朝。
空はいまだ陽の射さぬ暁であるが、白々と夜は去りつつある。
そんな心地よい朝を予感させる中、浚儀の町では朝餉や仕事の仕度と思しきざわめきを響かせている。
そんな町の胎動が軽く響いているのは、或いは、先日まで迫っていた戦禍を逃れえた事の影響であったかもしれない。
一刀は心の何処か、極々一部でそんな風に思っていた。
一部だけなのだ。
心の大部分、思考の大半は懊悩としていた。
「無茶だろ、常識的に考えて」
一刀は目が覚めてからこっち、胃痛やら頭痛やらで悶々と布団に丸まり続けていた。
理由は無論、臨時の上に代行と付いているとはいえ浚儀太守へと就任する事となった事である。
拝命した際には、疲れ果て大量分泌されていた脳内麻薬によって事態を冷静に受け止めていたのだが、十分な休養と睡眠とを取ったら話が違う。
冷静に状況を理解したら、これは大変な事になったと頭を抱えていたのだ。
「どうしたものか」
布団を被ったままにモゾモゾと動くその姿は、実に奇怪な前衛芸術の様であったが、それも仕方が無い事だろう。
太守として一つの町を、その住人たちの全てを担うのだ。
責任者となる、その重さというものを感じられぬ程に一刀の神経は軽薄でもなければ、男子一生の快事等と考える程に能天気でも無かった。
そもそも、一刀は他人の言う "自分の才" とかいうものを一切合切信じていなかった。
一応というか武官としての剣の才こそ、祖父へ師事し研鑽していたとの自負からソコソコであるとは認識していた ―― とはいえ、これも習い覚えた薬丸自顕流が極め付けに実戦的な流派であったお陰で何とかなっただけあり、所詮は平穏な時代に生まれ育った日本人である自分に武の才など無いと確信していた。
だが、太守としての立場に必要な知の才、文官としての自分を全く評価していなかった。
確かに春蘭に対して行う様に、文若に対しても副官の様な位置には居た。
だが相手は歴史に名を轟かせ、果ては異国でゲームにまでなる才人、曹操を支える知の筆頭なのだ。
春蘭の様に支えていたのではなく現代の教育システムで得た恩恵、未来の学問の切れ端をもって助言の真似事をしていただけというのが一刀の自己評価だった。
遡れば、かの河内の村でも相談役として居ただけ。
そんな自分が行き成り組織を仕切るなど出来る筈が無いのだと考えていた。
それは大筋で正論ではあったが、同時に、余りにも過小な評価というものであった。
確かに立場こそ相談役ではあったが、同時に文若に押し付けられる形で献策を行うだけではなく、策を実行する上での問題点の洗い出しから、各方面との折衝までも担当すらした事もあったのだ。
決して只の相談役などではなかった。
文若を筆頭に、華琳の下へと集った才と覇気、野心を横溢させた多士と触れ合った事は一刀の知を、一介の高校生などという枠から別の次元へと押し上げていたのだ。
その他、文官の集まりなどでは別の人間関係の方面でも大いに経験も積んでいた。
これは兗州刺史府で最も厄介な人物 ―― 男嫌いで華琳以外の相手には狷介不羈を通す文若が、若手男性文官相手などに癇癪を起こした際などには之を宥めすかして議題を進行させるなどもしていたのだ。
人間というものが練れて居ないはずが無かった。
だが、一刀がその事を自覚する事は無かった。
文官として常に文若を、或いは華琳を見ていたのだ。
その才覚の輝きを間近に見ていて己に自身が持てる筈も無い。そう言うべきであろうか。
「今から辞退を………いや、あの華琳だ。認めてくれるとは思えない__ 」
言葉にして、それは違うと自覚した。
確かに華琳は一度言い出したら何かの結果が出るまで、それが正負を問わずに実行させているのが常であり、であれば出来る筈が無いから等という理由で辞退させてくれる筈など無い。
だがそれが理由ではなかった。
理屈としてそれがあっても、一刀の胸を満たす不安、その根源となる感情はそれではなかった。
それは恐怖だった。
恐れ。
臨時であり代理であるとはいえ、太守の大任を預けてきた華琳の期待を裏切ってしまうのではないかとの感情なのだ。
一刀は華琳という人物を高く評価していた。
歴史上の傑物としての曹操ではなく、おっかなくて多彩な上司として高く高く評価していた。
その華琳が、一刀であれば出来るだろうと課したのだ。
期待に応えたい。
或いは、更に認められたい。
それは一刀の男としての矜持でもあった。
だがそれ故に、期待に応えられなかったらと考えると怖くなってしまうのだ。
怖いけれども引けない。
引きたいけれども、それは別の失望を呼ぶのではないかとの恐怖もあった。
目が覚めてからグルグルと同じ場所を回り続けた一刀の思考は、内側へと沈み込もうとしていた。
華琳、春蘭、秋蘭、文若、多くの人間を思った時、ふと、一刀は思い出した。
文官が集って一服していた際、文若が若手の新人文官相手に言い放った言葉を。
『やる前に出来るかどうかなんて悩む前に、仕事を命じられたんなら全力で取り掛かりなさい。おがくず以下が詰まった頭で何を考えた所で意味が無いわ! 無意味で無価値よ!! 其処ら辺は私や曹孟徳様が判断しているんだから、あなた達がやり方を考える以外に悩むなんて無駄、私は許さないわよ!!!』
熱くなって大演説をした文若に思わず拍手した事を、それで怒られてしまった事も思いだした。
そして感心もした。
下手の考え休むに似たる、と。
ああ、文若は実に頭が良く、道理であるなと。
考えても仕方が無い、命令は既に下されているのだから。
後は必死に努力して、出来ない所は指示を仰いで、泥臭く足掻けば良いのだ。
結局、失望されたくないってのも格好良くやろうというからそうなるのだ。
だが俺という人間はそもそも、格好の良い人間じゃない。
その格好の良くない奴が必死に足掻くのは当然じゃないか、と。
そこまで考えた時、一刀は布団に顔を埋めたままに小さく笑った。
「………仕方が無いさ」
誰に言う訳でも無く言葉を漏らす。
何が仕方が無いという訳ではない。
そもそも只の高校生から1年と少しで、1万人を優に超える命を預かる太守サマである。
プレッシャーを受けない方がオカシイのだ。
そう思えば開き直る事も出来た。
寝起き抱いた絶望感、或いは自己嫌悪は少しだけ薄れていた。
「よしっ!」
一刀は頬を叩いて気合を入れる。
胃のキリキリとした痛みはまだ消えていないし、不安に至っては消える事なんてありえないだろう。
だが、前に進もう。
期待というものは掛けて貰える内が華であり、華であるからには何とかその期待に応えたい。
そう一刀は決意し、寝台から降りたその瞬間であった。
「きゃっ、きゃーっ!!!」
朝の静けさを叩き壊す、絹を裂くような悲鳴に、何事かと周囲を慌てて見た一刀は、部屋の入り口に立つ文若に気付いた。
というか、声を上げたのは文若であった。
顔を真っ赤にし、恐ろしく怯えた様な表情である。
「なっ」
朝から大声で何事かと一刀が尋ねようとした時、文若は両手で顔を隠すと部屋の入り口は戸の影に潜り込んだ。
「はやく隠しなさいよ、この変態!!!!」
「へっ!?」
何が原因で朝から変態扱いかと、めったな事では怒らぬ一刀も朝からの暴言に流石に声を荒げようとしたのだが、ふと、自分のからだが肌寒い事に気付いた。
口を開く前に下を見た。
帯がはだけて、前が露出していたのだ。
胸元から股下までが完全に自由になっていた。
「なっ!」
思わず一刀も大声を漏らしていた。
「なんじゃこりゃー!?」
両手で慌てて隠しながら、文若の悲鳴以上の声を上げていた。
真・恋姫無双
韓浩ポジの一刀さん ~ 私は如何にして悩むのをやめ、覇王を愛するに至ったか
【立身編】 その16
「曹孟徳刺史の命によって浚儀を預かる事となった北元嗣、姓は北、名は郷。字は元嗣だ」
言葉が硬く出た事で、一刀は自分が緊張している事を再自覚した。
挨拶自体は春蘭の副官へと着任した際にもやっていたし、その時の方が圧倒的に人数が多かったが、今回は責任が違う。
副官という、上司という逃げ場のある立場ではなく代理とはいえ太守、責任を取る立場なのだ。
緊張の度合いが違うのも道理であった。
この場に居るのは、浚儀に残っていた文官達の取りまとめ役と官軍の士官、そして義勇軍の代表達の計9名であった。
只の9名ではない。
一刀が命を預かる9人なのだ。
更には、この9人の後ろには浚儀の町が控えているのだ。
ある意味で緊張するのも当然であった。
だが、だからこそ一刀は、そんな内心をおくびにも出してたまるかと平素な顔で淡々と続けるのだ。
「最初に言っておくが私は皆の才と働きとがあってこそ町を盛り上げる事が出来ると思っている。故に協力を頼む」
一刀は言外に期待しているという言葉を載せて、集った人間一人一人の目を見ながら告げる。
それは、掛け値なしの本音であった。
防衛戦闘によって荒れた浚儀を立て直すは決して簡単な事ではないのだ。
特に、この先代の太守と共に、実質的に浚儀を取り仕切っていた官吏たちが逃げ散っている状況でわ。
「我々だけで、ですか?」
不安げに言うのは残っていた官吏のまとめ役をしている文達子という男であった。
中肉中背と自信なさ顔立ちであったが、防衛戦では義勇軍の小隊を率いて前線で剣を振るっていたという現場肌の、肝を持った男だ。
その、肝を持った男が顔を曇らせているのは、現場の人間であったからこそ、官吏の多くが行方不明という浚儀の状況の困難さを理解しているからだろう。
浚儀に残っていた官吏達は下位の者達。
文達子も含めて命令を受ける事は慣れていても人に命令を出すことには慣れていない者達だったのだ。
命令を出すこと自体は、慣れさえすれば良いかもしれないが問題にはもう1つ、上の段階があった。
即ち、文達子も含めて浚儀に残った官吏には、上級官吏に要求される仕事が判る人間が一人も居ないという事である。
これは致命的ですらあった。
だが、その点に関しては事前に判っていた事なので一刀も手を打っていた。
「大丈夫だ。曹刺史にお願いして刺史府から人材を回してもらう手筈となっている」
新進気鋭の官吏、その一人として知られる田淑尚という女性と、それに甘義智という官吏としての経験も長く刺史府でも相談役の様な立ち居地であった老境の男性。この二人であった。
「それなら何とかなると思います」
「宜しく頼む。他の者で感じる問題点や疑問があれば素直に口に出して欲しい。無いか?」
かつての経験から、率直な議論こそ問題解決の糸口となると理解している一刀は、下からの意見を基本的に拒まない。
どの様な意見であれ、一旦は検討するようにしていた。
そんな一刀の雰囲気にあてられてか、文達以外の官吏も、口々に意見を言って来た。
一刀は、それら数々の質問を丁寧に捌いていく。
文官達の質問がある程度終わった時、それまで口を開かなかった武官 ―― 自警団の指揮官の一人と思しき女性が口を開いた。
「自分は義勇軍の楽文謙と申します。太守殿には質問がありますが、宜しいですか?」
四肢のみならず顔にも傷跡を持ち正に武人といった風貌である楽文謙だが、かなり礼儀正しく声を上げた。
対して一刀は、一緒に仕事をするのに礼儀正し過ぎても堅苦しいので、と返事をする。
「質問は何でも応えるが、殿はいらないよ」
「有難う御座います太守。では ――」
楽文謙の疑問は単純であった。
何故、自警団の解体を言われないのか、である。
官軍不在で身を守ろうと組織した自警団であるが、その官軍が来たのだから必要性は無くなったのではないかと文謙は感じていたのだ。
必要が無いのであれば、家族の下へと戻り、その生活を支えさせるべきではないのか、と。
それを一刀は、残念ながらと首を振る。
3000余名の賊の討伐や部隊練成を行う必要がある為、今、この町に駐留させられる戦力が無いのだと告げる。
「無理をすれば1000名程度の兵は置くことは出来るが、練成途上の部隊を置いていては、この町の復興を妨げる事になりかねない」
連度もだが、練成途中で規律の叩き込まれていない部隊を今の浚儀に置いては騒動の元にしかならない。
秩序が乱れた状況で力を持ったものが力の弱いものをどう扱うか。
どう見るか。
その結果、何が起きるかなど火を見るよりも明らかであった。
ソレを一刀は許すつもりは無いが、同時に人間故の限界から、それらを完全に防げないとも理解していた。
それ故の、自警団を維持であった。
「その様な理由でしたら是非はありません」
「形の上では浚儀太守、この場合は私北元譲の兵として徴募された事となりますので、給与も出ます」
「それは有難いの! 自警団の人間の大半は私達みたいな周辺の村々の人間だから ――」
それまで黙っていた女性が舌足らずな響きで声を上げた。
その声色に似て、ある意味で可愛いらしさを前面に押し出した格好をしているが、文官ではない所を見るに楽文謙と共に自警団の指揮官なのだろう。
と、その楽文謙が口を挟んだ。
「文則、先ずは自分の名を太守に報告してからだぞ」
「もー 凪ちゃんはお堅いの! 太守、私は于文則というのー それでね __ 」
大切な真名を他人の前で出してしまう辺り、この于文則という女性は少しばかり緩い所があるかもしれないが、その語る内容は真摯なものであった。
それは、避難民の処遇に関わる事だ。
避難民は基本的に近隣の村々から集った人々であり、着の身着のままに近い形で浚儀へと非難して来ていた人々であった。
この為、食料その他の生活物資が困窮しつつあるというのだ。
辺鄙な寒村の人間が現金などの持ち合わせがある筈も無く、買うことも出来ないで居るという。
「自警団に参加してくれた人たち以外も、何とかして欲しいの!」
「状況は判った」
即答も、安請け合いも出来る話ではないので、一刀が口に出来たのはそれだけであった。
感情としては話は別であるが、臨時とはいえ太守という立場は感情を素直に言葉にする事は許されないものなのだ。
その事は、就任1日目でしかない一刀も、深く理解していた。
いや、知っていた。
「対策は考える、避難民も見捨てたりはしない。それだけは約束する」
「感謝するの!!」
拙いながらも、しっかりとした礼を見せた于文則に、一刀が反応するよりも先に文武を問わずに皆が様々な事を訴えだした。
「たっ太守!! 実は ――」
「いやいや、この問題に関しても ――」
「この事に関しては前からの問題でして!! なので ――」
一刀が聞いてくれる人と判り、誰もが自分の意見を口にしてくる。
それらに対し、一刀は頷いたりしながら聞いていく。
但し、于文則へと行ったのと同じように言質は与えないようにし、検討する事だけを告げる。
これは全て、今の一刀の始まりである河内の寒村で相談役をしていた時に学んだ事からだった。
相談役時代に一刀は、質問や提案にその場で答えようとする余りに情報を飽和させてしまい、大失敗をしてしまったのだ。
後で村長に叱られ、そして思ったのだ。
自分は知識だけはある未熟な人間である、と。
それ故に、 一刀は相手の勢いに飲まれやすい状況下で考えるのではなく、質問や提案を一度預かり、冷静な状況で反芻し判断する様に心がけているのだった。
そして幾ばくかの時間が流れ、訴えがひと段落した頃合を見計らって、一刀は皆に声を掛ける。
「全ての問題に、即座に対処する事は難しいだろう。だが、私は決してあきらめるつもりは無い。皆、最初にも言ったが協力を頼む」
「はっ!!」
精一杯に背筋を伸ばして太守としての威儀を背負って言う一刀に、場に居た者は皆、此方も背筋を伸ばした礼をしていた。
自己紹介を終えてからは、昼も近かったのでと一刀主催の歓談会となった。
無礼講だ。
忌憚の無い意見を出し合い、又、英気を養って頑張ろうという事だ。
復興途上という事で酒は出せずに麦湯だが、典甜馳が用意した饅頭などの甘めの食べ物が用意されていた為、大いに盛り上がる事となる。
ただ、盛り上がった部分の多くは、先の防衛戦での活躍 ―― 手柄話であったが。
殆どの者が戦場に身を投じていたのだから、当然の話であった。
その中、流れで一刀に話が振られる。
曹家私兵隊副長、“壊剣” なる字名を持った将だから、ではない。
「その頬、どないしたん?」
李曼成の、実に直球な質問だった。
一刀は赤みが残った、腫れた頬をさらしていたのだから。
「いや、まぁ何だ」
言葉を濁して笑う一刀。
事実を、朝に帯が解けて肌を晒して、それを見た文若が激昂激発して叩かれたと等という冗談紛いの一件は、それを有りの儘に言うのは男子のと言う前に、上司の沽券に係わるのだから。
これも、一刀の寒村での経験からだった。
人の上に立つ際に、人を使う上での重要な事としての貫目、或は見栄と云うものが大事であると学んでいたのだ。
気を張りすぎる人間関係など一刀としても願い下げで、気安い人間関係こそ好むものであったが、人の上に立つという事はそういう事を言ってもいられないのだ。
親しみやすさも重要であるが、初見で他人から信じて貰う為には気安いだけでは駄目なのだから。
「色々とあってね」
なので、一刀は腫れた頬に手を当てて、真っ向から誤魔化した。
「その反応、女やな」
眼鏡をクイッと指先で直しながら追撃する李曼成。
当人としては邪推半分からかい半分であるが、それで正鵠を射た辺り実に洞察力がある。
とも角、無自覚の痛打に、思わず吹き出す一刀。
「ぶっ!? いやまて………」
慌てて訂正しようとするが、それよりも先に于文則が合いの手を入れた。
「えー! 太守って女好きなの!?」
身を守るように両手でわが身を抱いて、でも、挑発するかのように腰を振ってる。
一刀が地位を笠に着る手合いではないと見抜いてか、実にノリノリである。
とはいえ、そのまま乗せる訳にも行かないとばかりに一刀は機を制し、話をずらす。
「嫌いじゃないが、曹の旗下で不埒をすれば首が泣き別れになるからね」
首の前で手を振って見せた。
笑いの輪が広がる。
和やかな形で終わった歓談会であるが、浚儀復興の方は一筋縄ではいかなった。
浚儀という都市自体の被害は、破られた門が1つだけという事もあってそう大したものではなかったが、人の問題ともなれば話は別となってくる。
攻城戦での怪我人や、周辺からの避難民の事もあり、中々に混乱しているのだから。
この為、一刀を先頭に多くの人間が走り回る羽目になった。
“取りあえず” と言える仕事だけでも、門の修繕、怪我人の治療、食料の配布、避難民の住居確保と多岐にわたっているのだから当然だ。
その上で一刀が重視していたのは、治安の維持だった。
人は、衣食住もであるが安全であると思えてはじめて日常に、落ち着きを取り戻せるとの思いからだった。
「悪いが面倒事だ」
そう一刀が切り出した相手は、楽文謙だ。
浚儀太守軍の編成で忙しい中で太守執務室に呼び出された為、やや疲れは見えるものの、それ以上に面持ちには緊張の色があった。
というか初顔合わせの時よりも緊張している。
これは官軍、浚儀太守軍編成の為に曹家私兵隊から引き抜いた人間が一刀のアレコレを話した事が原因であった。
「はっ、はい!」
故に、声が上ずり気味になるのも仕方がない。
陳留刺史曹孟徳が腹心の一人。
“壊剣” なる異名を持った武人。
楽文謙の中の一刀像は、とても大きなものとなってしまったのだから。
「?」
尤も、そんな事は想像も出来ない一刀は、忙しいからであろうと推測し、楽にして欲しいと言う。
そして続ける。
治安維持目的の部隊編成を。
「治安維持が目的ですか?」
「ああ。専業という形でね」
「太守府の警護を拡大すると考えれば良い訳ですか?」
兵が持ち回りで行う重要拠点の警護の事かと早合点する楽文謙であるが、当然に違う。
一刀の念頭にあるのは、巡邏による予防活動と、犯罪などが発生した際の対応を主任務とする、事実上の警察官なのだから。
とはいえ警察機構を作る、作ろうと言う訳ではない。
最初から作り上げるのは困難であるし手間が係りすぎる。
そもそも人材が居ない。
だから、一刀が考えたのは官僚組織としての警察ではなく、地域に密着し巡視する “お巡りさん” であった。
「太守の差配される自警団、というところでしょうか?」
「その認識で良いよ。人員は浚儀太守軍から100名程を分派して編成したい。頼めるかな?」
任せたいという言葉に、一刀からの信頼を感じた楽文謙はしゃちほこばって拱手、返事をしていた。
「お任せ下さい!」
「有難う、頼むよ」
対して一刀は、何気なくも右手を出した。
握手。
見たことも無い仕草に楽文謙は戸惑い、それからおずおずとばかりにその手を両手で取ろうとする。
その右の手を一刀はさっと握る。
信愛であり、或は契約を結ぶ的な意味合いでの行動だ。
それだけだった。
だが、受け手は違う。
「太守!?」
裏返った声。
色恋よりも武を嗜み、意識して異性と触れ合った事すらトンと無かった楽文謙には刺激的であった。
ありすぎた。
思わずに頬を染めた楽文謙であるが、一刀は警察的組織作成への1山越えたと云う事の安堵感で気づかない。
「断られたらどうしようって思っていたんだ。大変だけど頑張ろうな」
「はいっ!!!」