやって来た石田先生とぶつかりそうになるが、器用に体をひねり避ける。「ごめんなさい!」とその言葉だけを残して、風のように駆けて行った。石田先生はと言えば、幽霊が自分の体をすり抜けたかのような驚き顔。
ヴィータはそのまま病院の外に出て、結界目指して飛んで行く。シャマルの予想は外れた。
長いつきあいでありながら、シャマルがヴィータの行動を予見できなかった理由は、変化をきちんと理解していなかったから。
たしかに以前のヴィータであれば、何が起こっていようと命令されれば主のそばは離れなかった。ましてや今代の闇の書の主たるはやては優しく、主従という関係を越えてヴィータははやてを慕っている。ならばなおさら、と考えるのも無理はない。
だが、それはヴィータとはやての関係しか見ていない考えだ。ヴィータと自分たちの関係を考えていない。
たしかに、かつてのヴィータはヴォルケンリッターの中でもとりわけ無愛想だった。長いつきあいと言っても、シャマルとシグナムの二人とはほとんど口を利かず、ザフィーラとは比較的一緒にいる時間が長かったが、それでも会話らしい会話はなかった。
常に苛立ちを抱えながら、日々を何も語らずにすごし、戦場の相手に苛立ちをぶつける――それが鉄槌の騎士ヴィータの、在りし日の姿。
シャマルが読み違えたのは、今は違うということだ。
今を生きるヴィータにとっては、シグナムもシャマルもザフィーラも、はやてと同じく大切な家族だ。それが帰ってこなければ心配だし、何かが起こっているのであれば、助けに行くだろう――心配だからだ。
そしてヴォルケンリッターだけではない。ヴィータはこの海鳴の街そのものが好きだ。一緒に公園でゲートボールをする老人たちも、はやてを治療するために頑張っている石田先生も、はやての友達のなのはたちも好きだ。この街で何かが起こっているのであれば、向かわずにはいられない――心配だから。
ウィルにやりたいことをやれと言った少女は、まさに今、心の向くままにやりたいことをやろうとしていた。
はじまりは他者の認識。世界が主と敵しかいないという認識をやめること。
それがヴォルケンリッターを変え、ヴィータを戦いの場へと向かわせた。
**
なのはは海鳴の夜空を飛んでいた。後方へと流れ行く街の灯が、地上の流れ星のよう。
魔法訓練のため、飛行魔法をはじめとするいくつかの魔法の許可はとっているが、市街地での飛行は他者に発見される危険があるため禁止されている。これで何もなかったと言うことになれば、何らかの処罰が科されることもあるだろう。
無論、それは杞憂にすぎなかった。向かうにつれて、魔法の気配が大きくなっていく。だが、それは近付いているからであって、気配の元自体は一定のまま。
訓練校での勉強の成果か、なのはは視認する前に、何があるのかを予想していた。気配とはつまり、魔法を行使することによって影響を受けた周囲の魔力の流れ――風のようなもの。砲撃魔法のように大きな魔法なら、行使するたびに強い風が吹きつけてくるが、今現在はと言えば、常にその方向からのゆるやかで定まった風が吹いてくるようなもの。ということは、ある種の場に影響するタイプの魔法であることがわかる。なら、その中で最も一般的な魔法と言えば――
やがて山際に到達したなのはは、空中で静止する。眼前には巨大な結界。
「やっぱり結界……でもこれ、ちょっと違う?」
『This field-magic doesn't come under the Mid-Childa system. (この結界魔法はミッドチルダ式ではありません)』
なのはの疑問にレイジングハートが答える。
「じゃあ、ウィルさんと同じベルカ式?」
『Maybe, but more ancient.(おそらくは。ですが、より古いものかと)
Do you want to analyze it?(解析しますか?)』
「うん、お願い」
『Roger.(了解)』
レイジングハートに解析をお願いしている内に、なのはは携帯を取り出した。恭也に言われたことを思い出す。まずは忍に連絡をとるためだ。事前に恭也が連絡していたおかげで、たった一回のコール音ですぐに電話はつながった。
「もしもし、なのはちゃん?」忍の声。
「あ、忍さ―― 『Master!!』 ――え?」
レイジングハートが警告するが、それはあまりにも遅すぎた――否、相手が早すぎた。携帯に意識がいった一瞬のうちに、影はなのはに近付いていた。
臓腑につきささる拳。拳の威力は、ちょうどバリアジャケットと相殺する程度。しかし直後に全身をかき混ぜられるような魔力の奔流が送り込まれ、衝撃は全身に鋭い痛みを走らせる。
なのはの体が崩れる。魔力ダメージによるブラックアウト。迅速かつ鮮やかな手腕で、なのはの体に傷一つ与えず、確実に意識のみを刈り取る。
『Ma――』
レイジングハートが何かを言う前に、襲撃者はレイジングハートのコアを握る。宝石にも似たコアにひびが入り、それきりレイジングハートは光を失って何も語らなくなった。こちらもまた迅速。
心拍一つの間に、魔導師とデバイスの双方を無力化させた。力なく垂れたなのはの手から携帯がすべり落ち、夜の山へと落下していった。
仮面をつけたその者は、なのはを抱えながら結界を見る。仮面はその下の表情を語らない。だが、直後につぶやいた言葉には、たしかな侮蔑が込もっていた。
「ヴォルケンリッターも詰めが甘い」
***
アスファルトで舗装された道路を、巻き上げられた煙が包み隠している。
中心地で、ウィルはよろめきながら立ち上がる。足元ではアスファルトが砕けて割れて、地面がスプーンですくわれたかのように、凹形にへこんでいた。
中心には気を失ったザフィーラの姿があった。左腕がなくなり、左肩には剣が食い込んだままだが、意外にもそれ以外に目立った傷はない。元来の頑健さだけではなく、衝突の瞬間自身の背後に障壁を展開し、威力を減殺させたからだ。
対してウィルはといえば、腹からせりあがる粘性の高い液体を、アスファルトに吐き出していた。液体は赤色――血液。衝撃がバリアジャケットを突き抜けて、内臓をさらに傷つけていた。体を動かすと折れたアバラが軋む。
右手を見れば、肘からは白い骨が突き出し、赤い血と重なって地獄のコントラストをなしていた。相手を地面に叩きつけた時の衝撃を一番大きく受けたのだから当たり前。ちぎれなかっただけでも僥倖。右手の指は――凝視すると正気度を失いかねない。
両腕とも二の腕までは動くが、肘から先は動かない。折れた左腕は管理世界に戻れば治せるだろうが、右手は完全な治癒は不可能に思えた。
両手が動かせず満身創痍のウィルと、左手はなくなっているがそれ以外に目立った傷はないザフィーラ。それでもこの戦いはウィルの勝ちだ。いかな強者とて気を失っていては赤子と変わりなく、ザフィーラの生殺与奪の権利はウィルにある。その一事をもってして、勝利は揺るぎない。
実力を考えれば、十度戦えば九は負けただろう。だが、その十の一が今。そして勝利は生で、敗北は死。勝率などという理論は存在しない。
周囲を見れば、主が気を失ったことで結界は解除されていた。なのはのことが気にかかるが、さすがにここから高町家は離れすぎていて、ウィルの念話では繋がらない。それにこの怪我で行っても無駄だろう。ならば早く月村のもとに行き、管理局に連絡をするのが優先か。それから傷の治療も――だが、その前に
――倒れているこの男を殺さなければ
いつ起き上がってくるかわからない相手。しかも次に戦えば必ず負ける相手を放置はできない。放っておけば手首からの出血で死ぬかもしれないが、魔導師の回復力を考えればそれに賭けるのも分が悪い。仲間がいるのなら、助けられて再び襲って来られても困る。
手っ取り早い方法は首を切り落とすこと。そうすれば人間ならもちろん、いくらヴォルケンリッターといえど、さすがに今回は復活できないだろう。両腕は使えないがやり方はいくらでもある。たとえば――
およそ狂人の思考を巡らせながら、ウィルは刺さったデバイスを待機状態に戻し、相手の肩から回収。そして再度デバイスを展開させようとする。
もしもこの時、真っ先に月村への連絡を優先させ、すぐさま最高速度でこの場を離れていれば、これからの戦いは回避できていたのかもしれない。なにせ速さだけなら、ウィルは“彼女”よりも上なのだから。
周囲の風景が色を変えた。再度結界が展開される。構成は先ほど同様、古代ベルカ式。
空を仰いだのはなぜだろう? ただ、なんとなく――なんとなく、天啓に導かれるようにして、ウィルは視線をついと上げた。
“彼女”はそこにいた。
「貴方を甘く見ていたようだ」
夜天より舞い降りる戦乙女。
佳人と言えるその容貌に見覚えがある。しかし、記憶の中の彼女と目の前にいる彼女は同じ人なのか。
記憶の中の彼女も、常日頃から険しい顔をしてはいたが、ここまで峻厳で怜悧ではなかった。
記憶の中の彼女の瞳は剣の鋭さを宿してはいなかったし、右手に一振りの剣など持っていなかった。
同じ造形で、何もかも違う。ただ、風に揺れる赤い髪だけが、いつもの彼女と――シグナムと変わらなかった。
体の底から、熱が湧きあがるのを感じる。