1年1組の後ろから3番目。窓から一つ離れた席でセシリアは静かに溜息をついた。彼女のクラスは何も知らなかったように、何も起こらなかったように何時もの笑い声で満たされていた。 彼女が思い出すのは真が引き金を引いた瞬間である。彼女を庇うように立ち塞がり、脇のホルスターから抜いた軍用拳銃。彼女には撃鉄が落ちる音も、引き金を引く瞬間の真の呼吸も鮮明に思い出せた。彼の行為は自身の身を守り、セシリアの身を守るという単純な選択である。 彼女は眼を伏せると俯いた。 今の真であれば大丈夫、そう理解はしていても追い込んだ事実は変わらない。それが意図したことでは無い、そうだとしてもだ。なにより家名を気にしISを展開できなかったのは事実であった。(鈴さんが羨ましいですわ) 一夏の危機に迷うこと無く立ち向かった、鈴の姿。彼女にはとても眩しく見えた。 気に掛ることはまだあった。千冬に瓜二つの少女である。セシリアは以前シャルロットから聞かされたことを思いだした。(恐らくフランスで真を襲った者と同一人物。ファントムタスクに、サイレント・ゼルフィスのパイロット……随分と複雑な様相を見せてきましたわね) 千冬にしろ真にしろ、聞いたところで教えてはくれまい。真との事が露見するのを覚悟で本国に問い合わせるか、いやしかし。そう悩んでいたとき箒が話掛けた。「心ここにあらず、だなセシリア」 セシリアが視線を上げると腕を組んで仁王立ち。何時もの様に鋭い視線でセシリアを見ていた。「その様な事はありませんわ」「それは杞憂というものだ。真のあの様子、心配は無いぞ」「分かっておりますわ。ただ、自分が不甲斐ないやら情けないやら……」「何があったのかは知らないが、お前がその調子ではかえって真に負担を掛けかねないではないか」「分かっています。いますが……」 ため息一つ。「箒さん。今日の模擬戦はお一人で行って下さいな。デートをふいにしてしまった償いです」 もう一度深々と溜息をつくセシリア。仕方がないなと箒はその場を後にした。 ◆◆◆ 夕焼けに染まる第3アリーナ。一人佇むのは紅椿を纏う箒である。高度は50メートル。風は無かった。(あの時も夕暮れだったな……) 夕暮れの空母。前の真を見送った記憶が蘇る。少年だが大人、大人だが儚い、何処か影のある姿が口を開いた。『済まない遅れた』 その声(通信)は箒の足元から届けられた。彼女がゆっくり眼を開くと第2ピットから黒い機体が飛び出した。広げられた一対の翼、青白い光りが瞬いた。刀を突き付ければ辛うじて届かない距離で真は止まる。箒は口をへの字に曲げてこう言った。「遠いぞ」「ちょっと野暮用で……遠い?」「違う、遅いと言ったのだ」「いやまあ良いけれど。セシリアは、ってなんでもない」 眉を寄せて睨み上げる箒の姿に真は肩をすくめた。今日は箒と二人だけか、そう腹を括ると真はこう言った。「それじゃあ始めよう」「随分素っ気ないな」「……」 真は空を見た。欠けた月が浮かんでいた。手で口を覆い、視線を下ろす。アリーナの観客席にはぽつりぽつり人影があった。彼は正面を見た。深紅の機体に白いISスーツを纏った箒が中に佇んでいた。彼は傅いてこう言った。「赤の鎧は花弁の如く咲き乱れ、白い衣は雌しべの如く佇んで。おお麗しの人よ。あなたは夕闇の戦場に咲き乱れる一輪のは―箒痛い」 少女の頬のてかりは烈火の如く。真はぺしぺしと手刀を入れられた。「なんだその歯の浮くようなセリフは!」「箒が望んだんじゃないか」「真! お、お前は何時もセシリアにそんなセリフを言っているのか!」「時々」「そこになおれ! 成敗してくれる!」「オーケイ始めよう!」 2人はアリーナの空を駆け出した。逃げるのは真、追うのは箒である。箒は展開装甲を稼働、スラスターモード、深紅の翼が広がった。続けて抜刀。右手に雨月、左手に空裂。 みやはアリーナの内壁に沿って、高度を下げつつ加速する。紅椿、雨月発動。刀身の周囲に結んだ光体が光刃を放つ。真っ直ぐ伸びる赤い光刃はみやに到達することなく爆発炎上した。箒の目前に蒸発、プラズマ化した弾頭の光りが眩く灯る。(光刃を撃ち落とされた?) 箒の眼が左右に素早く走る。襲ってきた弾丸は頭上からだった。両肩の展開装甲がシールドモードへ、自動防御、彼女の頭上で跳弾光が走る。 紅椿、背部展開装甲をソードモードでパージ、みやに向けて撃ちだした。同時に急速上昇、赤い粒子が夕空に迸る。雨月二刀目、光刃が走った。 みやに紅椿のビット1が右から迫る、回避。続けて左下からビット2が回避、迫る光刃はエネルギーシールド防御。エネルギーの相互干渉でみやの視界が光りで包まれた。「はあああああ!」 紅椿、本命の十文字切り上げ。甲高い金属音が響く。みやの右足から左肩に切り上げられた漸撃は、みやの逆手に握られた大型アサルトナイフで止められていた。 箒の眼が驚愕で開かれる。みやスラスター全開、背中のウィングスラスターを支点に振り上げた右脚が紅椿の胴を襲う。図太い衝撃。フィールドに向けて蹴り落とされた。みや武装変更20mmセミオート・スナイパーカノン“ヴェルトロ”。 紅椿、全展開装甲稼働、スラスターモード。姿勢制御。ソードモードのビットが2機動時に左右からみやを襲う。みやはビットを蹴り飛ばしつつ発砲。姿勢を整えた直後の紅椿を弾丸が襲う。再び金属音。弾丸にはじかれ二振りの刀が宙に舞い、フィールドに落ちた。 箒が見上げると、月を背景に黒い機体が銃口を向けていた。紅椿がロックオンを警告していた。箒は両手を挙げた。「参った」「んむ潔し」「誰の真似だそれは」「今年卒業した人」 真は箒の近くまで来ると笑みを消してこう言った。「箒。ビットと機動力を駆使しながら雨月で攻撃、空裂で防御これを基本にして、近接戦闘は控えた方が良い」「……やはり踏み込みが甘いか」「ああ。スラスターによる推進力と武術の踏み込みは全く別物だ。箒の漸撃は遅いし手に取るように読める。空中で片膝を振り上げるなんて事前に言っているものだ」 箒はフィールドに下りると姉妹刀を手にとった。「真お前の言っていることは、」「箒が今まで積み重ねてきたことの否定。だが今のままじゃ勝てないぞ」「それは分かっている。いるが……」 箒は悔しさを滲ませるように口をきつく結んだ。真は箒の足を見た。(篠ノ之博士は自分の妹が古流武術をやっていることを知っているはず。何より千冬もいた。下半身の重要さを知らないとは考えにくいんだけど……)「何処を見ている!」 視線を感じた箒は顔を赤くして両の手でももを隠した。「違うって。箒、足運びに関係しそうな機能、本当に無いのか?」「……ない。一通り探してみたのだが」 何故か不満そうな箒を他所に真は自身の右手をじっとみた。「まあ方法がない訳じゃ無い。今すぐ結論は出さなくても良いだろ」「なんだ遠回しな言い方だな」「プロテクトが解ければスラスターを調整して擬似的に地面を作ることも出来る。間欠的な噴射パターンでPWM方式と言う」「可能なのか?」「時間を掛ければいつか解けるだろ。虚さんのところに度々行く必要はあるけれど」 考え込む箒に真は笑いながらこう言った。「じゃあがろうか」 ◆◆◆ 天井には赤みがかった白熱照明、足元はダークブラウン色の廊下。円筒形構造の第3アリーナ。その内側のベージュの壁に埋め込まれた告知用ディスプレイには一学期末試験の結果やクラブ活動の報告が映し出されていた。外側の壁には枠の無い窓があり、見上げる空はもう暗くなっていた。第3アリーナの最外周の廊下である。(陽が落ちるのも大分早くなったな) 箒は内側の壁にもたれ溜息一つ。もたれ掛かった壁には第2更衣室と書かれていた。彼女が思い悩むのは紅椿のこと、己の技量のこと、転じて真との実力差だった。(学園の教師を務めるほどだ。強いとは分かっていたがこれ程とは……) 真との模擬戦は今回で3回目。全敗であった。当初は紅椿に慣れていないと言い訳も出来たが、日々動かしている今、既に通用しない。(これでは側に居ても刀になるどころか足手まといにしか成らないではないかっ!) 空気の抜ける音がした。開いた扉から出てきたのは学園ジャージ姿の真だ。左手は無く右手でズック鞄を持っていた。箒の姿を認めた彼は少し驚いたようである。「先に帰って良いって」「私の勝手だ。では行くぞ。早くしないと定食が売り切れてしまう」 舗装された煉瓦道をガス灯を模した電灯が照らす。左右を木々で覆われ、先に見える小橋の更に先、学生寮が見えた。アリーナから続く道である。周囲に人影はなく虫の音だけが響いていた。 道を歩くのは箒と真である。ここに至るまで交わす言葉は無く静かに歩いていた。りーんりんと虫が鳴く。真は少し先を行く箒をちらと見た。箒は硬い表情で結った髪を揺らしていた。「紅椿とはまだ2週間足らずだろ? 焦りすぎだと思うぞ」「とつぜんだな」「さっきとても怖い顔してたからな」「怖い顔とは失礼なことを言うものだ」 真は足を速め箒に追いついた。「……実際どの程度なのだ。専用気持ちの皆と比較して」「皆は強いぞ。今の腕では誰にも勝てない」「はっきり言うものだ」「その方が好みだろ。だけどなに。今の調子で練習すればあと1ヶ月で誰かから一本取れる」「一ヶ月も掛かるのか」「何を言っているんだか、破格だよ。彼女たちだって素質に加えて積み重ねてきた物があるんだから」「彼女? 一夏は?」「一夏は特別。あいつから一本取るのは非常に難しいぞ」 それを聞いた箒は静かに笑ってこう言った。その表情に僅かな寂しさを浮かべていた。「……ずいぶんと差を付けられてしまったものだな。二人がセシリアと決闘したときが大昔の様に感じる」「情けないこと言わない。箒から教わって今の俺らが居るんだから」「そうか」「そうだ」「誰から一本取れそうだ?」「そうだなー。シャルか鈴が濃厚かな」「セシリアは無理なのか」「相性が良くない、同じビットに偏向制御射撃もあるし彼女は射撃のプロだ。相当手こずるだろう。言っておくけれどひいきじゃ無いぞ」「そういうことにしておこうか」 箒の表情から寂寥(せきりょう)感が消えたことを確認すると真は立ち止まってこういった。「箒、俺こっちだからここでお別れだ。おやすみ」「待て真。その方向はハンガーだな? この時間に何の用なのだ」「ちょっと野暮用」「4組の更識か」 彼は眼を開いて箒を見た。その表情は何故分かったのか、そう言っていた。箒は笑いながら一歩一歩歩み寄る。「最近親しいそうだな。授業のたびに話し込んでいるとか」「えーと、」「今日来たときも野暮用とか言っていたな。遅れてきた理由は更識なのだな」「だから、」「小柄でおとなしそうな娘だったな。そうか、そういうのが好みだったとは」「そうじゃなくて、」「稼働ログを用意するのに骨を折る程のいれこみよう」「なにを言って、」「大柄で気が強いのに言い寄られてはさぞや迷惑なのだろうな」「人の話を、」「……」「ちょ、」 秋深まる9月末日の午後7時。雲一つ無い星空の夜、謎の雷鳴が一つ轟いたという。 ◆◆◆ IS学園ハンガー区画第3ハンガー。壁と天井は分厚いコンクリートで作られたその部屋は雑多としていた。内壁にはスチールのラックがあり、測定器や工具が所狭しと収納されていた。赤く塗られたスチールの、車輪が付いたツールボックスはハンガーの片隅に押し寄せられていた。他にも棒状の部品やらISの装甲と思わしき鋼板もあった。 中心に鎮座しているのはIS、打鉄弐式である。日本鎧を連想させる無印打鉄と異なり、ステルス艦船をイメージさせる面を強調したシルエットとなっていた。 その打鉄弐式の足元でキーを叩くのは簪だ。青白く光る空中投影ディスプレイの光を浴びるその表情には苦渋の色が浮かんでいた。高い音色の電子音が控えめに鳴り響く。(……各デバイス間の通信データに欠損が多い……プログラムの遅れ? それとも、内部通信器の不調?) 打鉄弐式の開発元は倉持技研であるが、開発能力を白式に取られ未完成のまま放り出されていた。簪は自力で完成させんと前倒しで引き取ったのである。「お疲れ。済まない、遅れた」 メインゲートの脇にある人用扉が開き、真が現れた。頭をさすっていた「お疲れ……さま。どうしたの、頭」「名誉の負傷?」「?」 真が2つの缶を差し出すと、簪はちらと見上げ、ぶどうの缶をそっと受け取った。真はミルクティだ。2人揃って缶を開けるとぐびと飲んだ。「でどう? 旧バージョンのツールは?」「上手く、できた。古いバージョンで、コンパイルしたら……調子が良くなった」「やっぱりか。あのメーカー認めてないけれど新バージョン絶対バグがある」「どうして……知ってるの?」「蒔岡でも去年躓いたんだ。システムがエラーと判断しないからなかなか気づかなくて」「でも、新しい不具合……がでた」「良くある良くある。一つ一つ潰していこう、前進はしているから」 不意に訪れた空白の時間。聞こえるのはISの鼓動と2人の呼吸。紅茶を飲み終えた真はこう言った。「更識、誰かを頼ったらどうだ?」「イヤ……」「本音はどうだ。整備の素質あるし古いなじみなんだろ?」「イ、イヤ……」「今の調子だと、できあがる頃には卒業してしまうぞ」「そんなこと、ない。絶対……できる」「何故そこまで自力にこだわるんだよ」 簪は口を閉ざしたままじっと弐式を見ていた。 ◆◆◆ 三浦半島最南端に位置するIS学園は東、南、西を海に囲まれ、北は山林で覆われている。低いとは言え連なる山々と深い木々は、生徒たちの身近な自然として愛好され、また招かれざる来訪者を阻む城壁も兼ねていた。 山々の深い緑も色が褪せ、空気も川の水も冷たさを増してきた頃。早朝の山中を走る一つの影があった。その影は木々の隙間を駆け抜けた。駆け抜けたあとは、地面の小石や小枝が高く高く宙に舞った。図太い音を立てて大地を踏み抜くと、橋が架かる崖を飛び越した。 その影は学園指定の白いジャージを纏い、黒い髪と赤銅色の瞳を持っていた。一夏である。雲が流れ日を陰らす。また流れ日がさした。山々を走り抜けると跳躍、川岸に着地、石が割れ土煙が上がる。今度は川の上流に向かって走り出す。大きな岩々を八艘飛びの要領で飛び渡った。 暫く走ると川岸に、そびえるように岩が立っていた。自動車を易々と押しつぶせる大岩である。一夏は腕をまくると、地面と岩の隙間に手を入れた。足を広げふんばった。歯を食いしばる。「でええりゃああああ!」 掛け声と共に持ち上げた。その怒声に鳥たちが飛び去った。木々がざわめいた。川の中に放り投げる。轟音と共に水柱が立った。息が切れる。一つ深呼吸。「ふはははは! 愚かなり蒼月真! 手加減してやってるに決まってんじゃねーか! 手加減しなきゃミンチだぜミンチ! あーっはっはっは! はああ~」 どさり。石ころが並ぶ川岸に寝転んだ。ごちんと石と頭が鳴り響く。「大丈夫、痛くねえ……」 呟いた独り言は、さあさあと川と一緒に流れていった。「……」 一夏が思い悩むのは、千冬に瓜二つの少女の事である。怯ませる為に打ち込んだ、空気の断層かまいたち。その少女は臆するどころか、反撃してきたのである。恐るべき力の掌底であった。とっさに身体を捻り防御しなかったならば、流石の一夏も大ダメージを負っていたかもしれない。めくった左腕をじっとみれば、掌底の跡がうっすらと残っていた。(一体誰だあの娘。あの手応え、千冬ねえ以下、更識先輩以上……真と同じで世界を渡ってきたのか? いやそれは千冬ねえと同じ顔って事と関係が無えな) 一夏はむくりと起き上がると、川に向かって足を広げた。左手を頭上に掲げる。「吩!」 打ち下ろされた左手は、空気の断層を生み、疾走し、川の水を巻き上げた。飛沫が舞う。(いずれにせよこのまんまじゃ駄目だ、力が上手く使えてねえ。阿呆との約束もあるし何とかしないと……ダメ元で訓練を千冬ねえに頼んでみるか? ……だめかなーやっぱり。あの娘のこと聞いても“お前に関係無い鍛錬に励め!”だったもんなあ。千冬ねえと同じ顔で関係無いは無いだろう、いい加減背負い癖何とかして貰いたいもんだ姉弟なんだし、つーか真とそっくりだな……) 楯無との組み手を思い出し、構えては拳を打ち込み、腰を据えては蹴りを入れ、ああでもないこうでもないと、試行錯誤しているその瞬間。一夏の頭上に電球が一つ瞬いた。「あ、そうか。考えてみれば当たり前じゃねーか……ってなんてこったああ!」 一夏は血相変えて駆けだした。 ◆◆◆ 朝日が差す学園の職員室。連なる島々のように寄り固まる机と、積み重ねられた書類。教師たちの談笑にコーヒーの匂い。何処の学校でも見られる風景の中、自席で書類に目を通すのはディアナである。それにはM出現の顛末が記されていた。コーヒーを一つすする。 Mと真の一件は学園にいくつかの影響を与えた。一つは警備体制。ナターシャにもたらされた時点では控えていた警戒を正式に発令することになった。何名かの教師に訓練機を宛がっている。もう一つは臨時の訓練イベント。最悪のケースに対応出来るよう専用機持ちの生徒を対象に学年合同タッグマッチを行う。最後は一部生徒のメディカルケア。真の射殺を目撃した生徒の精神状態をチェックする必要があった。(織斑一夏、所見無し。セシリア・オルコット、所見無し。凰鈴音、ティナ・ハミルトン、鷹月静寐……所見無し、か。入学前から訓練を受けている3人はともかくとして、静寐は意外だわ。もう少し繊細かと思ったけれど……何かあったのかしら。一夏は、男の子だからかしらね) ディアナはペンを取り、カウンセリングを受けるよう書類に書いた。静寐にである。(念のため……と。あとは、こいつか) ディアナはペンを置いた。視線を上げる。向いの席、積み重なった書類越しに見えるのは、陰鬱な表情の同僚である。千冬はみやが映したMのピクチャーデータを見てからと言うもののこの調子であった。言葉数少なく、身のこなしも鈍く、暇さえあれば、眼を伏せて焦点の定まらない眼差しをしていた。千冬の席は廊下側の南向き。適度に日差しは届いているが、顔色悪く生気がない。「何時までそうしているの。しゃんとしなさい千冬。生徒に示しが付かないわよ」「……わかっている」 分かっていないじゃないと、ディアナは溜息一つ。同じ“島”の真耶、千代実も行く末を見守っていた。真とラウラは授業の用意で居なかった。 ディアナは立ち上がり、コーヒーを淹れると千冬に手渡した。モスグリーンのマグカップから湯気が出ていた。ディアナは椅子を持ってくると腰掛けた。他に聞こえないよう小声でこう言った。「重傷ね、千冬もカウンセリング受ける?」「生徒たちは大丈夫なのか」「皆異常なし、よ。念のため静寐にはカウンセリングを受けさせるわ。はいこれ、生徒たちの機密保護義務の誓約書」「……真は?」「彼が“元々”何をしていたか、話したでしょ。この程度ではめげないし、めげてもらっても困る」「“あいつ”は……あいつは私を恨んでいる。当然だ。覚悟はしていた。だがこう言う形で現れるとは思わなかった」「その辺にしておきなさい。朝から愚痴はいやよ。愚痴は夜聞いて上げるから今はブリュンヒルデに戻りなさい」「お前は相変わらずだな、容赦ない」「悪い冗談だわ。私ほど気立ての良い女は居ないわよ」「よくいう」 力無い笑み。ゆっくりと千冬がマグカップに口を付けた時である。職員室に地響きが響いた。最初は遠く徐々に近く。馬の大群が駆けていったような振動のあと、扉が大きな音を立てて開いた。「千冬ねえ! 俺分かった!」 一夏だった。どれ程急いできたのか、頭には小枝と葉っぱが乗っていた。千冬は立ち上がるとつかつかと歩き、出席名簿で頭を叩きつけた。「織斑先生だ! 何度言えば分かる! 職員室に入る時はノックをしろ!」 興奮した一夏は、それに構うことなく息も切れ切れにこう言った。「俺分かったんだよ!」「……何がだ」「あの娘、千冬ねえと真の子供だろ!」 ぴしり。朝の空気が固まった。真耶はコーヒーを吹き出した。コーヒーを注いでいたとある教師はその姿勢のまま固まっていた。あちちと悲鳴が聞こえた。ディアナの目は冷たかった。ざわめいた。身体を震わし始めた千冬を他所に一夏は自慢げである。「いやーそうじゃないかと思ったんだよ。千冬ねえに瓜二つだし、やたら強いし。真のこと執着しているみたいだし、何処か陰険そうなところ真にそっくり。そうならそうと言ってくれれば、俺だって叔父としての覚悟を―へぶう」「なにを口走っているこの大馬鹿者!」 顔を真っ赤に、トマトより赤く染めた千冬は一夏の頭を壁に叩きつけた。細かく砕ける様な音のあと、ぱらぱらとコンクリートの破片が床に落ちた。「いやだって元々ふう―もがもがもが」「黙れと言っている! 指導室に来い!」 千冬は一夏の頭を掴むと、引きづり廊下へ出た。注がれる好奇の視線と羞恥を振り払おうと、大きく肩を振って職員室を後にした。生徒指導室と書かれた扉を開けると一夏を放り込んだ。ずかずかと歩み寄り脳天に一発。ごちん、鈍い音が響く。一夏は頭を抱え床の上をのたうち回る。「くのおおおおお」 一夏である。痛みの余り言葉にならない。「こ、こ、ふ、ふ」 千冬である。憤りの余り声が出ない。「ちょっと待てよ! 今の俺じゃなかったら死んでるぜ!」「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿だったかお前は……」 組んだ両の手から丸太をへし折るような音を鳴らす千冬だった。目尻に涙、耳まで赤い。「だあっ! 照れ隠しで撲殺するんじゃねえ!」「黙れ! 2度と碌でもないことを口走らないようにしてやる!」「そんなに怒るこたねーだろ! やっぱり図星なんじゃねーか!」「黙れと言っている! 家庭の事情をぺらぺらと!」「何言ってんだよ! 黙ってる千冬ねえが悪いんだろうが!」「お前には関係無いことだ!」「家族のことが関係無いのかよ!」「……」「……」 一夏の真っ直ぐな視線。時が止まったかのようなその部屋で、頭の冷えた千冬は静かにこう言った。「そこに座れ」「おう」 2人は向かい合うようソファーに腰掛けた。一夏は両手を組んで乗り出した。千冬は何時もの様に腕と足を組んでいた。「真から聞いたのか?」 一夏は頷いた。ここに居ない真に恨み言を言うと、千冬は一夏に向き直った。「まず勘違いを正しておく。あれは、Mは私たちの子供では無い」「何で言えるんだよ」「Mの出生は把握しているし、私たちに子供は居なかった。それに一夏。お前は私に似ていると言ったが、前の私に似ているならばもっと穏やかな顔をしているはずだ」「そうなのか?」「そうだ。記憶の戻った真が私を認識出来なかったのはその為だ」「へーしらんかったぜ」「大体何故そう思った? 子供が居たと真が言ったのか?」「いや。でも夫婦なら普通居るだろうって」「短絡的すぎだ」「子供が居ないのは何で?」「まだ若かったからな。生活が安定するまで……ふん。それこそ大きなお世話だ」 確かにな、一夏はそう言うと姿勢を正す。「ならMって誰だ? その言いぶりからすると知ってるんだろ?」 一夏の呼吸を聞いて、自身の呼吸を数回数えたあと千冬はこう言った。「……しばらく時間をくれないか」「言えねえのかよ」「急なことでな。私の心の整理が付いていない」「分かった。けど絶対話せよ。なるべく早くだぜ?」「分かっている。分かったらもう寮に戻れ。言っておくが遅刻は許さんぞ」「わあってるって。出席簿アタックはごめんだからな」 一夏は笑いながら立ち上がった。(生意気言うようになりおって……) 少しだけ大きくなった弟の背中を、千冬は笑みを浮かべて見送った。誕生日プレゼントは奮発してやろう、そう思いつつ職員室の扉を開けると教頭が立っていた。「織斑先生。先程のことでお話があります」「……」 その日。千冬が授業に遅れたのは言うまでも無い。 ◆◆◆簪「あの、私の出番……これだけ?」Heroesでは良くあること。