和やかな雰囲気を感じさせる大きな庭園に、年代を感じさせる木でできた大きな屋敷。そこは川平家本家。犬神使いとして由緒ある家柄を示すかのような厳かさ、威厳を現すかのよう。その近くには大きな山がある。それこそが人ならざる者、人妖である犬神と呼ばれるモノノケ達が住んでいる山。この場所、屋敷こそが川平家が三百年以上の永くに渡り犬神達と共に生きてきた証でもあった。そしてその屋敷の中の一室に二つの人影がある。
一人は小柄な着物を着た老婆。だがその年齢とは裏腹に衰えを全く感じさせない程の生き生きした雰囲気を纏っている。もう一人が長い前髪で片目を隠した青年。まるでこの世の物とは思えないような優雅さを持っている。知らぬ者が見れば孫ほども歳が離れているのではないかと思えるだろう。だが二人の間には全く違和感が、矛盾がない。まるで共にいることが当たり前であると、当然であると言わんばかりに。それが川平家宗家、川平榧とその犬神はけ。現川平家で最強の犬神使いとその犬神、主従だった。
「お疲れさまでした、みな滞りなく終わりましたね」
「うむ……全く、いつになっても会合はめんどくさいのう。電話かパソコンでやり取りしたほうが手っ取り早いというのに……」
「そうですね……ですが皆が皆、機械に強いわけではありませんから」
「ふん。頭が固い奴が多いのは今も昔も変わらんわい……」
大きな溜息と共に体を動かしながら宗家は愚痴をこぼす。それは先程まで行われていた霊能力者たちによる会合のため。霊能力者の集団としても大きな勢力でもある川平家はことあるごとに様々な集まり、会合などに出席、またはその場を設けなければならない。川平家宗家である務めの様なもの。だがそれでも宗家にとっては煩わしいことこの上ないらしい。
宗家はその年齢からは考えられない程好奇心旺盛であり、パソコンやテレビゲームを趣味にしているほど。生涯現役、あと五十年は生きると本気で宣言しているほどだった。はけはそんな自らの主の姿に苦笑いしながらも楽しそうに見守っている。それははけが宗家が十三歳になった時、契約した時からずっと変わらない光景。例え年月が経とうと、その容姿が変わろうと、はけにとって宗家は可愛い子供のようなもの。犬神という、悠久の時を生きる者だけが持つ感覚だった。
「ま、そんなことはどうでもいいわい。それで……ようこのことはどうなったんじゃ?」
一度大きな溜息をもらしながらも宗家の雰囲気が変わる。川平家宗家としての姿へと。同時にそれと合わせるようにはけの雰囲気も真剣なものに変わる。まさに以心伝心という言葉が形になったかのようなやりとりだった。
「はい、なでしこにはもう既に了承を得ています。かなり迷っていたようですが……」
「ふむ……なでしこには無理を言ってしまったようなものじゃからな。だがこの状況をいつまでも放っておくわけにはいかん。今は良いが後々面倒なことになりかねん」
「ええ。できればなでしこを……啓太様を巻き込まずにすませたかったのですが……」
「気にするでない。お前はよくやってくれた。後は本人たちに任せるしかないわい。結末がどうなるかは別にしてな。お前からすればどっちの心情も分かる分、やりづらかったじゃろう。それが四年間……そろそろ決着をつけんとな……」
宗家はどこか気落ちしているはけをねぎらいながらこれまでのことを思い出す。そう、啓太になでしこが憑いてからのようこのことを。一言でいえば凄まじい。ただその一言に尽きる。怒り狂い、その力でようこは森の中を暴れまわった。何とかはけがそれを抑えることには成功したがそれでも怒りが収まったわけではない。結界のせいで森から外に出ることができないため、必然的にそのストレスは森の中、その犬神達に向けられてしまう。それを抑えることがこの四年間のはけの大きな役割の一つ。大妖狐のように封印してしまえばいい。そんな意見が出るのに時間はかからなかった。だがそれでもはけはそんな当然の意見を聞こうとはしなかった。それはようこの心情をはけは誰よりも理解していたから。
自らの主を独占するために他の犬神達を排除する。それはかつての自分と同じ。だがそれは失敗に終わり、主は他の犬神に取られてしまった。その悔しさが、無念がどれほどものか。ようこにとって啓太の犬神になることは生きる目的と同義だった。それを失くした、奪われてしまった。そしてその原因は自分にもある。
なでしこに儀式に参加するように促したのは他ならぬ自分なのだから。
それは決してようこのことを無視した行動ではなかった。三百年間、誰にも憑くことなく、やらずを貫いてきたなでしこ。だがはけは知っていた。なでしこが本当は自らを欲してくれる主を求めていることに。三百年という長い間。はけはそんななでしこに向かって提案した。啓太の儀式に参加してみてはどうかと。それは啓太の素質を、人柄を知っているからこそ。啓太ならもしかしたら……そんな期待。もしそれが無理でもなにかのきっかけになってくれれば。だが予想外の事態が起きてしまう。それはなでしこをようこが妨害しなかった、いやできなかったこと。それによってなでしこは啓太の犬神となる。
はけは悩みながらもどこか甘く考えていた。ようこが犬神として誰かに憑くことが許されてから、啓太になでしこと共に憑けばいいと。そうようこにも言い聞かせてきた。ようことしてはとても納得できるような内容ではないのだがそれでもそれ以外に選択肢もなく、その時を待つことを了承する。その間は比較的ようこは大人しく過ごしていた。騒ぎを起こしてそのチャンスをなかったことにされるのは避けたかったため。だがようこにも、そしてはけにとっても予想外の事が起こる。
それはなでしこ。
はけは見誤っていた。それはなでしこの啓太への感情。それが主とその犬神、主従を超えるほどの感情を持っているのだと気づくことができなかった。だが四年間の内にそれは決して変わらない程のものへとなっていた。そんななでしこにようこのことを伝えることができるはずもなかった。三百年、誰にも憑くことがなかったあのなでしこが初めて誰かに憑き、そして恋をしている。それを壊すことなどできない。
だがようこは約束の期限を過ぎても啓太に引き合わせてもらえないことについに我慢の限界を超え再び暴れ始めてしまう。このままではいくら自分でももう他の者たちの意見を無視することもできない。何よりも体力的にも限界が近かった。
しかし転機が訪れる。啓太となでしこが結ばれるという出来事。ある意味でようこにとってもっとも残酷な結末。それを前にしてはけは決意する。結果がどうであれ、ようこを啓太に引き合わせるべきだと。
その時が今、目の前にまで迫っていた。
「主はようこと啓太様を引き合わせることには異論はないのですか?」
「仕方なかろう……これも啓太の運命じゃったんじゃろ。丸くおさまってくれれば助かるが……まあ、そう上手くはいかんか」
「はい……おそらく。啓太様はともかく、ようこがどう動くか……一応釘は刺しているのですが啓太様を前にすればどうなるか……」
「それはまあ……何とかなるじゃろ。あやつ、体だけは頑丈じゃからな。ちょっとやそっとじゃ死にはせんわい」
宗家の冗談とも本気とも分からない言葉にはけは苦笑いすることしかできない。確かに啓太なら何があっても大丈夫だと思えるような何かがある。もっとも啓太からすればたまったものではないのだが。
「それで啓太にはいつこちらに来るように伝えるんじゃ?」
「いえ、まだ日付の方は……啓太様も最近忙しくされていますので」
「忙しい? あやつが? またどこかにナンパにでも行っとるのか?」
「いえ……実は啓太様は」
「何、俺がどうしたって?」
はけが何かを言いかけた瞬間、まるで当たり前のように、ごく自然に聞きなれた声が割って入る。二人はしばらくの間それに気づかない。だが同時に驚きながら振り返る。そこにはラフな格好をし、どこか楽しげな表情を見せている川平啓太の姿があった。
「よ! ばあちゃんもはけも久しぶりだな!」
「啓太!? いつから来とったんじゃ!?」
「いや、ついさっきだけど……何? また俺の愚痴でもこぼしてたのか? 相変わらずばあちゃんもあきらめが悪いぜ」
「自信満々にそんなことを口にするでない! まったく……久しぶりに顔を見せたと思えば……全然変わっとらんようじゃな、啓太」
「あったりまえだろ! ほい、酒とたばこ。そろそろ少なくなってんじゃねえかと思ってさ」
「お、お前な……」
突然やってきたにもかかわらず、全くいつもと変わらないペースで振る舞っている自らの孫の姿に宗家は呆れかえることしかできない。直接会うのは半年ぶりだが中身は全く変わっていないらしい。
「そうそう、はけにはこれな。安物だから戦闘には使えねえだろうけど」
そんな祖母の姿に気づくことなく思い出したかのように啓太が持ってきた袋からあるものを取り出す。それは扇子。今はけが持っているものとは対象的な色合いの物だった。
「私にもですか……? ありがとうございます。ですが何故……?」
「それはあれだ、死神の時には世話になったからな。そのお詫びってこと」
「そうですか……ではありがたく頂きます。啓太様もお体に大事はなさそうですね」
「おうよ! 元気ビンビンだぜ!」
はけは驚きながらもそれを受け取る。それが間違いなくかなりの品であることは明らか。普段、宗家以外から贈り物をされることなどほとんどないためかはけは心なしか上機嫌な姿を見せていた。だがはけはふと気づく。それは視線。宗家がどこか恨めしそうな視線を自分に向けている。これまで五十年以上仕えてきた中でも見たことのないような視線だった。
「ど、どうかしたのですか……主?」
「いや……やっぱり若い方がいいのかと思っての。もう老い先短い身じゃからな。捨てられても仕方ないか……」
「な、何をおっしゃっているのですか、主!? 私はあなたのことを捨てたりなどは……」
「いいんじゃ……もうわしのことは気にせず、啓太に憑けばよかろう……」
「あ、主っ!?」
すっかりいじけて、拗ねてしまった宗家にはけはあたふたすることしかできない。こんなことは初めてだったためはけもどうしたらいいか分からず混乱してしまっている。普段の姿からは想像もできない狼狽ぶりだった。だが
「はははははっ! ばあちゃん、そのぐらいにしねえとほんとにはけの奴、身投げしかねねえぞ!」
ついに我慢できなくなったと言わんばかりに啓太が腹をかかえながら大笑いを始める。同時に顔を伏せていた宗家も笑いをこらえ切れなくなり笑い始めてしまう。そんな二人の姿にはけは呆気にとられるものの、何とか我に返りながら二人に詰め寄って行く。
「ど、どういうことですか、主?」
「いや、なに。こういう風にお前をからかえることなど今まで一度もなかったからな。ちょっと試してみたかっただけじゃよ。本気にするでない」
いよいよ誤魔化すことができないと観念した宗家はネタばらしをする。
「驚いたのはほんとじゃよ。まあお前がわし以外に憑くとは思っとらんかったからな」
「そうそう、ばあちゃんにも謝っとかなきゃなと思ってたんだよ。悪いな、ばあちゃん。勝手にはけを借りちまった」
「ふむ……本当なら怒らなければならんところじゃが……まあ今回は大目に見てやるわい。だが今度からはわしにも伝えるんじゃぞ。はけ、お前もじゃ」
「はい、申し訳ありません」
「おう、分かった」
宗家の言葉にはけと啓太は同じ様に頷く。結果的にはよかったようなものの綱渡りに近い危険な戦いであったことには変わりない。自分の犬神であるはけをそれに巻き込む以上は当然の指摘だった。もっともあの時は啓太もはけも精神的に高揚していたためそこまで頭が回らなかったのが大きな原因だったのだが。
「それはともかく啓太、お前にとってはいい薬にもなったじゃろ。死神、しかもわしらが戦った奴よりも格上のじゃったらしいの」
「う……ま、まあな。確かに桁外れだったよ。はけがいなけりゃ手も足も出なかったし。結局なでしこに全部やらしちまったからな……」
「なでしこに関してはわしも知らんかったからの……まあ、犬神も含めてお前の力であるからそこまで気落ちすることはないが、それでもやはり修行が足らん。大体お前は普段から……」
「ああもう、分かった、分かったからお小言は勘弁してくれ! 大体修行とかどう考えても俺の性に合わねえっつーの!」
ある意味予想通りの祖母のお小言が始まったことに啓太は辟易した表情を見せる。これがあるから気軽の遊びに来ることができない。まあ、祖母が元気である証拠ではあるのだが。
「全く……そういえばお前、何で急にやって来たんじゃ? 連絡ぐらいしてこんか」
「いや……確かに死神の呪いも解けたし一度来ようと思ってたんだけど、最近よく声を聞くように……じゃなかった、夢をみるようになってさ」
「声と夢、ですか……?」
「おう。誰かが俺を呼んでるような夢。それが何となくばあちゃんの家らへんからするような気がしたんだよ。声は前にも……ケイの時にも似たようなことがあったんだけどさ」
啓太は何でもないことのようにそれを口にする。もっとも啓太自身もそれが何なのか分からない。フラノの未来視のようにはっきり何かが見えるようなものでもない。でもそれが引っかかっている。ケイの時にははっきりとそれが聞こえたのだが今回はそれがあまり聞きとれなかった。一体何なのだろうか……もっとも祖母とはけにいっても何を言っているかわかるわけもない。笑い話だと笑われるのがオチだろう。だが
「「………」」
そんな啓太の予想とは裏腹に二人はどこか難しい顔をしたまま黙り込んでしまう。
「何、どうかしたのかよ、二人とも黙りこんじまって。何かあったのか?」
「啓太様……今日こちらに来ることはなでしこには……?」
「ああ、伝えてきた。あいつ、何故かいつもここには付いてこないし……ただなんか様子がおかしかったんだよな……よく分かんねえんだけど……」
啓太は顎に手を当てながら思い返す。自分を見送る時のなでしこの姿。明らかに何かおかしかった。一体あれは何だったのか。今まで見たことのないほど不安そうな表情だった。危険な依頼に行くわけでもないのに。
「……啓太、お前に一つ、大事な話がある。はけ、お前は山の方を」
「……はい、承知しました」
「……?」
宗家は考え込んでいる啓太に向かってどこか真剣な様子でそう告げる。同時にはけにも何か命令している。詳しい内容を口にしていないにも関わらずはけはそのまま姿を消してしまう。啓太はそんなどこか物々しい雰囲気に圧倒されているだけ。
な、何だ? いきなり話とか……俺、何もやってねえぞ。うん、ストリーキングの情報はこっちまでは流れてきてないはず……
そんな見当はずれな心配をしながらも啓太は改めて祖母と対面する。心なしか祖母の様子がいつもと違うような気がする。なんて言うか……まるで儀式のときみたいな……
「で、話ってのはなんなんだよ、ばあちゃん。お小言ならこれ以上は御免だぞ」
「たわけ。真面目な話じゃ……啓太、お前、もう一人、犬神を持つ気はあるか?」
瞬間、啓太は口を開けたままぽかんとした表情を見せる。まるで祖母が何を言ったのか分からない。そんな姿。だがそうなってしまうほどに祖母の言葉は啓太にとっては予想外、頭の片隅にもない話だった。
「犬神をもう一人……? 俺が? 何で?」
混乱しながらも啓太にはそう返すのが精いっぱい。いや返事をできただけでも奇跡の様な物だった。
え……? 何がどうなってんの? てっきりまた説教でもされるかと思ったら今度は何かの冗談か? さっきのはけへの冗談に比べたらちょっとレベルが低すぎねえ? 大体何でそんな話になるわけ? なでしこになにかがあったわけでもねえのに……薫への話の間違いじゃねえのか?
「うむ……実は四年前、お前が儀式を受けた時、なでしこの他にもう一人、お前を気に入った犬神がおったんじゃ。だがその当時、その者はまだ未熟でお前の許にはこれなんだのじゃ。今、その者の禁も解けての。ぜひお前の犬神になりたいといっておるのじゃ」
ま、まじで? そ、そんな奴がいたのかよ!? ま、まさかなでしこ以外に俺の犬神になりたいって奴がいるなんて!? ち、ちくしょう、そうならそうと早く言えっつーの! さっそくそれについて詳しく……ってちょっと待て!? 落ち着け俺! ここで慌てたり騒ぎたてるわけにはいかん! まずは慎重に……
啓太ははやる気持ちを何とか抑えながらできる限り平静を装う。だがそんなことなど祖母にはお見通し。伊達に血がつながっているわけではなかった。しかしあえてそれには触れないことにしたらしい。
「い、いや……それは、まあ嬉しいけどさ……でもいいのかよ? 犬神を儀式以外で増やすなんて聞いたことねえぞ」
「むう……確かに本来なら許されることではないのだが少し事情があっての。今回は特例じゃ。それで、どうなんじゃ? その気があるのか、ないのか」
あるに決まってんだろうがっ!!
そんな心の、本能の声を上げそうになるものの啓太は寸でのところでそれを押しとどめる。それは啓太の理性と言ってもいい物。いや良心と言った方が良いかもしれない。それが訴えかけている。自分の今の状況を。それから導き出される結論を。
「そりゃあ……本音を言えばないことはないけどさ……でもやっぱいいわ。俺にはなでしこがいるし。大体他の犬神なんて憑いたらなでしこがなんて言うか……」
そう、今の自分にはなでしこがいる。もし誰も憑いていなければ迷わず飛びついたかもしれないが。加えて自分はなでしこにリボンと共に告白している。薫とその犬神達とは事情が違う。もし他の犬神を連れて帰ったりしたらどうなるか……いや、想像したくもない、というか想像するまでもない。本音としては少し残念な気もするが仕方ない。うん、責任は取らないとな……男として……
そんなよくわからない心の涙を啓太が流している中
「……その心配ならいらん。なでしこは既に承知しておる」
「え?」
祖母の言葉が啓太を現実へと引き戻す。いや、それによってさらなる混乱に。当たり前だ。あり得ない言葉をあの祖母から聞いてしまったのだから。
「ばあちゃん……冗談ならもう少しマシな冗談つけよな……とうとうボケが始まったのか?」
「たわけっ! 茶化すでない! 冗談でも何でもないわい。なでしこにははけから話が通っておる。疑うなら後ではけに聞くといい」
「え……ま、まじなの……?」
どどどどういうことっ!? え、ほんとになでしこが認めたっての!? 他の犬神をもつことを!? い、いやいやありえんだろ!? だってなでしこだぞ!? 本人の前じゃとても言えないがあの嫉妬深いなでしこだぞ!? 何かの間違いに違いない、じゃなきゃなでしこに何かあったに違いない! は、早く天地開闢医局に連れて行かないと!
「ふう……確かにいきなりこんなことを言われても答えられんか。啓太、とりあえず今晩、山に入ってこい。そこでその犬神と会い、それから決めるのじゃ。その者をどうするか、お前自身でな」
そんな啓太の混乱をすることもなく、宗家はそう告げた後部屋を後にしていく。そう言われてしまった以上帰るわけにもいかず、啓太はただ呆然とその場に座ったまま日が暮れるまで待ちぼうけを食らう羽目になったのだった―――――
「う~ん……」
啓太はそんな声を上げながらも出かける準備を整えた後、屋敷の玄関から山へと続く夜道へと進んでいく。既に日は暮れ、辺りは暗闇に包まれている。どうやら約束の時間には間に合いそうだ。だがそれでも疑惑は晴れない。一体この状況は何なのか。何だか自分の与り知らないところで見えない力が働いているかのよう。だがここまでくれば後はどうとでもなれだ。取って食われるわけでもなし、気楽に行こう。そんなことを考えていると
「啓太様」
「おわっ!? はけかっ!? いきなり話しかけんじゃねえよ!?」
いきなり目の前にはけが現れながら声をかけてくる。それに思わず啓太は飛び上がってっしまう。当たり前だ。夜の、しかも山へと続く道の最中に突然人が現れたのだから。やはりこいつは俺を驚かす趣味があるに違いない。
「申し訳ありません、ですがどうしても啓太様にお話したいことがあったのです」
「話って……これから俺が会いに行く犬神のことか?」
「はい……その者は故あって長い間、他の者と隔離されていました。まだ犬神としては半人前。その意味ではなでしこには到底及ばないでしょう」
「はけ……?」
啓太は思わずはけへと声をかける。それははけの姿。それは今まで見たことないようなもの。どこか言葉に表すことができないような、言い難い雰囲気を纏っている。それを前にして啓太はそれ以上言葉を続けることができない。
「ですが、どうかその者をきちんと見てやってほしいのです。本来私が伝えるのは許されることではないのですが……あの者は心からあなたの犬神になりたいと思っております」
はけはそんな啓太に気づきながらも告げる。自分が伝えるべき、そして啓太が知るべきこと。何よりも
「そして、他でもない啓太様自身に決めていただきたいのです。その者をどうするかを。私や宗家、そしてなでしこではなく、あなたに」
自らのもう一人の妹であるようこのために。
「では私はこれにて。どうか宜しくお願いします」
深く頭を下げた後、はけは霧のように姿を消していく。音もなく、元からそこにはいなかったかのように。後には夜の静寂が残されただけ。
「何なんだ……一体……?」
頬を掻きながらも啓太はそのまま山へと、その入り口である鳥居へと向かって行く。だがそんな中、啓太は考えていた。今の自分の置かれている状況が一体何なのかを。
おかしい。いや、おかしいことしかないぐらいおかしい。
まずなでしこのこと。俺に他の犬神が憑くこと認めたということ。やっぱりどう考えてもあり得ない。それは四年間一緒に暮らしてきた俺だからこそ分かる。そんなことは絶対に……い、いや……一つだけあり得る。それは三行半、つまり俺が愛想を尽かされてしまったと言うこと。言うならばお暇をいただきますということ……い、いやそんなはずは……確かに稼ぎも少ないし、甲斐性もあるとは言えんがそれでもそこそこ上手くやってたはず……現にプロ……じゃなかった告白も受けてもらえたし、となるとあれか……やっぱあの時に襲わなかったのがいけなかったのか? だ、だがしかしそれだけで……やっぱり何かおかしいな。
というかちょっと待て? なんかなでしこのことばっかに気を取られてたけどまず前提からしておかしくねえ? 何でこんな時に俺の犬神になりたいなんて奴がいるわけ? どう考えてもおかしいだろ? 儀式からもう四年以上経ってんのに。しかも、うん、自分で言うのも悲しいが俺の犬神になりたいなんて奴、なでしこ以外にいるわけないだろ。実際、俺、儀式の日には総すかんをくらったわけだし。その証拠に薫の犬神達も最初はめちゃくちゃ俺のこと嫌ってたし。今は少しはマシになったと思いたいが……っとそれは置いといて。そう考えるとやっぱりこの状況自体が疑わしい。現にばあちゃんもはけもどこか様子がおかしかった。よそよそしいというか、何かを隠しているかのような……はけのさっきの言葉もまるで俺を試しているみたいだったし……ん? 試す?
瞬間、啓太の中である閃きが、衝撃が走る。その思考が一つの結論に至る。
それはこの状況が自分を試す罠、いや試験なのだと。恐らくは他の犬神の誘惑を退け、今の犬神を選ぶことができるかどうかの。そう、いわば裏試験の様なものだと。
そう考えれば全てに説明がつく。なでしこが俺に他の犬神が憑くことを認めたことも、何故か不安そうに俺を見送ったことも。ばあちゃんとはけがどこかおかしかったのにも。
な、なんてこった……あ、危うく騙されるところだったぜ。恐ろしいドッキリを、いや試験を考えやがる。その設定も凄まじい。っていうか冷静に考えればどう考えてもできすぎてんだろ。ずっと四年間俺を待ってるとかどこのドラマ、小説の話だっつーの。ま、まあそれに騙されかけていたのは事実だが……
「ごほんっ! よし、じゃあさっさと終わらせるとすっか!」
啓太は疑問が氷解したこと、そしてそれに挑まんと意気込みながら入口の鳥居をくぐり、山へと入って行く。四年ぶりに犬神達の世界へとその足を踏み入れる。本来なら儀式以外立ち入ることが許されない聖域へと。自分が的外れな勘違いをしていることに全く気付くことなく。ある意味一つの対応としては正しくはあるのだが。
啓太はどこか懐かしい気分になりながらも目的地へと進んでいく。まるで四年前の儀式が再び蘇ったかのよう。山の姿は四年前と全く変わっていない。もっとも自分はあの時よりは大人になったが。今思えばあの時の自分は完全に黒歴史、思い出したくもない。ある意味トラウマと言ってもいい。だがそれでもあの時の出会いがあったからこそ今の自分がある。そんな柄にもないことを想いながらも啓太は辿り着く。
そこには古い、荒れ果てた寺があった。そこに例の犬神がいるらしい。その寺も確か何かしら由緒がある、由来がある建物らしいが啓太にとってはどうでもいいことだった。というか話もろくに聞いていないだけ。月明かりと自分が持っている懐中電灯の明かりだけを頼りに啓太はその寺の中へと足を踏み入れる。
―――――瞬間、啓太の時間は止まった。
それは一人の少女。月明かりだけによって照らされている着物を着た少女がそこにはいた。正座をし、どこかお淑やかさを感じさせる佇まいで。暗がりで顔ははっきりとは見えない。だがそれで十分だった。暗がりですらその美しさを隠しきれていない。月明かりのみの灯りによってどこか幻想的な雰囲気が辺りを支配している。まるで月の加護を受けているかのように。
「お前は……」
知らず啓太は問いかけていた。その少女に。無意識に。だが違和感はなかった。ただそうするべきだと思っただけ。それが啓太の男としての、いや犬神使いとしての本能。
「初めまして。ようこと言います」
そんな啓太を見据えながらも少女、ようこは鈴の様な声と共にその名を告げる。啓太には知る由もない。その言葉に、文字通り少女の万感の思いが込められていることに。
月明かりの中、一人の犬神使いと犬神が向かい合う。
それが川平啓太とようこの出会い、いや再会だった―――――