「キヨモリ、行け!」
先手はキヨモリ。巨体で地面を揺らし咆哮を上げながら、驚くほどの速度で迫ってくる。重い巨躯を膂力で強引に動かしているのだ。初期速度こそそれなりだが、最高速度はすさまじいものになっている。
前傾姿勢のまま突っ込んできたキヨモリは、黒革で包まれた右腕を単純に突き出してきた。正面から受け止めると、棍棒が折れてしまう可能性が高い。
軽く屈みながら、歩もまた前進した。相手の左脇の横すれすれを通るように身体を流し、キヨモリの右腕だけでなく身体からも全身を避けさせる。さながら闘牛士のようにキヨモリをやり過ごし前に出ると、後方からはキヨモリがたてた轟音が響いてきた。
身体を半回転させて、キヨモリの様子を見る。
黒革を付けたはずの爪が地面に溝を掘りつけ、粉塵が巻き上がっていた。地面についた傷は、模擬戦で見たことがない深さだ。
やはり――竜。
段違いの力だ。
竜がこちらを向いた。ゆったりと身体を回転させる姿は思ったよりも鈍い。十分、つけ込む隙はある。
歩は一気に踏み込んだ。キヨモリが加速を付ける前が勝負だ。勢いに乗られると、あの体重ではどうやっても力負けしてしまうし、歩の棍棒など弾かれてしまう可能性が高い。
だが逆に考えると、速度がなければキヨモリの巨躯はデメリットも大きい。鈍さがそうだ。
案の定、突っ込んだ歩への迎撃は遅かった。迎撃に振るわれた左の爪はしっかり見て取れる。
迎撃を右方向に屈んで避けると、棍による全霊の突きを差し込んだ。
突きは狙い通りキヨモリの脇腹に入った。強固な鱗と棍がぶつかり、ガッと音をたてた。
が、それだけだった。
柄の先はほんの数ミリ程度しか入りこまなかった。鱗に押され下の肉が変形したかな、位。歩を見下ろすキヨモリの視線にも、敵意の変化はない。開幕前と同じくただ苛立っているだけの、八つ当たりにも近い感情。ぶ厚い皮膚と筋肉が歩の棍棒を完全に上回っているのだ。
何事もなかったように、キヨモリはぐるりとその場で回転を始めた。
一瞬戸惑ったが、すぐに狙いがわかり棍棒を左半身に添えるように構えたのだが、その上から襲ってきた衝撃は予想以上だった。
振るわれたのは極太の尾。その太さ、しなやかさ、そして自重を使った遠心力による一撃は、四肢での一撃よりも上かもしれない。
なんとか棍棒を間にさし込んだのだが、威力は尋常ではなかった。耐える間もないほど一瞬で、真横に弾き飛ばされてしまった。
すぐさま観客席との間に敷かれた膜に激突。膜が柔らかい分、衝撃は吸収されたのだが、それでも痛みで数瞬身体が動かない。
わっと観客が湧くのが聞こえてきた。完全に見世物だ。
膜が序々に形を取り戻すべく反発し、めり込んだ歩を押し出す形になった。ずるりとすべりおち、全身で砂の味を分からされる。膜からほんの少し受けた水分のせいか、軽く汗をかいたような状態の身体に、砂が張りついた。
くらくらしつつも身体を起こすと、仁王立ちするキヨモリの姿が見えた。向かって右には眼光鋭い唯の姿。
「言いたくないけど、降参してくれない? キヨモリは力の加減が下手なのよ」
「それは有難い申し出だな」
「事実だから」
アーサーの揶揄に、唯は端的に返してきた。つまり精一杯の手加減をしてこれなのだ。
唯は本当に気遣って言ってくれたのだろうが、歩としては悔しさしか生まれてこない。口の中に入った砂も無視して、ギリと歯を噛んだ。
前傾姿勢のキヨモリが歩を睨んでくる。今にもこちらに突っ込んできそうだ。
唯はキヨモリのふとももの辺りを撫でながらなだめるように言った。
「飛べないのきついのね」
キヨモリの苛立ちは飛べないのが原因。自分はまるで関係ない。
歩は気合を入れるべく腹から大声を出した。
観衆も、対戦相手の余裕も、全て脳から押し出す。後の打算も何もかも押し出して、ただ勝利のために動く、そう決め込む。
腹を据えた。
「行くぞ」
「歩、無茶はするなよ。見極めろ」
「キヨモリ、来るよ」
すっと両足に力を込め、地を這うように駆けだした。
応じるようにキヨモリが前に出てくる。唯は手を引き、後方に下がって行った。
この瞬間、歩の狙いは決まった。
正面からキヨモリが迫り、歩もまた一直線に駆けるという、剣豪同士の真っ向勝負のような形になる。正々堂々とした勝負。
それを歩はただのワンステップで変えた。
愚直なまでに真上から振り下ろされた爪を寸前で方向転換。キヨモリの爪を危なげなく避けられたが、同時に歩の棍も到底届かないほどの距離をとった。
キヨモリはそのまま連続して両の爪を振るってくるが、それも余裕を持って避ける。臆病な闘牛士のごとく振る舞い、決して爪の圏内に入らない。キヨモリの苛立ちを更に募らせるべく、達振る舞う。
そうしていく内に、キヨモリの動きが序々に雑になっていった。爪が空を切った回数が二十を越えると、最初のものとは比べ物にならない動きに変わっていった。隙だらけの、ただの暴走と化していく。十分すぎるほどの隙が歩の前に晒され始めた。
それでも、歩は仕掛けない。狙いは別だ。
唯が指示を飛ばしはじめる。
「キヨモリ、慌てない!」
唯の言葉に耳を傾けたせいか、キヨモリの爪のテイクバックがゆるんだ。予備動作を少なくし、威力の代わりに隙も減らす、そういう動きだ。
このキヨモリの変化の瞬間を、歩は狙った。
それまでとテンポを変える。悠々とした動きから、稲妻の動作へ。直線的に動きキヨモリの爪の風圧を感じる位、ギリギリを狙う。肝が冷えるほど密着ながら、なんとか避けられた。
目の前には、隙だらけのキヨモリ。思考の変化を狙ったのだから、身体でなく心が止まっているのがわかる。虚をつけたのだ。
しかし、歩はその隙をつかない。そのまま脇を駆け抜けた。
視線の先は、だらりと剣を下げたままの唯。驚きで目を見開いている。
歩の狙いは唯だ。心の隙は、唯も同じ。指示を出し、うまくいった瞬間こそ狙い目になる。唯の不意を突き、一瞬で勝負をつけるというのが狙いだ。身体が小さく、戦闘に長けているとは思えない唯を狙うのは姑息かもしれないが、当然の戦術でもあるのだ。
そのまま息をつかせぬよう、神速で棍棒を振るう。身体を捻り、一気に棍を払った。棍の射程の長さを活かした、咄嗟に避けにくい一撃だ。唯は剣で受けるしかないが、歩の全霊の一撃ならばガードの上からでも態勢を崩せる。ましてや反撃まではされないだろう。そのまま連撃に移り、畳みかける絵図を脳内にたてた。
唯がだらりと下げた剣を上げ、受けるべく態勢を整えるのが見えた。無理に避けようとはしなかった。最善の策だろう。
想像通りに棍と剣がぶつかる。
しかし返ってきた感触に歩は驚いた。
両腕でしっかりと構えた剣で、完全に防がれた。唯の足元が砂埃を上げただけで、ときには巨人すら沈める全霊の一撃が止められたのだ。目の前のまだ幼さの残る少女に。
さらに唯の剣が動いた。棍を防いだ剣を滑らせるようにしながら、切っ先が歩に迫ってきた。逆に虚をつかれる形になり、慌てて棍を引きもどし止めた。
力を込めて、唯の剣を押し返し、再度棍を振るうがあっさりと斬り結ばれる。突けば避けられ、払えば剣で受け止められる。形を変えても、唯は隙を崩さない。やりとりは互角で、歩の思い描いた一方的には程遠い状態だ。歩と唯の力は拮抗していた。
「私も竜使いだよ。なめないでよね」
少し笑みを浮かべた唯の言葉で、歩は気付いた。
人はパートナーとリンクしている。パートナーが犬ならば、人は足が速くなり、嗅覚が鋭くなる。竜のパートナーたる唯にも、相応の力が備わっていて当然なのだ。戦闘に参加しないのが不思議なほどの膂力が、目の前の少女然とした同級生にはあった。
驚愕で棍が鈍ってしまう。半端に差し出した棍をいなされ、歩はたたらを踏んでしまった。逆に押し込められるほどの大きな隙が、歩に生まれた。
だが唯は仕掛けてこなかった。ぱっと二歩引いて距離をとってきた。
ただ一言、口から吐く。
「キヨモリ、スナップブレス」
「歩! 右に避けよ!」
咄嗟に身体を投げ出そうとしたが、遅かった。
「がっ」
背中の中央辺りを、強烈になにかが突き抜けた。再度宙の人となり、今度は地面に鋭角に突っ込む。右肩から突っ込んだのだが、砂利でがりがりと削られるのが伝わってくる。
勢いがおさまり身体を動かせるようになってから、よろめきながらも強引に立ち上がった。手をついたときに、手首の部分からだけ出血しているさまが見えた。戦闘服のおかげで腕は無事だったが、外気に晒されていた手首部分の皮がはげており、皮膚の下の真っ赤な肉がのぞいていた。
痛みを押し殺しながら、視線を正面に向ける。キヨモリは大口を開けた態勢のまま固まり、唯は歩のほうを警戒しながら、キヨモリの隣まで移動していた。キヨモリの口からは薄く煙のようなものが立ち上っている。
「空気の圧縮弾。溜めがないやつだけど、効いたでしょ」
答えられない。なんとか立ち上がりはしたのだが、息がうまくできないのだ。肺を衝撃が突き抜けたせいだろう、ヒューヒューとかすれた音しか出てこない。
これが竜。
唯が歩の隙をついてこなかった理由がわかった。そうする必要がないのだ。十分戦力になりうる唯でも最小限しか動かず、あくまで基本は竜任せ。圧倒的な力を持つものはリスクを背負う必要はなく、ただ相手を受け止め、捻り潰すだけ。そういった立ち回りだ。
最強であるが故にできる、最も安定して実力の差を決する戦い方だ。
まだ足元のおぼつかない歩に対し、唯が言った。
「降参してくれないかな」
歩は首を振った。反射的なそれはただの意地でしかない。
「仕方ない。キヨモリ、決めて」
再度キヨモリの突進。
再度同じ技。腕を振り上げ、振り下ろすだけのシンプルな一撃。
故に最強。
「歩、受けよ!」
足が言うことをきかず、避けられそうにない。アーサーの指示で反射的に動くしかなかった。なんとか頭上で腕を交差し、せめてものクッションと化す。
肉がわなないた。受け止めた力はあっさり突き抜け、頭に、首に、腰に、足に、そして地面へと次々と伝播。地面が陥没した。
額より少し上の辺りが切れ、目の間をつうと血が流れていく。
なんとかその状態で持ちこたえた。竜の膂力を考えれば、それだけでも考えられない成果だと思った。
だがその状態から、キヨモリの次撃の予兆が見える。竜の口が開かれるのが見えた。
先のブレスを思い浮かべたが、避けようにも上から押さえつけられて身動きが封じられていた。力を緩めた瞬間押しつぶされる、そんな状態だ、
絶望が頭をよぎったとき、アーサーの声が聞こえてきた。
「突っ込め!」
頭上からのパートナーの声に、咄嗟に動いた。
ほぼ反射で上へ張り詰めた力を抜き、身体を屈ませながらキヨモリ側に身体を倒す。
己の全力をただ全面に弾くように込めた。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
全身を振り絞り、ただ前へ。上から身体を抑えつけていた圧力がなくなった瞬間、いままで経験したことがないほど、身体が加速した。歩を抑えつけていた力が、弦を引き絞った弓のように作用したのだ。
矢たる歩はただ前に突き抜けるだけ。
棍棒の先をキヨモリの腹につきたてる。先程の一撃はまるで効果がなかったが、今度はかなり手応えがあった。棍がめり込んでいる。様々な要因が重なっての、会心の一撃だ。
ブレスを放とうとしていたキヨモリの顎が上がるのが見えた。無防備に喉元が晒された。
この機を逃しては、歩に勝ち目などない。
キヨモリが後ずさったため、棍棒を支えているだけで腹から得物が抜ける。歩はそのまま棍を上に跳ね上げた。丁度喉の辺りにぶち当たった。
キヨモリの口を強制的に閉じられる。すると中で収縮していた暴風が荒れ狂い、口の中から目に見えるほどの風が漏れだした。
「ギャアアオオオオォォ!」
「キヨモリ!」
唯がはっきりとうろたえていた。こんなことは初めての経験なのかもしれない。なにしろ、この学校で唯一かつ特別の存在だったのだ。
更に追撃をかけようと、かなり無理をさせた全身にさらに鞭打とうとしたそのとき。
思わず後ずさりしてしまうほど、はっきりと場の空気が凍った。