1日目 朝「凰鈴音。宜しく。中国代表候補。宜しく。専用機持ち。宜しく」 2組のショートホームルームで壇上に立つその小柄な少女は、その黒い髪を黄色いリボンで左右に結い、下ろしていた。そして、なんともぶっきらぼうな自己紹介だった。腕を組み、脚を広げ、その不機嫌な気配を遠慮無く放っていた。目の下の隈が整った顔立ちを、威圧的なものに見せた。 そして、我が2組のいつもは柔らかい空気がなんとも堅い。特に右隣と後ろ隣、鷹月さんと布仏さんが。ついでに私の体も硬い。主に絆創膏であり、湿布であり、包帯であり、である。私はただ薄暗い雲架かった空を見る。 昨夜の処断はこうである。まず凰さんに蹴り飛ばされ、次に布仏さんにしゃもじを投げつけられた。そして篠ノ之さんに竹刀の一閃を食らい、最後の鷹月さんには華麗に転ばされ、ゴミ箱で何度も叩かれた。騒ぎを聞きつけた寮長の千冬さんが騒動を鎮圧。結局、凰さんが部屋を間違えたと言うことが分かり誤解は解けた。解けたのだが、時間が時間だと千冬さんに強引に押し込まれた。むろん部屋にである。彼女と過ごした一夜は、情熱的な意味では勿論なく、彼女は窓側のベッド、私は扉の前に簀巻きだった。思わず壇上に恨みがましい視線を向ける。 右隣の鷹月さんはただむすっと前を見ている。後ろの布仏さんは笑顔で何も言わなかった。気配を探らなくともお冠と言うことは分かる。結局誤解と分かったのだ、返事ぐらい返してくれても良いと思うのだが。そう考えてから、昨夜のパーティでの一件を思い出した。昨日の問題に凰鈴音問題が上乗せされ、悪化している。この2人になんと言って謝ろうかと、それを考えると頭が痛む、口の中も痛む。 そういえば、凰さんは一夏の知り合いのようだった。一夏と親しげに話していた。あぁそうだ。その一夏にワンツーを貰ったのだ。だから口の中が痛いのだ……あ、あの野郎、どさくさに紛れて殴りやがった。おまけに嬉々として俺を簀巻きった。く、くくく……次の模擬戦はダムダム弾だ。マッシュルーミングであのムカツクへらへら顔をボコボコにしてくれるわ。 机に突っ伏し、乾いた笑いの俺を小林先生が引き気味に咎める。そしてリーブス先生は何時もの、遊び道具を見つけた子供のような視線を私に飛ばす。背中の竹刀の傷が思わず痛んだ。「今の自己紹介にあったとおり彼女は中国代表候補生です。凰さんは都合で今日から皆さんのクラスメイトになりますが、彼女から多くを学んでまた、彼女に多くを教えてあげて下さい。凰さん。彼が蒼月真君よ。知ってるわよね?」「えぇ、よぉぉぉーーーく、知っています」「そう。それは良かったわ。彼はクラス代表だから分からない事があればまず彼に聞いてね」 凰さんがぴくりとその鋭い目を私に向ける。これから始まるであろう騒動に私は頭を抱えた。否、既に始まっていたのだろう。 1限目終了の鐘と同時に凰さんが、いの一番にやってきた。私は頬杖を突いて渋々彼女を見る。こうしてみるとよく分かるが、彼女は何というか、体は小さいのにその纏う雰囲気がとても大きい。「まずは、近くの席の人と話したらどう? 凰鈴音さん」「ねぇアンタ」 無遠慮な彼女の物言いにささくれる腹の底だった。「……なに?」「アンタは私に借りがあるわよね。すっごい大きな」「身に覚えがない」「じゃぁ教えてあげる。アンタは美少女の寝室に忍び込み暴行を働いたのよ。ふつー許される事じゃないわよね」「暴行は俺がされた気がするけど」「でもーあたしはー心が大きいからー特別に許してあげても良いわよー」「話聞けよ……でも、まぁ。水に流すなら、まぁ、助かる」「だから、クラス代表譲って」「却下」「アンタね……ふざけんじゃ無いわよ! 水に流してやろうってんだから温和しく渡しなさいよ! この変態! スケベ! 痴漢!」 彼女は眼を釣り上げて、鼻先が触れんばかりに私に迫る。彼女の目の下の黒ずみがよく見えた。そして彼女は周囲に目が及んでいない、あぁそうか彼女はそうなのだ。昨日、1人ぐらい気の強い娘が居ても良いなどと、ほざいた昨日の私を出来ることなら罵りたい。「あのな、そもそも君が部屋を、712号室と612号室間違えたのが原因だろ」「男のくせに女々しい事言うんじゃ無いわよ! アンタだって一夏との感動の再会台無しにしたくせに! 責任取りなさいよね! 責任! 第一鍵掛けなかったアンタが悪いんでしょうが! それにアンタ! 美少女と一夜過ごしてぐーすか寝るなんてどういう神経してんのよ! 腹立つ!」 とにかく憤っている事がよく分かった。「人聞き悪いぞ、それ……あのな、1年の柊寮には鍵が無いんだよ。というかささっきから言ってるけど原因はそっちだと思うぞ。その上、昨日の騒動で部屋の備品が壊れて始末書を書かなきゃいけないんだ。しかも誤解した皆からボコボコに。あぁそうそう。夜中おれを蹴飛ばしたろ? 喧嘩両成敗、それで手打ちにしてくれ」「男のくせになさけなーい。美少女に愚痴るなんて信んじらんなーい。これで一夏と同じ男だなんて、さいあくー 一夏に感染しないうちに消毒しないとねー 目付き悪いしー 陰険ヤクザみったーい……さっさと自分の組に帰りなさいよ!」 そして彼女はこれでもかと言うぐらい私の自制心をくすぐってくれる。「とにかくさ、決まりで変えられないものは変えられないんだ。そっちにも言い分はあるかも知れないけど、一ヶ月遅れてきた不運を呪ってくれ」 私がこう言うと、彼女は近づけていた顔を離し胸を反らした。不愉快さを湛えた眼で私を見下ろす。「そう、どうあっても渡さない訳ね」「くどい」 私がそう言うと、鷹月さんと布仏さんがはっと息をのんだ。そしてクラスの空気がいっそう堅くなる。私のその言葉はかってセシリアに向けたものだったからだろう。配慮の欠けた自分の言葉に思わず、私は口をきつく結んだ。「なら勝負よ! 専用機持ち同士白黒はっきりさせる! これなら文句ないわよね!」「だから駄目だって」 凰さんは私の胸元に向けた指を震えさせた。私はじっと彼女を見た。恐らく彼女は寝不足で、また熱くなって引っ込みが付かなくなっている、そう踏んだ。嵐は必ず去るのだ、そう思ったら、その例えのしっくり具合に内心苦笑した。「そういうのはもう懲りたんだ。諦めてくれ」「訳わかんないこと言って誤魔化すんじゃ無いわよ! あんたそれでも男!? 逃げるなんてどんだけ腰抜けよ! 親の顔が見てみたいもんだわ!」 その時、乾いた音が教室に響いた。それが頬を叩いた音と気づくのに時間が掛った。なぜならばそれは私の頬ではなく、その頬は凰さんで、その音を鳴らした打ち手は鷹月さんのものだったのだ。 私は目の前で起こった現象を、他人事のように、幻のようにただ呆然と見ていた。-------------------------------------------------------------------------------- らしくない。彼女らしからぬ行動だ、私はそう思った。私は鷹月と言う少女の事を、言葉は少々鋭いものの、理性的で基本的にもの静かと評していた。少なくとも初対面の転校生に手を上げる、今の彼女は完全に予想の外だった。 物音一つ起こらない静かな教室、誰かの呼吸の音すら響く。最初に動いたのは凰さんだった。左頬を庇ったまま最初に眼を向け、そして顔を向けた。鷹月さんは振り抜いた手を胸元で軽く握る。「面白いことしてくれるじゃん」 凰さんが笑った。ただその笑みは寒気を感じさせるもので、ブルー・ティアーズを駆るセシリアが私に向けたそれと同じ物だった。鷹月さんはそれに臆すること無く、左足を前に出した。それは訓練されたものだと私には分かった。へぇとその意味を悟った凰さんが四肢を整える。互いが攻性の意識を向け合う。随分と手慣れているように感じた。「いい加減にしてくれる? あなたさっきから我が儘ばっかり。聞いていて気分が悪いの」「多少は出来るみたいだけど、アンタ覚悟があるんでしょうね。今のアタシ手加減出来ないよ」「そう思うのなら、やってみたら?」 このとき流れが大きく揺らぐ。流れの揺らぎは大きい程に一度定まると変えることは難しい。私は大きく揺らいだ流れが落ち着きつつあるように感じ、それは私たち、鷹月さん布仏さんと私の3人にとって致命的であると確信した。予鈴と共に姿を現した担任と副担任は、クラスメイトに事情を聞くと鷹月さんと凰さんに席替えを、申しつけたのだった。鷹月さんの鼓動が乱れた。 「そんな! どうしてですか!?」鷹月さんは悲痛な声を上げる。「鷹月さん、理由はともかく手を出したのは貴方なのよ。それを見過ごす訳には行かないわ。罪には罰、少し頭を冷やしなさい」と言う、リーブス先生の指示は疑いようのない正論だった。 鷹月さんは体を震わせ、すがるように私を見る。布仏さんは泣きそうな顔をしていた。早く変わりなさいと、先生が言う。 どうする、と自分に問いかける。余りにも急激な事態の変化に、唯一浮かんだプランはハイリスク。失敗した場合の結果は“このまま”より悪い。逡巡する私に2人との記憶が駆け抜けた。リターンは一ヶ月で2人から貰った笑顔と言葉。それに掛ける価値はある、そう考え私は手を上げた。上手くいったら一夏に昼飯をたかろう。「先生」「あら、何かしら真ちゃん」「この騒動の罰であれば俺も同罪です。俺も席を替わります」 私は立ち上がり、金髪の、個人的に知る、教諭に意識を向けた。その人は壇上に上がり教壇に手を添えた。「今の私の話を聞いていなかったのかしら、ならもう一度言うわね。実際に手を上げたのは鷹月さんなのよ」「えぇ、それは否定しません。俺が言っているのは、鷹月さんがそうしたのは俺が原因と言うことです。彼女は俺の為に手を上げた。この事実は無視するべきではありません」 流れが変わり、再び大きく撓む。クラスメイトが急な展開に驚き、教諭と私を交互に見た。教諭は右手を腰に添えると私に全てを向ける。そして僅かに顔を傾げ、眼を細めた。背筋に悪寒が走った。小さく堅い虫が首筋を歩くようなそんな感じだった。「成る程、理屈だわ。つまり“あなた”は身を挺して彼女を庇うという訳ね、その心がけは立派だけれど、それは彼女の為にならないわ」「それは先生の誤り“です”よ。彼女は自分の信念を曲げてまで、友人の“私”の為に怒ったんです。それは尊いものだと思いませんか? 罰することなら誰でもできます。先生はクラス代表を決める時こうおっしゃいました。“自分の心に従って、信頼たり得る2組のクラス代表を決めて下さい”と、私は少なくとも彼女の信頼に応えなくては成りません」「あなたは、彼女だけの信頼に応えると言う事かしら」「とんでもない、いま彼女の信頼に応えるべきと思うのみです。それに、2組の皆はそんな器の小さい人達ではありません。それは先生がよく知っていることでしょう?」 グラウンドから聞こえる生徒の声は随分と遠く、また細かった。まるでこの場所以外がスクリーンの中のように、現実感が欠如していた。ディアナさんは笑みを浮かべて「いいでしょう、今回は不問に付します。鷹月さん、凰さん席に戻りなさい」と言った。そして、「“蒼月君”あなたも席に座りなさい」と言った。 彼女の眼は笑っていなかった。 正直に言えば、やってしまった。よりにもよってこの学園で、下手をすれば世界で刃向かってはいけない片方に私は噛みついたのだ。席替え阻止という目的は達せたがその被害は余りにも甚大。先生の立腹具合を上方修正しなくてはならないらしい。「あぁぁぁぁぁぁうーあーぁぁ」 机に突っ伏し、自分自身でも分からない感情を声にだす。 一応授業は行われたものの、彼女の機嫌は鋭利な刃物のように鋭く、氷のように冷たかった。そして授業の際、私は一度も指名されることも無かった。彼女の意識から抹消されたようだ。恐らく、点呼もわざと飛ばされるだろう。 詰め寄るクラスメイトたちが「あれマズイよ」「先生本気で怒ってたよね?」と言われなくとも分かることを言って、更にその現実に追い打ちをかけてくる。何故だろうか、涙が止まらない。あぁそうだ。理由など明確明瞭だ。 私はクラスメイトたちに一言詫びて、鷹月さんを見た。彼女は感情を複雑に交えた眼で私を見ていた。恐らく、私に対する怒りと感謝が混じり混乱しているのだろう。後ろの布仏さんに目配せすると、彼女はそれを察し鷹月さんを教室の外に連れ出した。今は彼女に任せる他はない。「アンタ馬鹿じゃない?」「そんな事は無い、と思いたい」 気がつけば側に立つ凰さんが言う。私は言うまでも無く頭を抱えていた。既に転校生の少女は立腹していた理由すら忘れているようだ。「ウチの担任あのディアナ・リーブス」「知ってる」「第2回モンドグロッソの」「ゴールドメダリスト」「ストリングス(糸使い)」「そうだったな」「こんじきのファイアークラッカー」「ばくちく?」 凰さんによるとディアナさんは現役時代、非常な癇癪持ちだったらしい。その逸話は多く、権力をかさに掛けて言い寄ってきた男を糸でつるし上げ、金の物を言わせようとした男はハム状に縛られた。そして陰湿な方法で試合を妨害しようとした複数のIS選手をエッフェル塔に爆竹のようにぶら下げた、これが二つ名の由来だそうだ。 彼女は10人中10人が美人と評する美人だが、浮いた話を聞かないのはそういう理由だった。「知らなかった……」「やっぱり馬鹿ね」 千冬さんは丹念に調べた。ディアナさんは相応だった。恩人を差別した応報と言わざるを得ない。思わず机に頭を打ち付けた。-------------------------------------------------------------------------------- 1日目夕方 職員室から食堂に向かう、その道のりは重々しく感じた。何時もの小洒落た煉瓦の道が私を皮肉る。針のむしろのような授業が終わり、その放課後ディアナさんに謝罪に行ったのだが、相手にされず追い返された。 本音を言えば、ディアナさんに大人の対応を期待していたのだ。目下の者から噛みつかれても不愉快には思えど、説教で済まされるのでは無いかと期待した。残念なことにそれは甘い見通しだったらしい。 そして千冬さんも機嫌を損ねていた。ディアナさんの態度を大人げないと指摘し、喧嘩に至った。つまり、2組以外にも影響が及んでしまった。状況は悪化の一途である。 食堂に着くと私は皆の姿を認めた。凰さん、篠ノ之さん、鷹月さん、布仏さんそして一夏。その一夏の問いに私は首を横に振った。一夏は落胆したように腰を下ろした。私は席に座りコーヒーを飲んだ。何時もの8人掛けのテーブル、何かの染みが妙に目に付く。夕食時、賑わう食堂においてここだけが誰も何も言わず、ただ時間が流れた。 私が天井を仰ぎ、オレンジの照明をぼんやり見ていると、篠ノ之さんが忌々しげに口を開いた。「凰、お前この始末どう付けるつもりだ」「何よ、アタシのせいだって言うつもり?!」「他に誰が居る!」 息巻き、立ち上がる2人を私は制す。他の生徒がこちらに眼を向けた。「2人とも止めてくれ、その行動には意味が無い。悪化するだけだ」 私のその態度に苛立ちを覚えた篠ノ之さんは声を荒らげ、なじった。凰さんを庇う私が許せないらしい。「お前は―」「箒、やめて」 篠ノ之さんは顔を歪めて視線を下ろした。鷹月さんだった。彼女は眼を下ろしたまま微動だにしなかった。そして「凰さん、ごめん私無理」と言った。凰さんも「いーわよ、アタシも無理」と言った。2人の交わした言葉に布仏さんが顔を曇らせる。 鷹月さんが席を立った。「蒼月君」「なに?」「……なんでもない」 篠ノ之さんが彼女の後を追った。「真、昨日お前に言ったこと忘れるな」「あぁ」 2人を見送る凰さんが腕を頭に回し、背もたれを鳴らす。「そっか、そういう事か。蒼月とは口利かない方が良いみたいね」「それだとやり過ぎだ。上っ面だけ合わせてくれれば良い」 彼女は眼を細め、さも不愉快そうに了解の旨を伝え、席を立った。 布仏さんが、両手に持つ紅茶にどうしてかな、と呟いた。「仕方ないさ、反りが合わない人も居る。全ての人と仲良くなんて不可能だ」「仕方ない、か。むかつく言葉だぜ」 一夏も立ち去ると手にするコーヒーが波だった。何故か空気が濁り息苦しいように感じた。「まこと君、これからどうするの?」「今、考えてる」 私はただ茶色の液体の波紋を見ていた。-------------------------------------------------------------------------------- 1日目 夜 自室に戻り、腕を組んで頭をひねる。眼に下ろすは机上の白い紙。そこには私の知る人達の名が浮かび、それらを結ぶ矢印が縦横斜めに走っている。やはりどう考えても、2人の教諭を押さえることが先決だった。だが、「どうすりゃいいんだよ、これ」口から漏れた言葉が全てを表わしていた。 謝罪は届かなかった。この時点で目下の私ではこの2人に直接とれる手立てがないのだ。副担任も同様。この2人の目上は学園長と教頭先生だが、教頭へのパイプはない。学長に至っては顔さえ知らない。そもそも直訴すると2人の立場が悪くなる。他学年の教諭も同様だ。1年3組、4組の教諭に相談するも、1組と2組の教諭では相手が悪すぎた。 打つ手がない。必要なのは切っ掛け、切り口だ。精神的、肉体的、意図的、偶発的、何でも良い。何か糸口が必要だった。だが、そんな物は都合良く見つかるはずも無かった。 ベッドに身を投げ、天井を見る。金髪の、知り合いの、ディアナさんは大人げないのでは無かろうか。私など一つ下の少女に言いたい放題言われても我慢をしたのだ。私を見習うべきだ、そう考えて、そんな事を言おうものならそれこそお仕舞いだと、枕をかぶる。 時計は午後の消灯直前の10時55分を指していた。睡魔の扉を叩く音が現実と知った私は床を出て扉を開ける。その開いた扉の薄暗い先には、白いジャージの千冬さんが立っていた。彼女は堅い表情で私を見ると後ろを促し、そこには制服姿の転校生、凰さんが立っていた。千冬さんは彼女をおいてやれ、と言った。「あの、織斑先生。いま俺は非常に厄介な状況で、彼女がいると非常にめんどくさいんです。ご再考お願いします」「ほぅ、随分と偉くなったものだな。蒼月」「は?」 千冬さんの予想外の回答、少なくとも私の記憶の彼女が言うはずのない言葉を聞いて思わず聞き返した。彼女は鋭く細めた目を、少しだけ開き、そして瞑った。ゆっくりと一回呼吸をし、踵を返した。理由は凰に聞け、とだけ言った。 薄暗い廊下の奥から、側に立つ少女に視線を移す。ボストンバッグ一つを持つその転校生は、目を瞑りきつく口を結んでいた。だが何故だろうか、彼女の二つの髪を結う黄色いリボンは力無く垂れ下がっているように見えた。そしてその少女は一言ごめんと言った。 私はやかんに水を入れ、コンロに掛けた。換気扇が自動に動く。食器棚代わりの乾燥機からマグカップを二つだし、焦げ茶色の粉末をそれぞれに2杯入れた。暫くそのまま待つ。 私は背中の、部屋に落ち着かないように立ち尽くす少女にとりあえず座ってくれと言った。彼女は部屋に視線を走らせると柔らかいものに腰を掛けた。 やかんが次第に鈍い音を放ち出す。それが甲高い音を鳴らす前に私は笛を外した。沸騰しきったことを確認すると、二つのカップにお湯を注ぐ。カカオの香りがした。 いつもは無意識に行うこの一連の行動を私は、一つ一つ確かめるようになぞった。混乱しかかっていた頭を落ち着けたかったのだ。 振り向くとその少女は窓側のベッドに正座して座っていた。足下にはトレッキングブーツが揃えておいてあった。 彼女にココアを渡すと私は廊下側のベッドに腰を掛けた。私が一口飲む。その少女は舐めるように飲んでいた。「凰」 彼女は僅かに身じろぎした。私はただ名前を呼んだだけだったが、彼女は正確にその意図を掴んだらしい。「実は相部屋の人と、」「と?」「喧嘩しまして」 予想通りだった。「理由を聞かせてくれ。出来ることなら納得出来る奴を」「いやね、その娘窓側のベッドを使ってて、私にそこを譲るって言うから断ったんだよね。ほらアタシ後からだから遠慮したのよ」「で?」「譲る譲らないで喧嘩になりました」「で、」「泣き出しちゃって。とっても激しく」「……」「同じ部屋は嫌だって、千冬さんが来て、どちらかがここに行けって、そしたらその娘は男と一緒は困るって……」 あははと乾いた笑いであった。私はマグカップを脇のテーブルに置いた。カタンと音がして彼女は固まった。「あのさ凰」「な、なによ」「どうして数時間じっとしてられないんだよ、お前は。さっきの今だぞ。空気読めよ」「分かってるわよ! だから同室者を尊重したんじゃない!」「こう言う場合は我を通さないって意味だぞ。席の譲り合いで喧嘩なんて、ニュースにもならない」 私は思わず額の中心を、右の人差し指で押した。テーブルのココアが波打った。「わ、悪いとは思ってるわよ」「出来ることなら、結果に結びつけて欲しかった」 沈黙が流れた。「ごめん、言い過ぎた」「謝らないでよ、調子狂うじゃない」「……もう日も変わった。寝よう」「心配しなくても良いわよ、アタシ部屋を出るから」「言っておくけど保安上、食堂も廊下も階段も禁止だぞ。センサーが張り巡らされてるんだ、消灯時間過ぎて部屋を出れば直ぐバレる。昨日俺らが渋々一泊した理由を思い出すんだ。もちろん屋外は論外」「まじ?」「まじ」 凰さんの顔が呆気にとられた。完全に予想外、という顔だった。「じゃどうすんのよ!」「声が大きい」 凰さんが慌てて口を押さえる。だから、私はもう寝ようと言った。彼女はベッドの上に正座のまま俯いた。嫌でも朝は来るのだ。私はベッドライトを灯し、身じろぎ一つしない少女を見てから天井の光を消した。淡いオレンジの光が部屋を満たす。数回呼吸の音が響いた。彼女は制服以外着る物は無い、と言った。私はベッドの下に手を伸ばし、彼女は私からスウェット受け取るとシャワールームに行き、戻り、窓側のベッドにくるまった。彼女の枕元には黄色いリボンが2つあった。 私はベッドの背もたれに背中を預け、毛布にくるまる。横になる気分にはなれなかった。ただベッドの足下の先を見た。 そうだ、全て分かっている。朝が来ればどうなるか分かっている。2人から、篠ノ之さんと鷹月さんから受けた最後通牒、それが分かっていて彼女を部屋に招き入れた。同情か、性的関心か、それとも寮長の指示に従っただけというのか。蒼月真、お前はこの期に及んでまだ自分が賢いと思っているのか、どれだけ無様だ。 だが蒼月真、どうすれば良かった? 寮長に刃向かえば良かったか。それとも隣に居る少女を、知ったことかと追い出せば良かったか。そんな事に意味は無い、暴れるだけ悪化するだけだ。あぁそうさ、気づいた時には既に始まっていた。俺にはもう選択肢など無かった。ただ明日が来る事を待つだけだ。「ねぇ」「なに?」「ごめん」「なにが?」「アンタ孤児なんでしょ。親の顔が見たいとか言って、ごめん」「いいさ」「事故?」「始めから知らない」 私の嘘では無いが真実でも無い回答に、彼女は振り返らなかった。「ねぇ……どうして別れるんだろ。好き合って結婚したのに。家族なのに」「凰の?」「ごめん、何でも無い」 私もただ眼を下ろしていた。「ねぇ」「寝られなくてもじっとした方が良い」「明日が怖い」「……俺も」 ただ一つ誇れることがあるならば、それは彼女を見捨てなかったと言うことだけだった。--------------------------------------------------------------------------------原作ヒロイン中、尤も重いです。多分