プラントは地球上に国土を持たない。ファースト・コーディネーター、ジョージ・グレンが歴史のしがらみに囚われることを嫌い、宇宙に国を求めたのだとされている。
この国はすべてにおいて新しいことが求められた。
法があったとて、それで戦争が防げたことはない。ならば先達の法を参考にする必要などない。まったく新しく、新たな世界に相応しい法を作り出せば良い。たとえ、同じ過ちを繰り返す危険を冒したとしても。
宗教は害悪である。宗教の違い、あるいは同じ宗教内でさえ争いがあった。それならば神などいらない。宗教などなければ争いは起こらないのだから。しかし、では宗教を持たない文明が存在するのか、すなわち、人と宗教は果たして切り離すことができるのかという問題には触れていない。仮に人の文明と宗教とが密接不可分のものであるのなら、宗教がなければ争いが起こらないということはすなわち、人がいなければ戦争は起こらないと言っていることに過ぎないことになる。
確かに人の世は完全でもなければ完璧でもない。しかし、では完璧であった時代が、完全な社会を築いた文明があったのだろうか。今の世はそんな不完全だった世界を見直し、少しでもましとなるよう作られたものではないのだろうか。
世界は、成功を重ねることはできなかった。しかし失敗を積み重ねた世界である。
プラントは、蓄積された失敗、そこから得られた教訓のすべてを不完全だと不要だと切り捨てた。
だが、不完全な物と別の物は、別の不完全な物であるだけかもしれない。今とは異なる物が新しい物とは限らない。過去、かつて存在していた物と同一であっても今とは違うものなのだから。
ただ一つ明確なことがある。
プラントにも、不完全な世界を作り上げた者と同じ、争いをやめることのできなかった者と同じ、人が住み、暮らしている。
人が死ねば、それは物と変わらない。やがては分解され土へと還元される存在である。そこに科学的、学術的に特別な価値など存在しない。しかし、人は墓を作り仲間の死が何か特別な物であったかのように思い込もうとする。
それは、コーディネーターの国であったも変わることはなかった。
プラントの一角、整然と並べられた墓石が平野を埋め尽くしている。コーディネーターならこの光景を笑うべきだろう。人の死体も店頭に並ぶ家畜の肉もさしたる違いはないと。コロニーにおいて貴重な土地のを浪費するでしかないと。
しかし、墓参りをするコーディネーターたちは、誰一人として純然たるコーディネーターはいなかった。そんなコーディネーター失格は、たとえばディアッカ・エルスマンである。
ディアッカは並ぶ墓石を前に杖を置き、あぐらをかいて座っていた。その様子は、仲間内でだべっているかのようである。
「よお、ニコル、ジャスミン」
冷たい石が返事するはずもないが、ディアッカは気にした様子はない。
「お前達がいなくなって3年になるが、まだプラントは戦争している。アスランなんて今じゃザフトの騎士なんて呼ばれてるエースだ。傷痍軍人の俺とはエラい違いだな。ああ、でもお前達には話してなかったけどな、実は同棲してるんだ。前話しただろ、ジャスミンと同じヴァーリのアイリスとな」
おそらくディアッカは想像しているのだろう。もしもニコル・アマルフィが生きていたなら、少し驚いてから祝福してくれると。ジャスミン・ジュリエッタの場合は顔を真っ赤にして照れるかもしれないと。
「出会いは俺が捕虜だった時に、世話係がアイリスでな。ま、お互い、第一印象はよくなかったんだけどな」
ディアッカは続けざまに言葉を続けようとはしなかった。まるで、2人が応じてくれたとしたなら必要となるはずの時間を空けてからしか話を続けようとはしない。
「それて、言いにくいんだが、これまで話せなかったことがある。ニコルはアスランをかばって死んだし、ジャスミンは国のために命を投げ出したことになってる……。でもな、俺、お前達がそうやって守った奴らのこと、好きでいられそうにない」
ニコルは友軍を逃がすため殿を務め、アスランをかばって戦死した。
ジャスミンは時間を稼ぐために危険な作戦に従事させられ命を落とした。
「アスランは、俺にはやけを起こしてるようにしか見えない。人類の未来のために戦う正義の騎士様なんて役、一昔前のあいつなら頼まれてもやらなかっただろうな。ニコルもそう思うだろ?」
しかし、ディアッカにはニコルが今のアスランを見てどう反応するのか想像しきれなかったのだろう。その笑みは複雑なもののように思われた。笑って良いものか、そんな躊躇いを感じさせるものだからだ。
「なあ、ジャスミン。お前たちは何で死んだんだ?」
ディアッカはどんな返事を聞いたのだろうか。
「……ああ、もちろん例の戦いで死んだことは理解してるさ。時間稼ぎのために生産終了が決定してるような機体に乗せられて、彼我戦力差10倍を超える相手に突撃させられたんだ。体の良い在庫処分だよな。悪い。ジョークが黒かったな……」
その戦いは映画『自由と正義の名の下に』でも描かれた。迷いながらも守りたい人のため、微笑みながら命を落としていく人々は、映画の中でも名シーンと評価されている。この特攻で父を亡くした息子が、そんな父を誇りに思いながら自分もまたザフトを志す場面は涙なくしては見られない。
「ニコル。お前が死んだ時、俺、捕虜になってただろ? 時間ばっかり余ってな。プラントに帰ったらお前にそん時のことどんな風にはなしてやろうかなんてことばかり考えてた。お前が死んでるなんて知りもしないでさ。我ながら間抜けだよな」
もしも人生を変えた出来事を挙げるなら、ディアッカはアーク・エンジェルに捕虜にされた事実を挙げることだろう。
「ジャスミン。お前が死ねって命じられてるってこと、俺は知らなかった。どう思う? よく漫画やドラマじゃ、大切な人が死んだらそのことが伝わるなんて話あるだろ? あれ、本当か? 時間帯考えるとな、俺はキラたちと馬鹿みたいな話してた時、お前死んだみたいなんだよな」
最後に話したことが何だったか、そんなこともわからないくらいどうでもいいことで最後の別れを浪費した。
「あれからプラントもだいぶ変わったよ。ニコルがいた頃はまだクライン政権だったろ。あれからザラ政権、カナーバ政権、そしての今のデュランダル政権だ。ジャスミンはザラ政権がタカ派だってことは知ってるだろ? デュランダル政権も結構な右よりでな。カナーバ政権はそんなことなかったけど、まあ、短かったからな。って、クライン政権もニュートロン・ジャマー落としてたな。あんま変わんないか……」
何を話そうかいろいろと考えてみても、すぐに話が詰まってしまう。そんなことはいつものことだった。一方的に話しても相手が乗ってくれなければ話がまったく膨らんではくれない。
ディアッカは溜息をつくと、杖を頼りにその腰を上げた。
「また、来るからな」
プラントでは障がい者は差別されるが、このような厳かな場所でまでディアッカに侮蔑的な眼差しを向けてくる者はいなかった。
そうして、足を引きずるようにして歩き続けたディアッカは車道へと出た。車で訪れる参拝客のためのものだが、ディアッカの目的は車ではない。連れを待たせていた。アイリスとリリーだ。
アイリスはリリーを後ろから抱きしめ、2人は何やらおしゃべりをしているらしかった。2人は姉妹ほどの年齢差だが、見ようによっては母子のようにも見える。では、父親はディアッカだろうか。
ディアッカ自身、自分を父とする想像は気恥ずかしさがあったのだろう。2人のもとに近づいた時、つい茶化すかのような態度に出たのはそのためだろう。
「リリーもちゃんと待てるんだな」
「あたしだって騒いじゃいけない時くらいわかるんだけど?」
「よしよし、成長したな」
杖を脇に保持し、ディアッカはふてくされるリリーの頭を撫でた。子ども扱いされたことに怒っているのだろう。リリーはディアッカの手を払いのける。しかしアイリスの抱擁を拒まない辺りは、複雑なお年頃なのだろう。
そんなリリーの様子を、ディアッカもアイリスもまた微笑ましく見ていた。
「さて、どこかで食って帰るか。リリー、何か食べたいものあるか?」
「え~とね……。あ、ギルだ」
リリーが走り出したのは、霊園の外のビル、そこの壁に取り付けられたモニターにギルバート・デュランダル議長の演説の様子が放映されていたことを見つけたからだ。
ディアッカたちはその後をゆっくりと追いかけることにした。
「何でデュランダル議長は俺たちに、いや、アイリスにリリーを預けたんだろうな? それより、どうして議長がヴァーリと関わりあるんだ?」
「ナタルさんみたいですね」
「お前だって気にはなるだろ? まあ、リリーがあまり話したがらない以上、踏み込まない方が無難なんだろうけどな」
無理にこの関係を変える必要はなかった。そんなことはディアッカとアイリス、何よりリリーが望まないだろうから。
子どもの成長を見守る親のように、自分たちの先を行くリリーを並んで追いかけるディアッカとアイリス。だが同時に理解もしているのだろう。このような不自然とも言える関係をいつまでも続けてはいられないと。
その関係を終わらせるのは今ではなかった。しかし、世界は彼らを放っておいてはくれなかった。
突如、サイレンが鳴り響いた。空襲の警報かと市民が悲鳴を上げて慌てふためく中、アイリスもまた思わずリリーの元へと走り出していた。
「リリー!」
アイリスに抱きしめられたリリーもまた、不安げにアイリスの体にしがみついた。ディアッカはそんな2人に歩み寄りながらも周囲を警戒することを忘れなかった。しかし、プラントへの攻撃が開始される気配はなかった。
「警報じゃないみたいだな・・・・・・」
「番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします」
さきほどまでデュランダル議長の演説を映していた映像は神妙な面持ちのアナウンサーに変わっていた。汗までかいているのではないだろうか、そこまで狼狽したアナウンサーの口から語られた事実は、プラント全土に衝撃を与えた。
オーブ、主をなくしたエピメディウム・エコーの私室に今はカガリ・ユラ・アスハの姿があった。長くモニターを見続けるためだろう、眼鏡をかけ難しい顔で机についていた。 そこにノックとともに姿を現したのはユウナだった。
「カガリ、ああ、眼鏡も似合うね」
「茶化す暇があるなら要件を言え」
そう言うと、カガリは眼鏡を外してしまう。残念そうに息を吐きながらユウナは数枚の資料の束を差し出した。
「DSSDのことだけどね、あの組織、やっぱり妙だ。詳しいいきさつまではわからないけど、大西洋連邦の特殊部隊が強行査察、という名前の襲撃を行ったそうなんだ」
「軍部の横暴を告発する、と言った話ではなさそうだな」
「特殊部隊の方が壊滅させられたそうだよ」
軽く資料を流し読みしていたカガリの手が止まる。
「民間の研究所が要塞並の軍事力を有していたということか? お前からの報告でなければ我が耳を疑うところだ」
「作業用と称したモビル・スーツを多数配備してたそうだよ。さすがにDSSDも大西洋連邦軍も詳細を明かしてはくれないけど、どうやら確かな話らしい」
資料には写真が添付され、破壊された地球軍のモビル・スーツ、軍艦の様子が映し出されている。
「どうすれば重機で戦車に勝てるのか教えてもらいたいものだな。宇宙開発が聞いて呆れる」
「これで確定したね。DSSDは後ろ暗いところがある。問題は、それが何かってことなんだけどね」
ユウナはこれまで、プラントがDSSDに多額の出資をしていることこそ突き止めたが、それはあくまでも公表されたことを正確に把握してみせたにすぎない。やれやれと机に体重を預け、自身のふがいなさを嘆くほかなかった。
カガリは手元の映像を壁掛けのモニターへと投影した。
「ユウナ、これを見てくれ」
「これは・・・・・・?」
「DSSDの使っているツィオルコフスキーだが、4年に1度、木星と地球を往復している。それに符合して大量の物資が動いていることがわかった。DSSDは物質を消滅させるためだけの研究をしているか、でなければツィオルコフスキーが運び出しているか、だ」
「彼らは木星圏にこれだけ物資を移して一体何を……? それにしてもよくこれだけのデータを集められたね、カガリ」
ユウナは素直に感心しているようだったが、カガリはどこか皮肉っぽく口元を歪めてみせた。
「私の手柄じゃない。エピメディウムのデスクに残されていたものだ」
「じゃあ、何でもっと早く……」
「今朝までなかった。誰かがエピメディウムのパソコンに私宛に送ったものだ」
ここでユウナがつい眉をひそめたのも無理はなかった。
「出所不明の情報ってことかい? ちょっと疑ってかかる必要もありそうだね」
「別に公式文書として用いる訳じゃない。それに、物資の流れそのものを確認することはできるからな。裏をとれそうなことについては確認した」
「じゃあ、どこの物好きがこれほどの情報を送ってくれたって言うんだい?」
ユウナが体の向きを変えてデスク越しにカガリの顔をのぞき込むようにすると、カガリは悩んでいるらしかった。ただそれは、物好きに心当たりがないと言うより、見当を付けた相手が果たして正しいのか確信が持てないといた様子だった。
「なあ、ユウナ……。エピメディウムは本当に死んだのか?」
プラントで行われたダムゼルの会合、その帰りに事故を起こし死亡した、そのはずだった。確かに遺体を見つけることはできなかったが、シャトルの残骸を確認している。ただの事故ならばともかく、仕組まれた事故であればなおさらだろう。
しかし、この事実を突きつけることはカガリに対して酷なことだろうと、ユウナの態度はやや遠慮がちに思われた。
「あの事故が起きるべくして起きたものなら、それに関わったのはプラント、つまりラクス・クラインだ。彼女がそんな手抜かりをするとも考えにくいし、何より、生きてるならすぐに君の前に顔を見せるはずじゃないか」
「お前の言うとおりだ。だが、では私にこれほどのデータを送ってくれる奇特な相手は誰だ? それも、こちらの事情に精通しているときている。わざわざエピメディウムのデスクに送ってくるくらいだからな」
「本当に意地の悪いことを聞くよ。本当に、エピメディウムが生きてると思ってるのかい?」
「ある日、ひょっこりと帰ってきそうな気がするのは……、遺族特有の感傷なんだろうかな?」
ユウナに答える術はなく、カガリ自身、自分を見失っていた。許嫁2人は、しばらく沈黙を強いられることとなった。それが破られたのは本当に突然のことだった。
カガリがデスクに置いていた映像投射装置が黄色のドレスの少女の姿を立ちあがらせた。金糸雀だ。
「かっちゃん、大変かしら!」
「何事だ、金糸雀? それと、私をかっちゃんと呼ぶな!」
金糸雀の姿がある映像に置き換わった時、カガリとユウナ、2人は再び言葉を失うことになる。
多忙なラクス・クラインの執務室を尋ねたのは、Pのヴァーリだった。
「ねえ、ラクス。新しい機体の企画書、見てくれた?」
「この人間爆弾のことでしょうか?」
「特攻機って呼んで」
資料が放り捨てるようにデスクの上に置かれた。そこには概略図が描かれている。モビル・スーツの形こそとっているが、頭部はなく腕と胴体が一体化し、貝に申し訳程度の手足をつけたかのような単純なシルエットをしている。 一目で安上がりな作りであることがわかる。
しかし、ラクスは一瞥することもなく投げ出された資料はサイサリスの手元で転がっているだけである。
サイサリスはデスクを叩くほどの勢いでラクスへ迫った。
「考えてもみてよ。犠牲のでない戦争なんてないでしょ。エースなんて呼ばれるのはほんの一握り、ほとんどは数合わせでしょ。そんな雑兵に高価なモビル・スーツ任せるなんてコスト・パフォーマンス悪いにもほどがあると思わない?」
特にユニウス・セブン休戦条約以後、モビル・スーツの製造費は高騰している。保有台数に制限がかけられたことが直接の原因である。4年前の実に数倍にも達している。
「でも! この機体ならロー・コスト。なんたって装甲も最低限、OSも安普請、パイロットも国民が勝手に産んで育ててくれるし。この国、福祉も最低限だから余計に効率的になるよ」
「大量の爆薬を積み込みただ体当たりさせるだけのモビル・スーツを、本気で作りたいのですか?」
企画書に示された機体の概要は爆弾を詰め込んだ箱に推進装置を取り付けただけにも等しいものだった。ミノフスキー粒子による電波障害が恒常化した現在においても有人機であれば問題とならない。
コンセプトそのものについては、サイサリスの言葉は何も違えてはいなかった。
「昔、これと似たことやった国があったらしいよ。その国じゃそうして死んだ人は国の溜めに命を捧げたって名誉あることだって言われてた。それに、有効な攻撃だったって記録もたくさんあるよ。わかってると思うけど、これで戦艦の一つでも潰せれば丸儲けってくらいコスト的に有利だってこと、ラクスならわかるでしょ」
「そのために兵が命を落とすのですね?」
「戦争で人が死ぬのは当たり前でしょ? 軍人は死ねと命じられたら死ぬべきなんだよ」
「それは違います。死も同然の命令でさえ従うだけです」
「何が違うの?」
「軍人の仕事は死ぬことではありません。戦うことです。死はあくまでも結果にすぎません。死ぬかもしれない死地に兵を送り込むことと死を命じることは違うのです。国が兵を死なせるために戦地に来ることがあれば、それは国家による殺人に他なりません」
「ジャスミンを捨て石に使ったのラクスでしょ。あれ、たしかに死ねなんて言ってないけどそう言ったも同然でしょ。特攻機がだめでジャスミンを死なせたことはいい、なんて都合の良い自己弁護なんじゃないの?」
「自己弁護? 至高の娘である私がフリークを消耗することにどのような負い目を覚える必要があるというのですか?」
そう、ラクスは冷たく微笑んだ。
印象とは不思議なものである。もしも第三者の目から見たのなら、ラクスの微笑みは見る者を落ち着かせる魅力的なものに見えたことだろう。だが、その笑みを向けられたサイサリスは思わず後ずさった。しかし、気を取り直しもう一度、デスクへと身を乗り出した。
「ラクス、特攻を使った国もプラントと同じだった! その国は負けたけど、それは最初から人間を爆弾にしなかったからだよ。でも、今はそれが有効な戦術だってわかってる。それから戦争に直接参加することはなかったみたいだけど、もし戦争してたらその国は絶対、特攻機を最初から使ってたと思うよ。だって、使わない理由がないんだから」
彼らはそうして立派に死に、彼らのお陰で国は守られた。有効で、何も悪いことはなかった。再び人間を爆弾にしない理由もまた、どこにもない。
「ラクス。負けたらそれまで死んでいった人たち、みんな犬死にになるんだよ」
「勝てば報われるのですか?」
どちらかと言えば、睨み付けているのはサイサリスの方だろう。しかし、2人の間に敷き詰められた沈黙を支配しているのはラクスの方だろう。サイサリスがただ虚勢を張り、座ったまま微笑んでいるだけのラクスの重圧に耐えているだけだった。
そんなサイサリスのやせ我慢はオッドアイのヴァーリが部屋に飛び込んでくるまで続いた。
「ラクス! 大変だ、と、とにかく大変なんだよ!」
デンドロビウム・デルタは、息を切らせた様子でただただ慌てていた。
見慣れない天井は落ち着かない。しかし、シン・アスカにとって眠れないのは何も枕が変わったことだけではない。
「寝られる訳がないよな……」
エインセル・ハンターとの出会いからすでに数日が経っていた。シンはあの日から何も変わってはいなかった。エインセルの言葉を反芻し続け、結局、何も反論が思いつかない。あの時と同じことを繰り返しているでしかなかった。
まだ夜は始まったばかりだったが、すでに眠れない夜になりそうだった。
シンは仕方なくベッドから起きると、その足で中庭へと続く扉を開いた。ここが敵地、それも母の仇と狙った男の屋敷だとは忘れてしまいそうになる。それくらい、シンは捕虜とは思えない生活環境が与えられていた。
外はすっかり日が落ちていた。中庭は照明の淡い光に照らされ昼間とは違う、神秘的な雰囲気さえ漂わせている。妖精の世界、そんなものがあるとしたらそこはこのような場所なのではないだろうか。
散歩にはちょうどいい場所かもしれない。シンが中庭に足を踏み入れたのはそんな簡単な理由からだった。自然と、シンは垣根の道を迷うことなく進んでいった。これも大した理由はない。ただ、この道以外知らないからにすぎない。
そうして歩いて行くと、どこからともなく歌声が聞こえてきた。女性の声で、それはとても澄んだ声だった。
妖精の国に歌声が響いている。
何が普通でないのか、そんな感覚さえ失われてくる。シンは何か考えることもなく広場へと足を踏み入れた。
そこでは妖精の姫君が歌っていた。
姫は波立つ白い髪に赤い瞳をしていた。ヒメノカリスと同じ顔で、同じ意匠のドレスは黒く染まっている。その手には赤ん坊を抱き、歌われるのは子守歌なのだろう。
不躾なことをしている、そんなことはシンにもわかっていた。だが、あまりに現実離れした光景はそんな常識さえ忘れさせた。シンはヒメノカリスを見た時と同じ印象を抱いていた。少女は美しかった。歌声とともに、思わず意識を奪われてしまうほどに。
誰かに肩に手を置かれるまで、シンはどれくらい黒の少女を見続けていたのかわからなかった。
「女性はじろじろ眺めるものじゃないよ」
振り向くとそこにはファントム・ペインの証である黒い軍服の青年がいた。その顔に、シンは辛うじて見覚えがあった。
「え~、ネオさん、でしたっけ……? オーブで会ったファントム・ペインの……」
シンにはうろ覚えであったが、間違ってはいなかったらしい。
「一応ね。ただ一度キラ・ヤマトと名乗るとみんなキラとしか呼んでくれなくなるんだ。君も好きな方で呼ぶといいよ」
そう、シンの脇を抜けたキラは少女へと呼びかけた。
「ゼフィランサス。紹介するよ。ゼフィランサス・ズール。ゲルテンリッターの開発者で、僕の妻でもある」
「じゃあ、翠星石の……」
最初、ゼフィランサス・ズールという希代の技術者について聞かされた時、シンが思い浮かべたのは間違ってもドレス姿の少女ではなかった。だが、そんなことはもう、今さらのことだったのだろう。シンは目の前の事実を意外なほど素直に受け入れている自分に気付いた。
なぜ、どうして、そんなことを考えても仕方がないことかもしれない。キラにテーブルにつくことを提案された時、シンは特に断ろうとはしなかった。
「ゼフィランサスさんはヒメノカリスと姉妹なんですか?」
赤い瞳と青い瞳。黒いドレスと白いドレス。そして同じ顔。できすぎなほどに好対照な2人だと言えた。
ゼフィランサスの瞳がシンを見る。
「ヴァーリについてはどれくらい知ってるの……?」
「どれくらいと言われても全然としか……」
ゼフィランサスが引き続き説明をするのかと思いきや、ゼフィランサスはその手の中で眠る子どもにまた子守歌を歌い始めた。実際に説明するのはキラの方だった。
「昔、プラントで新世代型のコーディネーターを作る実験が行われたんだ。クローン胚にそれぞれ別々の遺伝子調整を施した。そして、それぞれ基本的な遺伝子は同じでも得意分野は別々。そうして生まれたのがヴァーリ。26人の同じ顔をした姉妹たちだ。ゼフィランサスはその26番目、ヒメノカリスは12番目。ラクス・クラインも同じ顔してるけど、気づかなかったかい?」
「ラクス・クラインなんてニュースで少し見たことある、くらいですから」
「それに、ヴァーリには強力な暗示がかけられていて、その副作用としてとても男性への依存が強いんだ。ゼフィランサスは僕に、ヒメノカリスはエインセル兄さん、という具合にね。それに、相手に尽くしたいという気持ちも大きいんだ」
それは何となくシンにもわかることだった。ヒメノカリスの父に対する正常とは言えない愛を見せられてきた。それに、ゼフィランサスがキラのことを愛おしく思っていることは、人生経験が豊富とは言えないシンであってもわかることだった。
「ヴァーリは尽くせば愛される資格が得られると考えてるんだ。ヒメノカリスが戦場に出るのもそのためだよ。父のために命がけの戦いに身を投じること、それが自分が愛される資格だと思い込んでるんだ」
「なるほど……」
アズラエル家、それがどれくらいの家柄なのかシンにはわからないが、その令嬢が戦場に出ることに違和感を覚えないではなかった。
「さて、ここまでが予備知識。これからエインセル・ハンターについて話そうか」
「え? アズラエル財団の、御曹司なんですよね? ブルー・コスモス代表の?」
「間違ってないけど、彼はドミナントだよ」
また知らない言葉を聞かされる羽目となったシンはただ頭を混乱させることしかできない。背景にはゼフィランサスの歌声が染みこんでいる。
「ドミナントとはね、単純な高性能を求めて研究されていたヴァーリとは別系統のコーディネーターのことさ。彼はその最初の成功作だよ」
「でも、ブルー・コスモスの代表なんですよね? コーディネーター排斥運動の……」
「前のね。それによく勘違いされるけど、ブルー・コスモスの目的はコーディネーターの根絶ではなくてコーディネイトと技術を禁じることにある。命を弄ぶことへ否定なんだ。この考えを突き詰めるとブルー・コスモスにとってはコーディネーターも守るべき被害者になる。そう考えるとコーディネーターが代表を務めてたり、その代表がコーディネーターであるヒメノカリスを養子にしていてもおかしいどころか自然なことになる」
「言われてみればそうなりますね……。プラントじゃ、ブルー・コスモスはナチュラルの嫉妬のシンボルなんですけどね……」
「さて、それでエインセル・ハンターが君に興味を持つ理由だけどね」
「知ってるんですか!?」
さすがに赤ん坊が寝ているすぐそこで大声を出すようなことはしなかった。それでもシンがキラに対して自分がここにいる理由を教えてくれるかもしれないと期待感を膨らませたことに変わりはなかった。
ただ、キラは軽く笑うだけだった。
「いいや、わからない。でも何となくわかることもある。エインセル兄さんは君に自分を重ねてるんだと思うよ」
「俺と……、ですか?」
「君はお母さんとの関係に悩んでた。エインセル兄さんも同じだったんだ。あの人の父親は、子どもに素質を求めた。実際、兄さんがドミナントなのはそのことが理由でもある。実際、兄さんの兄弟は十分な素質がないため失敗作の烙印を押された」
シンは素直に感じていた。エインセル・ハンターが自分と同じ思いをしていたのだと。
「兄さんも一度も聞いたことがないみたいだよ。力がなくても、あなたの息子でいさせてくれますか、とはね。でも、許されなかっただろうと確信しているとも聞いたことがある」
「いつまでも迷ってる俺とは違いますね……」
母が自分のことをどう思っていたのか、シンは答えが出るはずのない謎にいつまでも囚われ続けている。そのことを思う度、左頬の痣が熱を持つ。
今もそのことに気をとられ、いつの間にか子守歌が止まっていることにシンは気付かなかった。
「それは、少し違うと思う……」
歌うことをやめたゼフィランサスがいつの間にかシンを見ていた。そのことに、シンは思いの外困惑させられた。ヒメノカリスと同じ顔をしているのに、ヒメノカリスは見せない顔をするので違和感が強くなっているのだろう。
「あなたとエインセルお兄様は似てる気がする。でも、エインセル・ハンターはシン・アスカの未来じゃない……。それでも、シン・アスカはエインセル・ハンターの過去じゃない……」
「それって、どういうことですか……?」
「私から言うことじゃないと思う……。あなたが自分で気づくこと……」
ヒメノカリスもどちらかと言えば表情に乏しい。いつもきつめの眼差しでシンを見ていた。ゼフィランサスもあまり顔の変化はないとしても、どこかその視線は優しかった。子どもを抱く母とはこんなものなのだろうか。
「あなたは……、エインセルお兄様の希望……」
母という存在はシンを必然的に惑わせる存在なのだろうか。ヒメノカリスに比べて幼ささえ感じさせる少女がシンを見つめる目には、どこか蠱惑的な輝きさえ宿っているように思われた。こんな少女が、ゲルテンリッターの母なのだと言うことに妙な説得力をシンに印象づけた。
ゼフィランサスが子どもを抱きしめる横からキラが腕を伸ばし、その指先で子どもの髪を撫でた。愛しい我が子につい手が伸びたのだろう。父親のいないシンにとって、これが初めて見る父親というものだったのかもしれない。
それでも、このキラという男は白銀の魔弾の異名をとる、ファントム・ペインの1人だということを忘れてはならなかった。
「そうだ。一つ確かめてもいいかな?」
「はい?」
キラは懐から円形のプロジェクターを取り出した。翠星石のものと同じであることから、シンにはそれがゲルテンリッターのためのものだとすぐにわかった。
「エインセル・ハンターを悪人だと片付けるのは乱暴だと思う。でも、善人と呼ぶにはあまりに恐ろしい人だ」
テーブルに置かれたプロジェクターからは赤いドレスの少女が現れる。翠星石と同じく、ゼフィランサスの面影を残すが、翠星石よりもやや幼い印象にも思えた。
「真紅、あの画像を見せて欲しい」
「はい、お父様」
少女の姿がどこか暗い場所へと置き換わる。そこが宇宙空間であることはすぐにわかるものだった。デブリが多数浮遊していた。
「これに見覚えは?」
キラに促されシンが改めて映像を見てみると、デブリに混じってモビル・スーツの残骸が多数散らばっていた。色合いや特徴からそれがザフト機のものだとわかる。そして、像が映るにつれて巨大な岩石がバターに熱せられたナイフを押し付けたかのように半分に切り裂かれている光景が映し出された。
これはただの岩石ではない。ザフトが小惑星を要塞へと改造したものであることを、さすがにシンでも知っていた。
「ザフトの宇宙要塞の一つです……」
「そう、五つある内の一つだ。まあ、もう四つになってしまったけどね」
しかし一体何をどうすれば巨大な岩石を焼き切るようなことができるのだろうか。戦艦の主砲であってもできないことだ。
シンのそんな疑問に答えるように、映像が切り替わる。月面から立ち上る光の柱だ。シンはこれと同じものをジャブロー見たことがあった。降下部隊を焼き払ったもの、それと同じだ。
「この兵器の名前はユグドラシル。ジャブローで君も見たはずだね。おおざっぱに言えば大型のビーム砲さ。これが要塞を焼いたんだ」
直進しかしないビームでは要塞一つ一つにつき、射角を合わせた装置を設置しなければならないことになる。しかし、そこまで大規模な建設が複数行われているのをザフトが見逃すだろうか。そもそもビームで長距離狙撃を行った場合、メガ粒子拡散してしまうため不可能なはずだった。
プラントが盾の一つを失ったこと、不可能なビームによる狙撃が行われたこと、そのどちらかだけでもシンを戸惑わせるには十分だと言えた。
「必要なエネルギー量は膨大だからね。再チャージには時間がかかる。それでも、1週間程度ですべての要塞が破壊されることになる。その後は……」
「まさか……、プラント本国を狙うつもりですか!? あそこには戦争で死ななくてもいい人が大勢いるんですよ!」
子どもを起こしてしまうのではないか。そう考えた時には、すでにシンは立ち上がり大声を放っていた。幸い、子どもは母の腕に抱かれ穏やかな寝息を立てている。
外灯の淡い光の中、ここにはガンダムの母と、白銀の魔弾、そして、ただ焦りに突き動かされるだけの少年がいる。
「シン。エインセル・ハンターは決して冷酷な人間じゃない。でも、冷徹な人間ではある。目的のために必要なのだとすれば手段は選ばない」
かつて、シンの母を焼いたように。金色の魔王はその名に違えることは決してなかった。
3年前の出来事が、母の死が繰り返される。そのことばかりがシンの意識を占めるとともに何もできない無力感と重なって焦燥感ばかりが高まっていた。焦りに急かされるまま立ちあがること。それがシンのしたこと、シンにできることのすべてだった。
「真紅、彼を案内して欲しい」
そう、キラはプロジェクターをシンへと差し出した。
「シン。君はもう一度エインセル・ハンターに会った方がいい。彼はまだこの屋敷にいる」
では会ってどうするのか。キラは答えを示さず、シンは答えを求めなかった。プロジェクターを受け取るなり走り出した。
走り去ったシンを見送ってから、キラはゼフィランサスへと体の向きを変える。
「僕がシンくらいの時、今よりも強かった気がする。ただ目の前のことにがむしゃらでいられたからね」
「ムウお兄様も同じようなこと言ってた……・。やっぱり男の子ってそういうものなのかな……?」
「歳をとると自然と責任が増えるんだよ。ただ1人で突っ走って倒れました、じゃだめになるんだ」
まだ二十歳にもなっていないのに、そう、ゼフィランサスは微笑むと、キラはそんな妻の頬にそっと手を添えた。
「僕はムルタ・アズラエルのしたことが許せなかった。君の力を利用しているだけに見えたからだ。でも、今の僕は必要だからとゲルテンリッターを作らせて、その5号機に搭乗している。あれほど嫌だった大人達と同じ生き方をしようとしているんだ。ねえ、ゼフィランサス、僕は君を救えたのかな?」
「キラ……、私、とても幸せだよ……。これって、答えになってるかな……?」
「ゼフィランサス」
キラがゆっくりと顔を近づけていくと、ゼフィランサスは瞳を閉じキラを受け入れようとする。そうして、2人は唇を重ね合う。