3.夢幻迷想 失くした記憶に映る君
――ここはどこだ……?
白い世界だった。何もかもが見えるのに、何もかもが見えない世界。自分という存在は確かにそこにいるはずなのに、それを証明出来る比較対象がどこにもない。
水中でゆらゆら浮かんでいるようなあやふやな感覚に支配される中、鳳牙ははっきりしない意識のままにぼんやりとしていた。
いつからここにいるのか分からない。なぜここにいるかも分からない。分からない事だらけだった。
記憶を探ろうとすると激しい痛みが突き抜け、思考を妨害する。意識をはっきりさせようとすると、たまらなく吐き気を覚える。だから鳳牙はずっとぼんやりしたままだ。何もする気になれず、そもそも自分が何をしていたのかすら覚えていない。
真白き世界のどこかで、鳳牙はただただたゆたっている。ひどく大事な何かを忘れているような気がするのだが、それが何なのかを考える事も出来ない。小さな焦燥は小さいままで、しかし決して消えることなく心の隅に残り続ける。
深いというわけではない。ただ、時折胸をかきむしりたくなる。その焦燥の生み出す何かが、事ある毎に鳳牙を内面から突き上げる。
――なんだろう……?
鳳牙は静かに目を閉じた。真白き世界は一瞬にして漆黒に染まり、無音の世界はそよ風の歌う円舞曲に包まれる。そして――
◇
「あれ? 鳳牙寝ちゃったの?」
自分を呼ぶ誰かの声が聞こえて、鳳牙はぱちりと目を見開いた。視界に映るのは青々とした草原の海。耳に届くのはそよ風に揺れる草木のさざめき。地面に座り込んだ背中に当たる感触はおそらくは木の幹だろう。ちらちらと煌く木漏れ日がそれを証明してくれる。
「あ、起こしちゃった?」
ひょいと視界の中に飛び込んできたのは、少しだけ申し訳なさそうな顔をした少女だった。年の頃は鳳牙と同じくらいだろうか。黒というよりは青を内包する闇色といった綺麗なセミロングの髪。その髪と同色の少し困ったような瞳。
ひどく鳳牙の心を揺さぶるその少女はしばらくの間は気まずそうな感じで鳳牙を見ていたが、やがてきょとんとした表情へと変化すると、
「えっと、鳳牙? 起きてる?」
自分の手をひらひらと鳳牙の顔の前で振り始めた。どうやら反応を示さなかった彼を見て少し不審に思ったらしい。
鳳牙は思わず目の前でひらひら舞うその綺麗な手を猫じゃらしに飛びつく猫のごとき俊敏さで捕らえ、
「ひゃっ!」
「……起きてるよ」
薄く頬を染めながらも驚いている相手の顔を見ながら、小さなため息を吐いた。何かを考えていたような気がするのだが、何を考えていたのかまったく思い出せない。
「……何か変な夢を見ていた気がするんだけど、忘れた」
「そ、そうなの? ……あの、ところでその、手……手なんだけど」
「手……?」
あわあわとした口調で言われて、鳳牙は自分が相手の手をきゅっと握りしめている事を思い出した。ほっそりした綺麗な手だ。その正体が作り物とはいえ、伝わる熱や感触は本物となんら遜色はない。
鳳牙自身よく分からなかったが、なぜかここでその手を放す事をためらった。ためらって、その事実に驚いた鳳牙はすっと手を放してしまう。彼の手のひらと指先の皮膚をこすりながら、彼女の手は離れていった。
「悪いな」
「えっ? あ、いや、そういうわけじゃないよ。別に触られるのが嫌とかそういうわけじゃなくて、むしろ鳳牙には触って欲しいくら――あああ今の無し! 今の無しっ!」
「うん?」
掴まれていた手をさすりながらもじもじぶつぶつと何やら呟いていた黒髪少女が突然に大声を出したので、鳳牙は地面に腰を下ろしたまま首を傾げた。
「えっとね。だから今のは私がそうして欲しいと思ったわけでは決してな――いというわけでもないんだけど、つまりは深層意識の願望……あああっ! 何言ってんだろ私!」
眺めているだけで少女がさらにテンパっていく。さすがにいい加減止めた方がいいだろうと思ったので、
「ちょっと落ち着け」
鳳牙はひょいと立ちあがると、ぽむと相手の頭に手を乗せた。身長にそこまで差があるわけではないのだが、木の根元という地形の関係で鳳牙のいる場所は彼女のいる位置よりも盛り上がっており、実にちょうど良い感じでそうする事が出来たのである。
すると先ほどまであれほどやかましかった少女の声がぴたりと収まり、
「あ、うあ……」
代わりに顔全体を真っ赤にして「あーうー」と言葉になっていない言葉を発し始めていた。その姿は潤んだ瞳と相まって鳳牙をどきりとさせるに十分な破壊力を有していた。そのため、彼は照れ隠しのために少女の髪をわしわしとかき回す。
「わわわっ! 鳳牙、女の子の髪に何て事するの!」
「うるさい。なんか急にそうしたくなったんだよ」
くしゃくしゃと相手の髪を乱したところで、鳳牙は手を離して身体を伸ばしながら歩き始める。木陰から出た事で、燦々と降り注ぐ太陽光が肌に熱を這わせていった。
「なにそれ!? って、ちょっと待ってよ」
くしゃくしゃにされた髪を直していた彼女が鳳牙の背後から声をかけつつ追いかけてくる音が聞こえてきた。鳳牙は歩く速度を調節しながら追いついてくるのを待つ。
「もうっ。鳳牙は意地悪だ」
「そんな事はないと思うぞ。本当に意地悪だったら初心者の熟練度上げに付き合うわけがないだろう?」
「そこはギブアンドテイクでしょ。ソロの『拳王』に付き合ってくれるヒーラーなんて私くらいなものだよ」
ふふんと胸を張る少女。残念ながら彼女の胸は誇るほどボリュームがあるわけではないのだが、女僧侶の可愛らしい服装と組み合わされる事でやや魅力的な姿ではあった。
「まあ確かにパーティーはともかく火力に難ありの拳王でソロっていうのは主流じゃないけどな。でも、スタミナの消費が激しいから回復魔法かけ放題だろ? 一人だとターゲットに迷う事もないし」
「そうだね。だから私たちはちょうどいいんだよ。……相性が良いとも言えるのかな?」
「ん? なんだって?」
「う、ううん。なんでもないよ」
ぼそりと何かが続けられたような気がして聞き返したのだが、少女が手と頭を振って否定したので、鳳牙はそれ以上解くには突っ込まなかった。
「さて、今日はどこへ行くかな」
「え? 今日は難破戦で低級アンデッド狩りするんじゃないの? 私が『レイ』を覚えたから試し撃ちしに行くんだよね?」
「お? そうだっけ?」
言葉ではそう返したものの、鳳牙は少女の指摘を受けた段階で今日の予定を思い出していた。確かに今日は彼女の言う通り、難破船に潜む骸骨たちを狩りに行く約束をしていたのである。
あの木陰は二人の待ち合わせ場所で、先に着いた鳳牙は待っている間に寝てしまったのだ。下手に眠ったためにやや記憶が混乱したのだろう。
「もう。さっさと歩き始めた割に変な事を言うよね。鳳牙は」
「悪い悪い」
確かに特に意識したわけでもなく歩き出した方角は、目的地である難破船がある方だ。これで目的を忘れているというのもおかしな話だろう。
「鳳牙。もしかして私の名前まで忘れてるとかそういう冗談はないよね?」
「いや、さすがにそこまでではないだろ」
「そう? じゃあ、私の名前言ってみてよ」
「言ってみろって、だいたい頭の上に名前なんて出っ放――」
何気なく見たその場所に、あるはずの物がなかった。
――あれ?
少女の頭上には何もない。白字で書かれていたはずの彼女の名前が、まるで最初からなかったかのように消え失せている。
「……鳳牙?」
きょとんとした顔で鳳牙を見てくる少女。彼女の名前。よく知っているはずの彼女の名前。
――なんだっけ?
しかし鳳牙は思い出せない。目の前の少女の名前を。何度も何度も口にしたはずのその名前が、頭の中に浮かんでこない。浮かんでこないというのに――
「いや、なんでもない。それじゃ行こうか。・・」
鳳牙の意思に反して、鳳牙の口は勝手に少女の名前を発していた。自分で発した声なのに、彼の耳にその名前は聞こえない。
そして次の瞬間に世界の時が止まり、ガラスが割れるような澄んだ音とともに一気にすべてが砕け散った。驚く間もないまま鳳牙の意識は暗闇に落ち、途切れる。
◆
もう五日目になった。明後日には最後の時が始まってしまうだろう。それまでに彼が目覚める事がなければ、他の者に全てを教えたところで何の意味もなかった事になる。
「………………」
未だ眠り続ける銀髪の少年。時折うわごとのように何かをしゃべっているのだが、不明瞭過ぎて言葉になっていない。夢の中で、彼はいったい何を見ているのだろうか。
――それが幸せな物であればと私が願うのは、傲慢なのでしょうか?
他の誰にするわけでもない問い。ベッドの傍らに立つハルナはそっと鳳牙の頭に手を置いた。なんとなくそのままくしゃくしゃとかき回したくなる衝動に駆られるが、そこは自制しておく。何の反応もないのではつまらないし、寝込みを襲う方法にしては幼稚に過ぎるからだ。
だからハルナは優しくあやすように鳳牙の頭をなでる。そうする事で何がどうなるわけでもないのだろうが、そうしたいと思う自分の心に正直な行為だった。
ギルドホームの中は静寂に包まれている。住人たちは今日もそれぞれに出掛けてしまっていた。ギリギリまで出来るだけの準備をしておきたいという事で、あの日から毎日外へ出向いている。
数が激減した事を含めて今が一番危険だと分かっているのに、彼らは奔走していた。鳳牙が必ず目覚めると信じて。
ハルナとしては目覚めて欲しい気持ち半分。目覚めて欲しくない気持ち半分といったところだった。鳳牙一人だけならこの場所にいる限りはハルナの権限でどうとでも出来る。
しかし解放を目指すのであればそうは行かない。上手くいけばそれでいいが、失敗すればハルナは永遠に彼を失うだろう。
――いえ、これはただの私のわがままですね。
先の二つの選択肢はあくまでハルナ自身の物だ。鳳牙の選択肢はまた別にある。むしろ彼にとっては解放を目指すという選択肢以外にはないだろう。それが普通であり、正しいのだから。
「………………」
ハルナは掛布の中から鳳牙の左手を取出し、ベッドのわきに膝をつきながらその手に自分の両手を重ねて己が胸へと押し当てた。目が覚めているなら顔を赤くして慌てふためく様が見れたのだろうが、生憎と今は望むべくもない。
――これもまた賭け。どのような結果になるにせよ、受け入れなければなりませんね。
胸元に抱く鳳牙の手を強く握り、ハルナは目を伏せて祈る。
――どうか……
淡く青い光がハルナを包み、触れた手を通して鳳牙にも光が伝播していった。
揺らめく光が踊る中、ハルナの祈りは続けられる。
◆
意識を取り戻したとき、鳳牙は再び白の世界に戻ってきていた。今度は何かを考えようとしても頭は痛くならず、吐き気もない。ただ身体の一切が動かせないのでゆらゆら漂うしかないのは同じだった。
そしてその世界にはもう一つの変化がある。それはところどころに浮かぶ妙な物体だ。絵を飾る額縁のようなそれは納めるべき絵を持たないままにふよふよ漂い続け、いくつもある中の一つが鳳牙の方へと漂って来て、突如テレビのようにある光景を映し出し始めた。
映像に移るのは二人の男女。闘衣を着た素手の男と杖を持った可愛らしいローブの女だ。
鳳牙はその二人に見覚えがある。先ほど、今にしてみれば自分でも不思議なくらい普通に会話をしていた少女と、自分自身だ。
おそらくは先ほどの続き。二人は薄暗い難破船の中で骸骨を相手に奮闘している。
『気をつけろ・・! 扉から出てくるぞ!』
『わわっ! えっと、えーっと、レイ!」
『げっ! 馬鹿そんなものこの狭い廊下で使ったら闇に慣れた目が――』
『うわわわ! なにこれ鳳牙まぶしくて何も見えないよ!?」
『やべ囲まれる。くそっ! こいつらなら引き付けて蹴散らせば一掃出来るか?』
自分の魔法エフェクトでリアル目晦ましをしてしまった少女を助けるため、映像の中の鳳牙は旋風脚からの豪震脚で周囲のモブを一掃した。
戦闘状態が解除され、目を瞑ったまま手探りをしている少女に近づくと、鳳牙はさまよう少女の手を取って危機が去った事を伝えたようだった。
少女が目に見えて脱力した頃、ちょうど視界が戻ったのかゆっくりと彼女の目が開かれ、失敗失敗というようにばつが悪そうな笑みを作る。
鳳牙が呆れ顔を作りながらその額にデコピンを叩き込み、その攻撃に起こった少女が抗議の声を上げ始めたところで、唐突に映像が途切れた。
映像を流していた額縁は再びただの額縁へと戻り、またどこかへ漂って行ってしまった。
――なんなんだ……これ。
先ほどの場所がCMOのゲームの中だという事は分かる。それも『拳王』の鳳牙が映しだされていたという事はかなり過去の映像だ。
しかしそんな頃の映像を自分で撮った記憶はないし、撮られた記憶もない。そして何より一緒にいた黒髪の少女を鳳牙は知らない。映像の中では名前を呼んでいたようだが、なぜかそこだけ聞き取れなかった。
どことなく誰かに似ているような気もするが、それが誰なのかすら思い出せないため鳳牙には分からない。
――ってか、そもそもなんで俺はこんなところにいるんだ?
自分が何をしてどうなってここにいるかが分からない。思い出そうとしても、何一つ引っかからないのだ。先ほどのように何かを見ればそれが何かは分かるのだが、それ以外が分からない。むしろ今現在、分からない事すら分かっていないようにも思えた。
「どうなってんだ?」
口に出して問うてみても、答える者はいない。しかし、その時になって二つ目の額縁が漂ってきた。そうして一つ目と同じように唐突に映像が流され始める。
映るのはやはり過去の自分と名の分からぬ少女。場所はカルテナの森のようだった。
『ねえ鳳牙~。骸骨ばっかりじゃつまんないよう』
『っても、骸骨じゃないと・・が攻撃に参加出来ないじゃないか。難破船よりもばーっと熟練度を上げたいって言ったのはお前だろ?』
『そうだけどさぁ……。なにかもっとこう、可愛らしいモブさんいないの?』
『可愛らしいって言われてもな。魚とか?』
『魚じゃ釣りになっちゃうじゃない』
『水中戦も仕掛けられるぞ。釣った方がドロップ美味しいからふんどし装備の物好きしかやらないけど』
『鳳牙は私に何をさせようとしているのかな?』
会話の内容からして、先の映像よりも未来に進んでいるようだ。具体的な日数は不明だが、おそらく二週間程度だろうか。以前から含めてずいぶんと長い付き合いがあったようだが、やはり鳳牙は映像の少女を知らない。彼女と二人で狩りをした記憶がない。
――誰だ?
知らないはずなのに映像の鳳牙は彼女の名前を呼び、時折愛おしそうな素振りさえ見せている。その自分でありながら自分ではないような姿に、鳳牙はひどく混乱した。
自分の知らない自分。そんな自分と一緒にいる見知らぬ少女。二人の姿を見ていると、たまらなく胸が締め付けられる。その痛みは後悔の念によく似ていた。もう戻らない。取り戻せない日々を想うような後悔の痛み。
三つ目の額縁が漂ってくる。
時はさらに進み、少女が携帯キッチンを出して料理している姿を鳳牙が後ろから眺めていた。出てきた料理はその手際のよさとは裏腹に形容し難い何かになっていて、突っ込みを入れた鳳牙にぷくっとフグのように頬を膨らませた少女が抗議の視線を向けていた。
――誰なんだ?
四つ目の額縁が漂ってくる。
丸々としてもふもふとしたずんぐりむっくりな毛玉族の集落へ買い物に来ていた。毛玉族は見かけに反して炭鉱で金属を採掘し、それを装飾細工に加工する事を生業としている。どうやら二人は少女の装飾品を買いに来たようだった。
露店に並ぶ品々を眺めて、少女があれやこれやと鳳牙に話を振っている。鳳牙も最初は律儀に答えていたようだが、しばらくすると早々に飽きはじめたのか対応がぞんざいになり、しまいには再び少女をフグにしてしまっていた。
――誰……なんだ……?
五つ目。六つ目。七つ目。八つ目。
全てが鳳牙と少女の記憶。しかしまるで覚えのない思い出たち。こんなにも鮮明な物なのに、何一つとして鳳牙は覚えていない。必死になって記憶を探っても、『獣人』になる以前の記憶に今まで見てきた映像は存在していない。
だというのに、映像を見るたびに胸の締め付けが強くなる。掻き毟りたくなるような衝動に襲われる。少女の笑顔を見ていると、涙が溢れて止まらない。
嬉しい。悲しい。楽しい。辛い。愛おしい。怖い。諸々の感情が鳳牙の中でめまぐるしく入れ替わる。心が痛い。身体が痛い。もう、わけが分からない。
精神がぐちゃぐちゃになってしまった鳳牙の下へ、九つ目の額縁が漂ってくる。
映し出された光景は、再びあの木陰だった。
『……それ、どういう事だよ。・・』
『……どうもこうもないよ。ただ、しばらく会えなくなるってだけ』
二人の顔は辛そうだった。先ほどまではあんなに楽しそうだったのに、今の二人の間にあるのは痛々しいほどの悲しさだけ。
『次は、いつ頃になるんだ?』
『……分かんない。でも、たぶんかなり長くなると思う。姉さんの手伝いもしないといけないから』
『…………そう、か』
親しくなった人との別れ。インターネットゲームの世界においてはそう珍しい事ではない。ゲームはあくまでゲーム。現実の世界ではない。現実の世界で何かがあれば、仮想の世界は真っ先に切り捨てられる。それが当然で、自然な事だ。
だが、それを分かっているはずの二人はしかし、今にも泣き出しそうな子供の様にさえ見えた。ギリギリのところで喚くのを抑えているようだが、こらえ切れない衝動はその身を小刻みに震わせている。拳を握りしめる鳳牙の腕が。肘を抱き寄せる少女の身体が。駄々をこねるように一つの感情を主張する。
離れたくない。別れたくない。もっと一緒にいたい。もっと近くにいたい。
先にこらえきれなくなったのは、鳳牙の方だった。
『あ……』
すっと間合いを詰めるように少女へ近づいた鳳牙は、相手に抵抗させる隙を与えぬ間にその身を抱きすくめた。
少女の口から小さな声が漏れ、反射的に抵抗する素振りを見せたが、結局は何もしないままされるがままに鳳牙に抱きしめられていた。
『・・』
抱く腕に力を込めながら、鳳牙が少女の名前を呼ぶ。
『鳳牙』
相手にその身を預けながら、あやすように軽く背中を叩く少女。その目尻から透明な滴が漏れ、頬を濡らしていた。
しばらくの間、二人はそれ以上何も言わずに互いの温もりを感じ合っていた。けれど、やがてどちらからでもなくその身を離し、まっすぐに見つめ合う。
『また、会えるよな?』
『………………』
鳳牙の問いに少女は答えない。その代わりに彼女は鳳牙の手を取ると、そのまま自分の胸に押し付ける。当然にして慌てふためく鳳牙だが、少女の真剣なまなざしによって落ち着きを取り戻し、ただされるがままに任せた。
「っ! 駄目、だ……」
その光景を見た瞬間、一際強い痛みが鳳牙の内奥に突き刺さり、思わず声を出していた。鳳牙はこの光景を知らない。けれど知っている。この後に何が起こるのかを。記憶にはないはずなのに知っている。それがなぜかは分からない。だが確かに知っているのだ。
『私は……私はね――』
少女が言葉を紡ぐ。映像の鳳牙はそれを黙って聞いている。
「駄目だ……」
『私は、鳳牙の事が好き』
「止めてくれ……」
『私は、鳳牙を忘れない』
「嫌だ……」
黙り込む自分自身に変わって、鳳牙はひたすらに届かぬ声を上げていた。少女の言葉が届くたび、幼子のように首を振る。彼女が言おうとしている事を。彼女がやろうとしている事がなんであるのかを理解してしまっているから。
『だけど……。だけど――』
「嫌だ嫌だ嫌だ――」
そして彼女はついに、
『――鳳牙は私を忘れて』
その言葉を口にした。
『――え?』
少女の言葉にきょとんとなった映像の鳳牙は、次の瞬間青く淡い光に包まれた。その光は少女へ伸ばされた腕を伝って彼女へも伝播する。
『なんだ……これ?』
映像の鳳牙が自分と少女を包む光を驚愕の表情で見ている。その光はまるで鼓動するかのようにゆっくりと明滅していた。
『ごめんね鳳牙。私は普通の人じゃないんだよ。だから、鳳牙に私の記憶を残す事は出来ない』
『……なんだよ。・・。なに、言ってんだよ』
鳳牙の表情がひきつった。それは恐怖によるものだが、その恐怖は目の前の少女が普通ではなかったという事を知ったものではない。これから彼女にされるであろう事。今、彼女が言った事に対する恐怖だ。
『冗談じゃない! ・・! お前の事を忘れられるわけがないだろうが!』
激昂し、鳳牙は少女の胸から手を離そうとして、再びその顔を驚愕に染めた。
その理由を、映像を見ている事しか出来ない鳳牙は知っている。身体が動かないのだ。まるで石化してしまったかのように、あの状態のまま動かせなかったのだ。
『・・! なんでなんだよ!? なんで……なんでっ!』
『ごめん……ごめんね。こうしないと駄目だから。こうしないと、きっと鳳牙に迷惑をかけるから』
涙を流しながら謝罪の言葉を口にする少女に、鳳牙は唯一動かす事の出来る頭を左右に振る。
『迷惑ってなんだよ。そんなの、初めて会った時からずっとじゃないか! 俺だって、お前に迷惑かけてただろ? それで、それでいいんじゃないか……』
鳳牙の言っている事は少女の言葉の意味とはズレている。そんな事は分かっていた。それでも、この時は肯定するわけにはいかなかったのだ。
いつの間にか、映像を見るだけの鳳牙は映像の中の鳳牙と意識をシンクロさせていた。
『駄目なんだよ。私だって、鳳牙とずっと一緒にいたい。だけどそれで鳳牙を苦しめるなら望まない。望みたくない』
『苦しめるって……そんなの今が一番苦しい。なんでお前と別れるだけじゃなくて、一緒だった記憶までなくさなきゃいけないんだ!』
ごく普通に考えれば、ゲームの中で人の記憶を操作する事など出来るはずがない。だがこの時は、本能的に少女の言葉が嘘ではない事を理解していた。記憶を奪われる。彼女を失う。そんなものを許容する事など出来ない。
だが、どれだけ懇願しても少女は止めてはくれなかった。
白い世界が済んだ音を立ててひび割れ、あちこちから欠片が零れ落ちる。
『私と関わった記憶が残ってたら、鳳牙は絶対に巻き込まれる。そんなのは駄目。私はちゃんと私になって、そうしてもう一度鳳牙と出会いたい。その時は――』
その時、鳳牙の言葉を吐き出す口は少女の口によって塞がれていた。ほんのわずか。啄むような口付けによって、鳳牙の伝えなければならなかった想いは伝えられずに終わってしまう。
世界の崩壊が始まった。剥がれ落ちる白の欠片の裏側には、虚無の暗黒が顔をのぞかせる。だが、今の鳳牙にそんなものは映っていなかった。
ただ目の前いる少女。鳳牙の世界は彼女だけだった。
『……ありがとう鳳牙。この世界で出会えたのが鳳牙で良かった。一番最初に声をかけてくれたのが鳳牙で良かった』
『止めろ……止めてくれ・・……。俺は……俺だってお前が――』
『じゃあね。私はずっと忘れないから。また、ね』
青い光が一際強くなる。そうして何かが体の中から抜けていくような喪失感を味わうと同時に、
『ハルー!』
「ハルー!」
二人の鳳牙は同時に少女の名前を叫んでいた。
世界のすべてが砕け散り、鳳牙の意識は再び闇に包まれる。
◆
目を開けた時、まず最初に飛び込んできたのは一人の少女だった。鳳牙たちのギルドホームの管理人にして、サポートメイドのハルナ。心配そうにのぞきこむ闇色の瞳に、ずいぶんとひどい顔をした自分自身が映り込んでいる。一瞬、それが自分であると分からないほどだった。
しかし、今はそんな些細な事を気にしている場合ではない。カラカラになって張り付くのどに苦労しながらも、鳳牙はその名を呼ぶ。
「………………ハル……?」
それを口にした瞬間、ハルナがびくりと体を震わせた。そうして逃げるように離れて行こうとするのを、
「待て!」
「あっ……」
跳ね起きた鳳牙は相手の腕を掴んで思いっきり自分の方へ引っ張った。バランスを崩して倒れ込んできた少女の体を受け止め、そのまま強く抱きしめる。ずっと近くにいた、誰よりも愛おしい存在を。
「お前、だったんだな。ハル」
もう離さないと、鳳牙はしっかりその華奢な身体を抱き寄せる。ハルナは最初から抵抗をあきらめているようで、ただされるがままになっていた。
「……やはり、思い出してしまいましたか」
「ああ。思い出した。お前と出会ってからの半年間。ずっと忘れていた、忘れたくなかった記憶を全部。全部思い出した」
白い世界の中で見たもの。それは失ったはずの鳳牙自身の記憶だ。目覚めぬ鳳牙のために、その覚醒を促す目的でハルナが返した彼の一部。
記憶を取り戻した事で、鳳牙はこれまでハルナに抱いていた妙な感覚の全てを理解した。
「あの時お前が言っていたのは、この事だったのか?」
「はい。ですが、その話は少し後でも構いませんか?」
少し身をよじって二人の間に空間を作ったハルナが、その闇色の瞳で鳳牙の銀の瞳を見つめてきた。互いの顔が良く見える。鳳牙は彼女の言葉を待った。そして――
「ただいま。鳳牙」
ハルの口調でそう告げられて、
「……ああ。おかえり。ハル」
鳳牙は自然と笑みをこぼしながら、一人の少女の帰りを迎えた。