病院のドアを開けると、ベッドに寝そべるキヨモリとその隣で椅子に座る唯の姿が見えた。キヨモリはまだ包帯を巻かれていたが、のんきに大口を開けて欠伸をしており、それを唯が優しげな眼差しで見つめていた。
「平」
声をかけると、唯がこちらに振り返ってきた。
「雨竜先生、おつかれさまです」
ねぎらいの言葉に答えず、雨竜は顔を厳しく強張らせて言った。
「今日で護衛は終わりだ」
「聞いています。明日、キヨモリも退院ですし」
「いや、そうじゃない。この件は終わりだ」
唯が怪訝そうに眉を寄せて立ち上がった。キヨモリも唯の異変を感じ取ってか、鋭い視線を雨竜に向けてきた。馴染みがなければ、それだけで委縮してしまいそうな威圧感を放っている。
雨竜は威圧感を受け流し、告げる。
「もう終わりなんだ」
「どういうことです?」
「幼竜殺しが動き出す」
唯の表情が凍った。
「幼竜殺しがわかったんですか」
雨竜は答えず、唯に近付いた。
「誰なんですか、先生」
「平、無駄に苦しませてすまない。でもそれも今日で終わりだ」
「先生」
雨竜は答えず、かつかつと音を立てて近付いていく。キヨモリがむくりと身体を起こし、敵意を向けてきた。それもかまわず、雨竜は進んでいく。
「先生」
「……」
「先生、軍が動くのですか? あなたの所属している」
唯の言葉に、雨竜は硬直した。
唯の顔を見返すが、表情に変わりはなかった。
「気付いていたのか」
「はい」
「いつ」
「確証を得たのは、泊まり込みで私の護衛を始めたからですが。幼竜殺しが確定した今、貴族の護衛をするというなら、一介の教師が務めるなんてまずないですから。もともと、身のこなしがそっちの人だな、とは思ってましたが、それで確信しました」
雨竜は固まっていた。平唯。真っ当な竜使いにして、貴族。一般校に通っていたとしても、その血は確かだ。
貴族としての彼女を見誤っていたのかもしれない。
唯は続けて言った。
「軍属のあなたが言えないことが多いのはわかります。ですが、答えてください。なんなら私に強制されたということでもかまいません。貴族に強制されたならば、仕方がないですから」
貴族。彼女は生まれてからずっとその立場にいた。相応の見識と処世術は身につけていて当然だ。
彼女は強く、しかし純粋な瞳で雨竜を見つめ、尋ねてくる。
「犯人は誰です?」
雨竜は答えた。
「中村藤花だ」
中村藤花こと幼竜殺しは、背を向けて家に帰ろうとしている歩と、その肩に乗る黒く小さな竜、アーサーを見ていた。
この世界の大半は、人が頭脳を、パートナーが身体を分担するのに対し、彼等の役目は逆転している。歩が身体を動かし、アーサーが指示を出す。人としては学年トップクラスの力を持つ歩と、インテリジェンスドラゴンであるアーサーだからこそ成り立つ関係だ。
ここにはそんな稀な彼等と、自分達しかいない。
竜使いと竜、キメラ使いとキメラ使い。竜と竜殺し。獲物と捕食者。
彼等は藤花達がキメラであることも、竜殺しであることも知らない。故にこうして無防備な姿を晒すのだろう。だからこそ食われるのだ。
ここで狙わないことはできる。そうするべきだ。今歩達を捕食すれば、疑いは自然と自分に向く。そうなると以後の摂食活動に支障をきたしてしまう。
これまで完璧な犯行を重ねられたのは、パートナーならばなんでも、不死鳥から機械族まで食したが故に、数百に及ぶ能力を身に付けたユウの力が主な理由だが、藤花の慎重さも大きい要素だ。十代前半、周りの人間の動向を観察しつつも、それを表に出せない日々を過ごした結果、身に着いた己を殺し、俯瞰する能力。それがなければ、今歩達とこうしていることはできなかっただろう。
しかし藤花達の本能はもう我慢できそうになかった。先日、失敗してしまったからだ。雨竜に邪魔され、半端に刺激された食欲は、もう抑えられそうにない。
歩達は自分に背を向けている。自分達の目的を果たし、気が抜けてしまっている。そして周りには誰もいない。これ以上ない捕食のタイミングだ。
食うしかない。
足元のユウの身体が膨らんだ。捕食の態勢だ。パートナーも、もう抑えることはできないようだ。そしてそれは藤花も同じだ。
小声で、ユウにだけ聞こえる位微かな声量で、呟いた。
「行くよ」
それを合図に藤花とユウは飛び出した。
歩とアーサーの姿がすぐに大きくなる。目と鼻の先まで近付いた。あとは牙をたてるだけだと、腰に下げた剣を抜き、そのまま切りつけようとした。
その時、藤花とユウの身体に何かが巻きついた。
物音に気付き、歩は後ろに振り返った。
そこには、月の光に照らされ、黒く光る皮にがんじがらめにされた藤花と、そのパートナーであるユウの姿があった。黒い皮の上には、半透明なジェル状のものがまとわりつき、拘束をより強固にしている。
ジェル状のものは、掘りの下から伸びていた。そこからぱっと身体をひるがえして、二つの黒い影が飛び上がった。
みゆきとイレイネだ。みゆきは歩達と同じ黒蛇製の模擬戦服をきていた。その手には、歩の槍が握られている。
「ナイス」
「いい囮でした」
みゆきの手から槍を受け取った後、再び藤花の方を向く。
完全に虚をつかれ、目を大きく見開いていた。
「みゆきさんと、イレイネさん」
「どうもこんにちは、幼竜殺しさん。その皮、黒蛇製ですので、まずほどけないですから、無理なさらぬようにお願いします」
幼竜殺しと言われ、藤花は顔をびくりとふるわせたが、拘束された身体はびくとも動かなかった。足元のユウは、簀巻きにされ、口の端だけが開けられた状態で横に倒れている。
「気付かれていたんですね」
ちらりとアーサーの顔を覗うが、顔を険しく強張らせたまま口を開く様子がないので、歩が答えた。
「いいえ、ひっかけたんです」
「雨竜先生を疑っていた云々は嘘?」
「いいえ、それも狙いの一つです。俺達は、幼竜殺しとして疑わしいのは、あなたと雨竜先生の二人だと考えていましたから」
藤花が目のあたりをぴくりとひきつらせたのを見て、歩は更に続けた。
「唯達のあのタイミングを狙えたのは、学校関係者だと思いました。その内、キヨモリを倒せそうな可能性が少しでもあるのは、パートナーが不明で、唯いわくかなり強い雨竜先生とあなたの二人しかいない」
「なぜ一介の教師に過ぎない私が?」
「簡単です。対峙して怖いからです。そして、あなたの底を見たことがない。だからです」
「そんな些細な理由で?」
歩は頷いて返した。歩はこれまで多種多様なパートナーと正面きって闘ってきた。その多くは学生だが、その中には竜であるキヨモリも含まれている。
しかし歩が心底怖いと思った経験はほとんどない。キヨモリにすら対峙できないほどの恐怖心は抱かなかった。なのに、藤花にはそういう感覚を覚えた。
口に出せるものではないが、アーサーが言いだしたとき、すんなりと納得できたのは、それが理由なのだと思っている。
「それだけでは足りないのは自覚があります。だからひっかけた。そしてあなたは尻尾を出した。それで確定しました。先程、肯定しましたから」
藤花は再度目をひきつらせた。自分が失敗したことを理解したのだ。イレイネに拘束された時点ではまだ言い逃れが効いた。しかし、幼竜殺しと呼びかけられ肯定してしまった今となっては、誤解では済まされない。
藤花が一言もらした。
「失敗しました」
「そうですね。悲しい話です」
一転して、藤花がにやりと笑みを浮かべ、尋ねてくる。
「それでこの後はどうするつもりですか? 学生のあなた達が、幼竜殺しを捕まえましたと学校の担任教師を警察に突きだしますか? 信用されますかね」
「大丈夫です。私、貴族ですから。もう限りなく貴族ではないですけど、それでもまだ警察や軍、聖竜会に動いてもらう位はできるでしょう。幼竜殺しを躍起になって探している現状もありますしね」
「そうですね。それは正しいです。ですが、あなた方は一つ間違いを犯しています」
藤花の言葉が閉じられるのを合図にしたように、細くて赤黒い閃光が宙に走った。綱を宙で振り回したときのような、ヒュンヒュンと風を切る音がしている。
その赤黒い閃光が藤花とユウの周りを飛び交った次の瞬間、彼女達は立ち上がった。足元に、黒蛇製の拘束具とイレイネの残骸が散らばった。
万全の状態に戻った藤花の顔には、毎日見ていた穏やかな笑みが張り付いていた。
「黒蛇如きで、幼竜殺しを拘束できると思っていましたか? 落第ですね」
『落第』を合図に、ユウが飛びかかってきた。同時に肩に乗っていたアーサーが飛び上がる。それはアーサーの戦闘の合図だ。
歩は咄嗟に身体を左に投げ出した。なんとか突進してきたユウの射線上からは避けることができ、すぐに身体を起こす。幸運なことに、藤花は腕を組んで動いていなかった。自分が出るまでもないということか。
くやしいが、正直、今は有難い。
草地に弧を描きながら、再度ユウは迫ってきた。速度は尋常ではない。草を上空に巻き上げながら、それが落ち始める頃には、既に目と鼻の先にいる。
歩は覚悟を決めた。タイミングを計り、衝突の間際、今度は真上に飛ぶ。同時に槍の穂先を下に向け、交差法気味にユウにぶつけようという試みだ。賭けといってもいい。下手な当たり方をすれば、槍は逆に歩を地面に叩き落とす。
飛び上がった歩の下方向を烈風が駆け抜け、槍にはかすかな感触があった。
成功だ、と思おうとした瞬間、歩の身体は急に引っ張られた。途端に地面と叩きつけられ、上下に激しく揺さぶられる。序々に上下の間隔がなくなり、重力を感じる暇もなくなる。
叩きつけられる衝撃で息が詰まり、草と擦過した頬に鋭い痛みが走る。三半規管はマヒした。
それでも必死に目を凝らすと、腰に巻きついているものに見覚えがあった。ユウの尾だ。先端が赤黒く光り、熱を放っている。これが黒蛇を焼き切ったのだろう。
ユウの咆哮が耳をつんざいた。
「ウォォォォォォォォ!!」
同時に身体が宙に浮かびあがった。尾の先を見ると、ユウと、その先に月が輝く夜空が見えた。飛び上がったのか。
そのまま自由落下し、地面に強く叩きつけられた。左肩で鈍痛と軋む音がし、顔が地面に突っ込む。草の青臭さの中に土のほこりの匂いが香りだす。
再度引きずられ始めるかと思ったが、その場で放置された。腰に巻きついていた尾が撫でるように引き抜かれ、どこかへ行った。
くらくらする頭と肩の痛みに意識を支配されつつも、歩は立ち上がる。そいつらには慣れている。今まで何度も経験したものだ。
起き上った歩の視界に入ってきたのは、みゆきとイレイネ対ユウ。剣を構え、ゆらりと立っているみゆきの足元で、イレイネが半透明の棘を形成していた。槍衾だ。突っ込んできたユウに、突き刺さるように配置している。
だが、そこを白い疾風が駆け抜けると、棘はあっさりと崩壊した。みゆきは身体をひるがえし、コンマの差でその場から離れる。そしてまたイレイネが棘を形成する。今度は少し配置と大きさが違う。
しかしそこにユウが突っ込み、崩壊。回避。棘形成。それが繰り返されている。
三度目、みゆき達は動きを変えた。それまで避けられるよう、態勢を楽にしていたみゆきが腰を落とし、斜めに剣を構えたのだ。ユウの動きにあわせてか、向かう方向は変えていたが、機敏に動ける構えではなかった。
歩が意図を察する前に、そこにユウが突っ込んだ。弾けるようにみゆきの身体も後方に飛んでいく。
そのまま一つの塊となったみゆきだが、その速度が序々に落ち始めた。白い疾風にしか見えなかったユウの身体も、まともに見えるようになってくる。その身体は白一色で、燦々と輝いている。両足をたえず動かし、牙と剣をかち合わせてみゆきを押し込んでいく。
みゆきが真正面からユウと拮抗しているのに驚いていると、みゆきの後に仕掛けがあった。小さくなったイレイネがみゆきの背にくっついていた。身体を伸ばし、イレイネの足を、手を、剣を後ろから支えている。その補助があるからこそ、みゆきは持ちこたえられているのだ。
しかしこのままでは持たない、と思っていると、話しかけられた。
「すごいですね、みゆきさん。まあ長くは持ちませんが」
藤花だ。手にした剣をほうきでも持っているようにゆったりと掴んでいる。仕掛けてきそうにはなかった。
「どうして、あなたは動かないんです?」
歩の問いに、みゆきの方を見たまま藤花は答えた。
「なんとなく。生徒の成果は見たいじゃないですか」
生徒。まだ教師のつもりなのか。
歩は立ち上がると、意地で掴んでいた槍を藤花に放った。しかし藤花は笑みを浮かべた顔をこちらに向けると、手にした剣で槍を弾いた。
「危ないですね。他人の戦闘は、静かに見ましょう」
「うるせえ幼竜殺し」
余裕で奇襲を退けられたことに苛立ちを覚えつつ、連続で小刻みに突いた。
それら全てが、あっさり藤花に捌かれた。軽く身を傾け、同時に剣で槍の表面を滑らせる。それだけで槍は穿つべき箇所からずれた。完全に身切られている。
「ほらほら甘いですよ。いつもと同じじゃ、生徒は教師に勝てませんよ」
「くそっ」
六度目、七度目。何も変わらない。
余裕が過ぎてなのか、槍を向けられているとは思えない顔で藤花は言った。
「そういえば、私達のこと怖いとか言ってましたけど、そんな素振りは全くないですね。恐怖の相手に、そこまでいつもと同じように立ち回れるもんですかね」
「うるさい」
「あらあら口が悪い」
このままではらちが明かないと思った歩は、意表をつくように、引き戻した槍を突かずに振りかぶった。藤花の身体に直接当たらなくても、立ち位置を替えられるかもしれない。
「いかん!」
だがそれは失策だった。どこかにいるアーサーの指示が飛んだが、それはもう遅かった。
藤花がその隙を初手で見抜き、歩に向かって踏み込んできたのだ。
強引に振り切ろうとするが、当たったのは槍でも中央に近い部分。そこでは振り被った槍の威力が半減されてしまう。
案の定、槍は藤花の横に張った右ひじで容易く止められた。そこから藤花は左手一本で剣を振るってきた。
歩はとっさに槍から右手を放し一歩踏み込むと、剣を持つ藤花の手首を掴んだ。それでなんとか剣を止めた。
不思議な四角が作られた。互いが敵の得物を受け、かつ自身の得物も握ったまま。
そこからは力比べと思い、全身に力を込めようとした次の瞬間、あっさりと、槍を奪われ、柄をそのまま腹に叩き込まれた。痛みが内臓を突き抜け、全身の筋肉を弛緩させた。その場に膝をつき、右手も藤花の腕から外れた。
藤花のどこか楽しげな声が聞こえてきた。
「左肩、打ってるみたいですね。力がまるで籠ってないです」
とっさに右手を放した時点で気付くべきだった。それまで左手を庇って槍を振るっていたではないか。左手一本になった時点で、槍越しの力相撲なんてしてはいけなかったのだ。
見上げると、藤花は槍と剣を無造作に掴んでおり、顔は余裕のまま。見上げる苦悶の表情の歩と、見下し笑う藤花。如実に力関係を表している。
「さて、どうしますかね、と」
歩から奪った槍を無造作に地面に放ると、藤花はゆるりとした動作で首筋に手をあて、すぐに手を離し、その手に視線を向けた。
手のひらに赤い血がついていた。槍を振るっていたとき、首筋にかすっていたようだ。
「やりますね」
にやりと笑みをむけてきた藤花に、歩は何も言えなかった。たかが些細な傷一つ付けられたところで、なにというのだ。
それでもなんとかつけた些細な傷を見ていると、傷口が不自然に蠢いているのが見えた。ごくごく小さな蛇がのたうちまわるかのごとく、傷口が動いているようだ。その動きは明らかに、人のものとは思えなかった。
歩が驚愕の眼差しで見ていると、藤花が言った。
「ああ、これですか。私とユウの能力です。この位の傷ならすぐ回復しますよ」
「まさか」
「まさか、じゃないですよ。拘束をしていたユウの尾もおかしくなかったですか? 伸びていただけでなく、大きくなってたんですよ、あれ。膨らんだのではなく、大きく。質量も増しています。パートナーは、ほんとなんでもありですよね」
藤花がしゃべっている内に、脈動はおさまった。藤花が手で軽く拭ったそこには、傷の跡すら残っていなかった。
化物だ。