『うぅぅぅっ。おとーさんのいじわる、いじめっこ、きち、ひゃうっ!』 青空が広がる窓の外を、奇怪な陰を持つ化け物が不快感を帯びる叫びと共に一瞬通り過ぎる。 艶のある黒髪からにょきりと伸びたメタリックうさ耳がピコピコと動いて、びくっと怯えた少女は両手に持っていた小物を落としてしまう。 人形のように整っている容姿だが、そこに作りもの感は一切無く、生命感にあふれているといえば良いのだろうか、見ていてほっこりとしてしまうリアル感がある。 怯え顔でそろそろと窓の外を見て何もいない事を確認してから、半泣きで怯えきった瞳をぐじぐじとこすってから、落とした小物を拾おうと手を伸ばした瞬間、「こ、こわくない、こわくないもん、にゃぁっ!?」 少女が強がりを口にしながら気合いを入れ直そうとしたその抜群のタイミングで、今度は身の毛もよだつ雄叫びと共に建物全体が小さく揺れる。 びくっとした少女が持っていた枕を思わず放り投げてしまうと、宙を舞った枕は、何もないはずの中空で壁に当たったかのように不自然に軌道を変え、先ほど少女が床にあった本をしまったばかりの本棚に命中。「うぅぅぅっおとーさんだいっ嫌い!!!」 ばらばらと本が落ちてきて、もう一度やり直しとなった少女のうさ耳はその恐怖心を表しぺたりとへこんでいるが、その下の顔は大変お冠で宙に向かって吠えていた。 みさき屋旅館では、脳内ナノシステムからなるVR技術に懐疑的な年配のお客様から予約連絡や、古なじみの業者との商談には、今でも事務所の壁に埋め込まれた年代物の物理モニターが使われている。 少し長めの昼休みをもらった若女将の三崎葵は、モニターをじっと見て思考を重ねていた。 かわいらしげがあるエリスティアと名乗る幼い少女は、葵の弟三崎伸太の娘だという。 確かに弟の事をエリスティアは父と呼んでいる。 だが異質すぎる成分が多すぎる。 幾度か訪れたことがあるので、部屋の構造自体は弟の借りているアパートで間違いない。 窓から見えていた周囲の風景にも、いくつか覚えがある建物が見えた。 だがそれら基本情報はともかく、時折窓際に現れるあんな魑魅魍魎じみた化け物が闊歩しているのは日本、いや世界のどこを探しても存在しない。 エリスティアという少女の頭の上では、コスプレと呼ぶよりも、SFと呼んだ方が良いやけに重厚な機械仕掛けのうさ耳がその一挙手一投足に合わせて細かくピコピコと動く。 モニター内の分割された画面のいくつかには、少女がいるアパートの周辺映像も流されているが、先ほどから弟の操作により、いきなりモンスターが出現し、建物全体が揺れ、部屋の中に見えない壁が出現する。 弟と違いゲームなどの知識には少し疎い葵でも、今見ている映像はどれだけリアルでも現実ではなく、仮想世界VR世界の映像だと気づく。 そこに昼前に聞いた弟の発言、そしてご近所や親戚から最近何かと耳に入ってくる弟がらみの話題を重ね合わせる。 エリスは確かに俺とアリスの娘だよ。ただ生まれたのは、えと……まだ”一年”も経ってないぞ。 シン君の会社でやってるゲームすごいみたいだねぇ。エヌピシ?がすごい自然に会話したり、襲ってくるって息子がおどろいてたのよ。 なぁ葵ちゃん。シンのやつから企業買収とか提携の情報回ってこねぇか? あいつがいろんな業界に粉かけてるせいで、特にAI関連の株が乱降下してんだよ。 極めて自然に見える幼い、だけどいびつな背景を持つ少女エリスティア。 少女の正体は極めて高度なAI人格、即ち人工知能と呼ばれる人の手によって作られた存在。 そうであれば弟の生まれてから一年という発言にも納得がいく。 納得がいくが……どうしても結論づけられないと葵の勘が訴える。 未だ若輩ではあるが老舗旅館の若女将として日々接客を重ねている葵には、エリスティアが人工的に作られた存在だとは思えないのだ。 そしてその葵の違和感を、さらに助長するのが弟三崎伸太の言動だ。『くくっいやーさすがうちの娘様。良いリアクションしてくれるから楽しくて楽しくてしょがねぇ……給料もらいつつ娘で遊んで家族サービスが出来るなんて、うちの会社もブラック企業の汚名返上しねぇとならねぇか』 部屋のお片付けというミッションをこなす少女を、的確にそしてコメディチックに翻弄していた弟は、実に実に楽しげな人の悪い笑みをモニターの分割されたコマの一つ浮かべている。 あの顔を浮かべているときの弟は、葵の想定の遙か上を行く厄介ごとや、面倒ごとに嬉々として挑んでいるときのいつもの顔だ。 ただしあの顔を浮かべるときは例外なく誰か人間を相手にしているとき、弟の言う対人戦に限られる。 葵の脳裏によぎる弟の過去の所行をいくら思い出しても、どれだけ精巧に作られていても作られた存在相手には、あの顔は浮かべず、さらに弟が持つ最大の力は発揮されない。 弟が異常なまで得意とする、そして三崎家で時折現れる扇動者としての能力。 対峙する相手の心理を読み、言動の変化を読み、周囲の変化を読み、自らは表に出ずとも望む状況を作り出す集団心理操作能力。 いわゆるアジテーションと呼ばれる物だ。 人の心理を読み、的確にタイミングをつく術が、昔よりさらに磨かれているあたり、今の仕事が天職だという証拠だろうか。 分割された画面の一つには葵の両親も映っているが、父はいつもの鉄面皮で弟の言動を葵と同様に精査しており、母は心配そうな顔を左右に動かしているのでエリスティアと弟を見比べているのだろう。 ただし二人とも今のところは特には何も発言していない。 ただ時折画面の向こうから葵の方へちらりと視線を送っているので、まずは任せるという意思表示と葵は受け取る。 親の説教にはのらりくらりと躱してくる弟に対して、物理攻撃をともなう説教をしていた姉の葵が特攻効果を持つ上、とある事情で葵に対して弱点を持つ事をよく知っているからだろう。 もっとも問題はその弱点すら、時には弟が武器とすることだが……「絶好調だねぇシン君。陽葵にあんなこと言われたら……僕ならしばらく寝込むよ」 夫の陽一もそんな一癖も二癖もある義弟を、昔から、それこそ生まれた頃から知っているので、言動には慣れたもので驚きはしない。 娘に対する愛情が深いが心配性なので、一人で弟偵察に送り出した娘が心配すぎて今日は朝から寝込んでいたが、弟側の画面の片隅に同じ映像を見て楽しんでいる娘の姿があり、元気そうにしているのでようやく少しは安心できたようだ。 半日程度なのに大げさなと葵はあきれてしまうが、そこは父親、母親の感性の違いだろうか。『そうっすか? それにひまりならこの程度余裕綽々で楽しみますよ。うちのエリスは攻撃全振りタイプなんで防御弱いですから』『あまいなシン兄。私ならあの妖怪を捕獲に行くよ! うちの旅館の中庭にどかんと飾って肝試し大会開催! ねぇ父さん! シン兄に協力してもらってやろうよ! 断ると……嫌いって言っちゃおうかなぁ?』 義兄に対してにやりと笑う弟の横からこちらをのぞき込むように画面に顔を出した娘の陽葵はわくわくを隠しきれない顔で提案し、さらにはにししと笑いながら父親をからかっている。 叔父と姪というより、歳の離れた兄妹と呼んだ方がしっくり気がするのはいつものことだが、人騒がせなところは似てほしくないと葵としては切実に願いたいところだ。 「あーやるとしたら来年だねぇ。お盆も過ぎたし、それにどうせやるならうちだけじゃなくて温泉街全域でやった方が良いかな。シン君、ARで重ねて簡易コスプレとかって可能かな? 陽葵の歳じゃまだナノシステム導入できないから、お化け面型のVR機材なんか作って子供も気軽に参加できるようにとか」『お、いいっすね! さすが陽さん。その手の怪異系の体型データとかの合わせ得意な連中……』 子供の思いつきな提案に対して、子供以上に盛り上がっていく夫と弟をみて葵は小さく息を吐く。 うちの男どもは…… 娘の頼みには弱い上に、地元の青年会会長もやっている所為か、何でも地元イベントにつなげて集客につなげようとする夫を、頼もしいと呼ぶべきか、仕事人間と揶揄すべきか 義兄弟仲は良いのは結構だが、今日の問題はそこではない。 それに下手したら、話を脱線するために弟が仕掛けてきた可能性もないとは言い切れない。 何せ昼休みを少し長めにもらっているとはいえそれも限度がある。 のらりくらりと躱して、時間切れを狙っている可能性も十分に考えられる。 小賢しい弟と対峙するときは時間を与えず、速攻が鉄則だ。「はいはいそこまで。今日は別の問題でシンを捕まえたのに……シン! いい加減説明! どういうこと!? 結局何者なのよ! あの子は!? あとそれとは別問題でいじめない! 小学生かあんたは! いい大人がやる事じゃないでしょうが!」 手をぱんぱんとたたいて会話を強制停止させた葵は語気を強め、一気に主導権をもぎ取る。 弟とその婚約者であるアリシティア・ディケライアとの間に出来た娘だと伝えてきたエリスティアという名の少女の存在をはっきりとさせる事が最重要。 しかしそれはそれとして、性格の悪い弟に葵が一言もの申すと、『へいへい。お姉様からのご命令だ仕方ない、娘いじりはここまでにしとくか。アリスの方もこっちに顔を出せる時間になったようだしな』 弟が指を振ると画面が切り替わり、自分の映像をメインに映し始めた弟は余裕綽々で、にやりと笑ってみせていた。