一夏の誕生日会が、多少の騒ぎはあったものの滞りなく終わり、消灯も近づき始めた午後の9時。灰色のスウェット姿の真は自室のソファーに腰掛けうんうん唸っていた。言うまでもなく簪の件である。彼の目の前には透明でシンプルな、円筒形状のグラスがあった。中に収まっているのは麦茶色のスコッチ・ウィスキーである。彼はじっとそのグラスを見つめる、カランと氷が鳴った。 「むう」 自然と声が出た。 簪は自分の価値を欲している。自身の力でISを完成させ、楯無を超える。だが、完成させたところで彼女の内向性は、状況は変わるまい。それはその程度のことだ。楯無は楯無であり続け、簪は簪のまま。楯無は生徒会長として更識の長として君臨しつづけ、彼女は一人キーボードをたたく。何も変わらない。 仮に完成しても、執着したものはこんな物だったのかと途方に暮れ、もっと質の悪い物に縋るか、最悪自己否定に走るだろう。 問題は彼女が、ISの自力完成だけが絶対だと思い込んでいることだ。自分の価値をそれだけだと縋っている。自分の価値は自分は自分自身が決めるものだ。他人の価値は百人十色。基準を他所に置けば不安定になる。人の目だけを気にすればするだけ立ち位置が多くなり、自分がどこに立っているか分からなくなる。彼女に必要なのは気付くこと。 とはいえ、それを見つけるのは簡単ではない。今の彼女に必要なのは、がちがちに固まった考えを解すことだろう、立ち止まって己を見つめ直す。つまりはガス抜きである。(問題はどうやってガス抜きをするかなんだが……) 真はソファーの上であぐらを掻いた。腕を組み、口をへの字。(スポーツ? ……違うな。その程度で解消できるならば体育の時間で十分だろう。ならカラオケとかどうだ……だめだな。あの声量じゃ効果が無い。なにより誘っても“イヤ”でガン拒否されそうだ。問題の根源である楯無へのわだかまり。やっぱり楯無を関わらせるべきだな。けれど一体どうやって……) そう真がふけっているとき、カチャと扉の開く音がした。もわっとした空気が室内に広がった。湯気である。その湯気には甘い香りが混じる。痛みを感じない程度に鼻に突き、不快さを感じない程度に喉に纏わり付き、夢を見ない程度に意識が鈍くなった。とたとたと軽い足音の鳴ったあと、その香りの主が現れる。ぎこちない笑みの真はゆっくりと首を回して、あのさと言葉を絞り出した。 真の視線の先、木目調子のフローリング上、銀色の花が咲いていた。ラウラである。彼女はバスタオル一枚で立っていた。石灰石の様に無機質な肌はほんのり赤く、銀糸の髪は星々の様に瞬いていた。彼女は髪が吸った湯気を振り払うかの様に、背へふさあと流すとこう言った。「ん? 先に頂いたぞ」「脱衣所でパジャマ着ろって、何回目だよ……」「14回目だな。そんなことより真も早く入れ、湯が冷める」「そんな事って大事なことだと思うぞ、俺は」「私で3人目だろう? いや、見ただけなら凰を入れて4人目か」「そういう問題じゃ無い」「おかしな奴だな。そろそろ私に慣れても良い頃合いだろうに」 これ以上何も言うまいと真は立ち上がる。ラウラはしゃがんで洋服ダンスに手を伸ばす。つかつかとバスルームへ向かう真を背に、ラウラはタンスを引き出しこう言った。「真、私の下着を持っていったか?」「いってない!」「ではなぜ無い?」「知らない!」「お気に入りの一品だ。怒りはしないから正直に、」「ベランダの角ハンガーを探せ!」「ふむ」「その格好でベランダに出るなー!」 誰も見ない、そういう問題じゃ無い。服を着ろ、下着が先だ変態め。他ので良いだろ、今日はあれが良い。と押し問答のあげく、結局真が取り込み手渡した。逃げる様に湯船に入れば、(こういうのは一夏の役割だろ……) 黒く薄い布きれが脳裏を掠める。火照った顔を冷ますため、真はぶくぶくと湯船にゆっくり沈み行く。磨りガラス越しにラウラはこう言った。「……飲むのか?」「するか!」 浴槽で滑り、溺れかけたのは2人だけの秘密である。 ◆◆◆ 全くラウラにも困ったものだ。俺の記憶を持っているならもう少しお淑やかになっても良さそうなものだ、そんな事を考えながら真は鈴虫が鳴る夜の道をとぼとぼと歩く。 結局彼は一夏に頼む事にした。簪に足りないのは自信に結びつく切っ掛け。大らかで、根明な一夏ならばうってつけと考えたのである。なにより小さい一夏への確執が解消出来ればその勢いで大きい楯無への確執まで解消出来るかもしれない。 真が柊のロビーに至った時だった。仕切り代わりの観葉植物、その隙間から見える食堂の一角に見慣れた姿があった。シャルロットである。ぽつんと一人座っていた。 何時もの白と紺のジャージを纏ったその後ろ姿は憐憫を誘う、ではなくどこかしら憤怒と怒憤りを湛えているように見えた。一抹の不安を感じた彼は歩み寄った。声を掛ける。彼女はちらと見た。「シャルこんばんわ、一人でどうした?」 4人掛けのテーブル。真は彼女の目の前に座った。白いカップのホット・ココアを手元に頬杖をつく、シャルロットは見るからに不機嫌だった。「別に何でもないよ。ちょっと追い出されただけ」「追い出された? 一夏に?」「静寐たちに」「なんで?」「女の子たちの複雑な事情」「納得済みなら良いけれど」「納得してない……僕は、僕はね真。今男の子だと言う事を、今ほど後悔したことないよ」 握り拳を奮わせていた。こめかみもぴくりぴくりと波打っていた。「良く分からないけれど1時間足らずで消灯だぞ」「大丈夫そこまで掛らないから。気が短い一夏なら絶対そう、直ぐ終わっちゃうよ」 怒っている理由がよく分からない。聞いても答えてくれなさそうだ、と彼は立ち上がった。「まあいいや。それじゃあ、おやすみ。シャルも早めに戻るんだぞ」「おやすみって、真は何処へ行くのさ。そっちは寮しかないよ」「一夏に会いに来たんだ」「ああだから駄目だって」「何故?」「だから今、相川さんが―」「清香がどうした?」 そこまで言ってシャルロットの頭に電球が灯った。何かを思いついたようである。彼女は突然真の背中を押し始めた。不自然なまでに自然な満面の笑みだった。「うん、先生が訪問するなら仕方ないよね。ささ、急いで真」 とエレベーターへ押し込んだ。一転、機嫌の良くなった彼女の態度に真は不審がっていた。「あのさシャル、俺に何か伝えるべき事があるんじゃないか?」「直ぐ分かるよ」 シャルロットはエレベータの扉が閉まるまで手を振っていた。 ◆◆◆ 時は30分ほど前に遡る。柊の706号室、一夏は机に向かっていた。黒のTシャツに濃紺のハーフパンツ。空気にも冷たさを感じる季節ではあったが、本人は至って平気らしい。手にする書物は“ISに於ける格闘戦”である。「えーとなになに? IS戦闘に限らず火器による攻撃は圧倒的に有利であり、機体の設計思想にしろパイロットにしろ大多数はこれを選択する。そのため火器による戦闘は研究が進み今日ではその戦闘スタンスは一定の実績と効果を保証する」 ふむとページをめくる。「対して格闘戦はパイロットの資質に大きく依存するという性質から、火器戦闘に対し殆ど研究が成されていないのが実情である。従ってこれから近接戦闘を主体にした戦闘スタンスを学ぼうという者は地道な研究、試行錯誤が不可欠であり……って要するに自分で何とかしろって事じゃねーかっ!」 テキストを放り投げると、ベッドの上にパサリと落ちた。椅子の背もたれにもたれ掛かり背を伸ばす。武術とは何か、一夏は問い直していたのである。(考えてみれば全学年で近接戦闘を主体にしている人って居ないもんなあ。3年操縦科主席の白井先輩にしろケイシー先輩にしろ。鈴の甲龍も龍砲があるし、それだけ難しいってことか。千冬ねえとリーブス先生はカウント外だし、あーあの更識先輩ってどうなんだろう。聞いておけば良かった。投げ方無茶苦茶上手かったもんな、ひょっとしたら何かヒントくれるかも……) 更に仰け反り、壁掛け時計を見れば午後の9時を指していた。一夏は首を左へ捻り、窓側の机を見た。主はおらず静まりかえっていた。ちょっと所用がと不満たらたらの顔で、シャルロットが出て行ってかれこれ10分は経つ。(シャル遅いな、何してんのかね。ジュースを買いに行ったにしては遅いな……ひょっとして月夜の晩に告白タイムとか!? ディマ君好きです。ごめん、僕は君に応えられない。どうしてですか! 誰か好きな娘が居るんですか!? 実はぼく女の子なんだ。がびーん! ……なんつって♪) げらげらと笑い出す一夏。本人は面白いつもりらしい。こんこん、扉を叩く音である。どさり、一夏がひっくり返った音である。消灯時間にはまだあるが部屋の往来は控えなくてはいけない時間だ。はてさて何処のどなたですかと、そう思いながら一夏は「よっこらせ」と立ち上がった。扉を開ければ清香が立っていた。一夏は少々面食らった。少女の訪問は数有れど、単身一人というのは滅多に無いからである。「よう清香、どうしたんだ?」「一夏こんばんわ、ちょっといい?」「シャルなら居ないぜ?」「ううん、一夏に用があって」「俺?」「うん」 白地に赤のラインが入った学園のダッフルコート。もうじき10月だ、おかしくは無いが少し早いしやっぱり何かがおかしい、そうは思ったものの断る理由もないので一夏は部屋に招いた。「何か飲むか?」「コーヒーをお願い、きつい奴」「眠れなくなるぜ?」「大丈夫、もう寝られなくなりそう」「?」 要領を得ない会話を、疑問に思いながらも一夏はコーヒーメーカをセットした。こぽこぽと湯が沸く音がする。静まりかえった部屋に聞こえるのは、その音と二人の呼吸の音だけだ。清香が言った。「最近どう?」「なにが?」「勉強とか、私生活とか、ISとか。まあISはもう不安ないよね、一夏強いし。もう学園最強?」「そんな事ねーぜ、上級生とは戦ったこと無いし、それに上には上が居るもんだろ」「そ、そうだよね。何言ってるんだろわたし。あ、あははは……椅子借りても良い?」「おう良いぜ?」 とす、腰掛ける軽い音がした。白いコーヒーカップ。一夏はコーヒーを手渡した。軽い謝礼の挨拶が返る。「……顔赤いぞ、風邪ひいてないか?」「風邪とは違う病かも……」 明日にでも医務室に行った方が良い、そう言って一夏は部屋を見渡した。シャルロットの椅子でも良かったのだが、清香の様子がおかしい。不安でもない、気がかりでもない、言いしれぬ感覚を感じた一夏は少し離れた位置、つまりベッドに腰掛けた。「……」 清香は無言になった。 早くなる自身の鼓動、一夏は不可解に思いながらも、黙ってコーヒーに口を付けた。清香が立ち上がり、歩み寄る。「あのさ、一夏っていま好きな娘が居る?」「今は居ないけど」「そっか、じゃ、じゃあさ。どんな娘がタイプ?」「そうだな……」 考えてみたものの具体的なイメージが沸かず、一夏は黙り込んだ。「ショートカットで快活な娘はどう?」「良いんじゃないか、一緒に居て楽しそうだし。で、それが、」 どうしたという前に、ダッフルコートのボタンを外し始めた。しゅるり、コートが床に落ちた。一夏が見たものは一糸まとわぬ少女の姿だった。「一夏! 好き!」 清香は一夏をベッドに押し倒した。柔らかく暖かい感触と、鼻を突くシャンプーの匂い。彼は何かが切れる音を聞いたという。 ◆◆◆ ちん。間の抜けたエレベーターの音。真が姿を現したのは7階である。目指すは706号室、一夏の部屋だ。ほの暗い廊下と、柔らかい絨毯。壁はアイボリー色だが、オレンジの照明で赤みを帯びていた。最初に見えたのは彼のかっての部屋712号室。次は鈴と本音の部屋711号室、次は710号、709号、つかつかと歩く。(この時間ここに居るのも久しぶりだ) するとある部屋の前に数名の少女が固まっているのが見えた。 一人は背の高い金髪の少女。ティナである。彼女は鈴を羽交い締めにしていた。二人目はその鈴である。彼女は涙目で暴れていた。口を静寐に押さえられ、もがもが言っていた。三人目はその静寐である。鈴に叩かれながらも必死で口を押さえつけていた。最後は好奇心で付いてきた本音。扉に耳を側耳立てる彼女は、顔が真っ赤で焦点定まらない目をしていた。呆けたように開いた口を隠す両の手も、心許ない。「鈴、落ち着いて」 静寐である。「鈴、往生際が悪いです」 ティナである。「もがもがもが!」 鈴だ。「なにやってるんだ」 真である。「鈴がやっぱり駄目だと暴れ出して」 これは静寐。「何が駄目なんだよ」「清香が一番手なのが気に入らないようです。公平にくじで決めたのです、が―」 ティナだ。 3人が壊れた機械のように首を回した。その先には何のことか分からないと真が立っていた。3人はあわあわと動揺すると、「「「なんでもない!」」」と去って行った。はっと気づいた本音は真と眼が合った。慌てふためき「やーん!」と消え去った。理解出来ないと首を傾げる真だったが、詳細は明日聞こうとノックし扉を開けた。「おーい、いちかー。じゃまするぞー、いいなー、はいるぞー、はいったー」 二人と眼が合った。「……すまん、邪魔したな」 扉を閉めた。大人の階段登る~口ずさみながら、明日にしようと振り返る。真がエレベーターを待っている時だった。706号室の扉が大きな音を立てて開くと、一夏が飛び出してきた。部屋から、「真の阿呆ー! しんじゃえー!」となじる言葉が聞こえる。「なんでだよ……」 真である。「おお、わりーわりー、何か用か」 一夏が爽やかな笑顔で駆け寄った。「いや、用って用だけど、一夏、お前、女の子を途中で放り出すなよ」 真はジト目だ。「あ、危なかった。もう少しで一線を越えるとこだったぜ……」「無計画なのは感心しないぞ」「いや、大丈夫だって言ってたから」「なぜに」「さあ? ま、まあここじゃなんだしよ、食堂行こうぜ食堂♪」「取りあえず、顔のキスマーク消せ。シャルとか他の娘に見つかると事だ」 ◆◆◆ 知っていたなら教えてくれよ、離れた席のシャルロットに非難の視線を送る。だが彼女は涼しい顔だ。何食わぬ顔でホットココアを飲んでいた。 場所は移り再び柊の食堂で、8人掛けのコの字型シート。人気が無いから大きな席にしようと一夏が言った。それはいいと真は同意し、二人は腰掛けた。広い席でふんぞり返る。内密の話だからとシャルロットに同席は遠慮して貰った。「折り入って頼みがある」 真はタブレットを取り出した。それには簪の顔写真が映っている。表情は乏しく、俯いて、誰かを非難しているようにも、恨んでいるようにも見えた。「この娘は……4組の娘だっけ」「そうだ。更識簪、日本代表候補」「で、この娘がどうかしたのか? お見合いしろってんじゃねえんだろ?」「近々学年合同タッグマッチが行われるんだが、一夏、この娘と組んでくれないか」「なんで?」「実はな……」 真はかいつまんで話すと一夏は理解したようである。「なるほどな、姉である更識先輩と仲直りさせたいってか」「まあな。自信を付けさせたいってのもあるけれど。で、どうだ」 一夏はしばらく考えると、顔を上げてこう言った。「対価を求めて良いか?」「まあただ働きさせるのも気が引けるし、言ってみろよ。飯か?」「ちげーよ。更識先輩に格闘技を教わりたい」 真はしばらく驚いたような顔を見せると、にやりと笑みを浮かべた。「いいだろ」「商談成立」 2人揃って右手を振り、手の平、手の甲と打ち当てる。一夏が笑いながら言う。「切り出しておいてなんだけど、勝手に決めて良いのか?」「彼女の発案だ。その程度なら嫌とは言わないだろうし、言わせないさ」「ほほーう、随分仲が良さそうだな」「仲が良いという表現は断じて拒否したい。彼女には色々貸しがあるだけだ」「火遊びも程ほどにしておけよ、相棒」「お前が言うな」「うっせえ。それじゃそろそろ部屋に戻るわ」「ああ。俺も戻る」 一夏はシャルロットを引き連れて自室へ戻っていった。真も柊を後にした。そしてその夜。シャルロットは隙を突き一夏のシーツをこっそり洗いに行ったという。 ◆◆◆掲示板にわっふるわっふると書くと、清香とのシーンが追加されます。嘘です。