シグナム――それが彼女の名。闇の書の主に仕える守護騎士、彼らの一員にして将としての識別記号。主と他の守護騎士たち以外が彼女の名を口にする時、そこに込められているのは畏怖か、憎悪か。そのどちらかでしかなかった。少なくとも、これまでは。
「シグナム嬢! ぼちぼち時間だぜ!」
上下紺の道着を着た男の、野太い声が道場に響く。
彼はただの人が、ただの人に呼び掛けるような声色で、シグナムの名を呼んだ。昔ではとうてい考えられないことで、今ではごく当たり前のこと。
道場にいるのはシグナムを含めて数人。その内の一人が、シグナムに呼び掛けている師範代の男で、残りは子供の頃からの門下生であり、なおかつ授業のない平日昼間に暇を持て余した大学生たちばかりだ。もう少しすれば、学校が終わった子供たちがやって来てにぎわい始めるだろう。
かかり稽古の相手役をしていたシグナムだったが、打ちかかってくる相手を竹刀で押しとどめて稽古を中断し、壁にかかった丸時計を見る。時刻は五時を迎えようとしていた。
「む……そうだな。すまないが、これであがらせてもらう」
シグナムはそのまま道場の壁際まで退き、正座をする。手慣れた様子で防具を外し、防具をまとめて棚に直す。
そのシグナムの姿に、稽古中の門下生ほぼ全員が目を奪われ、遅れて師範代の一喝と竹刀で叩かれる音が道場に響く。
目を奪われるのも仕方がない。今の彼女は腰まで届く長髪を肩口でひとくくりにし、上は白、下は紺の道着を身につけている。それだけならば普通だが、彼女の肉つきの良い体躯は、体の線を目立たなくさせる剣道着でも隠しきれていない。汗で濡れた様が扇情的で、たとえ女性であっても目を奪われるのは必定。
もっとも見られているシグナムは、視線には気づいても、微塵も意に介していない。彼女にとって敵意のない視線はないも同じだ。この国の生まれでない自分には、この道着が似合っていないのだろう――と、そんな的外れなことを考えていた。
彼女は自分の容姿の価値を理解していない。そんなことは、これまで気にする必要がなかったからだ。
シグナムは現在、八神家の近所に位置する剣道の道場で、非常勤の講師として働いている。
騎士たちは六月に八神はやてのもとに現れた。されど地球には魔法はなく、日本には戦乱さえもなかった。何よりも今までと異なったのは、主のはやてが蒐集を望まなかったこと。
シグナムは、生み出されて初めてやるべきことを見失った。
途方に暮れたシグナムに、はやてはみんなが一緒に暮らしてくれればそれで良いと言ったが、何もしない状況というのは逆に落ち着けなかった。仲間たちのように――ヴィータのようにさっさと割り切って遊ぶこともできず、シャマルのように家事全般を受け持つこともできず、ザフィーラのように……番犬? をすることもできなかった。
そんな時、ヴィータが時折参加するゲートボールの集まりを通じて、この剣道場の師範と知り合い、講師をしないかと誘われた。剣道について微塵も知らない自分では、何も教えることなどできはしないと思ったのだが、師範曰く戦い慣れた実力者に相手をしてもらえるのは貴重なのだとかなんとか。
それからかれこれ三月になるだろうか、ほとんどはかかり稽古の相手役をして、少しずつ剣道や型を教わりながら、週に二度ほど道場に通っている。それが彼女の、今の姿だった。
シグナムは更衣室に入り、私服に着替え始める。普段ならば、シャワー室で汗を流してから着替え、髪がかわくまで茶をいただきながら四方山話を聞くのが常だが、今日はそこまでの時間はない。
道着を脱ぎ捨て下着姿になったシグナムの体は、男の理想が形になったかのような艶冶。
何よりも特徴的なのは肌だ。白磁の白さ、羽二重の繊細さ、琺瑯の光沢を持ち合わせ、一切の傷どころかシミや黒子すらもない。生まれたての赤子以上だ。
ただしその完璧さは、彼女の裸体から幾分かの色気を減じる欠点でもある。白亜の女神像を美しいと愛でる者は多いが、それに欲情する者(ピグマリオン)は稀であるように。むしろ先ほどの道着姿の方が艶やかに感じるだろう。
それほどの肌ではあるが、シグナムにとっては珍しいものではない。彼女の仲間たち――ヴィータ、シャマル、ザフィーラの三人もまた、それぞれ肌の色こそ違えども、その肌にはシミも傷もない。
その理由の一つは、彼女たちが人工品であり、先天的にそれらを設定されていないからだ。シミとはある種の損傷に近いもの。観賞用ならともかく、実用品を作る時に始めからダメージ加工を施すようなモノ好きはそうそういない。
そしてもう一つの理由は、後天的にできたそれらを消すことができるから。
汗を拭いている途中、シグナムは右手が少しだけ腫れているのを見つけた。稽古をしているのだから、この程度はよくあること。放っておいても良いのだが――
(主に見つかれば、心配させてしまうかもしれないな)
そう考えたシグナムは、魔力を少しだけ右手に巡らせた。それだけ――ただそれだけで腫れは“消えた”。回復魔法ではない。シグナムはただ、魔力を使用して自分の体を構成しなおしただけ。
汗のように一度流れ出たものは消えないが、傷のように欠けた部分はこれで直すことができる。
ヴォルケンリッターは、闇の書と主を守るために造り出された『プログラム生命体』だ。
どれだけ人間に見えようが、シグナムの体も意志も、プログラムが現実に投影されたことで生み出される虚像――影絵に過ぎない。傷は単なるのデータの破損。破損したデータは、バックアップデータで上書きして修正すれば良い。肉体の再構成には魔力が必要だが、逆に言えば魔力さえあればいくらでも傷を直すことができる。
このような超回復能力を持つヴォルケンリッターは、戦場においては死霊よりもはるかに厄介な、悪魔のような存在となる。
それが彼女の、かつての姿だった。
はやてが買ってくれた普段着に着替える。装いの良し悪しはわからないが、主が買い与えてくれた物というだけで、シグナムにとっては十分以上に価値がある。
肩口で纏めた髪を解く。腰まで届く長髪は、一つ一つが紗幕のわずかな隙間から洩れる一条の光のように細く輝いているが、集まれば陽光を受けてほのかに輝くヴェールとなる。
髪をすくい上げ、後頭部の高いところで新たに纏める。無造作に作られた総髪(ポニーテール)は、しかしながら彼女に良く似合っていた。垂らされた赤髪の毛先が、シグナムの動きに合わせてゆらゆらと揺れ、蝋燭の炎を思わせる。
最後に衣紋掛けのコートに袖を通し、脱いだ道着をつめ込んだ鞄を肩にかけ、更衣室から出る。練習を続ける門下生に一言別れを告げて、道場を去った。背後では、再び門下生が竹刀で叩かれる音が鳴り響く。
道場の外は赤に染まっていた。夕日が海鳴の街を赤く染めるのを見て、シグナムの脳裏にかつての記憶が蘇える。
幻視するのは炎の記憶――業々と燃える炎の中、仲間と共に戦い続けた日々。
シグナム自身の戦い方もあって、彼らの戦場には炎が絶えなかった。森で戦えば森を焼き、山で戦えば山を焼き、街なら当然――
思わず顔が強張る。記憶の中の赤い光景は、かつては何とも思わなかったのに、この世界に来てから少しずつ陰鬱な黒いモノへと変質しているようだ。
「おやシグナムさん、今日はもうお帰りですか」
風雨にさらされ続けた木の枝のような老人が、門のそばに立っていた。好好爺としたその人は、この道場の師範だ。
ただの老人のように見えるが、シグナムが戦い慣れていることを見抜いたあたり、ただ者ではない。シグナムに何かあると気づいたのはこの師範と、はやての友人である高町なのはの父親の二人だけ。
顔を崩して笑う師範に、シグナムは会釈して答える。
「はい、今日は主……家主のご友人の誕生日を――」
「あァ、そうでした、お誕生日会をするんでしたな。この年になると新しいことはすぐに忘れてしまって……我ながら困ったものです。そんな私ですが、こればっかりは忘れちゃいかんと、肝に命じていることがありましてな」
老人は懐から封筒を取り出し、「今月もありがとうございました」と言いながら、シグナムに差し出した。
教えてもらうことが多いとはいえ、一応は講師として雇われている身。労働の対価の報酬は貰っている。雀の涙ではあるが収入には違いない。
――これで少しは主の役に立てただろうか
従者として生み出されたゆえの本能か、それともはやて自身への好意か。はやての役にたてているということが、シグナムに充実感を与えてくれる。
「いつも申し訳ありません」
「いえいえ、シグナムさんが来るようになってから、若いのから子供たちまで、みな熱心に来るようになりましたから、こちらも助かっとります。……ところで、何か悩み事でもおありですか」
「なぜ、そのようなことを」突然の詮索に、思わずシグナムは眉をしかめる。
「いやァ、道場から出て来た時のあなたの顔が見えたのですが、それが妙に強張っていたように見えましてな」
「夕暮が……妙に嫌なものに見えたのです」
老人は、ははあ、と唸るような声をあげる。
「夕暮は綺麗なもんですが、反面あんまり良い印象を持たれとりませんからな。この国では夕方を黄昏時と言いますが、こりゃ向こうから歩いてくる人の顔もわからんようになる――誰そ彼(たそかれ)っちゅうのが語源だそうです。他にも逢魔ヶ時とも言われとります。魔というものは、一言でいえばよくわからんモノのことなんですが、人の顔がわからなくなる夕暮は、まさに周りは魔だらけっちゅうわけですな。だからでしょうかな……赤っちゅうのは暖かい色にも関わらず、危険を告げる色としても使われとります。信号機の止まれ、パトカーや救急車の警光灯なんかも――」
師範が長話をするのはいつものことだ。口をはさむよりは黙って聞いている方がすぐに終わることを経験で学んだので、黙って聞いている。これもかつての自分からは考えられなかった変化。
「外国でも夕暮は終わりの象徴みたいに使われとります。外国生まれのシグナムさんならご存知かもしれませんが、『神々の黄昏』――なんて話があります。世界を終わらせる神さまたちの戦いで、最後に火の国の巨人が表れて、その手に持った炎の剣、れーばていんで世界を焼きつくすっちゅうなんとも寂しいお話ですが――」
「レヴァンティンですか?」
聞き覚えのある名称に、シグナムは思わず口をはさんでいた。
「あァ、やっぱり御存じでしたか」
「……少し」
反応したのは、シグナムが地球の神話を知っていたからではない。地球に来るのは初めてだ。だと言うのに、師範の語るお伽噺には確かに聞きおぼえがあった。
それはもう幾代前かはわからないが、ベルカがまだ存在していた頃の主から聞いた話。それはただのお伽噺ではなく、歴史だった。
ベルカが栄えた『人世の時代(アール・ヴァル・アルダ)』のさらに前、アスガルド――別の地方ではアルハザードと呼ばれている世界――が存在した頃の歴史。もっとも脚色も強いので、どこまでが真実の歴史であるのかはわからないそうだが。
当時の主は、シグナムの剣もその伝承に伝わるレヴァンティンからつけたのだと教えてくれた。主とヴォルケンリッターの五人は、共に山河を、世界を越えて旅を――旅?
――なぜ旅などをしていたのだろう。我々の役割は蒐集による闇の書の完成。旅をするくらいであれば、魔導師を襲うべきなのに。
「まァ、つまるところあれですわ、夕暮に不安を覚えるのは人類共通の生理反応みたいなもんですから、それほど気にすることはないっちゅうことです」
師範は、そう言って話を締めくくった。そして、「急いでいるのに蘊蓄なんぞを語って申し訳ない」と、カラカラ笑いながら頭を下げる。
まったくその通り。時間に余裕があるとはいえ、こんなところで無駄話を聞いている時間はない。
だが、怒りは湧いてこない。回りくどくとも、師範の話はシグナムを励ますためのものであり、それをシグナムもまた理解していたから。
「ありがとうございます」
だからこそ、シグナムもまた師範に頭を下げた。
シグナムは気づいていない。彼女の本当の変化は、防具の付け外しが上手くなったことでも、長話に付き合えるようになったことでもない。
それは、主でもない者に頭を下げることができること――他者を尊重できるようになったことだ。
八神家への帰り道、シグナムはこれからのことに思いをはせる。師範の励ましを受けてなお、不安は完全に消えなかった。
その原因は、今夜のパーティの主賓、ウィリアム・カルマン。彼が不安の元凶だ。
彼は夏に八神家に来てからも、最低でも月に一度は八神家を訪れていた。その義理固さは嫌いではない。はやてに優しく、はやても訪問を喜んでいる。管理局の人間ということを除けば、特に嫌う要素などないはずだ。
だというのに、なぜかシグナムは言い知れない不安を感じている。生理的嫌悪感とはまた違う。何か、思い出さなければならないことを、忘れているような――上手く言葉にできない感覚だ。
過剰な反応だと理性は判断する。バグではないのかとさえ思う。しかし騎士として戦士として、無意識下が告げる予兆を無碍にすることはできない。これまでの戦いでどれだけ、その本能的で言語にできない感覚に助けられてきたのか。その数はもはや数えきれるものではない。
(不安……か)
シグナムは前を向く。前方には夕日、赤い世界。
それは予兆。ここからは世界が変わるぞ、と告げる“予兆の赤”
思いすごしであれば良い。そう思いながら、彼女は自らの帰るべき場所へと歩を進めた。
*
「またすごいことになってもうたなぁ……」
調理の手を一旦止めて台所からリビングを覗きこんだはやては、思わず呆れと感嘆の入り混じった声をあげた。
八神家のリビングは、今宵のパーティのために、様々なオーナメントで色とりどりに飾られている。室内だというのにピカピカと光る電飾も使われており、少し目が痛くなるほどだ。
最初はここまでするつもりではなかったが、はやてを含めた八神家の五人は、誰一人定職 についていない。シグナムやヴィータのように自分の用事で外出する者もいるとはいえ、それも週に一回か二回程度――つまり毎日が休日で、暇を持て余している。
最初は小規模だった飾り付けが、暇に飽かせてこんなのもある、あれもできるとどんどんエスカレートし、どうせ一月後のクリスマスでも使えるんだからと制止しなかった結果がこの有様。
考えるまでもなくやりすぎだが、そのやりすぎ感がむしろ笑いを誘うという、絶妙なバランス。
「はやて~、飾り付け終わったぞ」
「はやてちゃん、やっぱり私もお料理を手伝うわ。一人で作るには多すぎるわよ」
気だるそうに思える話し方をするのは、赤い髪の少女、ヴィータ。一般的にはかわいらしい印象を与える大きな瞳は、つり目のせいで気の強さを先に感じさせる。見た目ははやてと同じくらいの年頃だが、少し気だるげに話すその姿は反抗期の少年のようだ。
もう一人、心配そうに声をかけた女性がシャマル。凪いだ湖面のように穏やかな人なのだろうと思わせる容姿をしており、事実その通りの人だ。控えめに輝くセミロングの金髪は、水面に映る月のよう。
「たくさんっていうても、いつもの五割増しくらいやから」
だから心配しなくていいとはやては言うが、シャマルは「でも……」と食い下がる。
シャマルの背後にいるヴィータが呆れた声をあげる。
「いいからおとなしくはやてに任せとけよ。だいたい、シャマルの料理が混ざったら、はやてのギガうまな料理が台無しじゃん」
「そりゃはやてちゃんには負けるかもしれないけど、私だってそんなに料理下手なわけじゃ……ただ、時々失敗することがあるだけで……」
(時々?)
はやての記憶が正確なら、シャマルの失敗の割合は五分を超えている。
シャマルもそれを思いだしたのか、後半になるにつれてどんどん声が小さくなっていく。そこに追い打ちをかけるように、ヴィータが言葉を被せる。
「それが駄目なんじゃねーか。それにまずいだけならともかく、シャマルの料理は微妙すぎて罰ゲームにもなんないし」
ヴィータの悪口雑言にシャマルは瞳を潤ませながら、ううぅ、と小さく唸る。抗議をしたいのだが、いかんせん事実なだけになんと反論していいのかわからない、といった様相。
シャマルの何事にも慎重な性格は料理にも表れており、レシピから大きく外れた料理になることはまずない。しかし同時に、ここ肝心なところで失敗をしやすいという性質もまた料理に表れているため、レシピ通りにならないこと多々ある。
結果、まずいわけではないが、求めた味から三歩ほどはずれた味になるので、美味くもなく不味くもない珍味が出来上がることがしばしば。
「もう、二人とも喧嘩はあかんよ。ま、台所は私に任せてくれへんか。腕によりをかけてとびっきりのを作るから。もう少ししたら、二人にも盛り付けとか手伝ってもらうつもりやから、それまで休んでて」
「うんっ! 楽しみにしてる!」
「わかりました……でも、手が必要になったら呼んでね?」
はやてが微笑みながら仲裁すると、二人ともすぐに口論を止めてソファに向かった。
少しして、リビングの扉が開く。その向こうには白髪の浅黒い肌の男が立っていた。彼がザフィーラ。筋骨隆々とした偉丈夫で、その腕はヴィータやはやての胴くらいはある。
「客間の掃除を終えましたので、その報告に」
決して無愛想なわけではないが、表情をまったく変えないその様は、人間の表情の作り方を知らないからではないのかと思うほど。
「おつかれさま。もう特にやることもないから、ザフィーラも休んで――」
「ただいま戻りました」
「おじゃまします」
はやての言葉にかぶさるように、新たな声が玄関から聞こえてきた。一人はシグナム、続くもう一人の声は、八神家の面々には聞きなれた声――はやての友達、なのはの声だ。
瞬間、ザフィーラは空中に飛び上がり、くるりと後方一回転。地面に着地した時には人間形態から大きな犬(狼?)の姿へと変わっていた。そのままザフィーラはソファのそばに行って伏せ、ただの犬のようにふるまう。
「こんにちは、なのはちゃん」と、シャマルが。「おう、高町か」と、ヴィータが反応する。
「シャマルさん、こんにちは。ヴィータちゃん、名前で呼んでって言ったじゃない」
「やだよ、高町の名前はなんか言いにくい」
「そ、そんなことないよ!」
シグナムとなのははコートを脱ぎ、シャマルが二人のコートを衣紋掛けにかける。その間に、ヴィータがケーキの箱を開けようとして、ザフィーラに吠えられる。
これが今の八神家。はやてが欲しかった家族の形。
彼女たちはもう五ヶ月前になるか、六月初旬の誕生日の夜に、いつの間にか家にあった一冊の本『闇の書』から現れた。
彼女たちが言うには、自分はその本に選ばれた主で、彼女たちはその主――つまりはやてを守るために存在する四人の騎士、ヴォルケンリッターなのだそうだ。
正直、実感はない。
闇の書の主になったとはいえ、いきなり魔法が使えるようになったわけではない。これから『蒐集』という行為をおこなって、闇の書の頁を埋めていけば、はやてもさまざまな魔法が使えるようになるらしい。
しかし、そのためには魔力を作るために必要な器官、リンカーコアから魔力をもらう必要があり、その行為は相手のリンカーコアに大きな負担をかけてしまうそうだ。
ヴォルケンリッターのもう一つの目的は、主のために蒐集をおこない、闇の書の頁を埋めることらしいが、はやてはその行為を禁止した。誰かを犠牲にしてまで、魔法が使えるようになりたいとは思わない。
そのため、今のところ使える魔法は、念話というもの一つ。これはこれで便利だ。静かにしなければならない図書館でも普通に会話ができるし、それなりに離れていても通じるので携帯電話の電話代も減る。
良いこと尽くしだ――ただ一つ、ウィルと家族になれなくなったことを除いては。
ヴォルケンリッターにウィルのことを話した時の、彼らの剣幕は恐ろしいものだった。そして、決して闇の書のことを話してはいけないと言われた。
理由はただ一つ。ウィルが時空管理局の局員だから。
闇の書と管理局はここ百年の間、幾度も戦ってきて、そのたびに歴代の主と闇の書は滅ぼされてきた。もしも管理局が闇の書のことを知られれば、また管理局が闇の書を滅ぼしに来る。その時には、はやても殺されるだろう――ヴォルケンリッターはそう語った。
だから、はやては闇の書のことをウィルはもちろん、誰にも教えていない。そして、ウィルの提案する次元世界の病院で診てもらうという提案もことわった。検査をされれば、闇の書のこともばれてしまう危険があるからだ。
――別にかまわない。今の生活は幸せだ。
新しい家族がいるおかげで、家は賑やかになった。友達も時々遊びに来てくれる。ウィルとも会えなくなったわけではなく、月に一度は会いに来てくれる。
脚は動かないけど、それだっていつも通り。全然問題なんてない。
――本当に?
今の生活は確かに楽しいけれど、もっと楽しくできるはずだ。最上ははやての足が治り、約束した通りウィルとも家族になって、みんなで仲良く暮らすこと。誰だってそれが最上だということくらいわかる。
最上を目指すなら、闇の書のことも含めてウィルに相談するべきだ。ヴォルケンリッターのみんなが許さないのであれば、手紙を書いてこっそり渡せば良い。
――かまわないなんて嘘だ。
行動しないのは怖いからだ。
もしもウィルがヴォルケンリッターを敵だとみなしたら。もしウィルが闇の書の主である、はやて自身をも敵だとみなしたら――それが怖い。
そんな人じゃないと信じている――信じているのに、その一歩を踏み出す勇気がない。
今のはやては、ただ与えられた現状を許容しているだけ――今だけではない。昔から、ずっと受け身のままだった。
病気ともまともに向き合ってこなかった。石田先生が隠さずに答えてくれるのかはともかくとして、自分から病気のことを尋ねようとしたことはない。
ヴォルケンリッターに対してもそうだ。彼らの目的は、はやての守護だけではなく、闇の書の完成もある。彼女たちが現状の生活に満足しているのか、本当は蒐集をしたいと思っているのではないのか。そのことについて、深く踏み込めずにいる。
ウィルも、ヴォルケンリッターも、友人のなのはたちも、近所のおばさんたちも、はやてのことを優しいと言ってくれる。
そんなのは嘘だ。優しいはやてという印象は、見えているだけの虚像に過ぎない。優しさはただ臆病が形を変えただけ。
自分から何かをするのが怖い。自分の言動で、取り返しのつかないことになるのが怖い。だから何もしない。何も聞かない。
いつまでこの生活が続くかを知ろうとせず、いつまでも続けば良いなと考えて。いざその時が来れば、恥ずかしげもなく悲しむのだろう。それまで何もしてこなかった、自分の怠慢に目を背けて。
「はやてちゃん……キッチンから煙が出てるんだけど、大丈夫かしら?」
おずおずと進言するシャマルの声で、はやての意識は現実に引き戻された。急いでコンロの前に戻り、火を消す。少し焦げたかもしれない。
振り返れば、五人ともこちらを見ている。その視線は料理にではなく、はやてに向けられていた。料理を焦がすという、らしくない失敗をしたはやてを心配しているもの。
「大丈夫、ちょっと焦げたけど、削ったら普通に食べられるから」
はやては、みんなに笑い返した。
みんながいる――今はこれで良い。
病気がどうなるのかはわからないし、ヴォルケンリッターのみんながどう考えているのかもわからない。でも今の自分は幸せだ。
だからもう、これで良い。
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世界間転送のための転送ポートが、月村邸の裏に広がる山――当然そこも月村家の所有地――に設置されたのは、PT事件が終わってから二ヶ月、つまり七月の頃だった。これによりミッドチルダと地球を行き来するのは簡単になったが、これは異例の速さと言える。
本局やミッドチルダと地球は離れているため、ただ一度の転送では移動できない。安全に移動するためには、途中に中継点となる転送ポートを、いくつも作らなければならない。したがってミッド・地球間を転送によって移動できるようになるには、半年以上かかるはずだった。
それがたったの二ヶ月で完成したのは、もともと本局・地球間の転送ポートが存在していたから。五十年以上前に、地球で管理局を巻き込むような事件があり、地球行きの転送ポートはその時に造られた。海鳴への転送も、途中まではそれを利用している。
五十年前のポートも管理局が設置したものなので、当然アースラもその存在は把握していたが、同じ地球とはいえ転送先は欧州の英国――つまり海鳴のある日本から遠く離れていたため、PT事件の時にはまったく使用されることはなかった。
それにしても――とウィルは思う。五十年も前に作られた転送ポートが、まだ使われているとは、一体どのような事情があるのだろう。一度作ったからと言って、放置しておけば機械はすぐに使えなくなる。こまめなメンテナンスは機械の運用において、最も大切なこと。精密性が求められる転送関連の機器なら、特に綿密なメンテナンスが必要になる。
可能性はいくつか考えられるが、それはウィルに関係のないこと。そして本局の縄張りなので、深く考えないことにした。
転送ポート――遠目から見れば大きな倉庫にしか見えない――から出て辺りを眺めると、まず見えるのは、ポートを取り囲む多くの木々。樹を彩る葉も少し精彩を欠き始めている。後一月もすれば紅や黄に色を変え、紅葉を楽しめるようになるのだろう。
ひょうと吹く風は少し冷たい。
地球の暦では十月の終わり。日本に四季があることは知っているし、八月に訪れた時はその暑さに驚かされもした。しかし、先月訪れた時はまだ暑かったので、今回も大丈夫だと思い薄着で着てしまった己の愚を呪う。
バリアジャケットを纏えば、この程度の寒さは簡単に遮断できるが、今回の渡航では翻訳魔法の使用許可しかとっていない。有事でもないのに管理外世界で魔法を使うと、後で大目玉をくらう。
デバイスを使うと記録が残ってしまうので確実にばれてしまうが、ウィルはバリアジャケット程度ならデバイスなしで作ることができる。まず間違いなくばれはしない――が、市民の安全を守る管理局の一員が、そんなにほいほいと決まりを破るわけにはいかない。
ただでさえウィルは、必要となればルールを簡単に破るところがある。せめて普段くらいはルールを守って、模範的な局員でいよう。
ウィルは体を温めるために、月村邸まで走ることにした。
森を抜けると、月村邸の裏手に出る。裏庭の掃除をしている少女――ファリンに挨拶をすると、彼女は大きく元気な声で挨拶を返して、屋敷に駆け込んで行った。春も夏も、そして今も同じようなお仕着せを着ているが、寒くないのだろうか。
ファリンはすぐに戻って来た。その手には大きな紙袋。袋の中にはいくつかの箱。ウィルが頼んでおいた、はやて含む八神家の四人と一匹へのプレゼントだ。自分で吟味しいという気持ちはあったが、向こうで買うとまたゲートで没収されかねない。
金銭は、管理局と月村間での換金によって得られた日本円で支払っている。袋の中にはしっかりとお釣りの入った封筒と領収書があり、ファリンに言われるがままに確認させられた。
わざわざ手間取らせてしまったのだから、チップ代わりにお釣りを持って行っても良いですよと言うと、ファリンは「とんでもないです! そんなことできませんよ!」と体全体を使って否定した。
「それにしても、今日はウィルさんの誕生日なんですよね? それなのに、ウィルさんからプレゼントを渡すんですか?」
「居候させてもらった借りがありますから、こういう細かいところで少しずつ返しておきたいんですよ。……ついでに機嫌をとっておきたいという下心も少し。どうにもおれは、あの三人にあまり歓迎されていないようでして……」
「良い人たちなんですけどね……すずかお嬢様とも仲良くしていただいていますし」
「これを機に、もっと仲良くなりたいなぁ……」
適度なところで話を切り、ウィルはもう一度礼を言って去ろうとする。しかし、ファリンに呼びとめられた。何だろうと思い振り返ると、彼女は笑顔を浮かべて祝いの言葉を口にした。
「お誕生日おめでとうございます!」
正門に向かう途中、屋敷の玄関で今度はすずかとノエルに出会った。車で学校に迎えに行っていたらしい。互いに挨拶を交わし、少しだけ話をする。
すずかはいまだに、魔法のこと、管理世界のことを知らない。月村家が管理局との交渉をおこなっているので話しても良いのに、本人がそれを望んでいない。なのはの秘密を知るなら、友人のアリサと一緒でなければ駄目だ、と言っている。
だから彼女の知識では、ウィルはまだ外国人のままだ。そして外国人が日本にやってくる時に、なぜか自分の家の裏庭から現れるというわけのわからない状況。だというのに、すずかは聞こうとするそぶりを微塵も見せない。比べるまでもなく、好奇心よりも友情の方が重要だと感じているのだろう。
彼女はこれからすぐに着替えて、アリサと一緒にバイオリンの稽古に行くらしい。
別れ際にすずかとノエルの二人から、はやてによろしくという言葉と、ファリン同様誕生日を祝う言葉をもらった。
誰かに祝われるというのがうれしくて、思わずにやける顔を抑えながら、ウィルは月村邸を出た。
月村邸の正門から少し歩くと、海鳴から隣町に続く山道に合流する。三差路のそばにあるバス停で待っていると、すぐにバスがやって来た。夕方なので乗客は多く、ほぼ満員だ。一か所だけ、二人掛けの座席の通路側が空いていたので、そこの窓側席に座る老婆に声をかける。
「座ってもいいですか」と尋ねると、老婆は上品な笑みをうかべ、「もちろんかまいませんよ」と答えた。それを切欠として、しばし老婆と話をする。
老婆は、若い頃からずっと海鳴で暮らしてきたらしい。「この街は良い街ですね」とウィルが追従すると、しかし老婆は顔を曇らせて語り始めた。
「それがねぇ、半年ほど前は、この町もずいぶんとおかしかったんだよ」
曰く、人よりも大きな山犬を見かけた人がいる――ジュエルシードの暴走体。
曰く、大きな樹が突如街に現れ、すぐに消えた――ジュエルシードが願いを叶えた結果。
曰く、街中に小さな竜巻が発生し、急に海上沖が嵐になった――ジュエルシードの暴走。
老婆の話したおかしなことは、全てジュエルシードが引き起こした事件。
「海鳴には四十年前から住んでいたんだけど、あんなことは初めてだったよ。樹が出た時は、あたしも公園で近所の人たちとゲートボールをしていたんだけど、急に出てきた根っこで足を折ってしまって」
「それは……」
「それで、娘夫婦からうちに来ないかっていわれたんだけど、おじいさんと過ごしたこの町を離れたくなくてねえ。でも、またあんなことがあったらと思うと、やっぱり怖くて……」
老婆はそこまで言うと、言葉を切る。その顔には強い不安の色が在った。
ウィルはこの老婆を、安心させてあげたいと思った。もうこの街は安全なんだと伝えてあげたかった。
だが、だからと言ってウィルに何ができる?
ジュエルシードは回収された。もうこの街でおかしなことは起こらない。その事実を、不安におびえる老婆にどうやって伝えれば良い?
できるわけがない。魔法のことを隠したまま伝えることなんて。
結局、何事もなかったかのように別の話題に移り、ウィルは老婆を安心させることはできなかった。
八神家最寄のバス停で、ウィルは老婆に別れを告げて降りる。バス停のそばには公園がある。
時計を見て、時間の猶予はあることを確認すると、ウィルは公園に入り、その奥の小道を進む。やがて、少し開けた場所に、東屋が一つ建っているのが見える。はやてと初めて会った高台だ。
夕日で赤く染まった海鳴の街を眺める。夕焼けに照らされる海鳴の街は、半年たった今でも変わらずにあった。
すずかたちからの祝いの言葉が、PT事件での自分の行動の陽の結果であるならば、老婆の話はPT事件で自分が生み出してしまった陰の結果。
この平穏な街に、かつてウィルは災厄の種を持ちこんだ。きっと、一人ではどうにもならなかっただろう。
はやてやなのはがいてくれたから。彼女たちがいなければ、フェイトとアルフと和解することはできなかった。そして、クロノが、アースラが駆け付けてくれたから。来たのが彼らでなければ、プレシアを止めることはできなかったかもしれない。
そのおかげで、敵味方双方に犠牲者は出なかった――本当にそうなのだろうか?
この場合の敵とはプレシア側の者のことで、味方とは管理局となのはたちのこと。たしかに敵味方には犠牲者はでなかった。
だが、それ以外の者たち――魔法のことも何も知らず、ただ自らの生活を過ごしていた人々はそうではない。ジュエルシードのせいで死んだと思われる人間はいない。だが、怪我をした人間はいる。
そして先ほどの老婆のように、肉体的な傷が癒えた今でも、精神的な傷を負ったままの者は相当いるのだろう。
効率主義に汚染されている――レジアスのその言葉の意味が、ようやく理解できた。
ウィルは自分の行動が間違っていたとは思っていない。だが、間違っていなかったからと言って、それは犠牲が出なかったことと等しくはない。
ウィルは自分のやり方を理解している。自分は行動する時に必要以上に迷わない。優先順位に従って、目的を果たすために必要と思ったことをやる。もしも必要となれば、一番目の目的のために、二番目の目的を捨てることだって厭わない。
だが、そのやり方は犠牲を生みだしやすい。そして、もしも犠牲を許容してまで選んだ選択が間違っていて、取り返しのつかない犠牲を出してしまったとしたら。
その時、自分は犠牲の重さに耐えられるだろうか。
――やめよう、こんな考えは無駄だ
ウィルは無理やり考えを打ち切って、手鏡を取り出す。葬儀と仏滅と三隣亡が重なったかのような、眉間にしわをよせた鬱屈とした顔が、鏡の中にあった。
これから自分の誕生日を祝ってもらうのに、主賓がこんな顔でははやてたちも祝い甲斐がないだろう。
幸いにも、表情を作るのは得意だ。鏡に向かって笑いかけ、笑顔を作りだす。そのまま、鼻歌を歌いながら八神家に向かった。
ジュエルシードの発掘に端を発した事件は、終わりを告げた。全てのジュエルシードは回収され、この街は元通り平穏につつまれている。
だから、これで良い――そう思っていた。
次の事件はすでに始まって――いや、もっとずっと前から始まっていた事件の終わりが、ようやく始まる。