何を思って母が私の目を炙ったのか。
どこから持ってきたのか、昔ながらの松明に火をつけ、私に押し付けてきたのは何故か。
色が変わると思ったのか。意味がないのに。
年中付けていたコンタクトを固着させようとしたのか。寝ていて付けていなかったのに。
それとも私そのものを燃やしたかったのか。
今となってはもうわからない。
母はすぐに病院に送られ、今現在もそこにいる。おそらく死ぬまで出ることはないだろう。
彼女にとっての理想の子ども、両目に違う色のボタンを付けた人形と共に。
その後の環境は、私の理解を得ることも落ち着くことも許さずに、粛々と進んだ。
それを知ったのは、事件から三日後に学校に行ったときだ。
右目に眼帯をした私を見て、それまで仲良くしてくれた友人たちは、何も言わなかった。
話しかけてもこなかった。私から話しかけても無視した。
その目にはあざけりが見えた。
私が違うと思っていただけで、彼等は実は能美家の取り巻きだったのだ。
それを決して悟らせない演技者だった。
家に帰っても同じことが続いた。
優しく厳しかったじいやは私を完璧に空気として扱った。
後で知ったことだが、父が、アレは私の子ではない、と言ったそうだ。
それを知った各人が、そうした態度をとったらしい。
泣いた。しかし誰も構ってくれなかった。
学校に行かずとも、風呂に入らずとも、暴れようとも、ベッドでただ丸まろうとも、誰も何もしてくれなかった。
食事の用意と目の手当てだけはしてくれた。
幸いなことに、右目は特に障害は残らず、五日ほどで眼帯も外せた。どうでもよかったが。
涙も枯れ果て、混乱もおさまり、うすうすと自分の置かれた状況を理解しはじめ、絶望が影を指し始めたころ。
私は捨てられた。
その日、一年ぶりに父に呼ばれた。
わかりきっていたはずなのに、私はかすかな、本当にささやかな、自分でも九分九厘ないと思いながら、一厘以下のほのかな期待をしてしまっていた。
そんな私に冷たい目をした父は、お前はこれから別の家に住むことになった、と告げてきた。
荷物をまとめなさい、と遠足に行く時位の小さなバッグを渡してきた父を見て、私は理解した。
一厘の奇跡は起こらなかったのだと。
泣きたかった。しかし泣いても何にもならないと、身体が理解してしまっていた。
冷え切った孤独な一年間が、私を大人にしていた。
実用的なシャツやズボンを数枚と下着だけをバッグに詰めた。スカートは入れなかった。
五分ほどで下りてきた私を、父は応接室に連れて行った。
そこには類さんがいた。
紺色のパンツスーツに黒のインナー、小振りなイヤリングと薬指につけた簡素な指輪。
そして肩ほどまでのまっさらなストレートの黒髪。
顔には柔和さと自信の入り混じった余裕を感じさせる笑顔が張り付いている。
今と変わらない、類スタイル。
私はそのとき、ほんの一瞬だが、類さんに身とれてしまっていた。
父は類さんに、ではおねがいします、と言うと、私の背中をぽんと押した。
服越しの冷たい手から伝わってくるぬくもりは、すぐに消え去った。
そのまま二歩三歩と進み類さんのすぐそばまで行ったとき、足が何か言うことはないの、と類さんが言うのが聞こえてきた。
私はびくっと身体を震わせた。何と言えばいいのかわからなかった。
それでも言葉を探しつつ、覗うように見上げると、彼女の視線は私ではなく父に向けられていることに気付いた。
父は何も言わなかった。
類さんは少しだけ待った後、ぱっと私の方を見て、じゃ行きましょ、と手を伸ばしてきた。
了解を得ることなく私の手を掴むと、類さんが身をひるがえし、外に出て行こうとした。
そのとき、父が、金は渡してあるから生きていける、と言うのが聞こえてきた。
ああ、と私は口の中だけでもらした。
類さんはため息をつき、私をひきつれ外に出た。
それから当時の私には粗末にしか見えなかった馬車に乗り、移動した。
その間、類さんは何もしゃべらず、じっと外を見ていた。
そんな類さんを見て、これからどうなるのかと、私は初めて思った。
途端に実感を伴った危機感がわいてきた。
初めての経験だった。
先のわからない、目を閉じて歩くような感覚が、全身に鳥肌を立たせた。
そうこうしている内に、馬車が止まった。
類さんに促され外に出ると、目の前に水城と書かれたプレートのかかった家があった。
初めは使用人の家かと思ったが、類さんに、これが私達の家だから。あなたも貴族の外の世界を知らなくちゃね、と言われ、これが新しい家なのだと理解した。
こじんまりとした部屋の隅に荷物を置くと、それからすぐに病院に移動した。
そこには歩がいた。私を見て、彼はびくっと身体を震わせた。
意図がわからなかったが、少ししてその動きに見覚えがあったことを思い出した。
女性慣れしていない男子が、私を見たときの動きだ。
それで少し落ち着くことができた。
着くなり類さんは、ごめん、ちょい野暮用、と言うと出て行き、歩と二人きりになった。
歩は話しかけてこなかった。
最初によろしく、とだけ言い、後は手持ちぶたそうにうろうろしていた。
私はそれが気恥ずかしいからだとわかっていた。
自分で言うのはなんだが、自分の容姿がそれなりのものであることは理解していたし、その結果の歩の反応だとも把握できていた。
歩に近付こうとしたとき、気付いた。
私のこれまでの人間関係はどういったものだったのか。
父の言葉一つで、誰もが私を無視するようになった、アレを。
途端に怖くなった。
歩が何を考えているのか、私をどう思っているのか、自信がなくなったのだ。
見知らぬ他人がいきなり家族になるなんて、嫌に決まっている。
それも物知らずの貴族だ。
よろしく、と言われた後、はっきりと返事していない。
不作法だと思われなかったか。
歩を見て、私はどんな表情をしていた。
くすっと笑ってしまっていた? 最悪だ。意地悪な顔をしていたに違いない。
それに歩の評価はこれからの人生に直結する。
歩に嫌われたら、当然類さんもいい顔はしない。息子と他人の娘、どちらを選ぶかなんて決まっている。
なのに私は。
嫌な想像ばかりが浮かんだ。
私は身体を固くすることしかできなかった。
類さんが帰ってくると、歩と他愛ない会話を始めたが、そこに入って行くことはできなかった。
類さんも軽く話しかけるだけで、私を輪の中に入れこもうとはしなかった。
私自身に任せるような形だった。
私は逃げたかった。この部屋から、類さんから、歩から、あらゆるものから。
帰りたかった。何も知らなかった私に。一年以上前の仮初の日々に。
しばらくして、真夜中、歩がトイレから帰ってきたとき、歩と類が軽い口論のようなものを始めた。
そのとき何を思ったのか、私は口を挟んでしまった。
そんな私を二人は優しく受け止めてくれたのだが、しかし咄嗟に、私なんていないほうが、と言ってしまった。
何を馬鹿なことを言ったのか、と思った瞬間、歩が勢いよく否定した。してくれた。
ほっと胸をなで下ろした。
すると歩が近付いてきて、話しをしてくれた。
わかった。歩はいい人だ。嘘まみれの経験ばかりの私でもわかった。
演技かもと思ったが、すぐに違うとわかった。
歩は不器用で、それでも自分を焚きつけて、なんとか私を楽しませようと、馴染ませようとしてくれている。
いきなり増えた見知らぬ私を気遣ってくれている。
そして私を支えようとしてくれている。安心させようとしてくれている。
それらは不器用だからこそ懸命な姿で伝わってきた。
私は笑うことができた。笑えた。正真正銘の、久しぶりの笑みだ。
本当に温かいものが、胸の内に芽生えるのがわかった。
そうこうしている内に、イレイネが生まれた。
ぐにょぐにょとした不定形が、序々に身体を形作っていく。
ミニチュアサイズの子どものような愛らしい姿。
どこまでも透きとおった身体。
なめらかな表面はゼリーのように柔らかな光を反射させる。
そのときになって竜が生まれなかったな、と思ったが、なんだかどうでもよかった。
自身の中に芽生えた温かなものが、嫌なものを全て忘れさせてくれた。
しかし。
肝心の歩のパートナーが生まれたとき、私の中で嫌なものがどっとわき起こった。
竜。アーサー。インテリジェンスドラゴン。竜使い。貴族の証。
心臓の音と共に、頭の中で木霊した。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ歩に竜が生まれる。
なぜ私じゃない。
なぜ貴族であるはずの自分じゃない。
もしかしたら、本当にもしかしたら、私のパートナーが竜だったら、家に帰れるかもしれないのに。
なぜ。
なぜ歩に。
なぜ。