「……ん?」
最初にそれに気がついたのは、どうやら忠継だけだったらしい。
レキハを出てから既に六日目に入り、太陽も真上あたりまで登って、あと数刻もすれば目的の街であるカムメルにつけるだろうという時分である。
いい加減話すこともなくなってきて、代わりとばかりに忠継が何気なく放った質問に、いやになるほどの答えが返ってきていたときその感覚は襲ってきた。
この国に来てから人のいる場所ならひっきりなしに感じてきた、しかしそれまで感じてきていたのとは少し違う魔力の気配である。
「つまりね。この【街路灯(シティライト)】の魔石を量産できれば近い将来、街が夜になると勝手に明るくなって道を照らすように……、って聞いてるかい忠継?」
「む、いや、すまん。途中から聞き流していた。おかしな妖気を感じたものでな」
本当は初めからほとんど聞き流していたのだが、流石の忠継もそのことは口にしない。昨晩宿で見かけた魔石という、魔方陣を使った魔術をそのまま小さな石に閉じ込めた代物について軽く聞いた途端にこれである。聞いた手前最初の方は半分くらい聞いていたのだが、話が途中から魔石という代物の有用性や、それが持つ新たな可能性などに移り変わった時点でもはや聞くだけの意思を持てなくなっていた。
「またタダツグさんは妖気なんて呼んでるんですか? 魔力感覚ですって言ってるのに」
「そう言うお前たちもいくらいっても刀のことをカタナなどと呼んでいるじゃないか」
「え? カタナをカタナと呼ぶのは間違っていないでしょう?」
「違う。カ“タ”ナではなく“カ”タナだ。お前たちの言い方には妙な訛りがある」
「細かすぎますよ……」
ため息をつくようにそう言い、エミリアはつづけてぶつぶつと忠継に対して文句を言い始める。だが、その文句は意外にもエミリアの隣に座るエルヴィスの言葉によって中断された。
「まあいいじゃないかエミリア。それよりさっきの話だけど、こんなところで魔力を感じたのかい? 外の騎士たちが魔術を使った形跡はないみたいだけど……」
「そこまで近い距離ではなかったな。確かにこんなところに人が住んでいるとは思えんが……」
現在忠継達が進んでいる街道は、右手は斜面の下に大きな森、左手に見渡す限りの平原を望む人里からは離れた場所だ。妖気を感じたのは森の中で見た限りでは人が頻繁にはいるような場所には見えず、妖気というこの国の人間が魔術を使ったときの気配を感じるのは不自然な場所である。
しかし現実には、
「確かに……。言われてみれば何か感じますね。でもこの感覚……。何でしょう? 感じたことのない属性です」
「ふむ。何だ? そして誰だ? わが領内でこんな面白そうなことをしているのは?」
そう呟くと、エルヴィスはすぐに馬車から顔を出して、近くにいた騎士になにやら命令する。その表情はすでに、いつも忠継に祖国の話をせがむ時の子供のような好奇心に染まっていた。見れば隣のエミリアも似たような表情を浮かべている。
忠継が二人の表情に言わなければ良かったとばかりに辟易していると、先ほどの命令に従ったのかクロフォード家の一団が進行を止める。それに合わせて忠継達の乗る馬車が停止すると、その扉から先を争うように兄妹が飛び出した。
呆れながら忠継も馬車を降りると、騎士団長のダスティンが森に突撃しようとする二人を取り押さえている。
「放したまえ騎士ダスティン!! やはりこんな魔力は覚えがない。私はこの土地の領主としてすぐにでもこの不可解な魔力の正体を探らねばならんのだ!!」
「そうですよダスティンさん!! 私達は領民を守る貴族として、また一人の学者として、領民にどんな影響を及ぼすか分からないこの魔力を放置できません。さあ、すぐにその手を放して私たちに調べさせなさい!!」
「わざわざあなた方がいかなくても一緒に騎士も研究者もいるんだからそちらに任せてください。それにあの森には熊が生息しています。迂闊に踏み込んで遭遇でもしたら……」
二人を取り押さえていたダスティンの声が、しかし途中でしぼんでいく。その理由は森の方を注視していた人間にはすぐにわかった。話に出ていた熊が、今まさに森から現われていたのだ。
だが、
「……あれは本当に熊なのか?」
忠継がそう口にしたのも無理はない。現れた熊らしき獣は、しかし忠継が抱く熊の姿とは微妙に違っていた。体の前半分は熊のそれなのだが、後ろ足が巨大で、その形はどことなく兎のように見える。毛の色も前半分が黒いのに対し、後ろ半分は茶色っぽく、こちらもウサギを連想させる毛色だった。
だが、森を背後にこちらを見つめるその獣の姿に、忠継はどこか違和感を覚える。
「なんだあれは……? もしかして新種!?」
「ホントですか兄様!? 捕まえましょう。今すぐに!!」
「危険だって言ってんでしょうが!! 相手は熊です。襲ってくるようなら仕留めなければいけません。いいから馬車に戻って――」
「待て、お前たち!!」
呑気な言い争いを続ける三人に、忠継は鋭い声を上げる。理由はあまりにも単純で明白だ。
「……なんだ? あの獣、こちらに向かって来ているのか……?」
「……ダスティン。生け捕りは無しだ。すぐにあいつを仕留めろ」
「は?」
突然前言を翻したエルヴィスに、ダスティンは少々驚いたような声を上げる。だがそれに対してエミリアはなにも言わない。ただ顔色を変えて立ち尽くし、目を見開きながら唇を震わせるだけだ。
「いや、もう間に合わん!! 退避だ!! 急げ!!」
続けて放たれた鋭い指示に、ようやく忠継とダスティンもその事実に気付いて動きだす。
忠継はそばにいたエミリアを、エルヴィスとダスティンは近くにいた兵士三人を、それぞれ巻き込む形で飛びのいた。
そのとたん、それまで忠継達がいた場所の背後で、ここまで乗って来た馬車が砕ける音と、悲鳴のような馬の嘶きが聞こえてくる。
「なっ……!?」
飛んでくる馬車の破片を腕で弾き飛ばしながら、振り返った忠継は目の前に広がる光景に絶句する。さっきまで乗っていたはずの豪奢な馬車は滅茶苦茶に押しつぶされ、その上では巨大な熊紛いの化け物が、馬車を牽いていた馬の一頭を口に咥えて存在していた。
咥えられた馬はすでにその動きを止め、熊の口との隙間からおびただしい量の血が滴り落ちている。
(なんだこの大きさは……!!)
これまでは対比できるものが近くになかったためよくわからなかったが、この熊紛いの獣は恐ろしく大きい。くわえられた馬はその胴体の三分の一をその口に収められているし、今まで乗っていた馬車と比べても獣の方に軍配が上がる大きさだ。いや、そもそもこの相手は本当に獣なのか。よく見れば体から妖気を放つ黒い煙のような魔力が漏れ出しているし、首の周りに大小何本かの兎の耳のようなものが生えている。どこまでも歪なその体は、忠継に生物的な嫌悪感を抱かせるのに十分なものだった。
忠継や周囲の騎士たちが固唾を飲んで見守るなか、獣は馬をくわえたまま頭を持ち上げると、その顎に力を込めて馬の体を三分割に噛み砕いた。
馬の後ろ足や尻の部分と、前足から頭にかけての部分が地に投げ出され、獣は食らった馬の胴体部をグチャグチャと咀嚼し始める。
「ば、化け物め……!!」
忠継がそう呟いた瞬間、まるでその呟きにこたえるように獣の目が忠継に向く。どうやら馬の胴体は飲み込んだらしく、その瞳は次の獲物を貪欲に探し求めていた。
「っ!!」
それが意味することを悟って、忠継は慌てて刀に手をかける。指ではじいて鯉口を斬り、そのまま右手で抜刀しようとしたその動作は、しかし状況としてはあまりにも出遅れたものだった。
『――――――!!』
「ぐぁっ!?」
「きゃぁっ!!」
抜刀しようとした忠継に、それより一足早く音の暴力が襲いかかる。背後にうずくまるエミリアが悲鳴を上げたようだが、気配でそれが伝わってくるだけでまるで聞こえない。それどころか忠継には、耳を貫くこの痛みが、その実獣の咆哮によるものであることすらすぐには分からなかった。声というには余りに大音量で放たれたそれは、すでにどんな声だったかも識別できないほどの衝撃を鼓膜に与えているのだ。
(……ぐ、あ……!!)
全身に襲いかかる咆哮に、忠継の体は総毛立ち、全身の筋肉が強張って硬直する。刀に伸ばそうとしていた右手にいたってはすでに震え始めており、まともに機能していない。
(ひるま、された……!!)
自身がこの化け物に抱いてしまった感情に、忠継はさらなる衝撃を受ける。武士である自分が決して抱いてはいけない感情。それを抱いてしまったという事実が、忠継の体にさらなる呪縛として襲いかかって来た。
そしてそんな状態では、迫る化け物の顎からは逃れられるはずもない。
(しまっ――!!)
慌てて忠継が我に帰ったそのとき、しかし同時に体に誰かがしがみつく感覚を覚える。
忠継がその感覚が背後からのものであることを認識しかけたそのとき、妖気の感覚と共にしがみつく人間のからだが恐ろしい勢いで斜面の下めがけて投げ出された。
おかげで忠継は間一髪で化け物の襲撃から逃れ、しかし勢いあまって斜面を背後の人間共々転げ落ちることになる。
(エミリアか……!?)
自分を抱きしめたまま共に斜面を転がり落ちる人間が誰かをようやく察して、忠継は何が起こったのかをようやく理解する。恐らく魔術の反動を使って二人分の体を飛び退かせたのだろう。こちらに来てから見せられた、エミリアとエルヴィスが共同で開発したという魔術の中に、確か【空圧砲(エア・バスター)】なる名前の魔術があったはずだ。反動の大きさで改良の余地があると話していたが、今回はその反動を逆に利用したらしい。
そう考えていると、いきなり柔らかい衝撃と共に、転げ落ちていた二人の体が停止する。見れば、背後のエミリアが再び魔方陣を展開し、斜面の途中にあった岩との間に妖気の塊を作っていた。忠継にはこれも覚えのある魔術だ。確か【衝撃緩和風船(エアバック)】などという名前で、エミリアが高所からの脱走に何度か使っていた。
だがいくら衝撃を緩和できる魔術を使っていたとしても、あの勢いと忠継の体重を女一人の身で受け止めたのではただでは済まない。
「おいっ! おい、エミリア!!」
慌ててエミリアの上から起き上がり、ぐったりする彼女を抱き起こす。そこまで来て忠継は、ようやくこの髪や目の色が違う異人が、自分の知る人の娘と同じ『か弱い生き物』なのだと理解できた。
「……うっ」
「エミリア!! 無事か!! 俺がわかるか!!」
必死に叫ぶ忠継の呼びかけにこたえるように、虚ろで、焦点の定まらなかったエミリアの目に徐々に力が戻ってくる。
だが忠継がそれを理解できたのと同時に、背後で再び化け物が咆哮をあげた。
振りむけば先ほど逃れたばかりの化け物が、再びこちらに襲いかからんと後ろ足に力をためている。
「……このっ!!」
襲いかかろうとする化け物に対して、忠継が今度こそ怒りに任せて刀に手を伸ばす。だが、
「伏せて!! タダツグさん!!」
「なっ!?」
再びエミリアに背後からしがみ付かれ、不意を突かれた忠継はそのまま崩れるように転倒する。
化け物を前にして生まれてしまった致命的な隙。
しかしそれに対する焦りは、直後に化け物の放つ妖気が忠継達の上を通り過ぎて、斜面の下へと向かって行ったことで霧散した。
先ほど忠継達が斜面を転がり落ちた時とは比べ物にならない音を立て、化け物の体が斜面下の森へと転がっていく。
「なん、だ……?」
逃げ去ろうと飛び越したのではない。明らかに勢いあまって転げ落ちたような化け物の様子を、忠継は唖然として目に映す。するとその疑問に答えるように、弱々しくもはっきりとしたエミリアの声が耳に届いてきた。
「ウサギを追うときは坂の下からではなく、上から狙え。ウサギ狩りの常識です」
「なに?」
「ウサギの体というのはその後ろ足の構造上、斜面を登るのには適していますけど、下りるのには向いていないんです。ウサギは重心が前かがみですし、下り坂をあの後ろ足で力いっぱい走ったら、勢いが強くなりすぎますから……」
「……!!」
言われて、ようやく忠継はあの化け物の後ろ足が、ウサギのそれであることを思い出した。忠継自身は熊のような前半分に気を取られて意識していなかったことを、この異人の娘はしっかり逆手に取って来たのだ。恐らくは、忠継と共に飛び退く際、斜面を転がり落ちる決断をするその時点で。
忠継がそのことに戦慄していると、坂の上からエルヴィスが騎士たちを連れてこちらに向けて駆け降りてくる。
「無事か!? 二人とも!!」
「あ、ああ。エルヴィスか。俺は無事だ。それよりも――」
「私も大丈夫です!! 兄様!! それよりあの生き物を!!」
「わかっている!! 総員、【火炎榴弾(ブレイズカノン)】展開!! 奴が起き上がる前に焼き払え!!」
エルヴィスの叫びに応え、周囲にいた騎士たちがいっせいに魔方陣を展開する。狙いは眼下で黒煙をあげ、身を起こそうとしている熊に似た化け物。それに向けてエルヴィスは腰に下げていた剣を引き抜くと、声と共に勢いよく化け物めがけて振り下ろした。
「撃てぇぇぇぇ!!」
瞬間、轟音と共に周囲から橙色の砲弾が打ち放たれ、斜面の下の化け物を周囲の地面ごと焼き払った。
結局、忠継が我に返り、動きだせるようになったのは、全てが終わった後だった。
目の前で巨大な化け物が焼き払われる様を、ただただその光景に圧倒されながら見ていただけである。
(俺は、もしかすると異国どころか、とんでもない別世界に来てしまったのではないか……?)
忠継は自身の中で、今まで培ってきた何かが音を立てて崩れ去っていくのを感じる。以前にも一度だけ感じたことがある、足先から崩れていくような喪失感。自分にとって当たり前だと思っていた物が、あっさりと自分を裏切っていく様は、忠継にどうしようもない不安と空虚感を感じさせていた。
粉塵が晴れ、焼けた大地を見ながら、忠継は魔術というものの威力を思い知る。今まで見た他の魔術など、これに比べれば子供の遊びに等しい。圧倒的な威力とその射程は、祖国の武士たちが束になって斬りかかっても容易に焼き払える代物だ。
(刀では、だめなのか……?)
忠継はそれまで、刀一本あればどんな強敵とも渡り合えると思っていた。これは別に忠継一人の異常な価値観だったわけではない。剣術を至上のものと考える武士たちにとって常識的とも言える思考回路だ。
だが、実際に見た目の前の光景が、何も言わずに忠継のその思想を否定する。
「タダツグさん? 大丈夫ですか?」
呆然とする忠継に対し、何を心配したのか腕の中のエミリアがそう声をかける。忠継はあいまいな返事を返しながら腕の中の女を見て、さらなる事実に気付いてしまった。
否定、というなら目の前の女もそうなのだ。剣術一本に生き、だれよりも武士らしくあろうとした忠継でもすくんで動けなかった相手に、この女は機転だけで見事に対応して見せた。それも本来守る側に立つべき忠継を守り、自身が体を張ることによって。
「とりあえず、仕留めることはできたようだな」
忠継がそんなことを考えていると、そばにいたエルヴィスが斜面の下を見つめながらそう呟いた。言われてみれば確かに粉塵の中に動きは見られず、先ほどまで感じていた奇妙な妖気も感じない。
「恐ろしい場所だなここは……。あんな化け物が普通にいるのか?」
ふと、さっきまで馬車があった場所を眺めながら、忠継は思わずそう呟く。ここからでは見えないが、斜面の上には先ほど化け物に喰い殺された馬の死骸が転がっているはずだ。『恐ろしい』などという台詞は普段なら絶対に言わないものであろうが、あんなものを目にした後で虚勢を張ることは、今の忠継にはできそうになかった。
だがそんな忠継の弱音に、エルヴィスが意外な言葉を返す。
「いや、あんな生き物は聞いたことが無い。大きさも形も聞いたこともない種類だった」
「……なに?」
忠継としてはこの国はあの化け物が普通にうろつく魔境なのかと考えていたのだが、エルヴィスの言葉は真っ向からその考えを否定する。忠継が彼の語る事実をどう受け止めたものか迷っていると、エルヴィスはさらに言葉を重ねて否定にかかる。
「おそらく突然変異か未発見の新種なんだろうけど、正直僕はあんないびつで無駄の多い生き物が自然界で生き残れていたことに驚いている。忠継も見ただろう? あの熊みたいな奴の首から兎の耳が何本も生えているのを」
「あ、ああ」
「生物というのは通常自然界で生き残るために無駄な器官を自分の体から排除しています。というより無駄のない形をした生き物が生き残るといったほうがいいくらいなんです。耳なんて二つもあれば十分なものをいくつも持っているのはどう考えてもおかしいです」
「そういうものなのか……」
忠継がエルヴィスの話を理解できていないことを察したのか、エミリアが横から補足の説明を加えてくる。おかげでどうにか忠継が話に追いつくと、エルヴィスがそれに応じるように続きを話し始めた。
「それに、そもそもあの大きさで素早く動けるというのが理解できない。生き物というのは大きくなればなるほど体が重くなって動きが鈍るものなんだ。なのにあの生き物は下手をすると馬より早く走っていた。この身の軽さは一体なんだ……?」
「条理の外にいる生き物、という訳か。あれこそまさに妖怪変化の類だな」
「妖怪、ね。君の国のおとぎ話を現実に持ち込むのは癪だけど、あれはたしかに――、む!?」
話しの途中でなにかに気付き、突然エルヴィスは二人を置いて走り出す。行先は当然のように斜面の下、先ほどまで化け物が存在していた場所だ。
周囲で慌てたようにダスティンや他の騎士たちがそれに続いて行く。それを目にした忠継が自身はどうするか迷っていると、横から誰かに服を掴まれるのを感じた。
眼を向けるとエミリアが何やら訴えるような視線でこちらを見上げている。
「な、なんだ?」
「あの、すいませんけど、私もあそこまで連れて行っていただけますか?」
「なに?」
「いえ、実はまだ少しクラクラしまして、自分で歩くのが辛いんです。でもあの生き物が何なのかは私も気になりますし……」
「……」
忠継としては、そんな状態ならここで大人しく休んでいるべきなのではないかと思ったが、言っても聞かないことは明白なので諦めることにした。そもそも今エミリアがこんな状態になっているのは忠継の無力による所が大きいのだ。ならばここは大人しく従っておくべきだろう。
そう思い仕方なくうなずくと、エミリアはすぐさま忠継の首の後ろに手を回し、忠継の体にしがみついてくる。その際に胸板になにやら柔らかな感触を感じてギョッとするが、当の本人は全く気にした様子が無い。
(いや、そもそも何を気にしているんだ俺は……。相手は天狗まがいの異人だぞ)
一瞬感じた邪な思念を思いなおして打ち払い、忠継はエミリアを両腕で抱える。この世界に来て強くなった腕力は、人一人抱えてもまるで苦に感じなかった。
斜面を下りながら見ると、すでにクロフォード家の騎士たちが化け物のいた場所に集まり人だかりを作っている。あの様子では近づいて中に入らなければ直接化け物の死骸を見ることはできないだろう。
そう思いながら歩き始めた忠継は、しかしその途中で鼻につくその臭いの思わずその歩みを止めた。
血の臭い、肉の臭い、それらが焼け、あるいは焦げる匂い。そんなこの場では当然と言えば当然と言える臭いが混じり合い、生成するその臭いは、まさしく死臭というにふさわしい悪臭だった。
(武士たるものが臭いごときで怖気づく訳にはいかんが……)
己を意地で奮い立たせながら、しかし同時に自分が一人ではないことを思い出して腕の中のエミリアに視線を移す。見れば、流石のエミリアもこの状態では鼻を押さえずにはいられなかったようだが、それでも近くで見るという意思は消えてはいなかった。どうやらいつもと違い面白半分の興味だけではないらしい。
「行くぞ」
一度だけそう告げてから、忠継は再び歩みを進める。間近まで近づくと、こちらに気付いた騎士たちが徐々に道をあけるようになってきた。恐らくは忠継がエミリアを抱いているからだろう。
そして人垣の向こうに、その惨状は現れる。
「酷い、な……」
大方の予想はしていた。なにしろそこにあるものはすでに臭いという形で伝わってきていたのだから。
だが、実際に見てみると臭いなどまだ生易しいと思える。忠継は武士の意地として虚勢を張っているが、本心ではすでに胃の中のものがかき混ぜられるような感覚を覚えており、視線もできるだけそれらに向けないようにし始めていた。
だが、腕の中の女はそうではなかったらしい。
「……足りませんね」
「なに?」
「いえ、死体の量が」
「量?」
言われて、忠継は再び死臭の源泉へと視線を戻す。再び喉の奥で押さえつけている不快感がせり上がってくるのをなんとか耐え忍び、気力を振り絞ってそれを見ていると、エミリアの言うことがようやく理解できた。
「あの化け物の死骸にしては量が少ないな」
付近に散らばり、物によってはいまだ火がくすぶっていたり炭になっていたりする肉塊は、本来なら先ほどの熊に似た化け物のそれであるはずだ。あれだけの魔術の集中砲火を食らったのだ。その体が原形をとどめているとは忠継も思っていない。
だが、目の前にある肉塊は、あの化け物の大きさと比べて明らかに少なかった。あれだけの化け物の死骸なら、四散してもこの数倍はあるはずである。
否、それどころかこの肉塊、本当にあの化け物の破片なのかどうかもわからない。
「あれ、忠継もこっちに来たのかい? エミリアも心配しなくても後で調査結果くらい教えてあげるんだから、今は休んでいればいいのに」
忠継が吐き気を堪えて目の前の異常の正体を探っていると、目の前の肉塊の山をよけながらエルヴィスが戻って来た。着ていた豪奢な服はしかし、その袖や胸元に血のようなものがついて汚れている。
「お、おいエルヴィス、その血はなんだ?」
「え? ああ、しまったな。調べるならやっぱり着替えてやるべきだった。後で侍女マライアに怒られるかな……」
どうやら肉塊に実際触れて調べたらしく、服に付いた血はエルヴィスのものではないようだ。忠継は一安心すると同時にこの状況で顔色一つ変えない目の前の男に戦慄を覚える。もしもこれでいつもの子供のような楽しげな表情であったならもはや忠継はこの男を人として見ることができなかったかもしれない。
「兄様、この死体……」
「ん? ああ、エミリアも気付いたか。恐らくさっきのうちの馬みたいに、あの生き物に食われた動物のものだよ」
「なに? ……いったいどういうことだ? なぜ喰われたものがここにある? あの化け物はどこに行ったんだ?」
あまりにも不可解な話に、忠継は思わず質問を立て続けにぶつける。だが、それに対する答えは返ってこず、目の前のエルヴィスはあごに手を当てて先ほど自分が歩いて来た道を眺めている。どうやら彼にも化け物の正体が分かっていないらしい。
「兄様、向こうに何かありましたか?」
「ん、ああ、すまん。実は向こうに一体だけ熊の死体があってな」
「何? さっきの奴か?」
「いや、あれに比べると形がまっとうで、しかも小さい普通の熊のだった。まあ、後のことは実際に見た方が早いんだが、来るかい?」
そう言うとエルヴィスは、エミリアではなく忠継にのみ視線を向けてくる。どうやら自分の妹が来るだろうことはエルヴィスの中で決定事項らしい。
忠継は迷った末、エミリアへの責任から同行することにした。
それじゃあ、と歩き出すエルヴィスについて少し歩くと、周囲の凄惨な肉片に混じってその死体が見えてくる。
「……たしかに、普通の熊のようだな。それに他の奴と違ってほとんど傷のようなものが無い」
「いいところに気付いたねタダツグ。僕もそれが気になってたんだ」
忠継が何気なく発した言葉に、エルヴィスがすぐさまそう応じてくる。忠継が視線を熊からエルヴィスに戻すと、エルヴィスは先に調べたであろうことをとうとうと語り出した。
「こいつの死因は他の奴らとは明らかに違う。他の奴らは死体の破損状態も悪く、恐らくあの生き物に喰い殺されたのだと思うが、こいつの体には他の死体と違って一目でわかるような死因が無い」
「あの生き物とこの熊、何か関係があるのでしょうか?」
「たぶんね。それと二人とも、感じるかい? この死体から微弱だけどさっきの魔力の気配がするんだが」
「む?」
言われ、忠継が最近覚えたその感覚を研ぎ澄ますと、確かにあの不気味な妖気が熊の死骸から感じられた。先ほどより微弱だが、属性は確かにあの魔力のようだ。
「どういうことでしょう? さっき魔力をもっているということは、あの生き物はこの熊が?」
「わからん。この熊が魔力を操って化け物の姿を作り出していたのか……、いや、そもそもあの魔力は本当に……」
「どういうことだ? あの化け物はこの熊が化けていたとでも言うのか?」
意味がわからず忠継が疑問の声を上げると、ちょうど白い着物を着た男がこちらに向けて走って来た。それに対してエルヴィスが何かを命令すると、男は熊の死骸の前にしゃがみこみ、なにやら宝石のようなものを押しあて始める。
「何をしているんだ?」
「君の魔力を採取したのと同じ道具で、この妙な魔力を採取しているのさ」
「俺のときは魔力とやらを込めるのにえらく苦労させられた気がするが?」
「まあ、体内の魔力を一度体外に出さなければなりませんからね。でも、そう考えるとこの魔力はおかしいですね。普通生物の死体からは【全属性】の魔力しか取れないはずなのに、この熊は死後もこの妙な属性の魔力を放っています」
「……そういう属性の魔力なのではないか?」
わかりづらい会話に、忠継は投げやりにそう口にする。魔力は万能の概念だというなら、何かの切っ掛けで生き物の体を大きくする魔力があってもおかしくはない。
実際、その考えはある程度までは正鵠を射ている。
「まあそうだね。確かに考え方としてはそれで間違いないよ。ただ、そういう性質というのがどういう性質なのかはもっとはっきりさせなければならないな。状況的に見て、あの魔力が熊のような形をとっていたのは、魔力を持つ熊の影響のように思えるけど、それだと首の周りの耳や、後ろ足の周りみたいな兎のような部位が説明できない。もしもあの魔力をこの熊が生み出していたのなら、この熊の正体も探らなくてはならない。僕が知る限り、動物が魔力を操ったという事例は聞いたことが無いからね」
「それに発生原因も調べないといけません。先ほども言っていましたが、今まで人間以外の生き物が魔力を操ったという話は聞いたことがありません。自然発生したのかそれ以外の理由によるものなのか、その原因をわからないままにしておくのはあまりに危険です」
「危険、だと?」
「わからないかいタダツグ? 何かの偶然にせよそれ以外の理由にせよ、こんな生き物が一度でも発生したということは、条件さえそろえば同じ生き物が他でも発生する可能性があるということになる。そうなれば何が起きるか、さっき起こったことを考えれば想像くらいできるだろう?」
「さっきの化け物が他でも現れるということか?」
自身で口にして、忠継はその予想に戦慄する。先ほどのあの化け物は明らかに人にとって脅威だ。今回は馬一頭と馬車だけで済んだが、一歩間違えれば何人死んでいたか分かったものではないのだ。もし他で同じことが起きれば、今度こそ死者が出る可能性は大きい。
「まずは、この魔力の性質を調べるところから始めなくては……。ああ、そう言えばいつまでも『この魔力』では呼ぶのに不便だな。とりあえず何か属性の名前をつけなくては」
そう言うとエルヴィスは目前の熊の死骸を見下ろし、その後周囲を見渡すと、その視線が忠継を捕らえたところでピタリと止めた。再び考え込む様子を見せ、そのすぐ後に何かを思いついたような顔をする。
「そうだな。……【妖属性】、とりあえずこの魔力を【妖属性】、あの化け物を【妖魔】と名付けよう。忠継の言う妖怪でもいいが、こいつは実在する存在だからな」
どうやら自分の話や発言を元に名付けたらしい、と忠継が気付く頃にはエルヴィスは魔力の採取を終えた白衣の男に何かを命令していた。白衣の男が立ち去るのを見送ると、エルヴィスは一度だけため息をつく。
「まったく、【妖属性】といい、あの属性といい、これから行く土地は楽しくない研究が続きそうだな」
「あの属性?」
「あれ、タダツグさんには話していませんでしたっけ?」
忠継の疑問の声に、エミリアが再び反応する。ここに来るまでに何度も交わしたやり取り。だが今のその反応は、いつもと違いその表情に明るいものが欠けていた。
「これから行くゼインクルという土地は、パスラ侵攻の際に新兵器が使われた土地なんです」
「新兵器?」
聞き慣れない言葉に、忠継は思わず目を丸くする。するとそれに対する答えは、エミリアではなくエルヴィスによって返された。今までにないほど不機嫌な声で。
「魔力だよ。新兵器というのはこれまで使われたことのない、最近新しく発見された属性の魔力のことだ」
「なんだ? 一体どんな魔力が使われたというんだ?」
「『死』、だよ」
「……『死』?」
「触れた対象を問答無用で死に至らしめる。死という概念そのものに変質した魔力。それこそがゼインクル直轄領で使われた新兵器、忌々しき魔力属性【死属性】だよ」
そのとき、忠継には放たれたその不穏な言葉が、死骸の転がる焼け野原に恐ろしく似合って感じられた。