キヨモリとの模擬戦から一週間が過ぎた。
あの後、気絶したキヨモリは厳重に拘束され、檻の中に入れられた。我を失い飛行禁止を破った挙句、一歩間違えば歩の命を奪うところまでいった。その罪は軽くないように思われた。
しかしやはりそこは竜だった。特別扱いはここにも及んだ。模擬戦そのものも没収試合ということになり、公式結果は両者引き分け。なんとも言い難い結果に終わってしまった。
解放されたキヨモリは今、歩のすぐ近くでのんびりと欠伸をしている。食事は既に済ませていたらしく、夢心地にうつらうつらしていた。
その主たる唯はというと、差し出された弁当に手の伸ばし口に入れると、途端に目を見開いた。
「美味しい! これ、自分で作ったの?」
「うん」
「すごい! 料理上手いんだね」
唯はわざわざみゆきの方を向いて言った。なんとも無邪気な様子だが、模擬戦以前とは少し様子が違っている。腰まであった長い赤髪が短くなっていて、肩位までの長さに綺麗にまとめられている。
唯は炎を浴びせかけられたというのに、髪の端が軽く焦げていた位で、火傷一つなかった。これは唯が竜使いだからだ。アーサーの炎は見た目には巨大なものだったが、竜の堅牢さを受け継ぐ竜使いにとって、それほど威力のあるものではなかったようだ。
それでも炎に視界を埋め尽くされて正常でいられるものなどいない。唯はつい悲鳴を出してしまい、キヨモリの注意がそらすことに成功した。
アーサーにここまで計算していたのかと聞いたが、例え計算していなかったとしても、こいつが偶然だと答えるわけはない。真相は闇の中だ。
好物を手に御満悦のアーサーが言った。
「ふむ、みゆきの料理はなかなかのものだからな。我もこいつらがなければ、手を伸ばしておるところだ」
アーサーが乗った机の上には、まだ肉まんがいくつも残っている。食い意地の張るアーサーでも、流石に満腹になる量だ。
少し照れながらも、みゆきがさらに唯に差し出す横で、歩はむなしく白米とたくあん。なんともわびしい。
そこで唯の視線が歩に向いていることに気付いた。
「どうした?」
「あのさ、もしかしてこれって水城君の分だったんじゃない?」
みゆきの弁当を見てみると、確かにいつものものより大きい。二倍はありそうだ。言われてみれば、みゆきならそういう気遣いをしてもおかしくない。
みゆきを見ると、少し困った表情を浮かべていた。一度断った以上、歩が翻意してみゆきの弁当に手を出すのは決まりが悪い。しかしそれではみゆきの気遣いが無駄になってしまう。みゆきからしたら、自分の気遣いで歩の意地を無下にするのも、余り居心地のいいものではないのもある。
どうしようと思っていると、アーサーが口を挟んできた。
「構わん構わん、自ら招いたツケだ。むしろ今になってようやく気付いたそこの馬鹿が馬鹿だっただけ。安心して頬張るが良い」
アーサーのことはむかつくが、ひとまずみゆきと視線を交わした。申し訳なさそうなみゆきに、両手でおがむように詫びをいれた。
「え、と、本当私食べていいの?」
申し訳なさそうな唯に、歩は慌てて答えた。
「いいっていいって。この馬鹿のたるみになったら俺も困るからさ。俺がいうのもなんだけど」
「そうだそうだ。存分に喰らうがいい」
「お前のいうのもなんだけどな!」
みゆきと唯の二人がくすっと笑った。どうもアーサーとの会話はこうしたコントみたいになってしまう。
最後の一つを呑みこんだアーサーが、みゆきの弁当を見て言った。
「まあ気が引けるというなら我も手を伸ばすが。思ったよりも腹にはスキがある。やはり旨い飯はいくらでも入るの」
お前はただ食いたいだけだろと思いつつ、みゆきを見てみた。
みゆきは少し小悪魔的な微笑を浮かべて言った。
「平さん、ぜーんぶ食べちゃって」
「みゆきーーーーーーーーー!」
「それだけ食べれば大丈夫でしょ」
みゆきがぴしゃりと断言するように言った。珍しい口調だ。
顔を見ても、微笑を浮かべたままで特にいつもと変わりない。優しい姉のような感じだ。
アーサーがみゆきをうかがいながら尋ねた。
「……もしかして、怒った?」
「何が? 私の気遣いより自分の食い気を優先させたアーサーのこと? 全然怒ってないよ」
みゆきの顔はあくまでにこやかだ。
だがそれだけに怖い。声音にも何の変化もないが、それだけに皮肉がきつく響く。
アーサーもあっさり白旗を上げた。
「まあ、その、なんだ。深く考えての行動ではなかった。我も浅慮だったように思う。まあ、その、すまんかった」
殊勝に謝るアーサーに対し、みゆきは許したようだ。もともと本気では怒っていなかったのだろう。
今度は本当に優しく言った。
「今度作ってきてあげるよ。歩の分もね」
「本当か!? 嘘ついたらお前の乳もむぞ!? 歩が」
「なんで俺が!?」
「いいわよ」
「みゆきも乗らない!」
歩は、は~っとため息をついた。
「毎度毎度すまんな」
「いえいえ」
「何故お前が言う。みゆきも家族だろうに」
「仲いいのね」
唯がややノリに遅れながらも言った。
「まあ、一緒に住んでたしね」
「そうなんだ……」
唯は顔を落とし、なにやら数秒ほど考え込んだ後、顔を上げて言った。
「ねえ、一つ、聞いていい?」
真面目な口調だ。学期末模擬戦のときも似た状況になった。あのときと同じく、どこか不器用な言い方ながらも、本人が真剣なことはわかる。
「なに?」
「やっぱ私混ざんないほうがいいんじゃない? 家族の団欒、邪魔してない?」
「そんなことないよ。家族っていっても、一緒に住んでないしね」
「模擬戦で、あんなことあったでしょ? キヨモリも私も、結局おとがめなしに終わっちゃったけど、やっぱり私達何らかの罰を受けるべきだよ」
実際、普通に考えたら何らかの遺恨があって当然だ。我を忘れ相手を殺しかけたキヨモリと唯。かたや殺されかけた歩とアーサー。ひどい被害はなかったとはいえ、やはり被害者たる歩達からしたら、なにやら思うところがあって当然だ。少なくともこうして打ち解けるはないだろう。加害者にほとんど罰がない以上、それらはより強いものになる。次の日に誠心誠意の謝罪を受けたとはいえ、全てを水に流すのは難しい。
ただ、歩の中に不思議と二人を憎む感情はなかった。
ふとキヨモリに視線を向ける。
完全に眠りこけており、鼻ちょうちんをふくらましている。尾をだらりと伸ばし、巨躯を窮屈に縮める雰囲気は、自分を殺そうとした竜とは似ても似つかない。
こうしたどこか可愛らしい姿は、謝罪に来たときも変わらなかった。唯が悲愴なものを浮かべて頭を下げている横で、キヨモリも謝っていたのだが、その姿は悪戯をして叱られる子供の姿を思い起こさせた。大きな身体をしゅんと縮め、どこか泣きだしそうに見えた。
そんなキヨモリの姿を見て、歩の毒気は抜けてしまった。普通なら怒るかあきれてしまったように思う。だが歩は違った。
それはアーサーも同じだったようで、表向き唯を非難していたが、いつもほど舌鋒は鋭くなく、むしろ擁護するようですらあった。
そうなると、逆に唯とキヨモリに対して同情の念が生まれた。
模擬戦以前は、どこか『孤高の竜』として遠巻きにされながらも、丁重に扱われていた。特別扱いを常にされていたが、それでも不満はなかった。実際に戦うところを目にしたことは誰もなかったのだが、皆敬意を持っていた。
しかし一種のネタとして扱われていたアーサーと歩に負けてしまった。
以来、それまでとはうってかわって、学校の人間は侮蔑のまなざしを向けるようになった。歩達に負ける程度のものなのに今まで特別扱いを受け、これからも受け続けることへの反動からか、こちらの胸糞が悪くなるほど彼等の態度はおかしなものだった。
唯とキヨモリは苦境に立たされた。
そんな姿を見て、内心歯がゆく思っていた歩も、どうすることもできなかったのだが、そこに手を差し伸べる人が現れた。
みゆきだ。
みゆきは歩とアーサーに相談した後、声をかけた。戸惑う唯を強引に誘い、歩達のところに連れてきた。歩達を見て、唯の戸惑いは更に増したが、歩達もみゆきと共謀して有無を言わせず、なあなあの内に共に構想することを習慣づけさせた。ここのところ昼食も共にしている。
しかしここにきて、唯はなあなあのまま済ませることをやめた。
再度、問いかけてくる。
「やっぱり、私いない方がいいよ。誘ってもらったのは嬉しいし、感謝もしてる。ただ、水城君もアーサーも、内心複雑だと思うんだ。水城君を殺しかけたキヨモリがいるのは団欒の邪魔になってるよ。それを止められなかった私もね。それにアーサーはキヨモリのこと苦手そうにしてたでしょ? 今も無理してるんじゃない?」
内心、歩は唯に好感を持った。
嬉しかったのは本当だろう。昼休みになる度に誘われて戸惑いつつも、それを嫌がったところは見なかったように思う。みゆきの弁当を食べた時は、ほんとうに美味しそうだったし、本当に楽しんでいるように見えた。
なのに、それを自ら手放すという。
それはおそらく、歩とアーサーに対する気遣いや優しさ、そして自分への厳しさから来ている。
本当にいいやつだ。
彼女を拒絶する理由は歩にはなくなった。
だがそれを伝えようにも、気にしてない、と言ったところで本人は真に受けないだろう。恨んで当然の関係だからだ。
どうするか悩んでいると、アーサーが口を開いた。
「舐めるな」
アーサーの声にはほんの少し、怒気が込められていた。
「少しばかり痛めつけられたからといって、相手を恨むほど度量は狭くないわ。我には当然及ばぬが、そこの呆けておるアホもそれなりの度量は持ち合わせておる。そもそも、戦に臨んだ時点で命のやりとりの覚悟は必定。いくら安全を期そうと、心がけずに挑むは愚者である。殺されかけたからと恨むなど、竜どころか人の風上にも置けん」
「でも、アーサー、キヨモリ見て少し震えてたじゃない。今は大丈夫そうだけど、内心不快じゃないの?」
そうなのだ。こいつは竜のことが苦手なはずだ。なのに唯が、ひいてはキヨモリと共に昼飯をとることを許諾し、こうして擁護すらし始めている。
実は、歩は昼食の件について断ろうと思っていた。アーサーが辛い思いをするのは、やはりためらうことだ。みゆきが一緒にいるだけで、唯は随分救われるだろうとも思っていた。
だが、アーサーは許諾した。理由はわからないが、そうなると歩が断ることもできない。
それでも本当にいいのか、未だにおもうことがある。
アーサーは言った。
「何を言う? そんなことはない。もしあったとしても、このアーサー様がいつまでもそこの幼竜を苦手とする? そんなことはあるわけはなかろうが」
「でも」
「でもではない。我を舐めるな」
アーサーの言葉は強い。ぶれることなく、確信して言葉を放つからだ。話す内容がどんな詭弁でも、相手を信じさせるパワーがあるのだ。慣れるまで歩が雰囲気だけで何度この竜にやりこめられたことか。
唯はうろたえ始めた。まさか説教されるとは思っていなかったのだろう。
うろたえる唯に対し、口調を一転させてアーサーが言った。少し意地の悪い、煽るような言い方だ。
「まあ、加害者意識に苛まれて、我らと食卓を共にできぬというのであれば仕方ない。まだ幼いのであれば、物事の複雑な問題から目を背けても許されよう。まあ所詮竜といえど、幼竜。まだまだお子ちゃまには厳しいのかもしれぬな」
唯の目に、燃え盛るモノが見えた。
「そんなことはない! キヨモリは立派な竜! 私だって立派な竜使い!」
ここで歩が口を挟んだ。
「なら、一緒にご飯食べてくれるよね? 俺もアーサーもなんとも思ってないなら、当然できるよね? 俺らはなんとも思っちゃいないからさ」
唯は顔を赤らめた。こうなると、ノーとは言えない。
更にアーサーは追撃する。
「誇り高き竜と竜使いを自称するのならば、まさか断るまい? 己の呵責に負けるなど、まともな竜なら耐えられて当然だからな。まあ自身を幼竜だと認めるならばそれで済むがな」
唯の負けだ。
ふとアーサーを見ると、楽しそうに顔を歪めている。いじめっこの顔だ。言っていることは大層でも、その姿はどうも子供っぽい。
おそらく、これがキヨモリに毒気を抜かれた原因だろう。大きさこそ違うが、キヨモリとアーサーはどこか被る。似たような竜だから当然だろうが、子供っぽい仕草をさせると、本当にそっくりだ。大きさが違うだけの、兄弟にしか見えない。
優しくみゆきが言った。
「そういうことで、食べちゃってよ」
「なんなら、我が食うぞ? 幼竜にはこの味などわからぬであろうからな。食すべきは我であろう。自分の弁当でも食っておればよい」
唯の机には、どこかで買ってきたような味気ない包装の弁当がある。小柄な唯がそれとみゆきの弁当両方を食べるのは難しそうに思えた。
唯は頬を赤くしつつも、しっかりと言った。アーサーに食われるのは勘弁、ということであろう。あれだけ煽られた相手に、悔しさが残らないわけがない。
「それなら大丈夫。キヨモリ!」
唯が包装をばりばり剥がし始めた。呼ばれたキヨモリは、腕をまくらに地面に横たえていた頭を起こして、唯の近くに伸ばしてきた。
唯は弁当のふたを開けると、箸を手に持った。
「はい、あーん」
キヨモリががばーっと口を開けた。巨大な口とそこに居並ぶ鋭い牙を視界に広がり、ぎょっとする。
その巨大な口に、弁当を持っていくと、唯は一気に傾けた。
ばさ、と竜の口の中に中身が落ちた。唯は更にその上で容器をひっくり返し、箸でこびりついたものもこそぎ落とす。その間、キヨモリは口を開け続けており、歩はカバの餌やりを思い出した。
「はい、いいよ」
唯の合図で、キヨモリは口を閉じ、数回咀嚼しただけで一気に呑みこんだ。豪快すぎて呆気に取られるしかない。
残った空の容器を適当に脇に避けると、唯はみゆきに席を寄せた。みゆきも一瞬呆けていたが、すぐに我に返りみゆきの弁当を唯に寄せる。
みゆきの弁当に箸を伸ばし、嬉しそうに笑みを浮かべる唯。隣ではキヨモリが再び眠り始めている。
歩は最後のたくあんをかじった。残るは黄色い汁が少しだけかかった白米。
少しだけ、先程より美味しく感じた。やはりひもじいが。