慎一が部室に返ってきた。
「どうだって?」
「当たりみたい。歯切れが悪かったけど、教えてくれた。この依頼は、あの女の人が頼んだものだとさ」
悪食蜘蛛の討伐といっても、歩の想像した、ギルド連合に尋ねたときに女性が訴えていたものと同じとは限らない。その可能性を確かめるため、慎一は職員室に行き、ギルド連合水分支部に電話した。
結果、確定。
息を切らせて戻ってきた慎一が、ソファに腰掛けた。他の面子は既にソファにおり、テーブルの上にあるのは悪食蜘蛛の討伐依頼書のみ。慎一が職員室に行っている間、部室は無言に包まれていた。皆ギルドで見た女性の剣幕を忘れられなかったのだ。
最初に口を開けたのは、アーサーだった。
「対象は一体。村を荒らす悪食蜘蛛を退治。書かれているのはこれだけか。慎一、悪食蜘蛛とやった経験は?」
慎一は淀みなく答えた。
「一度だけ。俺がやったのはキヨモリ位あった。だいたい平均してそれくらいみたい。外見はオーソドックス。力も大きさ相応。俊敏性は巨体の割にはある。鋼金虫よりは強敵だと思うけど、キヨモリなら勝てると思う」
「悪食蜘蛛って、私と歩がもらった模擬戦服の糸を作ったやつだよね? 糸に食べたものを混ぜ込む習性があるっていう。その能力は、なにか注意するところある?」
唯が尋ねた。二年の学期末模擬戦で、歩と唯は特製のジャケットをもらった。そのときの素材に、悪食蜘蛛の金糸が使われていた。悪食蜘蛛には口にしたものを糸に混ぜ込む習性があり、その金糸には本物の金が含まれていたため、かなりの強度をもっていた。
額に皺をよせてしばらく考え込んだ後、慎一が口を開いた。
「俺らが戦ったのは、特に何もなかった。巣の上じゃなかったし、糸をはいて攻撃してくることもなかった」
「そう。なら討伐そのものならなんとかなるかな」
「後は場所かな」
そういうと、みゆきは身を乗り出し、テーブルの上に置いてある依頼書に手を伸ばした。
「場所は――外地に近いね」
歩も身を乗り出した。
同封された地図を見ると、赤く×された箇所があった。そこは歩達のいる国のかなり端にあった。×の端が国境を越える位だ。
そして国境の先は、黒く塗りつぶされており、中央に赤字で外地と書かれていた。
「これが竜使い以外は受けられない原因?」
「……かもしれない」
外地。人をよせつけない未踏の地。陸続きに繋がっており、物理的には歩いて行けるのに、決して踏み入ることは許されない、未知の空間だ。
そこには人が住む内地の魔物とは比べ物にならない力を持つ個体が存在する。彼等は外来種と呼ばれている。三年ほど前、一体の外来種が迷い込んできたことがあった。軍の竜使いが二名殉職した。
しかし人が外地に踏み入れられない理由は他にある。
龍の存在だ。
龍は竜に非常に似ている。むしろ同じ種族だといってもいい。多様な外見ながら、他の種族とは簡単に見分けがつくと言われるほど圧倒的な力も共通している。
両者を分かつのは、人を見て襲ってくるか、共に歩むか、それだけだ。
五十年ほど前、領土拡大のため、隣の国が外地に侵攻した。その国は当時最大数の竜使いを擁した軍を持っており、その大半を侵攻部隊に送り込んだ。
結果、軍は半壊した。その国は数年後、歩達の隣の国に併合された。
教科書にも載っているその事件は、龍を直接見た経験のない現代の人間にも、外地は決して足を踏み入れてはいけない場所だと、知らしめている。
「慎一、外地との境界線まで行ったことある?」
「何度か。近付いたら、外地まで後何キロって書かれた看板がいくつもあるから、わかると思う。間違って踏み入れることはなさそう」
「だからといって、近付いていい場所でもない、か」
歩がそういったのを最後に、部室を沈黙が満たした。黙りこみ呼吸の音と、壁を越えて漏れ聞こえる放課後の喧噪の中、どうすべきか考えているようで、実際は何も考えられていない時間が過ぎていった。
日が赤みを帯び始めたころ、アーサーが口を開いた。
「ひとまず決を取るか。賛成、反対で」
皆従った。
「では決を取る。歩と我が一票ずつ、唯、みゆき、慎一が二票ずつでよいな。棄権はなしで」
首を振り、反対者がいないことを確かめると、アーサーが言った。
「賛成の者、挙手」
歩は手を上げた。他にみゆきと慎一が手を上げた。これで賛成に五票入ったことになり、決の結果が確定した。手を上げなかったアーサーと唯の表情は変わらなかった。予想していたのか、それともどちらでも受け入れる覚悟ができていたのか。
「では、反対の者、挙手」
アーサーと唯がさっと手を上げた。すぐに二人の手は下ろされた。
「賛成の理由から言っていく?」
皆が頷いたのを一瞥すると、みゆきが言った。
「もうちょっと悪食蜘蛛と状況を調べてからだと思うけど、やっていいと思う。私達ならできると思うし」
「俺もやるべきだと思う。やりたいとも思う。外地の近くなのは怖いけど、このギルドにはその力がある。助けられるものは、助けたい」
「……俺言うことないな」
歩がぽつりとつぶやくと、放課後になって初めての笑いが起きた。恥ずかしかったが、少し雰囲気が和らいだのを見て、自然と頬が緩んだ。
「唯、アーサー、反対の理由は?」
微笑んでいた唯が、みゆきの問いに答えた。
「なんだかきな臭いなってのがあったから。それだけ」
「きな臭い?」
「我も同じだ。だが我の場合、危機感があるがの」
追随したアーサーの顔を見る。険呑とした皺が目の間に刻まれていた。途端に空気が引き締まった。
「どういうこと?」
「どうも上手くいきすぎておる。たまたまあの場にいた竜使いに、竜使いでないと果たせない依頼を持った女性が、竜使い達が出てきたタイミングで騒いでおる。臭わんか? 仕組まれているような感覚がせんか?」
「仕組むってどこが? 得するところがどこかあるのか?」
慎一の問いに、しばらく間を開けた後、アーサーが力なく言った。
「――ないか?」
「少なくとも、見当たらないと思う」
歩がそう答えると、アーサーはその場にいる一人一人と視線を合わせていった。歩、みゆき、慎一、そして唯と合わせていき、終わると、アーサーは黙った。
みゆきが言った。
「ひとまず、調べてみよう。その後でもう一度多数決しよう。それでいい?」
これでその日は解散となった。道中、アーサーは口数が少なかった。
その後、三日を下調べに費やした後、多数決が行われた。
賛成七票、反対一票で、悪食蜘蛛の討伐が決定した。
「――仕組まれているような感覚がせんか?」
盗聴器から聞こえてくる深く渋い声に、明乃は息を呑んだ。一瞬、テストの採点をする手が止まってしまった。職員室に備え付けられている、湯飲みに赤ペンの先があたって、かつんと音を立てた。
はっと気付き、慌てて採点を再開する。幸いなことに、アーサーの感覚は他の者にはなかったようで、否決された。
「先生、何聞いてるんですか?」
声に振りかえると、明乃が請け負っているクラスの女子生徒だった。
微笑を浮かべ、耳にしていたイヤフォンの左側を渡した。
イヤフォンを耳にはめたとたん、女子生徒は顔を曇らせた。
「これは」
「あなたたちには早いかもね」
女子生徒はイヤフォンを渡してきた。
「これって、落語、ですっけ?」
「そう。どう?」
「よくわかりません」
イヤフォンの左側からは落語が流れている。カモフラージュだ。イヤフォンの右側から流れるのは、ギルド部部室に仕掛けた盗聴器からの音声だが、それだけ聞いていては、今のようなことがあれば都合が悪くなってしまう。
諜報部時代からの、明乃の愛用品だ。
女子生徒は本来の用事である、提出し忘れた課題を渡し終えると、スカートをひるがえして出て行った。迷いのないその動きを見ていると、自分がなんだか年を取ったような気がした。
再び採点に戻ろうとしたところで、みゆきの総括が聞こえてきた。おそらくこれで決まりだろう。
悪食蜘蛛。それがとりあえずの最終地点だった。
そこに何が仕掛けられているのか、明乃は知らない。そこにはなんらかのたくらみがあることしか、知らない。
しかしもう走り出した。
明乃はふーと息をつき、天井を見上げた。覚悟は決まっていた。なんだか全てのものがぶよぶよとした膜越しに感じられる。自分自身からも遠ざかっている感触。これが俯瞰か。
「先生、お疲れですか?」
副教頭が声をかけてきた。職員室の中で落語を聞くという暴挙を、笑って許してくれた小柄な男性教諭だ。この学校は、そういうところは大変緩い。
「新任なのに、担任ですから、無理しないでくださいね。この学校離職率高いんですよ」
「そうなんですか」
おそらくその指標を自分も上げることになるだろう。少しだけ申し訳なく思ったが、それも他人の感情のように感じられた。大丈夫、自分が見えている。
教頭が離れた後、再度採点に取りかかった。思考がシンプルになっているような気がした。