帰途はアーサーといつものように軽口を叩き合い続けて、たまにみゆきが入ってくるという、小学生たちのことを忘れてしまいそうなほど、いつもどおりだった。
途中でみゆきと別れてからも平常通りで、結局やむことはなく今になっている。
「「ただいま」」
歩は玄関のドアを開けて、先にアーサーを入れてから中に入った。
「お帰り」
玄関を通り過ぎリビングに行くと、グラスを傾ける母親の姿があった。テーブルの上には、半分ほど減ったウィスキーの瓶がある。
母親の類が片方の眉を傾けて言った。
「みゆきは一緒じゃないのか」
「ああ。ってか別に来る日じゃないだろ?」
「なんだけどね、来るかなーとか思ってたのよ」
半年ほど前まで、みゆきはこの家に住んでいた。事情は結局教えてもらっていないが、養子のような形にしていたらしい。突然できた妹のような存在に戸惑ったが、一緒に暮らす内に逆に世話をやかれるようになり、最終的には逆に姉のように振る舞っていた。
ところが一年前、みゆきは独立する旨を言い、家から出て行った。といっても仲違いしたわけではなく、ただ独立したかっただけと言っていた。金銭面で特に苦労していないらしい。類は寂しがったが最後は快諾し、親子三人+三体の生活はそこで終わった。
「残念。いっぱい作ったんだけどねえ」
「まあ、そう言うなって。週末一緒に飯食ってんじゃん」
類は交換条件として、みゆきに週末は家に来てご飯を一緒にとるように言いつけている。みゆきもそれを快諾したため、週末になるとこの家に来て泊まっていく。独立したとはいえ部屋もそのままにされており、大学になって出ていった姉のような状況だ。高校で同じクラスが続いていることもあり、未だに関係は薄くなっていない。
そういった経緯があるため、歩にとってみゆきは、姉であり、妹であり、同級生であり、親友であるという、なんだかよくわからない存在になっていた。
「ってか、酒飲むのはええよ。まだ七時だぞ」
「お固いこといいなさんな。飯はもう作ってあるから、風呂はいってこいや」
台所を見ると机の上にはもう準備がしてあった。後は温めてよそうだけ、といった感じで、完全に歩を待っている状況だ。
さっさとシャワーを浴びようと自分の部屋に向かおうとすると、歩の隣をさっと飛び抜けたやつがいた。
「我が杯の用意はあるか!?」
「飲み友の分、ないわけないじゃん。ほれ、駆けつけ一杯」
「これはかたじけない」
早く戻って来ないと飲兵衛ができあがってしまう。半端に酔ったアーサーのたちの悪さはいつもの比ではないため、自室に向かう足を速めた。
ドアをあけてすぐのところにバッグを放り適当に服をひっつかむと、急いで脱衣所を兼ねた洗面所に向かい、服を脱ぎ捨てて烏の行水。大雑把に身体を拭いて居間に行った。
時計を見ると所要時間は五分ほどだったが、それでも遅かった。
アホが歩に向かって飛んできた。すさまじい酒の匂いも一緒に流れてきた。
「おーい、こっち来いよ歩。一緒に飲もうぜ~」
アーサーは酔いが回ると口調が若くなる癖があるのだが、それは大抵潰れる直前。
いくらなんでも速すぎるだろうと嘆息しながらもからまれずに済んだことに安堵しつつ、アーサーに声をかける。
「飲まねえよ。お前、そんなんで飯食えるのか?」
「あ~余裕っしょ。じゃあ飯食うか。母上殿、お願いします」
「はいはい」
「おい、あぶねえよ」
翼を広げて宙に浮いているのだが、右へ左へふらふらするばかりで、いつ墜落するか見られたものではなかった。
「あーもう」
下からすくいあげるような形で両手にアーサーを受ける。
小さな身体が歩の手の中に綺麗に収まった。
「あー、あんがと」
「おい、アーサー?」
そのまま言葉にならない言葉を二、三呟き、アーサーは眠ってしまった。
ひとまずソファの隣にあるアーサー用の籠に乗せて、毛布を被せる。歩の部屋にもこれと似たものがあり、いつもはそこで寝ているのだが、今日はここで朝を迎えることになりそうだ。
頭だけが毛布から出る態勢で眠りこけるアーサーを眺めていると、母親の笑い声が聞こえてきた。
「あはは、相変わらず弱いわね」
「わかってんなら飲ますなよ」
アーサーをそのままにしてリビングに向かうと、もうご飯がよそってあった。献立は、アジの塩焼きにすき焼き。どうもミスマッチだ。
これはおそらく。
「このアジはつまみの分?」
「ハハハ、作り過ぎちゃってさ―」
文句を言いつつも、アジを摘まんで口に入れる。脂ののった温かい味が口中に広がった。母親の顔を見ると、満足そうにこちらを眺めていた。
恥ずかしい気持ちはあるもののおとなしく食べ続けることにした。黙って箸を動かしていると、母親がテーブル傍の足元に屈みこんだ。見ると、そこには類のパートナーである白猫のミルがいた。歩のものと同じ焼き魚をもらうと、勢いよく食べ始める。文字通りの猫舌のミルがすぐに食べられるあたり、先に焼いていたようだ
「どう?」
「旨い」
「そう」
歩はすき焼きにも手を伸ばす。すき焼きにしては甘さが薄めなのだが、これで育った歩にとっては逆にこれ以上甘いと美味しく感じられない。外で食べるすき焼きは逆に食べられない位だ。
黙々と箸を進めていく。お腹が減っていたのもあり、今日の夕食は格別だった。隣で張り合う相手がいないのが、寂しいといえば寂しいが。
黙って食べ始めると、つけっぱなしになっていたラジオの音が食卓を満たし始めた。『目で見ず頭で見ろ』を信条としている類の意向で、水城家においてテレビがつけられることはほとんどない。そのかわりにラジオが常時稼働していて、ニュースを届けてくれる。
ラジオは異常増殖した黒蛇の対処に、軍が出動したというニュースを流していた。魔物は頻繁に人間の生活圏内に姿を現すため、こうしたニュースは多い。普通の学校でも模擬戦などが行われている理由だ。竜が異常なまでに特別扱いされている理由でもある。
しかし歩はそうした実感が湧いたことは今でもない。他の一般生徒達でもそうだろう。こうしてニュースで見聞きする位で、ほとんどは軍によって処理されるためか、返って全く別の世界の話しを聞かされているような気がしている。
鍋の中身が七割ほどまで減ったころ、ニュースの内容が変わった。インタビューに移るようだ。みゆきが言った。
「あ、今大人気の隊長さんか」
インタビューの相手は国軍の第一陸戦部隊隊長だった。第一陸戦部隊隊長といえば、国でも屈指のパートナーを持つものでしか務まらない役目なため、竜使い以外がなることは少ないのだが、今の隊長のパートナーはペガサスのような外見の機械型だ。親近感から大多数の竜使い以外の人から人気がある。
若い女性の声のインタビュアーが尋ねた。
「それでは、少し踏み込んだところの話をお聞きしてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
「竜使いでないものが、今の地位にまで上り詰めた秘訣は何かあるでしょうか? 卓越したレーダー機能によるところも大きい、と言われていますが、そこについてもお願いします」
「レーダー機能は、確かに有効なものです。敵味方の場所を捕捉、識別できるというのは、戦場においてかなりのアドバンテージですからね。ですが、同じ機械型の中にはレーダーを無効化できるものもおります。事実、私のパートナーも無効化できますしね。ですので、一概に優れているとは言えません。やはり日々の鍛錬と自己の克己、それに尽きます。竜使いに及ばないことは確かですが、象と蟻ではなく、象と猪位までならなることは可能だ、と個人的には思っています」
「なるほど。では次の質問は不躾なものですが、答えてくれますよね?」
「プライベートに関しては黙秘させていただきます」
冗談まじりに答える隊長の姿が目に浮かんだ。以前見たことがあるが、随分な美丈夫だった。俳優といっても通用しそうな柔らかい雰囲気をもっており、それは声しか聞こえないラジオでもよくわかった。
「以前所属しておられた後方支援部隊は画期的な部隊でした。戦場で行き交う情報の収集、伝達を全て一元化することで、総合的な戦力を強化することに成功。あなたが第一陸戦部隊隊長に抜擢されたのも、後方支援部隊の設立者であったことが大きいと聞いています」
「まあそうですね。いい部下に恵まれましたから」
「そのいい部下とおっしゃられた隊員達の内、一人も第一陸戦部隊に引き抜くことはしなかった、というのはどうしてでしょうか? 腹心の部下も三名までなら連れていける、と聞いたことがあるのですが。それは第一部隊は隊長を除いて全隊員が竜使いだからでしょうか」
「また随分ときついことを」
「どうかお願いします」
「部下を連れていかなかったのは、純粋な実力の問題です。後方支援部隊は文字通り、正面から戦うものではないですが、第一陸戦部隊ともなると相応の力は求められます。魔物相手の戦場では何が起こるかわかりませんから、最低限自分の身を守れる位、足手まといにならない位は必要です。ですが私自身、なんとかついていっている、というレベルですので、彼等には難しいのではないかと思いました。それ故です」
「一部では、竜使いの方々が嫌がった、という話もありますが」
「全くそんなことないですよ。逆によくしてもらっている位で、こちらが申し訳なくなることも多々あります。私自身、時折この地位にふさわしくないのではないか、という疑問を持つことも多いですし」
「また御謙遜を。では……」
これ以上聞く気はなくなってきた。過剰なまでの竜に対する謙遜と卑下は、歩にとってはこそばゆいどころか皮膚をがしがし削られている感覚がする。
「消していい?」
「いいよ」
立ち上がり、ラジオの電源を落とした。そこから再び席に戻ろうと振りかえったところで、母親の類がなにやら自分をみつめているのに気付いた。嬉しそうでもあるが、どこか影のある感じだ。なにはともあれ、みつめられるのは気恥ずかしい。
「なんだよ」
「いや、なんでもない」
適当に答えてきた類は半分程残っていたウィスキーを喉に押し込み、更にグラスに注いだ。
「みゆきやアーサーがいたほうがいいけど、あんたと二人きりってのもたまにはいいね」
「たまにはね。争う相手がいないのは楽だ」
「みゆきはともかく、アーサーはどこに入るのかってくらい食べるからね。食い意地汚いし」
水城家の家族構成は母親に息子にそれぞれのパートナーを加えた、二人+二体。みゆきが加わる以前と以後は、ずっとこうだ。俗に言う母子家庭であり、母親たる類は日頃忙しく働いているため、歩とアーサーの二人だけで夕食を済ませることが週に二、三回はある。
手元のグラスの中でウィスキーと氷をくるくると回しながら、類が言った。
「ねえ、今日何があったか話してよ」
たまにこんな風に大雑把に話を振られることがあるのだが、嫌がっても大抵押し切られてしゃべることになるため、歩は諦めて話すことにした。
話題は、一時間前にあった出来事。
甘みの少ないすき焼きを堪能しつつ、思いつく限り駄々漏れで口に出していく。
全て話し終えると、それまで聞き役に徹していた類が口を開いた。
「――そんなことあったんだ」
「ああ」
類がずっと手のひらで弄んでいたグラスをタン、と置いた。
「あんたはどう思った?」
「え?」
「アーサーが受ける扱いと、そんなアーサー自身について」
少し考えてみて、答える。
「しょうがないんじゃないかな。くやしいし、どうにかしたいという思いはあるけど、どうしようもないし。アーサー自身も小憎たらしいまんまだったし」
豆腐を卵にからませてから口に入れた。すき焼き特有の甘辛い味から、肉や野菜のうまみが広がった後、微妙な甘さが口に残る。それでお腹いっぱいになった。
母が唐突に言った。
「アーサー酔うの早かったよね」
「そうだな、相変わらず弱い」
氷がからり、と音を立てた。
「いや、今日は特に早かったよ。いくらなんでも五分で酔い潰れるなんてできるもんじゃない。竜のあの子だからまだ無理がきくけど、そんな飲み方したら病院連れて行かないと駄目だよ。そもそもあの子は酒量をコントロールしてできるだけ長く楽しもうとするしね。何よりあの食いしん坊がご飯を忘れて酔い潰れるなんてことはありえない」
思い返してみると、確かにそうだ。食い意地の張るアーサーが夜飯前に酔いつぶれたのはそうなかったように思う。
いや、最近あった。
「あいつ、E級判定受けた時もこんな感じだったかな」
「そうね」
「……内心、ショックだったのか」
「表には出すまいと振る舞っていたんだろうけどね。どうしてだと思う?」
類がグラスの中にとくとくと注ぎ始めた。
その音が妙に小気味よい。
「気を――使ったのかな?」
「そうだね。なんだかんだで優しいし、空気読むから」
「なんでわかるの?」
「飲み友だからねー」
ハハハと乾いた笑いを吐きながら、琥珀色の液体を喉に押し込んだ。
「……アーサー、そんなことできたんだ」
「あの子は特別だと思ってた? 子どもで、竜で、大きくならなくって、それでも傍若無人に振る舞う、全てが特殊なパートナー」
今思えば、歩は知らず知らずのうちに特別に思っていたのかもしれない。良くも悪くも他とは違う、と。
「内面は普通だよ、アーサーは。竜で、言葉をしゃべって、大きくならないで、それでも傲慢に振る舞って、そこそこ可愛らしくて。特別に思えるけど、普通に傷つくし、普通に他人を思いやれる。あんたと変わらないさ」
「……俺、何を知ってたのかな、あいつの」
「誰よりも知ってるよ。だけど、近すぎるが故に見えないものも多かったろうね」
歩の中で、アーサーは別格だった。優れているとか、劣っているとかではなく、他とは隔絶したところにいる感じだ。生まれながらに言葉をしゃべり、古臭い言葉づかいを用いて、傲慢で、無邪気で、小さくて、竜のことが好きなくせに他の竜との交流を避ける、たまに可愛らしい特殊な竜。他とは違う存在だ。
だがその心の内まで違ったのだろうか。
「さて、もう終わりかね。ミル、美味かったか?」
類の声で、なんとなくミルを見る。まんぞくそうに食後の洗顔をした後、のびをした。
「あんたももういい?」
「あ、ああ。ごちそうさまでした」
「いーえ。ミル、お願い」
ミルが一度ニャーと鳴いた後、背筋をピンと伸ばした。目の色が、濁った青から金色に変わり、そのままどこか遠くを見て、全身を震わせはじめた。
それと同期するように、テーブルの上の食器が震えたかと思うと、浮いた。
歩が食べていたアジの骨を乗せた一枚が洗い場に飛んでいくと、雪崩をうったように次々と続いていく。
ミルの念力だ。なにげない日常生活に使える程、ミルのそれは洗練、熟練されている。
全て運び終えると、ミルの目が戻った。
「おつかれさま、と。口開けて」
類はミルの首を撫で始めたが、何かに気付いて口を開けさせた。歯の間に指を突っ込んだ。歯に魚の骨がひっかかっていたようだ。
類とミルは互いを理解しあえている。それこそがパートナーのあるべき姿だ。
自分はアーサーをどれだけ理解しているのだろうか。
類は洗い物を始めていたのだが、ふと何か思い出したように振り返り、聞いてきた。
「今日のすき焼きどうだった? 甘さどう?」
「あ、ああ美味しかったよ」
「なら良かった」
類のパートナーは猫のミルであり、その影響を受けている。それは身体能力、敏捷性の上昇といった面もあるが、味覚などにも影響してしまう。猫は甘さをほとんど感じられないため、類もまた甘さがよくわからないらしい。
まさに一心同体。
歩はリビングに戻り、寝ているアーサーの顔を見た。のんきに鼻ちょうちんを膨らませて眠りこける、なんとも間抜けな姿だ。
この小さな身体に、何が詰まっているのだろうか。何を思っているのか。
――とりあえず、この間抜けの味方でいるか。
風呂に入ろうと風呂場に足を向けようとしたとき、再び類が声をかけてきた。
「歩、ラジオ」
台所に向かい、耳を傾ける。
通る声で、アナウンサーがニュースを読んでいた。
「本日、竜使いの死体が発見されました。被害者は、十九歳の学生とそのパートナー。警察による発表では、十年前に起こった『首都幼竜殺し事件』の犯人である『竜殺し』の仕業であるとのことです。長い沈黙を破っての犯行ということですが、犯行現場から……」