日が沈み、辺りが静けさに包まれつつある時間、啓太は自分の指定席、座布団に胡坐をかきながら新聞を読んでいる。今、時刻は夕刻。啓太は学校を終え帰宅し、夕食を済ませたところ。そのあと新聞を読みくつろぐのが啓太の日課。本当なら朝読むべきものなのだろうが如何せん朝には弱いためこんな形になっている。そしてそんな中、部屋には食器がこすれるような音が響いている。だがそれは決して耳に障るような音ではない。むしろ心地よさすら覚えるほどの物。
「啓太さん、お風呂が沸いてるので入ってくださいね」
「ん……いや、俺は後でいい。先に入っちゃってくれ」
「そうですか……じゃあ、お先に頂きますね」
台所で洗い物をしていたなでしこがこちらに振り向きながら風呂をすすめてくる。それを聞きながらも俺は新聞を広げたままいつも通りの答えを返す。なでしこはそのいつもどおりのやり取りをしながら笑みを浮かべ、洗いものに戻って行く。分かり切っていることにも関わらず毎回きちんと聞いてくるところがなでしこらしいと言えばなでしこらしい。俺はそのまま新聞を少しずらしながらその後ろ姿を眺める。
小柄ながらもテキパキとどこか楽しさすら感じさせる雰囲気を纏いながらなでしこは洗い物を済ませていく。それを俺は眺めているだけ。眺めていないで手伝えという声が聞こえてきそうだが何も俺はなでしこに洗い物を押しつけているわけではない。そんな亭主関白ではない、というか亭主ではなく主人、飼い主なのだが。いや、良く考えると同じようなもんか……まあそこは置いといて俺もなでしこと暮らし始めた当初は家事を手伝おうとしていた。いくら俺でもいきなり全てを押しつけるような真似はしない。だがなでしこは俺に家事をさせてはくれなかった、それも頑として。それは自分の仕事だと。いつもは温和ななでしこなのだが一度これと決めたことや譲れないことには頑なになるところがある。それが分かってからはなでしこが家事をしている時には手を出さないことが俺の中のルールになっている。
ふと、目に止まる。それはなでしこの服、いや身につけている物。エプロンドレス、そしてその首には蛙の形をしたアクセサリー、ネックレスが掛けられている。そのネックレスは自分となでしこの契約の証。犬神使いとその犬神の関係の主従の証だった。
(そういや、なでしこが家に来てからもう四年になるのか……)
そんなことに今更ながらに気づきながら思い出す。それは今から四年前、俺がまだ十三歳、中学一年の時。俺はなでしこと出会い、そして犬神使いとなった。できればあまりその頃のことは思い出したくない。
何故ならその頃の俺は何と言うか……エロだったから。もうエロが本体で俺が部品だと言えるぐらいエロだった。だがきっと分かってくれるはず。思春期の少年の頭の中はほぼ九割以上がエロでできていると! もっとも今も八割以上はエロなのだが。だが決して変態ではない。エロではあるが変態ではない! ここが一番重要だ。
まあともかくそんな俺だったわけだからなでしこが犬神になってくれた、家にやってきた時には狂喜乱舞した。今となっては正気を疑うが本気で夜伽をしてもらおうなどと妄想していた。完璧に黒歴史だ。
女の子がやってくることによって漫画やゲームの様なハーレム生活を送ることができる。そんな風に思っていた時期が俺にもありました……
舞い上がっていた俺はなでしこにあるものをプレゼントした。それはエプロン、今もなでしこが身につけているあれだ。主に家事をやってくれるなでしこには必要なものだろうということ、そして何よりも
裸エプロン
それをやってもらおうという魂胆。それが本当の理由。裸エプロン。それは全人類、いや全ての男の夢。男なら誰でも一度は妄想したことがあるはず。もししたことがない奴がいるとすればそいつは男ではないと断言できる。そしてあろうことか俺はそれをなでしこにお願いした、今世間ではそれがブームなのだと。今思えばどれだけ怖いもの知らずだったのかと戦慄する。それは思春期の男だからこそできること。決して俺が変態だからではない。
だがその当時の俺もそれを本気で考えていたわけではない。からかい半分、冗談半分のものだった。しかし次の日、俺は目にすることになる。
紛うことなき本物の、現実のなでしこの裸エプロンを。その光景はまだこの目に、心のアルバムに焼き付いている。
割烹着を着ている姿からは想像がつかない程のボリュームがある胸、巨乳。小柄なその体がその存在感をさらに引き立てている。まさにこぼれんばかりという言葉が相応しい。その足から太ももにかけてのライン、そして見えそうで見えないチラリズム。何よりもその表情。上目遣いと真っ赤になった顔。それが保護欲を、嗜虐心をくすぐる。そこには間違いなくこの世の全てがあった。
この時の感動を語っていけば四百字詰め原稿用紙十枚を優に超えるため割愛するがその破壊力は凄まじかった。特にまだ中学一年の俺には。まるで石器時代の人間に重火器をもって襲いかかる程の圧倒的戦力差。その前に俺は敗れ意識を失い、失血死寸前までの瀕死に陥った。なでしこがいたから九死に一生を得たがあのまま死んでも悔いはないと思えるほどの光景だった。だがそれを機に俺は悟る。なでしこに対してセクハラの類を行ってはいけないと。そうしなければ間違いなく自分の命にかかわると。そこで俺は命がけである能力を手に入れる。
身内フィルター
それがその名前。(もちろん俺が勝手につけた)その能力は単純。なでしこが自分にとって家族、身内だと思いこむこと。実際なでしこは俺の家族なのだがそれはそういう意味ではない。例え俺がセクハラをしなくともなでしこと寝食を共にするだけで俺の理性は崩壊寸前になってしまう。それを防ぐための自己防衛、自己暗示、いや現実逃避を発動させること。それが身内フィルター。
例えば下着姿でうろついていてもそれが母親や姉妹であれば全く気にしないようなもの。自分のムスコが暴走しかけた時に母親を思い浮かべれば鎮めることができるようなもの……いや、これはちょっと違うか。
とにかくそれを身に付けたことで俺はなでしこと生活ができるようになった。もっともそれでもかなりの綱渡りではあったのだが。
これがもし、なでしこが無意味に体を接触させてきたり、露出が多い、扇情的な格好でうろつくような奴だったならば例え身内フィルターを発動させたとしても敗れ去ってしまっただろう。なんだろう、何か変な電波を受信したような気がする。とにかく本当に俺の犬神がなでしこで助かった。
これで俺は自分の命を守ることが、そしてなでしこの信頼を失わずに済んだ。それが一番の理由。もしそんなことをしてなでしこに嫌われてしまえば、もし山に帰られでもしたら自分は間違いなく死んでしまう。この四年間によって俺は既になでしこなしでは生きていけない体になっているのだから。決してやましい意味ではなく文字どおりの意味で。
この生活に慣れてしまった今、以前の生活に戻れるわけがない。一度火を使い始めればそれを手放すことができないように。
これじゃあどちらが主人か分かったものでは……あれ? そう言えば俺は犬神使い。いわばなでしこの主人に当たるはず。なのにまるで自分の方が養われているのではないか。
今更ながらにそんなことに気づいた啓太の頭にある光景が浮かぶ。
首輪をつけた自分と、その綱を握っているなでしこ。なでしこはいつも通りの微笑みを浮かべている。
いや、あり得ない。なでしこはこんなことをするような奴ではない。なのに、なのにどうしてその姿に全く違和感を感じないのか―――――
「違うっ! 俺に、俺にそんな趣味はねえ―――――!!」
「け、啓太さん、どうしたんですか!? お、落ち着いてください!」
突如奇声を上げ、悶え始めた啓太に驚きながらなでしこがそれを何とかおちつかせようとおろおろしている。それがある意味いつも通りの二人の光景だった――――――
「ふう……」
一度大きな溜息を吐きながら啓太はおもむろに屈伸をし始める。まるで何かの準備運動のように。
俺としたことがつい取り乱してしまった。だがもう落ち着いた。あれはそう、気のせいだ。あのなでしこがあんなことするわけがない。全く……俺も疲れているのかもしれない。
一通りの準備運動を終えた後、啓太は一瞬で床へとへばりつく。そこには全く無駄ない。完璧な動き。そしてそのまま啓太は床を這いながら移動を開始する。それはまさにほふく前進。現役の軍人もかくやという動きを以て啓太は動き始める。
その目的地に向かって。そこは風呂場。そして今、なでしこがいる場所だった。
いや、俺は今、身内フィルターを使っているからやましい気持ちはない。これは明日の体育の時間の授業の予習だ。狭いこの部屋では進行方向は限られる。だからこれは決してのぞきではない。
そんな誰に対する言い訳か分からない物をしながらじりじりと啓太がその距離を詰めていこうとしたその時
「……何をされているのですか、啓太様?」
そんな聞き覚えのある声が聞こえてくる。その声の主の姿をゆっくりと啓太は見上げる。ぎぎぎ、という擬音が聞こえてきそうな動きで。そこにはいつものようにどこか清らかさを、優雅さを感じさせる雰囲気を纏った犬神、はけの姿があった。
「は、はけ……何でこんなところに……?」
「いえ……ノックもチャイムも押したのですが反応がなかったもので……」
そんないつも通りのはけの反応に啓太は冷や汗を流すしかない。というか、何だ。こいつは勝手に部屋に入ってきて俺を驚かす趣味でもあるのか。いや、以前言ったように確かにノックとチャイムはしたのだろうがそれでも中に入ってくるあたりこいつもどこかずれているのかもしれない。もし、はけが聞いていれば間違いなく啓太には言われたくないと思うだろうが。
しばらく無言の沈黙が二人の間に流れる。床に這いつくばっている少年とそれを扇を持ちながら見下ろしている着物を着た青年。そんな異次元空間が形成されている中
「……とりあえず立ち上がられてはいかかですか、啓太様?」
そんなはけの言葉によってそれはやっと解放されるのだった―――――――
「ったく……で、今度は何の用だよ?」
ひとまずちゃぶ台を間に挟んで啓太とはけは向かい合う。なでしこはこの場にはいない。なでしこはかなり長湯するのでしばらくは出てこないだろう。はけももう先程の件については口にするつもりはないらしい。内心安堵しながら啓太は単刀直入に切り出す。
「はい、実は啓太様に一つ、依頼をお願いしたいと思いまして……」
はけはそう言いながらどこからともなくファイルの様な物を取り出し、渡してくる。そこには依頼の内容が詳細に書き記されている。だがどうもその内容がはっきりとしない。憑き物であることは分かるのだが何の憑き物なのか、どんな被害が出ているのかも書いていない。それはつまり
「なんか隠し事か、やばいことがあるってことか……」
「はい、ですが相手は主の友人である寺の住職。無下にするわけにもいかずこうして啓太様にお願いに伺ったのです」
「うーん……」
はけの言葉を聞きながらも啓太は考えるような仕草をみせる。厄介な仕事ではありそうだがそれはある意味いつものこと。その報酬も悪くない。先日臨時収入があったとはいえお金はあって困ることはない。あの時の様な変態を相手する心配もない。何よりも―――――
「……分かった、この依頼受けるぜ。そうばあちゃんにも伝えといてくれ」
「そうですか、助かります。主も喜ばれると思います」
啓太の言葉にはけは微笑みながら礼を述べる。まあたまにはばあちゃんに借りを作るのもいいだろう。色々と面倒ないざこざもあるが一応、孫だしな。でもそう言えばしばらく直接会ってねえな。もう半年は会ってないのではないか。
「そういえば長いことばあちゃんに会ってねえな……そろそろ顔見せといたほうがいいか? なでしこも気にしてたし……」
何の気なしに啓太はそう口にする。あの祖母が体調を崩しているようなことがあるわけがないがそれでも高齢であることには変わりない。いい機会かもしれない。そんな思いつき。だが
「……いえ、それには及びません。主の方には私から宜しく伝えておきます」
それははけの予想外の言葉によって遮られてしまう。思わず啓太は驚いた表情ではけをみつめる。はけはそれに気づきながらもまるで気づいていないように振る舞っている。
『はい、主も喜ばれると思います』
それが啓太が予想していた答え。だがそれと全く正反対の答えをはけは口にした。それはいつものはけなら口にしないような言葉。それを問いただそうとするが
「……それでは私はこれにて。なでしこにも宜しくお伝えください」
それよりも早くいつかと同じ言葉を残しながらはけはその場から姿を消す。あっという間の出来事に啓太は呆気にとられるしかない。
「変な奴……」
お前が言うなと突っ込まれること請け合いの言葉を漏らしながら啓太はそのまま背伸びをし、再び新聞を読み始める。そんな中、慌ただしくも静かな夜が更けていくのだった――――――