日常編 少女たち3-------------------------------------------------------------------------------- その建物の中にはエレベータが収まった巨大な柱がそびえていた。そこは6階建ての吹き抜け構造で、屋根から1階の広場まで楕円にくり貫かれ、エレベータは各フロアにアクセス出来た。その広場から見上げると、各フロアが一望出来る。バームクーヘンの底から見上げているような光景だ。もっとも上階ほど床に隠れて見える事は無い。 そこは洋服、靴、鞄、腕時計に貴金属、フォーマルからカジュアル、レストラン、映画館、全てを網羅するショッピングモール“レゾナンス”である。 人の気配が絶えない巨大施設に立つのは少女1人と少年1人。少年は濃紺のTシャツにデニム、少女は白い襟付きの黒のワンピースで白い肩掛け鞄を持っていた。静寐と一夏である。この2人は臨海学校の準備の為やってきた。相変わらず大きいと彼は呟いた。隣に立つ静寐は不機嫌さを隠していない。「そろそろ機嫌直してくれよ」と一夏は言う。ついと静寐はそっぽむく。 彼が2組で臆面無く誘った後、彼女はクラス中の少女から、たかられたのである。プリンアラモードにストロベリーパフェ、あんみつにアイスクリーム。彼女は断るつもりだったが、元を取る為だと自分を説得し、誘いに応じたのであった。静寐は長い長い、レシートをぐしゃりと握りしめた。「今月のお小遣いぴんちです」「わかってるって、だからこうしてご招待してるだろ」「切り詰めないとごはんもままなりません」「俺が弁当作るから楽しみにしてくれ」「私にも女のプライドぐらい有ります」「なら一緒に作ろうぜ。そうそう今度パスタの作り方教えてくれよ」 良いけれど、と彼女は押し黙った。いつの間にか主導権を握られている、俯く静寐は僅かな間の後すたすたと歩き始めた。笑いながら一夏はその後を追った。そして、その2人を柱の陰から覗くのは学園専用機持ちの3人である。 セシリアは全身をゆったりと覆う、清涼感を感じさせる青いサマードレス。鈴は活動的な白の襟付き袖無しのデニムに黒のペブラムスミニ。シャルロットは白の襟付きシャツにメッシュの黒カーディガンを羽織り、ペールトーンのカラーデニムを穿いていた。スニーカーではなくパンプスであればスタイリッシュな女性に見える事受け合いの、絶妙なチョイスだった。 後を付けてきた3人は軟派男に纏わり付かれ、2人を見逃し、漸く見付けた頃には機を逸していたのである。「良い雰囲気ですわね」あの一夏さんが、とセシリアが感心したように言う。目の当たりにした鈴は「むーむー」と面白くなさげに唸っている。そしてハンカチを噛み締めるのはシャルロット。「行くよ2人とも! 妨害作戦開始!」「「声が大きい」」 こそこそと影に隠れ人を追う、容姿と行動が一致していない残念な3人だった。 記憶-------------------------------------------------------------------------------- 扉を開けるとそこはダイニングキッチンだった。板間で奥にキッチンが。右に食器棚が左に冷蔵庫があった。壁は白く天井には円形のドーム型蛍光灯が、白い光を静かに放っていた。中央には4本足の大きめの、木製テーブルと4つの椅子が置いてあった。4人腰掛けてもまだ息苦しさを感じない、その程度には広かった。壁に掛った薄型の液晶テレビが、サッカーの様子を独り言のように伝えていた。“お帰り。遅かったのね” ゆったりとしたワンピース。エプロン姿の中年女性が、テキパキとテーブルに豪勢な料理を並べていた。ろうそくの挿されたケーキも見える。誰かのお祝いらしい。 がさり、新聞を読む中年男性は私をちらと見ると何も言わず、印刷された文字をひたすら目で追っていた。銀縁眼鏡に白髪が交じり始めた短めの髪。大きめのジャージでも隠しきれない程には腹が出ていた。 茶色く染めて、耳が隠れる程度に短めの髪が揺れる。決して美人では無いが愛嬌のある顔立ち。10代後半だろうか。誰かを探す私の挙動に、その若い女性がにやにやと意地の悪い笑みを浮かべてこう言った。“あの娘はこれから来るって” 父と母と姉が目の前に居た。----- 天は未だ暗く濃紺で、漸く水平線が明るく染まる頃。人気の無い職員用駐車場に、ぽつぽつと突っ立つ複数の電灯が暇そうに足下を照らしていた。耳を澄ませば遠くから海風に乗り虫の音が飛んできた。左隣を歩く白銀の少女はそよぐ風に白銀の髪をなびかせていた。 俺は昨夜から機を見計らっては繰り返した言葉をラウラに言う。「ディアナさんは現実主義者で、きれい事を並べ狭窄的視野に陥る事も無い。学園も生徒の事も考えてるし、実力は言うまでも無い。少し奔放なところが有るけれど、それを十二分に上回る人だ。だからラウラ。君も相応に敬意を払わないと駄目だ」「ストリングスの肩を随分持つのだな。奴の言葉を借りれば骨抜きにされたか」 ラウラは重傷だと言わんばかりに小さく溜息をつく。「完全な人って居ないし、そもそも組織運営ってそう言う物だろ。俺は世話になっているから肩を持つのは当然。あと人聞き悪い」「ならば尚更だな。教官が決断を下すまで私は時間を稼ぐ」「なんの決断だよ」「秘密だ」 またそれか、そうぼやきながら俺らは真耶さんの白いミニバンに乗り込んだ。喧嘩は駄目ですよと、真耶さんが涙目で言う。バタンとラウラが扉を閉めた。俺は後部座席だった。 エンジンが脈動し、くろがねの躯が息吹を取り戻した。 学園のゲートを潜り山の中を抜け、水平線に太陽が顔を出した頃、車は海岸線134号をひたすら西へ走っていた。顔を出したばかりの太陽が、道路に落ちるガードレールの影を長く伸ばす。早朝にもかかわらず一般乗用車がちらほら走っていた。 この道は一夏と共にカーチェイスをした道だ。あの頃の俺は一夏を盲信していたとは言え、随分無茶をしたものだと今になって思う。確か自動車に乗って……何故だろうかその時のイメージが朧気で良く思い出せない。どのような車種だっただろうか。そう、頭のあちらこちらに転がる破片をかき集めていた時、運転席の女性に話掛けられていたと感づいた。「真耶先生だと今までと変わりませんし、やっぱり真耶先輩が良いと思うんですよ。そう思いませんか蒼月君……って、もう蒼月先生って呼ばないと駄目ですねー」 俺は黒髪の、背の低い、眼鏡を掛けた、幼い顔の人をぼうっと見ていた。その女性と最初に会ったのは何時だっただろうか。確か、俺が学園で発見されて訓練を受け、暫く立った頃、黒と金の人が手が離せないとやってきたのがこの人だった。「どうかしましたか?」「いえ。何でもありません。申し訳ありません。もう一度いって頂けますか? 余所事を考えていました」 眼鏡越しの愛嬌の有る顔が鋭い物へと変わる。腫瘍を発見した医師か、手がかりを発見した刑事、どちらにせよ良いものでは無さそうだ。それにしてもどうした事だろうか。紡ぐ言葉が断片的だ。そして不思議な事にそれが妙に懐かしい。 競り合う相手も居ない赤信号で止まり、“私”を見据えるその人の目は真剣な物だった。どこか体調が悪いのか、そうその人が聞くのでまあまあですと言った。「山田真耶先生、青です」とラウラが促した。 ラウラが発したその言葉の意味するところは、その女性の名前だが、それが俺の中に上手く合致しない。山田という人は俺をちらと見た後、再びアクセルに足を乗せた。「みやはもう完全なのか」とラウラが聞くので“俺”は肯定の意を伝えた。----- 北緯34度36分。東経138度50分。伊豆半島最南端、石廊崎。 IS学園から道のり160km程。6時間ほど車に揺られてたどり着いたこの場所で、校外特別実習時間、別名臨海学校が実施される。各種装備の運用試験とそのデータ取りのためだ。1年生のみで構成され日程は3日間。隔絶されたアリーナではなく自然環境に於けるIS稼働実習と言う意味もある。 車が止まり降りた其処は絶景だった。見渡す海岸線に砂浜は無く絶壁で、強い風が吹いていた。打ち寄せる波は、音を立てながら弾け、飛沫を飛ばしていた。岩礁を取り巻く渦は、白く泡立っていた。 小さいカップケーキの様な切り立った島々が海原に浮かんでいた。岬の先に白い構造物が立っていた。ハイパーセンサー越しに見えるそれは石廊崎灯台だった。トイレットペーパーを縦に積み重ねて、コーンを置いた様なシンプルな形状をしていた。 たなびく髪を押さえながら「美しい所だな」とラウラが言った。俺は無言で頷いた。「行きますよ」と山田さんが言うので彼女の背中を追った。 ざくざくと木々に囲まれた砂利の細道を歩く。山田さんは時折強く吹く風に翻弄される裾を気にしていた。じきに見えてきたのは宿泊施設。木の柱に白い土壁。頭上に見えるは黒の亙屋根。奥ゆかしい、古風な木造風の建物だった。 ラウラは言葉を失っていた。眼は開き気味で口はへの字。よく分からない玩具を見付けた子供様にも見えるが、反応出来ないというのが実際の所だろう。カーキの軍服に入る皺も痛々しい。下見と言っても毎年使っている宿泊施設だというので、それこそ諸々の確認のみだと思っていたがこれは予想外だった。マッチ1本で消失しそうな勢いである。 ラウラと“私”は、宿の女将に挨拶する山田さんを尻目に、ただ唖然と見挙げていた。----- 壁をこつこつ叩くと表層の柔らかい感触がした。その奥に堅い感触があった。成る程ねと頷いた。そこは生徒が寝泊まりする予定の和風の一室だ。畳に和紙の様な手触りの壁。天井は木目調で、照明は流石に半導体タイプだった。部屋の奥はバルコニーになっていて海が一望出来た。「一見木造家屋に見えますが、最新素材と最新技術を取り入れた、陸の要塞なのです!」と鼻高々に語るのは山田さん。要塞は普通陸上だろうとツッコミを入れるラウラ。ひぅと生ぬるい風が吹いた。 構造材は腐食、剛性に優れた炭素鋼複合素材。壁には0.01ミリの鋼板を何重にも貼り合わせた積層板を入れ、耐衝撃耐熱のシートで覆われていた。屋外に面する箇所は耐候性耐火性……優れた塗料でコーティングされている。「ふむ。これならば重機関銃かRPG程度なら楽に耐えられるな」と部分展開させたハイパーセンサーで内部構造を見ているラウラが言う。私は壁に埋め込まれた“来客用の”ターミナルに手を当て、屋敷地下のメインフレームにアクセスし情報を読む。保安用の火災センサに入館者識別センサ、警備用の赤外線センサ、動体探知機。一通り揃ってるのを確認する。 背を向けて、窓の景色を見ている山田さんをちらと見ると、ラウラは程ほどにしておけと眼だけで言った。「でも長時間は無理だな」と私は手を下ろし振り向いた。「防御装備とはそう言う物だろう。守るだけでは勝てん」ラウラが何を今更と腕を組んでいた。 それはごもっともだと私は廊下に出た。廊下の天井に埋め込まれた半球型カメラを確認すると、みやに指示し意識内に周囲の地形を映し出した。データリンクしているラウラが背中から声を掛けてきた。「ベースキャンプ(宿)は岬に位置し、3方向は断崖絶壁で海に囲まれている。残りの北方向は山か。真、お前ならどう攻める?」「目標を一夏と俺の誘拐と想定すれば、複数のISによる電撃的な奇襲しか無いだろうな」 ここからIS学園まで直線距離で90km。音速のISなら5分足らずだ。こちらの戦力は常備戦力としてラウラと私の2機。予備として訓練機持ち出し分のIS、つまり1組2組副担任と3組4組担任の計4機。計6機で援軍が到達する7分も稼げば良い。「対地兵器、ミサイルによる飽和攻撃は多数の艦艇が必要だろうし、そんな戦力日本近海に近づいたら直ぐバレる。そもそも目標達成ができない」「残るは歩兵による地上戦力だが、ISなら発見も対処も容易か」「心配なのは内通者による破壊工作だけ」「身許確認は行ったそうだが」 と、廊下のど真ん中で立ち尽くすのはラウラと私。ラウラは腕を組んでむっすりと。私は右手を顔に添えて明後日を見ていた。ジャケットの左袖がひらひらと。「各部屋の前にセントリーガン(自立式機関銃)を設置したらどうだろう」と私が言う。「それは名案だ」とラウラがうんうん頷いた。「大却下です」と“真耶さん”が笑顔で怒っていた。----- 行き交う往来をぼんやりと見ながら“俺は”今朝見た夢の事を考えていた。一昨日は家族旅行の、昨日は学校の、今朝は日常の。徐々に思い出している。父、母、姉、友人、学校の先生。まだ断片的ではあるものの小学生程度までは明確に思い出していた。だが妙な事に、その記憶にはISもあの黒髪の血だらけの少女も出てこない。単にまだ思い出せていないのか、それとも。「よくわからない」と真顔で語りかけるのはラウラ。両手に持つのはレディース用水着。左手にセパレートタイプ。右手に持つのはワンピースタイプ。両方とも黒だった。どちらも相応に過激な物だった。 ラウラと臨海学校の準備をしに駅前のショッピングモールにやってきた。諸般の都合により結局前日である。俺の準備と言っても水着の確保なのだが、臨海学校中は警備と相成り海水浴に興じられる可能性はとても低く、俺らには不要だと言ったのだが部屋着すら無いと彼女が言うのでやってきた。着飾る事に興味を持ち始めたらしい。 彼女はカーキ色のパンツに長袖シャツ。軍服である。容姿も相まってギャラリーの注目を浴びていた。取り付けが甘かったのか、左の動かない医療用義手が妙に気に掛る。だから、「なんでも良いんじゃないか?」 と言ってみた。「随分扱いがぞんざいだな。他の娘に比べ、いくら何でも贔屓が過ぎる」 然も不機嫌そうに睨まれた。 ナノマシン事件から数日が経った。シャルに遠回しに聞いてみたところ、生徒に動揺は無く落ち着いているという。ただ静寐と一夏が最近よく行動を共にしている、と笑顔を陰らせて言っていた。よく分からないが俺のせいらしい。身に覚えが無いと言ったら、頬を抓られた。「ラウラは色白で華奢、プラチナブロンド……これなんかどう?」 俺が選んだのはオレンジ、レッド、ブルーといったカラフルな色彩で町の雑踏をイメージさせるボトムにフリルの付いた、ホルターネックのビキニ水着だった。「派手すぎないか?」「ラウラは小柄だし性格も静か、砂浜なら派手ぐらいが良いと思うぞ」「私はこれが気になるのだが」 と手に取るのは黒のトライアングルビキニだった。だったら初めからそれにするといい、と口に出すのをなんとか押し込んだ。去年卒業した先輩たちにこう言ってひどい目に遭ったのを思い出す。「それ、際どすぎないか?」「そうか?」「それが気に入ったのなら、上に何か羽織る物を推奨するよ」「男は露出が高い方が好みなのだろう?」「どうしてラウラは記憶の吸い出しに偏りがあるんだよ」 黒が良い、オレンジが良い。これが良いあれが良い。押し問答している時に投げられたのは諫めるような金の声。やれやれと詰め寄るのは黒の気配。振り向いた先に立っていたのはディアナさんと千冬さんだった。「貴方たち、もう少し人の目を考えなさい」とライトグレーのパンツにジャケットのディアナさんが言う。「何処かおかしいのですか?」とラウラが言う。「騒ぐな。注目を浴びている。あとTバックはやめろ。マセガキどもめ」と黒のスーツ姿の千冬さんが髪を掻き上げながら言った。 俺の選択ではありません、と弁明したが千冬さんに殴られた。-----「ストリングスはやはりGストリングスか?」とラウラが挑発するように言うとディアナさんは「帰ったら覚えていらっしゃい」と悔しそうだった。学園外で糸を使うと大事だ。 千冬さんは壁に背中を預け、腕を組む。遠巻きに2人を見て「私たちも買い出しだ」と言った。彼女の斜め前に立ち、そうですか、と俺は言う。 彼女の機嫌を確認すると、内心安堵した。視線を上げて2人を見る。賑やかに並ぶ色とりどりの水着の数々。ラウラが布面積が極小の水着を手に取ると、ディアナさんは慌てて取り上げた。どうしてこんな過激な物が置いてるのかと、憤慨している。色々言いつつも彼女は面倒見が良い。ぼんやりとしていると千冬さんが話し掛けてきた。「先程、鷹月と一夏を見かけた」「そうですか」「楽しくやっているようだった」「それは何よりです」 千冬さんはちらと俺を見た。「逃した魚は大きいかも知れんぞ」「大きいでしょう。確実に」 千冬さんは組んだ腕にとんとんとリズムを刻んでいる。「一夏との事は済まない」「千冬さんが気にする事ではありません。避けては通れ無い事でした」 彼女は大きな溜息をついた。「もう少し年相応にしたらどうだ。可愛げが無い」「先生、警備主任、寮長、ブリュンヒルデに姉。千冬さんも年の割には出来すぎです」「大きなお世話だ」「そろそろ誰かに任せたらどうですか」「だまれ」「責任感が強いのは知っていますがそれだと下が育ちませんよ」「黙れと言っている。人の事を言えるのか、お前は」「そう見えますか? これでもペースは考えてます」「見えるな。寂しいと顔に書いてあるぞ」「そうですね、最近の俺は誤魔化す事だけ上手くなります」「……エマニュエル・ブルワゴンのことか」 雑踏がいやに耳に付いた。血と肉の臭いが纏わり付く。すまんと小さくその人が言った時、目の前を年若い夫婦が横切った。間にいる子供、小さな女の子が両親の手にぶら下がり笑っていた。千冬さんは、できたての家族を見送ると“ところで”と切り出した。「はい?」と何時もと異なる感覚に思わず声が裏返る。「蒼月、オルコットにアレを漏らしたそうだな」察しが付き思わず明後日の方向を見た。ちくちくと視線が痛い。「あのオルコットの性格が激変したのはそれだったのか」「昔の事です」「お前の秘密は小娘には重すぎる」「分かっています」「他には?」「言っていません」「本当か?」「本当です」「篠ノ之は? 凰は? ディマは? ラウラは? 上級生は?」「言っていません。千冬さんに嘘はつきませんよ」「どうだかな。大体、真、お前は昔から―」「……え?」 目眩がした。一言聞き返すのが、やっとだった。世界が歪む。慌てて口を紡ぐと彼女は眼を伏せ、何かを言い、雑踏に消えていった。俺は呆然と見送った。 おかしい。変だ。 あの人が真と呼んだのは初めてだ。“蒼月”はディアナさんが付けた。“真”は千冬さんが付けた。公私に厳密な彼女とは言え、プライベートな時間でも彼女がそう呼んだ記憶が無い……呼びたくなかった? 彼女は俺を知っている? 待て待て、ディアナさんが言った“あの人” 彼女は俺があの人に似ていると言ったか? 右から左へ、左から右へ、老人、大人、子供、行き交う往来。壁に掛る時計の針が止まり、逆に回り始めた。 ぎちり。 “私”は割れんばかりの頭痛に襲われた。世界が黒く塗りつぶされる。足下が崩れ落ちた。墜ちた。堕ちた。血だらけの黒髪の少女。血に染まる金髪の女。強い光。爪の先までしびれるような衝撃。手から銃が消える。暗がりに浮かぶ泡と泡が見える。身体が消え、心が縮む。そして再び現れた。 気がついた時にはベンチに寝かされ、ラウラに看病されていた。 かって所属していた2組のショートカットの快活な、鈴と仲の良い少女が誰か思い出せない、そう気づいたのはその日の夜だった。----- 本音は歩いていた。 音も無く1人で歩いていた。 かって側に居た2人の影を時々見つめていた。 静寐はもう戻れない、戻らないと振り返らなかった。 ただ一つ残った物は決して離すまいと強く握っていた。 箒は足掻いていた。 歩むべき道が見つからないと嘆いていた。 ディアナさんは泣いていた。 だが決して歩みを止めなかった。 千冬さんは立ち止まっていた。 どの道に進んでも何かを失ってしまうと恐れていた。 立ち尽くす一夏は何かを持っていた。 眩しい何かを持っていた。 それは御手からこぼれ落ち掛けていた。 鏡に映る俺の姿は霞んで見えない。--------------------------------------------------------------------------------がんばってクリスマスに投下。ハラキリメリークリスマス2012/12/24