――――1579年3月下旬
為信が戸沢家と結び安東家に備えるという方針を明らかにし、その旨を書いた書状が一人の人物の下に届けられた。
年の頃は40代前半で武将としては油の乗りきる頃くらいの年齢であり、経験も存分に備わる年頃である。
怪男児と称するべき人物である矢島満安には及ばないものの、体躯は恵まれており、30年に近くに渡る戦歴からかその雰囲気には凄味すら感じさせる。
この人物は槍を取っても弓を取っても陸奥国随一、騎馬隊の運用や個人の馬術にかけては奥州随一とまで称されているほどの人物。
南部家の一族の一つである九戸氏の出身であり、主に安東家、斯波家などとの戦いで有名を馳せたこの人物は九戸政実という。
――――九戸政実
南部家の一族、九戸氏の11代目(一説には14代目とも)当主。
九戸、二戸、久慈を治める領主でもあり、若き日は短い間ではあるが津軽為信を保護していた事もある。
安東家、斯波家、葛西家との戦いで勇名を馳せた人物で南部家随一の猛将として名高い。
騎馬隊の扱いに長けた人物であり、政実自身も四十五カ条の馬術の秘伝と呼ばれるものを伝授されたとされる馬術の名人でもある。
更には若き頃から武勇で知られる南部晴政にも劣らぬ武勇の持ち主であり、陸奥国では敵う者はいないと言われるほど。
名実共に南部家を代表する武将で『三日月の丸くなるまで南部領』とまで謳われた勢力拡大にも大きく関わっている人物である。
盛安が家督を継承した当時は既に40代前半という事もあり、奥州でもその勇名は『北の鬼』として隣国に響き渡っている。
また、生涯に渡って戦に明け暮れた典型的な戦国武将であり、特に最後の末路は『九戸政実の乱』として後世にまで知られている。
安東家、斯波家、葛西家といった諸大名と戦ったという生涯の戦歴から武将としての力量は疑う余地は全くない。
だが、秀吉の天下統一が明らかとなった1590年以降に反乱したという事で時勢の読めない人物という評価が付き纏っている。
そのため、九戸政実という人間は武将としては一流であっても大局的な視野はなかったとされる。
しかしながら、壮絶な生き様を魅せた政実は魅力的な人物の一人であったと言えよう。
「ふむ……」
為信から送られてきた書状を見て、政実は暫し考え込む。
1567年(永禄10年)に旧交を温めて以来、為信から時折、こうした書状が届くのは何時もの事ではあるが、今回の書状の内容は普段とは大きく違っている。
記されていた内容は時期を見て、戸沢家と結び安東家に備えるという事。
また、大宝寺家との関係は保留とし、同盟を結ぶ事は考え直す事にすると書状には記されていた。
「兄者、為信は何と言ってきたのだ?」
政実の考え込む様子を見て、弟の九戸政則が尋ねる。
何事にも早い決断をする政実がこうも考え込んでいるのだ。
珍しい姿を前にして気にならないわけがない。
「政則も読んでみよ」
書状を読み終えた政実が政則に書状を渡す。
「解った」
政実に促され、政則も書状を読む。
「……為信は我ら九戸党と戦うつもりなのか?」
暫く読み進め、内容を把握した政則は驚く。
確かに安東に備えるとは書いてあるものの、戸沢家と手を結ぶと書いてある以上、最終的には南部と事を構える事は確実だ。
そうなれば、南部家に属している九戸氏は津軽家とは如何あっても戦う事になる。
晴政が後継者候補の信直と啀み合っている今だからこそ、信直の父である石川高信を討った為信は南部家の敵ではない。
それ故に事を交えずに済んでいるのだ。
「為信個人としては九戸党と戦いたいとは思ってはおるまいよ。だが、書状で見る限り、為信は戸沢の現当主に余程興味があるらしい」
書状の中には戸沢家の現当主、盛安は只者ではない故に彼の人物を見極めた上で戸沢家と盟約を結ぶ方針に至ったのだとも書かれていた。
戸沢家は南部家からすれば嘗て雫石の地から追い出した存在でしかないが、向こうから見れば此方は敵となる。
その戸沢家と結ぶとなれば、津軽家は完全に敵と見倣さなくてはならない。
「しかし、為信は自分から仕掛けない限り、お館(南部晴政)が動かない事を理解している。戸沢との盟約は悪い手ではない」
「それもそうだが……。兄者は良いのか? 為信が戸沢に通じる事は」
「構わん。寧ろ、為信が俺の見込み通りに力を身に付けている事が嬉しいくらいだ」
だが、為信は晴政が直接矛を交えない限りは戦うつもりがない事を読み取っている。
南部家もあくまで安東家と敵対しているのであって津軽家と敵対しているわけではない。
それに為信を目の敵にしているのは晴政の後継者候補であり、石川高信の息子である南部信直だ。
晴政は為信に対しては何とも思っていない。
寧ろ、信直を後継者候補として以来、五月蝿くなった高信を為信が討ち取った事は晴政からすれば逆に都合が良い。
晴政は信直を養子に迎え、政実の弟である九戸実親に娘を嫁がせて後継者候補としたが、その後に実子である南部晴継が生まれている。
そのため、晴政からすれば信直と実親の2人は晴継を後継者とする場合は邪魔になる可能性があった。
しかし、実親は晴継の後見人という立場に落ち着き、高信亡き後は信直も晴政と戦う愚を悟り、引き下がっている。
遠回しではあるが、晴政の思う通りになったのは為信の御陰なのだ。
晴政がいる限り、津軽家とは戦う理由は存在しない。
例え、戸沢家と結んだとしても南部家からすれば取るに足らない事だ。
為信はそれを全て理解した上でこの方針を明らかにしている。
政実は為信の選んだ結論に満足そうな表情で笑みを浮かべるのだった。
「しかし、兄者。為信がそれほど気にしているという事は戸沢の当主はそれほどのものなのか?」
「……俺が知っている限りでは由利十二頭の赤尾津と羽川を滅ぼし、矢島満安を降した事と鎮守府将軍を称したという事くらいだ」
「矢島満安を!?」
戸沢家の当主が代替わりしたのは知っていたが、その事など気にも止めていなかったため、盛安が満安を降したという話に驚く政則。
勿論、鎮守府将軍を称したというのも驚きではあるが、それ以上に『矢島の悪竜』と名高い彼の人物が降るとは想像し辛いものがある。
「だが、戸沢の盛安は未だ14歳を迎えたばかりと聞く。評価するには些か、若過ぎるのでは?」
そのため、政則からすれば盛安は若者にしか過ぎない印象であった。
「いや、それがそうでもない。矢島を降した時、盛安は自ら一騎討ち演じ、戦そのものにも勝利している。歴とした本人の実力らしい。
しかも、その矢島満安はそのまま戸沢の陣営へと加わっている。彼の矢島の悪竜を引き込むほどとは……中々の者だ」
「なんと……」
だが、政実の口から盛安が中々の武将であると言われれば、その認識は改めなくてはならない。
政実が他者を褒めるような言動を口にする事は滅多にないからだ。
為信の事を評価しているのも保護していた頃の関わりがあったからこそである。
九戸の長興寺に預けられていた当時、5歳であった為信は年長の者5、6人を相手に喧嘩した際に1人で立ち向かった。
この時、為信は目潰しを拵え、それを使って全員の動きを封じた後、持っていた竹竿で次々と年長の者を叩き伏せた。
武士の子が目潰しなど卑怯であると追求されたが、政実は策の勝利であるとして取り合わなかった。
子供の喧嘩でしかなかったとはいえ、策を以って年長の者に勝ち得た5歳の為信を政実は大いに評価したのである。
年少の身でありながら、自らが確実に勝てるであろう方法を考え出した為信に才覚の片鱗を見出していたのかもしれない。
しかし、盛安については政実自身は見た事も会った事もない。
にも関わらず、中々の実力者であると評価している。
今までの政実からすれば非常に珍しい事だ。
「戸沢など取るに足らんと思っておったが……現当主である盛安は為信がここまで評価しているのだ。若いだけの武将ではあるまい。
それに浪岡北畠が滅んだ頃合いを見て、鎮守府将軍を称するという思い切りの良さもある。少なくとも阿呆ではないようだ」
「流石に兄者らしい評価だ。しかし、随分と盛安を買ったものだな?」
「ああ。戸沢盛安は俺の思惑からは大きく外れていた人物だ。しかし、それが俺の見込んだ為信に認められたとなれば気にならない方が可笑しかろう」
「確かにその通りだ」
政実が盛安を好意的に評価したのは自分が見込んだ為信が評価しているからである。
為信の人を見る眼については全く疑ってはいないがために盛安を一蹴しなかったのだ。
「しかし、為信も面白いのに目を付けたものよ。安東と敵対していて尚且つ、何時かは南部と戦うつもりがあるからこそ、戸沢盛安を見出した。
盛安の方も後々には安東と敵対する事になるであろうから、両者の考えは一致している。しかも、盛安はこれから先の伸び代を秘めた人間だ。
安東と戦う事を前提として、先を見据えるならば、盟友としてこれほど有り難い者はおるまいよ」
寧ろ、盛安という想定外の人物に目を付けた事で為信が自らの思惑よりも大きな人物になっている事が嬉しい。
元々より、視野が広く智謀に長ける為信であったが、それが尚更磨きをかけてきたように思える。
為信が政実と出会ってから経過した約25年もの歳月は彼の人物を大きく飛躍させた。
大浦氏を束ね、名実共に津軽の領主となった為信は今では陸奥国でも一目置かれるほどに大きなっている。
それが政実にとっては嬉しく思えた。
「戸沢の事は好きにさせる。例え九戸党と戦う事になったとしても、為信も覚悟は出来ていよう。俺から伝える事は何もない。存分にやれ、と返答せよ」
「畏まった!」
為信の成長を実感した政実は存分にやれと言う返答で応える事を決める。
浪岡北畠家を滅ぼした今となっては最早、為信に教える事など残ってはない。
自分の手から離れつつある為信の成長を実感しつつ、政実は笑みを浮かべる。
教え子ともいえる為信の飛躍は政実の望むところ。
幼かった久慈弥四郎が大浦為信となり、津軽為信となった。
南部家にとっては敵になるであろうが、為信の生い立ちを知っている政実からすれば感慨深いものがある。
自分が見込んだ為信が奥州における新たな人物として盛安を見込んだのである。
「為信くらいしかおらぬと思っておったが、面白くなってきおったわ。戸沢盛安……存分に暴れてみせよ。為信が見込んだその器量が本物ならば、な」
政実は新たな世代が表舞台に出て来ようとしている事を実感しながら、為信がいるであろう津軽の方角を見据えるのであった。