日常編 胎動-------------------------------------------------------------------------------- がらりと扉が開けば、現われたのはディアナであった。機嫌が良いとも不機嫌とも、どのようにでも取れる表情と気配。千冬は一瞥すると書類に向き直った。様子を覗う2人の副担任に目もくれず、ディアナは千冬の左席にすとんと腰掛けた。 午後10時、未だ職員室には明かりが灯り人影が動いていた。見渡せば、ある教師は席でキーを打ち、ある教師たちはディスプレイを囲み話し合っている。彼女たちは皆真剣な面持ちで、明日の対応に追われているのであった。「容体は」と千冬は書類を捲る。「もう部屋に戻ったわ」ディアナは端末を立ち上げた。 本日の夕刻、糸のコツを教わり終わった真は医務室に運び込まれた。打撲、擦過傷、切り傷、内出血、満身創痍であった。勿論ディアナの静かに燃えさかる情熱的な訓練の結果である。動けない患者を引き取りに来いと医師に言われ、寮に放り込んできた。「やり過ぎだ」「良い薬よ。あんな別れ方、女を馬鹿にしてるわ」 融通が利くが情動的、良くも悪くも私情を挟むディアナがセシリアとの一件を見逃せるはずが無く、訓練と言う名の教育を行ったのだった。 ただ肉体的痛覚の捉え方が変化しつつある真に対し、その効果がどれ程のものか疑わざるを得ない。ディアナに担がれた彼は息も切れ切れに「またお願いします」と笑いながら言い切ったのである。 不安と苛立ち、目を細め眉を寄せる。碧い瞳は氷の刃のようである。ガタガタとキーを打つ音にも彼女の心象が上乗せされ、今にも切り刻まれそうだった。(あぁもう、苛立たしい。これ以上強くすると怪我では済まないし、本気で睨み上げても平然としているし―)「むかっ腹たっちゃうわ」 美人が怒ると箔が付く、身を以て体験している1組2組の副担任は恐れ戦き注意を向けないよう背を丸めていた。 そんなディアナに千冬は言う。「どう思う?」「安定している様に見える。けれど千冬の言うとおりなら安心は出来ないわね。一度入った亀裂は直しても元には戻らないから」「織斑には目を離すなと伝えておいたが、他に何かあるか?」「良いと思うわ、取りあえず……ねぇ、千代実、真耶」「「ひゃい!」」鳥肌が走らんばかりに走り抜ける寒気、2人の担任に向かい合う2人の副担任は思わず声を裏返した。「2人とも特定の人居ないわよね、年下とかどうかしら?」とディアナが言うと、副担任2人は何のことでしょうと疑問符を浮かべ、質が悪いと千冬は窘めた。 冗談よと、深く溜息をつきディアナは立ち上がる。残りの3人がそれに続き会議室に足を向けた。彼女らの手にしていた書類には“極秘要人警護プラン”と書かれていた。----- 真はその日朝早く起きた。亜麻色のジャケット、黒のTシャツ、ダメージデニム、ダークブラウンのトレッキングブーツ。目の覚めるような晴天で、学園を出て、電車に1時間ほど乗り、江ノ島にたどり着いた。その場所に強い理由が有った訳ではない。学園から遠くなく近くなく、何か目印になるような場所、地図を適当に流していたらその場所が適当と思っただけだった。 6月3週目ともなると流石に暑い。夏物とは言えジャケットは失策だったか、と彼は後悔し、まだ8時にも拘わらず強い日差しを落とす太陽を恨めしそうに見上げた。「この辺もだいぶん変わったなー、ここにコンビニなんて無かったんだぜ」 いけしゃあしゃあと暢気に解説する一夏の声を聞いて、恨めしそうに顔をしかめた。 真がここに来たのは観光では無い。昨夜シャルルから聞いた彼を取り巻く状況、それを肌で知るためである。学園から離れれば何らかのアクションがあるかもしれない、それは危険なことでもあったが、学園に籠もっていてはそれこそ何も見えない。何も見えなければ心構えすらおぼつかないと、彼は打って出る事にした。 勿論彼は1人で来るつもりだった。それが、どういう訳か鎌倉駅で一夏と出くわしたのである。当然誰にも言っていない。一夏は襟なし白の半袖シャツ、ブルーデニムにスニーカー。「俺、昔この辺住んでたんだよ、知り合いが居てさ挨拶に行くところだったんだ」とは一夏である。(幼なじみの箒がむかし鎌倉に住んでいたと言っていた、おかしくは無いが……)と真は思い「ならなんで付いてくる? その知り合いの所へ行けよ」と辛抱強く言う。「千冬ねぇから目を離すなって言われてるんだよ」「四六時中って訳じゃ無いだろ……」 何食わぬ顔で平然と市街地を出歩く一夏の感覚が分からない、自分がどういう人間かこいつは分かっていない、と真は苦悩した。「帰れ」「却下」「何で偉そうなんだよ! この馬鹿!」「ちょっと目を離すと直ぐトラブル起こすじゃねーか! この阿保!」「何時! 何処で! 誰がトラブル起こした!?」「箒、セシリア、鈴、静寐、本音、ティナ、シャル、リーブス先生に千冬ねぇ、あと先輩ズ」「……もぅ良い、わかった」 指折り数える一夏にぐうの音も出ない真だった。----- 海岸線に大きくそびえる岩山を、分け入るようにゆっくり歩く。しばらく進むと手頃な出っ張りがあったのでそこに腰掛け、コンビニで買ったペットボトルの水を飲み、あんパンを咥えた。正面には青い空と大海原、水平線。少し見下ろすと潮が引いて露わになった岩場が見える。所々あるくぼみには海の水が溜まり、茶色の岩場がきらきらと光を放っていた。押し寄せた波が岩にぶつかると跳ね返り渦を巻いている。 よく晴れた日曜の午前9時、既に多くの家族連れとカップルが、打ち寄せ泡立つ波を楽しんでいる。家族の笑い声が聞こえた。「平和だな」一夏が言った。「そうだな」私は答えた。 笑顔で子供の手を引く両親と、手を繋ぐ恋人たち、学生服もちらほら見える。波の音、陽の光、海の匂い、人の笑い声、確実に其処にある現実が、その風景が、私にはとても遠い物に見えた。恐らく彼らにとってISはTV画面の向こう側なのだろう。弾丸も刃も彼らには意味の無い無縁の物。ここから三浦半島の先端、IS学園まで道のり30km、どこにその境があるのか私は知りたくなった。 ぼんやり見ていると右隣から一夏の声が聞こえた。メロンパンを食いながら話すので少し聞きづらい。「なーまことー」「なんだ」「お前、ここに何しに来たんだ?」「ナンパ」「嘘つきやがれ」「俺だって若者らしいこと位考える」「うわ、その発言からしてオヤジくせぇ」「……ハタくぞ」 周囲を探ればそれらしい気配は感じない。まだ動きが無いのか、遠いのか、心配性のデュノアの事だ、大袈裟に言ったのかもしれない。 取り越し苦労であればそれが一番良い、打ち寄せる波の音に混じって、少女の叫び声、誰かを呼び止めるような声の後、一つ間の抜けた波の音が聞こえた。視線を走らせれば、亜麻色の長い髪の少女が足を取られ、水たまりで水浴びをしていた。彼女の友人だろうか、ヒトデを手にした黒髪ポニーテールの少女が不思議そうな顔で話し掛けている。 ずどんと、遠くで一つ大きな波の音が響き渡る。その2人の少女をじっと見ていた一夏が意外なことを言った。「俺、黒髪の娘な」「なにが?」「ナンパ」「……メロンパン、痛んでたのか?」 言い出しておいてそれは無い、一夏はそう非難の眼を向けていた。「なら、どっちが良い?」 問い詰められた私は黒髪の娘をしばらく見つめると、目をそらし一夏の肩越しに見えるごつごつとした岩場をじっと見つめた。その小さな踊り場はとうてい歩いて行けるところでは無かった。「一夏、済まない。その手の話はしばらく遠慮してくれ」「……まぁ良いけどよ、真だし」 こいつは空になったパンの袋とペットボトルを私の手から取り上げると、ビニール袋にまとめた。立ち去る2人の少女を見送ってから、私たちも行くかと立ち上がった。「真」「なんだ」「俺の後ろに何か見えたのか?」「いや、誰も居ない」 人々の笑い声は波音に掻き消され聞こえなくなった。ただ急に堅くなった一夏の気配だけは良く覚えている。----- 木々に囲まれた石畳の道、竹林に悠然と構える古の寺院。門柱の色褪せた朱の色は永く刻まれた記憶の様に見えた。真は古都という記憶の匂いに引かれ、鎌倉市内の寺院を急遽見物する事にした。 爺臭いとぼやく一夏にいつか買った伊達眼鏡を渡し、鍔付き帽子を買って被らせた。格好悪いと不平顔を他所に真はすたすたと歩く。階段、坂道を登っては降り、上がっては下り。人混みには閉口しつつ、あちらこちら見て回る。 汗を拭い水を飲む。コロッケ屋で昼飯を済ませ、今日アリーナが全閉鎖されている理由に首を傾げつつ、大仏に手を合わせたら、既に日は傾いていた。「包帯巻き直してくる」「おぅ」 収まりが悪いのであろう、ジャケットの下に巻かれている包帯の緩みを気にして真は夕闇に消えていった。 不意に訪れた空白の時間、一夏は崖立つ小広場の縁に立ち、手すりにも垂れかけた。木々の隙間から夜景になりつつある市街を見下ろし、1人物憂げに耽る。彼の心中に横たわるのは後悔、彼自身が良かれと思って行ったことだった。 セシリアとの一件以来、真は何かが変わった。第2アリーナでの記憶喪失も気になるが、それ以上に気に掛るのが少女たちとの間に置く距離である。親しい少女ほどその距離は遠く、その度に彼は怯えを含ませて誰も居ない空間を見つめていた。(真、お前には誰が見えてる?) これでは元も子もない、と一夏は深い溜息をつく。彼がコーヒーでも飲むかと財布に手を掛け振り向いたのと、怯え逃げ出す様に坂道を駆け下りる、小さな女の子を見かけたのは同時だった。----- 一つ捨てたら何かが欠けた。 欠けた身体は軽くなり。 軽い心は薄くなる。 身体を縛り絡まる糸は重く息苦しい。 全てを捨てる、心の奥底からわき上がる甘美な衝動。 解き放たれた俺が俺を見る。 痛みは俺を形作る枷だった。 壁に書かれた落書きと、匂いと汚れに辟易しながら、のそりのそりと包帯を巻き直した。その2畳足らずの個室から出て、鏡に向かい左頬の絆創膏を貼り直す。自分の姿を一瞥し、時計を見れば17時を過ぎていた。「そろそろ頃合いか」私は独りごちた。 寺院を見学する途中一夏から聞いた事実に私は察しを付けていた。今日一日、アリーナが全閉鎖、訓練機の全てが教師に予約されている。教師たちの張り詰めた雰囲気に加え、通達は私が訓練中だった前日の午後6時頃。恐らく内密の要人視察だろう。 その考えに至ったとき私は帰宅を遅らせる事にした。無用なトラブルは避ける為である。一夏には悲観過ぎだと笑われたが、用心に越したことは無い。「一夏は、楽観的すぎるよな」 鏡の目付きの悪い男にそう問い掛けた。次はデュノアも連れてこよう。あの用心深い少女がいれば心強い、なにより2人居れば一夏から目を離さずに済む。そう思いながら聞いた音は観光客の悲鳴と切り裂くブレーキの音だった。 二つ三つの呼吸の後、蛇口から一つ滴った。言いしれぬ不安に駆られ公衆トイレから飛び出した。居るべき筈の場所に一夏が居なかった。周囲を見渡すが見当たらず、代わりに何故か慌ただしい。「高校生風の男の子が張り付いて―」「―外車が坂を下りていった」 断片的に聞こえる居合わせた観光客の声、柵越しの崖下から聞こえるブレーキの音。得てして当たる物である嫌な予感、駆け出し柵から身を乗り出した。夕闇の木々の隙間、その中に見た物は、急スピードで走り去る自動車の、天井にしがみつく子供の姿だった。何度も見た強い意志を宿す黒髪の少年。「あの馬鹿―」----- その信じたくない光景は胸のみやを刺激した。光を放つペンダントを慌てて握り、押さえつける。 最優先は自動車にしがみつく、一夏の安全確保だった。タクシーは影すらなく、鎌倉駅まで歩く時間は無い。私は自動車の走り去る方向を確認すると、背が高くスタイルの良い、髪をうなじで二つに結い下ろした地元風の少女に110番を依頼し、路肩に止めてある小型の2シーター・オープン・スポーツカーに飛び乗った。 背中にあるエンジンはまだ暖かい。ハンドルの右側をまさぐるも、キーシリンダーにキーは無く、助手席にある収納、グローブボックスは無くアルミ製の小さい物置きに、数珠が一つ転がっているだけだった。 強引に説得するつもりの、鍵を持っているだろう持ち主は姿形も見えない。イモビライザー(盗難防止)付きキーロック、ハリウッド映画のように短絡させてエンジンを掛けることは不可能だ。 やむを得ない。苛立ちを込めてキーシリンダーを叩いたのは、胸元のみやに意識を込めるより僅かに早かった。 シルバー・メタリックの車体に小刻みな振動が響く。光が灯ったインパネは、アスファルトを駆る機械に息吹が戻ったと告げていた―エンジンが動いている。戸惑いつつも4輪の彼女に一言詫びて、ブレーキ解除、ローギア、アクセルを踏み込んだ。 背中のエンジンが咆吼を上げ、リヤタイヤが小さく鳴いた。ルームミラーに飛び出し騒ぎ立てる僧侶が映ったのは、セカンドギアに入れた頃だった。済まないと心で詫びてハンドルを切った。-----「巡査長、あの白のBMW。指令にあった奴ではありませんか?」 巡回中のパトカーがそのスポーツセダンを発見したのは鎌倉から134号線を東へ2km程進んだ大崎公園付近であった。彼らが受け取った指令は“白のスポーツセダンの天井に未成年が張り付いている、適宜対応せよ” 曖昧な指令は適当にやり過ごすに限る、海岸線を暴走していたシルバー・メタリックを追跡していたところ発見に至り、助手席の巡査長は思わず呻いた。近づいて目を懲らしてみると屋根に人形のような物が張り付いている。 彼は「どうする?」と自分に小さく呟いた。日本は減点法だ、危険を冒して点数を稼ぐ必要は無い、彼がこう考えたとて攻められるものでは無かろうが、ハンドルを握る若い巡査はあざとく聞きつけてこう言った「本官はこういうのに憧れておりました!」巡査には聞いていない、その言葉はシートに押さえつけられる程の加速と高鳴るエンジンの音に掻き消された。「そこの白いBMW止まりなさい! ついでにシルバーも止まりなさい! 止まれって言ってるだろ! この犯罪者共!」 警告が風にもまれて、もごもごと響く。片側一車線の道路で、対向車線にはみ出し追い越し逃走を続ける白のBMWを、真は寿命が縮まる思いで追跡していた。一夏がへばりつくBMWが事故ろう物なら彼は投げ出される。その白い逃走車は左右に車体を振りながら、振り落とさんばかりに暴走していた。一夏とて体力は無制限では無い、真は冷や汗を流し不快なほど乾いた口と格闘していた。(対向車のタイミング図って、後ろのパトカーに逃走車の注意を寄せる、その隙に横付けして一夏を回収……できるか?) 彼は腹を括ると、ハイビームを1回叩く。ルームミラー越しに逃走車の運転手と眼が合った。対向車線の黒のワンボックスをやり過ごし、シフトダウン。アクセルを踏み込み対向車線に進入、逃走車の横に付けると、パトカーが加速し逃走車の後ろに食いついた。 真がみた車内には浅黒い肌と黒髪の、外国人風3名が乗っていた。彼らは横の真と後ろのパトカーをどちらを先に対応するか、戸惑いを見せる。逃走車が一瞬温和しくなった。「一夏! 飛び移れ!」 風で眼が開けていられない一夏は、薄目で真の姿を確認すると、僅かな戸惑いの後その身を宙に投げ出した。真は一夏の首根っこを掴み、頭から助手席に突っ込ませる。 急ブレーキの音と対向車のクラクション、 ABS(アンチロック・ブレーキ・システム)が作動し、タイヤのグリップが限界だと悲鳴を上げる、真は後続車を確認し、パトカーの後ろに回り込んだ。 一夏が怒鳴る。「真! あの自動車追え!」 真は怒鳴り返した。「この馬鹿! 無茶苦茶過ぎる! 怪我じゃ済まないぞ!」「女の子が誘拐されてるんだよ!」「いい加減にしろ! 自分が何したか理解してないのか!」「アイツら銃持ってやがる!」「それこそ警察の仕ご……銃?」 真がパトカー1台越しに感じたそれは、よく知った物だった。ただそれは歪で、細く、頼りない殺意を伴った意識の線。 光っては消え光っては消え、閃光と断続的な音が響く。先行するパトカーは小刻みに揺れたあと大きく揺らぎ、タイヤの悲鳴と共に目前に迫ってきた。 真はとっさに道路脇のパーキングエリアに入り込む。クラクションを鳴らし歩行者の隙間を走り抜けた。色黒金髪の、若い男の罵声を浴びて、本線に戻ったときにはパトカーは見えなくなっていた。後方で大きな音がした。 星空を背景に灯のともった街灯が流れゆく。あらゆる物を吸い込もうとする夜の海、沿って走る海岸道路は、この世と虚無の底を隔てているようにも見えた。 幻想的なその世界でハンドルを握る真は茫然自失の感である。「……あさるとらいふる?」 ひっくり返った一夏は言う。「AK-47だろ?」「違う、M4-A1カービン……冗談じゃ無い!」「何やってるんだよ! 追いかけるんだよ!」 ブレーキを踏み減速する真を一夏は蹴飛ばした。「馬鹿たれ! 尚更大却下だ! 身の程を弁えろこの馬鹿!」「その為の日々の訓練だろうが! この阿保!」「大概にしろ! 世の中そんな簡単じゃ無いんだよ! 子供が出しゃばる話じゃ無い!」「あの子に後があるかなんて分からないだろうが!!」 真摯な視線を向ける一夏に真は押し黙り、(たぶん車両窃盗もとい自動車無断借用、ちょこっと速度超過、なんちゃって無免許運転、危険行為みたいな、権限の無い違法追跡かもしれない……) 指折り数えて、推し量るは少女の命。「覚えておけよ馬鹿一夏! 言いたいこと山ほどあるからな!」「聞いてやるよ! 後でな!」 シフトアップ、涙目でアクセルを踏み込んだ。----- トンネルを幾つか通り抜け、134号線から311号線に入ると、空気が暖かいものからひんやりとした物へと変わっていた。海は消え、代わりに現われた木々の中を走る。 静かに流れる住宅に混じって、ぽつりぽつりと畑も見えた。片道一車線の国道。逃走車を前方約20mで維持。市街地での発砲を防ぐ為、連中を刺激しない距離の一歩外である。対向車が走り抜け、ヘッドライトが左から右へとガードレールをなぞる。 妙だ。「外国人の10歳ぐらいの女の子なんだよ」 一夏の証言が私を混乱させた。一夏の言うとおり誘拐であれば不可解な点が多い。高級外国車(BMW)に、日本に持ち込むだけでも困難なアサルトライフル。ここまでの装備を用意する連中が、一般外国人を誘拐するとは考えにくい。恐らく相応の身分の子供だろう。 そうすると新たな疑問がわく。「連中の様子どうだった?」「よくわかんね、ただどうしたら良いのかって感じで狼狽えてた」 装備の割に計画がお粗末だ。誘拐した子供に一時的とはいえ逃げられる、何より銃器の扱いを知らない。連中はストックを脇で挟まず、アサルトライフルを腕だけで支え撃っていた、素人でも知っていそうな事である。「なぁ真、なんかおかしくないか?」「あぁ、静かすぎる」 パトカーはあの運の悪い一台のみだ。日本の国内でアサルトライフルを用いパトカーに向けて発砲。道路封鎖、ヘリ、特殊部隊が動員されていてもおかしくは無い。一般道を100km以上で走っているが、サイレン1つ聞こえない。「また青信号だぜ」「分かってる」 一夏を回収してから8km程走っているが一度も信号に引っかかっていない。日曜日の午後6時、地方道路とはいえ一般車両が少なすぎる。怪しいというレベルでは無い。 まるで私たちを誘き出そうと言わんばかりであるが、一夏か私が目的ならこんな遠回りな事はしまい。襲う機会なら今日一日腐るほど有った。「ラジオは?」「……なにも入らないぜ。ノイズだけだ」 世間が見えて無いであろう、騒がしい重低音を漏らす黒のSUVを追い越すと、フロントウィンドウ越しに逗葉新道の料金所が見えた。通行止めになっているゲートを白いBMWは減速せず突入し、進入防止用のバーがへし折れ宙に舞う。時速50km以上で通り過ぎた料金所の中年男性は怯えたようにしゃがみ込んでいた。「一夏」「なんだよ」「トンネルを抜けたら直ぐ逗子インターチェンジだ。もし連中が横浜横須賀道路を衣笠方面に向かったら速攻しかけるぞ、準備しとけ」 いずれにせよ誘拐された子供には私たちしか居ない。もはや賭を降りることは出来なかった。----- 料金所を突破すると右へハンドルを切った。次に左、今度は右へとカーブを走り抜ける。道を照らす電灯は青白く幽かに灯る。これから向かう道の先はただ暗く、黄泉路に続いているように見えた。ただ2つのエンジン音だけが響き渡っていた。 吹き抜ける風に髪をなびかせて、興奮も緊張も微塵も感じさせない助手席の一夏が叫ぶ。「で、どうするんだよ?!」「横横道本線と合流したら直ぐ飛び移れ! 子供をかっさらったらこっちに飛び戻る! 質問は?!」「連中のライフルはどうするんだ!?」 クラッチを切ってギアを4速に、アクセルを踏む。右舷に見える本線がじわりじわりと近づく中、私は左脇からそれを取り出した。「こっちにもある」「……この阿保! このくそ暑いのにジャケット着ていると思ったらそんなもん持ち出してたのかよ!?」 眼を剥いた一夏の視線の先、私の右手には“パイソン357マグナム”と刻まれた回転式拳銃が握られていた。「どうする一夏?! 止めるなら今だぞ?!」「言わせるんじゃねぇ! 恥ずかしい!!」「上等!」 衣笠方面のその先にはIS学園がある。それは三浦半島の先端、つまり行き止まりと言うことだ。この方向に進んだ時点で連中の目的が逃亡でも誘拐でも無いと分かった。 十中八九この先に罠がある。仲間か仕掛けか分からないが連中もその場所を心待ちにしているはずだ。ならばその裏をかく。本線合流直後の強襲、即時離脱。 強襲を受け慌てた素人は自己保身に走る。人質を忘れた誘拐犯は慌てて銃を取り出しこちらに向けるだろう。その間に銃を無力化し、一夏に取り付かせる。めちゃくちゃだ、無茶振りにも程がある。 だが何とかなる、そう確信を持てるから不思議だ。「一夏! 終わったら飯奢れ!」「なんか言ったか?!」「わざとやってるだろこの野郎!」 アクセルを踏み込み加速。目の前に白いBMWが迫る。時速140km、距離20m。1発目、窓から上半身を突き出している右側後部座席。男のライフルを右手ごと撃ち抜いた。苦悶の表情で天井にへばりつく。 再加速、車線変更し左舷から近づいた、距離10m。助手席の男がサブマシンガンを持ち出した。舌打ちし急減速。十数発の9mm拳銃弾を回避。車線を押さえられる。 体勢を立て直し一度離れる、そう言う前に一夏はその身を投げ出していた。 この表現は正しくない。気配の爆発的な噴流のあと一夏は跳躍していた。狙っていたであろう、併走するトラックの荷台側面を蹴り抜き、5m程上空から白いBMWに襲いかかる―三角飛び。お前も織斑なんだな、呆けた助手席のサブマシンガンを左手ごと撃ち抜いた、2発目。 一夏が天井に取り付き、白い車体が大きく揺らぐ。隙を突き、加速。一夏が開けた後部座席左側の扉を、はね飛ばした。乗り込んだ一夏を確認すると左舷に車体を横づける。 銃を構え照準越しに見た光景は、後部座席でもみ合う一夏に、運転席の男が拳銃を向けるところだった。“がちり” 何かを引き起こすような、それとも落とすような、妙な音が聞こえた。遠くから聞こえたようでもあったし、耳元から聞こえたようでもあった。ふと気がつくと世界から色が消えていた。聞こえるのはただ白い車の中で打ち鳴らす5つの心の音。道を照らす灯火はゆっくりと歩み始め、車体に切り裂かれた木の葉は裏、表、うら、おもて、ゆらりゆらりと宙を漂う。地を蹴る車輪は風車のようにごぅんごぅんと風を切っていた。 身体が向けた照準は。 奥底の脳髄に突きつけた。 全てが止まった世界の中。 ただ引き金を引く。 閃光と共に撃ち出した3発目。 外した。 風を切る音、頭上の蒼い月、黄色いヘッドライト、世界に色が戻る。運転手の拳銃ははじき飛ばされ、空に舞っていた。5mに満たない、絶対の自信があった距離を外した。この事実に打ちのめされる間もなく、白いBMWは大きく揺らぎ横転。白い巨躯がアスファルト上を擦り、走り、火花が飛び散る。 車体を蹴り抜き、後部座席から飛び出した一夏を目に捕え、ハンドルを切り、手を伸ばして助手席に落としこんだ。軽い衝撃が車体を襲いハンドルを押さえつける。 私は叫んだ。「子供は!?」 一夏は答えた。「無事だ!」「馬鹿は!?」「くそったれ!」 私はルームミラーで後方を確認すると速度を落とした。一夏の両手に抱かれる長い金髪と碧い眼の、白いレースであしらわれた純白ドレス姿の女の子は何が起こったのか分からずきょとんとしていた。安堵の深い溜息が出る。「真、お前無茶しすぎだぜ~」「一夏が言うな、本当に怪我は無いんだな?」「無事だ、この子も俺も傷一つ無い」「なら帰るぞ、今日は無茶しすぎだ」 もうLukが尽きた、そう付け加えると助手席の一夏は、満足そうに小さく1回だけ、笑った。----- 雲の隙間から顔を出す月の下、夜の高速道路をただ走る。ゆらゆらと動くインパネの針は、すすり泣くか細い声に呼応しているかのようだった。慰めているのか、もしくはもらい泣きかもしれない。1.8リッター・スーパーチャージャーのこの女性が涙もろい、そう考えたら少しおかしくなった。「お嬢様。そろそろお名前を是非―」「こっち向くんじゃねぇ、この子が怯えてるだろ」「いい加減にしないと本気で泣くからな! この野郎!」 一夏に抱かれ、すすり泣く小さい少女を見て溜息をつく。この子を奪還したのは良いものの、悩ましいのはこれからである。どうにかして学園に戻り、しかるべき筋でこの子を家族の元に返さなくてはならない。だが、その学園に戻る手段が困難を極める。 このまま進めば罠、別の追っ手を考えると逆走も危険、車を放棄し、徒歩も考えたが小さい子供を連れて夜の山中を歩くのは危険すぎた。「一夏、やはり横須賀インターで降りよう」「横須賀PAで学園に電話ってのは?」「交通管制システムにハッキング、警察に影響を与える連中だ。危険すぎるし逃げ道が無い」「やっぱりまっすぐ帰るのは難しいか」「危険はあるが直進よりはましだろ。それに在日米軍の目の前だ、連中もおおっぴらには行動出来ないはず。どこかで夜明けを待って、車を変えて学園に戻る」 済まないとシルバー・メタリックの彼女に一言詫びた。「なぁ真」「なんだ」「今更だけど、この自動車は?」「ミッドシップ・1.8リッター・スーパーチャージャー“ロータス・エリーゼS”」「そうじゃねぇ、どこから持って来やがった。つか、お前なんで自動車運転できるんだよ?」 「後で一語一句一つも漏らさず、懇切丁寧に説明してやる……」誰のせいだとジト眼で睨み「彼女に協力して貰った」ハンドルをぽんと一つ叩いた。「まぁ良いけどよ、助かったし。それにしても節操ねぇな。その内みやに刺されるぜ?」「……ISと自動車は違うし」 首に巻かれたネックレス、重く感じたのは偶々だ。「お嬢様系と無表情系は違う? いや、みやは差し詰め幼なじみ系か?」「みやは物わかりが……一夏、シートベルト閉めろ」「誤魔化すんじゃねぇ」と疑う一夏に、銃を取り出し私はこう言った。「ah」「新手だ」「「……あ?」」一夏と間抜けな声が重なった。今まで目すら合わせようとしなかったその子をじっと見る。右手を右に動かすと、碧い小さな目も右に動いた。左に動かすとやっぱり左に動いた。くるくると回してみる。雪のような小さな顔がくるくると動いた。あ、と小さく囁いたのはこの子らしい。その子の碧い眼は銃を見つめていた、少し驚いた。「この子、銃好きなのか?」一夏は誰かを思い浮かべる様に言うと、私は「さぁな」と振り返り後方の白い自動車に照準を合わせた。 今度は外さない、全神経を運転手の眉間に向ける。距離50m。エンジン音を掻き鳴らし迫り来るその新手は、私が引き金を引く前に、光弾に撃ち抜かれ、眩い光となってこの世から消え失せた。車体を揺るがす爆発音と焼き付けを起こさんばかりの閃光、熱波が極短時間遅れてやってくる。光で眩む世界、月夜に響き渡るのは、タービンを彷彿とさせる甲高い機動音だった。「インフィニット・ストラトス……?」 そう声を震わせて呟いたのは、私だったかもしれないし一夏だったかもしれない。いずれにせよ、まだ終わっていない。もしくは既に始まっていた、そう言う事だった。---------------------------------------------------------------------------フィクションです、念のため。次回“襲撃”2012/08/30