見上げる空は高くどこまでも蒼かった。雲はまだらに浮いていた、快晴の秋の空である。その空の元、学習棟の屋上で、屋内と通じる小屋の扉がばんと大きな音を立てて開いた。飛び出したのはセシリアである。金髪の髪をなびかせて、フェンスまで走ればすがりつく様に体を支えた。 フェンスに右手を、余った左手は胸元に。一つ息を大きく吸い、はあと大きく吐いた。「私は何をしているのかしら……」 火照った顔を何とか冷まそうとぱちぱちと両の手で叩いていた。そのとき小屋の扉に影がさした。二つのうごめく人の影。ティナと清香である。慌てふためき逃げる様に走るセシリアが気になった二人は後を付けたのだった。 扉から顔を半分だし覗く清香はこう言った。「あちゃー。セシリア相当意識しちゃってるね。ねーティナ。あれ渡したの尚早だったんじゃない?」「こうなるとは予想外です。セシリアがまさかこれ程奥手だったとは……」 清香は振り向いた。その視線の先には困惑顔のボブカットの少女が立っていた。「まーセシリアお嬢様だもんね、無理ないよ。私だってまだだけどさ」「清香。言っておきますが、私もハミルトンのお嬢様ですよ」「自分で言っちゃうんだ」 呆れを隠すことのない清香にティナは一つ咳払う。「さてどうした物でしょうか。これ以上煽るのも得策ではないようですが」「もう二人に任せるべきじゃないかな」「相手はあの蒼月君です。セシリアもこの調子では放っておいたらいつまで経っても進展無しです」「それは言い過ぎだよ」「鈴のケースを思い出してください。同室だったとき彼が何もしなかった事を考えると十二分にあり得ます」「あー」「でしょう?」 かつんこつんと階段を上がる足音がする。誰かと二人が見下ろせば、踊り場に立つのは箒だ。彼女は怒り半分、疑い半分の眼差しで二人を見上げていた。「げ」と声をだし、慌てて口をふさぐ清香。隠し事をしていると自分で言った様なものだ。箒は二人の側に立つと腕を組んでこう言った。「セシリアが挙動不審だと思えば……2人とも。一体セシリアに何をしたのだ」 答えたのはティナだった。隠すつもりは毛頭無い様で堂々としていた。「大した事ではありません。セシリアの背中を押しただけです。日本でいうところの発破を掛けた、と言う奴です」「だからそれを聞いている」「マイルーラを渡しました」「まいるーら?」「避妊薬」とあっけらかんと言うのは清香である。「「「……」」」 僅かな沈黙の後、箒は顔を真っ赤にさせ、何を考えているのかと声を荒らげた。性的な事に関する価値観は人それぞれだが、箒にとっては日々考える様なことでは無かった。非難する様な物言いになったところで無理はない。応えたのはティナだ。彼女は人差し指を立て、子供に道徳を説くがごとくの態度でこう言った。「何を言うのです箒。避妊せずにSEXなど無責任ではありませんか」「せ、せせ、せー」 口をぱくぱくさせる箒であった。「そっか。箒もまだなんだ」「何を言っている! はしたないぞ!」 ティナはやれやれとため息一つ。「セシリアといい箒といい、良い女が揃いも揃って情けないですね。私はセシリアの味方ですが、箒。貴方にも言っておきましょう。私は父が軍人なので幼少の頃から多くの男性を見てきました。だから言いますが蒼月君のようなタイプは女の方から強く押しておかないと駄目です」「なにを押すのだ……」「もちろん釘です」「……どういう意味なのだ」「失礼。釘だと挿すですか」「刺すだよティナ。あと少し使い方が違う」 おほんと一つ咳ばらう。「良いですか箒。私の見立てでは蒼月君のような強い男性を演じている、強くならなくては成らなかったタイプは中身が空っぽです。自分の身体を叩きあげ、作り上げた薄く堅い身体、卵の殻と言っても良いでしょう。卵の殻は不安定で簡単に揺れますし、簡単に割れます。割れれば風にまかれて散ってしまいます」 箒は黙って聞いていた。「最近は持ち直したようですが人間早々変われるものではありません。殻の中身を埋めしっかり支える存在、女が必要なのです。深く支えるには身体の、温もりを与えることが何より大切。彼を思い大切にしたいのであれば恥ずべき事ではありません」 初めて知る考え方に箒は二の句を失った。感心した様に、尊敬の眼差しを向けるのは清香である。「ねーティナ。それを悟るのに何人付き合ったの?」「失敬な。好きになったの男性は織斑君が初めてです」「え"?」「母の受け売りです」 染めた頬を恥ずかしそうに掻くティナだった。 ◆◆◆「むう」 学習棟の階段を降りるメイド服の少女がひとり。箒である。腕を組みしかめ面、彼女は迷っていた。 ティナの言っていることを否定したい。ティナの言い様は肉体関係を握手代わりに考えている、そう思いたかった。だがだが考えれば考えるほど否定出来る材料がなくなっていく。一般的ではなく真限定での話だ。 かって箒が、真と偽りのデートをした日。彼に感じた不安は影を潜めたものの未だ健在であり彼女自身感じとっていた。それは躊躇だ。女性に対する線引き、一線として存在していたのだった。(一夏によればあの2人と違う部屋になったらしいが) あの2人とはディアナと千冬のことだ。世界で有名な二人である。別室という扱いは妥当と言えば妥当な処置だが、この世界においても真とあの2人は親密な関係と言って良い。真の過去を知っている彼女にとって、個人的感情を除けば、同室でも異論は無い。(そもそもディアナと数ヶ月同室だったのだ。いま敢えて別室にならなくても良い筈……2人に対し遠慮したのではなく距離を置きたかった、だとしたら……ティナの言う事が信憑性を帯びてくる) 箒はしばらく立ち止まると、数度天井と廊下を交互に見つめた。一つ息を吐く。「無理をしている……か。しかたがないな」 そう言い踵を返した。 ◆◆◆ 幾分落ち着いたセシリアは缶の紅茶を飲んでいた。みやが初期化されかかったとき、二人で座ったベンチである。花壇に木製の机。あの時に比べ随分賑やかになった光景を見渡したあと再び手元の間に視線を落とした。缶をくるくる回す。(あの時もこうして回していましたわね……)「セシリア。ちょっと良いか」 呼ばれた声に彼女が振り向くと箒が立っていた。何時もの様に腕を組み仁王立ちだった。「あら、箒さん。休憩はもう終わりでは?」「用事を思い出したからな」 箒は隣に腰掛けた。「私に?」「セシリア。私は構わない、お前の好きにすると言い」「そう。あの2人から聞いたという訳かしら」「そうだ」 二人の視線の先には海が見えた。蒼い空と蒼い海。静かに打つ波は白く、白糸のよう。「意外ですわ。箒さんが後押しするとは」「“私たちの知る”真はお前を好いているからな。私では一寸及ばない」「随分物わかりが良いですわね。盆祭りの時の態度が嘘のようですわ」「敵からの施しは受けない、と言いたいが。セシリア、お前の気遣いが分からないほど愚かでは無い。あの時わざと挑発したのだろう? 見せつければ憤りぐらいすると」「箒さん。私は何時までもここに居るという訳ではありませんわ。卒業すれば国に帰ります」「真をイギリスへ連れて行くのではなかったのか」「それ程簡単な話ではありませんわ。家としても国としても学園としても。ですから―」「ならば、その続きは卒業式の時にしよう。強大な敵が2人も居る。2人手を組んで戦うべきだ」「勝てるかしら」「私たちとて黒と金だ、若い分勝ち目もあるだろう」「そうですわね」「それより目先の問題を片付けるとしようか」「お心遣い感謝いたしますわ。今晩にでも迫ってみますからご心配なく」「無理しなくても良いのだぞ、セシリアは自信が無さそうな上、私も貰ってきたからな」 彼女の胸ポケットから覗くのは正方形の、フィルム状の包装物である。マイルーラと印刷されていた。「ふふふ」「おほほ」 2人の高笑いは空に消えていった。 ◆◆◆ 学園中を練り歩くのは蘭と一夏である。教室のある学習棟にドーム球場より巨大なアリーナ、ホテルのような寮に、見渡す一面書籍で埋め尽くされた巨大な図書館。研究所にも基地にも見える学園本棟。各施設は離れていて歩き渡るにも骨が折れる。そのため学園用の自転車もあるほどだ。一夏は建物の前に立つとこう言った。「ここは部活棟。学園の部室が有る棟で生徒会室もここにある。行ったことは無いけれど」 蘭が見上げる建築物は小洒落たデザイナーズ・マンションのようだった。上空から見れば正方形で、吹き抜け構造のロの字型。3階建てで集合ポストを見れば1フロア36室もある。蘭は「はあ」と生返事をした。彼女の所属する女子校とて有名校で、設備には金が掛っているが、学園のそれは比で無かった。 蘭の心中を察した一夏は屈託無く笑う。「学園には海外の良いとこの娘も多いんだ。面子があるから立派なんだってさ。日本人のヨーロッパアレルギーもここまで来れば立派なもんだ」「みたいですね」「俺ら男に関係ある施設は少ないけどな」「そうなんですか?」「大半が女生徒向けなんだよ」 女生徒、この言葉を聞いた蘭は態度を僅か硬くした。ここにいたる道、一夏は都度女生徒に声を掛けては言い寄られた。蘭には警戒の視線を投げられた。彼に好意を持つ者としては看過出来ないであろう。それに、(ここの生徒は何かが違う) 同級生と比較して随分大人びてみえた。一夏もどこかが違う。一学期が終わる前、彼は蘭の家に遊びに来たが、その時と比べて随分落ち着いている。彼女は何かがあったのだと直感した。「一夏さん」「ん?」「一夏さんに特定の人は居るんですか」「居ない」 蘭の問いかけは一夏の態度を堅くした。「学園って綺麗な人ばかりじゃないですか。もてるんじゃないですか?」 昔のように、とは言わなかった。「告ったけど振られてさ、そんな気になれないんだ」「は?」「意外か?」「あえいえ、そういうわけじゃ」「あーもう、この話はやめだ。正門に行こう、真が居るはずだISを間近に見られるぜ」(一夏さんを振る人が居るなんて、信じられない!) 逃げるような一夏の背中。彼女は慌てて追いかけた。彼の視線のその先、黒服の男性を従わせ、銀髪の女性が立っていた。白いブラウスに紫紺色のスカート。ショールを羽織る、その姿は蓮華草。落ち着いた雰囲気の女性だった。「もし」「え、俺ですか?」「織斑一夏様であられますでしょうか」「え、あ、はい」「成る程、織斑先生によく似ておられる」「千冬ねえを知っているんですか?」「お初にお目に掛ります。卒業生で黒之上貴子、と申します。先生にお目通りは叶いますでしょうか?」 彼は僅かな戸惑いの後、笑顔でこう言った。「もちろん。職員室だと思いますので案内します。蘭いいか?」「はい」「その前に。蒼月真様はどちらに居られますでしょうか」 思わず蘭と目を合わせる一夏だった。 ◆◆◆ 蘭を一夏に頼んだあと、真は学園内を巡回していた。何かがあれば、アレテーが即座に警報を発令する手筈となっている、その意味で彼の行動に意味は少なかったが、「データじゃ雰囲気は分からないしな」 彼は賑やかな学園の空気を噛みしめていた。駆けて行く女生徒の先に、中年の女性が立っていた。母娘だ。数名のグループがドリンクを片手に歩いてくる。3年生だった。声を掛けられたので彼は手を上げた。遠くから演奏しているだろう吹奏楽部の演奏が聞こえる。笑い声があった。(平和だな……守るか、どうして前はこの感覚に気づかなかったんだろう) 俺も見ているようで見ていない、そう彼が猛省の念に駆られていた時である「はあい」 金髪の、サングラスを掛けた女性が立っていた。耳にイヤリングをつけ、デニムに襟なしストライプ地のニットを着ていた。美しいよりは凛々しいが相応しい。彼女は木陰をひさし代わりに立っていた。彼は訝しげな表情でこう言った。「どちら様でしょうか」「私よ」「私、と言われましても。チケットを確認させて頂いても?」「酷いわねえ。“今更乗り換えなんてさせんぞ!” そう言ったのは貴方なのに」 左手に持った小さめの鞄から取り出されたチケット。紹介人の欄、ディアナと書かれたその上に記された名前を読み上げる。彼は呟いた。「ナターシャ・ファイルス……?」 ナターシャはサングラスを取ると微笑んだ。「君とは3度目なんだけどな、本当に分からない?」「……その声、アラクネの」 彼はサイレント・ゼルフィス戦の折、彼を拘束したパイロットの声を思い出した。「正解。本当は福音のパイロットよ。今日はお使いに来たのだけれど、直接言いたくて。助けてくれてありがとう」 戸惑っている彼の頬に唇を添えた。頬に感じる柔らかい感覚、彼はそれを追いやりこう言った。「あの時は……何というべきだろう。そうだな、元気そうで何よりに、しておこうか」「“怪我”はもう良いの?」 ロンギヌスに撃ち抜かれた脇腹のことである。「良く覚えていないけれど、この通りぴんぴんしているよ」「そう良かった」「君の方こそ大丈夫なのか?」「貴方が身体を張ってくれたお陰で怪我一つ無いわ。今日はミス・リーブスに会う必要があって余り時間が無いの。だからまた日を改めて会いましょう。それじゃあね、もう1人のナイトさんにもよろしく」 手を振り立ち去るナターシャの背を呆然と見送りながら、彼の背後で一夏がこう言った。「おい阿呆」「なんだ、いち……か?」 彼が振り向いた先、一夏の隣に立つ蘭の、更に隣。彼にとって懐かしい人物が立っていた。その銀髪の女性はにっこりと笑うとこう言った。「真、久しいですね」「……貴子さん?」 貴子は真の頬の傷、碧い眼、左腕の義手を見ると笑みを消し憂いを見せた。「すっかり変わり果てて。心配したのですよ。聞こえる話は、やれ怪我をしただの、やれ捕まっただの、気をもむ事ばかり。フランスでの話を聞いた時はもう……」「あの、失礼ですが。貴女はあの貴子先輩?」「何を言い出すかと思えば。よもやこの黒之上貴子の顔を忘れたとは言うまいな?」 二の句を失っている真の背後から真耶が駆け寄った。「黒之上さん!」「まあ、山田先生。ご機嫌麗しゅう」「お迎えが遅れて申し訳ありません。学長と織斑がお待ちです、どうぞこちらへ」「真」「は、はい?」「後で話があります。先程の女性のこと話すように……では五反田様、織斑様これにて」 楚々と立ち去る貴子を見送る3人。「だから阿呆」「なんだ馬鹿」「あの人、お前が前に言っていた先輩か?」「その筈だけど……」 一夏は真の胸ぐら掴んでこう言った。「何が豪快な人、だ! 思いっきり深窓の令嬢じゃねーか!」「いやだってそんな、あーっはっはって言う筈なんだけど……なんで?」「おおそうだ、さっきの金髪女性は誰だ!? どういう関係だ!? 頬にちゅーとか全部吐きやがれ!」 がくがくと頭を振られる真と振る一夏。真は外見に似合わずプレイボーイなのかもしれない、一夏が年上好きという昔からの噂は本当かもしれない、困惑と悲嘆に苦しむ蘭だった。 ◆◆◆ 場所は移り、職員室の隣にある生徒指導室である。その部屋には金髪の女性二人が腰掛けていた。一人はナターシャ、もう1人はディアナである。火花を散らす2人を見て、千代実は視線を合わさないようにこっそりと紅茶を置いた。 不機嫌さを隠さないディアナを前にナターシャは涼しい顔である。「黒神財閥のご令嬢がお目見えとは驚きました。ミス・リーブス、学長とどの様な話を?」「貴子は元々生徒だから挨拶に来たのよ」 ディアナは脚を組み替えた。「そう言う事にしておきましょうか」「そんな事より学園の人間を、教師を口説かないで貰いたいものだわ」「あら、恋愛は自由ですよね」 ナターシャは紅茶を一口呑んだ。「本気で言っているのかしら?」「年下ですけれど、大人びていますし。隣に居ても恥ずかしくないでしょう。第7艦隊で彼は英雄です」「彼を想っているのは少ないけれど、強敵揃いよ。奪うなら全軍で来なさい」「その様ですね」「それで今日はわざわざ何のようかしら。ひょっとして喧嘩を売りにイレイズド(地図に無い基地)から来たの?」「まさか。叔父から私的な伝言です。それを伝えに来ました」「ハミルトン中将から?」 紅茶を置くとナターシャはこう言った。「ファントム・タスクが動き出しています」 ◆◆◆そろそろ嵐の予感。