第8話『勝利という名の敗北』
1915年5月に『独英仏停戦協定』が締結された後、色々な事が起こった。
第一に、ロシア軍による予想外の進撃。
ロシア軍は東プロイセンの要所を次々と攻略、占領下に収めていった。
しかし対仏戦で消耗していたドイツ軍は、これに対抗することもままならなかった。
東部戦線に一定の目途が付いたのは、1916年夏に入ってからだった。
ドイツ軍は史実に先駆け、一早く『ゴーダG.Ⅳ』双発爆撃機を投入。
ゴーダG.Ⅳは飛行船とともにモスクワやペトログラードといった主要都市を空襲した。
これに対し、ロシア軍は『イリヤー・ムーロメツ』4発重爆撃機を首都ベルリンに差し向ける。
まさに、戦略爆撃史の始まりであった。
また、ドイツ軍は『LVG-C.Ⅳ』偵察爆撃機や『ハルバーシュタットCL2』複座攻撃機を東部戦線に投入した。
これらの機体の爆撃方法は、投下装置等を用いたものではない。
人間の力、すなわち手動だ。
といっても、もちろん投下するのは通常の大型爆弾ではない。
手榴弾のような小型爆弾を掴み、機体を地上すれすれに接近させて、後座搭乗員がそのまま敵塹壕の中へと投げ込むのだ。
正気の沙汰ではない原始的戦法ではあったが、効果は抜群だった。
1916年11月、『第2次ガリツィア会戦』において、ドイツ軍はこの攻撃機を投入、組織的に運用したことで同会戦を勝利に飾ることとなった。
その後、東部戦線はこのガリツィアを境に停滞。
両者は塹壕を築き、睨み合いを始める。
なおイタリア戦線については、言うまでもないだろう。
イタリア戦線異状なし。今日もイタリア軍は調子良く敗北を続けていた。
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1917年2月23日、ロシア帝国首都ペトログラード。
何気ない日の何気ない朝。
『ドイツ的』としてその名を“サンクトペテルブルク”から改称したばかりの首都ペトログラードのヴィボルグ区には、いつも通りの喧騒が訪れる筈だった。
金槌の音、ブーツの足音、古びた機械の悲鳴にも似た駆動音。
しかしそれは、いつもとは違った。
金槌は天高く振り上げられ、石畳の路肩に轟く足音は統制を成していない。
そして、機械の駆動音は全く聞き取れない。
この日は、いつもとは違った。
この日、2月23日(グレゴリオ暦3月8日)は『世界婦人デー』だった。
ヴィボルグ区の工場でいつも通り働く筈だった女性労働者達は、「パンをよこせ」と声高らかに主張しながらストライキを始めたのだ。
やがて、男性労働者達もストに加わり、その数は9万人にも達した。
このストライキはたちまち他の区にも広がり始め、25日にはペトログラード市内の労働者の半数がこれに加わっていた。
この事態を収拾しようと、コサック騎兵が鎮圧を任務に投入されたが、その一部が反乱に加わってしまうという結果に陥った。
26日、ストは拡大の一途を辿っていた。全市の労働者9割がこのストに参加、警官隊も手に負えない状況だった。
そんな中、ロシア帝国皇帝ニコライ2世に騒乱鎮圧命令を下されていた軍は、ついにデモ隊に対して発砲。
これを機に、軍内部では反乱が拡大化し、上官を下士官が、下士官を兵士が射殺するという事態が発生した。
ここに市内の軍の統制は崩壊、脱走と内乱は増加の一途を辿った。
28日、反乱兵の数は12万6700名にも達した。(革命勃発前の首都の兵力約15万に対し)
ペトログラード軍管区司令官のハバロフ将軍は僅かな部隊とともに海軍本部に籠ったが、昼過ぎにはその部隊も解散した。
ここに、ペトログラードの防衛軍は瓦解し、皇帝ニコライ2世の権力は失われたのだ。
これこそ、『2月革命』である。
皇帝という存在が消滅し、宙に浮いたロシア帝国。
それを統一し、秩序を取り戻すために唱えられたのが――『ソヴィエト』の結成だった。
これを呼び掛けたのが、『メンシェヴィキ』議員や労働者の代表である。
そして『臨時委員会』と『ペトログラード・ソヴィエト』がここに樹立されたが、これは二重権力と言われた。
そして革命はロシア全土に拡大。
『臨時委員会』は『ロシア臨時政府』を設立し、史実通りに戦争継続を宣言した。
これに対し、反旗を翻したのがウラジーミル・レーニン率いる『ボリシェヴィキ』だった。
しかし臨時政府は戦争を続行。
1917年6月、ロシア軍は『第3次ガリツィア会戦』の戦端を開く。
しかしこの時、ドイツ軍は『A7V』戦車を実戦配備していた。
またドイツ軍では、既にMP18が1万挺以上生産され、次々と部隊配備されていた。
結局、質の差においてロシア軍は敗退。
臨時政府はロシア国民からの信頼を失い、ソヴィエトの支持が高まった。
そして1917年10月。
ロシア首都ペトログラードで『10月革命』が勃発。
これを引き起こしたのは、レーニン率いるボリシェヴィキであった。
これにより、ロシア臨時政府は解体。
全ての権力はソヴィエトに移され、新たな臨時政府として『人民委員会議』が設立された。
1918年2月、『ブレスト・リトフスク条約』が締結される。
この『ブレスト・リトフスク条約』は、ボリシェヴィキ政府とドイツ帝国、オーストリア帝国=ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国の間に結ばれた条約だった。
この条約によって第一次世界大戦はその大部分が終結、残すは対伊・対セルビア戦のみとなった。
ドイツ帝国は、多くの領土を獲得したが、その全てはドイツ帝国の傀儡国家として独立を果たした。
また、ドイツ帝国はボリシェヴィキ政府から多額の賠償金を獲得。
第一次世界大戦はここに終結の兆しを見せ始めたのである。
しかし、ドイツ帝国の栄光が訪れることはなかった。
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1918年4月19日、フランス。
この日、『パリ講和会議』が開かれた。
主な目的は、第一次世界大戦の完全終結。
この会議上でイタリアは“停戦”を要求。
オーストリア=ハンガリー帝国はそれを受諾する。
しかし、話はそれだけでは終わらなかった。
英仏政府はドイツ政府に対し、第一次世界大戦初期に行った中立国ベルギーへの越境・侵略行為を不法なものであると非難。
30億マルクもの補償金をドイツ政府に突き付けたのである。
これにドイツ政府側は難色を示した。
何しろ、30億マルクといえば戦前ドイツの国家予算に匹敵する額だ。
露仏二大国に勝った筈の戦勝国が払うような額では無かった。
また、講和会議には『中立』のアメリカも参加。
史実同様に勃発した『ルシタニア号事件』を盾に、多額の補償金を迫った。
これは『無制限潜水艦作戦』や1916年以降の東部戦線で行われた『毒ガス使用』にも繋がり、その戦争犯罪性をアメリカは批判した。
アメリカは『パリ戦争補償基金』とその運用組織である『戦争復興委員会』の設立を要求。
その頭金として、ドイツ政府に対し10億マルクを要求。
もし要求に応えない場合には、即宣戦布告をすると表明。
これは事実上の脅迫であった。
それに乗る形で英仏両国も『独英仏停戦協定』の破棄を表明。
ドイツ政府はただただ沈黙するしかなかった。
既にドイツ帝国は多額の戦費負担を強いられており、人員消耗は半端な数ではなかった。
戦争継続は不可能であり、ましてや米英仏を同時に相手取るのは無理な話だった。
ドイツ政府は渋々ながらもそれを受諾。
補償金40億マルクの支払いを約束する。
これにドイツ帝国国民が激怒するのは、間違いなかった。
時に1918年4月、『ドイツ革命』直前の出来事であった。