秋晴れの澄みわたる青空も、夕暮を迎えようとしていた。“女心と秋の空”などという言葉もあるが、言うほど簡単には変わりはしないようで、どちらも今日一日は快晴のままだった。
天気に恵まれたこともあり、一同は行楽を心行くまで楽しむことができた。まだ回っていないアトラクションや、夜のみのイベントもあるが、それほど外に出ないはやての体力を考えるとこのあたりが限度。今が楽しいからと無理をして翌日体調がすぐれないとなっては、せっかくの良い思い出も泥の中だ。
そのことを伝えると、それでは――と、はやては一つのアトラクションを指差した。
「最後はあれに乗りたいんやけど、ええかな」
何を指差しているのかは一目でわかった。このテーマパークで、最も大きい構造物――観覧車。
近付くにつれて、その巨大さがわかる。ビルやタワーのような、わかりやすい大きさとはまた違った味わいがあった。そこにあるはずなのに、ふとした拍子に背景に溶け込んで存在感がなくなる不思議な造形だ。
小さなゴンドラに乗せられ、円の軌跡に沿いながら天高く上昇し、再び地に戻ってくる。移り変わる景色を楽しむための構造は、どこか象徴的で概念的ですらある。この世を一度離れて再び戻ってくる――そんな臨死体験の隠喩だろうか。ならば生と死の狭間に存在するがゆえに、存在感があやふやなのか。
乗り込む時、係員がはやてが乗るのを手伝おうとする。が、それをやんわりと断ってウィルは自分ではやてを抱えあげる。ウィルはそのまま乗り込むと、はやてを自分の膝の上に乗せた。
「――――へぁ?」
呆気にとられたはやての、間の抜けた声。突然のことにシグナムたちも思わず固まるが、その間にもゴンドラは進んで行くので、文句を言う余裕もなく慌てて乗り込む。
結局、ウィルの正面にシグナム。横にヴィータ。斜め前にシャマルが座る。そしてはやてはウィルの膝の上で後ろから抱きすくめられている。
「な、なぁ、なんでこんな乗り方したん?」
尋ねるはやての顔は、夕焼けに照らされていることを抜きにしても赤い。
「五人で普通に座るのは、ちょっと狭そうだったから……って理由じゃ駄目かな。それとも、嫌だった?」
「別に嫌やないけど……」
観覧車は少しずつ地上を離れる。地面にいる人々が小さくなるにしたがって、周囲が静かになっていく。
はやてはウィルに抱かれて座っている。常日頃から鍛えているウィルの体はお世辞にも柔らかいとは言えず、ノミ市で二束三文の値で買いたたかれる安物の椅子の方が座り心地としては上等だ。それでもこの椅子には、無機物とは異なる暖かみがあった。添えられた腕ははやての小さな体躯を、情感を込めて包み込んでいる。
異性に抱かれているということへの恥ずかしさは、次第にはやての中から消えていった。なぜなら抱き方に、良人への愛撫ではなく、親がわが子を守護するような暖かさがあったから。両親を亡くす前のことを思い出したはやてはゆっくりとウィルに体重をかける。背から伝わる熱が少し恋しくて、暖を求める子猫のように体をさらに寄せる。
暖かさに包まれたまま、はやてはゆっくりと瞳を閉じた。
地上から切り離された個室の中、はやての寝息がかすかに聞こえる。
「寝ちゃったみたいですね」
シャマルが葉の触れ合い程度の声で囁くと、シグナムも声をおとしてうなずく。
「お疲れだったのだろう。天辺につくまではそっとしておこう」
沈黙。
ゴンドラは座席とフレーム以外が透明になっているので、夕日の赤で中が満たされる。暖かな静寂をやぶったのは、ウィルの囁くような、それでいてしっかりと耳に届く声。
「みなさんにお聞きしたいことがあります」
「なんでしょうか?」首をかしげながらシャマルが質問の先をうながす。
「あなたたちは“いつまで”はやてのところにいるつもりですか?」
「それは――」
剣の鋭さをもって突き立てられた問いに、シャマルは答えられなかった。彼女たちはヴォルケンリッターとして、いつまでもはやてを守り続けるつもりだ。しかし彼女たちは表向き、『グレアムおじさん』に派遣されてはやての世話にやって来たことになっている。なのにいつまでもいると言っても良いものか。さりとて嘘を並べるのも心苦しい。
シャマルがもちまえの優柔不断さを発揮してあれこれ思案しているうちに、隣のシグナムが答え始めていた。彼女はそのような背景事情をまったく考慮せず答える。
「無論はやてがその生を終えるまでだ。その気持ちはみなも変わらない」
「グレアムさんが戻って来いって言っても?」
「グレアム? ……誰だ――っくッ! 何をするシャマ、痛っ!」
シグナムの肩にシャマルの手がのせられている。スキンシップのように見えるが、指先に尋常ならざる力が込められている。少し黙っていろという無言の要求。
「たしかに、グレアムさんから戻ってくるようにと言われれば帰ることになるでしょう。でも、たとえそう言われたとしても、できる限りはやてちゃんのおそばにいたいと思っています」
シグナムの言葉をごまかすためにシャマルが答える。愉快な人たちだなぁと考えながらも、ウィルは気にせず話を進める。
「あなたたちが来る前に、はやてに家族にならないかって提案したんですよ。結局ことわられましたけど、そのことは知っていますか?」
「はい。そちらのご養子にと」
「こちらからも、一つ聞いて良いだろうか」
先ほど掴まれていた肩をさすりながらシグナムが問う。シャマルはシグナムがまた変なことを言わないだろうかと、ひやひやしながら横目で見ている。手はいつでもシグナムを止めるために、臨戦態勢。
「貴方はなぜ、はやてにそこまでしてくれる?」
シグナムの質問が普通で、シャマル安堵。問われたウィルは少し考えて口を開く。
「なんらかの形で恩を返したかったから……ってだけでもないんでしょうね。でも、はやてが好きだからっていうのも、少し違います。もちろんはやてのことは好きですけど、直接の理由ではない。言葉で表現するのは難しいですが、あえて言うなら、違うなって思ったんです。こんな良い子が不幸になるのは違うって。だから幸せにしたいと思った……そんなところでしょうか」
「それだけなのか?」
「人のために行動する理由なんて、そんな程度で十分ですよ。さて、それでですね――いろいろと決まりがあって、おれがこうして海鳴に来ることができるのも、せいぜい後半年くらいなんです。その後のはやてのことは……実はあまり心配していませんでした。士郎さんや桃子さんははやてに親切ですし、なのはちゃんみたいな友達もいますからね。
おれの心配ごとはただ一つ――あなたたちです」
シャマルとシグナムがわずかに動揺したのが、ウィルにもわかった。けれども、わざと気付かなかったふりをして先を進める。
「おれはあなたたちが何者なのか知らない。グレアムさんのところから来たという言葉をはやてが信じている以上、それが真っ赤な嘘だとも思えません。それでも、やっぱり不安だったんです。たとえば……はやてはちょっとしたお金持ちですから、それを狙う人がいてもおかしくないかな、とか」
途端、シグナムが腰を浮かせ、声を荒げる。大切な誇りを汚されたという憤怒だ。
「我らをそのような盗人と疑っていたのか!! たかが金で我らが主を――むぐっ! むぁにをふる、ふぁまふ!(何をする、シャマル)」
「も、もう、シグナムったら! 大きな声なんか出したら、はやてちゃんを起こしちゃうわ」
隣のシャマルが手を伸ばし、急いでシグナムの口を押さえていた。押さえるというより、むしろ頬を指先で締めあげている。顔は笑っていたが、なに余計なこと言おうとしてんだこのやろう、という半ば恫喝めいた気色が混じっていた。
もごもごと言っていたシグナムも、激情に任せていろいろと言ってしまいそうだったことに気付き、黙る。
ウィルはため息一つ。再び口を開く。
「あなたがたにも、いろいろと事情があることは何となくわかりますよ。……時々、明らかにカタギじゃないなこの人たち、って思うこともありましたし。だから、こっちに来るたびにあなたたちのことを観察していました。あなたたちがはやてにとって良くない人であれば、説得して養子の件を考え直してもらおうと思っていたんですが……」
はやての栗色の髪にそっと指を通す。さらさらと指の間をこぼれる髪が、夕日に照らされる。
「……今のはやては、良い顔で笑っているんです。おれが一緒の時だと、こうはいきませんでした。とてもじゃありませんが自信がありませんよ。おれのところに来て、これ以上に良い顔で笑うようになるか、なんて。だからはやてを連れていくのは諦めます。
はやてのことをこれからもよろしくお願いします。士郎さんたちがいると言っても、やっぱり一番大切なのは常に一緒に暮らしてくれる家族ですから」
そう言って、ウィルは頭を下げた。はやてを抱きしめているので首から上を動かしただけの会釈だったが、それだけの所作に全霊をこめた。
シャマルたちにとっては願ってもない話だった。ウィルが来なくなれば、少なくとも管理局に闇の書のことがばれる心配はなくなる。ただ、自分たちと同じように、はやてを大切に思っているウィルが、もうはやてに会えなくなる――そのことに罪悪感を抱きながらも、シャマルはウィルの言葉にうなずこうとしたが――
「お前さぁ」
ウィルの横から声。観覧車に乗ってから一言も話さなかったヴィータの呆れたような声。いや、声だけではなく表情までも、心底呆れたと語っている。
「ほんっっっとにめんどくさい奴だな。そんな理屈こねまわして身を引くくらいなら、一緒にいたいって素直に言えば良いじゃねーか」
ヴィータの発言にシャマルたちは焦る。それはたしかにそうであり、自分たちに関係のない出来事ならその意見にうなずいただろう。しかし、万が一はやてがウィルと一緒にいたいと言い、管理世界へと連れて行かることになれば、闇の書のことが管理局にばれてしまう。
ウィルとヴィータの会話は続く。
「年をとると、それだけじゃ動けなくなるんだよ」
「十五かそこらの子供がよく言うよ。あたしにはただ一人で賢ぶってるようにしか見えねーよ」
「うっ……」ヴィータの言葉の剣が突き刺さる。 「でもヴィータちゃんは、おれよりは年下だろ?」
「何言ってんだ。あたしの方が年上だっての」
「そうなの!?」ウィルはヴィータの姿を上から下まで見て、それでも納得がいかずに首をかしげる。 「ヴィータちゃん……いや、ヴィータさんはおいくつなんでしょうか?」
「秘密……ってか、わかんね」
「それは……なんか悪いことを聞いた……のかな?」
ヴィータは横目でウィルを睨む。
「ともかく、そういうことはちゃんとはやてが起きている時に話せよ。こんなところで、寝ているうちにすまそうとすんな。はやての幸せは、はやてに決めてもらえば良いんだ」
「でも話し合うことになれば、はやてはおれのところに来るかもしれないよ。ヴィータちゃんは、はやてがいなくなっても良いの?」
「あたしたちからはやてを奪えると思ってんのか? ちゃんと話し合っても、はやては絶対にあたしたちを選ぶ。お前なんかに負けねーよ」
ヴィータの言葉は正論だ。眩しすぎるほどの理想論だ。はやてに選んでもらう――それは正しい。でも、どちらかを選ぶ行為は、きっとはやてを傷つける。選んだ方よりも、選ばなかった方を見て心苦しめるような子だから。
――本当にそうだろうか
それらは全てウィルの頭の中のこと。ウィルが勝手に想像したはやての内心にすぎない。そして、たとえそれが当たっていたとしても、はやてのことははやてに決めさせるべきではないだろうか。
それとも、はやての気持ちを考えて身を引くというのは建前で、実は本気で説得して、その上で自分が選ばれないことが怖いのか。
考えれば考えるほど思考の糸は絡まる。まるでゴルディオスの結び目を相手にしているようだ。
「……何が正しいのか、わからなくなってきたよ」
「ほんとに馬鹿だな」ヴィータは聞きわけのない生徒に諭すように語る。 「正しいとかじゃなくて、やりたいようにやれば良いって言ってんですよ」
ヴィータの理屈は単純明快だ。情理の絡み合った複雑怪奇な結び目を、一つ一つ解いていくのではなく、自分の願いという剣で断ち切った。アレクサンドロス大王のごとき勇壮さ。
ウィルの頭にある言葉が蘇る。先生のもとで治療を受けていた時に、先生が語った言葉。
『迷った時はただ心から湧き上がる衝動――欲望に任せれば良い』
なるほどと、得心がいった。ニュアンスは違うが、その言葉も根っこは同じだ。
「……わかったよ、降参だ。次に来た時から、はやてを説得することにするよ。おれと一緒に来てくれってね」ウィルはにやりと笑う。 「でも良いのかな? おれのいるところは医療技術が進んでいるから、もしかしたらはやての脚も治るかもしれない。これは結構強力な説得材料だよ」
「上等だよ」ヴィータは不敵な笑みを浮かべ、真っ向からウィルを睨み返す。 「だったらあたしたちは、脚が治らなくたって、そんなの関係ないくらいこっちの方が幸せだって思わせるだけだ」
ヴィータの宣言にシャマルが続く。
「わ、私だって頑張ります! はやてちゃんが幸せだって思えるように!」
「なら、おれもいろんな方法で説得しますよ。タイムリミットは半年後、つまりそれだけチャンスはあるってことですからね。それまでに一度でも“うん”と言わせればおれの勝ちだ。おれの家族になることのメリットを論理的に伝え、時には感情に訴えてでも――おれにとっては泣き落としくらいはお茶の子さいさいですよ?」
そんなやりとりを見たシグナムは腕組み姿勢で、ふっと笑う。
「やれやれ、時には考えない言葉の方が有効なのだな。だが、ヴィータの言うとおりだ。主はやてのご意向を無視して考えるなど、騎士たる―― 「シグナムはもう黙ってて」 ……はい」
なんだかおかしくなって、ウィルは笑った。何がおかしいのかわからないが、とにかくおかしかったから、声をたてて笑った。その振動で寝ていたはやてがびっくりして起きる。
そんなはやての体に手をまわし、後ろから抱きしめた。突然の抱擁に驚き目を白黒させるはやて。そんなに密着するなとヴィータの怒号が飛び、あまり無礼なことはとシグナムが立ちあがろうとして、ゴンドラが揺れる。
ウィルがはやてを膝に乗せたのは、後ろ向きな感情からだった。これで別れと思い定めていたからこその抱擁。これから遠くへと旅立つ子を、親が惜別の思いと共に抱きしめるようなもの。
でも今の抱擁は違う。はやての熱を確認するため。離したりはしない、きみたちに渡したりはしないという意思表示だった。
その後、みんなで夕日に染まる街並を見て、再び地上に戻って来た。あんまり中で暴れないでくださいと係員に叱られた後、帰る前にみんなでグッズ売場のぬいぐるみや土産を買いこみ、うきうき気分でバスに乗った。
はやてが突然苦しみ出し倒れたのも、そのバスの中だったが。
*
外はすでに日が沈み、街には人工の光が灯っている。電話機で月村に遅れる旨を連絡し、受話器を戻す。ため息を一つ吐き、シグナムたちのもと――海鳴大学病院のロビーへと戻った。
はやての検査が終わるのを待つ彼らは、全員が椅子に座ったまま。誰も一言も発しない。
陰々滅々とした三人の周囲には、人払いの結界でも張られているかのように誰も近付かない。魔法はもちろん陰陽や呪禁も関係なく、深海に沈み込むような消沈と行き場のない苛立ちが構成要素の結界。ウィルだけがその中に入って行き、結界を構成する四人目になる。さらに誰も近寄らなくなる。
まだ何かを告げられたわけではない。たいしたことないのかもしれない。いや、ないに決まっている。あまりに突然のことに重く考えすぎているのだけと言われれば、誰も反論はできない――だから誰かそう言ってくれ。
しかし、はやての苦しみ様は尋常ではなかった。あれを見た後で、たいしたことはないとは誰も言えなかった。自分でも信じられない慰めは空疎すぎて、その言葉が慰めにすぎないことを浮き彫りにさせてしまうから。
やがて、白衣を着た女性がウィルたちのもとへと歩いて来た。はやての主治医である、石田先生。シグナムたちはもちろんのこと、ウィルもPT事件の時に幾度かはやての通院に付き添っていたことがあるので、面識はある。
彼女ははやての検査が終わったことを伝えると、一同を病室へと案内した。
「みんな、心配かけてごめん」
ベッドで上半身を起こし、両の掌を顔前で合わせて、上目づかいにウィルたちを見ているはやての姿。病院に着くまで狂態ともいえる痛がりようは性質の悪い白昼夢だったのかと思えくる。
「はやて、大丈夫? もう痛くない?」
ヴィータはベッドにすがりつくようにして、問い続ける。ウィル相手に啖呵をきった人物と同じとは思えない、外見相応の子供の顔。
問われるはやては笑顔で、痛みを我慢しているようには見えない。
「うん、もうなんともないよ。なんやったんやろ?」
けれども、その笑顔には一抹の怯えが浮かんでいて、それが先ほどのことは夢ではないと教えてくれる。今は痛みがなくても、次の痛みはいつ襲ってくるのかわからない。その恐怖はいかばかりだろうか。
それを押し殺して、周囲に心配をかけまいとふるまう健気さと優しさは、もはや痛々しいほどだ。
「今日はもう遅いし、何かあった時のために今日一日は病院にいてもらった方が良いでしょう。明日もう一度検査をして、それで何もなければ退院しても構わないと考えています。ただ、今後しばらくは診察の頻度を上げた方が良いかもしれませんね。少し相談したいので、シグナムさんとシャマルさんはついて来ていただけますか?」
「おれもついて行って良いですか?」
二人を伴って病室を出ようとする石田先生の動きが、背中に投げかけられた嘆願で止まる。それも一瞬のこと。振り返った時の顔は笑顔。
「ええ、良いわよ」
笑みは渇いていた。
「命の危険……ですか」
肯定も否定もなく、ただ呆気にとられたシャマルの言葉に、石田先生はうなずいた。
「はやてちゃんの下肢は原因不明の神経性麻痺で動かせませんでしたが、それでもこれまでは安定していたんです。ですが、六月の検診から少しずつ変化が表れ始めました。最初は誤差かとも思える程度だったのですが、この数ヶ月は少しずつ広がっています。
先ほどの検査結果では、麻痺している範囲が二週間前と比べて大幅に上へと広がっていました。もしもこのまま続くことになれば、数ヶ月で一部の内臓器官が機能不全に陥ります。そうなれば――」
「原因はわからないんですか!?」
「ごめんなさい。こちらもできる限りのことは調べているのですが……症状はわかっても、その原因がどこにあるのか、まったくつかめないんです」
石田先生は泣きそうになるのをこらえながら、話す。だが、その様子も平静を欠いたシャマルには見えていない。
「そんな! そんなことって――」
「シャマル」
一言、ただ名を呼ばれただけでシャマルの動きが止まった。シグナムの静かな一喝には、巌のごとき巨大な威圧感があった。言霊の向けられていないウィルと石田先生の呼吸さえ止まるほどだ。
「ご、ごめんなさい」シャマルは平静を取り戻し、続けて石田先生に頭を下げる。 「すみませんでした、お話を続けてください」
石田先生からは、今後の診察スケジュールや、再度痛み出した時の対応が語られる。だが、肝心の原因がわからないため、これからも検査を続けることしかできない。重い沈黙が室内に満ちたまま、話は終わった。
部屋から出た後、三人とも無言。それぞれが隣の二人に構う余裕はなく、告げられた真実といかようにして向き合うかを考えていた。
その中で、ウィルは静かに決意をした。
三人の間に会話らしい会話が生まれたのは、階段に到着してから。はやてのいる上階に上がろうとするシグナムとシャマル。しかしウィルは立ち止まって二人に声をかける。
「時間が押しているので、今日はもう帰ります」
ウィルが帰るはずだった時間はとっくに過ぎている。だからこれは事実の確認に等しい、当然の言葉。にも関わらず、二人の心には憤りが生まれる。はやてに命の危機があると知らされたのに一人さっさと帰ろうとするウィルへの苛立ちは、やつあたりとわかっていても抑えられない。
睨むような二人の視線にウィルは微笑みを返す。
「そして、数日後――遅くても一週間以内にはやてを迎えに来ます」
「なっ!? ……それは、はやてちゃんの説得を始めるってことですか?」
「違います。説得ではなく、連れて行くんです。この一大事に、何度も何度も行き来して説得する余裕なんてないでしょう」頬を歪めたその相は、笑みというにはあまりに冷たい。 「約束は破ることになりますが、あなたたちもはやてが大切なんですから、賛成してください」
ウィルはそれ以上何も言わず、深々と頭を下げて階段を下りて行った。
残されたのは見ていて悲しくなるほどうろたえるシャマルと、腕組み姿の――服にしわができるほど、手が腕を強く握りしめている――シグナムの二人。
「どうしよう。このままだと……」
シグナムはシャマルの問いかけにも何も返さない。昇り階段に片足をかけたまま、眉を寄せ目を閉じている。一目見ただけでわかるほどの苦悶の表情だった。
時間にして数分。やがてゆるやかに開かれた目には氷の冷徹さと決意が宿っていた。今更ウィルに言われるまでもない。主はやては大切な存在だ。“だからこそ”ウィルの提案は受け入れられない。
シグナムは念話でシャマルに語りかける。呪いを紡ぐように暗い声色だ。
≪主を脅かすものは消さなければならない。たとえそれが主とどのような関係にあろうとも。これまでもこれからも変わらない。だというのに、我らは主の好意に甘えて、己の本分と使命を忘れ、怠惰な幸福を享受してきた≫
≪……どうするつもりなの?≫
はやてを管理世界に連れて行かせるわけにはいかない。取り得る選択肢は二つある。
一つはウィルが再び来るまでに、はやてを連れて逃げること。数日の猶予があれば、逃げる準備は可能。しかしそれは友を失くし家を追われる、あてもない逃避行だ。はやてにはとても耐えられない。
ならばもう一つの選択を。
≪彼にはここで死んでもらう。シャマルはザフィーラに連絡してくれ。決断に時間をかけすぎた。私もこれから彼を追いかけるが、ここよりも主の家の方が月村に近い。それから、闇の書を持ってくるように、と≫
≪蒐集するつもり!? でもそれは、はやてちゃんに禁じられて――≫
≪ここで彼を討ったとしても、主はやての病が治るわけではない。ならばもはや、闇の書に頼るしかない≫
選択としては最悪だが、残された道はそれしかなかった。
ウィルに全てを話し、協力を得るという方法もあったのかもしれない。だが、先ほどの彼の言動がその選択を潰していた。彼個人がどれだけ善良そうに見えても、たった今、約束を破った者を信じることはできない。そして管理局に素直に恭順するのはさらに論外。幾度も自分たちを滅ぼしてきた組織を信用できるわけがない。
あるいは――シグナムは無意識の内に理解していたのかもしれない。はやての麻痺はただの病気などではなく、闇の書が原因であるということを。それとも闇の書が、プログラムによって構成される彼女たちの思考が、自然とそう考えるように仕向けていたのか。
真偽はわからないが、ともかくシグナムは決断した。
≪シャマル、お前にも協力してほしい。私は決めることはできても、深く考えることはできない。お前の知恵が必要だ≫
≪……わかったわ≫シャマルはすぐさま状況を整理する。 ≪ザフィーラに闇の書を持ってきてもらうのはやめた方が良いわね。ウィル君の実力は未知数だから、戦闘の邪魔になる要素は排除しないと。代わりに私が家に戻って、闇の書を持って来るわ。シグナムはザフィーラの加勢に向かってちょうだい。ヴィータちゃんには何も伝えず、このままはやてちゃんのそばにいてもらいましょう。何か起こっていることに気付いていても、あの子ははやてちゃんを放っておきはしないわ……こんなところで良いかしら≫
≪十分だ。いつも世話をかけてすまない≫
≪……あなたにお礼を言われるなんて、はやてちゃんが主になるまでは考えられなかったことよね≫
≪そうだな。我らはみな変わった。主が変えてくだされた≫
シグナムははやての病室の方へと顔を向けた。向けただけで、何も言わない。
これから約束を破る自分たちに、語る言葉などない。
ザフィーラはカーペットから体を起きあがらせ、獣から人間へと姿を変えた。ガラス戸を開けて裏庭に出ると、夜空へと飛びあがった。昼とはうってかわって外は冷たく、風がザフィーラの短い髪をかすかに揺らす。
ウィルが帰還するために、月村邸を利用していることは、はやてから聞き及んでいる。直線距離では、病院よりも八神家からの方が近い。先回りは十分にできる。何も問題はない。
時間がないからと事情は詳しく教えてもらっていない。それでもこれは将の命、主の為。反する道理はない。
だと言うのに、めったに表情を出さないザフィーラの顔は、苦々しげに歪んでいた。
彼にとっても、これほどまでに気のりしない戦いは、初めての経験だった。
ザフィーラが月村家に向かった直後、八神家の裏庭で影が動く。
小動物程度の大きさの影はまばたきほどの時間の後に消え去り、代わりに一人の人間が立っていた。
その人物はザフィーラの後を追うように、空へと飛びあがった。月の光で浮かび上がるその顔には、空に浮かぶ細い三日月よりも、なお寒々とした仮面。
**
ウィルは病院の入り口でタクシーを拾い、月村邸まで行くように頼むと、静かな車内でこれからの予定を考え始めた。
夕暮の暖かさはどこに行ったのか、外気もウィルの心も冷たくなっていた。
観覧車で交わした約束を反故にすることには、若干の罪悪感はある。だが、命の危険があるのに、何度も説得するなどと悠長なことをする気にもなれなかった。
今現在、ウィルの頭を占めているのは、どうやってはやてを管理世界に連れていくかということだけだった。
正式に手続きをおこない、渡航許可が下りるのを待つのは時間がかかりすぎる。早くて一月、下手すれば審査に何倍もの時間がかかることもある。そもそも、病気だからという理由だけで管理外世界の住人を連れてこれるわけがない。はやてがPT事件の関係者で、管理世界のことを知っているとはいえ、許可が下りない可能性も十分にありえる。
確実と迅速を期すのであれば、非合法なルートを使わざるをえない。問題は非合法なルートに繋がる友人や伝手は、ウィルの交友関係には存在しないことだ。ただ一つの例外を除いて。
先生――ジェイル・スカリエッティ
山道に差し掛かったタクシーの前方に白い流星が落ちる。けたたましいブレーキの音。横滑りをおこしながら車が停止する。
流星の正体は、停止した車から二メートル離れたところに存在していた。
白髪に褐色の肌をした偉丈夫。秋も深まるこの時期だというのに、上半身には薄手の藍衣のみ。両手両足に手甲とブーツの銀の輝き。金属製のそれらは、どちらも只人が身に着けるようなものではない。
彼は微動だにせず車を――その中のウィルを睨みつけている。
≪降りろ≫
ウィルの頭に声が響く。念話、すなわち魔法。つまり相手は魔導師だ。
財布から紙幣を取り出し、運転手に渡す。
「お釣りはいりません。急いでUターンして、ここから離れてください。おれに用があるみたいですから、おじさんには何もしてこないと思います」
「あ、あんた、外に出る気か?」
人のよさそうな運転手は、異常な事態に怯えを見せている。それでいて、車から下りようとするウィルを心配している。優しい人だ。
市民に安心を与えるのは局員の務め。世界が変わってもそれは変わらない。いつも仕事でやっているように、市民を安心させるための笑みをうかべる。
「大丈夫ですよ。さあ、おれが降りたら振りかえらずに、急いで街に戻ってください」
ウィルが降りると、タクシーは言われた通り山道を下りて行った。それを確認すると相手に向き直り、二つのデバイスを展開し、バリアジャケットを纏う。
もちろん、この男はザフィーラの人間形態なのだが、ウィルはまだそのことを知らず、管理外世界でいきなり現れた魔導師は何者なのかと、思考を巡らせていた。この地球固有の魔術師か、管理世界を利用している犯罪結社の一員か、はたまた管理外世界への干渉を嫌うテロ組織の一員か。
ウィルが考えている間に、突如周囲の空間が色を変えた。ここではないどこかを作り出す魔法――結界魔法。その結界の内部に、ただウィルとザフィーラの二人が取り残される。
魔法構成はミッド式ではなくベルカ式。それもウィルのような近代ベルカ式ではない。聖王教会の騎士たちの中でも、一部の者が使うような古いベルカ式に酷似していた。
「結界を張るなんて、もしかしていきなり戦うつもりか? でも、お互い人間同士、まずは話し合おう。そのためにできれば名前と目的を教えてほしいんだけど、どうだろう?」
「名乗ることはできない。ただ、お前の魔力を蒐集させてもらう」
問答無用とばかりに、ザフィーラは構えをとる。同時に、物理的な影響を及ぼすほどに空気が張り詰める。だが、ウィルが意識を向けていたのは、相手の構えではなく、放たれた言葉。
“魔力の蒐集”
一般の局員が聞いても首をひねるような単語。ごく一部の者――特にウィルにとっては、どうしても聞き逃すことのできない単語。
ウィルの瞳が、暗く深く沈む。その底には凍てついた瞋恚の炎。
***
同刻、自室で勉強をしていたなのはは、ほんのかすかだが魔法の気配を感じた。気のせいかとも思ったが、やはり気になって部屋を出た。そのまま裏口からこっそり家を出ようとして、靴を履き替える直前に足を止める。
わずかばかりの躊躇の後、なのはは振り向きながら、声を張り上げる。
「お兄ちゃ――」
「なんだ?」
振り返ったらすぐ目の前に立っていた恭也に、なのはは心臓が止まりそうなほどに驚いた。呼ぼうとした恭也は、いつの間にか後ろに立っていた。
「え、えっと……」
ばくばくと鳴り続ける心臓を押さえながら、なのはは感じた気配のことを伝える。と、恭也は腕を組んで思考し始める。
「方角や距離はわかるのか?」
「えっと……多分、山――すずかちゃんのお家の方。距離ははっきりとはわからないけど、街よりは向こうだと思う」
「少し待て」
恭也はなのはの肩に片手を置きながら、もう片手で携帯を取り出すと、電話をかけ始める。会話の内容を聞いていると、忍にかけているとわかる。
やがて電話を切ると、恭也は真剣な目でなのはに向き直る。
「ウィルはまだ海鳴にいるらしい。あいつは携帯を持っていないから、こちらから連絡をとることはできないが、何かあったのなら気づくはずだ。だとすれば、なのはが行く必要はないが、それでも行くか?」
恭也の射抜かんばかりの瞳を見返しながら、なのははうなずいた。
「わかった、行っても良いぞ」
「ほんとに!?」
「ああ。それで、どうやって行く? 必要なら車を出すが」
「飛んで行くつもり」
「わかった。だが、本当に何かが起こっているようなら、その場に飛びこむ前に忍に状況を連絡するんだ。そうすれば、管理局からの応援も期待できる」
恭也はその頭に手を置き、なでた。
「場所がわかれば、俺と父さんも車で近くまで行く。何かあったら頼ってくれ」
頭から手を離し、同じ手でなのはの背を押した。なのはは恭也の顔をしっかり見ると、力強くうなずいて裏口から飛び出る。流れるようにデバイスとバリアジャケットを展開し、空へと飛びあがった。
見送る恭也の背後には、いつの間にか士郎が立っていた。恭也と士郎は視線を合わせ、口元に笑みを浮かべる。なのはが一人で行こうとせずに、恭也に声をかけようとしたことが、二人には嬉しかった。
「これで何もなかったら少し恥ずかしいな」
「茶化すなよ、父さん。それじゃあ、車を出してくれ。結界とかいうのが張られているなら俺たちが行っても無駄になるが、それでもいざという時のために現場の近くで待機しておいた方が良い」
「わかった。だが」士郎はため息をつきながら息子を見る。 「お前もいい加減免許くらいとれ」
「考えておく」