南アメリカ合衆国にファントム・ペインはいないとも考えられていた。単純に知られていない以上、いないのだろうと捉えられていた、それだけのことだった。それも無理もないことかもしれない。
ファントム・ペインは実績が重視され、そのため、その多くが通り名を持つエース・パイロットで占められる。白銀の魔弾、白鯨、片角の魔女、切り裂きエド、赤い悪魔、灰色熊、様々な異名を持つパイロットで構成されている。それは単純に、エース・パイロットをスカウトしているからにすぎない。
つまりファントム・ペインに所属する人員は最初から限定されており、その存在を把握すること自体は容易だと考えられていたである。
だから誰も考えなかった。ジェネラル、そう呼ばれる男の影、いや、闇の中に潜むファントム・ペインがいるとは。
名前のないファントム・ペイン、そのパイロットはレナ・イメリア。軍内においてさえその存在は周知とは言えない。猛将で知られるエドモンド・デュクロ。その影に隠れる形でその存在は秘匿され続けた。
将軍の影は、闇の中、その姿を見せないままザフトに襲いかかった。
シン・アスカは自分の決断に後悔を覚え始めていることを自覚していた。敵の追撃を阻みながら自分も徐々に後退していけるのではないかと甘く考えていた節があった。
しかし、敵の攻撃は苛烈だった。
深いに闇に包まれた森の中、インパルスガンダムがスラスターを全開にして突き進んでいる。上空に飛び上がっては狙い撃ちにされてしまう。森の中を高速で飛行することは自殺行為に他ならない。そのため、川の上を選択せざるを得なかった。
川に沿っている以上、ルートは筒抜け。上空ほど狙われることはないとしても、ミノフスキー・クラフトの光を遮るものもない。
追っ手をまくことなどできない。
シンの目は、モニターに黄金の輝きが現れたことに気づかざるを得なかった。黄金のヅダが木々の間から飛び出して来たのだ。
聞こえてきたのはジェネラルの力強い声だった。
「仲間を逃がすために殿を買って出たか。その心意気、気に入ったぞ、ザフト兵!」
通信ではない。スピーカーからの外部入力の声だ。
ヅダが突進の勢いのまま、そのビームの刃を持つ戦斧を叩きつけてくる。シンは大剣をはじき返す。80tものモビル・スーツ同士が激突した衝撃に、ビームの粒子が散り、機体全体を揺らすその力にシンは歯を食いしばって耐えた。
次々と強引な斧の一撃が繰り出される度、インパルスはビーム・サーベルを振るう。
互いが得物を力任せにぶつけ合っているにも等しい激しさに、剣を持つマニピュレーターは悲鳴を上げ、真下の水面は著しく形を変えた。
熱量を攻撃力とするビームをこれほど強く振るう必要はない。しかし、ジェネラルはビームなどないとばかりに重い一撃を繰り出し続けていた。相手の動きを予測するだけでなく攻撃を受け止めた時、自分の体勢がどう崩されるかまで考えなければいけない戦いはシンを戸惑わせていた。
防戦一方を強いられるシンに対して、エドモンド・デュクロ将軍はさらに勢いを増している。
「いい腕だ。名は何という、ザフト!?」
「通信、繋がってないだろ!」
よって、シンのこの言葉はデュクロ将軍に聞こえていない。しかし、シンはそのことを除いても答えるべきではなかった。
敵は黄金の将軍ばかりではないからだ。
将軍の猛攻にシンは思わずその場を逃れ、森の開けた一角に足で泥をえぐりながら着地した。それが隠れた脅威に自ら飛び込むことだと気づきもせずに。
異常接近を告げるアラームがコクピットに流れ、シンが見上げるとそこには宙返りする闇があった。それが黒く塗装されたデュエルダガーなのだと気づいた時には、インパルスの左腕にナイフが突き立てられていた。フェイズシフト・アーマーが施されていないフレームを正確に狙ったこの一撃はたやすく左腕を切断する。
そして、デュエルダガーはインパルスがまき散らすバルカン砲を構うことなく木々の間に敷き詰められた闇の中に溶けていった。
これで終わりではない。死角から別のデュエルダガーが接近していた。先手を打ちビーム・サーベルを叩きつけようとすると、デュエルダガーはあっさりと身を翻し闇の中に逃げ込んでしまう。
何も姿を消している訳ではない。注意していれば対応すること自体は可能だった。
だが、シンの視線は否応なしに引きつけられる。ヅダがその黄金の輝きを見せつけるように突撃してきたからだ。振り下ろされる斧の一撃を残った右腕で受け止め、続いて繰り出される攻撃を剣でさばいていなす。
シンの意識が黄金で塗りつぶされた一瞬に、闇はインパルスの右足にナイフを突き立てた。膝の間接が損傷したことでそこから下の操縦が不可能になる。このままでは立っていることもできないと、シンは無理やり機体を上昇させる。
それが危険であることも理解していた。
漆黒のデュエルダガーは皆、黒塗りのビーム・ガンを携帯していた。隠密時には使用は厳禁とされるが隠れることをやめた彼らが使用を控える理由はない。森の闇に隠れたデュエルダガーは、一斉に上空を、ミノフスキー・クラフトを輝かせるインパルスガンダムを狙い撃つ。
どこから撃たれたのかさえわからないビームが次々と立ち上る。
シンはとにかく機体を動かした。かわせる攻撃ではない。とにかく不規則に機体を動かし続け攻撃が外れてくれることを祈るばかりである。事実、この動きで直撃を避けることはできた。だが、すべてをかわせるほど楽な攻撃ではない。ビームがかすめる度に強い輝きを放ちフェイズシフト・アーマーがそぎ落とされる。それがバック・パックであれば致命的になる。ミノフスキー・クラフトそのものが削り取られそれが機動力の低下に直結する。
ビームが残されていた右手首に命中し爆発がビーム・サーベルを遠くにはね飛ばす。それはすでに今さらだ。すでにインパルスは全身に被弾している。スラスターこそまだ起動していたがミノフスキー・クラフトの出力は9割低下。ただ墜落しないよう必死になることしかできない状態に陥っていた。
そんな隙を、ジェネラルが見逃すはずがなかった。
「いい根性だな、ザフト兵!」
黄金の塊がまばゆい光とともにインパルスに体当たりをかける。コクピットを直に揺さぶる衝撃に、シンは操縦桿を握りしめることしかできない。痛くなるほど派歯茎を食いしばりながら、巨大な戦斧が自身に向かって振り降ろされようとしている様を見ていた。
「では、お前がシン・アスカか!?」
相も変わらずマイクで聞こえる将軍の声。
頭頂から両断されるのではないかと思われた斧の一撃は、なぜか右肩へとそれた。そのまま右腕ごと右足を斬り飛ばす。
もはや姿勢を制御する術を失ったインパルスはそのままジャングルの木々をなぎ払いながら墜落した。
木々に埋もれたインパルスは、すでに動くことさえできない状態になっていた。そのコクピットの中ではシンが今にも意識を手放そうとしていた。目立つ外傷はないようだったが、ひどい脳しんとうを起こしているのだろう。目の前に降り立つ黄金のヅダに、少年は魔王の影を見いだした。
「・・・・・・エインセル・ハンター・・・・・・、俺は・・・・・・」
ジャブロー攻略は完全な失敗であった。降下部隊を壊滅させられたことで主力部隊を動員できないまま、探索部隊を残して撤退せざるを得なかった。探索部隊の仲には撤退に成功した者もいたが、ただ一方的に戦力を消耗したにすぎない。
そのことがザフト軍内に暗い影を落としていることに疑いはなかった。ザフトの騎士、アスラン・ザラの母艦であるパラスアテネの格納庫では整備員の動きが鈍い。本来ならば撤退に成功した探索部隊の機体の整備を始めてなければいけないのだが。もっとも、戻ることに成功した機体はわずか2機にすぎないのだが。
アスランは辛うじて帰還したパイロットを出迎えるため格納庫に立っていた。
損傷の激しいインパルスの足下からルナマリア・ホークが慌てているとも焦っているとも見える様子でアスランへと駆け寄っていた。
「アスランさん!」
少々泣いたのだろうか。顔にはかすかに涙の跡があった。
「私たち、まだ負けてませんよね!」
息を切らせるルナマリアの姿は、アスランにすがりついているようにしか見えない。
「今回は確かに負けましたけど、最後にはプラントが勝ちますよね! いつか世界が平和になりますよね!」
それに対しても、アスランは非常に落ち着いていた。冷たく見えるほどに。
「黙れよ……」
「え……?」
自らの耳を疑い目を見開くルナマリアだったが、すぐにやはり聞き間違いだったのだと確信することになる。アスラン・ザラがすぐに笑みを見せたからだ。映画、「正義と自由の名の下に」で見せたかのような。
「そうだな。ファースト・コーディネーター、ジョージ・グレンの望んだ理想郷としてプラントは誕生した。だが、そんな理想を歪めているのはナチュラルのコーディネーターに対する嫉妬だ」
そう、プラント政権は言い続け、プラントの国民は信じ続けている。それはつまり、アスラン・ザラが口にしなければならない言葉そのものである。
「まったく世界中のナチュラルが君みたいな人ばかりだったら、世界はもっといいものだっただろうにな」
「は、はい、ありがとうございます!」
思わず敬礼してしまったルナマリアに対して、アスランも返礼として敬礼する。ザフトの騎士として、その振る舞いは相応しいものだった。
ミネルヴァににおいても、同様に広くなった格納庫について話題に上っていた。最大で9名が所属していたミネルヴァではあったが、2名にまで減少したパイロットとタリア・グラディス艦長が完全に空間をもてあましていた。
「降下部隊の壊滅。度重なる作戦失敗によってザフトは部隊の再編を余儀なくされています。当面、エインセル・ハンターの追撃は不可能でしょう」
テーブル型のモニターには無理なエインセル・ハンター追撃によって補給路が乱されたザフト軍の状況が投影されていた。特にオーストラリア大陸とアフリカ大陸の連携がとりにくくなってしまっている点が問題と言える。
誰の目にもザフトの劣勢は明らかであった。無論、ヴィーノ・デュプレにも。
「どうすんですか、これ・・・・・・?」
もとから仕草の大きなヴィーノだが、その横のレイ・ザ・バレルは対称的に慌てることがない。
「どうにもならん。元々、プラントには勝ち目のない戦いだ。国力差はどれほど小さく見積もっても10倍。それも大西洋連邦一国に限っての話だ。世界安全保障機構全体ともなれば単純な合算はできんが、30倍にもなると試算する向きもある。わずか3年前に国土を焼かれる寸前まで追い詰められた国にしてはよくやっている方だろう」
ヴィーノが思わず艦長の方を盗み見たのも無理はない。部下が弱きな発言をしているとあれば、それを叱責することも上官の役目だと理解されているのだから。それがコーディネーターがナチュラルに負けることなどあり得ないとされているプラントであればなおさらのことと言えた。
しかし、グラディス艦長は普段通りの冷静にすぎる顔しか見せることはない。
それはレイにとってさえ奇妙なことに映ったのかもしれない。
「グラディス艦長、失礼承知でうかがいたい。あなたと議長の関係は噂レベルであれば知っている者も多い。だが、あなたは現在のデュランダル政権のありように疑問を感じているのではないか?」
一度、艦長と議長の関係を尋ね、そのことがトラウマとなっているヴィーノは思わず視線をレイとグラディス艦長、交互に泳がせる。そんなヴィーノの心配を余所に、隊長と艦長はひどく平静を保っていた。
「あなたがシンを呼んだ理由を考えてみたが、やはり現政権の対ナチュラル、対在外コーディネーターへの有り様を確かめるためではないかとしか考えられなかった」
「では、あなたの考えの中で、私は自身のプライベートを軽々しく話す女だとの結論に至りましたか?」
「私は賢者を気取るほどうぬぼれてはいない」
上司2人の静かな睨み合いに、ただヴィーノだけが余計な緊張を強いられている状況だった。
「ど、どういうことです、レイ隊長?」
「もしかしたらもしかするかもしれないと試していた、ということだ」
予想では話すはずがないと結論付けていた。しかし、予想が外れているかもしれない。もしかしたら聞けるかもしれない、そう考えていたということなのだろう。
だが、当然の如く、そんな都合のいいことが起きるはずもなかった。
グラディス艦長は無言でブリーフィング・ルームを後にした。元々、会議は終了時間に近づいていた。だからとご機嫌を損ねた訳ではないと考えるのは早計と言えたが。
仕方なく、レイ達もまた部屋を出る。廊下を歩きながら話題に出たことは、やはり未帰還となった仲間のことだった。
普段から表情を表に出すことの多いヴィーノが不安げな顔でレイに並んだ。
「隊長、シン、無事ですよね?」
「確約はできんが、俺は勘は無事だと告げている。何せ、あいつは不死身の男だからな。あいつはすでに撃墜された回数が今回で10回を超えたらしい」
「マジっすか!?」
「あいつはザフト軍きっての被撃墜王だということだ。それほどの男が命を落とす戦場に、ジャブローでは不足と思わんか?」
今のレイにはどこまでが冗談で本気なのか区別のつかないところがあった。冗談めかして笑っているが、それだけシンのことを本当に心配する必要がないと確信しているようにも見えた。
ヴィーノとしては戸惑うほかない。
「なんか隊長、雰囲気変わりましたよね? なんか、その・・・・・・、ヨウランたちがいた時、そんなに笑ってましたっけ?」
「地球育ちにとってユニウス・セブン世代といても愉快なことはないからな。だからお前やシンがいなくなると寂しくなる」
「いや、俺もユニウス・セブン世代なんすけど・・・・・・、プラント生まれのプラント育ちの・・・・・・」
やはり、レイは笑うばかりであった。
シンが目を覚ますと、そこには見たこともないような天井があった。何か宗教絵画めいた絵が描かれ、縁はこれでもかとばかりに装飾が施されている。ゴシックだとかバロックだとかシンにはわからない。しかし、自分にはまったく心当たりのない場所だとは理解している。
「どこなんだ……、ここは……?」
まさか天国の宮殿ではないだろう。そうは思いながらもあり得ないこともないかもしれない。それほどまでにシンにとって縁遠い場所に思えて仕方がなかった。
そして天国には天使がいた。波立つ桃色の髪に青い瞳。人形を思わせるほどに整った顔立ちは、その身を包む純白のドレスと相まってその背中に翼が見えてきそうにさえ覆えた。だが、シンを見つめるその瞳は、天界の使者にしては少しばかり、冷たい。
「大西洋連邦。エインセル・ハンターの屋敷、つまり私の家」
「ヒメノカリス・・・・・・!?」
上体を起こそうと手をついたベッドは、軍艦のそれとは比べものにならないほど柔らかい感触だった。無論、大きく、降りるだけでも体をずらさなければならない。
「ようこそ、シン・アスカ。ジャブローであなたは捕虜になってここに運ばれた」
ヒメノカリスはスカートの裾をつかみ頭を下げる。映画でしか見たことのない歓迎の作法だったが、ヒメノカリスのシンを見る目は好意的とは言いがたい。箇条書きのような断片的な説明も、できるだけ手間を省こうとしていることの表れかもしれない。
シンはベッドから降りたところでようやく、自分が身につけているのがパイロット・スーツでないことに気づいた。白いシャツなのだが、ボタンのところが縦一列にフリルで飾られている。如何にもお坊ちゃんが着ていそうなものだ。
「この服、何なんだ……?」
「質問が多い。お父様が昔、使ってたもの。もういい?」
露骨にシンの相手をすることを面倒に感じてるようだ。ヒメノカリスは、やはり豪華な扉に手をかけると首だけで振り返る。
「歩けるならついてきて。お父様が会いたいそうだから」
「お父様って、……エインセル・ハンターが?」
この問いに、ヒメノカリスは答えなかった。まるで質問がなかったかのように歩き出そうとしたため、慌ててシンも扉をくぐった。
外に出ると、そこは中庭に繋がっていた。手入れの行き届いた生け垣に花咲かす花々。宇宙進出の進んだこの時代において、中世のお城に迷い込んだかのように錯覚さえさせられる。
そんな中庭を歩くヒメノカリスの後ろ姿は、お姫様に思えた。実際、ここがエインセル・ハンターの居城であるなら、ヒメノカリスは姫そのものなのだろう。
シンが名前もわからない花や精巧な彫像につい目移りしていると、唐突にヒメノカリスから声をかけられた。
「答えて。お父様はあなたに興味を抱いている。それはなぜ?」
ヒメノカリスは振り向いてもいない。ただ歩き続けている。
「知る訳ないだろ……」
実際は、ヒメノカリス自身、期待していなかったのかもしれない。それ以上、何も聞くこともないまま中庭を中央へと向かって歩いているようだった。
そこは開けた場所になっていて、家具、ではなくて調度品と呼ばなければいけない気がしてくるテーブルがいくつか置かれていた。ちょっとした休憩所になっているようだ。ただ、そこにいる一組の男女は、この城で始めて異物感を与える人物たちだった。
女性は眼鏡のスーツ姿。テーブルのすぐ脇でお茶の入ったカップを男性へと差し出していた。白いスーツを身につけた、目を見張るほどまばゆい金髪をした男性へと。本を読んでいた男性が顔を上げると、その青い瞳にシンが映る。
ヒメノカリスは男性へと頭を下げると、彼のことをこう呼んだ。お父様と。
「シン・アスカを連れてきました」
テーブルに本を置く。立ちあがる。小さく礼をする。そんな、男性の一挙手一投足からシンは目を離すことができないでいた。思わず息を大きく吸い込むと吐き出すことができない。
そして、シン・アスカは魔王の声を聞いた。
「初めまして、エインセル・ハンターと申します」
「あ・・・・・・、あなたが……」
目の前の現実をただありのままに受け入れる。そんな簡単なことが、今のシンには何よりも難しいことのように感じられていた。プラントでは、エインセル・ハンターは思い通りにいかないとすぐに怒鳴り散らすヒステリックな小物として描かれていた。時には猫を膝に乗せて悪巧みにふけるなど絵に描いたような悪役として表現されることもあった。シンは、そんな露骨な印象操作を信じていた訳ではない。
それでも、目の前の男性をエインセル・ハンターであると受け入れることができずにいた。
「あなたが・・・・・・、エインセル・ハンター・・・・・・」
「はい。シン・アスカ。あなたのことは調べさせていただきました。私を仇と追っている。相違ありませんか? では、それはなぜですか?」
「・・・・・・あんたが、俺の母さんを殺したから・・・・・・」
「それは資格であって理由ではありません。あなたは母のために私を殺したいのですか?」
まるで心の内を見透かされている、そう、シンには感じられた。シンが母との関係を悩んでいることを知っているかのように。ヒメノカリスから聞いたのだろうか。しかし、ただ人づてに聞き及んだだけではわからないほど、その声はシンの心の奥深くにまで響く。
エインセル・ハンターから目をそらすことができない。瞬きをすることができない。
「あなたは非常に優秀な生徒です。成績がよく表彰もされています。それは母に認めてもらいたいと努力した結果でしょう。そして、母の死後でさえ、努力をやめることができません。インパルスガンダムを受領できたのはその結果でしょう。怖いのですね、母に捨てられることが」
「お・・・・・・、俺と母さんのことの、何が……!」
「ではあなたはご理解されていますか? あなたご自身のこと、そして母上のことを?」
シンが必死に言い返そうとした意志をくじき、魔王はその手を緩めようとはしない。
「母上を疑っておられるのでしょう? 努力をやめれば、成果を出さなくなれば捨てられると恐れておられるのでしょう? あるいは、すでに確信されているのですか? 走り続けることをやめた途端に母に捨てられると」
違う。できることならばそう、大声で叫びたかった。しかし、できなかった。心を読まれているのだとしたら、嘘をついても見破られてしまう。だとすると意味のないことのように思えて、そして、シンに意味のないことにありったけの気力を込めるほどの気概は残されていなかった。
「そんなこと・・・・・・」
違うと言いたかった。しかし、それが本当のことでないことをシンは知っている。
その通りだと認めてしまったら、シンがこれまで脆くも守ってきた何かを自分の手で捨て去ってしまうことになる。
もはやシンには言い返すだけの力さえ残されていなかった。
「亡くなった母への思いを謳いながら、母が存命していた時と同じことを続けるだけなのですか? あなたはいつ、母の弔いをされるおつもりなのですか?」
エインセル・ハンターが何かしたわけではなかった。その柔らかな表情を崩したこともなければ、声音を鋭くしたこともない。何も変わらなかった。しかし、何かが変わっていた。これまで見えない鎖でも巻き付いているかのようにシンを抑えつけていた重圧が突然、消え失せたからだ。
「あなたの身柄は時期をみてプラントに引き渡します。それまではどうぞごゆるりと」
こうしてエインセル・ハンターは、彼がメリオルと呼んだスーツの女性、ヒメノカリスを連れて歩き去って行った。
しかし、シンは動き出すことができなかった。ただ1人残され、それでもただ立ち尽くすことしかできずにいた。
これが、シン・アスカと魔王と呼ばれた男との出会いだった。
ただ中庭で立ち尽くす。そんなシンの様子を、見下ろす少年の姿があった。屋敷の一室、窓に身を乗り出す少年は、アウル・ニーダだ。その顔は如何にも不機嫌といった様子で今にも窓から飛び降りシンへ殴りかかりそうに思えるほどだ。
少なくとも、すぐ後ろのステラ・ルーシェにはそう見えたのだろう。
「アウル、だめ。お姉ちゃんに言われたでしょ、シン・アスカに会っちゃだめって……」
「んなこと、わかってる……」
しかし、いつまでも自制心を保っていられるか、自信がなくなってきたのだろう。アウルは振り向くと、窓に背中を預けもたれかかる。こうしていれば、シン・アスカを見なくてもすむからだ。
「ステラ、あいつはスティングの仇なんだぞ。お前はそれでいいのかよ!?」
結局、アウルは怒鳴ってしまった。ステラが小動物のように震えると、さすがにばつが悪そうに舌打ちする。しかし、そうしたことでかえってステラを怖がらせていることにアウルは気づけないでいた。
そばに置かれたテーブルの上、プロジェクターで表示される真紅はそんなアウルをたしなめた。
「レディを怯えさせているようでは男としての格を疑われるのではなくて、アウル?」
「別に俺だってステラ怖がらせたい訳じゃない。でもな……」
「アウル。強くなりたいのなら復讐を捨てなさい」
「今時、精神論かよ」
「精神論ではないのよ、アウル。あなたにはまだ十分な実戦経験があるとは言えないわ。でも、それを補う感性があなたにはある。アウル、あなたは着実に強くなっている。それは相手の動きを本能的に察知する感覚によるものだわ。でも、あなたが復讐に憑かれた時、あなたは自分を自ら裏切ってしまう」
「んだよ、それ?」
アウルは言っている意味がわからないとばかりに鼻で笑うが、真紅の真剣な眼差しにすぐに笑うことをやめた。
「で?」
「あなたの前に仇がいるとして、今回は逃がすべきだとあなたの直感が告げたとする。あなたはそれに素直に従うことができるかしら?」
真紅はアウルの返事を待っていたものの、アウル自身は適当な表情を作って誤魔化すしかしなかった。嘘を言っても真紅には通用しないこと、わざわざ自分が敵を見逃す訳がないとも理解していたからだろう。
「あなたは相手の動きを読むことができる。でも、あなたはそれを自分で無視することになる。あなたは復讐を願う分だけ弱くなるのよ、アウル」
果たして通じたのだろうか。アウルはわかったように空返事をしたが、真紅もそれ以上、深く追求しようとはしなかった。それだけの時間もなかった。
ヒメノカリスが短いノックとともに部屋に入ってきたからだ。
「ステラ、アウル、準備なさい。私たちは月に昇るから」