「歩!」
アーサーの声が聞こえてきたのは、歩が弾き飛ばされたのとほぼ同時だった。
爪の先が腹にめり込み、会場を覆う膜に再び叩きつけられる。衝撃吸収用の膜がところどころ弾け飛び、観客席に座った女子学生に膜の破片が飛んでいくのがわかった。
腹には相当の鈍痛。骨にヒビでも入っているのではないかという錯覚すら覚えた。いままでの一撃とはまるで違う。
膜が序々に収縮し、会場内に押し戻されて行き、砂地に滑り落ちていった。鈍痛がやまない腹に手を当てながらどうにか着地した。
前を向くと、そこには怒り狂ったキヨモリの姿が見えた。
その目には燃えあがるものが見え、ギラつき、明確な意思を歩に叩きつけてくる。
ばちん、と音がした。
その身体を拘束していた黒革が次々と弾かれて行く。バチバチバチバチと加速度的に音は増し、最後の一音が響いた後。
ばさ、と翼が広がった。会場が狭くなった気がした。
まさか、飛ぶ気か!?
「キヨモリ! だめ!」
唯の叫びは、キヨモリの羽音で消された。
二度、三度はばたくと、足が地を離れ、一気に飛び上がった。
上空で何度も旋回し、飛び回る。飛ぶ姿は、先程までのどこか鈍重な姿とは似つかわしくないほど、優雅でなめらかだ。膨大な質量を持つ生き物が自由自在に空を飛びまわるその姿は、種族の頂点にふさわしい。
これが、竜。
『竜は飛んでこそ竜』という、担任の言葉が脳裏をよぎった。
「歩!」
少しぼうっとしていると、アーサーの声が響いてきた。
そういえば、アーサーは大丈夫なのか? 勇壮なキヨモリの姿を見て、竜を苦手とするアーサーは気が気でないのではなかろうか。
そう思い、アーサーを見る。
「馬鹿者! 我でなく、やつを見ろ!」
むしろ闘志が燃え上がっているようだ。少し安心した。
だが、考えている暇はない。
疑問をよそに置きひとまず気を取り直して上空を見やると、近付いてくるキヨモリの姿が見えた。
咄嗟に身体を転がしその場を離れると、数瞬前に自分がいたところから暴風が巻き起こる。
二度身体を回転させ、片膝をついて起き上り、自分のいたところを見ると、そこには三本の不快溝が走っていた。溝だけでなく表面の土が削り取られているのは、指が完全に地面をもぐりこみ、手のひらぎりぎりまで抉ったが故だろう。
背筋が凍る。模擬戦なのに、完全に生死の段階だ。これは最早模擬戦ではない。
羽音を探る。音は上空からで、キヨモリはふたたび飛びまわっているのだろう。
先程から唯が叫んでいるが、聞こえていないのかまるで降りてくる気配がない。
上空で飛びまわるキレたキヨモリに、歩に何ができるのか。
「歩! 唯! アーサー! 退け!」
突然、雨竜の声が聞こえてきた。同時にキヨモリの身体に何かが巻きつく。
「中止だ! ここは俺にまかせて退け! もうそこに着く!」
まきついている半透明の綱の先は、観客を守っていた膜。そこから伸びた綱はキヨモリの身体を次々と拘束していき、飛行に支障をきたし始めたキヨモリが墜落し始めた。
指示に従い歩は逃げようとしたが、その前にパートナーの姿を確認する。幸い逃げ始めるアーサーの姿が確認できたのだが、地面の上に茫然と佇む唯の姿が見えた。
「平さん!」
声をかけても反応はなく、仕方なく駆け寄った。
「歩!? おい!」
アーサーの声を無視して、唯の腕を手に取った。唯は完全に無抵抗だ。
そのまま入口へと引っ張って行こうとしたとき。
咆哮が鳴り響いた。
「ウォォオオオオオオオオオオオオ!」
キヨモリが咆哮と共に、全身の筋肉を振動させるのが見えた。翼を展開させようとしているようだ。拘束していたはずの綱は一息で無残に散らばされ、ぼたぼたと砂地に水たまりのようなものを作る。
キヨモリは、そのまま滑空。進む先は歩の方。
「っ!」
「歩!」
咄嗟に唯を弾き飛ばし、巻き添えにせずにすんだのだが、歩は遅れてしまう。
そのとき、ばさっと目の前に何かが降りてきた。
アーサーだ。
「おい!」
キヨモリと歩の間に入り込んでいる。歩を庇おうとでもしているのだろうか。このままではキヨモリの牙がアーサーに向くことになるが、アーサーの後ろ姿から逃げる気配はない。どこか超然とした雰囲気さえある。
反射的に、アーサーに手をかけて退けた。尻尾をつかみ、宙に舞わせる。
次の瞬間、キヨモリの手が歩の身体を掴んだ。そのまま地面を削りながら、キヨモリは着地。背中で地面を抉りながら、歩はただ耐えるしかできなかった。
完全に歩は磔にされた。地面に縫い付けられている。脇の下からしっかり掴まれており、びくともしない。
キヨモリの顔を見ると、目が自分に集中していた。口の中ではブレスの気泡。完全に狙いは歩。
このままブレスが飛んできたら、地面と挟まれる形になる。先程は宙に飛んだ分、衝撃が緩和されたが今度は違う。確実に命を危ぶむ傷を負わされるだろう。だが拘束されたままで逃げることも難しい。
受けられるはずも、避けられるはずもない。
あきらめかけた瞬間、唐突に響いたのは、アーサーの声。
「歩! 呆けるな! 我が止める!」
いまさら何を言うのかと思いつつ、声がした方を向くと、アーサーが唯の顔の辺りで留まっていた。
唯はなにがなんだかわかっていないようで、眼が虚ろだ。完全に忘我してしまっている。そんな彼女をアーサーは正面から見据えていた。
何をしようとしているのか。
目端でもう極大まで大きくなっているキヨモリのブレスが見える。もう時間はない。
アーサーは、いつものように響く低音の声で、いつになく慈愛のこもった口調で言った。
「平唯。耐えろ」
思い切りアーサーは息を吸い、背をそらせる。それからすぐに大口を開きながら頭を返し、首を突き出した。
アーサーの口から炎が吹き出した。
それは一瞬で唯の頭に流れた。小さなアーサーの口から出たそれは、唯の頭を越えてなお勢いを衰えさせず、キヨモリの全長ほどまで伸びていた。アーサーにそれほどの力があったのかと驚いたが、それが唯に向かってのものだとわかると驚愕した。
「きゃあぁ!」
唯の悲鳴が会場に木霊した。いきなり視界が炎に包まれたらそうなるだろう。彼女の身体は大丈夫なのだろうか。
唯を心配していると、何故かキヨモリの力が緩んだ。これまでいくら唯が叫ぼうとも、届かなかったキヨモリなのに、何故か。悲鳴が特別大きいわけではない。むしろキヨモリに向かって叫んでいたときのほうが、声量としては大きい。
そこで気付いた。
パートナーだ。唯の危機はキヨモリにつながり、キヨモリの危険は唯に繋がる。命が繋がっているからこそ、何よりも優先して届く声なのだ。理屈を越えた絆がある。
キヨモリの注意が歩から逸れたのがわかる。
この機を逃してはならない。
棍棒を両手で握り、不自由な態勢から竜の手に見舞う。人差し指と中指の中間辺りには竜の急所がある。竜使いたる歩はそれを熟知していた。これ位密着して、じっくり狙えるのであれば、そこを正確に突くのは可能だ。
突いた途端、歩を拘束する力が抜けた。圧縮空気を内包した顎から、短い悲鳴が聞こえた。
すかさず棍棒を支点に抜けだすと、身体を起こし即座に態勢を立て直す。
腰を低く構え、両腕で棍棒を持ち、相手との間合いを測る。
万全の状態。
狙いは竜の首元。そこもまた急所だ。
「ウェアアアアアァァァァァ!」
的確に捉えた。
歩の巨人をも倒す一撃が正確に入った。竜の強固さは巨人を大きく上回るが、どうなるか。
ぼん、と何かが弾けるような音がした。
キヨモリの口にあった圧縮空気が抜けた音だった。
竜は声にならぬ声を上げ、倒れた。