分岐推奨BGM:「Ending Theme ~中国~12億人の改革開放~」 管野よう子-------------------------------------------------------------------------------- 第3アリーナの第2ピットから覗く空には、分厚い雲がコンクリートの様に塗りたくられていた。梅雨は滅多に晴れず長続きせず、ひとたび曇れば湿った空気に纏わり付かれ、気が滅入るだけである。 写真にしろ、絵画にしろ、詩にしろ、梅雨を扱った作品を見れば、作者の苦労が忍ばれてならない。きっと作者は纏わり付く湿気や滴る雨粒と、必死に戦いながら作品をこしらえたのだ。我々は最大限の敬意を払うべきである。その苦労を手にとって軽々しく、やれ美しい、やれ素晴らしいと暢気に評してはならないのだ。 藍色の髪の少女を思い浮かべてはそんな事を考えた。 振り返りISベッドに鎮座する我が愛機。整備課第4グループの先輩方々が、凜と響き渡る号令に応じて、みやに近づいては離れ、タブレットを持っては工具やら測定器を手に右へ左へに動いている。 号令を出すのは虚さんであり、コックピットに頭から入り込み、作業をしているのは薫子であった。対抗戦以来週1ペースだった定期点検は週2になっていた。張り詰める彼女たちの雰囲気に、隣の一夏も気配鋭く一瞥する。「やっぱりあれか?」と壁にもたれ腕を組む一夏は言った。「だろうな」と私は答えた。 対抗戦でみやが行ったバーニアの臨界加速(リミッター解除)、それが彼女らに発覚して以来この調子であった。そう易々と解除できるリミッターには意味が無い。学園内でそのパスコードを知るものはLv4以上の権限を持つ教師か、整備課主席の虚さんのみである。何より機体を預かり、その責を負う彼女らにとって看過できることでは無いのだろう。なぜ解除されたのか、その解明に躍起なのであった。「もう1つの方はどうなんだよ」耳そばだてて言う一夏に私は周囲の気配を探る。「それは存在自体無かった事になってる。迂闊に言うと拘束されるぞ」みやが行ったバーニア修復は秘匿Lv5に設定されていた。バーニア修復後リミッター解除で再度破損したため虚さんらに知られてはいない。「真は機械と相性が良かったな……理由知ってるのか?」「よく分からん。いずれにせよ、みや(ISコア)が行った以上解明は無理だろう。出来るとしたら箒のねーさんだけだ」 私が意図的に壊したメモリーカードは直る事無く机の中に眠っている。 タブレットを見る虚さんの側には本音が立っていた。本音は数日前から整備士見習いのような事をやり始めたらしい。放課後にはハンガー区画に赴いて、薫子に怒られているそうである。勿論出入りという意味ではなく、整備士としてだった。 私は虚さんと本音の布仏姉妹を見た。そして箒の様子を一夏に聞いた。「何でも無いの一点張りでとりつく島もないぜ」「そうか」 一夏はピットの本音を見た。次にアリーナの空、シャルと駆ける静寐を見てこう言った。「真、箒の様子がおかしいのはきっとお前のせいだ。今までならそうであった筈の3人が今一緒に居ない」「はっきり言うな、一夏らしいよ」「"忘れろ"だから好きになってやれ、とは言わねぇ。けどいい加減そろそろだと俺は思う。少なくともあの2人の心は嘘じゃないぜ?」「もう2ヶ月と半分か……」 気がつけば天からはぱらぱらと天の粒が落ちていた。----- 見下ろせば水の粒が、落ちた。もう一つ落ちた。よく見ればたくさんの水の粒が急に小さくなっては足下のタイルに当たって弾けた。その水は温かかった。湯気が満ちるその部屋には湯浴みの音が2つ響いていた。 放課後の、自主訓練後の、何時ものシャワーが、何時になく重い。「あぁ、くそっ! 今こそ湯船につかりたいぞ」口から出た言葉は、予想だにしない緩い言葉だった。 隣の一夏が頭を泡だらけにして「シャルは?」と聞いた。一夏は努めて平然を装っていたが、その言の葉の抑揚とリズムは緊張を含んでいた。「部屋のを使うってさ」お湯が私の口元を滴り、間の抜けた震え声になった。「シャルは付き合いわりーな。シャワーもそうだけどよ、着替えも1人で済ますし」「待ってるって言っても、待たなくて良い、だしな」「そーそー……ここは真と似てないな」「何がだよ?」「シャルと真にも、似てる似てないところがあるって話だ」「一夏、お前な。そう言う事いうな、俺に似てるなんてシャルに失礼過ぎる」「そこは真そっくりだな。シャルも同じ事言ってたぜ?」「……シャルもなんか有ったんだな、きっと辛い何かが」「……多分な」 身体を拭いてシャワールームを出た。ロッカーの扉に手を掛け服を出す。穿こうとした黒のそれはTシャツだった。一夏に見つかり苦笑される。いつの間にか右手が頭を掻いていた。改めてトランクスを手に取った。背中で着替える一夏が言う。「シャルはなんで付き合い悪いのかな? まぁまだ4日目だからか? それとも育ちが良さそうだからか? 下々に肌を見せるなど耐えがたい苦痛だ! とか言いそうだ」 何時になく早く、まくり立てる一夏に、今度は私が苦笑した。「そりゃぁ一夏、シャルは恥ずかしいんだよ」「恥ずかしいって何が?」「ほら、シャルって男の割には華奢で小さいだろ? だからだよ」「小さいってなにが?」「そりゃーお前……」「「それだ」」思わず互いに指さした。「一夏、お前気遣ってやれよ。ルームメイトなんだからさ」「任せとけ、心づくし気遣いなら自信あるし」「誰がだよ」「俺に決まってるだろ」「良く言う」「言ってろ」「……あぁ、行ってくる」 私は制服に着替え終わり、荷物を一夏に預けると背を向けた。「部屋でシャルと待ってるぜ」 右手をあげて返事をした。----- その日の屋上は何時になく狭く、暗く感じた。見上げる天には星も月も無く、黒い雲だけだった。時計を見れば午後8時。屋外照明に意味は無く、太陽が沈みきった海は、有るはずの海は無くなってしまったかと思うほど見えなかった。ただ波の音だけが聞こえた。 足音が聞こえ振り向いた。手すりに背中と肘を預けると、その足音に「久しぶり」と答えた。 そこにはセシリア・オルコットが立っていた。 いつか見たように、何時も見たように白を基調とし赤のラインが入った制服で袖口は黒いレースで縁取られていた。青い筈のヘアバンドと引かれている筈の口紅は、色がよく分からなかった。 彼女は歩み寄り止まる。3歩程度だろうか、手を伸ばせば届くか届かないかの距離。俺らの距離だった。「毎日会っていましたわ、何を言っていますの?」「場所はどこにしようか考えたんだよ。射撃場にしようかとも、アリーナにしようかとも考えた。でもやっぱりここだよな。初めて出会ったのは廊下だったけど、始まりはここだった。だからここしか無い」「何のことですの……?」 彼女は訝しげに眉を寄せた。 俺は息を吸った。それは肉体では無くきっと俺自身が動く為に必要な息だった。「セシリア、もう終わりにしよう」 彼女は身体を一瞬震わせ表情を消すと、嘲笑するかのような笑みを浮かべた。「何を言い出すかと思えばくだらない。私たちはそう言う関係では無いでしょう? 勘違いも甚だしいですわ」「あの対抗戦から俺を何かと観察、いや監視しているのは何故だ? それは俺の変化を気にしているから、違うか?」「……」 そう、ティナへの見舞いの時、一夏との訓練の時、最後の検査の時、ディアナさんに叩かれた時私は妙な気配を感じていた。殺気程強くなく、視線より弱くなく、俺が気づくか気づかないか程の精密な気配だった。確信を持ったのが昨日の箒と話していたとき。それで漸く、それがそうだと気づいた。俺の感覚の一歩外、その境界線を知るものは彼女しかいなかった。「はっきり言う。今までありがとう。何かと助けてくれて、何かと手伝ってくれて、何かと、心配してくれて。セシリアの協力助力には感謝の言葉も無い。俺はもう大丈夫だ。だから―」「ならば私もはっきり言いましょう! 見ていられません! 何ですのあの真似は! 真が一夏さんに成れると本気でお思い?! その様な矛盾した行為、いつか反動で身を滅ぼすだけです! 猿まねにも品が無なさ過ぎますわ!」 両手を大きく広げ目を見張る、過剰とも言えるセシリアの反応に驚愕と焦燥を感じ、次に苛立ちを感じた。身を起こし睨まん程に目を細めた。それは、今の俺を支えている事だったからだ。「俺だって目標ぐらい持つ、それがいけないというのか」「真は、貴方は、貴方の有り様は世の理から外れているのです。それから目を背け、上辺だけの生き方など歪みを大きくするだけですわ」「随分な言い方だな」「バーニア修復の一件を私が知らぬとでも? 私の、裏の世界では既に知られているのです。恐らくあのフランス代表候補もそれで送り込まれたのでしょう。この様な時期に無茶な事をした物ですわ。容易に分かりました」「成る程な、理屈は通る。けれどセシリア、何時からそんな下品な事を言うようになった」「真が幼くなったからですわ、ディマの事に、今まで本当に気づかなかったとは我が目を疑う無様さですわよ。あの時の、最初に戦った時の真ならその様な事あり得なかった。貴方は変わってしまった」 彼女の碧い眼が鋭く覗いていた。本当に同感だ、セシリアの言う通り俺は変わった。だがセシリアも変わった。この様な優雅さの欠片も無く、気品さも無く、むき出しの感情など、この程度で露わにするとは考えつかなかった事だ。あの時は生死を賭けていた。 私は数秒に満たない間、何度もそれを考え反芻し、結論をだした。ここまでだ、これ以上彼女を、あの屋上で縛る訳には行かなかった。これ以上は彼女を、彼女の将来を壊す。数年後彼女の戻る世界はそんな生やさしい世界では無い。 私は1歩脚を進め、それの距離に踏み入れた。「随分と感傷的だな。俺も驚いた。あの冷静沈着なブルー・ティアーズパイロット、セシリア・オルコットが信じられない」 最近耳にした優れない射撃成績、模擬戦も鈴に負け越している、それは対抗戦からの事だった。「もう一夏の元へ戻れ。これ以上醜態を晒すな。これが俺らにとって一番良いんだよ。あの誓いは忘れていないし、忘れない。恨み続けると良い」「だから! 真は何も分かっておりませんわ!」「聞き分けが悪いぞ。それともこう言わせたいか? 白井優子先輩は厳しかったろ? ってさ」 悲鳴のような小さな息を吸う音だった。左頬に乾いた音が走り、口の中にそれが広がった。俺が見た、俺がセシリアと呼んだ彼女の最後は、今にも溢れそうな感情を必死に堪え、幼子のようにその端正な表情を歪ませて、ただ涙を流していた15歳の、少女の泣き顔だった。「いま気づいて良かった。まだ彼女は取り返しが付く」 背を向けて、姿が足音が無くなっても、消えたその姿を追っていた。----- はたと気づいたのは、退去時間を知らせる警告を聞いてからだった。腕時計を見れば9時を過ぎていて、階段を下りた。 底へ向かう己の足音を聞きながら、2つフロアを抜け、2階で立ち止まった。廊下を見れば物音1つ無く、薄暗く、静まりかえり、ただ其処にあった。見上げると"1-1"が見える。無人の学習棟は静まりかえっていた。 大した感慨も起こらず、1階に向かおうとしたその時、人影が見えた。暗いので顔はよく見えなかったが、黒い長袖長ズボンだった。目をこらし近づくと学ラン姿の人物が立っていた。背格好は一夏と同じぐらい。髪は短く、僅かに逆立っていた。 声を掛けたが返事は無く、ただ窓から空を覗いていた。もう一度声を掛けた。こちらを向き、歩き始めた。 重心を下げ左足を前に、右足を後ろに。軽く広げた左手を前へ下げ、右手は軽く握り胸のあたりに置いた。 俺の感覚が違和感を伝える。当たり前だ、このセキリュティの張り巡らされたIS学年の学習棟に学ラン姿の子供が居る。 幻か幽霊で無ければ、ふざけた危険な侵入者、恐らく厄介者だ。無防備で歩み寄るその不審者に、間合いを計り踏み込んだ。打ち抜いた軸足が音を立てる。全てが止まった世界の中、拳を向けたその顔をみて息を呑んだ。 その顔には何も無かった。 目も無く、眉も無く、鼻も無く、口も無く、ただ白かった。鼓動が、血が噴き出さんばかりに、鼓動が何度も何度も打ち抜いた。短い笛のような声が口から漏れた。得体の知れない寒気を感じ、とっさに脇へ飛び、走り抜けた。 振り向いた其処には誰も無く、ただ俺の右隣を、セーラー服姿の少女が何の気配も無く通り過ぎた。 目を見張る。 その2つお下げの少女に、思わず、おいと声を掛けた。 振り向いた顔には顔が無かった。 後ずさった。 その向こうには長い茶髪の学ランの少年がいた。 顔が無かった。 左を向いた。 ショートボブの少女が居た。 顔が無かった。 振り向いたら、背広姿の中年男性が居た。 顔が無かった。 右に居た。 顔が無い。 左に居た。 顔が無い。 前を見ても、後ろを見ても、そのまた後ろを見ても顔が無かった。 最後に振り向いた其処には、肩に掛る程度に長い黒髪の、白いワンピース姿の、あの対抗戦で見た少女が血だらけで立っていた。 力が抜け尻餅をついた。見上げれば顔は無く、白い服を赤い血で染めてゆく。首に少女の手が掛り、息苦しくなった。 首から上が内側から圧迫されるように重くなった。 首から下が無くなったかのように軽くなった。 冷たくなく、熱くなく、 痛くなく、痒くなく、 ただ暗く何も感じないその世界、見上げれば俺を覗き込むたくさんの白い顔が見えた。 次々に覗き込み、視界を埋めてゆくその人たちを、俺は知っていた。 思い出せなかった。----- 人格は記憶によって形成される。昔読んだ本にこう書いてあった。この世に生まれ落ちたときから人は五感を駆使して記憶し始める。目、鼻、口、耳、手、五感が脳の神経細胞を刺激して、ネットワークを形成しそれが人格と成るそうだ。 ならば記憶を失うと人格はどうなるのか? 理屈なら破綻するか消えるはずだ。記憶喪失者の症例を調べると、事故などで生じた頭部外傷による重度の場合、思考すら出来ないらしい。だから脳を壊して、ある時点から以前が思い出せない"逆向性健忘"や新しい事が覚えられなくなる"前向性健忘"なら分かりやすくて良い。 俺の場合はどうだろう。 俺は、自分に関する事と、社会常識の一部と、感情が都合良くごっそり落ち抜けていた。脳に異常も無かった。聡明なあの2人の事だ、催眠療法も薬物治療もあらゆる手段を試みたのだろう。だが全て徒労に終わった。 当然だろ? 俺は思い出したくないと、嫌になったと全て放り出した。本人が嫌がっているんだ、思い出せるはずが無い。きっと神様は虫が良すぎると怒ったんだろうさ、だから世の中から俺の記憶も消した。周囲の災いとなれ、愛した者には鞭を打て、それを胸に刻んで血を吐き続けろ。 俺はいま罰を受けている。----- 気がついたら立ち尽くしたままだった。 学生服の少年も、あの血だらけの少女も、誰も彼もが消えていた。 階段を下りた。 外に出て、中に入った。 学習棟から寮までの道のりは良く覚えていなかった。 ただ空に月が無いのは確かだった。 寮のゲートを通り抜け、壁のボタンを押した。 鈍い機械音が聞こえる。 扉が開いて乗り込んだ。 そこは狭かった。 表示される数字が大きくなる度に、心と体が重くなった。 底に引かれるようだった。 止まった。 踏みだし見える廊下は薄暗い。 いくつかの扉を通り過ぎ廊下を歩く。 706号室、その前で立ち止まり、木製の隔てる板を2回叩いた。 その向こうで動く気配が2つ。 扉が開くと、そこは明るく、光が溢れてきた。 目を細めれば人影が見えた。「……終わったか?」「あぁ、終わった」 今気づいた。多分コイツは、 俺に残された最後の希望。--------------------------------------------------------------------------------よかれと思ってした事が巨大地雷だった、というお話。・2012/08/14