「ふむ……美味いな、これは誰からの差し入れじゃ?」
「はい、確か薫様からだったかと……」
「なるほど、流石じゃな」
どこか味わうように着物を着た老婆、宗家は自らの前に出された湯呑を口に運び、お茶を楽しんでいる。どうやらかなり高級なお茶らしい。それをどこか見守るように宗家の犬神であるはけが控えている。今、二人は雑務を終え、休憩を取っているところ。川平家の宗家には色々とやることが山積みらしい。
「しかしそれに比べてあやつは何なんじゃ……酒にタバコ、とても祖母に差し入れるものとは思えん」
「啓太様らしいと思いますが……なんでしたら処分しておきましょうか?」
「い、いや……せっかくの孫の厚意を無下にするわけにもいかんしな……」
はけの思わぬ返しに少し慌てながら宗家は言い訳をする。はけはどこか楽しそうにその姿を眺めている。何だかんだで宗家のことを理解しているのは啓太なのかもしれない。そんな空気を変えようと一度咳ばらいをした後、宗家ははけに改めて向かい合いながら話を始める。
「そういえば、啓太に任せた依頼の方はどうじゃったんじゃ?」
「はい、依頼の方は問題なかったようで……住職様も喜んでおられたようです」
「そうか、あやつもやっと犬神使いらしくなってきたということか」
宗家はどこか溜息をつきながら言葉を漏らす。色々と問題がある孫だが依頼についてはきちんとこなしているらしい。以前はそれすら満足にできていなかったのだからそれを考えれば大きな成長と言えるだろう。もっとも、もう一人の孫である薫には到底及ばないが。
「やはりなでしこが憑いたのが良かったのかの……」
「はい、おそらくは」
「ふむ、なでしこが啓太に憑いたことにも驚いたが……まだ契約が続いておることの方が驚きじゃな」
宗家はそう言いながら思い出す。四年前の啓太の儀式。その際に啓太はなでしこと共に屋敷へと戻ってきた。その時には自分はもちろんはけも驚いた。何故ならなでしこはこれまで一度も主を持ったことのない犬神だったから。若い犬神であればそれも珍しくないがなでしこは年齢で言えばはけを超える犬神。その間に一度も契約がしたことのないなでしこが何故啓太に憑いたのか見当もつかない。一応なでしこにも確認を取ったがだがどうやら同意のもとらしい。まあ何にしても一匹も犬神が憑かないという事態だけは避けられたのだから胸をなでおろすことができたのだが。
「しかしここまで契約が続くとは予想外じゃったな……てっきりすぐに愛想を尽かされるかと思っとったんじゃが」
「啓太様はもちろん、なでしこも啓太様をお慕いしているようですから。なでしこも啓太様の犬神使いとしての才に……いえ、人柄に惹かれているのでしょう」
「ふむ……要するにダメな主を放っておけんというわけか」
そんな宗家の歯に衣着せぬ物言いにはけは苦笑いするしかない。宗家はすぐに啓太がなでしこに愛想を尽かされるのではないかと心配していたのだがそれは杞憂だったらしい。思った以上にあの二人は相性が良かったのだろう。特に生活面ではなでしこが憑いたおかげで啓太はかなりまともになっている。学校をさぼることもなくなり、酒やたばこにも手を出しそうになったらしいがなでしこが止めたらしい。もっともスケベなところは治っていないようだが。もっともそれもなでしこがいることで一応抑えられてはいるようだ。
「まあ、戦えん犬神であるなでしこの方が啓太にとっては良かったのかもしれんな」
「………」
犬神は本来主と共に戦う存在ではあるのだがああいう関係もいいものなのかもしれない。なでしこがいれば啓太もそう無茶をすることもないだろう。ただそうなるともう一つの問題の解決は難しくなってくるのだが。
「はけ、今、山の方はどうなっておる?」
「………」
「……? どうかしたのか、はけ?」
「……いえ、少し考え事をしていました、申し訳ありません。今は落ち着いています。ですがすぐにまた騒ぎが起こるでしょう」
「そうか……」
「一応啓太様にはこちらには来ないように伝えてはいますが啓太様はそういうことには聡い方です。いつまでも誤魔化すことはできないでしょう」
「全く……あやつはどうしてこう面倒事ばかりに巻き込まれるのか……」
「間違いなくあなたの血を受け継いでおられる証でしょう」
「むう……」
はけの言葉に宗家は返す言葉を持たない。確かに厄介事に巻き込まれる体質は自分譲りなのかもしれないがあの素行の悪さは自分譲りではないと、そう思いたいものだ。だがいつまでもこんな話ばかりしていても気が滅入るだけ。
「それはともかく……はけ、久しぶりにボール遊びでもするか?」
宗家はそう言いながらどこからともなくその手にボールを取り出す。はけは最近、働きづめ。そのストレス解消のためのもの。はけはそれを前にしてもその表情を変えることはない。いつも通りの清らかさを感じられる美しい姿。だが
その尻尾が凄まじい勢いで振られている。それがやはりはけも犬神である証だった―――――
「~♪」
どこか上機嫌に鼻歌を歌いながら歩いている少年の姿がある。それは川平啓太。その服装は私服、何故なら今日は学校が休みであったから。だがそれだけではここまで啓太が上機嫌になる理由にはならない。
(待ってろよ~俺の珠子ちゃん~!)
俺はスキップをしながら店へと入店する。そこはレンタルビデオ店。それが俺の目的地、そして俺がこんなにもテンションが上がっている理由。そう、今日は待ちに待った俺の天使、珠子ちゃんの新作が出る日なのだ! この日をどれだけ待ったことか……しかも今日は休みに加えてなでしこも家にはいない。何でも天地開闢医局という人間で言う病院での定期検診があり、そのため今日は帰ってくるのも遅くなるらしい。決してなでしこがいないことを喜んでいるわけではないがこれで前回の二の舞を演じずに済む。
しかし一体どんな検診をしているのだろうか。以前気になって聞いたことがあるのだが何故かなでしこは顔を赤くするだけで答えてはくれなかった。何だ、何か男が踏みこんではいけない領域だったのだろうか……まあ、気にはなるが仕方ない。今はただ己の為すべきことを為すのみ! 先日の依頼によって生活費にも余裕ができ、こづかいも増えた。依頼の内容は散々だったが得るものもあった。
俺は何食わぬ顔で店内へと入る。何故だろう、別に悪いことをするわけでもないのになぜこの瞬間は緊張するのだろうか。もはや男の本能といってもいいだろう。俺はごく自然にカウンターの店員に目を向ける。そこには男性の店員がいる。よし、第一条件はクリアだ。別に女性ならそれはそれでいいのだがやはりある意味セクハラになりかねないので配慮が必要だ。決して俺が恥ずかしいからではない。紳士の嗜みといってもいいだろう。それを見届けた後、その足を目的地へと向ける。そして一歩一歩確実にそこへ近づこうとした時、ふと、ある光景が目に映る。
そこにはしゃがみ込んだ小さな女の子がいた。歳は十一から十二、小学生だろうか。少女は座り込んだまま何かをずっと見つめている。気になった俺はそっとそこへと近づいてみる。少女は集中しているのか近づいた俺に気づく様子もない。一体何をしているんだ?
俺はそのまま少女の手元を覗き込んで見る。そこには両手に小銭を抱えて悩んでいる少女の姿がある。それを見ておおよその事情を悟る。どうやらビデオを借りに来たらしいがお金が足りないらしい。ここは子供用のアニメのコーナー。辺りには親らしき人も見当たらない。恐らくは一人で借りに来たのだろう。
うーん、どうしたものか……別に借りてやってもいいのだが知らない子供にそんなことをするのもな……こんなご時世だし……そんなことを考えたその瞬間
「なっ!?」
俺は思わずそんな声を上げてしまう。何故ならその少女のスカートから尻尾の様なものが現れたから。いや、様な物ではなく間違いなく尻尾が。だが少女はそのことに全く気付かずお金とにらめっこを続けている。
ま、間違いない……こいつ、犬神だ! よく観察すれば気配を感じる。こんな子供の犬神は見たことなかったのでつい面喰ってしまった……じゃなくて! このままではまずい、公衆面前で尻尾を晒すなんて真似したら面倒なことになる。
「おい! お前、尻尾が出てるぞ! 早く隠せ!」
「え!?……あ、ほんとだ!」
できる限り小声で、それでも慌てながら俺は少女に声をかける。いきなりの声に少女はびっくりした様子をみせるものの、すぐに自分が尻尾を出してしまっていることに気づき、慌てて隠す。ふう、これでとりあえずは大丈夫か。
「気をつけろよ、俺だからよかったけど知らない奴が見たら大騒ぎになるところだぞ」
「は、はい。ありがとうございます! でも、じゃああなたはわたしたちのこと知ってるんですか?」
「ああ、俺は犬神使いだからな。お前も誰かの犬神なんだろ?」
「はい、あたしは薫様の犬神です!」
「カオル……川平薫のことか?」
「え? 薫様のこと知ってらっしゃるんですか?」
「知ってるも何もあいつは俺のいとこだよ」
「あ……じゃあ、あなたがけーた様ですか? 薫様から聞いたことあります! 面白い方だって!」
「あっそう……」
どうやら目の前の少女は薫の犬神だったらしい。しかし面白い奴か、いったいあいつどんな説明をしてるんだ? まあそれはおいといてこんな小さい子でも犬神として契約できるんだな。とても働けるようには見えないが。あいつもそんな趣味はないだろうし、まあどちらかというと面倒を見ているのかもしれないな。
「そういえば挨拶してませんでした、あたしは薫様の犬神、序列九位のともはねです!」
「ともはねね……ん、序列ってのは?」
「はい、薫様の犬神の中での序列です。あたしは一番小さいので九位なんです」
「九? ってことは薫は九匹も犬神を持ってんのか!?」
「? はい、そうですけど?」
ともはねのぽかんとした姿を見ながらも俺は驚きを隠せない。きゅ、九匹も犬神を持ってるだと? 確かに複数の女性の犬神と契約したとは聞いていたがまさかそれほどとは……あいつ、まさかハーレムでも作る気なのか。あり得るかもしれん、あいつああ見えてもSだしな……と、それは置いておいて聞かなければいけないことがある。
「そ、それでお前以外の犬神はその……美人なのか?」
「? びじんかどうかは分かりませんけどみんなきれいですよ」
「ほ、ほう……」
な、なるほど……まったくそんな犬神を八匹も持つなんてけしからん! まったくもってけしからん! これはぜひともお近づきにならなければ! だがいきなりではよくない。ここは将を射んと欲すればまず馬から、いやこの場合は犬からか。まあ将も犬になるわけだが。
「それはともかくともはね、お前お金が足りないんだろ?」
「え? は、はい……」
「そんな顔をすんな、ほれ」
思い出し、落ち込んだともはねに俺はそれを差し出す。紛うことなきお札、千円札を。
「いいんですか、けーた様っ!?」
「気にすんな、俺のおごりだ。その代わり、薫とそのお姉さんたちにくれぐれも宜しくな」
「はい! ありがとうございます!」
目を輝かせながらともはねはビデオを持ちながらカウンターへと走って行く。うむ、やはりまだまだ子供だな。だが今日は機嫌もいいしまあいいだろう。小さい子には優しくしなければな。決してやましい気持ちがあったわけではない。心からの善意なのだから。
さて、前置きが長くなってしまったがこれからが本番だ。目の前には入口がある。男にとっての聖域の入り口が。それを示すかのようにそこには暖簾がある。ここをくぐればそこはまさに異世界。空気も、時間の流れも異なる世界。だがその中に入れば男は誰でも紳士となる。すれ違う時には互いに道を譲り合うほどの、いわば紳士の社交場。
では行こう。いざ、珠子ちゃんの元へ!
そう決意を新たに暖簾をくぐろうとした瞬間、ある違和感を覚える。それは人の気配。だが見渡しても人影はない。一体何故。そう疑問を感じた瞬間目の端に捉える。それはツインテール。まるで尻尾の様なツインテールが自分の後を付いてきている。
「お前……何してんだ?」
そこにはどこか楽しそうに自分の後ろについてきているともはねの姿があった。
「はい、けーた様の後に付いて行ってます!」
「何でそんなことしてんだ?」
「薫様が言ってました。お世話になった人にはちゃんとお礼をしなさいって」
「そうか……だが大丈夫だ。その気持ちだけで十分だ」
「そうですか……じゃあけーた様、ともはねと一緒に遊びましょう!」
「何でそうなるんだっ!?」
何とかともはねを振り払おうとするのだが予想外の切り返しに右往左往することしかできない。なんだこれは? 全く話が通用しない。これが俗に言う子供の無邪気さという奴なのか。その思考回路が理解できん。いや、理解できた方が問題があるのかもしれんが。
「薫様もせんだん達も忙しくて遊んでくれないんです。だから一緒に遊びましょう! きっと楽しいですよ!」
「そりゃお前は楽しいかもしんねえけど……悪いけど俺も忙しくてな、用事があるんだ」
「用事ですか……? もしかしてこの奥に何かあるんですか?」
「ばっ!? や、やめろ! 入ろうとすんじゃねえ!?」
どこか興味深々にともはねが暖簾の奥を覗き込み、あろうことか入ろうとする。俺は光の速さの反射神経と動きを以てそれを阻止する。いきなりのことにともはねは驚くものの俺の必死の姿がお気に召したのかさらに激しく暖簾をくぐろうと襲いかかってくる。まるで飼い主と犬のいたちごっこ。もっとも楽しいのはともはねだけで俺は全力、必死だった。こんなところにともはねを入らせるわけにはいかない。何よりもこの中にいるであろう紳士の皆さまに迷惑をおかけするわけにはいかない。しかし、そんな騒ぎのせいで次第に他の客の視線が俺たちに集まり始める。いや、正確には俺一人に。
そう今の状況。アダルトコーナーの入り口で小さな少女と騒いでいる自分。どっからどうみても変質者、ヘンタイに見られていることは間違いなかった。そのことに気づき、冷や汗が背中を伝う。もはや一刻の猶予もない。このままでは全裸になるよりも辛い仕打ちが待っている気がする。俺の危機察知アビリティがそう叫んでいる。
「分かった、分かったからもうやめろ! 家で遊んでやるから!」
「ほんとですか!? やったあ!」
息も絶え絶えにそう伝えるとともはねは目を輝かせながら喜んでいる。な、何とか助かったがこれからが思いやられる。すまない、珠子ちゃん……また来るからそれまで待っててね………
俺は心の涙を流しながら薫の犬神、ともはねとともに家に向かって歩き出すのだった―――――
「けーた様はあぱーとに住んでるんですか?」
「ああ……狭いからあんまりはしゃぐんじゃないぞ」
「はい! 任せてください!」
並んで歩きながら俺はともはねとともにアパートへと向かっていた。ともはねはあの後もずっとしゃべりっぱなしだ。どうやらよっぽど遊び相手が欲しかったらしい。まあこの年頃なら当たり前かもしれないが。聞いた話では他の犬神たちとはかなり歳が離れているらしいので無理もないだろう。だがこんな時に限って家にはなでしこがいない。きっとなでしこなら上手く子供の相手もするだろう。見たことはないが確信できる。乳母といってもいい雰囲気を持っているからな。もっともなでしこの前では口が裂けても言えないが。年齢に関しては絶対禁句だ。命にかかわる。そうだ、そう言えばこいつもちゃんと言っとかないとな。
「おい、ともはね、知らない人には付いて行くなよ。薫に習わなかったのか?」
「え? でもけーた様は知ってる人ですから大丈夫ですよ?」
「ま、まあそうだけど……もし俺が悪い奴だったらどうするんだよ?」
「けーた様、悪い人なんですか?」
「いや……そうじゃなくてな……」
そんな噛み合っているのかいないのか分からない会話をしながらもアパートに到着する。とにかく部屋に上がってからだな………ん、ちょっと待て、何か普通にともはねを部屋に上げようとしてるけどこれって端から見たら結構やばいんじゃね。男が見知らぬ少女、幼女を部屋に連れ込もうとしているように見えるんじゃ……い、いやそんなことはない。そんな趣味は俺にはない! そうだ、何も後ろめたさを感じることはない!
そう自分に言い聞かせながら部屋のドアを開けようした瞬間、
「ぬう……ぐう……」
そんな男のうめき声の様な物が部屋の中から聞こえてきた。
「けーた様……」
ともはねが怯えながら俺のシャツの裾を掴んでいる。俺はそんなともはねを庇いながらもドアノブに手をかける。やはり鍵が開いている。泥棒だろうか。しかもこんな真昼間から。知らず息を飲みながら俺は手に消しゴムを握りしめる。本来なら霊に対して使う物だがそんなことも言っていられない。俺はゆっくりとドアを開けながら中へと入る。次第に音がはっきりと聞こえてくる。まるで人間がうごめいているような音が。
「誰だっ!?」
意を決して俺は戦闘態勢のまま部屋に飛び込む。だが俺はその光景に言葉を失い、動きを止めてしまう。後から入ってきたともはねもその光景に目を奪われたまま。俺たちの視線の先には
両手を後ろにし、両足を海老反りの体勢で床を這いずり回っている仮名史郎の姿があった――――――