リーゼロッテの家は歩の家に近かったため、歩達はいつもどおりの帰り路を歩いていた。
通い慣れた商店街を通る。時折大型の牛や大型犬の各種車が行き交う道に、夕方の喧噪が響き、赤く色づき始めた夕焼けがなんとも美しい。
しかし隣にいる彼女の存在感はもっと上だった。
見慣れぬ竜の存在も拍車をかけたが、歩にとっては彼女のほうが上だった。
赤い光に照らされ少し白くなった金髪が、足を上げる度にふわふわと端が持ち上がり、煌めいて見える。
スカートも小刻みに揺れ、夕日に照らされたすらっとした身体の曲線は、どこかなまめかしい。
「それで少しお話したいんだけど、どこかいいとこないかな? 家でもいいけど、初対面の人の家ってのも、なんか緊張するでしょ?」
「ならあそこ行くかの」
そう言ってアーサーが先導したのは、学生が行くにしては高めな喫茶店だった。
客は少なく、ムードたっぷりの音楽がかすかに流されていた。
人に聞かれたくない話をするにはぴったりの場所だった。
「ふむ、マスター、いつもの」
自分で飛んで移動してきたアーサーは、座席に座りこむと息をつきながらそう言った。
悪食蜘蛛の一件から、アーサーは歩の肩に乗らず、ちゃんと自分で翼を動かし移動するようになった。
やはりなんにしろ、体力を付けるに越したことはないのだと痛感したようだ。
「いつものってそんな来てないだろ」
「類とのデート終わりはいつもここだったぞ。最近は来てないが」
「あのクソババア。俺のときは適当に済ます癖に」
類は買い出しに行く時、歩とアーサーのどちらかを連れていく。
いつも一緒だと気が詰まるでしょ、という気遣いらしい。
ただの荷物持ちか、と昔は思っていたが、アーサーがそんなに役立つわけはないことに気付いた今となっては、会話要員だと思うことにしている。
「味より量なお前に気遣ったのであろう」
「クレープやらハンバーガーやら、だいたい露天の適当なやつだぞ」
「いいお母様ね」
そう言いながら、リーゼロッテは席に座りメニューを広げると、すぐに頼んだ。
続けて、竜の飲めるものはありますか、と尋ね、マスターがこちらになります、とメニューの後ろ側を示すと、それもさっと選び告げた。
リーゼロッテの洗練された対応もだが、それ以上にマスターの竜使いに対する畏れを全く見せない、他の客に対してと変わらないプロの態度に、歩はなんだか圧倒された。
歩がアーサーと同じもので、と頼み終えると、マスターは過不足ない頬笑みの後、さっと引いていった。
背筋のあたりに心地良い鳥肌が流れ、もやもやしたものが洗われた気がした。
「ここいいね」
「ああ」
「我の眼力よのう」
「言わなければもっと良かったのに」
くすくすと笑いながらリーゼロッテはそう締めくくった。
しばらくして出てきたコーヒーの香りを堪能した後、歩は切り出した。
「それで婿の話だけど、色々聞いていいかな?」
「はい」
「我はほとんど何も言わんから、勝手にな。マスターもう一杯。今度はおすすめを」
アーサーは本当に何も言わないつもりみたいだ。
「婿っていうと、なんていうか、どんな?」
自分の問いの馬鹿さ加減がなんとも言えなかったが、リズは笑うことなく言った。
「私の実家は、ケーニッヒブルグの聖竜会所属の貴族で、家格としては中堅上位ってとこですかね。おじい様のおじい様が聖竜会幹部の一人を務めました。代々学者気質で、出世に興味が薄いこともありまして、その程度ですが、望めばもっと上に行けると思います。仲のいい方々にはいいところも多いですし」
いきなり話が生臭くなった。彼女の口調も丁寧なものに変わっている。
気を引き締め、具体的な質問を口にした。
「それでなんで俺を婿に?」
「私が歩君のファンだったから、って言ったら変ですか?」
にっこりと笑みを浮かべ、リーゼロッテは言った。
少しくらっとキた。
「流石に」
ふっと息をもらした後、笑顔のままリーゼロッテは続けた。
「三つあります。まず一つ目は歩君の活躍です」
「活躍?」
きょとんとしてしまった。
活躍? 俺が?
「人の身でキヨモリさんと渡り合い、倒したこと」
「いや、あれは」
アーサーがいなければ負けていた。
その他にも最近色々あったが、活躍と呼べるものはあっただろうか。
どれもあくせくした揚句、病院にお世話になりまくったものばかりで、頭が痛くなる。
「アーサーいなけりゃ負けたし、今やっても十に一位だよ」
「御謙遜を」
謙遜っていうか、事実だし。
なんとも言えないと思っていると、彼女はすっと笑顔から力を抜いた。
笑みではある。しかし他所いきの顔。
「では幼竜殺しの一件では? 最近では外地の悪食蜘蛛も倒されましたね」
脳が一気に冷えた。
幼竜殺しも悪食蜘蛛の一件も、表には出ていないはずだ。
前者は歩達の関与すら、後者は特別な悪食蜘蛛だったことを、隠しているはず。
なのになんで知っている?
それに悪食蜘蛛に関しては、外地のものと断言までしている。
これは確実に。
「すみません、調べさせていただきました。聖竜会副会長の企み、ということもです」
そんなところまで知っているのか。
その上副会長? そんな高いところからの命令だったのか。
ならば一層公にしないよう、犯人達は気を配ったはずだ。
なのに知っている。
目の前の女性とその背景は、完全に唯を狙ってきた彼等と同じ世界の住人だ。
「蛇の道は蛇、っていうと引きずり込もうとしている身としてはなんか嫌ですね。あ、副会長は会長に抑えられたようなので、もう安心なさっていいと思いますよ」
「それはいいニュースだ」
信頼できるかはわからない、と頭の中だけで付けくわえる。
目の前の人間は、二回も殺されかけた陰謀の主達と同じ領域に住むもの。
信用できたものではない。
「そんな目で見ないでください。少なくとも私はあなたを貶めることはないですから」
それには答えず、問いで返した。
「それで何が評価されて、俺を婿に?」
彼女が一瞬悲しそうな顔を浮かべたが、引きずり込まれそうな自分を止めた。
彼女との間に見えない膜を張る。決して感情移入しない。してはやられる。
「唯さんの戦い方ってどうか知ってますか?」
話が飛んだ。
「それに何の関係が?」
「本人に戦える力があるのに、竜を前面に押し出し、守りに徹するといったものじゃないですか?」
頷いて返す。
以前唯と刃を交える機会があったが、歩の槍を十分に捌いていた。
全力でやりあったら、流石に負けはしないかな、というレベルだったが、今まで戦った人間の中では、少なくとも五本には入る。
「それで?」
「その戦い方は、竜使いとしては基本の、王道です。というのも、竜使いは強いですが、それ以上に竜が強いからです。どんなに強くても竜使いも所詮人。竜にとっては些事です。犬猫の喧嘩みたいなものです。なのに、その竜にとっては犬猫位でも、人が負けて死ねば竜も死んでしまう。パートナーですから。そんな馬鹿なことはありません」
「だからそれが何?」
思わず強い言い方になってしまった。
早く本題に移って欲しいというのが理由だと思ったが、違う。
自分は目の前の外国人に好意を抱いていた。
異性としてではなく、もっと前の段階の、人としての好意。
この人は良い人だという、純粋な感情。
それを裏切られた気がしていたのだ。
それを自覚して、更に続ける。
「早く終わらせたいんだ、が」
そこまで言って、止めてしまった。
驚いたからだ。
目の前の女性が泣いている。
いや、泣いていない。涙は流れていない。微笑んでさえいる。
しかし彼女は泣いていた。親に手を撥ね退けられた子どものような顔だ。
泣きだす前の、え、という顔のまま固定したような、そこでなんとかとどめた表情。
何も言えないでいると、彼女は口を開いた。
「歩君は人としてなら世界で五指に入ります。全竜使いも含めてです」
きっぱりとした断定口調だった。
聞くこちらが気持ちよくなる位、過大評価だと照れてしまうのが逆に恥ずかしくなるような、そんな力強い言葉だった。
歩はまたも何も言えなかった。
展開に頭がついていかない。
先程の悲しそうな表情に人生で一番の褒め言葉が交わり、ごっちゃになっている。
言葉が、出ない。
「人間最強クラスだから何だ、パートナーの前じゃ何にもならない、と思われるかもしれませんが、相応の敬意は発生します。それが一つ目の理由」
彼女は更に続けた。
「二つ目が、アーサーさんです。インテリジェンスドラゴン。伝説上の竜。私の家は伝統と学者気質が相まって、関心が高いんです。それに十分な威光もある。幼竜殺しのときの真の姿があれば、E級だなんだは無意味ですし」
アーサーに視線をやったが、目を閉じて静かにコーヒーを傾けていた。
両手を一杯に広げてカップを持つという、まあ、可愛らしい姿なのに、厳かな雰囲気を纏っている。
「我は構わず、続けよ」
「三つめ、聞きますか?」
自分に尋ねられていることに気付き、慌てて返す。
「あ、ああ」
しかし彼女はすぐに返答してこなかった。これまでとは違っていた。
笑みにどこか自嘲の色が混じり、赤みが増す。目も潤んだ。そして寂しさの色合いが強まった。
少しして口を開いた。
「私が歩君のファンだからです」
「えっ?」
それって、うん、なに?
彼女ははっきりと照れながら言った。
「リンドヴルム――私のパートナーは竜ですが、飛竜型で、特別大きな力を持っているわけじゃありません。勿論普通の他のパートナーには負けませんが、竜の中に入ると、まあ真ん中から上に行けたら僥倖ってとこです。生まれ持った才能というやつですね。
そういった先天的な条件を越えるために必要なのは、努力です。それしかありません。しかし私には何もできない。所詮人ですから。歯がゆいことこの上ないです」
彼女の声には力があった。感情が込められている。おそらく事実だろう。
「そんな私にとって、人の身で竜を、キメラを、外地の魔物とやり合うなんてのは、おとぎ話の憧れの話ですよ。まず越えられない壁です。なのにあなたはそれをやってのけている。キヨモリさんから、理想的な竜から十の一取れる? 尋常じゃないです。私にとっては夢みたいな憧れの存在ですよ」
彼女の表情に変化はなかった。ただ全体に赤らみ、少し汗ばんでいる。
手をみると、姿勢よくテーブルに置かれていたが、ぎゅっと握られていた。
こそばゆい。そう思うと同時に、全身に心地良いうずきが這っていく。
なんとも言い難い幸福感。他人に認められ、好意を向けられるという事実。
幸せ。脳を突き抜け飛翔していくような感覚。
それらは目の前の女性が授けてくれたものだ。
しかし、自分は彼女に何をした。
そう気付いた瞬間、反射的に頭を下げ、喉から声が漏れた。
「ごめん」
「謝らないでください」
ひどいことをした。いや、最低なことをした。
本物の好意をもっている人を邪険に扱った。
悲しんでいるのに気付きながらも、敵意が明らかな視線を浴びせ続けた。
彼女は本心で自分のファンだと言ったのに。
人生でこれほどまでに人を踏みにじったことがあるだろうか。
仇で返したことがあるだろうか。
自分は悪くない。彼女が勝手にやっただけ。打算だ。演技かもしれない。こんなことになるなんて思ってなかった。誰も予測できなかった。仕方がない。
反射的にそう思った。自己防衛の本能だ。
身勝手な理屈だったが、ただ今回の場合、いざ考えてみると、おそらくどれも当たっている、と思った。
歩を婿に迎えるのは、勝手に彼女達が考え、いきなりぶつけてきたもの。
当然政治的な利害にのっとってのもので、打算がある。
彼女が好意を持っていたとしても、それだけで歩を婿に呼ぶというのはない。
実際、彼女は歩の婿としての価値を語った。
そのために彼女は自分に嫌われまい、好かれようと演技をしていたのは間違いない。
そしてそれらは予測できるものではなかった。
歩が警戒したのも当然だ。
しかし歩は思った。
だったらどうというんだ。
自分は好意を持てるすばらしい人を傷つけた。それ以上に何が必要なんだ?
「ごめん。俺は最悪だった」
「いえ」
「本当にごめん」
何ができるか考えたが、何もなかった。
なんでもする。薄っぺらな言葉だ。
何を言っても自己弁護に過ぎない気がした。
いっそのこと、罵倒でも、なんでもしてほしかった。
「一つ願いを叶えてくれるってのはどうですか?」
顔を上げた。彼女の茶目っけを捻りだした顔が写った。まぶしい。
「いくらでも」
「一つでいいです」
「では何を叶えようか」
「何にしよっかな」
いたずら気にリーゼロッテは言った。
かわいい、と素直に思った。
「では婿になってください」
「――それはちょっと」
「いくらでもって言ったじゃないですか」
それはなんというか言葉の綾というか、決めるには大きすぎるというか、もっとちゃんと決めるべきというか。
「冗談です」
ほっとしたが、彼女は続けて言った。
「では別枠でささいなお願いを」
「どうぞ」
「リーゼって読んでください。それと歩君って呼び名を認めてください」
少し戸惑ったが、こくんと頷いた。
「歩君」
「何?」
「歩君」
「……」
「歩君」
「リーゼ」
「はい、歩君。コーヒー美味しかったね」
「ああ」
こそばゆい。
「マスター。クーラーの設定温度下げてくれ」
「アーサーってほんと一言多いよね」