これは今から四年前、川平啓太が十三歳だった時の話。
その運命が大きく変わった時。本来の道筋から大きく変わった全ての原因、そして始まり。
どこか歴史を感じさせる和室に三人の人影がある。一人は着物を着た老婆。大きな和室の中央にちょこんと正座し、手首には紫水晶の数珠をはめている。どこか威厳を感じさせる空気を纏っていた。
もう一人が着物を着た青年。清らかな空気を纏った美しいその姿。その手には扇の様な物を手にし、老婆の後ろに控えるような形で座っている。
そして最後の一人、それは少年だった。だがその姿は先の二人とは違いラフな格好、Tシャツにジーパンというもの。だがその様子はどこかそわそわしている。まるで何かを待ちきれないと興奮しているかのように体がしきりに動いている。誕生日プレゼントを、クリスマスプレゼントを待つ子供のよう。実際、まだ少年は子供だったのだが。
それが十三歳、今年中学校に入ったばかりの川平啓太だった。
「久しぶりじゃな、啓太。元気にやっとるのか?」
そんな啓太の様子を見ながらも老婆、啓太の祖母は一度咳ばらいをした後にそう尋ねる。それは久しぶりの孫との再会、そして落ち着かない様子の啓太を戒める意味を込めていた。だが
「なあ、ばあちゃん、もう行ってもいいか!? もう日も沈んだしいいだろ!?」
祖母の意図など欠片も気づかず、啓太は今にも飛び出して行きかねない勢いで祖母に尋ねる。その眼は期待と興奮で満ちている。もはや何を言っても耳には入らないだろうと悟るには十分なものだった。
「全く……気持ちは分からんでもないがもう少し落ち着きを身につけたらどうじゃ……?」
「そんなもん身につけられるならとっくに身につけてるっつうの! ばあちゃんだってそんなこと分かり切ってんだろ!?」
「自信満々にそんなこと口にせんでいい……情けなくなってくるわ……」
「主、いいではありませんか。主もあの時には随分はりきっておられたでしょう?」
「うむ……まあそうじゃったが……」
「お、流石はげ! よく分かってるじゃないか!」
「はけです。啓太様」
そんなコントの様なやりとりをしながらも祖母は改めて自らの孫、啓太を見つめる。本家の直系である血筋。間違いなく才能においては自分に匹敵、凌駕するものを持っている孫。だがいかんせんその性格、素行に問題がある。そのせいで本家からはいい目で見られていない。それを何とかしようと一人暮らしをさせて自立を促そうとしているがどうやら全く効果はないらしい。いや、むしろ悪化しているのではと思ってしまうほどだ。だがそれを覆せるかもしれない、挽回できるかもしれない機会が訪れた。
「では儀を始めるが……準備はよいか、啓太?」
それは儀式。もっとも儀式と言っても特別難しいことをするわけではない。一人、裏山に向かいそこで一晩を過ごす。ただそれだけ。しかし、そこには大きな意味が、理由がある。
自らの犬神を手に入れる。それこそがこの儀式の目的。犬神使いになるために避けることができない儀式だった。
川平家の人間は十三歳になればこの儀式を受ける。その裏山には犬神と呼ばれる人妖たちが住んでいる。彼らの品定めを受け、気に入られれば犬神使いになれるというわけだ。それは犬神使いを目指す者にとっては人生の大一番といってもいいもの。何故ならこの時に自分に憑く犬神によって己の人生が決まると言っても過言ではないのだから。にもかかわらず目の前の孫にはまったく緊張感というものが感じられない。まるでナンパにでも行くのではないかと思えるような有様だ。そしてその想像は正鵠を射ていた。
「あったりまえだろうが! 俺もはけみたいな便利な犬神もらえるんだろ? 一人暮らしだと色々大変でさ、早く犬神が欲しいってずっと思ってたんだよ!」
「お前……犬神使いをなんか勘違いしておりゃせんか?」
「とにかくもういいんだろ!? 行ってくるぜ、待ってろよ、俺の可愛い犬神ちゃーんっ!!」
もはや話すことはないと言わんばかりに啓太は大きな荷物を背負いながら凄まじい勢いで走り去って行く。その素早さに祖母は制止する暇すらない。あっという間に啓太の姿は見えなくなってしまう。元気が有り余っている年齢とはいえあの身体能力は人間離れしている。その理由も情けないものだが犬神使いとしては長所ではあるだろう。儀式においてプラスになるかは置いておいて。
「やれやれ……先が思いやられるわい……」
「心配することはありません。啓太様には犬神使いとしての才があります。それは私が保証しましょう」
「才があっても犬神が憑かんことには話にならんわい……」
自らの犬神であるはけの言葉にそう愚痴を漏らしながら祖母はそのまま裏山へと目を向ける。恐らく既に始まったであろう儀式を心配しながら――――――
「おーい、犬神ちゃーん! 隠れてないで出ておいでー!」
俺は森に響き渡るように声を上げながら森の中を走り続ける。既に日は落ちていて手に持っているライトだけが唯一の明かりだがそんなことは今の俺にとっては何の障害にもならない。なんといっても今日は待ちに待った日だからな。そう、やっと俺が犬神を持つことができる日なんだから!
小さい頃からばあちゃんや親戚の連中が持つ犬神を見てきた時からこの日を心待ちにしていた。犬神が手に入れば、理想としてははけのような犬神がいれば俺の生活も一気に楽になる。何よりもそう、犬神の女の子には美人が多い。これが重要だ。いや、これこそがもっとも大切な要素だ。むさい男の犬神などより可愛い女の子の犬神の方がいいに決まっている。可愛い女の子と一緒に暮らすというまさに夢の様なシュチュエーションが俺を待っている。しかも人によっては複数の犬神が憑くこともあるらしい。そうなればハーレムすら可能。いかん、想像したら鼻血が出てきそうだ。
しかしなかなか出てこないな。もしかして恥ずかしがってるのか。まあまだ時間はたっぷりある。ゆっくり見つければいいか。
そんなことを考えながら啓太がさらに森の奥に進もうとしたその時
「きゃっ!」
そんな少女の声が聞こえてきた。
「ん?」
「あ………」
目を向けた先には一人の女の子がどこかびっくりしたような表情で俺を見つめている。まるで隠れているのを見つかってしまったように。もっとも女の子と言っても俺よりは歳上、お姉さんと言った方が良さそうだ。三つ編みのお下げをしたどこかおとなしめなカンジ。だが問題はそこではない。美人。それも間違いなくめったにお目にかかれないような美人だ。何だろう、犬神はこれが標準クラスなのか? だとすればまさに俺にとっては桃源郷だ……と、いつまでもこのままではいけない。俺は犬神を手に入れるためにここに来たのだから。
でもどうすればいいんだ? 急いできたもののどうやって犬神を手に入れればいいのか分からない。ばあちゃんが何か言ってたような気もするが覚えていない。もっとよく聞いとけばよかった。でもまあいいか、要はあれだ、ナンパみたいなもんだろう。
「あ、お姉ちゃん、可愛いね。どう? 俺の犬神にならない?」
できるだけ自然にしなければ。これぐらいならいいかな。あんまりがっついてるようだと引かれるかもしれないし。だが
「ご……ごめんなさい!」
三つ編みのお姉さんは一度頭を下げた後、そそくさと逃げるように森の中に消えてしまう。予想外の事態に後を追うこともできなかった。
うーん、ちょっとストレートすぎたかな……いや、待て。そうか。俺はなんて勘違いをしてたんだ! 俺は犬神使いのことを勘違いしてしまっていたらしい。そうだ、彼らが無償で働いてくれるわけがない。そう、いわば俺たちは犬神を雇う、雇用する立場にあるんだ。きっとばあちゃんもはけに給料を払っているに違いない。俺がいる手前そういう話はしなかったんだろう。
全く、危うく騙されるところだったぜ。だがそうと分かればこっちのものだ。俺はそのまま背負っていた袋を下ろし、中をあさる。そして取り出す。それは拡声器。こんな時のために用意していた物。最初からこれを使えばよかったのだが浮かれてすっかり忘れてしまっていた。それ以外にも寝袋や色々なものが入っている。準備は万端。では仕切り直しと行きますか。
「完全週休二日! ボーナス有り! 明朗会計の明るい職場にします! 時給は応相談! 来たれ、やる気のある犬神ちゃん!」
拡声器を使い俺は労働条件を連呼しながら森を駆け抜ける。完璧だ。これで隠れていた犬神達も出てくるだろう。まだ中学生なので給料は多く出せないがその辺りまたばあちゃんに相談しよう。今はともかく犬神を雇わなければ。そんなことを考えていると、どこからか大きな音が聞こえてくる。
「なんだ……?」
それはまるで何かが爆発したかのような音。同時にここから少し離れた場所から光が見える。だがそれは電気ではない。恐らくは火。火事だろうか。しかしそれは消え去ってしまう。
まるであれみたいだ……そう、狐火のよう。まあそんなもの見たことはないのだが。とにかく犬神の雇用を急がねば、気を取り直しながら俺は叫び続ける。だが
いつまでたっても犬神は俺の前には現れなかった。そう、ただの一匹も。
ただ無意味に時間が過ぎていく。犬神の気配も全く感じられない。まるで無人の山のように。そんなことはないはずなのに。
知らず冷や汗が背中を伝い始める。
あれ………もしかして……これって、やばいんじゃないの……?
今まで考えもしなかった事態に我に返る。そう、もし、このまま一匹も犬神と出会えなかったらどうなるんだ。てっきり簡単に犬神は手に入るんだとばかり思っていた。だって今まで犬神が憑かなかった人の話なんて聞いたことがない。それはつまり……
このままでは自分がその記録を塗りたててしまうということ。
「い、いや……まだそうと決まったわけじゃない……そう、まだ慌てるような時間じゃない……」
一人、自分に言い聞かせるように呟く。落ち着け。焦ったら負けだ。そうだ、誰かも言っていた。あきらめたらそこで試合は終了だと。これは試合ではないのだが似たようなものだ。そう俺と犬神の試合なのだ。まだ九回になったわけではない。時間はある。逆転は可能だ。
「あの……」
だが脳裏に浮かぶ。その光景が。一匹も犬神が憑かなかった自分。その後の惨めな生活。俺の夢が、希望が、ハーレムが遠ざかって行く。そんな……そんなのは……
「嫌だああああっ! せっかく誰が来てもいいように部屋を片付けたのに! 準備もしてきたのに!」
「あの……」
そうなのだ。この日のために部屋を片付け、色々準備してきた。なのに一人でそこに帰るなんて空しすぎる。一体どうすれば。あれか、やはり福利厚生について触れなかったのがいけなかったのか。しかし俺にはそこまでの知識はない。くそっこんなことなら真面目に授業を受けときゃよかった。
「なあ、あんたもそう思うだろ!?」
「は、はい……」
ほら見ろ。目の前の女の子もそう言っている。やはり俺の準備が不足していたらしい。かくなるうえは時給ではなく固定給にするしか……………あれ、俺、今誰に話しかけたんだ……?
ふと、目を向ける。そこは先程まで誰もいなかったはずの場所。そこに一人の少女がいる。どこか心配そうな表情を見せながら。
その姿に目を奪われる。その理由。可愛かったから。それが全て。
小柄な体。栗色のウェーブがかかった髪につぶらな瞳。だが決して子供っぽいわけではない。間違いなく自分よりは歳上。だがその可愛さ、美人さは先程の三つ編みのお姉さんを超えている。
間違いなく俺が生まれてから出会った中で一番可愛い女の子。それを前にして身動きを取ることができない。
「あの……大丈夫ですか……?」
それが俺となでしこの出会い、そして全ての始まりだった―――――――