第2話『痛い子と悪ガキ』
月日は流れ、5年が経過した。
つまりは現在6歳、但し“人生2度目”というのが注意点だが……。
「アルベルト、アルベルト!」
兄ヘルマンがそう叫びながら駆け寄る。
中世ヨーロッパの貴族服に身を包み、乗馬用の鞭を右手に持っている。
何か嫌な予感が……。
「アルベルト! 馬だ、馬になってくれ!」
ああん? 何、抜かしてんだお兄ちゃん?
そんな言葉を言いたげな表情を俺は浮かべた。
しかし、自由奔放な兄にそれが通じるとは思ってはいない。
最終的に折れるのは俺だ。
まぁ、ロデオみたく暴れ回って床に落としてやるけどな。
この5年間は、そんな調子だった。
大胆不敵な兄ヘルマンさんと、内気な弟である俺。
いや、別に狙って内気になった訳じゃない。
確かに社交的ではない。だが、これには理由があった。
俺は1歳ぐらいから沸々と頭の奥底に眠る知識が蘇り始めたのだ。
大半は俺が趣味としていたミリタリー関係。
特に航空機とか戦史とかである。
その脳裏に、まるでパソコン画面を見ているかのように鮮明な未来知識が映り始めたのだ。
そう、例えばWikiとか海外のソースとか、あとは国内外の書籍類。
ある時期を過ぎた頃には、航空機やら戦車の設計図まで。
何ともご都合主義な展開だったが、無理ゲーなこの状況を打開するには、そういった情報に頼るしかない。
俺は父ハインリヒの書斎に籠り、そういった情報を写し始めた。
何故、そうしたかというと、それには2つの理由がある。
1つは、他者に理解し易くするため。
そしてもう1つは、そういった鮮明な情報が幼少期しか得られないと直感したからだ。
これは現実に前世の記憶を持つ人間が、その記憶がもっとも鮮明だったのが幼少期だった、という体験談に基いている。
まぁそれよりも、実際に第六感で感じたから……という、またもやご都合主義的なものが大きいのだが。
とにかく、俺はそれらの情報を移すことにした。
結果的にそれで両親から“内気”な子供とみられるようになる。
何しろ、他の兄妹が遊んでいる時間も、食べる間も寝る間も惜しんでの作業だった。
父にBf109戦闘機の設計図を見つかってからはなおさらだ。
当の父は『メッサーシュミット』も『戦闘機』の三面図も理解出来なかったようだから、助かったが。
まぁ、1923年に設立される企業が製作する戦闘機の図面など見せられて理解しろ、などという方が無理なのだが。
残念ながらその事件以来、両親は俺を痛い目で見ている。
兄ヘルマンや、他の兄妹達も同様だ。
両親はともかく、ヘルマンとの関係を損なったのは痛かった。
第一次世界大戦に不干渉な方向で行く以上、後のナチス台頭では彼の口添えが必要となる。
さらに先の話だが、ヘルマンが次期総統になった暁には、ユダヤ人虐殺を止めるよう説得するだけの信頼関係が必要となる。
まぁ、第二次大戦で勝利しないと元も子もないが。
時は経ち、そして1900年の初夏に至る。
オーストリアはザルツブルク州、マウテルンドルフ城。
ここは、俺の実父からもしれない男、ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタインの所有する城だ。
エーペンシュタインはベルリン出身の裕福な大地主貴族の医者だった。
また、プロイセン王室の侍医でもあった。
つまり、プロイセン宮廷にもパイプを持つ。
但し、俺は敢えてそれを使わないつもりでいた。
この時点でプロイセン王国はドイツ帝国に組み込まれ、皇帝ヴィルヘルム2世はその権威を失っている。
それにだ、たかが5歳の子供の話を聞くとは到底思えない。
まぁ、4年後に開戦する日露戦争を言い当てれば、聞く耳を持ってくれるかもしれないが。
だが、それは希望的観測に過ぎない。
どうせヴィルヘルム2世も側近も、『まぐれ当たり』として話を済ませるだろう。
だから敢えて、この時代を俺は情報の整理とヘルマンとの関係構築に消費した。
『模型飛行機製作』という前世の趣味がここで役に立った。
俺はグライダーなんかを作り、それをヘルマンと楽しんだ。
もちろん、人力飛行だ。
何回も挑戦しては失敗したが、成功した時は達成感があった。
おそらくヘルマンも、“空を飛ぶ”楽しさに心を惹かれたことだろう。
まぁ、一歩間違って大怪我でもしたら大変なので、それ以上はしなかった。
逆に大変だったのが、ヘルマンの趣味に付き合わされることだ。
彼の趣味は専ら『登山』や『狩猟』といった豪快なものだった。
ヘルマンは10歳、俺は8歳の頃だが、彼は登山にハマり始めた。
毎日のように「山に行こう。山に行こう」と急かすヘルマン。
そして重たげにリュックを背負い、彼や両親にSOSを送る俺。
……なにこのクソライフ?
そんな厳しい時代は、3年で幕を閉じた。
ヘルマンは11歳となり、アンスバッハのギムナジウムに通うことになったからだ。
彼の通うギムナジウムとは、ヨーロッパの中等教育機関だ。
修学期間は9年。
因みに小学校は4年制である。
いわば大学までのエスカレーターだ。
しかしヘルマンは、寄宿制だったこのギムナジウムの質素な寄宿生活に耐え切れず、入学翌年には家に帰ってきてしまった。
この時、俺は10歳。ギムナジウムに進学間近だった。
但し、9年間をギムナジウムで過ごす気はなかった。
翌々年、俺はプロイセン王国陸軍幼年士官学校に入学した。
ここは、あのヒンデンブルクやモルトケも通っていたという由緒正しき学校だ。
帝国陸軍の『陸軍幼年学校』も、この学校を手本としている。
ここに入学できたのは、一重にエーペンシュタインあってだ。
流石は実の父かもしれない男のことはある。
これは、彼なりの愛情表現だったのだろう。
一方この頃、兄ヘルマンはカールスエールの士官学校に通っている。
何故、カールスエールの士官学校に行かなかったかというと、出来るだけ優れた知識・技能と経験が欲しかったからだ。
6年後には、ヘルマンも通うプロイセン王国高級士官学校に入学したかったから、その布石でもあった。
こうして俺の士官候補生生活は――幕を開けた。