歩は全身に蒸気を上げていた。激しく動かされた結果、発熱しようともがく身体の意思だ。神経は疲労を嘆く嘆願書を脳に送りつけてくるが、歩はそれを破って捨てた。
頬に流れ落ちる汗を、無視して正面を見据える。
乾いた黄色の大地の先に、竜がいた。キヨモリだ。大木のような両足は、そのまま根でも張ってあるかのように、どっしりと地面にそびえている。上げた両腕の先に、曲刀と見紛わんばかりの爪。一端振るわれれば、軍でも使われる黒蛇製の防御服でも簡単に引き裂く代物。それを越えても、先にあるのは爪をいくつも束ねたような牙と強靭な顎。しかし引くと、大木のような両足よりもなお太い、山を切り崩して作られたような尾が襲いかかってくる。
歩は両手に掴んだ棍棒を握りなおした。どこかおさまりの悪い感じが抜け落ち、代わって腕の先に手があるように、手の先に棍棒があるような、身体の一部と化す一体感が生まれた。
正面の瞳を見る。そこに敵意はない。
一歩踏み出した。じりじりと距離を詰めて行く。キヨモリは動かない。双眸でしっかりと歩を捉え、時期だけをしっかりと見極めようとしているのが伝わってきた。
歩は走り出した。同時に進行方向を変え、キヨモリを中心に円を描くように動く。
キヨモリはその場で身体を回し始めたが、歩が走るよりも遅かった。巨躯ゆえ、どうしても反応が鈍くなってしまうのだ。最終的には、首をも回して歩を見るしかできないのだが、自然、追いつかない現状、限界まで首を回したところで、見えなくなってしまう。
限界を越え、キヨモリが逆方向を向いて歩を捉えようとした瞬間、仕掛けた。手にした棍を抱えるように掴み、一本の矢と化して竜に襲い掛かる。
そこに極太の尾が振るわれた。鞭のようにしなりながら、丸太の質量をもって飛んでくる。
歩は縄跳びの要領で飛んで避けた。危うく足の先が尾にかすったが、態勢も崩さずに済んだ。そのまま宙で棍の掴み方を変え、棒高跳びのように逆手でしっかりと抱える。
突っ込んだ。キヨモリは転換と同時に、巨躯と比べると若干小振りな腕で裏拳を放ってきたが、歩の後方で空を切った。
棍は、肩に当たった。しかし返ってくる反応は鉄のような固さを持ったゴムだった。ぶ厚い皮膚と肉に阻まれ、それ以上の侵攻を許してくれなかった。
歩は手応えに落胆しつつも、キヨモリの肩を蹴って前方に身をひるがえし、地面につく。
すぐに振り返ると、ほぼ同時にキヨモリの瞳も歩を捉えてきた。若干怒気が混じっていたが、それほど濃くない。痛かったが、それだけと言った感じだ。やはり、弱点を狙わないと、どれだけ力を込めようが、歩では痛苦の一撃まで至らない。
歩は次撃を加えるべく、棍を握った。キヨモリもまた次の衝突に備え、やや身体を傾ける。次は竜から仕掛けてくるつもりなのだろう。
そこでぱんぱんと手を叩く音が聞こえてきた。そちらに振り向くと、竜の使い手である唯が苦笑いを浮かべていた。
「終了、終了。もう時間だよ。私の部屋でお茶にしよう」
歩はほっと息を漏らした。途端に全身から力が抜ける。
近付いて行くと、タオルと金属製のコップが差し出された。みゆきだった。
ありがとう、といいつつ受け取り、そのまま口に含む。中身は水だった。有難く口の中をゆすぎ、粘っこい唾液を洗い流した。
ゆすいだ水を下水に吐き、今度は喉をうるおそうと水を含んでいると、声をかけられた。
「凄まじいなおい。曲芸かなんかかあの動き。お前さ、最近化物じみてきてないか?」
三年に上がっても同じクラスになった慎一だ。傍らには彼のパートナーである、狼型のマオもいた。
「そうか? 最近身体の調子がいいのは、そうだけど」
「調子がいいじゃねえよ。容易く人が空飛ぶな」
雑談しつつ、校舎の中に入って行った。
向かった先は、教員棟の一角にある、唯の個室だ。模擬戦の授業中、他の生徒とは別行動をとることが多い唯のために、学校が応接室を改造して作った、竜使いの特権を象徴するような部屋だ。
壁はくすみ一つない白。板張りの床は明るい色を保っており、机にひっかかれ、学生の適当な掃除にお目にかかったことがないのが一目でわかる。壁際に置かれた背の低い書棚は、濃い色をした木彫で、表には綺麗なガラスが嵌めこまれている。学校の中の、それも学生一人に与えられている部屋とは思えない。応接室の名残か、黒く光るソファ黒檀のテーブルもある。
歩がソファを避け、地面にそのまま座りこむと、唯が言った。
「そんな地面でなくって、ソファに座ればいいのに。多少の汚れ位、気にしなくていいよ」
歩は笑いながら首を振って、そのまま地面に座り込んだ。タオルで首元を拭いつつ、ソファに視線をやる。
色は照りのある黒。腰かけると身体がゆっくりと沈んでいくのだが、不思議と身体にかかる負担が少ない。それまで座ったソファとは、段違いの代物だ。
初めて腰掛けた際、余りの心地良い感触に唯に尋ねたところ、ライトシープ製だと聞かされ、納得すると同時に、座りづらくなった。ライトシープ製のライトは明かりではなく、丁度いいという意味だ。その名の通り、柔らかさと堅さのバランスに優れており、最高級品の家具に使われている。駅前の高級家具店でディスプレイ表示されているものを見たことがあるが、高校を二回行ける位の値段だったのを覚えている。
壁際にある大きめの冷蔵庫から、オレンジジュースのビンを取り出している唯が、無造作に言ってのける。
「学校からもらったもんだから、適当でいいのにね。今キヨモリが寝そべっているクッションも、同じ素材だし」
キヨモリのほうを見る。板張りの床の上に寝そべっていた。うつ伏せになった身体の下では、ソファと似た黒革のクッションがはちきれんばかりに押しつぶされている。表面にはいくつもひっかき傷があり、ところどころよだれの跡が見えた。これがセレブか。
「同じ素材って?」
ソファに座った慎一が尋ねた。慎一はこの部屋は初めてなのだ。
唯がライトシープと端的に答えると、途端に慎一の身体が強張った。
視線を向けてきた慎一に、歩は苦笑で返した。その顔はなんとも情けない表情をしている。おそらく初めて知った自分もこんな表情をしたのだろう。隣で床におすわりをしているマオが不思議そうに見つめていた。
「うむ、確かにこれは居心地がいいからのう。歩、うちのソファもこれにせんか?」
「無理」
テーブルを挟んだ先の同じソファに、みゆきとイレイネ、そしてアーサーが座った。
みゆきは自然な様子でソファに腰掛けている。その様は絵になっていた。馴染んでいるのだ。背中に張り付いているイレイネもなんら普段と変わりない。豪華なソファや内装に、全く気を払っていないのがわかる。つい最近、みゆきが貴族だと知ったのだが、初めて実感したのはこの部屋での所作だった。
アーサーは、小さい身体で一人用のソファを占領していた。大きすぎる背もたれに背中を預け、玉座に座る王のように胸を張っている。巨人の王座に強引に座る人の王とも見えるが、どちらにしろ態度は王だ。
イレイネが不定形の腕を伸ばして、オレンジジュースの入ったコップをテーブルに並べている間に、唯もやってきた。
一つ残った少し使いこまれた感じのするソファに身を預け、イレイネの差し出したコップをありがとうと言って受け取った。
一口飲んだあと、唯は顔を慎一に向けた。
「それで例の件だけど」
身の置き所が悪そうにおっかなびっくりとしていた慎一が、途端に背筋を伸ばした。
「はいはい、決めてくれたでしょうか!」
「決めるも何も、最初から言ってるでしょう」
「俺は聞いたことなんてないって!」
とぼける慎一に、唯は冷えた調子で言った。
「断らせていただきます」
「そうか。ではもう一回尋ねるよ。ギルド、作らない?」
「では、に繋がってないんだけど」
「細かいことは気にしない」
「……嫌」
「嫌よ嫌よも好きの内?」
おどける慎一に冷えた視線を送りつつ、唯はため息をついた。
綾辻明乃は聖竜会本部ビルの廊下を歩いていた。
床には赤い絨毯が敷かれ、等間隔に観葉植物が並んでいる。いかにも、といった空間だ。空調が行き届いているが、慣れない身としては逆に息苦しく感じた。いつも身につけている自分のパートナーの感触がないのも、息苦しさを助長している気がした。防犯上の理由とはいえ、パートナーと離れ離れにさせられるのは、ずいぶんと辛い。
身を奮い立たせながら目標の部屋に行きつくと、ドアをノックしてから入室した。
部屋の中は真っ暗だった。明かりは消されており、向かって正面にあるデスクに置かれた、テレビ電話の画面だけが機械的な光を放っている。
デスクには聖竜会副会長であるミカエル・N・ユーリエフが座っていた。なにやら電話をしている。出なおしたほうがいいかと思ったが、ミカエル副会長が手ぶりで置いてあるソファを指したので、そこに座った。
部屋を見回す。ライトシープ製の最高級ソファや、落ち着いたアンティーク家具が並び、重厚に仕立てられている部屋では、外界の音は聞こえてこない。ソファに腰掛けた明乃の耳に入ってくるのは、電話から微かに漏れ聞こえる声だけだった。
それまで黙って聞いていた副会長が、声を荒げた。
「会長、そんなに悠長では何も片付きません! 彼等は既に静観できるラインを越えてしまっている! 調査しなければならない!」
副会長の語尾は強いものだった。会長の竜に対するありあまる愛情が、鷹揚な対応を引き起こすことは有名だ。その下にいる副会長としては、歯がゆい思いをすることが多いのだろう。
それにしても、副会長の剣幕は強すぎる気がした。件が件だけに、仕方がないのかもしれないが。
電話から会長のしわがれた声が聞こえてきた。音量は小さいが、静まりかえっている部屋の中ではよく響く。
「この件は私に任せてくれ。なに、悪いようにはせんよ」
「そうではありません! 即急に対処する必要があります! 何の役にも立たないと思っていたあのE級生物のインテリジェンスドラゴンが、幼竜殺しを瀕死にしたんですよ? 明らかにおかしい! やつには何かあります! 全ての竜のためにも、聖竜会のためにも、その謎はすぐに解明しなくてはなりません!」
会長のひび割れた笑い声が聞こえてきた。邪気のない、子どものような笑いだ。
「彼等は確かに些か特殊だが、竜だ。竜同士、敬意と愛情をもって接さねばならん。しかし皆少しばかり彼等に悪感情を抱いておるのでな、公平に接することは難しかろう。だから私が出張っておるのだ」
少し前に目を通した資料を思い出す。
水城歩。高校三年、公立水分高等学校所属。身体能力は竜使いとしても上位、つまり人間の中ではトップクラスの力を持つが、それだけ。卵生生物の上層に勝てる程ではない。
そのパートナー、アーサー。インテリジェンスドラゴンにして、E級生物。特異な存在ではあるが、現実的な戦闘力は皆無。特殊な能力もない。頭の回転は優れている。
人としては最強クラスだが、それだけの水城歩と、頭は回るがパートナーとしては最弱のアーサー。稀な存在だが、ただ珍しいだけ。報告書にはそう断じられていた。
それが最近覆された。事の発端は彼等が幼竜殺しに襲われたことだ。幼竜殺しは今まで何体もの竜を暗殺してきた有数の竜殺しで、その力はかなりのものと推察されていた。実際、戦闘した軍関係者の報告によると、軍の中核を担う竜クラスに勝るとも劣らない力とのこと。
ただ珍しいだけだった水城歩とアーサーは抵抗することすら難しいと思われた。
だが彼等は勝ってしまった。それもアーサーが巨大化し、成竜となって対峙し、正面から打ち破ったというではないか。
巨大化自体はまだよかった。多種多様で想像外の所業を見せるパートナーならば、それほどあり得ない話ではない。稀なだけだ。問題なのは、特異な存在であるアーサーに、まだ秘められた力があったことだ。
最近になって目覚めた力なのか、気付いた力なのか、はたまた隠していた力かはわからないが、捨て置ける話ではない。
しかし会長はそれを拒否している。副会長が憤るのもわかる。
「彼等はE級です! 正確には竜ではありません!」
副会長の叫びに、会長の落ち着いた、のんきな声が飛んだ。
「そもそも私はE級を竜に当てはめるべきではないと考えておる。竜は竜だ。それは置いておくとしても、アーサー君に関しては、身体を大きくしたという話もある。もうただのE級とは捨て置けないであろう」
「それです! 彼等はまだ見ぬ力を隠していたんですよ? 以前尋問した際、彼等は何も隠していないと言いましたよね? 結果はこれだ! 以前よりも更に厳しい尋問が、場合によっては教育が必要です!」
教育。いい言葉だ。
その言葉が気に障ったのか、会長が少し口調変えて告げた。
「それもまだわからぬであろう。アーサー自身が知覚してなかっただけかもしれん」
「それを白黒付けるためにも、尋問を――」
「副会長、彼等の監督責任者は誰だ?」
副会長は一瞬間をあけた後、答えた。
「会長です」
「そうだ。彼等の特異性から、昔から私が請け負っている。そしてそれはまだ続いている。私が白と判断したならば、白なのだ」
「しかし彼等はともすれば竜全体にも影響を――」
「くどい」
強い口調に、副会長は黙った。
「この件に関しては、会長である私が私個人の責任でもって対応する。異論は認めぬ。よいな?」
「――はい」
「よし。ならばこれで終わりだ」
「待ってください。まだ議題が」
「他は任せる。いつも通りに差配せよ」
その一言で、電話が切れた。
ツーツーと耳に触る音はすぐにやみ、副会長はデスクに肘をついたまま、両手を組んで祈るような態勢になった。
「待たせてすまなかったな」
「いえ」
思っていたより、その声はいつも通りだった。最高権力者の機嫌を損ねたというのに、平然としている。
「あの」
「気にする必要はない。会長はすぐに忘れれられる。そういう意味でも鷹揚な方だ。
重要なのは、私が他を任せられたことだ」
明乃は一瞬戸惑ったが、少し頭を巡らすと、気付いた。
「その一言が欲しかったんですか?」
「会長のことはわかっている」
液晶から洩れる光のもと、副会長が口を歪めるのが見えた。憤っているように見えたのは、演技だったようだ。
「これで、最後の懸案が片付いた。君もようやく仕事に取り掛かれるということだ」
明乃は背筋を伸ばした。背中にすっと張りができる感覚があった。その張りは首を通じて脳にまでおよび、意識をすっとクリアにした。
「さて、綾辻明乃。指令の復唱を」
これを答えると、もう退けなくなる。副会長の手駒となり、非道を行うことになる。
明乃は心の中で天秤にかけた。人道を外れることと、大事なもの。どちらが重いか。どちらに傾くか。
秤はすぐに音を立てて一方を突き落とした。からからと音を立てて、冷たい鉄の台座を人道が転げていった。すぐに台座から外れ、外にあった汚泥の中に入り込んでいき、見えなくなった。
事前にもらった参考資料を思い出す。水城歩やアーサーの写真があった部分より、もっと手前の、最も詳細に書かれていた対象。そこにはまだ幼さの残る女子生徒の顔が写った写真があった。
「水分高等学校の教師として潜入、平唯の傍につき、副会長の指令を待ちます」
「よろしい。これが教員の任命書だ。一両日中に、飛んでくれたまえ」
明乃は副会長が差し出した封筒を受け取ると、部屋を後にした。