第6話『西部戦線異状あり』
1914年12月8日。
あの『マルヌの戦い』から約3ヶ月経過した。
俺は今、パリに居る。『光の都』パリだ。
流石は世界都市。街観は華々しく、荘厳で、それでいて洗練されている。
エッフェル塔が見える。
観光客には人気のエッフェル塔だが、パリ市民やドイツ兵にとっては、それはただの“鉄塔”でしかなかった。
しかしそのエッフェル塔を俺は見下ろしている。
そう、俺は飛行機乗りになっていたのだ。
理由は2つある。
1つは、前世が曲りなりにもパイロットだったからだ。
某大手航空会社に勤めていた。
21世紀のジェットと20世紀の単葉機では全く異なるが、空を飛ぶ耐性はある。
もちろん、全身に風を浴びて操縦したこともなければ、機械に頼らずジェットを飛ばしたこともないが。
それでも、一般人よりはマシというものだろう。
そしてもう1つは、戦後のため。
戦後、パイロットという職業は優遇されていた。第一次大戦で航空機の可能性が広がったからだ。
特にエースパイロットは、曲芸飛行士になったりして生計を立てることができた。
中堅パイロットにしても、国外の航空機会社や1926年に創設される『ルフトハンザ』のパイロットに雇われている。
いわば、パイロットというのは大きな“スキル”だった訳だ。
一日の食事にも事欠く戦後ドイツのことを考えると、スキルの獲得は必要不可欠だった。
そんなこんなで現在、俺はアルバトロスC.Ⅰ偵察機に搭乗している。
と言っても、観測員な訳だが。
陸軍航空隊の情報将校として、上空から戦域を把握するという役所だった。
その護衛として、フォッカーE.Ⅰがパリ上空にて滞空中だ。
フォッカーE.Ⅰとは、世界初の『プロペラ同調装置』付き航空機である。
史実では1915年5月に初飛行し、6月に実戦投入されている。つまり、6ヶ月近く早い登場という訳だ。
これは、俺が提案した『プロペラ同調装置』による結果だった。
プロペラ同調装置を付けたMG08/15機関銃を1門取り付け、完成したのがフォッカーE.Ⅰだ。
初期型の戦闘機としては、まずまずのものだった。
何しろ当時、空戦というのはレンガや石を投げつけたり、ピストルで撃ち合ったり、可動式機銃で撃ち合うというのが殆どだったからだ。
しかしフォッカーE.Ⅰは、そんな従来の空戦を根本から覆す機体だった。
機体前方に機銃を据え付け、命中精度は向上。
空戦は大きく様変わりするだろう。
事実、この『パリの戦い』において、フォッカーE.Ⅰは空の覇者足り得ていた。
フランス軍側の軽武装偵察機は次々と沈黙。ドイツ軍は制空権を得る。
史実より7ヶ月も早い『フォッカーの懲罰』時代の到来だ。
ただ、弱点もあった。
1つは、フォッカーE.Ⅰはその配備数が圧倒的に少ない。
そしてもう1つは、対空砲火に弱いということだ。
さらに新機軸の技術なので、故障が多かった。
しかし敵側に戦闘機が存在しないこの『パリの戦い』では、それでも十分だった。
偵察機によって空からの情報を断たれたフランス軍は、孤立した。
一方ドイツ軍は、空から有益な情報を幾つも仕入れていた。
この情報を得たドイツ軍砲兵隊は砲撃を開始。
パリに展開していたフランス軍砲兵隊や堡塁は軒並み破壊され、ドイツ軍はパリ攻略に一歩近付いた。
MP18によって武装した歩兵は、浸透戦術によって敵陣を突破。
首都パリを目前とする中、その近郊で血みどろの戦いが繰り広げられた。
1914年12月23日
フランス政府はパリから撤退。
首都パリには『無防備都市宣言』が出され、ドイツ軍は無血占領を果たした。
これによりフランス国内では、“停戦”が密かに囁かれるようになる。
フランス軍は先の戦いで50万名もの死傷者を出していたからだ。
それに季節はクリスマス。イギリス内でも、停戦気運が高まっていた。
ドイツ軍としても、これ以上の損失を負う前に対露戦に移行したかった。
翌々日の1914年12月25日、ドイツはフランス政府に降伏を要求。
しかしフランス政府は、断固たる抗戦を宣言。
これに業を煮やしたドイツ軍は、フランス政府臨時首都トゥール攻略に乗り出す。
また、ドイツ軍航空隊はフランス軍航空兵力の殲滅作戦を発動した。
この頃には、俺も戦闘機乗りに転身していた。
当時、フランス軍は23個の飛行隊を有していたが、ドイツ軍はその倍の兵力を投入した。
また、こちらにはフォッカーE.Ⅰがあった。
年が明けて1915年1月10日。
『トゥールの戦い』が始まる。
ドイツは北フランス一帯とパリ周辺を制圧し、炭田や鉱山といった地下資源を獲得していた。
一方、先の戦闘で痛手を被っていたフランスは、持久戦に突入する。
しかし既にフランス側は物資乏しく、敗走に次ぐ敗走を見せていた。
頼みの綱はイギリス軍だが、その動きは国内の停戦議論で遅かった。
こうして始まった『トゥールの戦い』だが、防戦一方だったフランス軍が反撃に回った。
『浸透戦術』に対抗する『攻勢防御戦術』を発動する。
これによりドイツ側の圧勝かに思われた『トゥールの戦い』は、泥沼化の様相を見せるようになった。
しかし、攻勢防御戦術への対抗策が無い訳ではなかった。
そもそも、攻勢防御戦術とは浸透戦術の弱点である『補給』の弱さを突いた戦術であり、いわゆる持久戦だった。
これを突き崩せるのが、『戦車』だった。
戦車は突破力に富み、歩兵とは違って塹壕等を容易に突破することができる。
しかしこの時点でドイツ軍はまだ戦車を有しておらず、どうしようもなかった。
1915年1月14日、トゥール攻勢開始から4日。
ドイツ軍はフランス軍の攻勢防御戦術によって撃破されつつあった。
臨時都市トゥールを目前しての敗北。
それを避けたかったドイツ軍司令部は、他方面からの増援を以て、フランス軍に最終決戦を仕掛けることにした。
すなわち、第一次世界大戦の帰結――人員消耗である。
ドイツ軍は『マルヌの戦い』のガリエニのように、パリから接収した車輛――それこそ、タクシーから一般車輛に至るまでに完全武装した兵士を乗せ、トゥールに送り込んだ。
また、そのタクシーに装甲板を取り付け、装甲車輛に改造。
送り込まれた増援軍は、軽機関銃を据え付けた装甲車輛を用いたフランス軍陣地突破を敢行する。
この奇策にフランス軍は動揺した。既に補給物資の貯蓄は乏しく、兵士の数も減っていた。
1915年1月17日、フランス政府はトゥール放棄を決定。
またもや脱出を企むフランス政府は、その臨時都市をボルドーに移すことを決めるのだった。