ここに、とある世界がありました。その世界には、『不思議』はありませんでした。妖精、神話、悪魔、魔法といった、人の理解を超えるものは、何もありませんでした。そんな中、ひとつだけその世界に、おかしなものがありました。
闇、影、悪、そんなふうに呼ばれる、ただただ真っ黒な生き物のような何か。この世界の不思議は、それだけに集められていました。正しい名前はありません。ただ恐怖に怯えた人々が、各々の感じたままにその名を呼びました。
この世界には『不思議』がありません。だから人々が持っているのは、自分の体と知恵だけ。それでは『不思議』にかないません。だから人々はいつも不思議に見つからないように、ひっそりと慎ましやかに暮らしていました。
その世界のはじっこの、とある村に、後に救者と呼ばれる少年がいました。少年は、ある想いを胸に、ただただひたすらに剣を振りました。朝も、昼も、夜も、一途に、真っ直ぐに、一生懸命剣を振りました。
やがて少年は青年となり、その村から旅立ちました。村の周りには、もう『不思議』はありません。だから青年は、安心して旅立ちました。
青年は旅だった後も、同じことだけを想って、剣を振り続けました。やがてその青年の姿は人々に希望をもたらし、初めは愚者と呼ばれていた青年は、やがて救者と呼ばれました。
青年が旅立ってからしばらく経った頃、この世界に悪魔と呼ばれるものが現れました。悪魔は『不思議』ではありませんでした。なのに不思議な力を使いました。そう、この世界にはないはずの『不思議』、魔法です。悪魔はその力を以て悪逆の限りを尽くし、時折この世界から居なくなっては、人々が思い出した頃にこの世界に現れてその力をふるいます。
この物語は、救者と呼ばれた青年と、悪魔と呼ばれた存在が、出会った時、始まります。
「君が、悪魔?」
「……なに、アナタ」
辺りに何もない荒野で、一組の男女が見つめ合っていた。とはいっても少女は気だるげな様子で、横目で視線を送るばかり。それとは対照的に青年はまっすぐにその少女を見詰めているが、どうにも二人の温度差は致命的なようだ。
「僕は、タケル。タケル・ミヅチ。近くの村で、悪魔が村の畑を荒らしてるって聞いて――」
ニヤケ顔(少女の目にはそう見える)の、黒髪黒目。革鎧に、腰に剣らしき長物。見たところ最近村を飛び出したばかりの、無謀な正義感に溢れた頭の足りない旅の剣士といったところだろう――などと、少女は本人が聞いたら数日は落ち込ませてしまうであろう容赦のない評価を内心で下しながら、正面にいる青年に向かってまっすぐに手の平を掲げ吐き捨てるように口を開いた。
「それで、アタシを殺しに来たってわけ? ふうん……それはそれは、ご苦労なことですこと。ご愁傷さまでした」
そして次の瞬間、少女のその黒い手袋に包まれた繊細な指先から手首までが白く輝いて、そこからタケルに向かってまるで矢のような勢いで光の玉が撃ちだされた。
「うわあ!?」
悲鳴と共に、砂塵が舞い上がりタケルの姿が見えなくなる。
これで気絶ぐらいはしただろうから、あとはその"近くの村"とやらに適当に放り投げておこう。と己の放った魔法弾の直撃を微塵も疑わず、眼前で無様にひっくり返っている筈の青年への対応を考えながら、少女は自然の風が舞い上がった砂埃を掃除してくれるまでその光景をぼんやりと眺めていたのだが……
「ああ、びっくりした。『彼ら』とは違う不思議な力を使うって聞いてはいたけど、ホントだったんだなあ」
やがて土煙がはれて現れたタケルの姿は、完全な無傷。少女はその事実に驚き、身体をわずかに硬直させた。
(……どういう、事?)
ウィズの思考が身体と同じように硬直し、そこに空白が生まれる。そして直後にその空白に埋まったものは、大きな疑念と困惑だった。
魔法は同じ『不思議』によってしか、防げないはずなのに。どうして何事もなかったかのようにタケルが立っているのかが、少女には理解出来ない。魔法の存在しないこの世界に魔法使いは存在しないはずだし、いたとしても今のタイミングで防げるはずもないのだ。彼女の魔法は彼女だけの技術により、詠唱も何も無しで一瞬にして放たれるのだから。
(じゃあ、なんだっていうのよ。もしも、今のを防いだのが魔法じゃなかったとしたら……アタシの魔法をまさか、ただの鉄でできた剣で防いだとでも言うの? そんなの、馬鹿げてる。ナンセンスだわ……)
しかし現実にタケルには魔法が当たった様子はなく、そして先ほどまでとの違いといったら、何時の間にか抜き放たれている剣と、それを握って佇んでいるタケルの姿のみ。
(なら……もう一度だ。それで確かめてやる)
そうしていささか物騒な結論に至った少女――ウィズは手を掲げ、再度本来この世界にはないはずの力、魔法を行使する。そうして現れたそれは、先ほどのものよりも大きく力強いものだった。
「わ、わ、ちょっと待って! 僕は――っ」
「問答無用」
ウィズは底冷えする声でタケルの待ったを再びバッサリと切り捨てて、光弾を放った。ついでに土煙で見えなくならないよう、風も操って視界を確保しておくことも忘れずに。
(さあ……)
ウィズはまるでモルモットを観察する研究者のような目つきで光弾と、その先のタケルを見つめる。その視線の先で、タケルは慌てて剣を振りかぶり、そしてそれを光弾に向けて振り下ろした。
ウィズはそれを見て、
(そんなので、魔法が防げるわけが無いでしょうに。やっぱりさっきのは何かの間違い。アタシの狙いがずれただけ、か)
と興味を失い視線を外そうとしたが……、その予想に反し光弾はタケルが振り下ろしたその剣――刀によって、見事なまでに真っ二つに断ち切られたのだった。
「…………、――は?」
たった今目の前で起こったあまりにも信じがたい……いっそこれは夢なのだと言われたほうが真実味のある冗談じみた現実に、ウィズはポカンと呆けたように口を開け、呆然と目を見開く。
「あ、危ないなあ……。ねえ、お願いだから話を聞いてよ。僕は君を殺すつもりなんかないし、それどころか剣を向けるつもりだってないんだから」
タケルがウィズを宥めようと落ち着いた声音で話しかけてくるが、その声は愕然としているウィズの耳には全くもって届いていなかった。
ウィズはそれからたっぷり数十秒をかけて、目の前で起こったことをゆっくりと思い返して咀嚼し……そしてようやく頭が現実を正しく認識し我に返った後、ギリと一度歯噛みするとバッとその場から飛び退き距離をとって、噛み付くようにタケルを睨みつけた。
「なら、これはどう!」
次の瞬間、気勢と共にタケルに向かって先ほどとは真逆の、黒い球体が飛来する。それはまるで夜の帳を集めて凝縮したかのような、光すらも飲み込む深い闇だった。しかしタケルも流石にそろそろ慣れてきたのか、今度は驚いた様子を見せず危なげなく一息にそれを斬ってみせた。
「そ、そんな……!? 物理干渉力のない、闇の魔法まで斬られるなんてっ!」
「ううん、まいったなあ。全然話を聞いてくれない……」
まるで今の場にはそぐわない、やけに緊張感の欠けた声がその場に虚しく響き渡る。タケルと自分とのその温度差が、先ほどとは違い何か得体のしれないもののようにも思えてきて、ウィズの胸中にじわじわと焦燥感がこみ上げてきた。
(あの妙な曲がりのある、片刃の剣。あれに、秘密があるの? ……それなら!)
ウィズは困り顔のタケルを無視して、10メートルほどの高さまで一息に飛び上がった。
「うわあ、空まで飛べるんだ。凄いなあ」
そして呑気に見上げながらそんなことを呟いているタケルに、人間二人分くらいはある大きな光弾を放つ。
「!? ――ッ!」
しかしそれすらも、タケルはフッと鋭い呼気とともにあっさりと切り捨ててしまう。が、タケルと同様ウィズもその非常識な光景にいい加減慣れてきたのか、今度は大した動揺も見せずに斬られた瞬間また新たな光弾を撃ち、斬られたら撃ちを繰り返していた。そうして稼いだ時間の中で、ウィズは頭をフル回転させ分析を続けていく。
(使用回数や耐久力に、限界はないのっ? こうなったら、あの剣を手放してもらうしか……!)
このまま同じ事を繰り返していても、効果はなさそうだ。そう判断したウィズはギラリと目を光らせて、まるで太陽を掴むように天に掌を掲げた。すると彼女の指先から腕半ば、肘までが白い光に輝き、そして同時に……辺りが闇に包まれる。ウィズはその闇によって視界を奪い、その間に何かをするつもりだったのだろう。
しかし結果から言うのならば、その魔法が正しい形で効果を発揮することは、なかった。
……何故なら彼はそれすらも、まるで当たり前のように切り裂いてみせたからだ。
その時タケルが振るった刀が描いた軌道は、最下段から天上までの鋭い切り上げ。
それはまさに閃光の如き――"奇跡の軌跡"だった
「――……」
最早、言葉も出ない。
"驚愕"という言葉を全身で表し絶句するウィズを尻目に、タケルは断った魔法の残滓を払い、残心を解く。
闇を斬り裂き、零れ落ちる光を身に纏う剣士。その姿はまるで、ウィズが子どもの頃に憧れた英雄譚の勇者のようで……しばしの間状況も忘れて、見惚れてしまっていた。
しかし己の展開した闇が完全に雲散しタケルがその曇りのないまっすぐな瞳を向けてきた瞬間に、ウィズははっと我に返る。
「あ、あ、あっ、アンタそれはいくら何でも反則すぎるでしょー!」
「あはは……なんでかよく言われるんだよね、それ」
ウィズはキッと苦笑いを浮かべているタケルを無言で睨みつけて、
(だめだ、今はもう引くしかない……。……くぅ、このアタシが、尻尾を巻いて逃げることしかできないだなんて!)
その決断をしてからのウィズの行動は、実に素早かった。すぐに情報の走査、術式の構築を完了させて、一瞬の内に逃走用の魔法を組み上げていく。
「覚えてなさいよ! 今度は必ず、アナタに勝ってやるんだから!」
ウィズはその、ついつい口を衝いてしまった捨て台詞がひどく陳腐なものになってしまっていたことを自覚できないほどに、動揺していた。そして焦りながらも組み上げた転移魔法を起動させて、ふっと溶けるようにこの場から消え去ってしまう。
「ああ……、居なくなっちゃった。結局何も話せなかったなあ」
そうして彼女が去ったあとの荒野に、ポツリと呟いたタケルの呟きが虚しく残された。