「…………あ?」
そんな声が聞こえてくる。それが誰の声なのか分からない。何が起こったのか、自分が誰なのか。ようやくその声が自分の漏らした声だと言うことに気づくのにどのくらいの時間を要しただろうか。混乱した意識の中で何とか立ち上がろうとするも叶わない。足に力が入らない。こんなことは生まれて初めて。まるで生まれたばかりの小鹿の様だ。そんなことを考えながらも何とか立ち上がる。震える足を支えにしながら。だが同時に凄まじい激痛が襲ってくる。その痛みの前に声を、叫びを上げることすらままならない。一体どうなっているのか。途切れそうになる意識を、歯を食いしばりながら支えながら、死神は考える。そう、確か自分は誰かと対峙していた。そう、あれは―――――
瞬間、息を飲んだ。
顔を上げた先、その視線の先にソレがいた。それは少女、いや犬神。先程まで自分の目の前にいた存在。愚かにも自分に戦いを挑もうとした哀れな雌犬。そうだ。そうに決まっている。だが、その姿が、雰囲気がそれまでとは全く異なる。
その瞳にはおよそ感情というものが見られない。ただまっすぐに自分を見ているはずなのにそこには何もない。いや、違う。あれは自分を見ている。ただ自分を見下しているだけ。まるで虫けらのように、道端の石ころのように。
それを前にして死神は感情に支配される。だがそれは怒りではなかった。ならこの感情は一体何なのか。この状況で怒り以外の何の感情を覚えることがある。自分を見下す存在などあり得ない。そんなことを許すわけにはいかない。
だがその眼が捉える。それは少女の力。少女の体の周りにまるでオーラの様なものが立ち昇っている。そう、まるで蒸気のように。それが霊力であるということに死神は気づき、戦慄する。あり得ない。霊力がここまではっきりと見えるなど、攻撃をしているわけでもない、ただそこに立っているだけで霊力が立ち昇っているなど。だがそんな戸惑いを証明するかのようになでしこの放つ霊力の力が飛行船を、大気を揺らしている。その無感情な、無慈悲な視線を向けたまま。
そして死神はようやく気づく。自分が先程、なでしこに殴られたのだと。その倒れていた場所に目をやる。そこにはまるで隕石が落ちたかのようなクレーターができていた。その事実に死神の顔が引きつる。全く見えなかった。かろうじて感覚だけが覚えている。自分は殴られたのだと。
そう、ただ殴られただけ。技術も何もない、ただ力任せに。それだけにも関わらず自分は立つのがやっと。そうなってしまうほどのダメージを受けてしまっている。まさにただの暴力。単純な、そして絶対の力。自分が持ち得る、自分だけが持ちうる力。許すわけにいかない。自分がその力に敗れるなど。こんなわけのわからない雌犬ごときに。そう、これはただの偶然。まぐれに過ぎない。
こんなことがあるはずがない。自分が誰かに『恐怖』を覚えるなど、あってはならない―――――!!
「あああああああああああああああああああ!!」
それはまさに断末魔だった。力加減も容赦も微塵もない、傷ついた自分の体への反動も顧みない全力の咆哮。その咆哮に持てる霊力の全てを込めて死神は絶叫する。自分を見下しいるなでしこへ向かって。その無慈悲な、絶対の暴力が迫る。避けることなど叶わない、不可避の死が。だが
それはあっけなく、何でもないかのように弾かれ、あさっての方向へと吹き飛ばされてしまった。
「―――――――」
その光景を前に死神はただ目を見開くことしかできない。声を上げることも、動くことも。当たり前だ。先程のは自分の全力、正真正銘、全身全霊を込めた攻撃。こんな飛行船など跡形もなく消し飛ばして余りあるほどの威力を持つもの。なのに、それなのに目の前の犬神はそれを片手で弾いた。
まるで埃を、虫を払うかのように、無造作に、つまらなげに。
その弾かれた攻撃が、霊力が飛行船の天井を崩壊させる。もはやいつ墜落してもおかしくない状況。だがそんなことなど死神の頭には一片もなかった。ただあるのはたった一つ感情。それは『恐怖』目の前の存在への、犬神への。その絶対的な力の差。まさに天と地ほどのある力の差によるもの。
「ひっ!?」
知らずそんな声が、悲鳴が漏れる。同時にその口からとめどない血が流れ始める。それは傷ついた体で先程の攻撃を放ってしまった代償。だが死神はそれを拭うことすらなく、ただ後ずさる。生まれて初めて感じた他者への恐怖によって。
今まで自分は数多の人間達に恐怖を与えてきた。それこそが自分の存在価値。生きがい。死を司る神たる自分の特権。弱肉強食。その絶対の摂理によるもの。だが死神は知らなかった。
自分もまたその理の中にいることを。
絶対的強者の前には自分もまた同じなのだと。自分も刈り取られる側になりうるのだと。そしてその報いが、終わりを告げる者がここにいる。
「驚いた、お前みたいな奴でも血は赤いのね」
ぽつりと、まるでどうでもよさげになでしこが呟いた瞬間、死神は宙に舞った。その拳によって。力任せの拳。だがその速度と威力の前に死神は反応すらできない。死神はただ自分が殴られたことしか分からない。それを躱すことも、反撃をすることもできない。いや、そんなことは既に死神の頭にはなかった。ただあるのは恐怖だけ。なでしこへの、そしてすぐそこまで迫っている自らの絶対の死への。
トラックに激突されるような、いやそれを遥かに上回る力の拳が死神の腹部、その一点に向かって容赦なく、無慈悲に突き刺さる。なでしこはその感触から死神の内部を完全に破壊したことを悟る。間違えるはずがない、忘れるはずがない。これは相手を、獲物を破壊した時の感触。
そのまま死神は吹き飛ばされる。その上空に向かって。飛行船の天井を突き破って余りある威力で。もはや死神に意識はなかった。そんなものは既に先の一撃で刈り取られてしまっていた。だが
「お前は簡単には殺さない」
宣言と共にその先になでしこが先回りする。吹き飛ばされた死神を遥かに上回る速度を以て。同時にその足から蹴りが放たれる。それは華奢な、少女の細い脚。だがその蹴りによって死神はまるでピンボールのように吹き飛ばされ、再び地面へと、床へと突き刺さる。同時に凄まじい衝撃が飛行船を襲う。その威力によって、激突によって辺りが粉塵にまみれて行く。それが収まった先には
もはや真の姿を維持することもできなくなった、白目をむき、口から血を流している無残な死神の姿があった。
それがなでしこの力。『最強の犬神』と呼ばれた少女の力。かつて大妖狐をあと一歩まで追い詰めた存在。その力の前には死神ですら全くの無力だった。
そしてここに勝敗は決した。誰の目にもそれは明らかだった。だが
「なでしこっ!?」
その光景にはけが声を上げる。そこには地面に倒れ伏した瀕死の死神に向かってまるで弾丸のように急降下しながら拳を振り下ろさんとするなでしこの姿があった。はけの言葉が届くことなくなでしこは再びその拳を死神へと振り下ろす。既に意識もない、ただの抜け殻のようなその体に。
なでしこはそのまま馬乗りになりながらがらその両拳で死神を殴り続ける。その拳を振り下ろし続ける。それはそう、まるで獲物を嬲る獣のように。
「やめなさいっ!! なでしこっ!! もうそれ以上はっ!!」
その光景にはけは顔を蒼白にしながら叫ぶ。それは知っていたから。今のなでしこの姿を。三百年前、やらずになる前のなでしこの姿。戦う時に見せる獣の姿。このままではいけない。このままでは取り返しのつかないことになる。そんな確信に襲われながらもはけはその場を動くことができない。既に先の戦いで霊力はほとんど消費し満身創痍。加えて今は傍らにいる啓太を守り抜かなくてはならない。この崩壊を始めている船の中を。故にはけはその場を動くことができない。できるのは必死に制止の声をあげること。それがなでしこに届かないと分かっていても。
なでしこはそれを振り下ろし続ける。拳を。暴力を。相手が死に至らない手加減をもって。自らの体が軋みをあげる。三百年ぶりの全力の力によって。その負荷が容赦なくなでしこの体を蝕んでいく。だがなでしこは止まらない。いや、止まることができない。
拳が真っ赤に染まる。獲物の血によって。
エプロンドレスが染まっていく。その返り血によって。大切な、汚してはいけないものだったはずなのに。
「は」
知らずその頬に涙が伝う。だがそれは悲しみからではない。
「あは、あはは」
それは喜び。相手を、獲物を嬲り、その喉元を喰い破れるという喜び。犬神が、獣が持っている原初の姿。隠すことができない、失くすことができない黒き血、その本性。その本性が、今まで抑えてきたそれが喜んでいる。
「あはは、ははははははは!」
ただなでしこは笑い続ける。その衝動に、自らが行っている、晒しているその姿に。
そう、これがわたしの本当の姿。今はもう数少ない犬神しか知らない、わたしの本性。
戦いになると周りが見えなくなる。ただ戦いにのみに没頭し、相手を倒し、嬲ることしかできない穢れたわたし。
そのせいでわたしは犯した。三百年前。大妖狐がわたしたちの里を襲ってきた時。それをわたしは迎え撃った。里を守るために、その近くに住む人間を守るために。
でもわたしはそれができなかった。それどこかわたしはただ楽しんでいた。今まで戦ってきた中で最も強い相手に。自分の全力を以て尚、倒しきれない獲物に。わたしはただ没頭し、極大の攻撃を放った。その攻撃が何をもたらすかを、巻き起こすかに気づかないまま。もしあの時、大妖狐が身を呈してその攻撃を受けてくれなければ、わたしは人間の村を滅ぼしてしまっていただろう。
それがわたしの罪。犯してはいけない過ち。それがわたしがやらずになった理由。もう二度と同じ過ちを繰り返さないために。そして自分自身への戒めのために。なのに
「ああ……」
なのに自分はまた同じことをしようとしている。それをやめるために三百年間、戒めを守ってきたのに。なのに自分はあの時から何も変わっていない。
「あ、ああ………」
『タノシイ』 その感情を抑えることができない。それはケモノのわたし。切り離すことができない、消し去ることができないもの。
『カナシイ』 その感情を抑えることができない。それはヒトのわたし。これまで守ってきた、大切なものがなくなっていくことに耐えられない。
「あ、ああ、あああ………」
二人のわたしがせめぎ合う。もう顔は涙でぐちゃぐちゃだった。泣いているのか、笑っているのか、もうわたしにも分からない。ただ分かること。それはこれがわたしなのだということ。
どんなに取り繕っても、誤魔化しても、決して変わることのない愚かなわたし。
だがそんなわたしでも、こんな中でも消えないたった一つの想い。
こんなわたしを犬神にしてくれた、信じてくれた、最初で最後の主。
愛する男性を守りたい。
「ああああああああああああああああああ――――――!!」
それだけは、絶対に、守って見せる。
なでしこはその最後の拳を放つ。たったひとつ、本性に、本能に飲み込まれながらものそのたった一つの願いを胸に。
それがこの永きに渡る戦いの、なでしこが贖罪の三百年の末に得た、答えだった―――――
全てが崩れ去って行く。機械でできた、鉄の塊が元の姿に戻って行く。わたしはただその地面に倒れ伏しているだけ。体中が痛い。天に返した力を、全力を出した代償だろう。今はもう目も満足に開くことができない。でも、どうやらこれがわたしの最期らしい。
きっとこれがわたしの運命。三百年前の過ち、そして一人の少女、ようこを裏切ってしまったわたしへの罰。
地面が崩落していく。冷たい夜風が、辺りを吹き荒れる。そんな中、ふと手を伸ばした。まるで何かを探すかのように。手を握ってくれる誰かを探すかのように。
こんな血に塗られた手を握ってくれる人など、いるわけないのに。
なでしこは途切れゆく意識の中で、それでも確かに見た。
「―――――なでしこっ!!」
自らの手を取ってくれる、愛する少年の姿を――――――
「……………え?」
ふと、目覚めるとともになでしこはそんな疑問の声を上げる。それは戸惑い。今の状況への。自分は確かに命を落としたはず。死神を倒し、飛行船の崩壊と共に。にも関わらず自分は生きている。
もしかして夢だろうか。それともあの世というものだろうか。だがそのどちらでもないことがすぐに分かる。それは痛み。体中が痛みで悲鳴をあげている。それは限界以上の負荷をかけたための痛み。だがそれが今、自分が間違いなく生きている証拠。そして
「お、目が覚めたか。なでしこ?」
目の前の少年、川平啓太がいることが何よりの証だった。
「っ!? け、啓太さんっ!?」
「おい、あんまり動くなって。体中怪我してんだろ?」
突然の事態に混乱し、その場を立ち上がろうとするも、なでしこは啓太の手によってそれを制止される。それによって何とか落ち着きを取り戻したなでしこは改めて辺りを見渡す。そこには静かな、夜の海岸がある。波打つ海の音だけが辺りを支配している。そこでようやくなでしこは思い出す。
自分が落下する寸前、啓太によって救われたのだと。その証拠にはけがどこか安堵した様子で自分達の様子を見守っている。きっとはけが運んでくれたのだろう。
啓太はそのままなでしこに手を伸ばし、ゆっくりと起き上がらせる。なでしこはされるがまま。だがその表情には驚きが、戸惑いがあった。
あの時、啓太は自分を助けてくれたと言うこと。それはつまり、あの時の自分を、隠していた、本当の自分の姿を見られてしまったということ。
血にまみれながら、ただ本能のままに暴力を振るうケモノの姿を。
なのに、なのにどうして。そんななでしこの気配を感じ取ったのか啓太はどこか言いづらそうに、いや照れ臭そうにしながら
「悪いな、なでしこ。結局お前に戦わせちまって……約束、破っちまった」
そう告げる。その言葉の意味をなでしこは悟る。そう、啓太は初めから知っていたのだと。自分の力のことも、自分が戦いたくない理由も。その言葉によってなでしこは思わず涙を流しそうに、泣き出しそうになる。だが済んでのところでそれを堪える。それは覚悟。
「啓太さん……わたしは……」
ずっと自らの主を偽ってきた、騙してきた自分への。そしてその命を危険にさらしてしまった自分へのけじめ。それを口にしようと瞬間。
「………え?」
何かが自分の頭に掛けられる。それが一体何なのか、なでしこには分からない。だがそんななでしこの姿を見ながらも啓太はそれを手に取りながら結ぶ。その髪を。その手に持った物によって。
それは『リボン』
今の啓太に残った、たった一つの物だった。
その行動に、リボンになでしこはただ驚愕するしかない。それは知っていたから。リボンを結ぶ。その意味を。
『結び目の呪い』
結び目の呪いには特別な力が宿ると言われている。呪いとはすなわち契約の儀。誓いと共に相手の束縛も意味する。互いを想う心を糧にして交わされるそれは――――
なでしこは自らの頭に、髪に結ばれたリボンに触れながら、真っ直ぐに、啓太へと視線を向ける。そこにはまるで恥ずかしさを隠しきれないように、顔を真っ赤にしながらも、満面の笑みを浮かべている啓太の姿があった。なでしこは悟る。啓太がそのリボンの、リボンを結ぶことの意味を知った上で自分へとそれを贈ってくれたのだと。
それは、二人だけの世界、愛を誓う 『エンゲージ・リボン』
「なでしこ、俺の犬神になってくれねえ?」
啓太は照れくさそうにしながらもその言葉を口にする。瞬間、なでしこの瞳から大粒の涙が溢れだす。それはさっきまでの涙ではない。歓喜の涙。
ちょうど四年前の今日。幼かった目の前の少年が言ってくれた言葉。そしてそれが今、再び自分に向けられている。その時とは違う、もう一つの契約の意味を込めた言葉。
「………はい。ふつつか者ですが、どうか宜しくお願いします」
なでしこは涙を流しながらも花が咲いたかのような笑顔でそれに応える。いつかと同じ言葉で。夢にまで見た、叶わないと思っていたもう一つの夢が叶った喜びを見せながら。
二人は抱き合う。互いの温もりを感じながら、それを決して離さないと、そう誓うかのように。
その姿をはけと、いつの間にかやってきたケイ達が見守っている。朝日が照らし出している二人の姿を。皆の胸中は全く同じだった。
何故、啓太は全裸なのだろうか、と―――――
それが啓太となでしこの物語の終わり。そして新たな始まりだった――――――