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No.31658の一覧
[0] アルベルト・ゲーリング奮闘記【転生仮想戦記】[キプロス](2012/05/12 13:46)
[2] 第2話 痛い子と悪ガキ[キプロス](2012/05/12 13:45)
[3] 第3話 士官学校の変わり者と危ないお友達[キプロス](2012/05/09 19:55)
[4] 第4話 第一次世界大戦勃発[キプロス](2012/05/12 13:08)
[5] 第5話 マルヌの戦い[キプロス](2012/05/12 13:17)
[6] 第6話 西部戦線異状あり[キプロス](2012/05/12 13:44)
[7] 第7話 東部戦線異状あり[キプロス](2012/05/12 13:35)
[8] 第8話 勝利という名の敗北[キプロス](2012/05/12 13:39)
[9] 第9話 騎士アルベルト[キプロス](2012/05/12 13:41)
[10] 第10話 ゲーリング財団創設[キプロス](2012/05/12 13:51)
[18] 第11話 兜町の相場師[キプロス](2012/05/13 00:24)
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[31658] 第5話 マルヌの戦い
Name: キプロス◆6129d03f ID:076f5f59 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/05/12 13:17
第5話『マルヌの戦い』
 


俺は今、フランスはマルヌに居る。

そう、あの『マルヌの戦い』だ。
対仏戦の雌雄を決する戦い。
いわば、第一次世界大戦のターニングポイント。

史実では、東部戦線とベルギー軍の残党のためにドイツ軍は多大な戦力を捻出。
これは全力を以て敵を討つ『シュリーフェン・プラン』としては失策。
そして戦力の欠如に加え、パリ軍事総督ガリエニによる“奇策”

それはパリ中のタクシーを徴発し、完全武装の兵士をマルヌへと送り込む――というもの。

この奇策によって補強戦力を得たフランス軍は体勢を立て直し、
さらにイギリス遠征軍がドイツ第1軍と第2軍の間隙を突くことで趨勢は決した。

ドイツ軍参謀総長のモルトケは撤退を下命。
結果、ドイツ軍がパリに進むことはなかった。



この『マルヌの戦い』のドイツ軍敗北には、複数の要因があった。

1つは、ドイツ帝国軍におけるバイエルン王国軍の優越。
そもそもドイツ帝国というのは複数の国から成る連邦国家な訳だが、
そこで独自の軍を保有していたのは4つの国だけだった。

・プロイセン王国
・バイエルン王国
・ザクセン王国
・ヴュルテンベルク王国

その中でもっとも影響力を誇るのがプロイセン王国な訳だが、次に影響力を有していたのが、バイエルン王国だった。
特に、バイエルン王国軍は他の王国軍とは別格だった。
軍を指揮するのは、バイエルン王太子のループレヒト・フォン・バイエルン。
しかも、バイエルン王国軍――ドイツ帝国第6軍――はループレヒト直属で、ドイツ帝国軍の指揮の範疇からは逸していた。

そしてその独自性は徹底していた
バイエルンでは、領内のドイツ帝国軍部隊にわざわざバイエルン独自の番号を付け、他のドイツ帝国軍とは一線を引いたのだ。
そんな独自意識の強い第6軍はマルヌ攻勢時、左翼に展開していた。

一方、東部戦線におけるロシア軍の侵攻を受け、
モルトケは右翼から3個軍団及び1個騎兵師団を捻出。
これは右翼戦力を重要視する『シュリーフェン・プラン』に反する行為だった。
そしてそこには、バイエルンの独自性が密接に関係していたのだ。

無論、兵站の問題もあった。
が、バイエルンの独自性が絡んでいるのは、間違いない。
ドイツ帝国軍は『プライド』という内なる敵を有していたのだ。

また、先の『リエージュの戦い』で敗走し、アントワープに逃げ込んだベルギー軍残党の討滅も重要案件だった。
これにドイツ帝国軍は1個軍団を捻出。
東部戦線、アントワープに捻出した兵力は4個軍団1個騎兵師団に及び、
これは1個軍に相当する兵力の喪失を意味する。

結果、マルヌの戦いはドイツ帝国軍の敗北に終わり、『シュリーフェン・プラン』は頓挫。

フランス戦線は塹壕戦に移行する。


● ● ● ● ● ● ● ●


……しかし、歴史は新たな分岐点を迎えることとなった。
この『マルヌの戦い』で割かれたのは、たった2個師団になっていたのだ。

もちろん、自然にそうなった訳ではない。

転生者たる俺の介入が絡んでいるのだ。



まず、俺はモルトケと接触することにした。

実は、この『マルヌの戦い』において、モルトケは失策を講じている。
これは3個軍団の東部戦線への捻出だ。
ロシア帝国軍は予想以上の早さで東プロイセンに進攻を果たし、『タンネンベルクの戦い』が繰り広げられることになる。

この時、ロシア軍は2個軍を展開。
一方、ドイツ軍は1個軍しか保有していなかった。

これに焦ったモルトケは、西部戦線から3個軍団1個騎兵師団を捻出する。

一見、この判断は堅実なものに見えるかもしれないが、行動が伴っていなかった。
ドイツ軍増援の行軍速度は遅かった。
だが、なんとドイツ軍はこの増援兵力がタンネンベルクに到着する前に、ロシア第2軍を壊滅、第1軍を退却に追い込んでしまったのだ。

一方、西部戦線はこれによって敗北を喫する。
これなら送らなければ……と、誰もが思うことだろう。
実際、そう思った俺は、行動に移した。


まずやったのは、プロイセン宮廷の接触。
つまりはドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世を橋渡りにモルトケを何とかしようと考えた訳だ。

ヴィルヘルム2世への介入は5歳の頃に断念してはいたが、
今は19歳。エリート士官候補生であり、MP18や浸透戦術の発案者だ。

それに俺が何とかしたいのはヴィルヘルム2世ではなく、モルトケだ。
だから必要以上の介入は行わないよう、心がけていた。
これには、プロイセン宮廷侍医のエーペンシュタインに協力を要請した。

彼はヴィルヘルム2世とも面識があり、実父かもしれない人だ。

また、俺は兄ヘルマンにも協力を要請した。

癪ではあったが、MP18などからくる特許料を彼に提供し、
ベルリン社交界で確固たる地位を確保してもらった。

ヘルマンは1913年からベルリン社交界に足を踏み入れており、上流階級と関係を持っていた。

そんなヘルマンを通じてアウグステ・ヴィクトリア皇后に接触、
ヴィルヘルム2世にアプローチを掛けようという寸法である。

アウグステ・ヴィクトリア――“ドナ”――は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の妻だ。
ベルリン社交界にも度々、足を運んでいた。

そこを狙って、ヘルマンにアプローチを掛けさせようという訳だ。

一歩間違えれば皇后に気があるとでも見られて、ヘルマンが絞首刑……なんてこともあるかもしれない。

まぁ、その時はその時だ。

……そんな軽い気持ちで兄を決死の任務に送り込んだ俺、どうなんだ。

いや、会う度にキャメルクラッチ決められてることを考えれば、妥当か。

そして『ボクシング』と称された、実質人間サンドバック状態にされてしまう所業のことを考えれば……。

――いや、これ以上は何も言わないことにする。



そして1914年9月。

これらの企ては実を結んだ。


ヴィルヘルム2世と関係を結んだ俺は、皇帝を通じて軍上層部と接触。
モルトケとの対面を果たし、ロシア軍の具体的な戦略・輸送能力・戦力を教えた。
もろちん、そのまま語っても信じてもらえる筈もなく、逆に疑われてしまう。

だから、全ては“ヴィルヘルム2世直属の秘密諜報機関”の情報で、
俺、アルベルト・ゲーリング少尉はその情報将校――という事にした。

実際、ゲーリング少尉の噂はモルトケの耳にも入っていた。
『リエージュの戦い』をドイツ軍の歴史的勝利に導いた情報将校。
堅牢なリエージュ要塞の攻略と、輸送網の確保に対する功績は、計り知れないものとしてドイツ軍上層部も見ていたそうだ。

無論、バレてしまうと厄介だから、ヴィルヘルム2世の口から語られない限り、
その件を他者に口外することは許されない、と釘を刺しておいた。

当のモルトケはドイツ帝国軍の全てを知り尽くしている『参謀総長』というポスト、
シュリーフェンの弟子、そして大モルトケの甥であるというプライドもあって、それ以上言及しようとはしなかった。

こう思うと、プロイセン軍人のプライドも良いものだ。

それに、モルトケは1916年に脳卒中を起こして死去する。
俺の正体は墓まで持って行ってもらう、という寸法だ。

まぁ、バレたら厄介なことにはなるが……。
正直、MP18辺りで止めとくべきだったとは思うが……。
しかしやってしまったものは、仕方が無い。

それに、フランスを獲るぐらいの戦果を挙げておけば、ヴェルサイユ条約である程度は融通が利くだろう。
軍備規制の緩和ぐらいは考えてくれるかもしれない。

まぁその場合、ヒトラーの台頭が無理な気もするが、
既に第一次世界大戦の勃発前からドイツ皇帝の権威は失墜している。
『デイリーテレグラフ事件』や『ツァーベルン事件』でそれは明らかだ。
間違いなく帝政は瓦解する。

また、1320億マルクとは言わずとも、膨大な賠償金をふんだくられるのは明らかだ。
ヒトラーのような独裁者が育つ土壌の余地は十分にある。

まぁ、日本の経済にも影響してくる点も否めないが、
それはドイツ系企業の進出や、資源開発の面で何とかカバーしよう。



1914年9月4日。

MP18の活躍もあってか『リエージュの戦い』は史実よりも1日早く終結。
その兵力はマルヌ攻勢に向けられることとなった。

英仏側は史実通りの兵力だが、一方のドイツ帝国軍は史実よりも12万名近い数の兵力が増強されている。
また、各軍ではMP18の配備が進んでいる。
浸透戦術についても、モルトケの命令の下、全軍が利用している。

少しずつだが確実に、『マルヌの戦い』は変貌を遂げていた。
ドイツ軍は浸透戦術で増援を待つフランス軍陣地を突破、包囲殲滅に掛かる。

何の防御策も講じていなかったフランス軍は崩壊、パリからのタクシーを待つ前に敗走を始めた。

一方、ドイツ軍は飛行船によってパリとの交通路を断ちにかかっていた。
追撃するドイツ軍はこのフランス軍に全面攻撃を仕掛け、フランス軍は壊滅を喫した。
同行していたイギリス軍も同じく壊滅。

英仏軍は30万名近い損失を出しながら、フランス奥地に逃げ込む形となった。









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