轟々と風の鳴る。
闇に包まれた麻帆良の地に突発的に巻き起こった大風は、周囲の暗闇と相まって、それを聞く者に原初的な恐怖を呼び起こした。
故に、今宵は長く起きる者はあまりいないだろう。
しかし、人々は知らない。
この風を巻き起こしたのが自然の気紛れなどではなく、一人の仮面をつけた少女である事を。
※
「ぐ、ぐぅぅっ!」
巻き起こる風に翻弄され、エヴァンジェリンが苦悶の声を上げる。細められた視界の中心で、一人の少女が立っている。
極彩色に彩られた、一枚の仮面をつけた少女が。
『アメリカインディアンのクワキウトル族の風の精霊。それを象ったこの仮面は、「エアーマスク」と呼ばれた』
くぐもった千雨の声がエヴァンジェリンの耳に届く。
「風の仮面……だと?」
憎々しげに言うエヴァンジェリン。だが、その感情も無理はない。
先程から仕掛けた攻撃の全ては、この風によって逸らされ、流され、受け止められている。
「喰らえっ!」
エヴァンジェリンが吠える。
「氷槍弾雨《ヤクラーティオー・グランディニス》!!」
呪文と共に、エヴァンジェリンの手から何本もの氷の槍が放たれる。その全ては過たず千雨を刺し貫かんと空気を裂いて迫るが――。
轟っ!
氷の槍が千雨に到達する直前、千雨を中心にして巻き起こった風のうねりが、氷槍の群れを蹴散らす。
またか、とエヴァンジェリンは舌打ちする。先程からこの繰り返しである。遠距離からの呪文は全て風の壁に阻まれる。
「かぁぁぁぁっ!」
ならば、と雄叫びを上げてエヴァンジェリンが千雨に迫る。捕まえてしまえば、そこからはエヴァンジェリンの独壇場である。吸血鬼という存在ゆえに、エヴァンジェリンはその膂力も凄まじい。千雨ぐらいの少女ならば、素手で五体に解体できる程である。
しかし、千雨との距離が一定にまで達した時、甲高い音と共に空気が鳴る。
そして次の瞬間、エヴァンジェリンは全身を切り刻まれて悲鳴を上げた。
「ぐぅあぁぁっ!?」
かまいたち。
瞬間に発生する真空が、外部との圧力差によって裂傷を作り出す現象である。
それらに傷つけられ、苦悶に喘ぐエヴァンジェリンを更に追撃するように、千雨が大きく腕を振るう。途端、物理的な圧力を伴うまでに圧縮された風の砲弾が、エヴァンジェリンの体を容赦なく跳ね飛ばした。
「はぁ、はぁ、はぁ、……」
息を荒げるエヴァンジェリンに対し、千雨は仮面で表情こそわからぬものの、大した疲労は見られない。
離れれば鉄壁、近づけば蹂躙。
エヴァンジェリンは、まるで本当の風の精霊を相手にしているかのような気分になった。
(大威力の広域殲滅魔法ならば、あの風を打ち破ることもできるだろうが……)
それはある魔法体系においては奥義とも称される魔法であり、断じて個人に向けて放つようなものではない。
「……それに、手が無い訳でもないし、な」
呟くと同時に、エヴァンジェリンは魔法を発動させる。
『断罪の剣《エンシス・エクセクエンス》』。
無詠唱おいて、現在のエヴァンジェリンが発動させられる内では、最も強い魔法である。
右手に宿したそれを掲げ、エヴァは先程同様、千雨に向かって突貫する。同時に残った左手で別の魔法を放った。
「氷爆《ニウィス・カースス》!!」
大気を凍てつかせる氷の息吹が千雨に向かうが、それは風の防壁の前には通らない。しかし、そんな事はエヴァンジェリンにもわかりきっていた事だ。
エヴァンジェリンの目的。それは――。
「ははっ、見えるぞ!」
凍てついた白い大気を裂いて、かまいたちの軌跡が顕わになる。
夜の闇と相まって、先程は視認ができなった攻撃が、エヴァンジェリンの目にははっきり映った。
己に向かい来るそれらを、エヴァンジェリンは断罪の剣によって全て切り裂いて行く。
そのままエヴァンジェリンは千雨に向かうが、その途中を風の壁が阻む。
「舐めるなぁ!」
しかし、エヴァンジェリンは気合一閃、大気の壁をも切り裂いて更に加速する。エヴァンジェリンを阻むものは、もうない。千雨との間合いは、最早一投足の範囲である。
(殺った!)
エヴァンジェリンは己の勝利を確信する。仮面を付け替える暇も与えない。最速、最高を持って後は切り裂くだけだ。
その時、エヴァンジェリンはひどい耳鳴りを感じた。
それを不快に思う暇もなく、次の瞬間、エヴァンジェリンの体が『沸騰』した。
「ぎあっ……!!」
己の口から迸った悲鳴すらも焼きついた。エヴァンジェリンは体に走る激痛と言うのも生温い程の痛みに、悶絶する。
気圧が低下し真空状態に近づくと起こる現象の一つに、物質の沸点が低くなるというものがある。これを人体に置き換えた場合、わずかな体温であっても血は沸騰し肉は焼けていく。
その瞬間、千雨は自分を中心とした狭い空間内に空気のドームを作り出し、そこの気圧を一気に下げたのである。
文字通り死ぬ程の痛みの中、エヴァンジェリンは半ば無意識の内に、無詠唱の氷の呪文を己の体に叩き込んでいた。体が凍りつき、体温がゼロ近くまで一気に下がる。
無論、唯の人間がこんな事をすれば大怪我、或いは死んでもおかしくはない。真祖の吸血鬼であり、高い自己治癒能力を持つエヴァンジェリンだからこそできる荒業であった。
体の熱さが引いたエヴァンジェリンはすぐさまその場から離脱する。
「げはぁっ……!」
内臓までもやられたのか、エヴァンジェリンは濁った色の血を吐いた。その体からは白煙が立ち上る。傷が凄まじい勢いで治癒される事に伴う熱によるものであった。
(ここまでとは……!)
痛みが引いて行くにつれ、思考がクリアになったエヴァンジェリンは己の愚を悟る。
長谷川千雨という存在が、ここまで厄介な相手だと知っていれば、余計な事に関わらず、すぐさまネギの血を吸えばよかったと。
その時、何の前触れもなく、立っていた千雨が膝をついた。
何事かと目を見張るエヴァンジェリンの前で、その体が瘧の様に震え、血でも吐いたのか仮面越しに赤い物が滴る。
「……はは。成程、あれほど強大な力を振るう事は、お前にとっても大きな負担になっていたか」
自分が戦っているのが、人間であるという事を、エヴァンジェリンは久しぶりに認識した。
「……問題は、ない」
蹲っていた千雨がふらつく体を押さえて立ち上がる。少なくとも、その声の調子だけは普段通り平坦なままだ。
「無理をするな、と言ってやりたいが、それはこちらも同じか……」
エヴァンジェリンは力無く笑う。
高速治癒とて無限にできる訳ではない。魔力や体力をどんどん消費していくのだ。
これがそこらの魔法使い程度の相手との戦いならば、高い魔力に吸血鬼としての強靭な体ゆえに、傷の治癒に負担など感じたりはしない。
しかし、千雨という未知の力を使う相手に負わされた手傷は、その一つ一つが致命傷になる程の威力を持っていた。
己の劣勢を感じるエヴァンジェリンは、ぎりっと歯噛みする。このままでは、逃げられてしまう。
あの男の息子に。
ネギ・スプリングフィールドに。
己の呪いを解くためのカギに。
心に募る焦燥は、咆哮となってエヴァンジェリンの口から迸る。
「邪魔を……、邪魔を、するなぁっ!」
エヴァンジェリンは立ち上がりながら、千雨を射るように睨み付ける。
「私は、ここから出るんだ!一刻でも、一分でも、一秒でも早く!!こんな、こんな場所から、こんな地獄から!!」
エヴァンジェリンは堰を切ったかのように叫び続ける。
「私は、ここが、この麻帆良という土地が――、大嫌いなんだ!!」
「……好きの反対は、無関心」
「何?」
千雨は仮面越しの瞳をエヴァンジェリンにひたりと向ける。
「マクダウェル。おまえはこの麻帆良で、何を見た?」
本質にずばりと切り込む率直な千雨の言葉に、エヴァンジェリンはしばし呆然となったが、やがて自嘲気味に歪んだ笑みを顔に張り付けて語り始めた。
「くかかかか……。いいだろう。殺し合いの最中の手慰め程度に聞かせてやるよ。私が叩き落とされた――地獄を」
※
15年前のあの日、下らん罠にかかった挙句、呪いによって力を封印されて強制的に学校に通わされる事になった私は、当然反発した。
そんな私に、呪いをかけたあの男は言ったのだ。
光に生きてみろ、と。
何を今更と思ったさ。
10の頃に吸血鬼へ変えられて以来、そんな物とはずっと無縁だった。
追われ、殺され、追い、殺し。
老若男女、貴賤を問わず、私に向かってくる者は、殺して、殺して、殺し尽してやった。
そんな風に生きている内に、いつの間にやら賞金首。私を狙う馬鹿共は益々増えていった。
『闇の福音《ダーク・エヴァンジェル》』。
『人形遣い《ドールマスター》』。
『不死の魔法使い《マガ・ノスフェラトゥ》』。
『悪しき音信』。
『禍音の使途』。
『童姿の闇の魔王』。
私の名前も、それに伴って増えていった。
信じられる者は誰もいない。己の手で生み出した人形だけが、孤独を癒す唯一の慰めだった。
そんな私に、光に生きてみろなどとほざくあいつを、それなのに信じたのは、……まぁ、言いたくない。
ともかく、私が卒業する三年後に呪いを解くと言ったあいつを見送った私は、嫌々ながら学校へ向かった。
卒業するまで誰とも関わらず、静かに過ごしてやろうと思っていた私を待っていたのは――あの男の言っていた通りの、光だった。
今でも覚えている。
隣に座っていたあの子は、初対面の私に屈託なく話しかけて来てくれた。
最初は無視してやろうと思っていたのに、言葉が通じていないからとでも思ったのだろう、終いには辞書まで使って、拙い英語で私に話しかけてくるのだ。
その様子がおかしくて、気がつけば返事を返していた。私が日本語が喋れると知った時の怒りっぷりには、参ったがな。
あの子は静かに過ごそうとする私を、何処にでも無理矢理に引っ張って行った。こちらがどんなに抵抗しても無駄だった。最後には私が折れて、あの子に付き合ってしまうんだ。でも、それらは不思議と嫌じゃなかった。
そうこうしている内に、あの子を通じて友達ができた。皆、あの子と同じような視線を、温かな視線を私に向けてくれた。
その時やっと気付く事が出来た。
ここでの私は『闇の福音』でも、『真祖の吸血鬼』でもない。
ただの女の子でいいのだと。
遥か時の彼方に置いてきた、小さな少女だった『エヴァンジェリン』でいてもいいのだと。
それからは毎日が輝いて見えた。
皆と一緒に授業を受けて、お昼には一緒にお弁当を食べて、放課後には一緒に遊びに行って。
何気ない毎日は私にとってかけがえのない記憶に、大切な宝物になっていった。
この子達と一緒にいられるなら、あの子と――「親友」と一緒にいられるなら、背負った全てを捨ててもいいと思った。
全ての禍つ名を捨てて、それまで培った魔道を捨てて、吸血鬼としての力を捨てて。
光の道を、共に歩んでいきたいと、強く思った。
そして、きっとそれらは叶うのだと信じていた。
あの日までは。
卒業式の日の事だ。出席しようとしていた私は、突如活性化した呪いに縛られ、意識を失った。
そして次に目を覚ました私を待っていたのは、600年間の生の中でも、感じた事が無い程の深い絶望だった。
私のそれまでの学歴が全て消え、何故か再び一年生に逆戻りしていた。
それだならまだいい。書類ミスだとでも指摘すればいいだけなのだから。
本当に私を絶望させたのは、あの子達から、私の大切な友人達から、私の記憶が消えていた事だった。
その時の私の気持ちがわかるか?
昨日まで向けられたあの温かな視線は消え失せて、赤の他人を見るような眼で見られた時の気持ちが。
全ては呪いのせいだった。
三年間学校に通わされる事を強制されるこの呪いは、それを過ぎても解かれる事はなく、やり直しを強制させるに伴い、周囲の矛盾を取り繕おうと、記憶の改竄まで行っていたのだ。
それからは地獄だった。
待ち望んだあいつは来ない。
僅かながらに結んだ絆も、三年経てば消え失せる。
皆が前に進んでいく中で、私だけが永遠にこの場所で足踏みをし続けなければならない。
呪いを解かない限り、永遠に。
全てを呪った。
あいつも。
このふざけた呪いも。
光を無邪気に信じた、愚かな自分も。
結局、あいつがやった事は、光の影にできた更に深い闇の中に私を突き落としただけだった。
だから、私はあの男の息子を使って呪いを解くんだ。
そして出て行くんだ。ここから。麻帆良から。
大好きで、大嫌いなこの場所から。
こんなにも、こんなにも寂しい思いをするならば、初めから一人でいい。
もう光なんて望まない。闇の中で化物は化物らしく、孤独に生きていくんだ。
私は、私は――もう、独りぼっちは嫌なんだ!
※
己のため込んでいたすべてを吐露したエヴァンジェリンを前に、千雨の心は揺れ動いていた。
似すぎていたのだ、エヴァンジェリンと自分の境遇が。
孤独に身を委ねながら、それでも誰かとの繋がりを求める事も。
人ではない体を抱えて、それゆえに悩み苦しむその姿も。
光を見失い、絶望するその心も。
それら全ては、千雨がかつて味わい、そしてこれから起こり得るかも知れない出来事だった。
だが、千雨とエヴァンジェリンでは決定的に違う事がある。
千雨は外来の出来事に対して、心を凍らせる事で対処した。
でも、エヴァンジェリンにはそれができない。
優しすぎるのだ、この少女は。
悪を名乗り、非道を行っても、彼女の本質は善なのだろう。
その優しさゆえ、エヴァンジェリンは何も捨てられない。心の中にある輝きから逃げられない事は、エヴァンジェリン自身が一番よくわかっている筈なのに、それでも目を閉じ、耳を塞ぐ。
そんな事をすれば、一番辛いのはエヴァンジェリンなのに。
だから、千雨は言うのだ。
同じ思いを抱く者として。今この時に繋がりを得た級友として。
「私がお前を救おう、エヴァンジェリン」
それを聞いた瞬間、エヴァンジェリンはぽかんとした顔になり、次いで顔を伏せ低い声で笑い始めた。
「ふふ、ふはは、はははははは、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!!」
そして顔を上げたその時、エヴァンジェリンの表情を彩っていたのは、憤怒であった。
「殺 す!!」
凄まじい殺意を噴出しながら、エヴァンジェリンは咆えた。
「よくも、よくもそれほどの傲慢を口にしたな、長谷川千雨!救う?救うだと!?私の苦しみなど、私の絶望など知る由もない餓鬼が、よくも!!許さん、貴様だけは、絶対に許さんぞ長谷川!!その五体を寸刻みにばらして、生きながら地獄に送ってやるわ!!!」
言うなり、エヴァンジェリンは呪文の詠唱を始める。
唱えるは、秘奥。
広域殲滅呪文、『おわるせかい』。
【あとがき】
強い能力を使用し続けると自身も傷ついて行く、と言う千雨の設定は今作のオリジナルです。まだ体も出来上がってない、中学生ですしね。
エヴァンジェリンさん過去バナ&ブチ切れ回。
救うって言葉は、状況によっては、かなり傲慢な言葉になるように思えます。
それでは、また次回