時の庭園下層部の通路には、傀儡兵の残骸が点々と横たわる。意図してかせずか、後から来る者のための道標となっている。
残骸を作り出した人物、ウィルは一つの扉から少し離れた場所に立っていた。その手に、最も新しく倒した傀儡兵を引きずっている。
視界の先にある扉は、ここに来るまでの他の扉に比べるとひときわ大きく、その向こうからはこの一月で何度も感じた、ジュエルシードの魔力反応。おそらく、この扉の向こうにプレシアもいる。
「今から連絡用の信号を発信し続けてくれ。クロノのS2U以外には受信されないように設定。おれの命令があるまで解除はしないで」
『He doesn't exist around here.(この周辺にクロノ執務官は存在していませんが)』
「それでも構わない。受信範囲に入れば、向こうから連絡があるから」
ウィルは突入する前に自らのデバイス、F4Wに命令する。
デバイスが、クロノ宛に信号を発し続けるように設定。次元震の環境下では通信状況が悪くなり、せいぜい数百メートルしか届かないが、その範囲にクロノが入れば彼のS2Uが信号を受信する。そうすれば折り返し彼から念話が送られてくるだろう。
その時にウィルが倒されていれば返事はできないが、それがわかればクロノも何らかの対策をとることができる。
「さて、ちょっと乱暴だけど仕方ないよな。普通に入ったら、そのとたんに攻撃されるかもしれないし」
ウィルはその手に持った剣士型の傀儡兵――おそらく二百キロはあるそのボディを掴みながら飛行魔法を行使し、通路に浮いた。
「それじゃあ、行きますか」
ウィルは扉に向けて飛翔し、手に持った傀儡兵を扉に向かって投げつけた。金属の残骸が扉を突き破り、扉を新たな残骸と化しながら飛ぶ。
それがジュエルシードをめぐる事件の、最終戦のゴングとなった。
*
ウィルが地球で読んだ本の一冊に、戦いの勝敗を決める三つの要素が書かれていた。
天の時、地の利、人の和の三つだ。
天の時とはタイミング。戦いを仕掛ける状況。
その時をつかんでいるのはウィルだ。今のプレシアは武装隊のおかげで非常に弱っている。そして、この短時間ではそれほど回復もできていないはず。
対してウィルは傀儡兵との戦いがあったとはいえ、そのほとんどは武装隊やクロノと共に戦ったので、それほど消耗していない。
次は地の利、戦う場所だ。これはウィルにとって、決して有利ではない。
なぜなら、高速空戦を得意とする者にとって屋内戦は鬼門だからだ。ウィルのように相手が視認できないほどの速度と、それによって生み出される破壊力を売りとする者は特に。
まず屋内では加速に必要な距離が得難いので、どうしても屋外に比べて速度を上げにくい。さらに狭いので無暗に速度を上げ過ぎれば、方向転換ができない。加速したは良いが曲がり切れずに壁にぶつかっては何が何やら。
良い点がないわけではない。速度が遅ければ、判断ミスは少なくなり、加速のために使う推力を方向転換に使えるので、普段ならできないような機動ができる。
それでも、いつものように戦うのが一番強いのは当たり前。
それに、ウィルの高速空戦は対プレシアにおいては有効な切り札になり得たはずだった。
プレシアは科学者であって戦士ではない。だから、その動体視力はそれほど良くないはず。少なくとも遷音速が出せれば、プレシアではウィルの動きを捕えきれないだろう。
それなのに、この部屋の広さは直径二百メートルほど。一つの部屋としては十分に広いが、ウィルにとっては狭すぎる。本気を出せば静止状態からでも一秒強で端から端まで到達できるほどだ。
この部屋で出せる現実的な速度は、全力のおよそ五分の一の秒速八十メートル。時速になおして、およそ三百キロメートル。一瞬ならその倍までは出せるだろうが、所詮その程度。対応されてもおかしくはない。
以上がウィルにとって不利な事柄になるが、完全に地の利を逸したわけではない。
プレシアはこの状況では広域魔法を使えない。それは当然魔力の問題もあるが、もっと大きな要因がある。ジュエルシードがこの場に存在するということだ。
ジュエルシードのそばで広域魔法など行使すれば、制御しているジュエルシードがプレシアの巨大な魔力にあてられて暴走してしまう危険が高い。だからプレシアは広域魔法を使用できない。
もしも室内で広域魔法を行使されれば、どれだけ速かろうと、複雑な機動をとれようと、逃げることはできない。とっさに通路に逃げ込めれば良いが、そううまくはいかないだろう。
それを考えれば、屋内戦での広域魔法の使用不可は非常に大きい。プレシアは飛び回るウィル相手に魔力弾や砲撃を当てなければならない。それは、飛び回る蜂を叩き落とす以上に難しい。
このように両者にとって互いに不利な要素が積み重なり、地の利は互角となる。
最後に人の和。結束、仲間との協力。
これは言わずもがな。今はお互いに零だが、ウィルにはクロノがいる。
以上の三つをもとに、方針を決定する。
基本は攻。こちらから攻撃を続けて早々に決着つけることを狙う。それで倒せるようであれば良い。無理だと判断すれば、回避に専念してプレシアを消耗させる。
三つの要素がここまでウィルの味方をしているのなら、まず負けることはない。
**
煙を裂いてウィルが駆ける。それに合わせて、プレシアの片手に紫の魔力光が集まる。
即座に突撃を止めて上昇する。その動作と、プレシアがナイフを投げるように手首を返したのはほぼ同時。
先ほどまでウィルのいた場所を雷が通りすぎる。バチバチと空気が引き裂かれる音と、嫌なにおいが発生する。フェイトと同系統の魔法だが、速さ練度威力全てが数段上。
雷は入口付近の壁を抉り取って消えた。対物破壊――つまり非殺傷ではない。わかっていたことだが、気を引き締めなければ、死ぬ。
一撃でウィルの命まで刈り取りかねない魔法も、大魔導師プレシア・テスタロッサにとっては牽制にすぎない。すでにプレシアの周囲には十を越える魔力弾が浮遊しており、上昇途中のウィルに向かって一斉に放たれる。この魔力弾をかいくぐって、プレシアに攻撃することは不可能。魔力弾の一個一個は点でも、十もあればもはや面だ。弾の隙間を通り抜けることは難しい。威力も格下のウィルにとっては十分。一発でバリアジャケットを持っていかれる。
横方向に移動して避けると、魔力弾の群れはウィルの横を通りすぎた――が、背後で軌道が変化。回避したはずの魔力弾が、進路を百八十度変えて背後から襲いかかってきた。
回避のために速度を落とすようなまねはせず、むしろ加速して、誘導弾に背を向けるようにして逃げる。背後から魔力弾の群れが追いかける。
あの数の魔力弾が全て誘導弾であるはずがない。おそらく術者以外の対象を追いかけるように誘導機能を付けた直射弾にすぎない――それでも十分にすごいのだが――とあたりをつける。
追いつかれないように加速すると、すぐに部屋の端に到達。壁が目前に迫る。減速――魔力弾との相対速度がマイナスになり、両者の距離が縮まる。魔力弾はウィルのすぐ後ろに迫っていた。
ウィルは壁にぶつかる直前に、くるりと百八十度回転し、頭と足の方向を逆転させる。そして脚のばねで衝撃を受け流し、力強く壁を蹴って、斜め上に飛びあがる。
ウィルが壁を離れた瞬間、そこに次々と魔力弾が殺到した。ただ回避するのではなく、魔力弾を壁にぶつけることで消すのが目的だ。
だが、魔力弾はぶつかることなく、そのまま壁の向こうへと消えていった。そして、すぐさま壁から魔力弾が飛びだしてきた。
物質に影響されていない。つまり、魔法弾は非殺傷設定だった。
先ほどの攻撃が対物設定だったので、この魔法もそうだと思い込んでしまった自分に舌打ちする。
さらに悪いことに、プレシアの周囲にはさらに新たな魔力弾が浮いていた。その数は、後方から迫って来ているのと同数程度。前方と後方を合わせれば魔力弾の数は二十を越える。
プログラム通りに愚直に追いかけてくるなら同じように避けるだけ。そんな考えはプレシアには通用しなかった。二十個の魔力弾は、それぞれが意志を持つかのごとく、それぞればらばらの方向に動き始める。
その意味するところを理解し、凍りつく。魔力弾は自動追跡などではない。プレシアの放った二十以上の魔力弾は、その全てが誘導弾。
誘導弾は術者の思考によって動きを変えることができる。魔導師はマルチタスクによって複数の誘導弾を操るが、一個につき分割された思考が一つ必要だ。つまり、二十全てを自在に操るには思考を二十個以上に分割しなければならない。
大魔導師の呼び名の恐ろしさを、ようやく理解する。
戦いなど経験しなくとも、規格外に優れた魔法と知性のみで、他を寄せ付けない圧倒的な実力を有している。
そんな人物を相手にしているというのに、ウィルは油断していた。その愚かさを認識する。相手は科学者だから、弱った相手だから、クロノたちがここまでしてくれたのだから――だから、そうそう負けることはないと思い込んでいた。
意識を切り替える。相手は格上だ。悠長に遊んでいる余裕はない。今すぐ決めなければやられるのは自分だ。
魔力弾はウィルを中心として球を描くように取り囲み、全ての魔力弾が中心のウィルに向けて襲いかかる。
動かなければ、前後左右上下あらゆる方向から魔力弾に襲われる。早く行動すればするほど球の半径は大きい。つまり、弾と弾の間隔も広くなる。できるだけ大きな隙間を見つけて、この包囲網から少しでも早く脱出しなければ。
弾の密度が薄い場所はすぐに見つかった。ウィルとプレシアをつなぐ直線上だ。その意味するところを理解したウィルの顔が歪むが、それでも即座にその隙間に向かって駆ける。
見上げるプレシアと、見下ろすウィルの視線が交差し、プレシアが嗤う。
わかっている。その笑みの意味くらい。
わかっている。このルートが罠だということくらい。
自分の真正面など、本来なら最も優先して防がなければならない場所。他の――たとえばウィルの背後方向に隙間があるのなら、たとえそこから脱出されたとしても、ウィルとプレシアの間には距離があくので安全だ。
だというのに、プレシアはわざと自分との直線上に穴を開けた。そこを通って包囲網から脱出されれば、即座に反撃をくらう危険がある。そんなリスクの高い行為が罠でないわけがない。
わざと一本だけ逃げ道を開けて、ウィルがそこから抜けようとのこのこやってきた時を、本命の魔法で狙う。おそらくはそんなところだろう。
それがわかっていても、のるしかなかった。のれば相手の思うつぼだが、のらなければこのままやられるだけ。
だが、ウィルにはまだ奥の手が残っていた。
ウィルは脚部のハイロゥに魔力を流し込む。魔力から変換された運動エネルギーを与えられた圧縮空気が、ノズルから勢いよく噴出した。
プレシアの瞳が驚愕で大きく開かれる。これがプレシアの計算を狂わす一手。歯車を止める一石だ。
ウィルはこの戦いで、まだハイロゥを使っていない。したがって、プレシアはこれを使った超加速を知らない。予想外の速度を出すこと、プレシアに攻撃される前に包囲網を脱出するつもりだ。
目論見通り、ウィルはプレシアの攻撃が来る前に網を抜けた。プレシアとの距離は三十メートルをきる。
ウィルは脱出の勢いそのままに、プレシアに突撃する。時間を与えても、また包囲されるだけ。今度はハイロゥの加速さえ計算に入れて、完璧にウィルを封じにくる。勝機はここにしかない。
プレシアが自分の予測が崩されたことに気付くが、かまわずに魔法を放とうとする。
ウィルの剣が叩き伏せるが早いか。それとも、プレシアの魔法が貫くが早いか。
お互いの距離は二十メートルをきる。
――無理だ
実戦で培った勘がそう告げる。このまま直進してもプレシアは倒せない。わずかにウィルが雷に焼かれる方が早い。
もはや両者の間は十メートルをきる。互いに相手の瞳に自らの姿を見る。
その瞬間、ウィルはバリアジャケットを解除した。
バリアジャケットで軽減されていた空気抵抗が身体を押しつぶす。見えない壁に叩きつけられる痛みに身もだえしながら、逆流しそうな胃の中身を抑え込む。空気抵抗による過失速――ここまではただのコブラ。そして、ここからが問題だ。
ウィルは右足を右に出し、右足のハイロゥにいつも以上の魔力を込め、ブースト。ウィルの体が左へと大きく動く。
プレシアの手から雷が放たれたが、ウィルの体はそこにない。すでに左へと移動している。
ウィルの体は左向きの力が加わったことで、左斜め前方に進む。このままではプレシアに攻撃するどころか地面にぶつかる。プレシアに攻撃するためには、今度は右向きの力を加えなければならない。
飛行魔法で姿勢を、身体の向きを変える。そして、今度は左側に左足を突き出し、ありったけの魔力を左足のハイロゥに込める。先ほどと同じ魔力では左向きの力が打ち消されるだけ。先ほどの倍以上の魔力を込める。
過剰に生成された運動エネルギーにデバイスのボディが悲鳴を上げる。その莫大なエネルギーを使って、ウィルはほぼ百八十度近い切り返しをおこなう。
軌跡が雷を描く――オリジナルマニューバ、ライド・ザ・ライトニング
ウィルの剣がプレシアをとらえる。互いに手を出し尽くした結果、わずかにウィルが上回った。
だというのに、偶然か、それとも執念か。魔法の連続行使がプレシアの身体にさらなる負担を与えたせいで、プレシアの意識が一瞬途絶。体が崩れ落ちる。
剣は空を切った。
あまりにも見事に回避され、ウィルは一瞬我を忘れた。が、すぐに反撃するために反転しようとするが、今度は自分の目前に迫る物の存在に気を取られた。
進行方向に一つの円柱が備え付けられていた。生物を保存するためのポッドだ。外側は透明な材質でできていたため、中に入っているものの形がはっきりとわかる。中には緑色で透過性の高い液体が注入され、さらに“あるもの”がその中に入っていた。
ただの実験器具なら、気にせず突っ込むなり、足蹴にして方向転換の道具にするなりしたはずだ。しかし、その中身はウィルにまるで異なる行動を取らせた。
ウィルは飛行魔法を後方にかけて減速。再度バリアジャケット解除によるエアブレーキで減速。剣を床に突き立てて減速。
全てを同時におこない、さらに身体をひねり、ハイロゥを再度使って強引に進路を変えて、そのポッドを避けた。
無茶な軌道変更のせいで地面にぶつかる。すぐに止まろうとするが、二度も空気の壁とぶつかったせいか、体がうまく動かない。ごろごろと転がって、ようやく止まった。さらに、短期間に連続して強いGがかかったことで、ついに腹からせりあがる胃液を抑えられずに吐き出す。
これだけ猶予があればプレシアも立ち直っているはずだ。
これは死んだかな――と思いながら、ウィルがプレシアを見ると、彼女もまた床に膝をつき、苦しみながらこちらを見ていた。魔法を撃てないのか、撃たないのか。
プレシアは、魔法の代わりに言葉をウィルに投げかけた。
「どうして避けたの」
プレシアとウィルの視線が、ポッドに注がれる。
「そりゃあ……あれに突っ込むのはいくらなんでも気が引けるじゃない?」
ポッドの中には、緑色の液体に包まれて、フェイトそっくりの少女が眠るように浮かんでいた。
***
ウィルはポッドを指さしながら、疑問を口に出す。
「おれの方からも質問していいかな。この子はアリシア……でいいのかな? それともフェイトちゃんと同じく、アリシアのクローンなのか?」
「アリシアのことは知っているのね。……これはアリシア本人よ。あんな失敗作と一緒にしないで」
答えるプレシアの口調には激しい嫌悪があった。二つを同一視されることが余程嫌なのだろう。アリシア(オリジナル)とフェイト(クローン)を同じように扱われることを嫌悪するという理屈は理解できる。しかし、フェイトをそこまで嫌う理由がわからない。
「失敗作、か。フェイトちゃんは良い子だよ。よくできた……文字通り良く出来たているじゃないか」
「何も知らないあなたから見ればそうかもしれないわね。でも、あれはアリシアになれなかった。だから失敗作よ」
「クローンは本人にはなれない。それくらいわかっているはずだ」
プレシアは怪訝そうに眉をひそめる。そして、得心がいったのか、皮肉気に口元を歪める。
「そこまでは調べてなかったのね。あれは、ただのクローンじゃないの。肉体はただのクローンにすぎないけれど、頭の方は違う。あの子の頭にはね、アリシアの記憶がつまっているの。
『プロジェクトFATE』――他者の記憶を移植する技術を使ってね」
プレシアの言葉はにわかには信じがたかった。
記憶の移植とは、つまるところ人の頭の中身を書きかえるということにほかならない。いや、そもそも人の記憶というあいまいな情報を他者に与えるほど具体的なデータにできるものなのか。
アナログからディジタルへの変換を可能とするとなら、その技術は現状の生命の定義に対する大きなアンチテーゼになり得る。脳を回路で、ニューロンを電気信号に置き換えることを可能とするかもしれないのだから。
ウィルの懐疑的な思いを感じたのか、プレシアは嘲笑のような笑みをうかべる。
「信じられないの?」
「当たりまえだろ。そんなことが可能なら、間違いなく管理世界全体がひっくり返る。それに……失礼だけど、それはあなたの専門分野とは異なるんじゃないか? 専門家でもない者に、そんなすごいものを考えつけるとは……」
「否定しないわ。事実、私が考えたわけじゃないのだから。この理論はもらいもの……というよりは、天才の出した試験のようなものなのよ。プロジェクトの基礎理論は公開されていたけれど、理解できなければ何に利用できるのかもわからない。理解さえできれば後は実証実験を繰り返せば良いだけ。それほどの完成度があったのよ。
私はその理論を実用できる段階にまで持っていった。その成果がフェイトよ。
でも、駄目だったわ。できたのはアリシアにはほど遠いものが一つ。仕方がないから、プロジェクトの名称を名前として与えて、手元に置いていたのよ。本当のアリシアを取り戻せる日まで、アリシアの代わりとして少しの慰めになるかと思ったけれど、それ以下だったわ。駒として有用じゃなかったら、とっくの昔に処分していたでしょうね」
プレシアのフェイトへの思いは失望という生易しいものではなく、もはや憎しみとなっていた。無関心なら理解もできるが、自分が生み出した者をどうしてここまで憎めるのか。
「娘にそっくりの子に向かって、よくそんなことが言えるな」
「そっくり? あれが? 笑えないわ。アリシアのことを何も知らないあなたが勝手に語らないで。そっくりなのは見た目だけ。記憶を持っているのに、それ以外は全然駄目よ。利き手は逆。話し方はおどおどしているし、私の顔色をうかがうような卑屈な目、アリシアは絶対になかったわ。なにより、アリシアはもっと優しく笑ってくれた。アリシアは時々わがままも言ったけど、私の言うことをとてもよく聞いてくれた。アリシアはいつでも私に優しかった。あれとアリシアはまったくの別物。作りものの命では、失った命の変わりにはならない……結局、命そのものを取り戻すしかない」
「死者の復活……それが、あなたの目的か」
「そうよ。私はジュエルシードを使って、アリシアを蘇らせる」
プレシアは高らかに宣言する。その言葉を発した自らの意志、それを自身を支える柱として、彼女はゆっくりと立ち上がる。まだ戦える、まだ戦うという姿勢の表れ。
彼女がここまで戦えるとは想定外だ。魔法一つ放つだけでも、演算ができなくなるほどの激痛がはしるはずなのに。黄金のように変わらない意志で、痛みさえねじ伏せて立つ。
意思の力は、ここまで人を強くさせるのか。
ウィルは口元を押さえながら、さらに問いかける。
「どうやって? ジュエルシードの願いを叶えるってふれこみは誇大広告もいいところだ」
「そんなものには興味ないわ。私にとって大切なのは、このロストロギアに次元干渉効果があるということ。世界を、空間を捻じ曲げる力――それはつまり、次元震をおこすことも、止めることも可能ということ。この力で私は旅立つの。失われし都、世界の狭間に存在する禁断の地――アルハザードへ!」
その言葉の意味を理解するには、少し時間が必要だった。一拍遅れて、ようやく理解が追いつく。
アルハザード――はるか古代から存在していたと言われる伝説の世界。
数多くの文明が、発達した自らの技術を制御できずに崩壊する一方で、森羅万象を自在に操るに至った一つの世界があったと言われている。
命でさえ、時でさえも、可逆とする幻の理想郷。
実在する世界なのかはわからない。いくつかの古代文明が残した記述にそれらしき文明の存在が示唆されており、アルハザード由来という触れ込みのロストロギアが存在する。それだけだ。どこにあるのか、まだあるのかもわからない。
有力な仮説では、アルハザードの周囲は常に大規模な次元断層に囲まれているため、こちらから観測することはできないのだとも言われている。それが事実なら、ジュエルシードはその次元断層を抑え込むために必要――と言ったところなのだろうか。
たしかにそんな世界に行けば、死者の蘇生くらい造作もないが――
「あるかもわからない御伽話を信じているのか」
「アルハザードは存在するわ。そこに至る道のりもある」
「仮にあったとしてもそこに辿りつける可能性なんて――」
「限りなく少ないでしょうね」
プレシアは実験結果を述べるように淡々としている。そんな危険な賭けをおこなうと言うのに。失敗すれば当然生きて帰って来ることはないというのに、まるで不安を抱いてない。
「それがわかっているのに本気でやるつもりなのか。失敗すればあなただって死ぬ。それに、行けようが行けまいが、ジュエルシードが発動すれば何の関係もない地球を巻き込むのに」
「当然よ。たとえ塵ほどであっても可能性があるのなら、諦めることなんてできないわ」
「アリシアが亡くなって、もう二十年近くになるのに……それなのにまだ諦められないのか。新しい道、新しい幸せだってあるだろうに」
「そんな道はないわ。それに、たとえその道がどれほど楽だとしても、今の道を進むことを止めた瞬間に、私は私でいられなくなる。あなたみたいな子供にはわからないでしょうね。この、どこまでも求める、狂おしい渇望は」
突き放すようなプレシアの言葉。他者の理解と共感を拒絶する凍りついた意志。
ウィルは思わずつぶやく。
「わかるよ」
ウィルはいつの間にかプレシアの言葉に聞き入り、彼女の思いに共感していた。フェイトの話は不快そのものだったが、彼女の一つのことにかける渇望は、とても心地が良かった。
思わず笑いそうになって、口元を手で隠さなければならないほどだ。
「わかるから、すごいと思うよ。そして、あなたの強さを尊敬する」
プレシアは、初めてぽかんとした顔をしていた。
ウィルはもはや隠しきれないほどに、顔が笑ってしまう。気の合う友人と出会った時のように。美しいものを見て陶然とするように。凄いものを見て、思わず笑ってしまうように。笑う。楽しくて。
「あなたの行動は容認できないけど、その強さはおれの憧れそのものだ。おれにも、どうしてもなしとげたい目的がある。それを成し遂げるためなら、何を犠牲にしても構わないって思えるような。十年、そう思い続けてきた。だから、それを実践しているという点においては、おれはあなたを尊敬する」
「あなたみたいな子供が、一体何に……」
ウィルははにかみながら、そして誇らしげに、己の絶望を口に出す。
「復讐さ。父さんを殺したモノをこの世界から消し去りたい」
「私以上に無意味ね。仇をとったとしても、何も得ることはないわよ」
「でも、どうしてもしたいんだ。この先、どれだけ自分の人生を犠牲にしても構わない。だって、この気持ちは抑えられないんだから。あなたならわかってくれるだろ?」
「……本気みたいね。あなたも同類、か。皮肉なものね。最後に私を止めに来たのが、よりによって同類なんて」
「ああ、その通り。おれとあなたは似たもの同士だ。だから、あなたに協力したいという気持ちもある。……でもそれはできない。おれは管理局の一員だし、この作戦には友達も参加している。おれが引いたら、今度はその友達が危険な目に合う。それに、あなたがジュエルシードを発動させたら地球が滅ぶ。短い間だったけど、あの世界には世話になった人がいる。幸せになってほしい……幸せにしてあげたい人もできた。
あなたの気持もわかるし共感もする。でもそれはどこまでいっても、おれにとっては人ごとなんだよ。自分の大切なものと他人の大切なもの――どっちかを選ぶなら、おれは自分の方を選ぶ。そう割り切る。だから、ごめん。あなたの思いが間違っているとは思わない。でも、ただおれの利を通すために、おれはあなたを止める」
語り終え、ウィルも立ち上がる。魔力が循環し、バリアジャケットが再構成される。それに合わせてプレシアも身構えた。
しかし、ウィルはほほ笑んでゆっくりと歩き始める。
「それでも、せめてできる限りの範囲で協力するよ。とりあえず、もう二度とアリシアちゃんを戦闘に巻き込まないようにする。それから、“おれができうる限り”、あなたを傷つけないように倒すよ」
「そんな手加減をして、私に勝てると思っているの? それに、手を抜く必要なんてどこにもないわ。どうせこれが失敗すれば、私に生きている意味も価値もないのだから」
「そんなことはないさ。おれに負けて管理局に捕まっても、命さえあれば再挑戦のチャンスはある。脱走するチャンスがあるかもしれないし、あなたが生きているうちに画期的な技術の進歩があって、合法的な手段でアリシアちゃんを復活させることもできるかもしれない。生きてさえいれば、可能性はいくらでもあるんだ」
ウィルは臆面もなく話す。管理局の局員とは思えない言葉を聞いて、プレシアは思わずクスクスと笑う。
「あなた、変わっているわね。でも、確かにそうね。生きている限り希望はある。そう言えば、まだお礼を言ってなかったわ…………ありがとう。あなたがアリシアの入ったポッドを優先してくれた時、本当に心の底からほっとした。それから、私の気持ちを、行為を否定しないでくれたことも。……少し嬉しかったわ」
少し照れながら、プレシアはそう言った。
「結局あなたの邪魔をしようとしているんだ。同じことだよ」
「でも、あなたが邪魔するのは利害の不一致ゆえ……でしょう? だから嬉しかったのよ。間違っていることをしていることも、他人に迷惑をかけていることもわかっている。自分のしていることは許されないと理解している。だけど、やっぱり少し寂しかったんでしょうね。あなたに間違っていないと言ってもらえて、少し救われた気がするわ。お返しに、この道の先輩として一つ忠告しておくわ」
「静聴します」少しおどけながら答える。
「私があの子――フェイトが嫌いな理由はね、似てないからだけじゃないのよ。むしろその逆よ。何よりも、似ているところに腹がたつの。姿なんかは特にそうね。時々、フェイトがアリシアのようにふるまう時が…………違うわね。あの子をアリシアのように錯覚してしまう時があるのよ。錯覚するということは、その二つのものの境界が揺らぐと言うこと。その結果、何がおこると思う?
次第に、アリシアのことを思いだせなくなるのよ。アリシアのことを、その声を、仕草を、体温を思い出そうとしても、うかんでくるそれがフェイトのものに変わっているのよ。気付いた時は心底絶望したわ。もう一度、アリシアが死んだような気さえした。慌てて昔の映像を引っ張りだして、こうして保存していたアリシアの姿を見て、私の中のアリシアを取り戻そうとしたけど、もう駄目だった。きっと情報量が違うからでしょうね。映像や記憶の反芻では、今触れあえる生の人間から得られる情報量にはかなわないから。
これが、私があの子が嫌いな理由。あの子はただ存在するだけで、私の中のアリシアを犯す。私の中のアリシアを殺していくのよ」
ずいぶんと勝手な理屈だ。模造品として生み出され、似ていないからと嫌われ、似ているからと憎悪される。どこまでも勝手だが、少しだけ理解できる気がした。
しかし、これではあまりにもフェイトが救われない。彼女がどれだけ頑張っても、プレシアがフェイトを好きにはならないのだから。
本当にそうかだろうか。
嫌いなこと、憎むこと。それだけではないのではないか。むしろ、プレシアがフェイトにも安らぎを覚え始めていたから、同種の感情を持ち始めたから、二人の境界があやふやになったのかもしれない。強引な理屈かもしれないが、そう思いたい。これではあまりにもフェイトが救われないから。
だから、ウィルは話を続けようとするプレシアを遮って問いかける。
「でもそれは、フェイトちゃんのことを愛し始めていたってことじゃないか?」
「そんなわけないじゃない。私はフェイトが嫌い。憎んでさえいる」
「愛と憎しみは同一直線上にあるわけじゃないよ。それぞれに独立したパラメータだ」
「二十年も生きてないくせに、悟ったようなことを言うのね。……まあいいわ。もしかしたら、そんな気持ちもほんの少しくらい、あったのかもしれないわね。今さらだけど」
プレシアは苦笑する。
「話がそれたわね。だから、私が言いたいのは、どんな思いも変質してしまうということ。あなたの復讐心がどれだけのものかはわからないけど、それだっていつかは変質する。大切な人の記憶だって、時間ともに消える。過去の大切な人のいた場所が、新しい大切な人で埋め尽くされていく。私はそれを自覚したから、こんな場所に引きこもって、誰とも付き合わなくなった。……きっと、その孤独に耐えられなくて、フェイトを生み出したんでしょうね。記憶を受け継いだだけでは、アリシアは戻って来ない。そんなこと、予想できていたのに。そして、そのフェイトが私を変質させる最後の藁になった。
あなたも覚悟しておきなさい。いつまでも復讐心を失わないなんてことはない。あなたが本気でその気持ちを変質させたくないと思うのなら、その道はきっと私以上に厳しいものになる。きっと、今持っている全てを投げ出さなければならないほどに。その覚悟がないのなら、早めに諦めなさい」
「自分はその道を選んだのに?」
「選んだからよ」
「まったく……おれが言えたことじゃないけど、大人っていうのはどうしていつも、自分のことを棚に上げて言うかなぁ」
「大人だからよ。特に親って言うのはね、自分が出来なかったことを子供にやらせようとしてしまうの。……そう言えば、私もアリシアにいろいろと習い事をさせようとしたことがあったわね」
昔を思い出すようなプレシアの笑みが本当に綺麗で、これ以上聞いていると、引きずり込まれそうな気がして、ウィルは剣を構えた。それを見て、プレシアも微笑むのをやめる。
ここから先は再び戦い。だからその前に、最後に一言。
「でも、ありがとう。それから……あなたは本当に素敵な人だ」
これまでの会話から理解する。人によっては、娘を失ったことに心が耐えられなくて、狂気にとりつかれた悲劇の人だと、彼女を表現するかもしれない。
でも、ウィルはまったく逆のように感じる。彼女は、本当に強い人だと。
現実を容認しない傲慢さ。欲しいもの以外を拒絶してしまう愚かさ。手に入れるためになりふり構わない醜さ。ありえない夢物語を、ちっぽけな可能性を信じて、本気で渇望できること。
渇望の前では、正義も悪も生も死も――そういった他者との比較の基準が等しく無意味だ。渇望を満たすか、満たさないか。ただそれだけの二元論。まさに駄々をこねる子供。
本当にただの子供なら恐ろしくはない。だが、彼女は大人だ。怖いもの知らずの子供ではない。
恐怖を――失うことを、奪われることを知っている。絶望を――届かないことを知っている。安らぎを――全て忘れ去って、新しい幸せと共に生きることを知っている。
こんなはずじゃなかった世界――どうしようもならない現実を知った上で、なお世界と戦うことを選んでいる。
それは強さではないのか。
悲しい過去を乗り越えて新しく生きることが強さなら、悲しい過去と向き合って戦うのもまた強さ。
プレシアの強さに、それがたとえどす黒いものだとしても、彼女の意志の輝きを感じ、改めて彼女に対して憧れを抱いた。
二人は互いを認め合いながらも、己を通すため、互いを倒そうとする。
剣を構えるウィルに対して、プレシアは自然体のまま動かない。
プレシアの意識はウィルに集中している。高速からの攻撃は危険だ。一瞬でも油断をすれば命取り。ぼろぼろになった体を奮い立たせ、閉じそうになる目を必死で開け、プレシアはウィルを見据える。その一挙手一投足一飛翔を見逃さないように。
それでも、プレシアの心は体に反して非常に穏やかだった。こんなに楽な気持ちはいつぶりだろうか。心の内を語って、互いに意見を受け止め合うことは、こんなに気持ちが良いこと。もうずっと、その感覚を忘れていた。
ウィルが先に動く。突撃。プレシアのもとへと、一直線に向かって来る。
プレシアの極限にまで高められた集中力はその動きを見逃さなかった。
疲れ果てた身体は驚くほど俊敏に魔力を伝え、自身のできうる最大の魔法を構築する。
その前にプレシアの意識は闇に落ちる。
意識が完全に闇に包まれる前に、自分の体が抱き止められるのを感じた。
そして彼女は、自分の敗北と、自分に足りなかったものを理解した。
****
「良いタイミングだったよ、クロノ」
ウィルはプレシアに向かって突撃し、背後からの攻撃で意識を失って崩れ落ちたプレシアを支えた。
プレシアの後方に立つクロノは、不機嫌そうに言う。
「こういうやり方は……あまり好きじゃない」
クロノがこの部屋に辿りついたのは、ウィルとプレシアが話している時だった。クロノはウィルに念話で連絡。それを受けたウィルは、そのまま会話を続けプレシアの視線を自分一人に集中させる。そして、その隙にクロノは入口からプレシアの死角へと移動。
最後の戦いでプレシアの意識が完全にウィル一人に向いている隙を使って、背後からクロノが魔法を叩き込む。
それがウィルの策だった。
「でも、これが一番プレシアを傷つけない方法だ。それから、クロノもプレシアの人となりはわかっただろ? この人は、ただの悪人じゃなかった」
「……そうだな。やったことは許されないが、彼女には彼女の思いがあった」
「それじゃあフェイトちゃんと二人合わせて、弁護はよろしく頼むよ、クロノ執務官」
「それは任せてくれ。……ところで、さっき言っていたことは……」
「どれのことを言っているのかはあえて聞かないけど、どれも本心だよ。シリアスな話では、必要がない限り嘘はつかないさ」
「そうだな。そういうやつだったな、きみは。……とにかく、まずはジュエルシードを回収してアースラに帰ろう。僕が封印するまで、じっとしていてくれ」
「手伝おうか?」
「一人で良い。暴走しているわけではないから、落ち着いてやれば失敗しない」
クロノはジュエルシードに向き合って、封印を始めた。
その後ろで、ウィルはプレシアの顔をじっと見る。彼女は驚くほど穏やかな顔をしていた。目が覚めた時。彼女がどう行動するのかはわからない。だが、これだけ穏やかな顔をしているのなら心配はいらない――そんな楽観的な希望さえ抱いてしまいそうだ。
それにしても先ほどの戦いは、クロノがいなければウィルは間違いなく負けていただろう。
それが勝てたのは――
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず……ってことなんだろうなぁ」
「どういう意味だ?」
いつの間にか封印を終えたクロノが、怪訝な顔をして横に立っていた。
笑いながらウィルは答える。
「仲間がいるやつが、一番強いってことだよ」