「じゃあ行ってくる。昼過ぎに帰るから昼飯は用意しなくていいからな」
「はい、お気をつけて」
啓太はそう言い残したまま足早に玄関から飛び出していく。だが今日は休日であり学校も休み。にもかかわらず急いで啓太が出かけていくのは仕事のため。今回ははけからの依頼らしい。いつも通りの慌ただしさの中、あっという間にその姿は見えなくなってしまう。そんな自らの主の姿をどこか楽しそうになでしこは見つめ続けていた。
あんなに慌てて大丈夫かしら……でも今回はそんなに大変な依頼じゃないそうだからあんまり心配しすぎてもいけないかも。でもこうやって啓太さんを送り出していると何だかまるで夫婦になったような気がします。もっとも恥ずかしいので啓太さんや人前では決して言えないけれど。
一応周りにはわたしと啓太さんは姉弟ということになっています。流石に犬神使いのことを知られるわけにもいかず、また高校生である啓太さんが女性であるわたしと同居しているのは問題があるのがその理由です。ですがもうほとんどそれも意味をなしていないような気もしますが……商店街の人達ももうわたしたちが姉弟であるということなど忘れてしまっているようです。わたしはそれでも構わないのですか……っといけないいけない! いつまでも考え事をしているわけにはいきません。啓太さんがいないといってもちゃんとやることはしないと。わたしは啓太さんの犬神なんだから!
なでしこはそのまま頭を切り替えながら部屋の中へと戻って行く。それがいつもと変わらないなでしこの一日の始まりだった。
「~♪」
機嫌良く鼻歌交じりになでしこは流れるような動作で部屋の掃除を行って行く。そこには全く無駄がない。男が見れば間違いなく身惚れてしまうような姿。割烹着にエプロンドレスというアンバランスな格好が今この瞬間、まるで一枚の絵画のように風景に溶け込んでいる。家庭的な女の子という男なら誰でも夢見る一つの理想がそこにはあった。
部屋の掃除が終わったなでしこは風呂掃除、洗濯と次々に家事をこなしていく。元々二人暮しであること、部屋もせまいことから家事もそれほど時間をかけることなく終了する。加えて今日、お昼は啓太も帰ってこないため食事も手のかかる物にする必要もない。自分ひとりなら余りものを使った簡単な料理をすることがなでしこの日課だった。
「ふう、こんなものかしら」
自分の仕事を終えたなでしこはそう呟いた後、一度休憩を取ることにする。一人分のお茶を用意し、テレビをつけたあと座布団に座り何の気なしに時間を過ごしていく。その視線が自分の隣、いつも啓太が座っている座布団へと向けられる。
(本当なら啓太さんと買い物に行きたかったんだけど……)
なでしこは少し残念そうな表情を見せながらそんなことを考える。啓太は高校生、学生であるため平日は家にはいない。そのため休日に啓太と出かけたり、触れ合うことがなでしこの大きな楽しみだった。啓太がいるのといないのとではこの部屋の雰囲気も全く異なる。いつも騒がしく、楽しい空気を啓太は作り、そこで過ごすことがなでしこの楽しみ。
だが仕事ならば仕方ない。本当なら自分も付いていきたいのだが戦えない、いや戦わない自分が付いて行っても邪魔になるだけ。先日の一件は自分を気遣ってくれた啓太の例外。なら自分は自分ができることを。それにお昼過ぎには帰ってくると言っていた。ならまだ買い物に一緒にいく時間くらいはあるはず。
そんなことを考えていた時、ふとなでしこは自分の身につけている二つの物に目を向ける。そこには二つの贈り物がある。蛙の形をしたネックレス、そして真っ白なエプロンドレス。啓太が自分に贈ってくれたとても大切な、自分が啓太の犬神である証。
(そうか……わたしが啓太さんの犬神になってからもう四年になるのね……)
なでしこはその二つの贈り物を見つめながら思い出す。四年前、啓太の犬神になってからの日々を。
わたしが啓太さんの犬神になってからすぐ、わたしは啓太さんと一緒にこのアパートにやってきました。ですがその時のわたしは緊張しっぱなしでした。なぜなら犬神として主に仕えるのは初めてだったから。ですがそんな緊張もすぐに吹き飛んでしまいました。そこにはあまりにもひどい部屋の惨状があったから。啓太さんの話ではこれでも片付けたと言うのですから驚きました。
わたしはまず啓太さんの生活環境と態度を整えることを第一に働き始めました。啓太さんはお世辞にも素行が良い人ではありませんでした。学校も頻繁に休み遊んでいたようです。遊びたい年頃なのは分かりますがこのままではいけないと心を鬼にしてそれを改めるように働きかけていきました。本当は嫌われても構わないと思っていたのですが啓太さんは予想に反してあっさりとわたしの言葉通りに学校に毎日通うようになりました。どうやら思ったよりも素直な子なのだとこの時わたしは気づきます。またこの時からわたしと啓太さんの関係が決まったような気がします。
姉と弟。どうしても手のかかる歳が離れた弟だと。この当時、啓太さんは中学一年生だったので当たり前と言えば当たり前ですが……。でもそれ以上に大きな、そして深刻な問題がありました。
それは啓太さんが……すごくえっちだったこと。
今でもえっちなことには変わりないのですがこの頃の啓太さんのそれは今の比ではありませんでした。思春期の男の子が女性と一緒に生活することになれば仕方のないことなのかもしれませんが……。とにかくこのままでは啓太さんのためにはならない。でもどうすればいいのか、そんな悩みを抱えている中ある出来事が起こります。
それは啓太さんがわたしにプレゼントをしてくれたこと。それが今わたしが身につけているエプロンドレス。いつも家事をしているわたしのために啓太さんが初めて買ってくれた物。そのときの喜びはまだわたしの中にあります。もっとも啓太さんはこれを使ってわたしに裸エプロンをしてほしかったのが大きな理由だったみたいですが。でもそれも今思えば啓太さんらしいと言えばらしいと思えるもの。そしてわたしは決意します。
このエプロンを使って啓太さんのえっちなところを何とかしようと。
短い付き合いでしたが直接注意してもそれが治りそうにないことはこの時のわたしにも何となく想像がついており、ならば逆の方法ならどうかと思いつきました。分かりやすく言うと押してダメなら引いてみる、という物です。今思えば当時のわたしもかなり焦っていたと思います。いくら啓太さんのえっちなところを治すためとはいえ裸エプロンを本当にしてしまったのですから。思い出すだけで顔から火が出そうなほど。もしこれが逆効果になってしまえば啓太さんには悪いけれど少し実力行使もやむなしと本気で考えていたのですがそれは杞憂に終わります。それ以来啓太さんはわたしに対してえっちなことを控えるようになってくれました。ですが鼻血を出し、大量の出血と共に意識を失ってしまった時には本当に焦りました。危うく自らの主を殺める犬神という前代未聞の事態になるところでした。しかしやりすぎてしまったのかもと最近思います。わたしに気を遣ってその……えっちなものを部屋には置かないようにしたり、どうやら見えないところで色々苦労をさせてしまっているみたいです。それでも時々わたしのお風呂をのぞこうとしているみたいですが……。
そして四年の月日の間にわたしの啓太さんへの気持ちも大きく変わってきています。啓太さんが成長し、男性へと変わってきたこと。そしてある時からそれは確信に変わります。
それはわたしたちの互いの呼び方。
最初の一年ほどはわたしたちは互いを『啓太様』『なでしこちゃん』と呼び合っていました。ちゃんづけというのは少し恥ずかしくはありましたがそれでも問題はありませんでした。様付けも犬神が主人を呼ぶ上では当たり前、当然のこと。それに疑問すら抱いたことがありませんでした。ですがある日、啓太さんは突然私に向かってこう言いました。
『その様付けって堅苦しいからさ……呼び捨てにしてくれない?』
その時、自分がどんな顔をしていたのか分かりませんがわたしはすぐにそれを断りました。自らの主人を呼び捨てにすることなどできないと。それは犬神としての、わたし個人としてもできないこと。ですが啓太さんはどこか不満そうにしています。でもこれだけは譲れない。そんなわたしの姿に呆れながら
『家族だからいいと思うんだけど……うーん、じゃあさ、せめてさん付けで呼んでくれない? 俺もなでしこちゃんのことなでしこって呼ぶからさ』
何でもないことのように啓太さんはそうわたしに告げました。でもわたしはその言葉に呆気にとられるだけ。
『家族』
啓太さんはわたしのことをそう言ってくれた。犬神としてではなく、わたしのことを家族だと。それは本来犬神使いとしてはしてはいけないことなのかもしれない。でもそれを啓太さんは口にしている。きっと今聞いても啓太さんはこの時のことを覚えていないかもしれない。それぐらい啓太さんにとっては当たり前のこと。でもわたしにとってはとても大切な思い出。思えばこの時からわたしの啓太さんへの気持ちが変わって行ったのかもしれません。
ですがそれからわたしたちの関係は進んでいません。裸エプロンの刺激が強すぎたせいか啓太さんの方からはそういったことはしてきてくださらない。殿方が積極的な女性に弱いものだと言うことは分かっていますがそれをして啓太さんに引かれたり、みだらな女だと思われるのが怖いためわたしのほうからアプローチすることのできず結局今のまま。ですがまだそれほど焦る必要はないかもしれません。
それは……あまり口にすることではありませんが……啓太さんは女性にモテないから。
学校や街中でもよくナンパの様な事をしているようですが全く上手く行っていないようです。上手くいっては困るのですが……と、それは置いておいて、わたしはずっと不思議でした。なぜあんなに啓太さんはモテないのか。たしかにえっちなところはありますがそれだけとは思えない程。しかしその理由をわたしははけ様から教えていただきました。
曰く、啓太さんはモノノケに対するように人間に接するのだと。
その気安さが嫌われてしまう大きな理由であると。そしてそれは人間だけではなくその素行や気安さが儀式においても犬神達の反感を買ってしまったそうです。
でもそれは全ての犬神ではありません。わたしはもちろん、はけ様とわたしたち犬神の一族の長、最長老様ならきっと啓太さんに憑こうとしたはず。はけ様がもし宗家様に憑いていなければ、最長老様がもっとお若い頃ならば。
それは確信。なぜならなら啓太さんは―――――
「けーた様ー! 遊びましょうーっ!」
そんな考え事をしている中、元気な声が聞こえてきます。わたしはその声の主をすぐに悟り、微笑みながらそのお客を部屋に迎えいれます。
「おはよう、ともはね」
「おはよう、なでしこ! けーた様は?」
「啓太さんは今お仕事で出かけてるの。お昼過ぎには帰ってこられるけどどうする?」
「じゃあ待ってる! いい? なでしこ?」
「ええ、ちょうどお昼を作ろうとしてたところだったから。ちょっと待っててくれる?」
「うん!」
元気な返事をしながら勝手知ったると言った様子でともはねは靴を脱ぎ捨て部屋の中に入って行く。それを嗜めながらもわたしはそのまま台所に向かいます。一人で食べても味気ないのでともはねが来てくれたのは良かったかも。ともはねはあの一件以来よく啓太さんと遊ぶために家にやって来るようになっています。めんどくさそうな態度を見せながらも何だかんだで啓太さんも楽しそうにともはねの相手をし、それを見守るのがわたしの新しい日課になりつつあります。
どうやらともはねは小さいがゆえに啓太さんの本質を見抜いているのかもしれません。まだ他の犬神の子たちは気づいていないようですが。でも構いません。薫様の犬神の子たちも幸せそうですが、一つ、確実にわたしの方が勝っていること。それは自らの主を独占できているということ。はけ様のように自らの意志ではなく、図らずもといったものではありますが。
「そういえばなでしこはどうしてけーた様に憑いたの?」
「え?」
料理をしていた自分に向かって突然、思いついたようにともはねが訪ねてくる。それはまさに子供の純粋さが滲みでているような質問。その意図が分からず、なでしこは思わず聞き返す。
「どうしたの、いきなり?」
「だっていままでなでしこ、誰にも憑いたことなかったんでしょ? せんだん達も言ってたの。どうしてなでしこがけーた様に憑いたんだろうって……」
ともはねはそう言いながら思い出す。それは四年前の儀式の時、今よりもっと小さかった自分でも覚えている。よく分からないことを言いながら山を走り回っていた啓太様の姿。本当はそれに興味を引かれて付いて行ってしまいそうになったのだが自分はそれを止めてしまう。それは自分の周りにいた犬神達の会話、姿のせい。どうやら啓太様に対するよくないことを話しているのが分かる。ならあの人は良くないひとなのだろうと思い、ともはねはそのまま啓太に連いて行こうとしたのをやめたのだった。
薫様の犬神になってからもせんだん達が啓太様のことをしゃべっているのを何度か聞いたことがある。落ちこぼれであるとか、素行が悪いであるとか、やはり悪いことばかり言われていた。でも何故か薫様だけは違っていた。薫様は啓太様の話をしているときは本当に楽しそう、嬉しそうだった。その理由が少しあたしにも分かってきた。でもなでしこはあの時、初めて啓太様に会ったはず。なのにどうして。
ともはねはそのままじっとなでしこの姿を見つめ続けている。だがなでしこは何かを考え込んでいる。いや、思い出しているよう。ここではない、今ではない四年前のあの日のことを。だがその表情から感情を読み取ることはできない。どこか不思議な雰囲気をともはねは感じ取る。
「……なでしこ?」
「……あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしちゃってた。すぐにご飯にするから待っててね」
なでしこは少し慌てながらお昼の準備に入ろうとする。ともはねがもう一度先程の質問をしようとしたその時、部屋の電話が鳴り始める。ぱたぱたと足音を立てながらなでしこはそれに対応している。
だがなでしこの様子はその電話によってさらに慌ただしくなっていく。何かに焦っているようなそんな雰囲気。ともはねはそんななでしこの姿を見つめているだけ。そんな中
「ともはね、わたしちょっと啓太さんを迎えに行ってくるから待っててくれる!?」
「え? じゃああたしも行きたい!」
「えっと……すぐ帰ってくるから! ともはねは部屋に隠れて啓太さんをびっくりさせてあげて、ね?」
「? うん……」
ともはねはどこか必死さを感じさせるなでしこの言葉に頷くことしかできない。なでしこはそのまま慌ただしく部屋を飛び出していく。
自らの主がいる留置場へ向かって――――――