靴紐をブーツに通していく。滑らかな黒蛇皮の表面を撫でるように紐が動き、ブーツが足にひっつき、身体の一部と化していく。
最後に余った紐を固く結んだあと、出来た結び目をブーツの中に入れこんだ。座ったまま足を踏みしめると、返ってくる力は足全体に分散された。ぴったしだ。
「歩、出番だ」
慎一が呼んでくる。今日の学期末模擬戦のスタッフをしているらしい。
ベンチで横になっていたアーサーが身体を起こし、肩に飛んできた。慣れた荷重が緊張した身体をほぐしてくれるような気がした。
棍を手にとり、歩も立ち上がる。
「行くか」
「頑張って来い!」
慎一の激励を背に歩きだした。
控室から奥に入る。先は薄暗い廊下だ。床も壁も石造りで、一時代昔の雰囲気を醸し出している。水分初の『闘技場』を作るに当たってずいぶん予算が下りたらしく、豪勢な作りになっていた。円形の闘技場の一階部分の内、会場を除いたドーナッツ部分の廊下は全て石造りになっているが、それだけでなく外観も世界遺産をそのまま移植したような形になっており、初めて見た時は町の中で一カ所だけタイムスリップしたかのように見えた。
入り組んだ廊下を歩いていく。事前に話を聞いており、道に迷うことはない。
入場口にまで着き、角を曲がると、既に唯とキヨモリがいた。見知らぬ人がもう一人いたが、おそらく係の人だろう。
「少し遅くない?」
「主役は遅れるものだ。覚悟を決める丁度よい暇になったのではないか?」
「そんなことないから」
アーサーは竜と対面しているというのに、余り変わりはない。最近気付いたが、アーサーは事前に会うことがわかっていれば、多少竜にも耐性ができるようだ。覚悟を持って臨んでいるのだろう。
対戦相手の姿を見る。
唯は歩のものと似た戦闘服を身にまとい、装飾過多気味の剣を左手にだらりと垂らしていた。ズボンがカーゴパンツではなく、ショートパンツとストッキングを組み合わせたものになっていた。無骨なカーゴパンツより、唯に似合っている気がした。
その隣のキヨモリはというと、少し変わった姿だ。
四肢の爪に黒革のサポーターを付けられている。これは殺傷力を下げるためだろう。そこまではいい。しかし何故か黒革のベルトで身体をぐるぐる巻きにされていた。その下で折りたたまれた翼は痛々しい。それのせいだろうか、キヨモリは心なしか苛立っているように見えた。
「空を飛ぶことも禁止されたんだよね。竜は飛んでこそ竜なのに」
キヨモリを見やった。
これほどの巨躯が高速で空を駆け抜け、その力をぶつけてきたら、歩などミンチ状になってしまうだろう。それは確かに必要な措置だが、すこし悔しさも残る。
だが、気が楽になったのは事実だった。
そのまま少し時間が過ぎた。前の試合の後片付けが長引いたのだろうか。
「ねえ、一つ言っていい?」
唯が話しかけてきた。なぜか少し挙動不審で、かけてきた声も珍しく気弱な感じがした。
歩が促すといきなり頭を下げた。
「この間はごめんなさい。いらいらしてて、あなた達にあたってしまいました。チビとか言ってごめんなさい」
なんとも律儀な。長い赤髪が一部流れて、顔の前に長い垂れ幕を作っている。それくらい深く頭を下げていた。
「いや、そんなことしなくても。うちの馬鹿、相当なこと言ってたし。ごめん」
そう言って、アーサーの頭をひっつかんで強引に下げた。すこし反抗があったが、簡単に下げられたあたり、アーサーにも自覚があったらしい。
「もうよかろう、戦の前に慣れ合うのも良きことではない」
「っアーサー。――まあそういうことだから、頭上げて」
歩が促すと、唯は少し恥ずかしそうにしながら頭を上げた。
「まあ、いい模擬戦しよう」
「よろしくね」
「存分に暴れようぞ」
「平さん、キヨモリさん、水城さん、アーサーさん、時間です。入場してください」
丁度よくアナウンスが流れ、歩達は光が漏れる奥へと足を進めた。石床と靴がこつこつと響く音と同期するように、序々に観衆のざわめく音が大きく聞こえてくる。嫌が応にも緊張が高まり始めた。
肩口には、鼻から炎をもらしながら目をギラつかせているパートナーの姿。手垢のしみた棍を左手で握りしめ、鼓動の昂りを抑えるように息を吐いた。
「緊張しているのか?」
「少しね。色々あって抜けてもきてるが」
「良い塩梅だ。相応の張りを持たせて己を律せよ」
偉ぶった言葉だが、アーサーにとってはこれが激励なのだろう。これから苦手な竜と戦うというのに、アーサーには日頃との差異は見えない。いつものように胸を張っている。
ほんの少しだけ頼もしく思いながらも、苦笑と共に返答した。
「お前も働けよ」
「応。賭け、忘れるなよ」
左足が出口から差し込んでくる光の影を踏んだ。
一度息をすってから、一歩外に踏み出す。
踏み出た瞬間、全身を眩い光と怒号が包んだ。大気を震わせる振動は腹の底まで伝わり、内臓から気分を高まらせる。
周囲を見渡すと、三百六十度観客がひしめきあっていた。ほとんどは学生だったが、ちらほらと部外者の姿もあった。竜対竜の戦いを生で見る機会は、そうそうないからだろう。少しだけ探したが、類やみゆきの姿はわからなかった。
観客席の一部に、ゆったりと座席が配置されたところがあった。おそらく貴賓席であろう座席には、タキシードやドレスといった、歩には馴染みのない服装を身に付けた人ばかりがいた。その中には先日の馬鹿貴族、ハンスの姿もあった。おそらくキヨモリの品定めが目的だろう。彼だけではなく、ほとんどの人はキヨモリの姿を見て興奮しているのがわかる。歩とアーサーのことなど見ていないように思えた。
足を進めて事前に言われた立ち位置につく。目の前には歓声を受けた唯とキヨモリ。
ごくり、と唾を飲み込んだとき、拡声されて少しひび割れた担任の声が聞こえてきた。
「本日の最終戦を始めます。目、金的等急所は不可。悪質とこちらが判断した場合、没収試合となるので注意してください。時間は無制限、気絶、降参により勝敗を決します」
ルールは模擬戦とほぼ同じだ。
「両者、礼」
軽く頭を下げ、すぐに上げた。
唯が数歩下がり、キヨモリが前に出てきた。苛立ちの混じった双眸が歩を捕えている。歩はそれを真っ向から受け止めると、腰を落とし両手で棍棒を構えた。
観客席との間になにやら膜が広がっていく。これは観客を守るためのもので、出場者と観客を隔離するようにしている。みゆきのパートナーであるイレイネと同タイプの能力持ちがやっているのだろう。
これで場が整った。
一息深く吸い込み、一気に吐いた。
アーサーが飛び上がる。
「始め!」