空はもはや鳥のものではない。
ザフト軍大型輸送機が大挙して空を埋めている。その姿は腹一杯に獲物を食らった鷹のようで雄大でありながら鈍重。周りを小うるさく飛び回る雀さえ追い払える様子はない。雀。大西洋連邦軍の使用するVTOL戦闘機が機銃というさえずり声で鷹を苛立たせていた。如何にも戦闘機という姿をしているが、垂直離陸に耐えうる高出力のエンジンを備えたことで、揚力をウイングに依存する割合が減少し、翼に比べ本体が比較的大型である。翼に比べ体が大きい。そんな姿は雀を想像させなくもない。
モビル・スーツに主役の座を譲ったとは言え、戦闘機がその戦場を失ったわけではない。稼働時間の短さからモビル・スーツは輸送機を頼らざるを得ない。飛行できるモビル・スーツの不在から、空戦は戦闘機の独壇場である。
戦闘機の掃射が鷹の頭をつついた。コクピットを潰された輸送機が煙をたなびかせながら眼下の海へと落ちていく。しかし、雀にしてもしとめた大物の血の味を堪能する時間は残されていない。
戦闘機の背後をとったのはザフト軍戦闘機ノスフェラトゥス。吐き散らかされた弾丸はVTOL戦闘機の機関部に突き刺さると、溢れでた炎がVTOL戦闘機を呑み込んだ。ノスフェラトゥスは小型の戦闘機の後ろに戦闘機が連結されたような姿をしている。これはザフト軍が地上に確かな拠点を持つ以前に、前の小型戦闘機部分を前後にスライドさせることで性能を落とさずスペースを有効利用するために発案された形態である。
VTOL戦闘機。ノスフェラトゥス。どちらも実力は大差ない。このノスフェラトゥスにも慢心している余力はないのである。
ノスフェラトゥスのすぐ上で、曳光弾が交わる。見上げるまでもない。どこを見ようと、この空域では満腹の鷹を巡る戦闘機の空戦が繰り広げられている。
ノスフェラトゥスがVTOL戦闘機を撃墜するとすぐに、別のVTOL戦闘機がノスフェラトゥスを破壊する。
まさに混戦である。
この規模の空戦はここ1年の間、例がなく、戦闘が激化していることを印象づけるには十分なことであった。戦場は大きく動きだそうとしている。この事実はもはや自明であるのだから。
薄暗い部屋。ただそれも人の顔が見えないほどでもなければ、椅子の細長い背もたれに描かれた絵が見えないほどでも、やはりない。
そこは部屋である。決して広くはない。6角形のテーブルが置かれてなお、狭さを感じさせない程度。照明同様、不必要な空間は求められていない。
テーブルにはそれぞれの辺にあたる場所に椅子が備えられている。それぞれに異なった意匠が施され、6脚の内、5脚に少女の姿がある。
椅子の1つには、鯨に突き刺さる幾本もの剣が描かれている。この椅子に座っているのはエピメディウム・エコー。赤い左の瞳と青い右の瞳。三つ編みを左肩から前に垂らしたヴァーリであり、そして第4のダムゼルである。オーブを背後から操るこのヴァーリは、しかし策謀や陰謀という言葉とは無縁の雰囲気を持つ。
「そう言えば聞いたかい? パトリック・ザラ議長が大規模作戦を展開中なんだって」
語りかけているのは、他の椅子に座るエピメディウムと同じ顔をした少女たちへ。
向かいに座るデンドロビウム・デルタが答えた。エピメディウムとは何から何まで左右対称の姿をしている。背を守る背もたれには2つの箱をかつぎ上げる巨人の姿がある。第1のダムゼルである。
「狙いはパナマか?」
大西洋連邦軍の中で現存する唯一のマスドライバーがおかれた基地をデンドロビウムは挙げた。新たな議長となったパトリック・ザラは早速軍備の強化に走り、また大規模作戦を計画立案するようになった。
特にアフリカ大陸のゲリラを相手に活動を続けていたデンドロビウムは、ジブラルタル基地を中心とするヨーロッパ、北アフリカ戦線が危ぶまれている状況を肌で感じている。今、起死回生の一手がほしいのが本音だろう。この作戦如何によってはザフトの今後の地球侵攻は大きく影響される。
言葉をつないだのは、デンドロビウムの左隣りのダムゼル。青い髪が特徴的で、伊達白衣とも呼ぶことのできる愛用の白衣を着たままである。このサイサリス・パパの背もたれには、羽根飾りのついた槍が描かれている。このPのダムゼルは第3のダムゼルである。
「大西洋連邦はどう考えてるのか、ニーレンゲルギアは知らないの?」
言葉はデンドロビウムを挟んだ2つ隣りの席へ。
そこにはサイサリス同様白衣を見つけたダムゼルの姿。背もたれのデザインは、三角形の中に目が描かれたものである。ニーレンベルギア・ノベンバー。Nのヴァーリにして、第5のダムゼル。
「知ってても教えて差し上げられるはずがありませんでしょ。お父様のご命令ならいざ知らず」
ニーレンベルギアは人差し指を立てて、それを左右に振ってみせる。
地球軍において人体強化の研究を行っているこのダムゼルは雇い主を売るようなことはしない。事実、ニーレンベルギアは戦術的なことはともかく、戦略的なことはほとんど知らされていない。エインセル・ハンターはヴァーリのことを知っている。迂闊なことを漏らすはずがないのだから。
そんなことがわからぬ者はこの場にはいない。ここはヴァーリの仲でも成功作と認められたダムゼルのみが立ち入ることを許された部屋なのだから。
デンドロビウムが右隣りのニーレンベルギア、そして、2つ左隣りの少女を眺めてから、訝しげにオッド・アイを細めた。
「にしても、お前たちの格好、何なんだ? お父様に会うってのに白衣はないだろ、白衣は」
「私は学者ですもの、白衣は正装。でも、どうして工学系のサイサリスお姉さままで白衣を?」
「可愛いから」
まるで要領を得ていない。デンドロビウムはサイサリスもニーレンベルギアも、両方の説得を諦めため息をつく。その頃、デンドロビウムの双子の妹とも言うべきエピメディウムは隣の席の妹へと手を伸ばしていた。
5人目。この場にいる最後のダムゼルはお人形。ゼフィランサス・ズール、第6のダムゼル。背もたれには羽衣纏う天女の姿。椅子には、まるで人形のように赤い瞳、波立つ白い髪をなびかせて座っている。表情に乏しいその様子は、人形と見間違うほどである。
「ゼフィランサスの服って綺麗だよね。じゃあさ、僕たちみんなこの格好するっていうのはどうかな?」
「1度エインセルさんに勧められたこともありますけど、この格好はさすがに……」
「人を選ぶ、かな……」
こんな時は、ニーレンベルギア、サイサリスの意見は一致する。エピメディウムはゼフィランサスのドレスを丁寧な手つきで弄び、デンドロビウムはその鋭い視線に神妙な表情を加味してゼフィランサスを眺めている。
「年頃の娘に好みの髪型させて着飾らせて、か……。なあ、ゼフィランサス、お前、エインセル・ハンターに変なことされてないだろうな?」
「変なこと……?」
これが発言の極端に少ないゼフィランサスのきわめて貴重な肉声である。表情に乏しい顔で、何のことかわからないとチョーカーに包まれた首を傾けて見せた。
デンドロビウムは頬を赤らめる。
「変なことは、変なことだよ……。お、男がいるならわかるだろ。かまととぶるな!」
立ち上がってまで語気を強めるデンドロビウムに対して、ゼフィランサスはあくまでも何もわからないと言った様子である。こんなやりとりに誰もが気を取られていたせいであろうか。部屋に新たなダムゼルが加わったことに気づく者は誰もいなかった。
「こらこら、私の可愛い妹を虐めないでくださいな、デンドロビウムお姉さま」
青い瞳。桃色の髪。かつてガーベラ・ゴルフ、Gのヴァーリと呼ばれ今は至高の娘、ラクス・クラインの名を戴く第2のダムゼルが穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ラクス……」
立ったままのデンドロビウムを除いた4人全員が立ち上がり、それぞれの椅子に脇で姿勢を正す。これからいらっしゃる方はヴァーリのお父様であり、最上の礼をもって接するべき相手なのである。
ラクスはテーブルの中でただ1つ空席であった自分の席に立つ。優雅な帆船が描かれた椅子である。
そして、父は、シーゲル・クラインはその姿を現した。
プラント最高評議会に参加した時と同様、手には杖が握られている。だが、その杖を頼りにする様子はなく、その足取りはしっかりと部屋へと訪れた。その胸には、稲穂をくわえる犬を模した紋章がつけられている。クライン家の家紋である。
ラクスを除いた5人のダムゼルたちはそのすべてが、手を胸の前で組み、その場にひれ伏す。
シーゲルはラクスに導かれるままラクスが本来の主である席へとついた。
「せっかくの親子水入らずだ。顔を上げてもらいたいものだね。席に着いておくれ」
どこであろうと、ダムゼルの父、シーゲル・クラインはその声音を変えることはない。相手が政敵であろうと、娘たちであろうと。ダムゼルは揃って顔を上げると、それぞれの席に着く。どのような些細なことであれ、命令に違えることはできない。
シーゲルはまず、赤い瞳のダムゼルへと視線を向けた。
「ゼフィランサス。君と会うことは随分久しぶりだね」
語りかけられたゼフィランサスは父の顔を直接見ようとはしない。その様子は、さも恥じらっているかのようである。
「はい……、10年になります……」
「君の造ったガンダムとやらは素晴らしいね。私も鼻が高い」
ゼフィランサスは小さな声でお礼を述べる。そんな妹の様子を見るなり、不機嫌そうな顔をしているのは右隣りのサイサリスである。それをシーゲルは見逃さない。
「ああ、もちろん、サイサリス、君がザフトに残ってしてくれた仕事も私は忘れていないよ。これからも頑張ってくれるかい?」
声をかけられた。その途端に、破顔して、サイサリスは満面の笑みを見せた。
「もちろんです、お父様!」
続いて、シーゲルは首を右へと大きく回す。そこにはオッド・アイのダムゼル。エピメディウムの方だ。
「モビル・スーツと言えば、この度の一件では、君の手を煩わせてしまったね、エピメディウム」
ゼフィランサスが研究に当たっていたニュートロン・ジャマーを無効化する装置と、それを積んだ実験機が持ち出されたことを言っている。オーブに運ばれた機体は交戦後破壊され、オーブ軍が調査の名目でパーツの細部に至るまで回収したのである。
「核動力搭載機はオーブの方で抑えました。この事件で技術が流出することはありません」
エピメディウムは努めて平静でいるようで、しかし普段の朗らかさは出てきていない。
ここで1人渋い顔をしているのはデンドロビウムである。ゼフィランサスやサイサリスのようにモビル・スーツ開発なんてできない。エピメディウムは1国を管理している。自分なりに貢献しているつもりでも、それが認めてもらえることなのかはわからない。
そんなデンドロビウムの心を見透かしたように、シーゲルは微笑みかける。
「デンドロビウム、君が地味なことでも、確かに地球圏の混乱に貢献していることを、私は知っているよ」
突然振られた話に、デンドロビウムは一瞬呆然とするが、すぐに頬を赤らめ、そっぽを向く。あからさまな照れ隠しである。次に姉妹たちが声をかけられていく中で、未だ視線さえ向けられていないのはニーレンベルギアである。
「お父様、わたくしは?」
シーゲルはゆっくりとした動作で、娘の方を向く。
「ああ、ニーレンベルギアか。君のことはすっかり忘れていたよ」
「お父様!」
すぐさま返された抗議の声に、シーゲルは笑うばかりである。
「冗談だよ。君には辛い立場を任せている。そのことはいつでも私の気がかりだ」
この言葉に満足したのだろう。ニーレンベルギアはゆったりと、椅子に深く腰掛ける。一通り娘に声をかけ終わったところで、シーゲルはすぐ後ろに立つラクスへと問いかけた。
「ラクス。これからは君の力がとても必要になる。力を貸してくれるね?」
シーゲル・クライン。お父様のお言葉を、至高の娘ラクスは一切の躊躇も、微塵の悔恨もなく、肯定する。
「もちろんです、お父様」
そして、5人のダムゼル全員と視線を交わらせる。
「私たちダムゼルは、そのために存在しているのですから」
アラスカ。広大な森と豊かな自然を有する北の大地は、一見戦争とは無縁の風景を演出している。木々は繁り、鳥は飛び、流れる水は川となって滝を形作る。
そして誰もが知っている。
この緑の大地の下には大西洋連邦軍の総合最高司令部ジョシュアが存在する。地下に埋設されているという隠匿性。強固な岩盤を有する堅牢性。そして保有する強大な戦力。
ザフトが地球降下を果たした以後、地球において優位に戦闘を進めながら最重要拠点であるジョシュアを陥落することはできなかった。森という衣に隠され、岩という盾に守られたこの場所。
アーク・エンジェルにとっては目的である約束の地であり、ザフトにとっては勝利のための悲願である。
そして、青き薔薇を掲げる者には、礎でしかない。
ジョシュアの1室。空調の行き届いたこの場所は、外の様子や季節感を一切感じさせることなく、快適な空間を演出している。それも、将軍に与えられる個室ともなれば、相応の豪華さは伴うものである。 カーペットに来客用のソファー。置かれた机は軍人の安月給など軽く吹き飛んでしまいそうな重厚な雰囲気を漂わせている。
机についているのは大西洋連邦きっての知将として知られているデュエイン・ハルバートン少将。その確かな眼差しと、初老を迎えながらなお精悍な顔つきは、その将軍の肩書きがお飾りでないことを自ら証明している。
豪華な椅子にふんぞり返るでもない。事実、低軌道において行われたアーク・エンジェル降下前の戦いにおいてハルバートン少将は自ら負傷しながらも部隊の陣頭指揮をとった。机に肘を乗せ、高圧的な印象を与えるでもない。ごく普通に座り、客人を迎えていた。
机の前に並んで立つのは2人の女性である。マリュー・ラミアス。それにナタル・バジルール。強襲特装艦アーク・エンジェルの中で、主要なクルーである2人は、固い敬礼の姿勢を崩さぬままハルバートンと相対していた。
微笑むというような親密さを表現することはないが、ハルバートンは決して重くはない口調で語りかける。
「まあ、堅苦しいことは抜きにしよう。よく、ここまでたどり着いてくれた」
こうは言っても、2人は単に敬礼をやめただけで、その体から緊張は抜けてはいない。労いの言葉も効果なく、マリューは形式的な報告を行おうとする。
「いえ。しかし、ストライク、デュエルを大破させたこの不始末、申し開きのしようもありません!」
はっきりとした声で状況の説明と自身の非を認める。確かに、軍人として立派なことである。しかし、このことは融通がきかないことも示している。そのことがこの優秀な軍人の唯一の悩みであるとハルバートンは見抜いていた。同時に、それでもここアラスカにまでたどり着いた実績は確かなものである。
たしなめるまでもない。ハルバートンはかまわず話を続ける。
「君たちも知っているとは思うが、すでに大西洋連邦はモビル・スーツを保有し、ザフトへの反撃を開始している」
まずは北アフリカ戦線にGAT-01デュエルダガーが投入された。ジブラルタル基地奪還を目指す作戦は、すでに進行しているのである。このことは、ガンダム開発のノウハウをこれ以上必要としていないということを意味する。そうすれば、ガンダムなど多少高性能とは言え、コスト・パフォーマンスに劣る厄介なお荷物でしかない。
この事実を、ハルバートンは努めて冷淡に告げた。
「君たちには大変申し訳ないが、すでにガンダムにはそれほどの価値はない」
マリューは明らかに表情を暗くする。上官の前であるというのに、顔を伏せてしまうほどである。それに対して、ナタルはまだ気概を残していた。
「ストライクに残された戦闘データは有益なはずです」
「確かに、1枚のカードにはなる。それに、モビル・スーツ開発を主導したのは我々であるという事実に変わりはない」
せめて部下を元気づけるきっかけにでもなればと、ハルバートンは語気を強めた。しかし、それが劇的な効果を見せることはない。もはやガンダムは、急進派から主導権を奪い取るための切り札とはなり得ない。その正確な事実認識がこの部屋の空気を重く沈ませる。
ハルバートンにしたところで、その事実から目を背けることはできない。
「どうであれ、今後の会議で方針が決定することは間違いないだろう。後は我々の仕事だ」
大西洋連邦軍の最高幹部が集まる作戦会議が予定されている。そこにはあのエインセル・ハンター代表も姿を見せることだろう。仮に会議で急進派主導が明白になれば、もはや戦争の早期終結は望むべくもない。
「ところで、すでに辞令は受け取っていることは思うが、ラミアス大尉、いや、ラミアス少佐、君はアーク・エンジェル艦長の職務を解かれ、おって命令あるまで待機してもらうことになる」
ハルバートンはマリューのことを敢えて少佐と呼んだ。アーク・エンジェルのクルーが皆、この度の功績を認められ、昇進を果たしたことを意識させるためでもある。
ただ、マリューには少々刺激が強かったのか、また敬礼してしまう。その横で、ナタルは厳格な上官を一瞥してからハルバートンへ視線を向けた。
「何故、私がアーク・エンジェルの艦長を任せられるのでしょう?」
マリューを見たことは、上官を押し退ける形で艦長の座を得たことへのある種の引け目であったようだ。あるいは、中尉の階級で艦長を任せられるのは時期尚早と感じたか。兵科の問題も考えられた。
ハルバートンにしても、ついマリューの様子を見てしまう。そうしたところで、マリューは特に反応を見せない。再び、ナタルへ視線を戻す。
「アーク・エンジェルは確かにモビル・スーツの運用を前提とした特装艦であることに代わりはない。しかし、その広すぎる汎用性は他の艦船との足並みをそろえにくいことも事実だ。また、義勇兵の存在も、部隊の再編を厄介なものにしている」
本来ならば少なくとも少佐に任せるべき役職である。ところが、わざわざラミアス少佐を外し、ナタル中尉を据えることを疑問と考えることに不思議はない。
ナタルはまだわからないとでも言うように唇に力がこもっている。
「しかし、人員の補充もないとは……」
「あくまでも暫定的なものだラミアス君共々、正式な配属先が決まるまで骨休めでもしてくれたまえ」
おかしな不安を与えぬよう、ハルバートンは言葉を被せるように言った。
これは穏健派による決定なのである。だが、ハルバートン自身この采配に納得しているわけではなかった。モビル・スーツ開発技術の漏洩を筆頭に、穏健派の工作はその大半が裏目にでてる。このことに、何か言いしれない力が働いているのだと、ハルバートン自身が感じていた。
ハルバートン少将の部屋から戻ったマリュー、そしてナタルを出迎えたのは水に浮かぶアーク・エンジェルの白い艦体と、居並ぶアーク・エンジェルのクルーたちであった。現在アーク・エンジェルが安置されているドッグは海中から進入するものであり、入庫後も水に浮かべられる形で置かれることになる。この構造であるため、壁に備えられた通路の他は、人が歩ける場所などほとんどない。ドッグ入り口の、それこそモビル・スーツを寝かせることができるくらいの広場しかないのだ。
そこに、アーク・エンジェルのクルーたちが整然と並んでいた。マリューの姿を見るなり、一斉に敬礼する。
どうやら、すでに艦長の職を解かれたことは聞き及んでいるらしい。ナタルにしても、クルーの中でただ1人前に出ているアーノルド・ノイマン曹長、いや、小尉の横についた。
マリューはアーノルドの前にまで歩く。まず、アーノルド小尉が敬礼をやめ、休めの姿勢になる。すると、後ろに並んだクルーたちが一斉に倣う。
その中に2人、テンポが遅れた者がいる。まだ周りの様子をうかがいながら、自分の姿勢を確認している未熟な様子を見せているのは少女2人。アイリス・インディア曹長。フレイ・アルスター2等兵である。余談ではあるが、同じく志願兵であるキラ・ヤマト曹長はずいぶん手慣れた様子である。
思えば、この少年少女には振り回されたものだ。特にアーノルド小尉が小娘に現を抜かしたりしなければ、まだ楽ではなかっただろうか。見送りだというのに、花1つ用意していない主催者に、マリューはつい皮肉を言ってしまった。
「あなたにして粋な計らいね」
こと女性問題以外に限っては堅物と評していいアーノルドは皮肉に気づいた様子もない。
「光栄です」
気づかれなかったら気づかれなかったでかまわない。せっかく別れの場を用意してもらったのだ。マリューはアーノルドから距離を開け、横に広がったクルーを無理無く一望できる場所で足を止める。
1人1人の顔を見るように視線をゆっくりと回してから、息を吸い込む。
「すでに聞き及んでいるとは思いますが、私は今日をもってアーク・エンジェル艦長の職を解かれました」
大勢の前で話そうとすると、自然と姿勢が整う。最後まで、染み着いた軍人としての習慣は顔を出す。
「私はみなさんにとってどんな艦長であったか、今更聞きたいとは思いません」
思えば、懇親会でもこんな話し方をしてしまった。あの時はまさか難民にすぎない子どもたちがアーク・エンジェルの主力になるとは考えもしなかった。
そして、艦内の問題もあらかた、この若年に起因している。
ふとフレイ、アイリスの2人を眺めてみる。少女は2人とも、真剣な様子でマリューの話に耳を傾けていた。軍服など着ていなければ、どこにでもいそうな子どもたちである。
「恐らく、不平不満を抱えている人もいることでしょう。それは軍務を遂行する上で仕方のないことだった。そんな言い訳をするつもりもありません」
意識して瞬きを1度する。
「間違ったこともしてきました。正しいと確信のもてないことも多くあります」
記憶の中から、窮地に陥る度、アーク・エンジェルを救ってきたのはゼフィランサスやフレイと言った若者の機転であった。そのことを否定するつもりはない。それは、艦の通常運行を支えてきたのは自分であるという自負が支えてくれている。
「それでも、このアーク・エンジェルがアラスカにたどり着くことができたのは、そんな艦長を支えてくれたあなたたちのおかげであると考えています。決して長い時間ではありませんでしたが、こんな私によく、ついてきてくれました」
気づくと、体から余計な力が抜けている。
「あなたたちと戦えたことを、私は誇りとし、生涯忘れることはないでしょう。ありがとう」
マリューが敬礼すると、クルーたちも皆、一斉に敬礼をしてくれた。もっとも、アイリスとフレイの2人はまだ不慣れな動作で、形だけの敬礼をしていることが、とても微笑ましい。
円盤状のテーブル。席につく皆が等しく発言権を持つ理念は、プラント最高評議会と同様である。そして、出席者12名という人数も符合している。2名の大将。4名の中将。6名の少将。別の分け方をするなら、8名の急進派、4名の穏健派である。ただし、これらの区分はあくまでも名目上のことであり、プラント最高評議会ほど対立構造が明確になっているわけではない。
ハルバートン少将は、険しい表情で座っていた。
その理由は1人の男にある。その男は座ることなく、壁に描かれている世界地図の前に佇んでいる。白いスーツと柔らかな金髪が憎らしいほどに似合う男である。この13人目の参加者を、快く思わないのはハルバートンばかりではない。
ハルバートンの隣りに座る男性、ホフマン少将が男へと発言する。ホフマンは何とも恰幅のよい男で、地図の前に居座る男の均整のとれた体つきと好対照である。
「これは重要な作戦会議になります。あなたに参加資格はありますまい」
ホフマンを見たのは、急進派に属する面々である。男の方は静かに瞳を閉じている。誰も発言しようとしない中、静寂が重苦しい。それも、男がその目を開けるまでの話である。
エインセル・ハンターは、あまりに澄んだ青い瞳をしていた。
「ホフマン少将の仰るとおり、私は招かれざる客にすぎません」
男の後ろには世界が飾られている。
「ですが、この母なる星が脅かされていることは我慢ならない。この志に関しましては、私はあなた方に劣ることない思いを抱いております」
何とも白々しい。この男の目的は戦争そのものにあり、そこから生み出される莫大な資金に他ならない。産業革命以降、脈々と受け継がれてきた人類の負の遺産である。もし仮に悪魔が実在するとしたなら、このエインセルのような姿をしているのではないか。不自然なほどに整った容姿に、人を引きつけてやまないカリスマ性。加えて、敵にするにはあまりに恐ろしい。
エインセルが指を開き、その手を顔の横にかざす。何でもない動作さえ、まるで魔術の儀式の様相を呈する。
「まず、お話をお聞きください。追い払うのでしたら、それからでも」
かざした指が鳴らされた。それを合図に室内の照明が落ちる。入れ替わり、円卓の中央部分に赤と青、そして黄色で色分けされた世界地図が示される。赤はザフト。青は大西洋連邦とその関係国。それとも、ブルー・コスモスのシンボル・カラーであろうか。そして黄色は第3国、各国である。
一昔前は赤一色であった地中海沿岸域が、徐々に青で包囲されている。モビル・スーツの量産に成功したことで、その運用実験もかねた作戦が展開中である。このままいけば、ジブラルタル基地奪還も夢ではない。
これは急進派にとっての大手柄である。まずはこのことを引き合いに出すのかと身構える。ところが、エインセルが示したのは、まったく別のものであった。
世界地図にはアラスカを強調するサインが現れる。そして、敵部隊の進行を示す模式図が表示される。
「ザフトが大部隊を展開中です。目標はここ、アラスカ本部に他なりません」
「しかし戦略室の方からはパナマ侵攻が濃厚であると……」
これにはさすがに急進派に属する将軍からも疑問の声があがる。
大西洋連邦にはパナマ基地があり、大西洋連邦内でも唯一の大型マスドライバーの保有基地であることを含めると、その重要性は高い。要塞としての強度も鑑みれば、アラスカよりもパナマ基地を攻めると考える方が妥当なのではないか。
暗いため、エインセルの姿は見えない。しかし、その声には寸毫の焦燥も感じられない。
「根拠としまして、部隊の移動です」
すでに前哨戦とも言うべき空戦が行われたことをエインセルは示した。
ザフト軍大型輸送機が編隊を組んで飛行していることを、哨戒中の戦闘機が発見。その結果、大規模な空戦に発展した。その結果、大西洋連邦軍は27機のVTOL戦闘機を失うも、輸送機を5機、ノスフェラトゥスを13機撃墜した。
空戦の位置が地図上に示される。それは、どちらかと言えばパナマに近い。この矛盾を、エインセルは航続距離で解決しようと試みる。現在、ザフトはカーペンタリア基地を拠点に太平洋沿岸に迅速に部隊を派遣できる体制が整えられている。仮にパナマが目標であるのなら、アジア地域に展開中の部隊と足取りを合わせる意味においても輸送機は適さない。空母や潜水艦とは異なり、それ自体が橋頭堡足り得ないからである。
「ミノフスキー粒子の影響と思われる通信、電波の精度が減少している中で、敵部隊の動向を察知できたのは幸運でした」
幸運。偶然。このような言葉はこの男には、わずか10年で自社を世界有数の大企業にまで押し上げたこの男にはそぐわない。
すでに、会議場の雰囲気はアラスカが狙われているという統一意志で固まりつつあるようだ。特に急進派がそれを前提に話を始めようとしていることには、背筋に寒いものがある。
「では、防衛のために戦力を割く必要がありますな」
声から判断して、ジェレミー・マクスウェル中将であろう。まだ40にもならない若造で、事実上親からの地位を受け継いだだけの小物である。ここまでこき下ろす以上、無論急進派のメンバーである。
暗闇の中を歩いたのか、エインセルの声の位置が変わっている。
「いえ、もはや雌伏の時は終わりを告げつつあります。我々の目的は本部を守ることではありません。ザフトをこの地球から駆逐することです。現在、大西洋連邦が攻めあぐねいている理由は2つございます。戦術面、そして戦略面」
今度は何の合図もない。世界地図がモビル・スーツの映像に入れ替わる。ガンダムをより簡素にしたような装甲だが、ライフルを構え、シールドを携えるその姿は威風堂々。デュエル・ダガーが夜の砂漠にてザフト軍を圧倒する姿が映し出されている。
もはやザフトに技術的優位などない。そして、それを奪い去ったのは他ならぬラタトスク社であり、エインセル・ハンターである。
「モビル・スーツの数、質はそろいつつあります。では、戦略面において必要なものは何か?」
また、画面が入れ替わる。元の世界地図である。ただし、新たに3カ所が強調される形で示されていた。中米パナマ。地中海の玄関口ジブラルタル。そしてオーブ首長国。
「現在軍事目的に耐えうるマスドライバーは3基。我々の手にはパナマ基地が。そして、ザフトに奪われたジブラルタル基地。加えまして、オーブ首長国が所有しています」
マスドライバーが必要数揃えば、宇宙軍の拡充、及びプラント本国に攻め込むことも可能となる。コーディネーター排斥を謳うブルー・コスモスがプラントの滅亡さえ視野に入れていることに、もはや疑いの余地はない。10年前、独立機運高まるプラントのユニウス市第7コロニー、ユニウス・セブンに核攻撃が行われたのはブルー・コスモスの影響下にあった一部将校の凶行であるという見方が一般的である。
当時ユニウス・セブン近郊にブルー・コスモス所有の艦船がいたことは証明されているのだ。
もっとも、使用された核がどこの基地に保管されていたものであるのか、また、その使用許可を出したのは誰であるのか。この事件はいまだ未解決の問題を抱えたままである。
10年前、この若者はまだ17、8の子どもであったことだろう。何ができるとも思わない。だが、ラタトスク社設立、血のバレンタイン事件がともに10年前と不気味に符合する。
「ジブラルタル奪還作戦は現在進行中です。ザフトの残党を駆逐しながらの前進であるため、一見芳しくないように思われるかもしれませんが、もはや時間の問題と捉えています。地球は、すべからく我々の手に戻らなければなりません。そして我々は次の目標を見据えるべきなのです」
目的のためには手段を選ばない。それがブルー・コスモスのやり方である。このことが、ふと頭をよぎる。同じことを考えていたのはハルバートンだけではないらしい。
ウィリアム・サザーランド大将。穏健派の筆頭とも言える将軍の声を聞くことになる。
「まさかオーブを攻めるおつもりか!?」
サザーランド大将は良識派としても知られている。戦争に関与していない国を攻めるということに、反発を覚えないはずがない。
「そんなことをすれば国際世論が黙っていない。この戦いは我々が勝手に引き起こしたものであるとする意見は根強い!」
しかし、すでに壮年を迎え、その声には以前のような覇気が見えないでいる。エインセル・ハンターの若さに満ちあふれた声とはまるで正反対である。これは、各派の勢いをそのまま体現しているようでもある。
「人を説得する上手な方法をご存じですか?」
部屋に明かりが灯された。エインセルが再びその姿を衆目にさらす。揺るがず、怯まず、動じることはない。
「誠心誠意、真心をもって語りかけることに他なりません」
自信と狂気に満ちたその声がこの場を支配していた。
アラスカの地下深く。広大なドッグ内には並べられた何隻もの潜水艦に積み込み作業が進行していた。コンテナに箱詰めされた様々な物品が大型潜水艦に運び込まれている。
その中にはモビル・スーツがそのまま納められてしまえるほどの大きさを持つ長方形のコンテナがある。コンテナは白く塗られ、大きさばかりではなく異彩を放つ。
数は3。それぞれが別々の潜水艦へと積み込み作業が行われている。作業員の顔の真剣さから、それが如何に重要なものであるかはうかがいしれる。何が封印されているかは明らかでない。それを示す文言は見あたらず、誰もがそのことを話題にしようとしない。
ただ1つの手がかりがあった。
それぞれのコンテナに刻まれた文字と数字の羅列である。
ZZ-X300AA。
ZZ-X200DA。
ZZ-X100GA。
人には告げられない秘密の場所で、悪意を共有する者どもに守られ、崇められながら、それらは静かに眠っていた。
ドッグを見眺めることのできる一面ガラス張りの壁をもつ部屋。ここに、3人の男女が、コンテナを眺めていた。2人は男性である。胸に青い薔薇の紋章を飾り、着ている軍服には大佐の階級章。
1人は椅子に足を組んで座っている。その着こなしはどこかしらだらしなさを覚える。ZZ-X100GAと刻印されたコンテナを眺めながら、男は、ムウ・ラ・フラガは感慨深げに言った。
「いよいよ、俺たちの戦いが始まるな」
ところが、向かい側に座っている男は素っ気ない。同じ大佐の階級と青い薔薇。仮面を直す仕草だけ見せて、すぐさま話題を切り替えてしまう。
「ところで、マリュー・ラミアス艦長だったか、彼女をアーク・エンジェルから降ろした理由は何故だ?」
ラウ・ル・クルーゼである。
答えたのはムウではない。椅子には座らず、2人から離れた位置に立つ女性である。丸い眼鏡こそ残されているが、普段着ている黒いスーツは白い軍服に成り代わっている。その左腕には、腕章のように青い布が巻かれている。
メリオル・ピスティスは普段通りの事務的な口調で答える。ここにはいない夫に代わって。
「ラミアス少佐は階級にそぐわず穏健派一派の中でも上層部の信頼が篤いお方です。残しておいては禍根となりかねません」
聞いてはおきながら、ラウは大きな反応を見せない。代わりに手を叩いたのはムウである。
「そう言えば、お前は艦長に会ったことがあったな」
舞台はユニウス・セブン。ゼフィランサスをアーク・エンジェルから連れ出す際、顔を合わせた。敬礼さえ交わした仲である。
「ああ。確かに、判断力や決断力に関しては、まあ及第点ならくれてやれる」
反応が大きいのは、いつもムウの役回りである。ムウは笑いながら友を茶化す。
「お前が及第点以上の点数つけてるところを見てみたいな」
ラウが視線を向けたのは友ではなく、今積み込まれようとしているコンテナである。ガラス越しに、コンテナが積み込まれている光景が見えていた。
刻印は、ZZ-X200DA。
「それは、ゼフィランサスのためにとっておくことにしよう」
そして、メリオルはZZ-X100AAと描かれたコンテナへと眼鏡を透かしている。
まずはムウがささやく。普段のようなお調子者ではなく、1人の戦士として。
「俺はジブラルタルを焼き払う」
繋ぐのはラウ。普段と変わらず、その眼差しを隠したままで。
「では私は退路を塞ぐとしよう」
最後に、メリオルは信頼を見せた。それは、自分に対するものではなく、愛しい夫への信仰にも近い思い。
「オーブは、エインセル様が攻め滅ぼすことでしょう」
キラ・ヤマトは歩いていた。新しい曹長の階級章がつけられた軍服を身につけ、基地の通路を歩く。これまでにも色々なところに行ったが、大西洋連邦の本拠地に足を踏み入れることは初めてになる。もっとも、軍用施設は対して変わった印象を受けない。飾り気のないプレートがはめ込まれた廊下が延々と続いている。こんなところはアーク・エンジェル艦内と異なっているようには思われない。
後ろをディアッカ・エルスマンとアイリス・インディアが歩いている。アイリスは軍曹の階級章を、ディアッカもまた大西洋連邦の軍服を身につけていた。階級は軍曹のものをつけている。
ディアッカは釈然としない様子でキラに話しかけた。
「これで何度目かわからないが、地球軍はどうなってる?」
「わからない。ただ、今の大西洋連邦軍に軍隊式の常識なんて通じないと思った方がいい」
こう告げると、ディアッカは心なしか神妙な面持ちになる。
キラは基地からの出頭命令を受けた。それには何故かアイリス、さらにはディアッカを伴って連れてくるよう指示があり、それはディアッカが指摘したような捕虜の移送では決してない。何故なら、面倒が起こらないよう、軍服を着せるよう加えて指示されたからだ。
指定された場所は51番ドッグ。アーク・エンジェルの置かれた場所から遠い場所ではなかったが、それでも2ヶ所の兵士に守られた扉を開けてもらう必要があった。話は通っているらしく、あっさりと通してもらったとは言え、それだけ厳重な場所であることに変わりはない。
51番ドッグに通じる扉の左右にも、ライフルを首から提げた兵士が立っている。
「キラ・ヤマト曹長であります」
敬礼し、階級を名乗る。アイリスとディアッカには敬礼だけしてもらうことにしていた。ディアッカの説明が面倒だし、アイリスまで名乗ってもらえばディアッカが名乗らないことが不自然になってしまうからだ。キラが代表する形をとった。
兵士たちは特に訝しがる様子はない。扉のロックを解除し、両脇で敬礼した。開いた扉。扉の先には、まだ通路が伸びていた。それでも、ここが目的地に間違いないことはわかる。3人で扉をくぐった途端、桃色の髪を波立たせた白いドレスを着た少女が立っていた。
艶やかな服装であるというのに、微笑みもなく、愛らしい仕草もない。ゼフィランサスと同じデザインの服を着て、髪型まで同じく整えた少女の名前をキラは知っている。ヒメノカリス・ホテル。Hのヴァーリにしてアイリスの姉にあたる第3研の出身者。ただそれは髪の色から導き出された認識であって、記憶と目の前の少女は必ずしも一致していない。ヒメノカリスはかわいそうな子だっったから。
ヒメノカリスは片手を短く振る。
「お久しぶり、アイリス。私のこと思い出した?」
「大体なら……。それに、カルミアさんからいただいたお手紙に書かれてました。お姉ちゃんがエインセルさんのところにいるらしいって」
「10年前、あの場所で、私はお父様に救われた。だから私はお父様に無限の愛を捧げるの」
「あ~、まったく話が見えねえ」
大げさに髪をかきあげたのはディアッカ。ヒメノカリスのことも知らない。ヴァーリのことも聞きかじった程度では無理もないことだ。
「ヴァーリは、幼少の頃にお父様であるシーゲル・クラインに都合のいい記憶を刷り込まれるんだ。発現する忠誠の程度は様々。アイリスみたいにほとんど出てこないこともあれば、ヒメノカリスみたいにそうでないこともある」
「そうでないこと?」
キラは一度、ヒメノカリスの様子をうかがう。ヒメノカリスは表情のない顔をしていた。ゼフィランサスのように表情を作ることに疲れてしまった顔ではなくて、表情を見せるつもりのない顔だ。
「忠誠が強すぎて心のバランスを崩してしまうこと。実際、僕の記憶にあるヒメノカリスはいつも錯乱していた」
「要するに、愛するお父様がいつの間にかシーゲル・クラインからエインセル・ハンターに変わったってことか」
ことはディアッカの言うほど簡単なことではないだろう。ただ、エインセル・ハンターがヒメノカリスの心のより所になっていることに関しては間違いないらしい。
「ヒメノカリス。君が僕たちを呼んだ理由は?」
「あなたたちのことを助けてあげる」
そう、ヒメノカリスは身を翻し歩き始めた。狭い一本道の中、波立つ髪の幅だけ体よりも大きな幅をとりながら。鳴らす靴音は固い。ゼフィランサスと同じくブーツをはいているらしい。長いスカートでなかなか足下は見えないのだが。
ついていく他ない。まずキラが歩き出すと、アイリス、ディアッカの2人の足音が追ってくる。ほんの少し進むと、通路は開けた場所にでるらしい。通路の照明とは違う明かりが差し込んでいた。開けた場所に差し掛かると、通路の壁がガラスに変わる。格納庫と思われる空間へと繋がっていた。
半没式の格納庫で、床一面に張られた水に腰の位置までを浸したモビル・スーツが3機並んでいる。ちょうど、通路に沿って並べられていた。
ヒメノカリスは歩きながら、それぞれの機体を通り過ぎる度に指し示していく。
「GAT-X207SRネロブリッツガンダム」
GAT-X207ブリッツガンダム--アフリカでの戦闘で撃墜されたと聞いている--とよく似た機体だ。機体本体に大きな違いはないようだが、かつては右腕にだけ装備されていた複合兵装を両腕に装備している。加えて、バック・パックの形状が以前に比べて複雑になっているように思える。
ヒメノカリスは次の機体を指さす。
「GAT-X303AAロッソイージスガンダム」
今度はGAT-X303イージスガンダムと同型機だ。最近知った話だが、カガリ・ユラ・アスハがヘリオポリスで勝手に持ち出して以来好きに乗り回していたらしい。ただ、これは違う機体だろう。こちらも本体には大きな違いは見られない。やはりバック・パックに手が加わっているようだ。
最後、そのフリルで包まれた手で最後の機体を指し示した時、ヒメノカリスは突然に立ち止まる。
「ZZ-X000Aガンダムオーベルテューレ」
これは見たこともない機体だ。額に生えた一本の角。装甲は継ぎ接ぎのようにところどころに切れ目が入っていた。何より、全体に箱をかぶせたように意匠が単純で、ガンダムの顔もない。そんな機体を、それでもヒメノカリスはこの機体をガンダムと呼んだ。
「ブリッツはディアッカ、あなたが乗りなさい。使い慣れた機体の方がいいでしょ。オーベルテューレはゼフィランサスがキラ、あなたにって。余ったイージスはアイリスにあげる。慣れないうちは無理に可変機構使わなくていいから」
「やっぱり話が見えねえ……」
今回ばかりはディアッカに代弁してもらった思いだ。ガンダムを渡すと言われてもその理由も意味もまるで見えてこない。大西洋連邦軍として正式に機体を受領するならまだわかるが、ヒメノカリスがまるで玩具でも手渡すようにキラたちに機体--それもガンダムを--託そうとする。
ヒメノカリスはあくまでも冷たい顔をする。ゼフィランサスの冷たさが拒絶したものなら、ヒメノカリスはまだ足りなくて突き放してくる。
「今からここでたくさんの人が死ぬ」
これが、この言葉が何かの合図出会ったわけではないのだろう。しかし厳然たる事実として、突如サイレンが鳴り響いた。そして警報音に混ざる基地を揺るがす衝撃と遠くに響く爆発音。その場の全員が思わず上を見た。
「敵襲! ……ですよね?」
不安げなアイリス。ただ、それは恐怖を感じているとするより、自分の予想の確かさに自信がもてないだけのようにも見える。だが、何もわかっていないという点ではキラも何も変わらない。
ヒメノカリスは平然としている。
「ザフト軍の主力部隊が侵攻してる。パトリック・ザラ新議長は大きな賭けに出た。地上ではカーペンタリアを中心とする基地から多数の輸送機、潜水艦、空母がアラスカを目指してる。宇宙では賢いザフトは艦隊の網を見つけた」
地球軍が艦隊を配備してまで堅守しようとしていた軌道を、ザフトはたやすく確保したということだ。ヒメノカリスの言葉に焦りはない。
ここで友軍の活躍を喜ぶほど単純なザフト兵では、少なくともディアッカは違った。
「罠だってことか? 一体何を企んでる!」
ヒメノカリスの胸ぐらにつかみかからんばかりの剣幕であったが、しかしディアッカは女性のドレスにしわをよせることをよしとしなかったのか、途中で手を止める。
まだ爆発は続いている。宇宙高度からの爆撃か、それとも爆撃機でも出張っているのか、攻撃はかえって激しさを増していく気配さえあった。ザフトの本気がうかがいしれる。
ヒメノカリスは手のひらを下へと向ける。
「ここの地下には大型のマイクロ波照射装置が埋設されてる。わかる? 範囲内の金属は発火して、電子機器は狂う。水分という水分は瞬く間に気化して膨張した蒸気は器を突き破ってしまう。たとえば、人体とか」
電子レンジに卵を入れる。現在は安全装置が働くためそんな危険はないようだが、電子レンジが登場した当初は卵を入れて破裂させるのが定番の失敗であったそうだ。水は気化すると体積が1700倍に膨れ上がる。その分の圧力が逃げ場を探して暴れ回ることになる。人体の9割が水でできている人間ならひとたまりもない。
敵をおびき寄せて一網打尽にするつもりだ。
「お父様は賢いの。すでにここは軍の中枢としては機能してない。お父様は邪魔者も一緒に葬り去るおつもり」
「穏健派とザフト。両方の勢力を削ぐつもりだね」
キラ--これでも所属としては大西洋連邦軍穏健派に入る--が現在までここに残されている。アーク・エンジェルが防衛に回されていることを考えれば妥当な結論だろう。
そして、地球からはザフト軍の主力と反対勢力が一掃されることになる。急進派の完璧な一人勝ちの状況だ。
「こんなことって……」
「寒気がするくらいご立派な作戦だな」
「お父様は賢いの。誰よりも、何よりも。この戦争はすべてがお父様の手の上で動いてる」
「おかしいだろ、お前も、お前のお父様もな!」
「あなたごときが計れる程度の人じゃないもの。お父様は尊いの。お父様は誓った。ヴァーリ、そしてダムゼルは殺さないと。だから差し上げる。このガンダムたちを。お父様を失望させないで」
わざわざ助けることはない。力は与えよう。逃げ出してみろ。エインセル・ハンターの顔が浮かんでは、キラはあの夜に感じた恐怖が再び体を通り抜けた。
ヒメノカリスはまるで詩吟にでも興じているかのように、自分の言葉に酔い続けている。正確には、お父様の命じた通りのことができる喜びに酔いしれているのだろう。
「この戦争は、すべてお父様の意のままに、青き清浄なる世界のために動いてる。ブルー・コスモスは3輪の青薔薇を象徴に掲げる。ようやく、花が咲く時が来た」
青い薔薇。薔薇は青い色素を持たなかった。人が手を加えなければ決して咲くことのない薔薇を、遺伝子操作を糾弾する組織が掲げていることはドミナントが代表にあることに対する皮肉であろうか。
しかしキラは、何故3輪の薔薇が咲いているのか、そのことの意味を、恐ろしさに気づくことはできなかった。
凍りついた大地を震わせて、しかし戦火はまだ燃え上がってさえいなかった。