簪の目に映るのは大気の流れである。その大気は川を流れる清水のように、風に舞う蜘蛛の糸のように、ほつれる事無く流れていった。 彼方には空と海を隔てる線があった。浮かぶ雲は夕に染まりつつあった。紅、黄、紫に染まる雲と雲。彼女はこの光景が好きだった。まるで鳥にでもなったかのような、雄大な光景。空を舞う一瞬一瞬が心と体を清め、洗い流し、天の御使いになる、そんな幻想的な息吹に浸っていた。『簪、異常は無いか?』 一夏の声が簪の魂を、現実に引き戻す。見上げれば翼(ウィング・スラスター)を羽ばたかせる一夏の姿があった。彼女はその光景に一瞬心を奪われた。 弐式は鎧ではなく戦車をイメージさせる機体だ。機体を表わす面はフラット、面と面を繋ぐ直線は機械的、敢えて言えば膝下を形作る脚部がロング・ブーツに見えなくも無い、と言った程度で全体的に無骨。天を舞うにはほど遠い。エネルギーで空を強引に切り刻むが精々だ。 僅かな苛立ちを含ませて、彼女は問題ないと言葉を返す。だがその視線は白式を捕えて離さなかった。 彼女は思う。私が白式のパイロットだったらどうなっていただろうか。力強く羽ばたけただろうか。大空を何処までも飛べただろうか。……その想像に意味は無い。白式を扱える人間はいない筈だったのだから。だから誰にも使われることなく倉庫の片隅で埃をかぶっていた。 簪は考える。白式と言いみやと言い、なぜこうも、どこかが違うのだろう。虚もそう言っていたとき、そんな馬鹿なと考えた。本音も何かが違うと言ったとき、或いはと考えた。目の当たりにして思う、何かが違う。 古来。優れた騎馬は雌だという。槍を持つ騎士は男、その方が相性が良いらしい。雌には雄だ。ならばISも女なのだろうか。馬鹿げている。荒唐無稽だ。だがそうとでも考えなければ突き付けられている現実に心の折り合いが付けられない。“2人”は私たちとは違うなどと。(弐式……お前は私のなに?) 簪がそう思った瞬間だった。彼女の意識内に、弐式が返事をした。動作異常という内容で。-注意:ハイパーセンサー処理系統にノイズを検出。警告強度、イエロー- 最初は注意を促す小さなメッセージだった。頭の片隅にアラームがちかちか鳴っている。センサーの検出利得(ゲイン)が強すぎたのだろうか。彼女は手動でしきい値を小さくした。静かになった。-注意:4番推進器に異常有り- スラスターを管理するシステムは複数ある。一つはスラスター自体が持つ自立型管理システム。もう一つは相方のスラスターが持つ相互管理システム。もう一つは飛行総括管理システム。最後はISコアだ。空を舞うISにとって飛行システムは重要極まりない。そしてその、相互管理システム、つまり脚部に納められた2機あるエンジン内の1機が“相方がおかしい”と言っているのである。-報告:自己診断開始……異常なし。エラー修正- 飛行統括管理システムからの報告を受け取ると、簪は一つの選択を迫られた。 一旦テストを止め機体チェックを行うか、機動テストを継続するか。弐式は今日が初飛行だ、慎重になるべきだ。だがまだ5分と飛んでいない、まだ飛びたい。時刻を確認すれば午後の6時、陽も沈み掛っている。戻れば今日の試験はお仕舞いだ。だが物足りない。 彼女の深層が燻っている、不完全燃焼……またアラームが鳴った、彼女はそれを見る。さらにアラーム発生、システム修正。彼女の意識に連なるエラーの数々。だめだ、戻ろう。そう思った瞬間だった。“簪お嬢様は楯無様ほどでは無いわよね” それはかって家の使用人たち漏らしたささやき。彼女の奥底に仕舞い込んでいた棘が疼いた。だがしかし……彼女の眼前には、美しい白の機体。広げる翼は全てを覆わんばかりだ。翼音が彼女の芯を打ち鳴らす。『簪、本当に大丈夫か? 戻った方が良くないか?』『平気、続ける』 彼女はその羽ばたきに煽られた。 エネルギー管理システムにアクセス。管理システムの階層を降りる。飛行システムにアクセス、異常なし。P.I.C(慣性制御)に異常なし。シールド・ジェネレータに異常なし。F.C.S(火器管制)に異常なし。 両脚と背中にある計3機のスラスターが火を噴いた。加速。高度と速度が上がる。時速200,250,300……450キロ。機体に異常なし。スラスターの、弐式の鼓動が彼女を包む。 ほら大丈夫、考えすぎだ。そういえばクラス・メイトにも慎重すぎだって言われたっけ。ミリタリー・パワー(最大速度)に到達。白式を追い越し彼女の心を優越感が支配する。 1つ目の動作異常が報告された。-警告:各デバイスへのエネルギー供給に脈動発生- 彼女は慌てて空中投影コンソールを開いた、焦燥感にかられる。脈動とはエネルギー波の共鳴だ。つまり機内のエネルギー伝達経路に強いところと弱いところが発生するという意味である。その強い箇所が設計限界値を超えるとエネルギーが漏れ、最悪爆発を起こす。 彼女は急ぎ、スラスター出力をミニマムに。脈度を押さえる。-警告:エネルギー伝達率低下。管理温度が警戒域に突入- 脈動が収まらない。メンテナンス・コンソールを展開。エネルギー管理画面を開く。彼女は息を呑んだ。弐式が報告する、エネルギー伝達経路を表わすグラフは、振り切れ乱れ、暴走していた。何故発覚が遅れた。何故悪化した。“かんちゃん、変動式は仕様外だよ? 基幹システムへのバックファイアの可能性もあがるから個人的にも非推奨……” 本音の声が頭蓋に響いた。その声は収まることなく彼女の中を反響していった。お前には何も出来ない、そう吐き捨てられたようだった。-警告:航空システム制御不可。コントロール不能- 全身のスラスターがあらぬ方向に吹き始める。「きゃあああああああ!!!!」 制御を失った弐式はきりもみしながら、弧を描きながら、最期は地に向かう。 まずい。システムを切断するしか無い。だがそんな事をすれば、墜落だ。落下までに再起動、彼女の賭は敗北だった。-警告:防性力場喪失、接触警報- あらゆる防御力場が消失した。つまり身を守る物が何も無いと言うことだ。この状態で激突すれば肉塊と化す。彼女はどうにか立て直そうとするが身体が動かなかった。風圧に身体がねじ切らんばかりに翻弄された。身体が動かない、息が出来ない、意識が遠くなる。霞む視界目の前に第6アリーナの外壁があった。(あ……) それは長くもあったが短くもあった。世界が永遠に止まったかと思われた。ただの灰色。音もなく、無機質な世界の中、聞こえてきたのは少年の声。「簪!」「……一夏?」 生と死の狭間から助け出された彼女が見た物は、美しい白の機体だった。外壁まであと僅かのところで受け止められていた。白く靄の掛る世界、一夏の姿だけが見えた。「一夏……じゃねえ! 怪我ないか!?」 気がつけば四肢の至る所が悲鳴を上げていた。息も絶え絶えに言葉を絞り出す。「少し身体が痛い……」 簪が少しというならば大分痛いと言うことだろう。一夏は慌ててピットに向かって飛んだ。「真! みてるな!?」『直ぐ向かう。一夏、白式の生体維持システムを彼女に回せ』「わかった! ……簪、弐式を解除出来るか?」 彼女は静かに頷いた。システム再起動。弐式が粒子となって消える。重く冷たい鎖のような枷がとれた。身体が軽くなった。翼に守られているかのような感覚。不謹慎と思いつつも、その温もりに安らぎを感じていた。 ◆◆◆ ラウラと真が駆けつけたとき、簪はベスト状の医療機器を身につけ、ピット内のベンチに腰掛けていた。ぐったりと背を壁にもたれ掛かっていた。側に居る本音も不安を隠さない。「無事か」 かけより真が言う。「少し関節を痛めたようですが、怪我は大した事はありません、痛みも2,3日で引くでしょう」 医師の診察に、安堵を交えて一夏は息を吐きだした。医師が立ち去った後ラウラはこう言った。「更識簪、何故こうなったと思うのか、それを答えろ」 ラウラの問い掛けに簪はただ項垂れた。「ボーデヴィッヒ先生、それは後でも良いでしょう。本人が一番よく分かっている。」 人間は死ぬと最後の状態が永遠に続くと言われる。痛みが、苦しみがあれば永遠に続く。とある宗教で苦痛から逃れる為の自殺が禁忌とされるのはその為だ。人が安らかな死を願うのもその為だ。だから。(だから死にたくない。あんな苦しいのはイヤ) 何より彼に、この様な心配を掛けること、何より辛かった。仕方がないなとラウラは溜息一つ。「なあ簪。やっぱり虚さんに見て貰おうぜ」「わかった……」 一夏が手を差し出した、その時である。「簪ちゃん! よかった!」 ひらり。「へぶらっ!」 おお何と言うことだろうか。つもりに積もった積年のわだかまり。簪を条件反射させるに十分だった。身体を痛めていることお構いなしである。抱きつこうと両手を広げた楯無の腕は、柱に向かっていた。ずるずると鼻先は柱と地面の間に向かう。「あっ……あ……」 とっさとは言え、思わず至ってしまった心ない行為に、簪は後悔の念に駆られた。だが何もしなかったできなかった。ぴくりとも動かない楯無を見て、急ぐようにラウラが言う。「織斑一夏、事情聴取だ。更識簪を医務室に連れて行ったあと職員室まで出頭しろ」「わかりました」 一夏は簪をおんぶする。真は慌ててラウラを止めた。 ボーデヴィッヒ先生、俺が2人を連れて行きます。 楯無担当はお前だろう? ……何時決まった。 何時も何も初めからだろう 兵に死ねというのか。 安心しろ、そう簡単には殺されはしまい。たぶん。 たぶん!? 目配せで複雑な意思疎通。誰もが立ち去ったその後で、真はおずおずと歩み寄る。「簪ちゃんが避けた簪ちゃんが避けた簪ちゃんが避け」 聞こえるのは怨嗟のごとき悪魔の呟き。真は立ち去った、否。立ち去ろうとした。「お待ち。可哀想なたっちゃんを残して何処に行くのよ」 真は足首を掴まれた。逃げようとして回り込まれたようなイメージに襲われる。鞭のような2本の触覚、コウモリのはね、牙は長く長く伸び、しっぽの先はスペードで、なにより様々な食材の匂いが混ざった、ゴミ溜のような匂いが鼻につく。彼は渋々こう言った。「巻き込まれる前に逃げようと」「そう。真は私のこと嫌いなのね、こんなにか弱いのに、こんなに儚げなのに」「むしろ好かれるイベントなんてなかった筈だけど」 楯無はがばっと立ち上がる。「良いわよ良いわよみんなして!」「じゃ、そう言う訳で」「だからおまち」「……なんだよ」「おっぱい触らして上げるから、耳貸しなさい」「そんな恐ろしい事言わずに、普通に話してくれ」 楯無は真の耳をむんずと掴むと引っ張った。「いててて」「ごにょごにょごにょの、ごにょにょにょにょ……いい? 分かったわね?」「あのな。そんな滅茶苦茶、良い訳ないだろ。そもそも教師が一階の生徒に―」「なによ、せっしーとデートしたくせにっ」「……何時でも何でも言ってくれー」 満足そうに頷くと彼女は腕を組んで背を逸らした。胸を張った。「ふっふっふ。覚えていなさい簪ちゃん。おねーちゃんはもう怒ったわよっ! 深く傷付いたわよっ!」 真はあははと空を仰ぎ、楯無は彼を背に高笑う。(これも定めか……) 真の諦めの如く呟きは誰にも聞かれず高笑いに掻き消されていった。 ◆◆◆ トーナメントを三日後に控えた秋晴れの日。各アリーナは多くのギャラリーで満たされていた。多くの少女たちにとって、専用機を持つ者の高い技量は今なお、逆に時が過ぎるほど参考になるのである。多くの視線を浴びて、空を駆ける少女たちの訓練にも熱が籠もる。 箒、セシリアペアの場合。第3アリーナの空を紅と蒼が渦巻きのように空を駆ける。箒は、紅椿の高い機動力を駆使し、距離を稼ごうとするセシリアを追い詰める。右へ左へ、また右へ、弧を描き回り込んだその瞬間。 気合いと共に振り下ろした箒の一刀は、ブルー・ティアーズ子機の狙撃によって弾かれた。セシリアはスターライトmk3を彼女に向けた。「……参った」「箒さん、まだ近接戦闘を“したがっている”ですわね」「済まない。間合い、呼吸、気合い、拍が身体に染みついていてな、どうにもそうなってしまう」「泣き言は聞きたくありませんわ、期日までに何とかして下さいな」 有無を言わさないセシリアの気迫。箒は手に握る姉妹刀をじっと見つめた後、思い切ったようにこう言った。「私で良かったのか? 足手まといなだけではないのか?」「愚問ですわよ。今更ですわ」 セシリアは“互いに”よく知っている箒以外組むつもりは無いと言っていた。箒も笑って応えた。ただ瞳に決意をやどして。「そうか、済まないな。ではもう一本受けてくれ」「せめて一太刀浴びせて見せなさいな」「では……破っ!」 ◆◆◆ 第2アリーナ。ダリル・ケイシー、フォルテ・サファイアペア。宙にふよふよと浮きながらダリルはぼやいた。器用にも空中で肘を突いている。「かったりーな」「そうっスね」 そういうフォルテは頭を大地に、足を天に、逆さまだった。同じく器用にも腕を組みしかめっ面。「何考えてんだーよ」「いえ、かったりーっスねえ、と」「フォルテ、俺の代わりに出てくれや」「ンナ面倒くさいこと、御免被り頬被りってな感じっス」「なんだとー、先輩の言うこと聞けないってのか」「先輩はそんな不謹慎なこと言わないもんっス」「「……」」 遠くから激しい機動音が聞こえる。誰かが模擬戦をしているのだろう。ダリルは耳をほじる。「みんな、気合い入ってるなあー」「1年どもはみながみんな目をギラギラさせてるッスねえ」「優子も楯無もギラギラだ」「たっちゃんは確かにオカシかったっス。でもゆうこりんは普通に見えますっス。今日の昼もカロリーを気にしていたっスから」「優子は何時もああなんだ。ああやって何時も俺の気迫を削る。が、だ。いざ試合に及ぶと……」「万年2位は辛いっスね」「うるせえ、このばか女が」「痛いところ突かれましたな、ワハハハ」 激しい打撃音。墜落音に激突音。「……ちったあ気合い入れるか」「……そうっスね」 2人は渾身の一撃を互いに向けた。 ◆◆◆ 第3アリーナ。ディアナとシャルロット。リヴァイヴを纏い、空を駆るのはシャルロット。AIM-9X(短距離 空対空ミサイル)を量子展開、発射。空に向けて放たれたミサイルが弧を描き彼女に向かう。彼女もまたスラスターを吹かし駆けだした。 ミサイルとの相対速度は音速の3倍。彼女は左腕から耐極高荷重ワイヤーを撃ちだした。先端に分銅が付くそれは蛇のような波を打つ。彼女は両手でそれを繰りだした。あやとりのような複雑な指の動き。単純とは言え文様を描く、彼女の糸。ミサイルは糸に絡まれ、動きを括られ、遊園地の巨大遊具のようにフィールドに激突。爆発炎上した。 汗を滲ませるシャルロット。フィールドに立つディアナは満足してこう言った。「まずは見事と言っておきましょう。一本とはいえ臨海学校から4ヶ月この短期間でよくぞここまで仕上げました」「身に余る光栄です」「良く聞きなさい。男は直ぐ調子に乗ります。放っておいたくせに、そのくせ困ると何食わぬ顔で甘えてくる。シャル、貴方はこの様な愚を犯さないよう、思い人をしっかりと絡め取ってらっしゃい」「はい、ディアナ様」「……」「……」 爆発で舞い上げられたミサイルの残骸、ぼすぼすと音を立てて地面に落ちる。「「ふふふふ」」 端で見る優子は、楽しそうだと羨んだ。 ◆◆◆ 同じく、第3アリーナ。楯無、鈴ペア。高速で動く光子で創られた仮想ターゲット。最大速度で追従する甲龍は、両肩の浮遊ユニットから拡散龍砲を放つ。これは超特急で拵えたものだ。噴水のように広がり進む空間の波。その一端とターゲットが接触、姿勢が乱れ動きが鈍る。その隙を突いて鈴は双天牙月を打ち込んだ。 重苦しい一刀の音と砕け散る光子の的。鈴は怒りを滾らせた。「覚えてなさいよ一夏! ぜえーーーーーったい許さないんだから! アタシを選ばなかったこと死ぬほど後悔させてやるかんね!」「鈴ちゃん♪」 楯無だった。ぎくり。鈴は目をぎょろつかせ、ぎこちなく振り返った。「さ、更識先輩、おはようございマス」 鈴はゆっくりと後ずさった。「いやねえ、たっちゃんでいいって言ってるのにいー♪」「いえ、先輩ですから、から」「から?」「失礼しますー」 鈴は逃げ出した。だが楯無に回り込まれた。逃げられない。鈴に抱きつき頬ずるのは楯無である。「健康的な肌の色! 躍動的な黒い髪! 玉露の様な純真無垢なはあとと、桜舞い散る可憐なぼでいっ! 覗く八重歯がとってもキュート! たまらないわっ! ねえ鈴ちゃん眼鏡ツインテっていいと思わない?! 可愛さと可憐さ、知的さと凜々しさが絶妙なハーモニーでもうたまんない! おねーさん、我慢出来なくって眼鏡用意しちゃった!」 楯無は、あの一件以来こうなった。IS“ミステリアス・レイディ”を纏う彼女の姿は、流れる水のような美しい、幾何学紋様を描くドレスを着こなす貴婦人。だがいまや台無しだ。「りいいいいんちゅわああああんんっ♪」「レズはいやあああ!!」 そして、トーナメント開催日。 ◆◆◆楯無ファンの方ごめんなさい。さて。簪編ももうそろそろ終局です。どうやってオチを付けるか想像出来る方もおられるのでは無いでしょうか。この簪編とくにひねってません。分かった方おそらく正解です。分からない方、まだ内緒です。