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No.31383の一覧
[0] 既視感 (原作 東方project  オリジナル主人公)[LAI](2012/01/30 03:37)
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[31383] 既視感 (原作 東方project  オリジナル主人公)
Name: LAI◆606b75f7 ID:c1252455
Date: 2012/01/30 03:37
命蓮寺の境内。寺の大元となる建物は星蓮船そのものだが。
参拝者や人との付き合いが増えると共に、星蓮船の周りにいくつかの建物や沿道も整備されていった。
その建物群の中に。建物と建物にはさまれる形で、不自然に空いた一つの空間が合った。
建物同士の間にしては大きすぎる。そこに何か一つ、新しく建物を建てれるくらいの幅があるほど広かった。

別に何の目的があってそこに空間を作っているわけではなかった。少なくとも彼が知る限りは。
どういう経緯でここにこんな広い空間が出来たかは知らない。
少なくとも彼の中にある記憶では、自身がこの命蓮寺で世話になった時からこの空間は在ったような気がする。

しかし彼はその空間に対して何かを常に感じていた。

「○○・・・またこんな所で」
彼に声をかけるのはこの命蓮寺の住職。名前を聖白蓮と言う
その顔は酷く悲しそうだった。

彼はこの命蓮寺で修行者としてもう何年もお世話になっている。
「ここで修練を積んでいると。何でか分からないけどいつもより気が高ぶるんです」
彼はいつもこの場所で修練を積んでいる。
勿論この命蓮寺での彼の待遇が悪いわけではない。むしろ良いぐらいだ。

窓も棚もあるちゃんとした部屋も自室として与えられており。聖から好きに使って良いと言われている畳張りの道場も借りている。
しかし彼はそこでよりも、この奇妙な広場での修練の方が身が入るのだ。

どういう訳かは彼自身も分からなかった。
勿論借り受けている道場もありがたく使わしてもらっている。しかしそれでも稽古前の準備運動や黙想は道場よりも、もっぱらこちらで行っていた。

聖はその様子を見る度に、明らかにそうだと分かる悲しそうな表情を浮かべる。
「・・・ここで何かを感じるのですか?」
そんな質問を何度も問いかけられた。
感じないと言えば嘘になる。この空間に立つ度に既視感と違和感。その二つが入り混じったおかしな感覚を強く感じていた。
そして彼はその二つの感覚に、自分自身に関わる非常に大事な何かがあるように感じてならなかった。
妄執に近いとは思っていてもどうにもその妄執をどうにも否定できずにいた。

不意に聖が○○を抱き寄せる。前振れ、予兆のような物を感じられなかった○○はなすがままに抱きしめられる事となった。
「高ぶると言うよりは強張っていますよ。力の入り方も何だかぎこちないし」
背中をさすり頭も軽く押さえ、聖は自分の胸に○○を抱き寄せたまま離そうとしない。
でも、引き剥がそうと思えば出来る程度の力だった。しかし○○は抵抗しなかった。

妙なこだわりを持ち続ける事に対してのいくばくかの罪悪感と、抱きしめられる事に対するよこしまな気持ちが入り混じっていたから。
聖の胸にうずまる彼、よこしまな気持ちを自覚しながらも安らぎを感じていたが。
途端、彼の思考に何かが見えた。

彼の脳裏に、彼が記憶する限り恐らく無かったであろう場面が思い浮かぶ。
薄暗い部屋で聖と思われる女性が自分を見下ろしている場面が。不鮮明ながらも強烈に彼の脳裏をかすめる。
そのノイズのような思考に彼の体はビクンと波打つ。

「○○!?大丈夫?」
「ん・・・ああ大丈夫だよ。ごめん心配かけて」
その薄暗い部屋にも状況にも彼は見覚えは無かった・・・しかし彼は何度もこの場面が頭に浮かぶ。
その度に彼は言いようの無い不安感と不快感に襲われる。
今も立っている事も間々ならないくらいの脱力感に、冷や汗と油汗が混じったような気持ちの悪い何かが体に張り付いている。


「○○・・・今日はもう休んだら?」
力が抜け、地面にへたり込む○○を聖は優しく両肩を持ち支えながら一言声をかけえる。
「今日は外回りも終わったし、他に外に出る用事も無いから」
「毎日動いているんだからたまに休んだからって罰は当たらないわ。だから・・・ね?」
「・・・そうだな」
へたり込む○○の視線にあわせ、○○の目をじっと見つめ、やさしく微笑む聖の提案に彼はうなずいた。

「ごめんね○○・・・私を見上げる体勢が一番アレが見えるって知ってるのに」
聖を始め、命蓮寺の面々は○○が時折味わうこの奇妙な現象を知っている。
「聖には責任なんてまったく無いよ。ホントおかしな話だよあれは」
それに対して彼女達は非常に好意的に彼の事を見ていた。
彼は身に覚えの無いはずのおかしな感覚で迷惑をかけていると考えている為、その事について非常に申し訳なく思っていた。

その日は聖の言うとおりにこれと言った事はしなかった。
庭の見える縁側に座りまったりとする。まだ明るいうちにこういうことをやるのは久しぶりだな、そう
思いながら茶をすすっていた
「ねぇ、○○」

聖が○○の手に指を絡ませてくる。○○の方はそれに対しては抵抗はしなかった。
だが、近づこうとする聖に対して○○はその距離を一定に保とうとしていた。
「・・・まだ明るい」そうやんわりとも伝える。
聖のこういった行動はこれが初めてではない。



目を覚ました場所は彼の私室だった、窓から見る外は明るく雀の鳴き声が聞こえる。
あれだけの体の不調に関わらず寝覚めは非常にすっきりした物だった、だが。
「―ッ!」
あの時脳裏に浮かんだあの映像達を詳細に思い出そうとすると、頭の端に鈍痛が走る。
「○○」
聞き知った声が聞こえた。
勿論その人物とは聖白蓮だった、彼女は○○の横に自分の布団を敷き寝ていたようだ。
自分の回りを見ると何枚ものタオルに水を入れた桶が置かれていた。どうやら一晩中横について看病をしてくれたようだ。
「もう大丈夫なの?」
そう言いながら聖は○○の頬やおでこに手を当てる。
「うん、何とか。有難う聖、一晩中付いていてくれたんだね」
聖が頬やおでこにぺたぺたと触る手を、○○は自分の膝へと誘導する。

「何か、お腹が空いたな。皆朝ごはんはまだ?今からならお味噌汁と昨日の冷ご飯くらいは用意できるよ」
「大丈夫よ、朝ご飯なら一輪が用意してくれてるわ」
「お昼と晩御飯も一輪だけじゃなくて私や星に村紗、ナズーリンが手伝うから。○○は今日一日安静にしてればいいのよ」
聖は立ち上がろうとする○○を抱きしめながらその旨を伝えた。


朝食は一輪が気を利かしてお粥にしてくれた。それだけじゃなく漬物も一切れを更に二つか三つに切り分けてもくれていた。
皆お粥を食べている事に申し訳なく思った、普段命蓮寺での朝食はお粥ではなかったから。
自分の分の漬物も食べやすく切り分けてもくれているし、その優しさが身にしみる。

聖だけではなく、星、村紗、一輪、ナズーリンまでもが優しく接してくれた。
「今日一日といわず二三日寝て過ごしたらどうだ?」ナズーリンは特に優しかった。
ただ「だからと言って聖・・・○○は病み上がりなんだから」小言は無かったが、無言で分かっているよな?と言う視線を聖に送っていた。
この手の浮ついた話が嫌いではない村紗がニヤニヤとして、残りの2人は顔を赤くしていた。

普段○○が命蓮寺で行う雑務を5人が手分けして片付けてくれているため、この日の○○はやる事が何も無かった。
いっその事何か仕事をしていたほうが、彼の中に生まれた疑念は大きくならなかっただろう。
何もやる事がない、ゆっくりと出来る時間があればあるほど。皮肉な事に彼の思考は倒れる寸前に見たあの映像の事になる。
詳細に思い出そうとすればやはり頭に鈍痛が走る。
何故?こめかみを押さえ痛みに抗いながら、どうしてもその事に思考が傾く。
あの時、気を失う直前に抱いた疑念、その方向は明らかに聖の方を。
ひいてはこの命蓮寺全体へと疑念の矢は向いていった。
虎丸星、、村紗水蜜、雲居一輪、そしてナズーリン。皆聖とはとても長い付き合いだ、○○の比ではない。

○○は強い罪悪感を覚えずにはいられなかった。今朝だけじゃない、いつもいつも○○はこの命蓮寺の皆にとてもよくしてもらっている。
その恩を仇で返しているような気がしてならないのだ。

でも、でもこの感覚は何なのだ?記憶に無い、経験した事も無いはずのあの映像たちは何なのだ。
「つきとめよう」
これは何か悪い病気なのだその病根をつきとめ、排除しよう。
これ以上この事で命蓮寺の皆に迷惑をかけるのは、あまりにも忍びない。
そしてもし、その原因を作ったものがいたとすればただでは置かない。そう決心した。


件の広場の前で足を止める。
こめかみがジワジワと痛くなるのを感じる、一体この広場に何があるのだろうか。

「○○」
聖の声がした。振り返るともう○○と聖の距離は異常なほどに近かった。
その近さを感じるのが一瞬早かったかそれとも遅かったか、そのまま○○は聖に抱きしめられていた。
今度の抱きしめられ方は昨日とは違う。胸元に引き寄せるのではなく両手を背中に回して抱きつくような体勢だった。
確かに○○もこの体勢で例の映像が見えた事はない。

「○○、ここでは例の物が見えやすいんでしょう?」
「それに病み上がりなのだから今日一日くらいはゆっくり休んでも良いじゃない」
ふつふつと、罪悪感が湧き上がるのを感じていた。
この妙な感覚のせいで一体私はどれほど聖に。いや、命蓮寺の皆に迷惑をかけているのか。
それを思うと心がちくちくと痛みを感じて仕方が無い。
だから「聖、俺はあれの原因を元から断ち切りたいんだ」
その決心を聖に話した、勿論あの時生まれた疑念は話せなかった。
話せば聖は悲しむ、想像するだけで胸が締め付けられるのが分かった。

「・・・○○、別に無理に相手しようとしなくても良いんじゃないのかしら?」
「でも、アレのせいで命蓮寺の皆には迷惑を何度もかけている。せめてもう見えなくなるくらいには―

聖の提案に○○は異を唱えた、申し訳なさとこれ以上迷惑はかけれないという思いから。
しかし、その全てを言い切る前に○○の唇は聖の唇によってふさがれてしまった。
「大丈夫よ○○。私だけは最後の最後まで貴方の味方だから」
「穏やかな心で居ましょう、これから先も。無理に嫌な物と付き合う必要なんて無いわ」
聖の手が○○の頬を丁寧に、ゆっくりと、そして愛おしそうになぞって行く。

「あの広場の周りには目隠しのついたてを立てましょう」
聖の行動は早かった。その日の内にどこかから資材を運び込み、件の広場も大きな布で簡単な目隠しをこしらえていた。
次の日の昼にはもうついたては完成していた。
最も○○は布が張られた後の作業を見ていない。聖に手を引かれ彼女の部屋へと招かれ、ずっとそこで戯れていたから。
聖は何処吹く風と言った感じだが。○○は翌朝のナズーリンの顔を見るのが、少しばかり辛かった。


半ば呆然とした表情で○○はそのついたてを見ていた。
ちなみに、ついたてには空を翔ける星蓮船が描かれる予定だという。発起人は村紗らしくかなり張り切っていた。
その日から修練前の準備運動なども借り受けている道場で行う事となった。


「高ぶると言うよりは強張っていますよ。力の入り方も何だかぎこちないし」

広場で修練をしていた際に、聖から言われたこの言葉を時折思い出した。
聖の指摘は恐らく当たっていたのだろう。何となくだが体が軽いような気がする。
しかし、それでも気になる廊下で倒れこんだ時に見たあの映像、あれを思い出そうとすると相変わらず頭に鈍痛が走る。
その鈍痛のお陰で詳細に思い出す事ができないでも居る。
ただ聖の言ったとおり、無理に相手をしない事で気分自体は良かった。
以前ほどあの発作に怯えなくはなった。それはいいのだが。
それ自体はいいのだが。何かを忘れているような、そんな思いがふとしたときに脳裏をほんの少しだけかすめる。




この日は里での祭りの日だった。祭りは毎年盛大に行われ、神輿なども出る大掛かりな物だ。
「はい、熱いから気をつけてくださいね」
勿論命蓮寺の面々も祭りに参加している。この祭りで命蓮寺の面々は毎年炊き出しを行っている。

一輪は子供たちに出来るだけ噛み砕いた表現をした説法を。聖と星は里の上役の人達に挨拶に行ったり。
村紗は説法に飽きた子供達を船に乗っけて豪快に飛び回っている。
祭りの朝に「今日はいい風だぁー!」と息巻いていた、確かに今日の風は少々強く、火を大きくするのに難儀した。
ナズーリンは○○と一緒に炊き出しを引き受けている。
何度かぬえが村紗と組んで更に豪快な船飛ばしをやっているのをナズーリンが止めに入っているので度々○○1人になってしまってはいるが。

「お帰り、ナズーリン」
「クソ!寸でのところで逃げられた」
本日何度目かの捕り物も失敗に終わったようだ。
「ナズーリン、ここ任せていいかな?手伝ってくれてる人達に炊き出しを届けてくるから」
炊き出しの主催自体は命蓮寺だが。
それを運営するのに、例えば火を起こしたり材料を運んだり切ったり。等の仕事は里の人達にも手伝ってもらっていた。
「ああ、任されたよ」


「皆さん今日はお手伝いの方有難うございます。炊き出しを持ってきたので霧のいいところで皆さん召し上がってください」
「これは○○様わざわざ有難うございます」
応対に出てくれたのは里の寄り合いをまとめる、いくつかの班の班長だった。

「いえ、こちらこそいつも有難うございます」
彼は命蓮寺が里での活動をする際、里と命蓮寺を繋ぐ繋ぎ役として親交があった。
不思議な事だが、初めて彼を見たとき○○は既視感を覚えた。
どこかで会った様なそんな感覚だった。
「今年も朝早くから力仕事だったり火起こしだったり・・・色々働かせちゃって」
「いえそんな!滅相もございません」
彼は初対面のときから非常に礼儀正しかった。○○の倍以上の量と勢いでペコペコと頭も下げる。
「もう炊き出しの方は今釜にある分で終わりですので今日は有難うございました」
「そんな、まだ片づけが残ってます。それにあの釜も洗って命蓮寺にまで送らないと」
「毎年すいません、星蓮船で運ぶとは言えその直前の作業まで手伝ってもらって」

「おっとう。もう食べようよ~」
「まだだから、もうちょっと待ってろ。すいません○○様うちの息子が」
お互い気の使い合いと頭の下げあい。話の終着点が一向に見えなかった。
それに近くに居た彼の息子がぐずり始めた。
「では、器はそこらへんにおいて置いてください。後で取りに来ます、では」
大体話を切り上げるのは○○のほうからだった。それにこれ以上この場にとどまるのは何だが可愛そうだった。
○○が席を立たなければ彼も彼の息子もいつまでたっても食事にありつけそうも無い。
彼のほうは戻ろうとする○○に向かって深々とお辞儀をしていた。

だが今年は戻ろうとする直前で思わぬ邪魔が入った。


○○たちの居場所に一陣の風が吹いた。
朝からの強風はこの特大の風が吹く前触れだったのか、そう思った。
そう考えたがすぐにその事より大事な事に気づく。
○○たちの居場所にはいろんな物が置かれている、この風でその中にある何かが倒れたら大惨事に繋がりかねない。
○○は即座に倒れそうなものが無いか縦横無尽に視界を移動させた。そして―
「危ない!!」
一番恐れていた事だった彼の息子に掘っ立て小屋の支柱が一直線に降ろうとしていた。

辺りを色々な物が崩れる音と砂ぼこりが襲う。
「くっ・・・」背中に重みを感じる支柱が自分に当たったのだろうかいやそれよりも。
○○は子供の方が心配だった。抱きかかえるのは間に合わないと踏んでせめて直撃だけでも避けようと突き飛ばしたのだった。
「「大丈夫か!?」」
「うああああん!!」
真正面には腕や足にすりむき傷を負った彼の子供が泣いていた。頭には怪我が無いようだ。
そして○○は妙な感覚に気が付く。自分以外の誰かがほぼ同時に同じような事を言った。

違和感の正体は別になんて事のないものだった、ついでに重さの正体もたいしたことはなかった。
重さのほうはただ彼が、息子を助けようとする際、一瞬早かった○○の背中に覆いかぶさっていただけで。
声もたまたま偶然重なっただけだった。
「ああなんだ、貴方でしたか」
彼のほうはまさか○○の上に覆いかぶさっているとは思わず、それを確認すると飛び上がった
○○の方はその事には全く気にもせず、子供の無事を喜びながらほがらかな顔で立ち上がった。

それだけの事のはずだった。彼の息子には大事も無く、ただそれだけの事と思った。
これは○○にとっても予想外の事だった、あの映像がまた見えたのだ。
そして今度は始めて感じる感覚が合った。
聖白蓮に見下ろされているあの映像が見えたとき、○○は誰かに組み伏せられているような感覚を味わった。
今までのようなざらつく感情と言った抽象的なものとは違った痛みのようなもの。
そして同時に○○の頭へと襲ってくる鈍痛、○○は思わず顔を歪ませこめかみを押さえる。
彼の方はその様子に○○を気遣う言葉をかけるが。
気遣われていると言うのが理解できるだけでどんな言葉かの判別もあやふやな状態だった。

「い・・・いえ大丈夫ですよ。じゃ、じゃあ・・・私はこれ・・・・・・で」
痛みから来る苦悶の表情が多分に入り混じった笑顔で場を繕い立ち去ろうとするが。
歩こうとする足が絡まり、その場に倒れこんでしまった。
周りの人間が○○の名を呼ぶのが聞こえる。
意識が朦朧としてそんな声もぼやけていく中でも、キリキリと痛みを増す鈍痛だけは鮮やかだった



病床で○○は決心を新たにした。
一度は聖の説得に折れたが、そのやり方では根本的な解決にはなっていない。
今は茨の道を進むべきだ。

目隠し目的で立てられた、例のついたてには星蓮船の下絵が描かれている。
あの奇妙な広場に何があるかは分からない、でも廊下で倒れた際あそこの事を考えていた。
そうでなくても、あの場所には常に○○は言葉で言い表せない違和感を覚え続けていた。
寄合の班長である彼が覆いかぶさったときに何故見えたのかは分からないが、もしかしたら何かの条件とたまたま一致していたのかもしれない。

ただ、そちらよりもあの広場の方。こっちの方が真相に近いと思えていた。
とにかくあのついたての中に入ろう。ついたては出入り口といえるものは何も無いただの壁だ。
しかし今は絵を書くための足場がある、それを利用すれば何とか入れないことも無いはずだ。
○○は頭の中であの広場への潜入方法をずっと思案していた。
この事は聖は勿論、命蓮寺の誰にも言っていない。
二回目の昏倒という事であれからの聖は益々○○にべったりだった。特に変わった点は毎晩同じ部屋で寝るようになった事だろう。
今も、深夜明かりの消えた部屋で布団を二つくっつけて、布団のしたでは聖と手を握っている。
だから好機がいつ訪れるかはわからない。
それでも○○は思案をやめなかった。広場のことを思い出しながら、例の映像のことを思い出しながら。
無論、それらを考える際いつもの鈍痛が○○を襲う。
その鈍痛は、考えれば考えるほどキリキリと痛みを増していく。

鈍痛を感じるのを、聖に気づかれぬよう。寝床では聖が握っているのとは反対の手を敷布団が破れるのではないかと言う強さで握りしめ、痛みと戦った。
風呂場で、厠で、道場で。1人になれたときはその事ばかりを考えていた。
それと平行してあのついたての中に入る算段も立てていた。

星蓮船の下絵を描く為に組まれている足場、あれを使わない手は無いだろう。
手ごろな長さの縄も見つけておいた。後は好機が来る前に、あのついたてに星蓮船が描き終わらない事を祈るだけだった。



その夜、○○は夢を見ていた。夢の中にいたが、これは夢だとわかる状態にあった。
しかし体の自由、何をどうしたいと言う意思は働かなかった。いつか里で見た活動写真、あれを見ているかのような感覚だった。
夢で見る場所は薄暗く、採光用の小さい窓からほんの少し、全体を照らすには全く足りない量の光があるだけだった。
そこで男は土を掘っていた、床板の一部からはがせる場所を見つけその下の土を一心不乱に掘り返していた。
そして何かを掘り返した穴に入れると、今度はその穴をふさぎ始めた。
穴を厳重にふさぎ、床板も閉じて男は立ち上がった。
その足は出口と思われる場所へと向いていた。
「駄目だ出るな!大人しくしろ!!見つかる!!!」

その夢は、自分の声で目が覚めると言う結末を迎えた。
場面は夢の中の薄暗さから一変、朝日がさんさんと降り注ぐ自室へと移っていた。
○○自身、何故夢の場面にここまでの大声を出したのかは分からなかった。
でも、そう言わなければならないような気がして、言った所で無駄なのは分かっているのに。

声に驚いたのは○○だけではなかった。
○○の隣に寝ていた聖、そしてドタドタとナズーリンが、星が、村紗が、一輪が。
結局○○の大声は命蓮寺の面々を全員呼び寄せてしまった。
「妙な夢でも見たの?」
聖の問いかけに「うん・・・そうかも」と歯切れの悪い返事しか浮かばなかった。
あの男は誰なのだろう?そして何をしていたのだ?
飛び起きた直後は分からなかったが。その事を考えると頭の端に、いつもの鈍痛が少し走ったから。
これも関係があるのだろうか、そう考えずにはいられなかった。
「・・・・・・何だ大したことではなかったようだな」
いくらかの間を置いてナズーリンがそう言った。そういう事にしておこう、○○はとりあえずこの場を納める事を優先した。

いつもの朝食後、○○は周りに人が居ない事を確認して、夢の内容を思い返していた。
思い返そうとすればやはり、鈍痛が走った。
だがこの痛みも随分慣れたような気もする。
無理をしなければ、縁側で倒れたときや、祭りで倒れた時のような大きさの痛みにまでは成長しない。
少しずつ体が慣れていっているのかもしれない。

「○○~」
不意に聖に後ろから抱きつかれた。
「○○大丈夫?」
恐らく今朝のことを言っているのだろう「ああ、何てことは無いよ」
嘘はついていない、鈍痛もまだまだ耐えられる程度だったから。
「○○、今日は私夜から里の方に行かなくちゃならないのは覚えていますよね?」
聖の言っているのは里の行事の事だ。
この間の祭りも今日の行事の一環だった、農作物の収穫を迎える秋を控え、豊穣神に祈りをささげる大きな行事の一環だ。
その最後を飾る行事が今日の夜から夜明けにかけて行われる。大きな火も炊いて、祈りと念仏をささげ続けるそうだ。

○○は好機が来た事をこの時気づいた。
夢の事に頭が回って、今朝は完全に忘れてしまっていた。
「大丈夫だよ聖」相変わらず○○の肌をなぞる聖の手に触れながら、そうとだけ答えた。

その夜○○は行動を起こした。
夜も深い頃、ゆっくりと○○は寝床を後にする。始めに厠に行き誰かが気づいていないかの確認も怠らなかった。
誰も気づいていない、その事を確認した○○は、そのまま足を寝床にではなく手ごろな縄を調達しに敷地内の倉に向かう。
はやる心を抑え、平常心で○○は縄の用意を終え、絵を描くために組まれている足場を上っていく。
今考える事はついたての中に入る事だけだった。それ以外の、特にあの映像たちの事は徹底的に押し殺していた。
その事が頭をかすめればまた鈍痛が襲うだろう。
ついたての中は闇に満ちていた。
ツツツとついたての底を目指しながら、今手に握られている縄がクモの糸のようだと○○は錯覚した。

地面に降り立ち、用意しておいたろうそくに火打石で火をつける。
四方を壁に囲まれ、一寸先も見えなかったため火を灯すのに難儀した、もう少し計画を練っておけばよかった。

ようやく灯した火もこの闇の中では心もとない物だった。壁がようやく判別できるか?と言った程度だった。
ろうそくを地面に固定して辺りを見回す。ここで○○は思考の封を解いた。
ギリギリと、頭の端に慣れ親しみたくもない、あの痛みが噴出してくるのが分かった。
その痛みはすぐに大きくなり、○○は膝から崩れ落ちた。
それでも思考は止めなかった。
時間と共に、痛みの他○○の体に冷や汗や油汗が張り付く。

夢の事、映像の事、そして祭りの日に感じた組み伏せられるような感覚。
奥歯をかみ締め、痛みを無視し、抗いながらそれらを思い出していく。
特にあの夢、あの夢には前後が必ずあるはずだ。そしてその前後は映像や祭りのときの感覚へと繋がる。
確証は無かった、強いてあげるならどれを思い出してもいつもの鈍痛が襲う、それくらいだった。
でも確信はしていた、その直感を信じて○○は今ここにいる。
徐々に映像たちの記憶が鮮明さを取り戻していく。あの時縁側で見たような映像、○○はあれを欲していた。
そしてあるはずの無い建物の事も。

「・・・ッ!」
建物の事へ思考が移ると○○はハッと顔を見上げた、声はすんでの所で押し殺した。
○○は垂れ下がる縄の位置から方位を判断し、這いずり回りながらあることを確認しようとした。
「ここが入り口・・・向こう側の壁に明り取りの窓・・・・・・階段・・・」
「ここ・・・?ここに建物があった・・・・・・?」
○○は自分で自分の判断を疑った。でも何度考えてもそうとしか思えなかった、何故だか確信めいたものが○○の中にはあった。
「同じ・・・?敷地の広さも・・・・・・」
記憶の中のあるはずの無い建物。
その記憶の中で感じた敷地の広さ。特に直線距離と、ついたての中の広さは同じだと○○の直感はそう告げていた。

○○は直感を頼りにある場所まで這いずり寄った。
そしてその土を必死に掘り返そうとした、しかし土は固くとても手で掘れる固さではない。
「そうだ・・・あの時はスコップ代わりになるものがそこらにあったから」
不意に口をついて出た言葉に○○は何も感じる事は無かった。
今の○○の頭の中はとにかく土を掘り返す事で頭が一杯だった、何故か?
底に自分の求めているものがあると確信したから、そこに隠した事を体が思い出したから。
○○は着ているものを手に巻き、固い土を掘り返す為の保護具とした。

ガリガリゴリゴリと、布の上からでも石ころなどで皮膚が破れ血がにじみ出るのがわかる。
それでも○○は掘るのをやめなかった。

「―合った!」
そしてついに見つけた、一つの箱を。
箱の中身は一冊の本だった。それを取り出すと、箱は投げ捨てた。
そして小さな小さなろうそくの光で本の中身を読み始めた。








○○は息を押し殺し、薄暗い建物の中に居た。唯一ある明り取りの窓から差し込む光を頼りにあることを記録し続ける。
その記録とは、自分が命蓮寺の住職聖白蓮とどのように知り合い。仲良くなり、そして彼女の元から逃げたか。
そして何故今この薄暗い建物の中に身を潜めているのか。

始めは興味だった。この幻想郷から、結界の外に出るのにも時期が必要だし、巫女にいくらかのお布施を渡さねばならない。
そう聞いたから。ここで働きながら仮住まいをし、時期を待ちながら巫女に渡す布施を貯めていた。

それでも、毎日毎日働いて帰って寝るだけの生活はとても味気の無い物だ。すぐに飽きる。
娯楽と言える物も少なかった為、普段なら絶対に聞かないであろう説法に興味が向くのもある意味当然だったのかもしれない。
その説法会で○○は聖白蓮と知り合った。

「貴方・・・何だか雰囲気が違いますね」
「外から来ました、やっぱり分かりますか?」
説法会の終わりに彼女が声をかけた、それが○○と聖白蓮との最初の会話だった。

「よろしければ次も来て下さいね」
「ええ、有難うございます」
最初の会話はそれだけで終わった。

「あら、また来てくれたんですね」
「ああ言われたら来なくちゃ悪いでしょう」
二回目の会話も簡単な物だった。
それから何度か○○は説法会に参加し聖白蓮と会話をするようになる。
挨拶から世間話へ、世間話から身の上話へ、徐々に会話の内容は濃くなっていった。


「貴方は私の話を一番よく聞いてくれます」
○○にとってかなり意外な言葉だった。
幻想郷で生まれ幻想郷で育ち、彼女のような存在が身近な者達より自分の方が酔う聞いてくれるという印象を持っている事に。

そして。
「少し羨ましいかな」
「何なら簡単な物をお教えしましょうか?外に出ちゃったら使えなくなるでしょうけど」
聖白蓮の使う法力、○○はそれに興味を持った。
まだしばらくこの幻想郷の厄介になりそうで、何か一つ習い事を始めてもいいかな。
そんな軽い気持ちだった。

それから○○は説法会の無い日も、度々命蓮寺へと足を運ぶようになった。
そして聖白蓮のもっと深い、彼女の半生の深い深い所までも彼女は○○に話してくれるようになった。


この頃聖白蓮の心中は穏やかではなかった。
実弟、命蓮の死。○○と交流するようになってから彼女は久方ぶりにそのときの感情を思い出した。
あの時は自分が老いさらばえるのが怖くて、だから妖怪達と付き合い、妖怪の力を手に入れ、自身の不老長寿の為に使った。
そしていつしか、虐げられる妖怪に同情心を抱くようになり、妖怪と人間の共存を考え出した折に聖は封印された。

その気持ちに嘘偽りは無い、でも。
今目の前にいる○○が老いさらばえる姿、それを想像するのがたまらなく怖くなってしまったのだ。
その気持ちが芽生え始めた頃「羨ましいかな、そんな力が使えて」○○が自身の法力に興味を持った。
聖は法力で不老長寿を手に入れた、なら○○にも。○○にも法力の手ほどきを与えれば自身と同じような存在になれるはずだ。
不可能ではない、いや十分可能だ。
でも○○の心は帰る事を望んでいる。不老長寿になれば幻想郷の外で暮らすには不便極まりない。
きっと○○は踏み込まないだろう。ズズズと湯飲みを動かす程度の法力で○○は満足するだろう。

いつしか聖は、○○が老いさらばえるか幻想郷から居なくなる事を、命蓮を失った悲しみとをだぶらせる様になってしまった。
その事を寺の皆に相談した。

ナズーリンは深いため息をついた。星と村紗、一輪の表情は三者とも沈痛な面持ちだった。
いくらかの沈黙の後、村紗が口を開いた「聖の封印中に、皆同じところに傷を持っちゃったんだよね」
「・・・思い出したくも無い」ナズーリンが掃き捨てる。
「分かってはいたのよ、だから出来るだけ仲良くならないように気をつけたのに」一輪の目にはうっすらと涙が。
「・・・・・・厄介なものですあの感情は」星が目を閉じながら呟く。

同じだったのだ皆。皆聖の封印中に誰かを好きになっていたのだった。
「苦行は無意味なものなのよね・・・」一輪が呟く。
「何でこの事の意味をもっと早くに・・・あの頃に理解しなかったのかしら」何かを思い出しながら一輪が机に突っ伏す。
「悟りたい、煩悩を捨て去りたいと言う気持ちそのものが煩悩なんですよね」星があさっての方向を見ながら言う。
「今更気づいたって・・・」ナズーリンが頬杖をつく。
「でも聖はまだ間に合うよね・・・」

村紗の一言に場の空気が固まった。それは冷えて固まったのではない、皆様々な思考を巡らしていたから固まっただけだった。
特に聖白蓮「・・・・・・良いの?私だけ」考えが回りすぎてやっと出た言葉だった。
「私が味わった苦しみをお前も味わえなんて言える訳無いじゃない」珍しく見る村紗の真面目な顔つきだった。
「・・・・・・反対は出来ない」ナズーリンが言葉を搾り出す。
「私は村紗と同じ意見よ」一輪の声には語気があった。
「・・・決まりですね」星が場を固めた。

やると言うなら協力する。それが皆の総意だった、後は聖の決意待ちだった。
村紗が聖の背中を押しまくり、他の三人がそれをなだめつつ静観しどちらに傾くかは分からないが、聖の決断を待っている状況だった。

皆の協力は約束された、後は聖がやると言えばすぐに行動へと移されるだろう。
○○と共にいたいと思う気持ちは真実の物だった、しかし。
それを実現させれば、○○の意思を気持ちを無碍にしてしまう。
それを考えると、後もう一歩が踏み込めない。

「まだまだ立った方が早いってくらいですね」
聖に法力の手ほどきを受ける○○は、人差し指をクイッっと何度も自分の方へ曲げ、湯飲みを動かしていた。
と言っても聖と比べればまだまだ甘い物で、2~30回曲げてようやく半分ほど来たかと言う程度だった。
聖の心中など知る由も無い○○は無邪気だった、数百年の時をゆうに生きている白蓮の目には余計に。
「まだ途中で法力がばらばらになってしまっているわね、体の中でしっかり練らないと」
そう言って聖は、○○の手に触れる。

ただ、普通の触れ方ではなかった、教え子の手を取り教えるような触れ方ではない。
○○の指と指の間に絡みつくように、聖の指は動いている。無論、聖の方はある程度意識している。
「―聖さん?」
○○の方は度々こういった行動を起こす聖白蓮に困惑気味だった。始めはからかわれていると思っていた。

聖白蓮が○○の十倍以上の時間を生きている事は知っていた。
そして妖怪とであった事や、妖怪と人間の共存を目指した事、封印された事。
自分とはまるで比べようも無い濃く、重厚な歴史を生きた彼女にとって、自分へのこの行動は遊びと言うか、反応を見て楽しむ程度の事だと思っていた。
だが、どうにも違うような気がするのは、徐々に感じ取っていた。
注意深く聖の行動を見ていると、法力を教わり始めた頃に比べ肌の触れ合う回数、時間、そして聖と○○の身体的な距離が近くなっている。
そして、自分の心の中に聖白蓮の存在が日増しに大きくなっているのも、○○は確かに感じ取っていた。

○○にとっての幻想郷は仮住まい、のはずだ。今でもそのつもりだが。
“いつかは帰る”この言葉の後ろに、多分だとか思うが入り込むようになっていた。
以前と違って言い切ることが出来なくなっていた。その理由ははっきりとしている。
聖白蓮だ、外に帰れば彼女と会うことはもう絶対に出来ない。
その事実が、○○の後ろ髪を引っ張る。






「お話とは何でしょうか?」
星はこの時、里の人間達と話をしていた。
しかも、普段はあまり顔を見せないような指導者層までいた。
「単刀直入に話します・・・○○と言う男についてです」
○○、その名前が出たと同時に星は口を開く男の眼を覗き込んだ。
その色に、ジワリと黒いものが心に広がるのが分かった、一番嫌いな色だったから。

残念な事だが、人妖問わず全ての者と分かり合う事はできない。
妖怪の場合は強いほど、自身の主張を押し通したがる。
その為、荒事にまで発展した経験は数知れない。

そして人間の方は、弱いほど媚びる。その弱さとは腕っ節ではない。
胆力や肝、そういったものが小さい者ほど媚びは大きくなる。
恐らく目の前の彼等は、肝が小さい故に見境無く取って食う妖怪との区別がいまいち付かないでいるのだろう。

聖はそういった人間にも、改心の機会を、考え直せるだけの知識を与え続けている。
それでも、考え直せない輩の方が多いのは事実だった。
その反面、○○の事を好ましく思っていた。
媚びたり、へつらったり、ゴマすり、おべっか、太鼓持ち。
そう言った邪念無く、○○は説法を純粋な興味で聞きに来ていた。

「いや・・・本当の事を言うと暇を持て余して」
それでも良かった。義務感で来ている様な輩に話すよりずっと話し甲斐がある。
村紗も一輪もナズーリンも。表には出さないが同じような事を思っていた。
一輪の場合はもう諦めて」しまったのか、最近では説法の相手を子供へと変えていた。
まだ偏見や色眼鏡を知らない子供ならあるいはと思っているのだろう。

でも、こいつ等みたいなのが親ではな。
茶をすするが、ドロドロとした思考はとどまる所を知らない。
その思考に相対しながら、自身の未熟さを、なおも諦めない聖の尊さを再確認していた。

「○○さんがどうかしましたか?彼は優しく純粋な人ですよ」
後半の一言を付け加えずにいられなかった。
「いえ、その・・・最近聖様と○○がとても仲よさそうに」
「ああ、いえ。それ自体はとてもよろしい事です」
早く終わらないかな、星は殆ど聞き流している状態だった。

「○○は外から来たもので、いずれは帰ると心に決めているようですが」
聖が決意できないのは十中八九これが原因だろうな・・・大筋を見失わない程度に、相変わらず聞き流していた
「もし・・・命蓮寺の方々も○○の事を良いと言うなら」


「我々が、○○が幻想郷に定住するよう説得しても構いません」
その一言に、星の思考は固まった。
すすり掛けていた湯飲みもピタリと止まり、瞬きもせず思考の渦にとらわれていた。
―ああ、こいつら
そしてその思考の渦から抜け出た時に導き出した結論は。


―――こいつら、○○を生贄にするつもりだ。
その結論、いや事実を前に、星の顔は。
里の者達から小さい悲鳴が漏れた。
湯飲みを下ろす星の顔は、もう一度作れと言われても無理だ。
そう自分でも分かるくらいに目の笑っていない笑顔が張り付いていた。



「聖の意見を聞きませんと、自分でやりたいと言うかもしれませんし」
そう言って、星は里の者達にはお引取り願った。

「ナズーリン」
里の者達の姿が完全に見えなくなった頃、星は自身の従者の名を口にした。
戸が開く、無論その戸を開いたのはナズーリンに他ならない。
こういう時、何かあった際にすぐに行動に移せるよう、星はナズーリンを隠れさせて会話を聞かせるようにしていた。
「聞いていたでしょう?気づかれぬように追ってください、それと塩も」
「もう私の配下のネズミにつけさせているよ、塩の方は今もって来るよ」
その答えを聞いて星の口元がほころぶ。やはり私はいい部下を持ったと言う気持ちから。
だがそんな気持ちもすぐに消えてなくなった、今後の事を考えるとどうしても。
「・・・聖にはなんと説明しましょうか」頭の痛い問題だった。



自宅で○○は、聖白蓮に触れられた時の感触を思い出していた。
寝転びながら、触れられた方の手を握ったり開いたり、もう片方の手で撫でてみたり。
そして○○の脳裏に思い出される、聖白蓮の柔らかな笑顔。
○○は魅かれていた、聖白蓮に。

「不味いぞ・・・」
何が不味いか・・・考えればすぐにわかることだ。
幻想郷は外界から隔絶された場所だ。
自分のような外の人間が入り込む事など例外中の例外、基本所か普通は行き来できるような場所では無い。
帰ることは何とか可能だ、しかし再び入り込む事は、知識も技術も持ち合わせていない○○には不可能であった。
だからここで構築された人間関係は、帰るときは綺麗さっぱり捨て去らなければならない。

「どこから間違ったんだ・・・?」
この時の○○の中にある“帰りたい”と言う思いは、もろい物となっていた。
始めは断言できなくなり、徐々に帰りたくないと言う思いが強くなり。
そしてついに帰りたいと言う思いと帰りたくないと言う思いが拮抗するようになった。
あちらを立てれば、こちらが立たなくなる二律背反。
強力なジレンマの中に○○は放り込まれてしまった、その事にようやく気づいた。

そして更に間の悪いことに、里の人間達との付き合いが徐々に深くなっていった。
向こうから声をかけてくれるようになった、挨拶以上の会話をする事も珍しくなくなった、宴会に誘われた事もあった。
その宴会の場で、それとなく○○と聖白蓮の関係を軽く茶化されたりもしていた。
聖白蓮と、そして里の人達との人間関係が深くなればなるほど、○○は更に幻想郷と言う土地に情の面で縛り付けられるようになった。

「・・・・・・あっ」
そしてこの時、○○はある重大な事を。それは○○にとってショックな事だった。
「・・・思い出せない」
幻想郷と外の世界、これらを考え比べていた時、しっかりと思い出せなかったのだ。
外にいる親兄弟や、友人知人の顔や名前を。




星は村紗と一輪に仔細を話した。
仔細といっても、今日里の者達に言われた事をかいつまんで話しただけだったが、それだけで十分だった。
村紗は「ああ・・・そう」と投げやりな返事だった、一輪のほうは何も言わずただ渋い顔をしていた。
「・・・・・・姐さんに話すの?」
一輪の星に対する問いかけに答えが詰まった、村紗は寝転がって草子本を読んでいた。
「一つ私見を言ってもいいかな?」
「・・・言ってください」
星は問いかけに答えを出せず、村紗に至っては、はなから会話に参加する気が無く、ナズーリンの意見を聞くしかなかった。

「多分もう無理だと思う、この手のやりかたは初めてじゃないと思うんだ」
「・・・と言いますと?」
「○○に対する包囲網は確実に出来上がっている、我々が実力行使しない限りは解かれる事はないだろう」
「それは・・・ネズミの報告から導き出した結論ですか?」
ナズーリンは黙って首を縦に振った。

「初めてじゃないって事は・・・私たちが幻想郷に来る前からこういう事があったって事?」
渋い顔を浮かべたまま、一輪がナズーリンに問いかけた。
「そうだ、地縁も血縁も無い外の人間は、格好の生贄なんだよ」
「ネズミが聞いてきた会話と、奴等の手際のよさ・・・明らかに何度も経験した動きだよ」
ナズーリンの答えに、一輪の顔が更に渋い表情へと変わって行った。
「私は聖が幸せならそれでいいよ」

村紗が本から目を離さずに口を開いて来た。
「○○の事は多分心配ないよ、聖と一緒なら・・・聖も○○を悪い風にはしないし、それは私たちが一番よく分かってるでしょ」
「それに、多分聖と一緒に居た方が、○○にとっては最終的に幸せだと思うんだ」
聖と一緒に居た方が○○は幸せ。その一言を言うときだけ、村紗は起き上がり、本から目を離して言った。
それを言い終わったら、また村紗は寝転がった。

他の三人も村紗の意見に近かった。
「急がないと・・・○○酷い事されちゃうかもよ」
寝転んだ村紗は、最後に村紗はそう付け加えた。




聖の情念は日増しに強くなっていった。
○○が来ない日は、これからの事をずっと考えていた。
○○に思いを伝えるべきか否か、○○に幻想郷に居て欲しいと言うべきか否か。
その事を考える聖は、境内の掃除もおぼつかない、四角い部屋を丸く掃くどころではない大雑把な動きだった。

この日は、一輪は里の方で子供達相手に説法を。
星はお堂にこもり、村紗は鵺と遊びに、ナズーリンは朝からどこかへ出かけてしまった。
その為今この場所では、聖1人がうろうろとしていた。

「聖様」
不意に、○○の事で一杯になっていた聖の頭は誰かの呼び声で現実へと戻された。
聖の名を呼んだのは、里の人間だった。
「あら、こんにちは。今日はどんな御用でしょうか?」
「聖様もご機嫌うるわしゅう・・・今日は寄進に参りました」
確かに男の手には食べ物らしき物と、揺れるたびにジャラジャラと音が鳴る、銭のようなものがあった。

「いつも有難うございます」
聖は努めて冷静に振舞っていた。命蓮寺の面々はともかく、他の者に自身の心のぐらつきを悟られては、○○に迷惑がかかると思い。
「では、こちらに寄進帳がありますので。どうぞ書いて行って下さい」
傍から見れば、聖の様子は平静そのものだった。
「今日は○○はきていないのですね」
○○の名が男の口から飛び出すまでは。


始めは心の中が少し波紋を立てただけだった、すぐに立て直す事ができた。
「・・・ええ、毎日来ているわけではありませんから。今日はお仕事をなされていると思いますよ」
「聖様は○○と随分仲がよろしいようで」
男は笑顔で話を続けた。
「・・・聖様は、○○の事をどう思われていられますか?」
男はなおも○○の話題を出し続けた、男は聖の顔を覗き続けた。
「え・・・ええ、とても私の話をよく聞いてくれて、その・・・」
聖は、男の問いかけに対して、流暢に答える事が出来なかった。聖は必死で、○○に対する好意を隠していた。
あくまでも、自身を慕う信者以上の感情を出さないように踏ん張っていた。
「聖様は、気に入っておられるのですか?○○の事を」
男は矢継ぎ早に質問を続ける、そしてついに。
「ええ・・・・・・ここ最近であった人間の中では・・・一番・・・・・・好きですね」
最後に付け加えた言葉、聖はこの言葉は濁せばよかった、言い終わってから後悔した。
「そうですか!」
だがもう遅い、覆水盆に返らず、その一言ははっきりと男の耳に届いた。

誰かが階段を駆け上がる音が聞こえて来た、その音は一つではなく二つだった。
命蓮寺に飛び込んできた二つの音の正体は、星とナズーリンだった。
聖は混乱した、ナズーリンの姿は朝から出ているから不思議ではない、しかし星は。
星は今、お堂にこもっているはずではなかったのか?
「・・・・・・では聖様、ごきげんよう」
男の方は何か不穏な空気を感じたのか、寄進帳に署名もせず足早に帰ってしまった。


ナズーリンは一瞬戸惑った、男を取り押さえるか、聖の方に駆け寄るかで。
しかし「もう遅い・・・私達の失策です、聖を一人にしてしまった」星が小さくそう呟いた、あの様子では聖の心のうちは多分気づかれてしまった。
それで、せめて足早に去る男を横目で睨みながら、聖の方へと駆け寄った。

「わ・・・私・・・・・・もしかしてとんでもない事を・・・・・・」
「落ち着いてください聖、貴女は悪くありません。ナズーリンとにかく聖を奥に運びましょう」
「・・・ああ」
まだ諦めきれないのか、ナズーリンは後ろをチラチラと見ていた。



結局、最悪の形で聖は真相を知る事となった。
星とナズーリンは全てを伝えた。里からの提案を、幻想郷の裏の顔を、○○が生贄候補になった事を。
真相を知った聖は泣いていた。自分のせいで○○に迷惑がかかっていると考えているから。
今聖は星の付き添いの元、床に入っている。
残された者はこれからの事を話し合っていた。
「もう時間がない!明日○○は来るんでしょう?その時に動けば良い!」
その席で、村紗は他の2人を圧倒していた。
村紗から出る言葉の勢いに、2人は明確な反論を出せずに居た。

「荒事は姐さんも望んでいないわ」
「あいつ等に任せた方がもっと荒っぽい事になる!」
一輪のなだめの返しには。里への不信感が。

「やるにしても、それは最終手段だ。まずは聖から○○に思いを伝えさせよう」
「もう遅いの!これが駄目だったらあれ、あれも駄目だったらそれをって言う時間はないって分かってるでしょ!?」
そしてナズーリンの代案にも譲らず、議論とは程遠い村紗の主張が飛ぶだけの独演会状態だった。
二人の意見にも語気を緩めない為その様相は益々濃いものとなっていた。

「ナズーリンの言うとおりです・・・聖に少しだけ時間を与えましょう」
そんな熱された場は、星の登場で一旦冷まされた。
「時間って?」
それでも村紗の勢いはまだまだ強いままだった。
「明日○○が来ます、その時聖は○○に思いを伝えます」
「二人きりにしてあげましょう。我々はどう考えても外野です、盗み聞きも許しません」
村紗の語気と勢いに負けぬよう、星は言いよどむことなく、はっきりとした言葉で伝えた。
星の凛とした言葉は、明らかに村紗を意識した物だった。
熱くなり過ぎた村紗は何をするか分からない。
最終手段を取る取らないよりも、野暮な真似を慎ませるのが目的だった。

「聖は、確かにそういったの?」
「はい、はっきりと。疑ってますか?」
そんな事はないけど・・・と。語気は緩んだが、村紗はまだまだ不満気な顔を隠さなかった。
「そもそも・・・一輪の言うとおり荒事も聖は望んでいません」
「彼が悩みぬいて出した結論なら・・・聖は受け入れます」
「それくらいの器量があることくらい、私達は知っているでしょう?」
ここに来て、星の声と顔は徐々に優しい物となった。

「私たちが同じところに傷を持ってしまった大きな原因は・・・思いを伝えなかったからです」
「結果がどうであれ・・・伝えるべきだったと、種族を隠していたなら告白するべきだったと。そうでしょう?」
星の言葉に、ナズーリンと一輪もシュンとなる。遠い昔の事が思い出されて。だが。
「甘いよ・・・」
村紗だけは態度が変わらなかった。
「まだ何か言いたい事があるのですか?」
「・・・・・・」
村紗から感じられる、何か言いたげな雰囲気は消えなかった。星が促すが村紗の口は開かなかった。
だが、村紗は星の目だけははっきりと見ていた。何かを言いたそうだが、その声は喉で止まり、言葉を探しているようにも見受けられた

「ああーもう見てられないよ!村紗が言えないなら私が言うよ」
突然闇から現れた出席者以外の声。
声の主には、皆覚えが合った。その声の主に、一同の視線が集まる。
夜の闇の一部がぶわぁっ、と晴れる。
その晴れた闇から現れた、招かれざる声の主は、封獣 鵺だった。

「鵺!?」
「何をしに来たの!?」
鵺の姿を認めるはるかに前から、ナズーリンと一輪は臨戦態勢だった。
そしてその体勢は、鵺の姿を認めると一気に最高潮に達した。

「あー、ストップストップ。大丈夫だよ2人とも、私は3人が知らない真実を伝えに来ただけだから」
鵺は手の平を前に押し出し、敵意が無い事を主張する
「真実?」
「まぁ一輪・・・聞くだけ聞いてあげましょう」
闖入者に対する体勢を解かない一輪を、星は制する。
同時に、にらみを利かせ続けるナズーリンの肩にも手をやり動きを抑える。

「さて・・・教えてください、真実と言う奴を」
「村紗とはよく遊ぶし喋るから別として・・・3人は○○ってのが生贄だって所までは分かってるんでしょう?」
「・・・ああ、それは確かだ」
鵺は話を一つずつ進めていく。
「じゃあさ・・・生贄を差し出す側が一番注意する事って何だと思う?」
なぞかけ形式に入り、一輪の顔がほんの少し不機嫌になった、ナズーリンの方からは舌打も聞こえる。

「もったいぶるな」
星が肩に手をかけていなければ、恐らくナズーリンはそのまま詰め寄っていただろう。
「生贄にしても大丈夫そうなのが居る・・・でもその大丈夫そうな奴はそう簡単には手に入らない」
それでも、気圧されることなく鵺はなぞかけを続ける。

「逃げられたら困るわね・・・」
話を進める為に仕方なく一輪の出した答え。その答えに鵺は笑顔を浮かべた。
「その通り!中々手に入らない手頃な生贄さんに逃げられたら困るよね?」
「じゃあさ、この幻想郷から完全に逃げる方法って何だと思う?それも外来人にしか使えない方法で」
外来人にしか使えない方法・・・最早答えを言っているような物だった。
「博麗神社・・・・・・!!?」
呟くナズーリンは何かとてつもない事に気づいた。

「逃げられたら困る・・・じゃあ、逃げれなくすればいい」
鵺は淡々と言葉を進めて行った。
「外来人相手には、足の腱を切っちゃうのと同等の方法があるんだよ。その鍵は博麗神社にあり」
鵺の言葉に村紗以外の3人の顔が一気に青ざめていく。
「言ったでしょう・・・甘いって」鵺の言う真実を知っているのか、小さな声で村紗は呟いた。

「村紗は優しいからさ、場を荒らしたくなくて、知っちゃう前に無理にでも聖と○○をくっつけようとしてたみたいだけど」
「いつかは知っちゃう事なんだし、いつ知っても荒れるんだから。大して変わらないよ」

ナズーリンは悪戯半分、真顔半分の鵺を無視して飛び出していた。
「―!!ナズーリン」
星は大声を出そうとしたが、聖に気づかれたくなくて、飛び出すナズーリンを捕まえる事にした。
「私が金子を持ち歩く茶巾袋・・・中身全部使って構いません、夜更けですからそれくらいはしないと」
ナズーリンは小さくうなずくと脱兎の如く駆け出した。
その速さは瞬きをする前に、夜の闇に溶けるくらいの早さだった。
「もういいよ・・・確認なんて・・・・・・○○は聖に任せようよ・・・それが聖にとっても○○にとっても幸せなんだから」
小さな声で、そう主張する村紗の目には。うっすらと涙が浮かんでいた

「でも、ナズーリンが散らせたネズミからはそんな話。合ったら間違いなく議題に上がるはずよ!」
一輪は鵺から教えられた真相を払拭したく、鵺に食って掛かった。
「ネズミが嗅ぎつけれなくて当然だよ、もうとっくの昔に手を回してるんだから、蒸し返す必要がないんだよ」
「鵺・・・何故貴方はこれをしっているのです?」
鵺は一輪の問いに答えた後、めんどくさそうに星の問いにも答えていく。
「正体不明の種だよ、あれでいろんな所を気づかれずに回ってるからさ。ネズミより収集しやすいんだよ」
長くなりそう。そう思ったのか、星の問いに答え終わると、「じゃあね」と言って夜の闇に消えていった。
消える寸前「私は村紗のやり方が、実は一番荒っぽくならないと思うんだけどなぁ・・・最終的には」
そう主張した。

そう言えば、いつかナズーリンがぼやいていたのを星は思い出した。
いくらネズミが小さくて早くても・・・
穀物を荒らす害獣として嫌われているから、少しでも姿を見られると。騒がれるから意外とやりにくい。
その為、夜はともかく。真昼間に家から家へと渡る場合は、細心の注意が必要で。
音の少ない夜だと、屋根裏をトトトと走る音にも注意しないといけない。
その為、思ったよりはかどらない事が多いと、そう嘆いていた。その姿が星の脳裏に映し出された。




その日、3人とも一睡も出来なかった。
正確には眠る気になれなかった、皆ナズーリンからの報告を待ち望んでいた。
どうか外れてくれ、鵺の出した性質の悪いデマカセで合ってくれ。村紗以外はそう願ってもいた。

だが―。
そろそろ日が昇ろうかと言う時に帰ってきたナズーリンの顔で、全てを察する事ができた。
おまけに、足元もおぼついていない。ヨロヨロとナズーリンは部屋へと入る。
「最悪だ・・・手遅れですらない」
その言葉と共にナズーリンは崩れ落ちた。
「ナズーリン・・・辛いと思いますが、報告をお願いします」

ナズーリンの顔には涙が浮かんでいた。
星はそんな状態のナズーリンに報告をさせるのは酷な気もした。
「大丈夫だ・・・これが私の役目だ」
そんな星を思いやってか、報告を始める前にそう付け加えた。

「それじゃあ・・・報告を始める」
それでも、涙交じりの声で、ナズーリンの報告は開始された。
「まず・・・“手遅れですらない”これの意味について説明する」


「奴等は・・・新しい外来人が里に居つく度に、金子を博麗の巫女に渡して。帰還の足止めをするように頼んでいる」
その言葉に一輪が机の上に崩れ落ちた。
「そして・・・生贄候補の外来人となった時は・・・相当な額の金子で、期間を妨害するように頼む」
「そ・・・それでは、○○は」
星の声が震える。気丈で、優秀な彼女の姿からは中々想像できない姿だった。
「もう詰んでいる・・・完全に。多分、外に出るのに多額の金子が必要と言うのも・・・足止めするための、嘘だ」
報告を続けるナズーリンの目には涙が溢れていた。
それに呼応するように星の目にも涙が。一輪の方は机に突っ伏し、声を押し殺しながら泣いている。
「もし・・・○○が帰りたいと言った時。それよりも多い量の金子は用意できるものなのでしょうか?」
「無理だ奴等は・・・・・・私達が幻想郷に居つくはるか前からこの事を続けている」
この時ついにナズーリンの涙腺も決壊した。村紗もボロボロと大粒の涙が落ちている。

「その因習を破るとなれば・・・向こう数百年は、博麗の巫女が食べていける額で無ければ嫌だと」
「そうはっきりと言われてしまったよ・・・・・・」
全ての方向を終えたナズーリンの視界は、滲んでしまっていて、皆の表情を見ることができなくなっていた。
それでも机に突っ伏す一輪、下を向いて鼻をすする村紗、途中から微動だにしなくなった星。
これらで、場の空気は十分に伝わってきた。
そして全ての報告を聞き終わってからやっと、星の方も気づいた事があった。
自分も他の三人と同じように泣いている事を。



聖は決心と共に朝を迎えた。
そんな聖の心を荒らしたくなく、4人は真相を伝える事ができなかった。
顔を見られれば気づかれるかもしれない、その為気を利かして二人きりにした。
そんな旨の置手紙を残しておいた。
現場に居合わせていない聖に。この手紙に隠された、裏の意味を知る事は出来なくて当然だった。


それを知る由も無い聖は。皆の心配りに感謝の気持ちから涙した。
図らずとも、一組の男女にとって、おあつらえ向きの場が出来上がる事となった。

聖の胸のうちは固まっていた。無論、○○が聖の告白を受け入れてくれるのが最上の結果ではあるが。
たとえ聖の望まない結果であったとしても。聖は○○との思い出を胸に生きていく覚悟も決めていた。

○○を待つ間、皆から聞いた真相が聖の心を揺らす、その波紋は決して聖の中で静まる事はなかった。
何度も何度も、自分は手を引いた方がいいのではないか、そんな考えが浮かんでは消える。

それでも、聖の思考は最終的には思いを伝える方向で固まる。
今ここで、思いを伝えなかったら、それは後々大きな後悔となる、そしてお膳立てをしてくれた皆に会わせる顔もなくなってしまう。
○○が帰りたいと言えば、私は素直に手を引こう。
真相の、更に深い部分を知らない聖の心模様は澄んだ物となっていた。



命蓮寺に足を踏み入れた○○は、すぐ違和感に気づいた。
出迎えてくれた聖以外に人の気配が無さ過ぎるのだ。
聖と会う際、命蓮寺の面々は気を回しているのか周りに近づく事はほぼ無かった。
それでも、敷地内にはいるため。時折誰かが移動するパタパタと言った音が聞こえてはくる。
所が、今日はそういった人の気配、動き、音が感じられない。この命蓮寺には、○○と聖の2人だけだった。

居間に通され、茶を出される。ここまではいつも通りだった。
「・・・○○さん、今日は話したい事があります」
いつもはそこから軽い談笑の後、法力の指南に移るのだったが。
その日だけは状況が、そして空気が違った。正面に座る聖の目は、真っ直ぐと○○を見据えていた。
「○○さん・・・多分私の言う事は○○さんにとって迷惑な事かもしれません」
おおよその見当は○○の中ではもう付いていた。
「○○さん」
○○の考えたその見当は、正面に座る聖が○○の手を取り、握り締めたときに確信へと変わった。


「○○さん、私は貴方のことが好きです」
回り道も、言葉の濁しも無い、真正面からの告白だった。
「今すぐにお返事を・・・とは言いません」
聖の手が更にしっかりと○○の手を握る。
「でも、私はどのような返事であっても、受け入れます」
手を握られている○○は、聖の手が微かに震えているのを確かに感じた。




○○は元は外の人間、帰りたい場所がある。
それは聖もはっきりと分かっている、そして○○が聖の告白を受ける意味も。
そして○○も、自身の置かれている二律背反の状況は、この時最高潮を迎えた。

その日は法力の指南も無く、○○も聖の方も行うような気にもなれず。
○○は命蓮寺を後にし、その姿を聖は見送った。



星達はお堂に居た。
昨晩の星の忠告どおり、覗き見や盗み聞きと言う野暮な真似をする者は誰も居なかった。
そして、星達は○○が聖の告白を受け入れる事を祈っていた。
そうなれば、そういう方向に話が動けば、この後起こるであろう荒事は鳴りを潜めるはずである。
最早、命蓮寺だけでどうにかできる問題ではなくなっていた。

「村紗・・・気持ちは分かりますが、○○に無理強いを強いるような真似は慎んでくださいね」
時折、星が村紗に対して戒めるように声をかける。
真相の更に深い所を知り、皆沈鬱な表情を浮かべていたが。村紗だけは少しばかり様子が違っていた。
腕を組み、あぐらを組み、何かを考えているのが一目で分かる状態だった。
何を考えているかは聞かなくても分かる、聖と○○をくっ付かせる為の思案を巡らせているのだろう。

最早○○に逃げ場は無い、村紗の言う通り聖と結ばれた方がどちらにとっても幸せ。
皆の考えもその方向に向かわざるを得なかった。それでも、それでも荒事は極力避けたかった。
だからと言って。○○にとって、星達の祈りは非常に酷な物だった。
聖と○○が結ばれる。それは、○○が元の世界を諦める事に他ならないからだ。
家族、友人、故郷、それらにまつわる思い出。それら全てを自らの手で捨て去らなければいけないから。


それは捨て去る側である○○の方にばかり重くのしかかる難題だった。
聖白蓮を始めとした命蓮寺の面々はもうこの幻想郷に定住する事で腹をくくっている。
そのくくるための腹の中身にある重さも、命蓮寺勢と○○では大差があった。

この時の○○は涙を流していた、聖白蓮を始めとした命蓮寺の面々。
里の面々、それらの顔は用意に思い浮かぶのに。
外に残した家族や友人の顔に声、故郷やそれらにまつわる思い出、その殆どがおぼろげな物となっていた。
そこに来て聖白蓮からの告白。
今○○の魂はこの幻想郷に引き寄せられ、縛り付けられつつあった。
振り切るにしても、引き寄せられるがままにしても。
どちらにせよ○○の魂に浅からぬ傷が入る事は、もう間違いのない事であった。




数日が経ってもまだ○○は答えを出せずにいた。
聖と別れるには、余りにも多くの思い出を○○は作ってしまった。
どちらも捨て去る事ができなかった。
二律背反にぐらつく○○の様子は、立ち振る舞いにも現れていた。最初の方こそ誤魔化せてはいたが。
第三者から問いただされると、より一層○○の心中は不安定な物となる。いつまでも隠しきれる物ではなかった。
そしてとうとう、第三者に話してしまった。


「―そうですか。○○さんは聖様からそのような事を」
相談相手は幾ばくかの間を取った。、微笑交じりで、ありふれた返事を持って答えた。
その“間“で相談相手が何を考えたか、よそ者の○○には知るよしもない事であった。


「で、○○さんはどうしたいのですか?」
「・・・・・・帰りたい、これは多分本心なはずなんです」
目を閉じうつむきながら出した○○の答えに。相談相手は一瞬こめかみを動かし、それと共に微笑もほんの少し歪ませた。

そしてまた“間”が出来る。その“間”に、○○は次に続く言葉を待ってくれているのだと
好意的に解釈していた。
「ですが・・・私は聖さんと仲良くなりすぎたんです。聖さんと離れたくない、これも間違いなく本心なんです」
続いた答えに相談相手の顔に微笑が戻った。


「そもそも、仲良くなるべきじゃなかったのか。会うべきじゃなか―
「そんな事はありませんよ」
○○の呟きにも近い言葉をさえぎり、相談相手が口を挟む。

「○○さんは、聖様と出会い。聖様と交流をなされて何か嫌な事はありましたか?」
続けて○○に出した問いかけにはまくし立てるような物が、顔にも困惑とも取れる色があった。
「いえ・・・むしろ良い思い出、楽しい物ばかり」
「じゃあ!そんなこと滅多に口にする物じゃありませんよ」
ずいっと身を乗り出し、畳を叩く相談相手に、○○は少しばかり気圧される物があった。

「もうしばらく、考えても良いんじゃないんでしょうか?今の○○さんは少し冷静さを失っているようにも思えます。それに」
「出るのは何とかなるんです。なら少々長めにここにいて、頭を冷やすと言うのも選択肢としてはありでしょう?」
そのまま更なる滞在まで提案された。

「出てしまったら・・・もう二度と、絶対に会えないんですから。もう一度聖様と会われても良いんじゃないのでしょうか?」
完全に押し切られる形だった、答えを見出せないまま○○がもう一度聖の元に行く事は。



聖と会うことに対する感情は嬉しさの方がはるかに勝っていた。
しかし答えを見出せないままにもう一度会うことには消極的だった。
しかし、相談相手の勢いに負けて、次の日○○は命蓮寺へと続く道を歩いていた。
目的地に近づくに連れて、早く会いたいという気持ちと、会って何を話せば良いという気持ちが交錯する。


命蓮寺の境内までもう数歩、と言う所で○○は足を止めた。
答えを出していないのに、容易に会ってしまって良いのだろうか。
法力指南の時にも使う利き腕を。法力指南の際、聖によく握られる利き腕を、○○はもう一度見つめながら握り込む。
その際、聖に教えられたように、力を溜める。
適当な所で、その握りこんだ拳を下に向け、開いた。そうすると足元にある細かい砂利が○○から遠ざかっていく。

やはり、仲良くなりすぎたのだろうか。
ただ世間話をする程度の仲なら、ここまで思い悩む事はなかったのかもしれない。そう○○は考えざるを得なかった。


聖から法力という人知を超えた力の一端を教授してもらったがために。
聖の心に○○が、○○の心に聖の影が深く食い込んでしまった。
そして、問題となった○○が外界の出自と言う事実。
幻想郷出身の者との間の恋仲ならば、絶対に問題にならなかった別離の決意と言う問題。
聖を選べば、家族を友人を故郷を捨て去らなければならない。
外界を選べば、聖とは今生の別れをせねばならない。幻想郷は、時間をかければ戻ってこれるような場所ではない。

気が付けば、○○の腕も震えていた。あの日、告白をした聖の時と同じく。
○○は震える腕を、もう片方の腕で握り締め。目を閉じ考えにふける。
聖が腕を震わせた理由は、○○が外界を選んだ時の事を考えたから。
その時に感じる悲しみを思ってしまったから。
しかし、○○の方は事情が違った。
聖を選んでも、外界を選んでも。○○はどちらを選んでも、容易には得がたい物との別離を経験しなければならなかった。
その事を考えると、震えざるを得なかった。


「○○さん?」
○○の閉じられた目は、急に聞こえてきた聖の声で開け放たれる事となる。
「・・・大丈夫ですか?○○さん」
聖は震える○○の腕を優しく包み込むように、両手で握ってきた。
この時、○○は自身の涙腺が限界を迎えたのを自覚した。どんなに涙腺を閉めようと頑張っても、涙はこぼれていくばかりだった。
そんな○○を聖は抱きしめる事しかできなかった。

「聖・・・さん」
涙と、感極まった感情で。○○の声は震えに震えていた、短い文を喋る事すら間々ならない。
「私は・・・・・・どちらを選んでも・・・絶対に、今生の別れを・・・・・・」
思いの全てを言葉に発して言い切ることも出来ず。
○○の腰は砕け、こぼれ落ちる涙の量は増すばかりだった。



聖は涙で衣服が汚れる事もいとわず、そのまま○○を抱きしめ続けた。
果たしてそれで良いのかどうかは、聖自身も分からなかったが。

聖もまた分かっていた。
○○の心に自分の影が食い込む事の影響を、○○がこんなにも泣く訳を。
そして○○の口から出た“どちらを選んでも今生の別れを”この言葉に、○○が今背負っている苦悩のすべてが凝縮されている事も。
そしてその苦悩を背負わすきっかけを作ってしまったと思い、その事に聖の心は痛み続けていた。
だから。このまま抱きしめ続ける事が、却って○○の苦悩を増大させるだけではないのか。そう考えてしまうが。
だからと言って、○○をこのまま放っておく事も、聖にはできなかった。

結局聖は、○○が落ち着くまでずっと。抱きしめてしまっていた。
「○○さん・・・少し中に入りましょう、ここじゃ体に毒です」
落ち着いた○○を中に招き入れる際、聖は○○と手をつなぎ続けた。
○○の体に触れる喜びと、○○の心にまた自分の影が入り込む事への罪悪感。この両方を織り交ぜながら。


茶を出し、適当な茶菓子も添え。もう何度目かになる○○と一緒の室内。
だが、会話は無かった。
お互い何を話せばいいのか分からなかったから。
茶をすする音と、添えられた茶菓子を持ち上げたりする動作音だけが室内に発生する音の全てだった。
それでも、無言はお互いに気まずく。何か喋るネタを探しながら、お互いが正面に座る相手をチラチラと見たり。
不意に目が合うと、そらすのも失礼な気がするが、されど二人の間に話題は無く。お互いにまごついてばかりだった。
そんな事が何度もあり。ついにはお互い目を閉じるか、目線を下に固定するだけとなった。

「・・・・・・聖さん」
その状態がどれくらい続いたか、ようやく○○の方が声を絞り出した。
「―ひゃい!?」
予期せぬ○○からの言葉に聖が言葉を噛んだ。

この時、ようやく室内に流れる空気がほんの少しだが和らいだ。
「聖さん。少しばかり自分を試そうと思うんです」
その和らいだ空気のお陰で○○の方も次の言葉を思ったよりすんなり出す事ができた。
「・・・試す?」
「はい、自分の本心を・・・もしかしたら自分自身でも分かってないんじゃと思うんです」
和らいだ空気のお陰か、○○の表情は穏やかだった。

「しばらく私は命蓮寺には来ません。それでも、私が聖さんの事を考え続ける事ができたら」
「その時は、私は聖さんのことが本当に好きなんだって事です」
朗々と語る○○の言葉を聖は静かに聞いていた。
「しばらく、ゆっくりと。自分の心中に問いかけてみようと思うんです。どちらがより重いかを知る為に」


○○からの提案、聖に異論は無かった。
聖はいつまでも待つつもりだった。そして○○の出した結論が、聖の望む物でなくても。
聖は受け入れようと言う覚悟を、改めて心に決めた。
その聖が決めた覚悟も、○○が自身に問いかける為に必要な時間も。
水泡に帰してしまう運命であった事を知らないのは、聖と○○の2人だけだった。



その日、○○は雑貨屋で二冊の帳面を買った。
一冊には、○○は聖白蓮との事を中心に。幻想入りしてから今までの事を事細かに書き記す事にした。
もう一冊には、生まれ育った外での事を出来るだけ詳しく書き記していった
思ったより長くこの幻想郷に滞在していた為、家族や友人、故郷のことを中々思い出せず。どちらも一日や二日では書ききれない量となりそうだった。
命蓮寺へはあれから一度も行っていない。
次に行くのは答えを決めた時だと、○○は心に決めていた。

○○も聖も。気にならないと言えば嘘になる。しかし○○は決心を曲げたくなく、聖も○○の決心を尊重し続けた。

聖以外の命蓮寺の面々は、聖の口から○○の真意を伝え聞いてはいるが。
下手に会わなくなることで、○○も聖も未練を断ち切れると錯覚してしまうのではないか。最悪の状況が思い浮かんだから。

そして、里の方は命蓮寺以上に気を揉んでいた
以前に比べて、○○の表情が比較的穏やかな物になっており、命蓮寺にも足を運んでいないのはこちらも感じ取っていた。
そして。ある種の確認をすることにした。

「おはようございます、○○さん」
いつものように、至って普通に行われる日常の挨拶。
声をかけてきたのは、以前相談相手にもなってくれた男だ。
彼は何かと○○に声をかけたりして世話を焼いてくれる。
「あぁ、おはようございます」
「・・・そう言えば最近○○さんは出かけられてませんね」
その中に、それとなく確認したい事柄を入れてきた。
男はいつもの微笑を絶やさず、○○の言葉を待っていた。


○○はすぐに命蓮寺へ行っていないことだなと理解した。
「ええ・・・・・・あの後色々考えたんです。それから聖さんとも少し話しました」
「その席で、しばらく命蓮寺には行かないと決めたんです」
男は言葉に詰まった、事態が自分達の意図していない方向に動きそうな気配を感じたから。
「それは・・・また何故?○○さんは聖様の事が―
「ええ、好きです」
○○はにべも無く、至って当然だと言う風に答えを返した。
その様子に、男は一層の混乱へと陥った。
「なら・・・だとしたら余計に、何故足を向けないのです?」
「重さが分からないんですよ、自分の心の中にある感情の」
「帰りたいと言う気持ちはまだあります。でも同時に、聖さんと今生の別れをするのもやっぱり辛いんです」
「多分・・・帰りたいと言う気持ちは、聖さんの告白を受ける事を決意しても、消え去る事はないと思うんです」
○○の方は、まだまだ答えを決めかねている状態だった。どちらを選ぶのか、いつ決意できるのか、全く見当が付いていなかった。
しかし、彼はそう思わなかった。○○の心が、外界への帰還へと向いているのではないか?
○○の言葉は、その疑念を生み出し強めるには十分な物だった。
「だから今、見比べているんです。自分で自分の心中を、どちらがより重いか」
「―そうですね、ここを出たらもう会えませんし・・・・・・じっくり考えるべきですよ」
彼は、微笑を維持するのがやっとの状況だった。


そして、更に数日後。里全体が戦慄する行動を○○は起こした。
「―!?こ・・・・・・これは?」
それは、○○にとってはただの感謝の印だった。
「ええ、普段色々とお世話になってましたから。まぁせめてものお返しと言いますか」
○○は、里で親しくしてくれた人間に贈り物をしていた。
贈り物の中身は何てことのない、店で買い揃えたただのお菓子だったが。
○○のこの行動に彼らはうがった見方をした。

―○○が帰る決心をつけたのではないのか?と

○○からすれば、この贈り物に大きな意味は無かった。
ただ、自分のことを振り返っていくと、必然的に彼らから受けた世話に行き当たるから。
そして自分はその世話に対して何もお返しをしていないと思ったから。
ただそれだけの事だった。現に、彼の中では答えはまだまだ出てきてなどいなかったから。

「○○さんは・・・・・・結論の方は・・・?」
その質問に○○は神妙な顔つきをする。
「幻想郷に来た時から今までの事と。外で生まれ育ち、ここに来る直前の事までを今思い返しているんです」
「答えは・・・いつ出せるかは見当も付きません、でも」

「外での事を段々と思い出せるようにはなりました。まだ1人ですが友人の名前をはっきり思い出せました」
その独白で、彼等の心中にある針が振れ始めた。



知らず知らずのうちに、○○は自分で自分の首を絞めていた。
それは二律背反に苦しむのとはもっと別な。直接、肉体的苦痛を伴う形で現れてくる事となる。

ある日、○○は度々里で子供達相手に説法会を開いている一輪の元を訪ねた。
答えはまだ見つけては居ない、それでもこれまで世話になった事への感謝の言葉と印を伝えたかったから。

○○自身でさえも、これからどう自分の心中が動くか。
また答えを決めれた所で、後悔しないかと言われたらどうしても疑問符をつけざるを得なかった。
ズルズルと、幻想郷に滞在する時間だけが増えていっていた。
ただ、帰るにしても挨拶も無いのは失礼だし。残るにしても、何もしないのはやはり礼儀と言う点で問題があるだろう。


そもそも、決めれるのか。
あの時感じた一瞬の安らぎは、ある種の気の迷い。そう感じるようになってしまった。

「―そうですか、所で腹は決まったの?」
お礼もそこそこ、一輪の話題はすぐにそちら側に移った。
その表情は、何とも言えない物だった。
一輪が見せるその表情の中に、様々な感情がこもっているのは分かる。
何となく、泣きそうな顔が混ざっている事は分かったが。それ以外の判別は付かなかった。

「姐さんの事は・・・野暮だったわね、聞かなくても分かるわ」
聖の話題に、○○の動きが止まる。
「姐さんも貴方の事が好きよ。これも本人に聞かなくたって分かるわ」
一輪の話は短かった。しかし○○の心に確実に大きな波紋を作った。
「姐さんと貴方を見ていると・・・結局お互いにとって不幸な道に進んでいるようにしか見えないの」
「今更、忘れられるの?」
暗に何を言っているのか。理解するのに苦労は必要なかった。
「外を忘れろとは言わないわ・・・・・」
「でも、今更聖を忘れられないのも事実でしょう?」
理解者が居るのは嬉しかった。しかしその理解者は、同時に決断を迫ってきた。
帰還を諦め、聖と共に暮らすと言う決断を。
「・・・貴方が思っているほど時間は貴方に味方をしてくれないわ」
ただ。最後に一輪が言い残した言葉の意味だけは。ピンとこなかった。



○○自身も分かっていた。最近の自身の行動の大半が、考えない為の逃げの一手である事は。
だから。
二冊の帳面に書きとめた、外での事と幻想郷での事も。
お世話になった人へのお礼参りも。
そして今やっている部屋の大掃除も。
すべてが時間を潰す為の。考えないでいい時間と言う、免罪符を得たいが為の行動だと言う事も。
○○の心はフラフラと、両方の引力からの影響を受け続けていた。



○○が命蓮寺に足を向けなくなりいくらかの日にちが経った。
最初の方こそ、聖は気丈だった。
しかし、段々と心細くなり。表情も落ち込んだものへと変わっていった。
それでも、聖は○○の意思を尊重し続けた。
考える時間が欲しいと○○が言ったから。聖は彼に会いに行きたいという衝動を抑え、じっと命蓮寺で待っていた。

それでも、待つだけの日々は確実に聖の心身を弱くしていった。
最近では日課のお勤めにも身が入らなくなり、朝も寝坊がちになり。
言動も上の空感が強くなり、立ち振る舞いもフラフラとしていた。
その様子は、命蓮寺の面々だけでなく。説法会の様子や、説法会の回数事態の減少から、他の物も嗅ぎ取っていた。

両名共にフラフラしたこの状況。この状況が歯車を動かしてしまった。


昼食が終わり、何処と無く間延びした時間が命蓮寺に漂っていた。
説法会もここ最近はとんとご無沙汰で。この日も、聖は間延びした時間に心細くなり。くてんと横になっていた。
眠る事はなかったが、ごろん・・・ごろん・・・と不規則に寝返りを打ち。頭の中身は○○の事で一杯だった。
眠らないのは聖の中に残っていた最後の節度だった。
何の因果かその節度が、緊迫した事態を。そしてそこから、事態の核心へと向かう事になってしまった。

「・・・・・・―!」
奥の方で、誰かが何かを話しているような声を捉えた。
「・・・?」
ただの談笑や話し声と言った雰囲気では無さそうだった。
聖は起き上がり、声がする方向へと向かう。


「―何を証拠に!」
まず把握できたのは星の声だった。その語勢に聖は不穏な物を感じた。
星は穏やかな存在だった、その星が声を荒げる。余程の事だ。

何を、そして誰と話しているのだろう?
聖は気づかれないように忍び足で近づき。聞き耳を立てた。
盗み聞きは自分でも感心はしなかった。でも、問いただした所で星が話してくれるかは分からなかった。
星は優しいから、聖に真相を話さず。出来るだけ何とかしようと頑張る傾向がある。
それは他の皆も同じだった。自分を慕ってくれるのは嬉しいが。悩みを抱える癖だけは、心配の種だった。

「確かに、あるかと言われればありません。ですが、○○さんの方が外を思い出そうとしているのは事実です」
星と言葉を交わす者は、聖も知っている人物だった。
いつか、自身から○○への思いを聞き出した、あいつだった。
「・・・・・・聖にとっては辛いでしょう。でも―」
「大丈夫です寅丸様、ご心配なく。手はもう回しております」
「○○さんは、もう幻想郷から出る事はできません」
―どういうこと?その言葉を発するより先に、体が動いた。
バンッ!!と障子が大きな音を立てて開け放たれた。
聖の姿を確認して。星は明らかに顔を歪ませ“しくじった”と言う感情をその表情に滲ませた。
男の方の表情は。一気に固く、緊張した物へと変貌した。

「どういうこと!?」
ここに来てようやく聖の喉が声を発した。
「聖、向こうで話します」
星が聖の両肩をがっしりと握り、無理矢理別の部屋に移動させる。
そして、チラリと。男の方に目をやり、口だけを動かし「帰れ」と。
半分は、真相の更に深い部分を知った聖が、何をするか分からなかったから。もう半分は、個人的に嫌だったから。


真相の更に深い部分を知った聖は、何度も星に聞き返していた。
「ご・・・ごめんなさい、星・・・・・・もう一回説明してくれない?」
聖の体はガクガクと振るえ。目は大きく開け放たれて、説明の度に光が失われた。
そして遂に、聖は意識を失った。



気を失った聖を抱きかかえながら、星は考えた。
聖が、自身と奴との会話に質問の方向を向ける前に意識を失って。果たして良かったのか?
自分たちの首が絞まる時間を増やしてしまっただけなのではないか?



あの時星は、奴との会話の始めに。何を話されたのかを言えずに居た。
「もし・・・もし、○○さんが決心をしてしまっていたのならば。我々は今すぐにでもここに連れてこれます」
それは実力行使の宣言だった。
里のほうは相当に焦っているようだった。とにかく早く○○を、命蓮寺に担ぎ込みたがっていた。
荒事を望まない旨だけは、はっきりと伝えはしたが。不信感はぬぐいきれない。
奴から最近の○○の様子は聞いた。
その様子では。外のことを思い出そうとし、里の者に贈り物を配り歩き、大掃除までしているそうだ。
贈り物自体は、一輪から命蓮寺宛に貰っていた。だからこそ、帰還への後腐れを絶つ。という里側の思い違いに星はすぐに気づく事ができた。
○○もふら付いている、こっちと向こうで。それが分かるから、相変わらず静観の構えを解けなかった。
だが、その二人のことを思いやるがために行っていた静観が。時間を与えると言う行為が。
結果的に、二人にとって。最悪と言う言葉ですら生ぬるい方向へ話が動きつつある。


ふと、悪魔が星にささやいた。
このまま里の連中を暴走させて。聖を始めとした命蓮寺に対する○○の好感度を上げればどうか?
連中の謀には我々の方は知らぬぞんぜぬを押し通せばいい。
きっと里のほうも我々に目をつけられたくなく、上手く合わせてくれるだろう。
今ここで、里側に反旗を翻した所で何になる?
どうせ聖が封印された時と同じ結果になるのは目に見えている。

事前に台本を作りたいと言えば、○○に命蓮寺が怪しまれないよう。上手い立ち回りを演じてくれるだろう。
どうせ、もう○○はこの幻想郷から出る事はできない。


いくらか考えた所で星は頭を振り、その悪魔的な考えを振り払った。
危ない所だった。もう少しで堕ちる所だった。




「だから!私が言ったとおりの事になってるじゃないの!!」
聖には話せなかった事を含めた内容を、星は皆に話した。
予測できていた事だったが、荒れに荒れた。特に村紗は顕著だった。
涙声で怒鳴り散らす村紗に、一同は何も言えずにいた。


聖は再び床に伏せってしまっていた。
一度目を覚ましたが。その際星に、一人にして欲しいとの旨を告げられ今は皆と同じ部屋にいる。
村紗が「私が説得してくる」と言って飛び出して行ったが、すぐに帰ってきた。
恐らく星と同じような事を言われてしまったのだろう。

「ねぇ、星。いえ、この際皆に聞くわ」
「里の方から、一番初めの企みを。まだ生贄候補の話しか知らなかった時」
「それを知った時皆どう思った?」
不意に一輪が問いかけてきた。何の脈絡も無く突然に。
その一輪からの突然の問いかけ。虚を突かれたのか、皆目を丸くするだけだった。
そんな面々を一輪はゆっくりと見渡した。

「不快感が半端なかったね・・・・・・私は、その時にはもう・・・全部知ってたけど。」
「やっぱり思い出す度に、ムカムカする」
村紗の発現に一輪の視線が彼女に固定された。
「その後よ」
そう一言。その一言の後、一輪は大きく息をついた。
「不快感については皆同じだと思うのよ・・・私ね、その後にこう思っちゃったのよ」
そして、一輪は自身の感情を吐露し始めた。

「姐さんと一緒にいられる方を選びたいって」
「村紗、貴方も同じでしょう?いえ、私も含めた全員ね」
姐さんと一緒にいられる方。この一言に星は明らかな既視感を覚えた。
数時間前に星が思っていた事を、一輪はかなり前から心中に内包していたのだった。


星から自嘲の笑みが軽く漏れる。
考えて見れば、始めから今の今まで全部。静観と言う方法に拘ったのは、聖の為以上に。
聖が再び封印されたくないからではないのか?

あの時、もう少しで堕ちそうだったと感じていたが。
真綿で半分以上絞まっていた首を、荒縄で止めを刺す。その程度の違いでしかなかったのではないか?
ふとナズーリンの方を見ると。目をつむり、奥歯の方をかみ締めているような表情がその顔に写し出されていた。
ナズーリンにとっても、一輪の指摘は図星だったのかもしれない。

「そうだよ!」
村紗は、一輪の感情の吐露にも似た指摘に対し。全肯定の姿勢を見せた。
「もう嫌なんだよ!聖と一緒にいられないのは!」
「あんなに長い間封印されてたのに、また同じ事になるなんて嫌なの!!」
「今回封印を解けたのだって・・・やっとの思いで成し遂げたのに・・・・・・」
村紗の怒声は徐々に小さくなっていき。それと共に涙の量が増えていった。

村紗の心中は、聖の志からはほど遠い考えであることは火を見るより明らかであった。
しかし、その心中を他の者は痛いほど理解できた。それもまた事実であった。
故に、何も言えなかった。何も出来なかった。何をすればいいのか、分からなかったから。
ただ、村紗の嗚咽だけが、室内に響く。その声を、ただじっと聞くだけであった。







「・・・・・・自分の事は自分で決めますよ」

過干渉と程よいお節介は、紙一重の差であろう。
いつごろからか、○○はこの里の人から受けるお節介を。聖白蓮に関しての事柄については特に。
不愉快に感じる程の過干渉へと、○○の評価が変わってしまっていた。
始めは、こめかみがほんの少し。後から考えて分かる程度にしか動かなかった。

「気にしてくれるのは有り難いと思ってます。でも、踏み込んじゃならない領域はあるはずでしょう」
ねちねちと。そんな擬音が似合うな、そう思いながら。これ以上の干渉を止めて欲しい旨を出来るだけ丁寧に。
だけど可能な限り、威圧感を持って○○は口に出していた。
しかし、この時はまだ敵意は無かった。







聖は未だに自室にこもっていた。
部屋の前に置く食事には箸を付け、時折厠に向かうので生きてこそいるが。
以前のようなフラフラを通り越した。まるで幽霊のようにスーッと動いており。
そしてある時、聖が自室へと運んだ大量の紙と文字を書くための道具。
一体何に使うのか?誰かが声をかけても返事が無く。その様子がより一層不気味さを際立たせていた。

ナズーリンがいわゆる“馬鹿な真似“を危惧してネズミを物見につけているが。
そのネズミからの報告曰く。時折クスクス笑ったりすすり泣いたりしているそうだ。
ただ、すすり泣いていたのは最初の方だけで。段々と笑う方が多くなっているそうだ。
そして、聖の笑い声は皆が聞く事となる。



馬鹿笑い。笑うと言う表現では物足りないほどの豪放な笑い声が、命蓮寺にこだました
その笑い声は本当に楽しそうで、明るくて。心の底からの陽気な笑いだった。
だからこそ背筋にゾクリと来るものがあった。あまりにも、事態にそぐわない色だったから。
その笑い声の合間に、○○の名前が出てきたのは別段驚きこそしなかったが。

ちなみに、この馬鹿笑いのすぐ後。ナズーリンのネズミ達が聖の監視を拒否した。
「何故だ!?」感情をあらわにして怒声を散らすナズーリン。滅多にないその光景にネズミは萎縮しきっていた。
聖に気づかれぬよう、少し離れた縁側でナズーリンは部下達を問い詰めていた。
「・・・・・・死にたくない?どういう意味だ?」
ネズミ達が見せる顔色、命乞いにも似た必死の証言。そこにナズーリンは何かを感じる。
一体何が合ったのか。その話を聞き出そうとした際、言われたとおり話をしようとネズミが顔を上げた際。
ネズミは回れ右をして、わき目も振らず。縁側から飛び降り逃げ去ってしまった。



待て、お前等。そういった意味の言葉を発しなければと考え。
それを発する為の喉すら動いていない時に。ナズーリンの首を強く締め上げられた。
全く予期していない事態、そして―
はっきりと見えたその光景に、ナズーリンの思考は修復不可能なくらいにまで崩壊した。

その光景とは―
ナズーリンの首を絞めていたのが、聖白蓮だったから。


聖は片手でナズーリンの首を絞め上げ、空いているもう片方の手で頭のてっぺんを強く握った。
頭頂部の髪を掴まれた。ナズーリンがそう感じた数瞬後、彼女は縁側の床に叩きつけられた。
その際、ほんの一瞬首を絞める腕が離れたが。間髪をいれずに首絞めはまた再開された。
後頭部への鈍い痛み、そしてその痛みを超える苦痛である、首が絞まる圧迫感。
その圧迫感にナズーリンは死の恐怖を感じた。

命蓮寺の誰かが、しかも聖が。
仲間に死の恐怖を味わわせるくらいにまで苦痛を与えるなんて。
ありえない事態、しかし聖の心に振り下ろされた残酷な真実。
その一撃は、ありえない事態を引き起こした。


「趣味が悪いですねぇ、覗き見なんて。ねぇナズーリン?」
そう言うと。ジタバタともがき苦しむナズーリンを大人しくさせるためか、腹に向かって何発も聖の拳がめり込む。
「私は感心しませんよぉ?ナズーリンにそんな趣味が合ったなんて」
違う。聖が市外をエラ場にか心配だったから。そう声高に叫びたかった。
だが、絞まる首で声帯は圧迫され。腹にめり込む聖の鉄拳から引き起こされる吐き気。
その二つが相まって、ナズーリンは自身の潔白を主張できなかった。

力強く絞められる首、一定の間隔を持って腹に叩き落される鉄拳。
その二つは止むことなく。そして聖の言葉も止まらなかった。
「そりゃあ・・・ナズーリンも年頃ですから色恋沙汰は気になるかもしれませんよ?それは分かります」
「○○さんは、許してくれましたよ。でもだからと言って何も無くただ許すだけってのはちょっと駄目だと思うんですよ」
「流石に、一緒の寝床で寝ようとしている所を覗かれたら私だって怒りますよ?」
一体何を言っているのか全く理解できなかった。
聖の口ぶりはまるで・・・・・・・・・


聖と○○が一緒に暮らしているようだったから。


「さっきだって、私が○○さんと一緒に暮らして何が合ったのかを事細かに書いた思い出帳も覗いてたし」
「いくら付き合いが長いからと言っても、親しき仲にも礼儀ありです・・・よ!」
最後の一言と共に、渾身の一撃がナズーリンの腹に吸い込まれていった。
そして、聖の。ナズーリンに与え続けた責め苦は収まった。
思考が回復するにはかなりの時間がかかった。
腹を豪打し続けられた事による吐き気、空気を欲する体。
息も絶え絶えになりながら。吐しゃ物をぶちまけながら。
ありったけぶちまけた吐しゃ物を避ける体力もなくその上に崩れ落ちたまま。
ナズーリンは、理解した。
聖が壊れた事を。



窮屈さ。○○は精神的な窮屈さを覚えていた。
どうにも、安らがない。特に外に出ている際それを強く感じる。
仕事中、定食屋での昼食、食事の材料を買っているとき、往来を歩いている時。
全ての場面で、○○は視線を感じた。
それは道行く人間とぶつからないように、客の注文を聞くために。
そういった場面での見られているとは明らかに違っていた。
目線の端で追われている様な。そんな感覚だった。
考えすぎの可能性も高かった、しかし。
過干渉に対する不満を口に出してから、何と無しに周りの空気が変わったような。
どう変わったかと聞かれれば、答えには詰まった。



剣呑な空気は長引かせたくなかったから。彼に対して注文をつけた次の日には、その事は忘れて普通に挨拶を交わした。
彼はニコニコといつもの微笑を絶やさず、こちらの目を真っ直ぐと。
そう、真っ直ぐと。絶対に逸らす事無く、日常の会話を○○と行っていた。

その逸らされることの無い視線。昨日とはまた違った剣呑さを、○○は感じざるをえなかった。
そして彼から○○へ注がれた強力に固定された視線は、彼以外の他の物にも見られたから。
どうしても目線の端で追われているような視線を。はっきりと否定できなかった。
昨日とはまた違った剣呑さ。その空気は里全体に漂っているような気がしてならなかった。

目を覗き込まれる。それは命蓮寺で聖白蓮から日常的に行われる行為だった。
この覗き込むと言う行為自体は同じなのに。何のためにという目的の部分がまったく違うように感じられた。
聖白蓮の覗き込み方は、純粋な物だった。言葉は無くとも、自身に対する純粋で、愛おしい物が伝わってきた。
そして、それと違い今の。里の人間からの覗き込まれ方は。
何となく、値踏みされているような。確かな表現は出来なかったが、不快極まりない物には間違いなかった。


不快感と不安感にまとわり付かれる中、○○は逃げ出したくなった。
そう、命蓮寺へ。
その答えは自然と出てきた。この時ようやく、○○は自分の魂が、どちらにより強く引っ張られているかを知った。

うんうんと唸り、考えに考えて考えあぐねいても出せなかった結論が。今ここで出す事ができたのだった。
○○は笑みを浮かべた。それはとても穏やかな物だった。
追い詰められて、やっと見えてきたものだった。



そして、仕事が休みの日の朝。○○は最後の確認をする為に博麗神社へと足を向けた。
値踏みをされているような視線は相変わらずだった。それが嫌で、朝早くに家を出た。
ただ、門の前ではどうしても人目についてしまう。それだけはどうしようもなかった。

二冊の帳面に目を通しながら、ゆっくりと歩を進めてゆく。
この時、○○はもうほぼ答えを決めていた。だから、これはある種の儀式だった。
家族に、友人に、故郷に。自分が関わった全てへの別れを言いに行くと言うべきだろう。
無論、そんな旨の事をここで。例え数少ない出入り口である博麗神社で呟いたとて聞こえはしないだろう。
だから、これは本人の気持ちの収まりの問題であった。他人が見れば何の意味も見出さないであろう。

二冊の帳面に交互に目を通しているせいもあろうが。○○は今までに無くゆっくりとした歩調で進んで行く。
そして、博麗神社の境内へと続く階段の前までたどり着いた。
階段の前に看板が一つ刺さっていた。覗き込むと簡潔な文章があった。

しばらくは結界を開ける事ができません。再開時期は未定。
だから異変が起こるまでお休みします。(お賽銭は随時受付中)


その文章に、○○は安堵感を覚えた。不安要素が消えたとも感じた。
苦笑いに近いような笑みが漏れた。出れますよと言われた方が困る。
事実、○○はこの博麗神社へと続く道を歩きながら。後ろ髪を強烈に引っ張られる感覚を感じた。
ようやく○○は重さを知った。ようやく○○は知る事ができた、自分の魂がどちらに傾いているか。
もう答えは決まっている。ようやく、ようやく○○は答えを出す事ができた。
最後に○○は、外での事を書き記した帳面を。1ページ目から、じっくりと読み進める事にした。
余韻に浸りたかった。○○が思ってしまったいささかロマンじみた行為。
余韻に浸るには、ロマンじみた空気を感じるには。往々にしていささかの時間と段取り必要だった。


その行為、その行為に費やす時間。それが歯車を更に進めてしまった。○○がすぐに帰れば、あるいは―
あるいは、これ以上酷くならなかったかもしれない。





星は決断を迫られていた。既に聖の精神状態は崩壊の一途を辿っている。
聖は正気と狂気の狭間に今たっていた。先だって、聖がナズーリンに対して行った暴挙。
あの時の聖は間違いなく狂っていた。ただ、それは熱病に犯されたかのように。
朝には聖は自分が行った事を思い出し、泣き喚いていた。
それ以前に、聖がこのような姿を見せると言う状態が。もう正常な物ではない。
この状況から果たしてどれだけ回復できるか星には分からない。そしてそれを回復する手立てがあるとすれば。
○○しかいない。○○と聖が幸せな生活を送る、それ以外には無い。
赤子のように泣き喚く聖を抱きかかえながら、星はもはや叶わぬ願いを思っていた。
そう、正攻法では。


○○に何らかの手を加える、特に記憶の部分に。
聖が描いた自分にとって都合のいい“思いで帳”それは今机の周辺に乱雑に置かれている。
あれを元に、○○の記憶を書き換えれば・・・・・・
少なくとも、一瞬でも○○との幸せな生活を夢想ではなく、信じ込んでしまった今の聖ならば。
その方法で、ある程度の平穏が訪れるのではないか?

悪魔じみた考えだった。傍から見ればともかく。裏では必死に取り繕い、歪な形をした幸せな光景。
しかし、その悪魔じみた考え。それが一番マシな選択肢にすら思える惨状であった。


「星・・・里の人達が来たわ」
悪魔じみた考えに乗っかる決断をするか否か。その思考は一輪によって脇に置かれる事となった。
一輪の呼びかけの内容に星は不味いと思った。今ここにいると言う事は、聖の泣き声は間違いなく聞かれてしまっただろう。

「・・・分かりました、一輪。聖をお願いします」
最早強張った顔をやわらかくする気力も無い。
「早くしたほうがいいわ・・・今村紗が外で応対に出てるから」
聖以外では今一番不味い人選ではないのかそれは。そう思ったが、一輪がそんな事をした気持ちも何となく分かるので何も言わなかった。



村紗は、星が出てきたのを確認するといつも来る奴の足を引っ掛けて派手に転ばせた。
「・・・村紗」
褒められた行為ではないが、何となく気分が晴れたのは事実だった。焼け石に水程度の晴れ方だが。
一応、戒める意味を込めて名前だけは呼んだ。

「聖の所に言ってくる」
それ以上の叱責をする気は、星としては毛頭無く。またその事は村紗も感じ取っていた。
村紗は聖の所に行く、とだけ言い残して引っ込んでしまった。

「・・・で、何でしょうか?」
表情を取り繕う余裕も無ければ、転ばされた方の体を気づかう気力も無かった。
ただただ、事務的に。それが精一杯だった、むしろ種々の感情を押し殺しているだけよくやっている方だと自分を褒めたかった。
男の方は、何も反論や怒りの気配など見せず、向くりと起き上がり砂を払っていた。

「○○さんの事です」
そして転ばされた事などお互い話題に上らせる気配も無く、向こうも淡々と話を進め出した。
「・・・○○さんが博麗神社に向いました」
その言葉に星は思わず目を閉じた。何と間の悪い、○○は自分で自分の首をへし折る勢いで絞めているではないか。

目を開けると、男の目線が星の後ろにある命蓮寺の建物に移っていたのを星は見逃さなかった。
当然と言えば当然であろう・・・かなり派手に泣き喚いていたから。
そしてそれは今でも聞こえる。気にするなと言う方が無理な話であろう。
「星様・・・・・・聖様のお加減は?」
「・・・・・・」
上手い返しが思いつかなかった。無言を持って答えとすれば、また悪い方向へ動くだろう。

しかし、ここで何か気の利いた答えを返した所で・・・少しばかり事態の進展が遅れるだけのようにも思える。
もう、乗っかってしまうか?命蓮寺の皆の力を使えば、○○の記憶を操作する事など容易い。

「○○さんがいらっしゃれば・・・まぁ多少は」
「・・・分かりました」
言ってしまった。ついに、動かしてしまった。
星はかつて無いほどの自責の念を抱えた。その自責の念は今後一生星の周りに付きまとい、事あるごとに彼女の心をかき乱すであろう。
星は顔を押さえ、苦々しくなる顔を繕おうとする。その表情に果たして彼らは何を思うか。

思えば、もしかしたら私は最初の一歩目から間違った道を踏み出していたのではないか?
あそこで開口一発、激昂していれば・・・・・・
最初から、自分達はずっと後手後手に回っていたのだが。ろうか。

「出来る限り、荒っぽい事は避けて下さいね」
「はい・・・・・・」
去ろうとする後姿に一言だけ声をかける。律儀にこちらに向き直って殊勝に返事をしてきた
もう十分荒っぽくそして不穏な空気なのに。その一言も焼け石に水だとは分かっている。


「~!―ッ!!」
彼らの背中を見送っていると何かが聞こえてきた。
奇声。その何かに対しての表現方法は、それ以外に無かった。
言いたい事はあるが、感情の昂ぶりを抑えきれず何を言っているかわからない。と言った物ではなく。
本当にただの奇声だった。強いて言うならば、その奇声こそがそれを発する当人の心模様だろうか。

その奇声の発信者に対する思い当たる節は・・・1人しかいなかった。
星は振り向くが、頬に誰かがスレスレを相当な速さで通り過ぎた証である風を感じるだけで。
星の視界には必死にこちらへと向う一輪と村紗を確認するだけだった。
「星!姐さんを止めて!!」
その声が聞こえる頃にはもう星の顔はもう一度反対方向に、元いた方向へと向き直った。
その視界に一番最初に飛び込んできたのは。取り巻きを地に伏せさせ、いつもくる奴を両腕をもってして締め上げる聖の姿だった


そして聖は奴を地面に叩きつける。ここまで来てやっと星の体が動き出した。
聖は泣いていた。怒りと悲しみ、その二つを混ぜた顔で何かを泣き喚いていた。
相変わらず聖の言葉は何を言っているか判別が付かなかったが。彼女の心中を察するには最早言葉など必要は無かった。

「聖!駄目です!!」
ただ、今の聖は冷静さを失っていた。聖の振り上げた拳は、聖がどう思っているかは分からないが。
ただの人間には、十分すぎるほどの致死的な一撃になる事は明らかだった。

星は聖に飛び掛り無理矢理動きを封じた。
星と聖はお互い掴み合いながら、辺りを転げまわった。村紗が奴を遠くに投げるのが一瞬見えた。
一輪が加勢に入ろうとしてくれたが、勢いに入り込む事ができず弾き飛ばされてしまう


だが、一輪の身は地面に打ち付けられる寸前で白いもやのような物に受け止められた。
そしてそのもやの一部は星と聖にまとわり付いていく。
雲仙である。この異常事態に使役する一輪からの命を待たず、独断で動いてくれたのだ。

雲仙は聖の暴走を自身の体を使い、全身全霊の力で封じてくれていた。
それでも、雲仙の力を持ってしても。正気を失い暴れている聖の力は雲仙の力を破ろうとしてくる。

「うっおおおおアアアア!!!」
星にとって久しぶりに出した妖怪としての本気だった。
気合を入れるために叫びながら、聖を引きずり。
ふすまや障子の類を蹴破り、辺りに飾られている調度品を転倒させる事もいとわず。命蓮寺へと入っていった。
「ヌアアアア!!!」
そしてそのまま星と雲仙は聖の部屋へと向った。

「ハッ!!」
聖の部屋にたどり着いた星は。聖を顔面から敷いてあった布団へと叩き付けた。
無論それくらいで聖が止まるとは思っていなかった。
布団に叩きつける際。星はありったけの妖力を聖に流し込んだ。
それでも、聖はなお暴れ続けた。星は聖にのしかかり、聖を気絶させる為に力を使い続けた。



ようやく聖を強引に寝かしつけた星には、立ち上がる気力は残っていなかった。
膝をつき、両手もつく四つんばい状態。その状態でいるのがやっとだった。
「ふふ・・・・あはははは・・・・・・」
星は力なく笑うことしか出来なかった。

聖も○○も真摯に将来を考え。
自分達も自分達で、外野だと思ったから余計な事は何もせずただ静観をしていて。
皆、思い思いの考えで。最善の方法を選ぼうとしていた。
だが、その選択肢は全く最善ではなかった。むしろ最悪に近い選択しか選んでこなかった。
だから、星には笑うことしか出来なかった。
自暴自棄とも取れる大笑いを、星は止めることができなかった。
「はははは!!何をしていたんでしょうね!私たちは・・・・・・!」


「・・・・・・星」
声をかけられ顔を上げると、一輪と村紗が立っていた。村紗の方は涙を流している。
「あいつらは?」
星はヤケクソに笑った顔のまま問うた。
「里に戻ったわ・・・相当焦ってたわ」
「そうですか、そうですよねぇ・・・・・・くくく」
最早○○の運命も決まってしまった。聖のこの姿を見てしまった以上、奴等は是が非でも○○を連れてくる、どんな手を使ってでも。
そうしないと、自分達のみに危険が及ぶと考えてしまっているから。
「馬鹿どもか!!」
星の滅多に言わない罵倒の言葉に空気は一層重くなる。

「ご主゛人゛」
枯れた声でナズーリンが星を呼ぶ声が聞こえた。
星はナズーリンに数日休めと言っていたが。この騒ぎだ、流石に寝ていられなくなったのだろう。
腹を何発も豪打され、息を吸うのも辛そうで。首をあらん限りの力で絞められた為声帯にもいくらかの傷が見て取れる。
「ナズーリン、構わず寝ていても良かったのに」
星の言葉にナズーリンは何かを言おうとしたが。咳き込んでしまいそれは叶わなかった。
その姿を村紗がいたわった。


「村紗、貴女の言うとおりでしたよ」
「貴女が一番・・・・・・正しかった。今更こんな事をいわれても迷惑でしょうが」
そう言うと、星はまた笑い出した。今度は涙声を混じらせ。嗚咽と笑い声を混ぜた物が辺りに響いた。



そう、最早どうする事もできない。
運命の歯車は、もう戻す事ができない勢いで周り。戻るには遠すぎる場所までたどり着いてしまった。



最後に。全てを読み終え満足した○○は神社の方向に向き直り、深々と一礼をした。
家族、友人、故郷。自分が関わった全てのものに対するせめてもの挨拶だった。
○○はくるりと里の方向へ向き直り、はっきりとした足取りで歩を進めた。

「明日の朝一番に命蓮寺に行こう」
決意はもう十分に固まった。時間をかけすぎた気はした、その事だけは謝らなければならないだろう。
今日はご近所さんに、決心を固めたとの挨拶回りを。ついでに何か酒でも配った方がいいのだろうか?
今住んでいる家は手放すだろうから、命蓮寺に居を移すのはいつごろになるだろうか。
かなり待たせてしまったから、早い方が良いだろうな。

直近に起こるだろう事を想像し、段取りを頭の中で建てながら○○は里へと戻っていった。
「・・・流石に今日明日にいきなり居を移すのは失礼だよな」
本心は、今すぐにでも聖の元に行きたかった。
ただ、○○は生真面目な為。一足飛びですぐに行こうとせずに、急がば回れの精神か。
段取りや手順を決める事を好んでいた。周りとの良好な関係のために。

「ん・・・そうだ」
○○は歩きながら、外での事を記した帳面を取り出した。
そして、その余白の部分に何かを書き始める。それは自身の心の内をつづった物だった。
○○にとって、自分が自分足り得る物の根幹は間違いなく外での生活に合った。
だから、結果的に○○は幻想郷を選んだとは言え、外での思い出を記憶を捨てる気は無かった。
歩きながら、自分と言う物を作り上げた外に対する今の思いをつづる。
それはなんら後ろ向きな物ではなく、感謝の気持ちを中心につづっていた。

「・・・後で清書しないとな」
ただ、歩きながらでは字の形は多少なりとも崩れる。それでも、後に回してしまったら忘れてしまいそうだから。
走り書き程度でもいいから少しは残しておきたかった。

歩きながらの書き物。それが更に時間を使う結果となった。



里に帰ってきたのは、もう昼を少し過ぎた辺りだった。空腹感を覚え途中から早歩きになったがそれでもかなり時間をかけてしまった。
「・・・・・・?」
門の前に、いつもより多い人間が集まっている。
普段の門番の数より明らかに多かった。引継ぎのの場面に出くわしたにしても、平時の警備に必要な人数とは思えない。

門の少し手前で○○の足は止まった。門の前に集まる人間が全員、○○の方へ視線を固定していたから。

冷や汗が流れるのを感じた。彼らの視線は、およそ平穏な生活を送ってきた○○が経験した事の無い物だったから。
冷たい。侮蔑の意味とはまた違う冷たさ、その冷たさはさながら刃のようだった。
指揮官だろうか、誰かが手を動かし周りの者に合図を送る。
笑っていないので中々気付けなかったが。それはいつも○○と日常の会話をして、相談相手にもなってくれた彼だった。
いつもの微笑はそこには無く。じっと○○を見据えていた。
彼だけではなった。皆動きながらも視線は○○を捕らえ続けていた。
その動きにはひとかけらの無駄も無かった、さながら獲物を見つけた熟練の猟師のようだった。

「あの、みなさん・・・どう・・・・・・された・・・」
○○の問いかけに反応する気配も無く、その者達は○○を取り囲もうとする。
後ろに回られたくなく、後ずさりをする。その後ずさる早さも徐々に早くなる。
段々と里の入り口である門から離れていく。
だが、門の前に陣取る彼と何人かの取り巻きも、後ずさる○○と歩調を合わせるように前へ前へと動き。
その距離を一定に保つ。

ついに、その緊張に耐え切れなくなった○○が、里を背にして走り出した。


「追え!神社への道もふさげ!!」
背中越しに、いつもの微笑を絶やさない彼からは、想像もできない大きな声が張り上げられるのが分かった
神社への道からも何人かが○○を追ってきた。ずっと隠れていたのだろうか。
反対側の少し斜め後ろからも、○○を追いかける者たちの姿が見えた。

左右から並走されれば袋のネズミになってしまう。仕方なく○○は神社への道を捨て、まだ並走されていない方向へ道を変えた。
その道は、○○が命蓮寺へ向うのにいつも使っている道だった。


訳が分からなかった。少なくとも○○は追われるような大それた事はしていない。
まったく身に覚えの無い、予期などしているはすも無い逃走劇だった。
この時○○は手に持っていた帳面を落としているのに気付いた。
だが、気付くだけで何も思わなかった。思えなかった。
その落とした帳面が外での事を書き記した事だと気づけても。そこに何らかの感情を抱けるほどの余裕は、あろうはずも無い。
そして何故追われているのか?それを考える暇も無い。
とにかく今は逃げる事しか○○は考える事ができなかった。

命蓮寺へと続く道は、草木も刈られ見通しが良かった。
不味いと思った。今は捕まらずにいるが、この数では太刀打ちが出来ないし、ここでは隠れる場所も無い。
その為、○○は横にそれる事にした。不整地を走るのには不安があった。
しかし、このまま見通しの良い場所を走り続けるのはジリ貧だった。賭けるしかなかった。

案の定、不整地への進入は足を取られるだけでなく、木々の切っ先で生傷も出来上がった。
しかし、不整地への進入を追いかける側が少しためらってくれる嬉しい誤算があった。
木々が刈られていない不整地では足元も見えない。その為倒木や足を取るには十分な丈夫さの草木が見えない。
それらに足を取られて転倒してしまう危険が合った為、追跡者達は勢いに任せての進入を躊躇したのだ。
「追え!見失う事だけは絶対に避けろ!!」
また背中越しに彼からの怒声が聞こえる。何があの微笑みを絶やさぬ彼をここまで駆り立てるのか。
一向に分からぬ難問だった。

しかし、今は疑問に対する考察よりも、身の危険を回避するのが最優先だった。
この時、○○はまた賭けを思いついた。
その賭けを実行に移す際、思わず何かに祈った。


○○は走るのをやめ、思い切り地面に伏せた。
木々を踏み荒らす音が聞こえる。恐怖で飛び出したい衝動に駆られた。
しかし、今飛び出せば。目と鼻の先程度に詰まった距離にある追跡者に簡単に捕まってしまう。
○○は息を止め、祈り続けた。どうかみつかりませんように。
次第に木々を踏み荒らす音が遠ざかる。

勝った!だが、喜ぶのはまだ早かった。見失った事に気づいた追跡者が戻ってくるかもしれない。
○○は慎重に前を確認し、出来るだけ姿勢を低く保ち元の道に戻った。
しかしもう里には戻れない。○○は消去法で命蓮寺に向うしかなかった。


「戻れ!走れ!走るんだ!!」
また怒声が聞こえてきた、どうやら撒かれた事に気付いたようだ!
このまま命蓮寺に足を踏み入れるべきか、○○は迷った。
何故追いかけられているかは分からなかった。でも、彼らが自分を捕まえようとする姿勢は本気だ。
聖白蓮ならば・・・いや命蓮寺の皆なら自分を匿ってくれるだろう。
しかし、もしその事がばれたら・・・とてつもない迷惑となってしまう。
かと言って、里にも戻れない。この状況ではきっと里全体が敵だろう。
一体自分が何をやったと言うのだ。身に覚えの無い出来事に憤りと悲しさがこみ上げる。


ただ、その言葉が聞こえるまでは。
「急げ!早く捕まえないと、我々全員聖様に殺されるかもしれないぞ!!」
その言葉で、走り続ける足は止まらなかったが。思考は止まらざるをえなかった。

その言葉にこもる必死さ。それはこの異常事態を飲み込む事の出来ない○○でも分かった。
だから、その一言は嘘などではないのだろう。○○を惑わせる嘘とも思えなかった。
そう、だから。だからこそ○○の思考は止まってしまった。
自身が逃亡者となる事よりもありえない事態だったから。
○○を捕まえろと言ったのは聖白蓮なのか?だとしたら何故?
一体、私は聖白蓮に何をしたのだろうか?そんなに大事となるような事をした記憶は一切無い。
○○の頭に聖白蓮と出会い、今までの事がぐるぐるとめまぐるしく回る。
説法会での事、談笑の事、法力指南の事。彼女に抱いた確かな恋心。
そして徐々に、その思考も。それを含めた殆どの思考が出来なくなっていく。

○○が聖白蓮に対して、何かした事といえば・・・あるとしても。
あるとしても、待たせすぎた事くらいのはず・・・それは○○も大きく反省していた。
だが、それがここまでの。里の者達が血相を変えて○○を追い掛け回す。
そこまでの大事を引き起こす原因になりえるとは、とても思えなかった。

そこまで考えて、○○の頭脳の回転は、眼前に迫る危機を回避する為に両手両足を激しく動かす部分を残し。ぷっつりと途切れてしまった




命蓮寺の境内には誰もいなかった。○○は手近な蔵に入り込んだ。
逃走劇の途中から、この蔵に入り込む行動。その行動は殆ど無意識だった。
今○○の頭で動いているのは危機回避のための本能だけだった。
あまりにも、あまりにも考えられない事態だったから。
聖白蓮の人となりは○○もよくしっている。彼女がこんな荒事を指揮するようにはとてもではないが見えない。
それは聖から簡単なものとは言え、手取り足取り法力の手ほどきを受けたからこそ余計にそう思う。
蔵の壁にもたれ掛かり、一息付く事ができた為。
徐々に○○の思考は再び動き出す事が出来ていた。
しかし、動けば動くほど○○の混乱は深まるばかりだった。

このときの○○は、まだ聖白蓮や命蓮寺に対して疑念の一文字も浮かんではいなかった。
いくら考えても、こんな事をしでかす人達には見えないし思えなかったから。

座っていても目眩が激しくなっていくのが分かった。余りの混乱状態に。
その混乱状態は体にも異変をもたらした。視界も定まらずチカチカと黒くぼやける上に、体も小刻みに震える。
顔全体を手で多い。大きく呼吸をして息を吸い込み、酸素を取り込む事により、かろうじで頭を回していた。
それでも、体の小刻みな震えと視界の異変は止まらなかった。


「申し訳ありません!!寅丸様!!!」
外で何事か合ったのだろうか大きな声が聞こえてきた、声を出したのは彼だった。言葉尻から彼は寅丸星に何事かを謝罪しているようだ。
その声色に、○○はまた不穏な空気を感じ取る。

寅丸星、彼女のことはもちろん○○も知っている。
聖白蓮の手足として非常によく働く姿を何度も目にしているし。聖も寅丸のことはよく褒めていた。彼女が部下である事を誇りに思っているようだった。
実質的なこの命蓮寺での次席に当たる地位にいるのは。貫禄と聖の言葉で理解していた。

○○は外の様子が気になった。しかし入り口の扉を開けるのは危険すぎた。
○○は出来るだけ音を立てない様に注意しながら、階段を上っていった。
階段も床も這いずり回る形で移動し、動作音を可能な限り減らしていた。
そのまま蔵の二階にある入る時に確認した、明り取りの為の少し大きな格子状の柵が付いた窓に近づく。
残念ながらその格子窓には観音開きの戸が付いていた。
○○は慎重に。早く何が起こっているかを確認したい、そんなはやる気持ちを抑えゆっくりと、ほんのすこしだけ戸を開いた。


その本の少し開いた戸から見えた光景に○○は絶句した。
丁度、寅丸星が。土下座をしている里人の彼を蹴り上げる姿だったから。



寅丸星の彼への暴行は止まらなかった。
蹴り飛ばし、倒れた所を掴み上げて殴り飛ばし。また掴み上げて今度は地面に叩きつけ。
取り巻きの者達は土下座の体勢を止めることなく、額を地面にこすり付けて許しを請うていた。
その凄惨さに一部始終を確認することなく○○はそっと扉を閉めた。
○○は恐怖した、そして信じたくなかった。
本当に、本当に自分を捕まえろとの指令を飛ばしたのは、命蓮寺の皆なのだろうか。
降って沸いた疑惑の種。その疑惑の種は、今しがた目にした光景を肥料に芽を生やした。

「この愚図どもが!荒っぽいにも程があるだろう!!」
そして聞こえてきた寅丸星の言葉。それは芽を生やした種に、更に良質な肥料となって降り注いだ。
その一言に○○は体の力が抜け、崩れ落ちるのを感じた。
感情では否定したかったが、目にし、耳にする状況は、確実に命蓮寺への疑惑を濃い物にしていっている。

○○は耳を塞いだ。しかし星の罵声は、耳を塞ぐ手の平を用意に突き抜け、○○の鼓膜へとたどり着く。
全てが変わってしまった。その兆候を感じることのないまま、○○は修羅場に放り込まれてしまった。
○○は声を押し殺して泣いていた。信じたくないし見たくもなかった。いっそ、何も知らない方が幸せだったかもしれない。

そして星も。○○を修羅の道に放り込んでしまった事への自責の念を強く抱えていた。
八つ当たりに近く無為な事、ということは彼女自身嫌と言うほど分かっていた。
しかし、頭では理解していても。感情の部分でこの腹の虫を押さえ切れなかった。
殴りつけ、叩きつけ、投げ飛ばす度に。○○に対する強い自責の念が広がり、それと同時に腹の虫も収まる事無く彼女の心中を蝕む。

しかし、傍から見聞きしている○○には。その心中など推し量れるはずもなく、ただただ疑惑の種を成長させる肥料としかならなかった。


「早く行って捜して来い!!どうなっても知らんぞ!!」
今の行動を見られていたとも知らず、全ての行為が悪循環して○○の身に降りかかっていることなど知る由もなく。
星は苛立ちを全く隠そうとしなかった。全てを知っている命蓮寺の面々は星の心中を推し量れても。
さとり妖怪であるまいし、ただの人間である○○に理解しろと言うのは無茶であろう。

そして、○○の中に存在した最後の希望も儚く崩れ落ちた。事実は別として、少なくとも○○の目にはそう見る事しかできなかった。
孤立無援。最早○○には頼る事のできる人物や勢力は無くなってしまったに等しい。
○○はここから、ひいては幻想郷からも逃げ出す決意を固めた。それは慎重な○○には似つかわしくないほど早い決断だった。


しかし、○○は外に出れなかった。怖かったからだ。今回のように何処かに逃げ込みやり過ごせる状況が沿う何度も続く訳がないと思っていたから。
それに、草木が刈られ整備された以外の地は、何がどうなっているのか○○にも分からない。
ひとたび足を踏み入れれば、もう戻る事のできない魔窟と言っても過言ではなかった。

そして、何の行脚か命蓮寺にはかなりの頻度で人間が出入りしている。それらに見つかる事は○○にとっては死にも匹敵する重大事だった。
さすがに、夜間はその人の出入りも無くなるが。暗闇を移動する手段も能力も持たない○○にとっては夜の闇は危険極まりない物だった。

故に、○○はこの蔵から動く事ができなかった。水も食料もなく、動こうにも閉塞きわまる○○が最後に頼らざるを得なかったのが。聖より教授された法力であった。

法力の力で、飢えや渇きをしのぐ事ができる。それは聖から教え聞いていたし、イメージとしても持っていた。
もっとも○○は、そこまでの力は別に必要ないと思っていたが。
しかし、いつまでここにいるかも分からず。命を繋ぐ食料や水も、蔵の中をあちこち探したがろくに見つからず。
泥水をすすり虫の類を口にするよりは、まだこちらの方が精神的にも良かった。
この時○○はの心中には良くも悪くも濁りがなかった。
ただ生還する事を第一に考えていたから。かつての○○の中では、法力を扱うのはある種の遊びだった。
しかし、遊びではない本気で扱う。生き残る為に使おうとする法力。その極限状態の中で○○の法力は強まっていった。

寅丸星の里の者達に対する怒声は度々聞こえてきた。その度に○○は自分の心が黒く染まっていくのが分かった。
座禅の体勢を維持し、法力の使用を意識しながら
そしてその黒く染まった心中が、命蓮寺への憎悪を増やしていくのも。


星には自覚があった。自分の行いが無為である事を。
分かっていながら、彼女は彼等が来る度に挨拶代わりに一発殴ってしまっていた。
聖の崩壊を止めれなかった不甲斐なさを。自身の見通しの甘さと失策を棚に上げ、全てを彼らにぶつけていた。
八つ当たりもいいところだった。それでも、心の大部分で元々の元凶はこいつ等だと思っていた。
自己の正当化と言う感情は今の星には希薄な物でしかなかった。
星だけではなかった。命蓮寺の面々全員が星の行動は間違っているとは思いつつも、止めようと言う気になれなかった。
「このノロマどもが!!もういい私も付いていく!早く立て!愚図ども!!」
全部聞かれているとも知らずに。いつの間にか、○○だけではなく。他の物の首も自分で絞めている格好となっていた。

星は焦っていた。丸一日以上経過した辺りから、その焦りは彼女から冷静な思考を失わせた。
法力を聖から教わっているのは知っていた。しかし、あの程度の法力では幻想郷を闊歩するなどどだい無理な話である。
ただの人間に夜の幻想郷は危険極まりなかった。怒声を散らし疲れきった彼等に鉄拳という名の鞭を飛ばし、無理矢理立たせると言った光景が繰り返された。

焦っていたのは里の者達も同じだった。既に何人かは遺書をしたため、死地に赴く覚悟で○○の捜索を続けていた。
特にリーダー格の“彼“は筆舌に尽くしがたい暴行と重労働を星から課されていた。
しかし、何が彼をここまで動かすのか。体は悲鳴を上げていても、意志は死んでいなかった。
○○を追い回したあの時からと同じ、鋭利な刃物のような眼付きだった。
その死なない眼付きは。むしろ、以前にも増す鋭さを持った眼の輝きは、星の癇に障るには十分だった。


日に何度か、しかたなく星は連れ歩いている彼らを命蓮寺に戻して休憩を取る。
死なれても困るから、それと自分の食事を取りたいから。
星自身は、多少は食事を抜いても活動できる体力と自信があった。しかし彼等は違った。
彼等は人間だった。人外の基準で活動させればすぐに事切れてしまうことはギリギリ忘れていなかった。
命蓮寺に戻らず現地で食事を取っても良かったが、そうするとギリギリ覚えている事を忘れてしまいそうで。
だから、お互いのために仕方なく命蓮寺を拠点としていた。

この惨状を誰かが伝えたのだろうか。命蓮寺に戻る度に彼らに与える握り飯や飲み水を持った世話役と思しき少人数の集団が入り口に佇んでいる。
星は目の端で確認はするが。気分をこれ以上悪くしたくなく、確認するだけでさっさと建物の中に入っていってしまう。
それでも、例え星が殆ど自分たちの事を見ていなくても。世話役の者達は星の姿を確認すると。
とんでもない速さで額をこすり付ける、いわゆる土下座の体勢で迎える。
その卑屈さが星の気分を更に害する。だから殆ど無視していた。



○○の方は相変わらずだった。相変わらず蔵の中から動けなかった。
法力を腹に溜め、かろうじで動いている状態だった。それでも何度地を這う虫を見て唾を飲み込んだか。
もう既に○○の感情は固まっていた。
命蓮寺も里も。全て自身の敵だと認識していた。騙されたという憤りばかりが○○の中を駆け巡っていた。
鞄に残っていた筆記具と、聖白蓮との出会いから今までの事を書き記した帳面。その帳面に全ての恨みつらみを書き記していた。
このままこの蔵にいてもジリ貧だった。危険を冒しても外に出なくてはならなかった。
逃げ切れる自身は無かった。捕まってしまえば何をされるか分からなかった。
だからせめて、せめて自分がこの恨みを抱いていた事を残す。
ガリガリと帳面の余白に思いの丈をつづる音だけが蔵の中にはあった。
種々の罵声やら何やらは書き物の途中にもたくさん聞こえてきた。それが更に○○の筆を加速させる事となる。


星は悪循環を断ち切れずにいた。
手を上げる理由はイラつくから、しかし手を上げればそれはやがて自己嫌悪となり帰ってくる。
そのうち自己嫌悪をもたらす理由を、向こう側のせいではないかと思い始める。
殴りつけた自分にも非がるのは星自身自覚してはいたが、罪の重さは向こうのがはるかに上だという感情を堪える事はできなかった。

そして、彼の前に立つと。自己嫌悪よりも憤怒の感情がはるかに勝ってしまう。星はその憤怒に抗うことなく拳を振り下ろしていた。

ぐったりと木にもたれ掛かり眠りこける彼の前に立つと。また憤怒の感情が呼び起こされる。
“次は出来るだけ手を上げないようにしよう“先ほどまでほんの少しは考えていたそんな感情も憤怒の炎によりかき消される。
今の星は、彼の行動の一挙一動、全てが癇に障っていた。

そしてまた、今回は拳ではなくつま先が彼の腹にめり込む。
「起きろ」
そう短く命令するが、小さくうめくだけで一向に起き上がる気配は無い。
大きな舌打ちが星から漏れる。後ろには他の里人がいるが、もう関係なかった。
そして今度は足を踏みつけようとするが。
「駄目よ星」
その一撃は聖の声により静止された。

「聖!」
まさか起き上がってくるとは思わず。星は面食らってしまった。
聖の顔は、自身が最も知る顔だった。その柔和な笑顔、全てを包み込む柔和な笑顔。この場に全くそぐわない柔らかな表情、そして。
「足を潰したら○○を探せなくなるじゃない」口から出る言葉も表情にそぐわない物だった。
傍らにたたずむ一輪は能面の表情で、村紗は周りを威嚇していた。
それがまた聖から発せられる、乱れた調和をより一層引き立てていた。

だが。「そうでしたね、思慮が足りませんでした」情緒が破綻していたのは聖だけではなかった。
星の方も、この状況になれてしまった。最早この矛盾を当然の物と思っていた。

「焦りは禁物よ。急ぐ必要はあるけれど、焦ったら急がない時より時間がかかるわ」
チラリと目をやり「貴方達は別に怪我とかしてないわね?」言外に伝える。
その言葉に彼らは脱兎の如くどこかに行ってしまった。
「一輪、村紗。貴方達もお手伝いしなさい」
聖に促され二人も彼らの後を追った。星に監視されるのと、どちらが幸せなのだろうか。


「ねぇ貴方起きてる?」
境内に三人だけが残され。聖は彼に向き直り、中腰の姿勢で目線を合わせ語りかけた。
「酷い怪我ねぇ。○○さんの心の傷よりは軽いけど」
彼の腕にある傷の部分をわざとなぞりながら言葉を続ける。彼は小さくうめいた。
「いいわよねぇ。体の傷はうめけば少しは楽になるから」
次に指の腹ではなく、今度は爪でガリガリと。皮が破れ、露出した肉の部分を引っかく。
「本当に・・・・・・息の根を止めないだけマシと思いなさいよ」
聖の様子は徐々に変わっていった。最初の柔和な笑顔も、黒いものがかかっていき。笑顔では合ったが、悪役が見せるような邪悪な物だった。
声色もドスの聞いた太い部分が強調されるようになった。

肉を引っかく勢いは増していき、聖の爪の間には肉の破片が溢れ出していた。
星はその様子になんとも思いはしなかった。気にしていることといえば、聖の服が彼の血で汚れないかが心配。それぐらいだった。
「本当に・・・!本当に!!」
声が大きくなり、今度は腕の傷をしっかりと握りこんだ。特に聖の親指はズブズブと彼の肉にめり込んでいく。

「がぁぁぁぁ・・・!」
「うるさい!!」
うめき声が大きくなる彼に。聖の激昂と共に放たれた拳が顔面にめり込む。

「うめき声すら貴方には贅沢だわ!○○さんは見つからないように今も息を潜めているのに!!」
「何でこんな荒っぽい方法を選ぶのよ!もっとまともな方法は無かったの!?」
「愚図が!馬鹿ですらないわ、愚図よ!お前達なんか!!」

遂に聖の癇癪に火がついた。しかし、何を叫んでいるかまだ判断は出来る。
少なくともあの時の。自分達を認識できなくなる程の癇癪よりは。雲山と共に床に叩き伏せた時よりは冷静だなと思い。
星は、まだ止めようとはしなかった。ここは聖の好きにやらせるつもりだった。

「もっと上手くやりなさいよ!もっと考えて動きなさいよ!!挙句の果てに逃げられるなんて!!」
聖の五指は彼の腕にかなり深くまで食い込んでいた。
「だから貴方達は愚図なのよ!!」
金切り声を上げる聖。掴んだ腕は離される事なく、空いたもう片方の腕でも殴り続けていた。

その腕が彼の首を掴もうかと思った瞬間。聖の動きがほんの少しだけ躊躇し、狼狽の色を見せた。
そして小さく「ナズーリン・・・・・・」と激昂から一転して泣きそうな顔で呟いたのを星は聞き逃さなかった。
「お前のせいよ!!お前達のせいでナズーリンは首を!首を絞められたのよ!!」
そう言い直し空中を掴んでいた腕が、聖の五指が食い込む腕に掴み直された。そして。

「があ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
「うるさい!うるさい!うるさい!!!」
彼の腕が、人体の構造上では、本来動作する方向とは全く逆の方向に折りたたまれた。
その痛みに彼は、星からの暴行でも上げなかった今までで最も大きな悲鳴を上げた。その悲鳴が聖の癇に障り更に深く折りたたまれる事となる。

「ふっ・・・ふっ・・・」
激痛から悲鳴を上げ、次に彼の過呼吸気味の息づかいが鼻から聞こえてきた。
口は真一文字に閉じられ、うめき声の一つも漏れる事はなかった。
逆方向に折りたたまれた腕は未だに聖の手により更に折りたたまれようとしている。
時折彼の体がビクンと跳ね上がるが、声は漏れなかった。歯を噛み締め、呻き声を抑え、豪打から身を守っているようだ。
「疲れるわ・・・何でこんなのに体力を使わなきゃいけないのかしら」
不意に聖の興奮が鎮まった。それでも、彼の腕を痛めつけるのだけは止めなかった。

そのまま何分が経っただろうか。相変わらず聖は彼の腕を放さなかった。
恨み言の一つも呟かず。ただじっと、彼を見つめていた。
時折彼の意識が飛びそうになり、頭が支えを失ったかのようにぐらぐら動いていた。
その様子を見る度に星は、頭を膝で少し強めに小突いて起こしていた。
この状況でもまだ星の注意は聖に向いていた。今は小康状態にあるが、いつまた感情を爆発させるか分からない。
そうなれば彼を殺してしまうかもしれない。流石にそこだけは星も気にしていた。
言い換えれば、死にさえしなければ何をやっても止めるつもりは無かった。

聖は時折ため息をついたり、眼を閉じ何か思案にふけっているように見えた。そして。
「そうね・・・・・・奥で少しお話しましょうか。私と○○さんについての事を」
そして、聖は何か答えを見つけたのだろう。彼の腕を放し、母屋の方に体を向けスタスタと歩いていった。
「星、彼を連れてきて」
「じ・・・自分で、あ・・・・歩けます」
「遠慮するな」
気づかいを断る彼の言葉を無視し、星は手を取った。
先ほどまで聖に痛めつけられていた彼の腕を、思いっきり強く引っ張る形で。
当然ながら、本日二回目の大きな悲鳴を命蓮寺にこだまさせた。


その一部始終を。○○は蔵の中で耳を塞ぎ怯えながら聞くことしか出来なかった。
ペンも帳面も放り投げ、子供のように丸まりながら。聖の言うとおり声を押し殺して。
見つかりませんようにと、祈るばかりであった。



聖白蓮が○○にどのような思いを抱いているかは想像に難くない。
そして、きっとその感情が常軌を逸した偏愛である事も。
何故?そして何処で?どのようにして聖白蓮はこのような常軌を逸した感情を持つようになったのか。
あるいは。最初から聖白蓮も、その配下として付き従っている命蓮寺の皆も、全員最初から狂っていたのか。
そしてそれに従属する里も、狂っているのか。

蔵の中で息を殺してばかりいる○○には容易に見つけ出せぬ答えであった。
しかし、ジッとしてばかりではいられなかった。
生半可な法力の力では、○○の空腹と喉の渇きを誤魔化すのは既に限界に近かった。
○○は深呼吸を続け。どうにか満足に動ける程度の心の平穏を取り戻す。
相変わらず心臓はバクバクと高鳴り、恐怖心は消え失せる事はなかった。
それでも、震える手と酷くなるめまいを押し通し。帳面に思いの丈をつづり続けていた。

日が落ちたらすぐにここを出よう。大きな決心と共に、○○は執筆を続けた。
○○は急いでいた。日没までの間に出来る限り完成させなければならない。
そしてこの帳面を隠す時間を加味すれば。執筆を続ける時間はもうそれほど残されていないはずだから。

煌々と照っていた日の光も、徐々に沈んでいくのが明り取りの窓から差し込む光の量で確認できた。
手元も暗くなっていき文字を書くのに難儀していく。
まだ書き残したい事はあった。時間をかければ更に洗練された物に出来ただろう。
だが○○としてはこれの完成度を上げるよりも、一刻も早く命蓮寺から立ち去りたかった。

○○は帳面の隠し場所として土の中に埋める事を選んだ。
手頃な空き箱を見つけ、床下にどこか外れるところは無いか丹念に探し回っていた。
勿論、それらの行動をする際。立ち歩かず四つん這いとなり、出来る限り動作音を減らしていた。
少々の音でも漏れ聞こえるとは思わなかったが。恐怖心から慎重な行動を取らざるを得なかった。

一体聖白蓮は自分に何を求めているのか。自身を捕まえた後何をするのか。
未知の恐怖におののき。張り裂け、大声を上げたくならんとする胸の内を堪える。その影響で○○の作業は度々中断された。


床板の一部をはがせる所を見つけた○○は用意しておいた空き箱をスコップ代わりに土を掘り返した
もし、自分が捕まった後。蔵の内部に土がある事を怪しまれないように。蔵の内部に土を残さないように注意しながら。
明り取りの窓から差し込む光の量はもう心細い物だった。もう日没までは幾ばくもないだろう。
これを埋め終わる頃には、外に出るには丁度いい塩梅かもしれない。

見つかる可能性を少しでも減らしたく、穴は出来る限り深く掘った。
その穴に帳面を入れた箱を安置し、また土をかけ穴を塞いでいった。
ただ土をかけるだけではなく拳で叩き。出来るだけ固くしておく事も忘れなかった。

床板を元の位置に戻し、これで見た目は以前と変わらない形となった。
蔵の中から聞き耳を立てる限りでは、外は静かだった。人の気配も感じられない。
夜間の捜索活動を行う旨の話は今まで聞いたことは無かった。里の人間達は命蓮寺に戻らずそのまま里に一時帰ったのだろうか。
どちらにせよ聖白蓮も、命蓮寺勢も、里の者達も。○○がまさかこんな近くに息を潜めているとは思っていない事だけは確かだった。

まずは命蓮寺の近くの森で、木の上にでものぼり夜間は息を潜め。明日夜明けの直前くらいに神社へと向う算段を立てていた。
ひとつ気になる事は。博麗の巫女がしばらく結界を開けない事を、立看板で知らせていた事だった。
何か理由があって開けれないのであれば結局は八方塞だった。いっその事力に任せて無理矢理開かせるか。
暴力沙汰は○○も望みはしないし出来れば使いたくは無い。だが博麗神社が自分を匿ってくれる保障も存在しない。
里、命蓮寺と裏切られ続けた○○は。既に幻想郷に対する信頼など微塵も無かった。
故に。○○の思考はどうしても物騒な方へ物騒な方へと傾くままであった。



○○の発した大きな悲鳴は、白蓮たちのいる部屋にも届いた。
その声を聞いた聖は持っていた例の帳面を放り投げ、一輪が入れてくれた二つの湯飲み茶碗も蹴り飛ばし、部屋から出て行った。
聖の持っていた帳面は、追い詰められた余りに聖が妄想した都合の良い歴史を記したあの思い出帳であった。
一輪が茶を聖と星に運んだ際、この帳面は勿論聖の目にも入った。
妄想の産物である、思い出帳の存在自体は皆知っている。しかし実際に見たのは星も含め一度も無い。
星ですら、その中身を詳しく知る事ははばかれる様な思いがしたから。
それに、帳面に書かれている名称も恋心が盛んな乙女のような甘酸っぱくもこっぱずかしい物ばかりだった。
「ねぇ・・・これって」
「全部事実よ」
一輪の疑問に聖はすかさず答えを提示した。
ただ、答えを提示する聖は。奥歯を噛み締め、目を強く閉じていた。
事実でない事は十二分に分かっているようだった。それでも聖はこの帳面の中身を事実だと言い張る。
「そうね、そうだったわね。ごめんなさいね変な事聞いて」
一輪は察したようだった。そしてこの帳面の中身を事実にしてしまおうとも決めたようだ。
「今でも昨日の事の様に思い出せますよ、○○との思い出は」
そして星も、腹を括っていた。
そして聖の講義が始まった。その途中に、○○の悲鳴が聞こえてきたのだった。

聖が部屋を出て行くのとほぼ同時に。聖は気づかず、星にも聞こえるか聞こえないほどだが。彼が「助かった」と口を動かすのを星は見逃さなかった。
この注意深さと視野の広さが、彼女が次席の地位に座り続けられる所以であった。

勿論、彼の一言は星の神経を逆なでする物であった。
「お前も来い」
そう言って、激昂した聖によって逆方向に折りたたまれた腕を、また強く引っ張る。

だが、今度は彼の声から悲鳴は聞こえなかった。
「・・・・・・おい」
度重なる暴行、○○が中々見つからぬ事による心労、そしてそれらからもたらされる体の疲労。
その全てが○○の発見と言う成果によって、一気に彼の体に流れ込んだのだろう。

「クソッタレが・・・・・・」
まさか事切れてしまったのではないか。そこだけは心配していた星はすぐに彼の脈を計った。
脈は合った、息もしている。ただ単に、気絶するように眠ってしまっただけだった。

彼は本当に安らかな顔で寝ていた。緊張の糸がぷっつりと途切れてしまったのだろう。
腕を握る手にも力がこもる。聖の時と同じように、彼の腕にある傷に爪がズブズブと埋まっていく。
憎たらしい程の安らかな寝顔だった。
星はすぐに頭の中で優先順位を確認した。こいつにいくらか見舞うのと聖の癇癪が爆発した時の危険性とで。
比べた結果、聖の癇癪の方が怖いと結論付けた。こいつを殴るのはいつでも出来る。
それでも掴んだ腕は放さず。彼を引きずりながら、星は聖の下へと急ぐ事にした。
急ぎつつも、意図的に彼の傷に障る様に引きずることは忘れなかった。


「○○・・・!○○・・・・・・!!」
調度品をひっくり返しても気にせず、靴も履かず、素足のまま砂利を踏む事もいとわず。
聖は一心不乱に境内へと走った。
勢い衰えることなく走り続け。細かい砂利で足裏の皮が破れ、血が点々と道筋を作る。
しかし、今の聖には砂利程度の痛みは瑣末であった。例え感じたとしても無視して、痛みを押し通し走り続けたであろう。
境内へと出ても。一輪に抱きかかえられる村紗にも目もくれず、その近くでひれ伏す里の人間にも気づかず。境内へと走り出た聖は○○の姿を探した。
最初に目に付いたのは、例の蔵だった。
驚くほどの数の人間が、蔵の一角を取り囲んでいた。その場所から伝わる狂喜狂乱の様相は遠目に見ても感じられるほどの熱を帯びていた。
間違いなく○○は今あそこにいるのだろう。そして○○の身がどのように扱われているか、真っ先に頭をよぎった危惧はそれだった。
あの狂喜狂乱振りを見るに、およそ真っ当な扱いは・・・期待する方が間違っているだろう。
聖は恐ろしさから来る寒気と、怒りから湧き上がる熱。その両方を感じた。

「貴方達!!!」
○○が発した悲鳴に勝るとも劣らない大きな声であった。
その怒声に、蔵を取り囲んでいた者達は否が応にもこちらを睨みつける聖の姿を認めざるを得なかった。
一呼吸置いて、蜂の巣をつついたように騒ぎ出した。
そして、その騒ぎが霞む位の○○の悲鳴が。蔵の中から聞こえてきた。
○○が彼らに何をされているかは、最早想像に難くない事であった。

呼吸も荒く、睨む眼光の鋭さは威圧感だけで致命傷を負いそうなほどで、それと一緒に流れ出る涙がより一層威圧感を際立たせていた。
「道を開けろ!聖様がお通りだ!!」
そんな形相と威圧感を併せ持って近づく聖に、彼らはより一層騒ぎ出した。
「中の奴も出ろ!!○○を押さえ付けている奴以外は皆出るんだ!聖様の邪魔だ!!」
ああ、やっぱり。
分かってはいた。だが、実際にその事実を突きつけられると。○○の手前、ギリギリまで堪えていた物が爆発する。
聖もその爆発を堪える気は無かった。聖は自分の進路に少しでも被る者は本気で払いのけていった。
蔵の入り口で邪魔になっていたものは、服の襟首ではなく直に首を掴んで投げ飛ばした。
薄暗い蔵の中ではからは○○の悲鳴が聞こえる。そして二人掛かりで思いっきり羽交い絞めにされる姿も確認できた。

そのまま飛び掛りたかった。○○を羽交い絞めにする奴等を引き剥がし、地面や壁に叩きつけたかった。
しかし、聖は○○に今自分がしているであろう鬼の形相を見せたくなかった。
○○を前にして、ほんの少しだけ冷静になれた。
聖は顔に手をやり、今しているであろう酷い表情を隠し、乱れた呼吸を整え。
涙も袖口で拭いて。そこまでしてから歩を進めた。
出来る限り、恐怖感を○○に与えたくなかったから。しかし、そんな気遣いを○○が察せれるはずもなかった。

入り口で顔を隠した動作は、自分を捕まえた嬉しさから来た笑いすぎた顔を整えるようにしか見えなく。
ゆっくりと歩を進める姿は、恐怖感を煽る焦らしにしか感じられず。
物悲しそうな顔も、何か不満点を見つけた、底意地の悪い性の裏返しにしか思えず。
恐怖感を煽られ続けた○○は涙を流し、よだれを撒き散らし。醜く泣き喚く姿を晒す。

そんな○○を前にして聖は。見るに耐えぬ憤怒の表情を抑えることができなくなっていた。
勿論、その憤怒の表情を作り出したのは○○ではない。今○○を取り押さえている彼らだ。
しかし○○は、その表情にまた恐怖感と・・・・・・生命の危機を感じる。

そして○○の口から出た“死にたくない“の一言。
その一言に聖の表情は。醜い憤怒の表情から、一気に涙腺が決壊する一歩手前まで急変した。

結局見せてしまった。わざわざ入り口の手前で取り繕ったのに、結局見せてしまった。
自分もこいつ等と同じように、○○の心に深い深い傷を付けてしまった。
そんな○○に対する罪悪感と、それと一緒に息を吹き返した彼等への憎悪。
聖は手を伸ばした。○○の視界に迫る聖の手のひら。○○は長い長い悲鳴を上げる。
そして、○○はその手のひらが自分の頭上を通り過ぎる前に、気を失った。



○○の頭上を通り過ぎた聖の手は、○○を取り押さえる者の首根っこを掴んだ。
そして何の躊躇も無く、入り口に向って外へと放り投げた。
「うわぁぁ!!」
振り返ると、○○を押さえつけていたもう1人が恐れおののき、○○から離れていた。
都合がよかった、○○の体に傷をつけないように細心の注意を払う必要がなくなったから。
聖は失神する○○を飛び越え、地面に両足を付けると、片方の足を振り上げ力の限り蹴り上げた。

蹴り飛ばされた方は、壁に思いっきり背中からぶつかり。そして受身も取れずに体の正面を床へと叩きつけられた。
外へと投げ飛ばした方はどうなったか分からない、気にかけるつもりも無かった。
床に打ち付けられ、うなっているこいつも目障りだったのでまた外に捨ててこようと思い、腕を掴み後ろを向くと星が立っていた。
聖は星に二人目を手渡した。星はそいつをズルズルと引きずり外に出て行った。

聖はようやく○○を抱きしめる事ができた。
その時にはもう○○は恐怖の余り、白目を剥いて失神していた。
顔は、涙とよだれとでぐちゃぐちゃになっていた。抱きしめる際にそれらが聖の衣服にべったりと付く。
だが、そんな事は気にしなかった。服は洗えば良い、しかし○○の心の傷はもう完治することはきっとないだろう。
そして、自分達への憎しみも。きっと消えない。

「早く帰れ!!こいつらと!今引きずってきたそいつも連れて!!さっさと帰れぇ!!!」
外からは星の怒声が聞こえる。彼らはクモの子を散らしたように帰って行くだろう。
でも何も終わってない、何も解決していない。

「○○・・・・・・これからは私がずっとずーっと守ってあげるからね」
大きな問題だった、もう円満な解決など望めない。
それでも、聖の決心に揺るぎなどあるはずも無い。何が起こっても聖は○○を守り抜く決心を固めた。



○○は悲鳴と共に飛び起きた。
その悲鳴はあの日の朝、薄暗い蔵の中で帳面を生めて隠す事を夢に見たあの時の叫び声などとは比べようも無い大きさだった。
何に似ているかと問われれば・・・答えは明白だった。あの時の蔵の中での悲鳴と同じ色をしているのだから。

○○が目を覚ました場所は、ついたての中ではなく自室だった。
どこまでが回想で、どこからが過去の事見ていた夢だったのか。その境界線は非常に曖昧な物だったが。
明るい日差しが差し込み、鳥のさえずる音も聞こえる。気持ちの良い朝だった。
直前までに見ていた映像との間には雲泥の差があるが。

夢?と一瞬だけ思ったがすぐに「違う!!」と自分自身に分からせる為に大きな声を出し頭を横に振る。
確かに○○はあのついたての中へと入った。
○○は常にあの空き地に違和感を覚えていた。その違和感は、何かをそこに置いて来てしまった事を心の奥底で覚えていたからだ。
そして○○は一冊の帳面を土の中から見つけた。それこそが、○○が忘れかけていた何かだった。

時折、○○の脳裏に強烈な勢いで走るあの映像。ノイズが混じり中々その前後はおろか、映像自体も鮮明には見えなかったが。
それはあの帳面のお陰で詳細に思い出すことが出来た。
執念で残したあの帳面のお陰で、○○は命蓮寺によって植え付けられた楔を断ち切ることが出来た。

その楔を断ち切り、○○は全てを思い出すことが、そして知る事が出来た。
自身の本当の記憶は、聖白蓮によって封印されていた事実。昨日までの記憶は、命蓮寺にとって都合のいいものに改変されていた事実を。
そしてその事実を教えてくれたのは、紛れも無くあの帳面のお陰だと言う事。

帳面の事を思い出した○○は急いで辺りを見回した。
あのついたての中に入った事は夢ではない。しかし、気づいた時にはここに運ばれていた。
○○がいないことに気づいた聖白蓮以外の誰かが、○○を見つけ更に手に持っている帳面を回収・・・下手をすれば廃棄されたのではないかと思い。

幸いな事に帳面は木箱と共に○○の枕元に置かれていた。
明るい日差しの差し込む室内で見る帳面は、ひどく古ぼけていた。
合ったはずの蔵がなくなっていたということは。記憶を取り戻させたくないから撤去してしまったのだろう。
そしてあの敷地の下で帳面を入れて眠っていたあの木箱は。土の下で直に野ざらしになっていないとは言え、雨がしみこむ事は避けれなかったはずだ。

一体どれほどの時間、自分は記憶を操作されていたのだろう。何が起こったか、何をされたかは思い出したが。
○○はその後の時間の感覚がまだ取り戻せていなかった。その手がかりが何か隠されていないか、そう思い帳面のページを持ち上げると。

帳面は自重に耐え切れずバラバラと崩壊してしまった。
もしかしたら木箱と言うのが不味かったのかもしれない。土の上に降った雨がしみ込み、それが更に木箱にもしみ込み、その中にある帳面を弱くしてしまったのだろう。
バラバラになった帳面を、苦虫を噛み潰すような表情で見つめていた。
偽りの記憶に縛り付けられていたのは一ヶ月や二ヶ月ではない。それを直感で分かってしまったから。
いくら何でも、それくらいでここまでもろくなるとも思えなかったから。

○○はまた恐ろしくなった。一体自分は何年もの間この命蓮寺で、あの悪魔どもの慰み者にされていたのか。
特に、聖白蓮。何故こんな暴挙を起こしたのだろうか?自分を独占したいからなのか?
しかし、そうだとしたら。あの悲痛な覚悟をしているかのように見えたあの告白は何だったのか。
少なくとも、あの時握られた手から感じた震えは、そして声色からは。とても他人の意思を踏みにじるような極悪人のそれには見えなかった。

いや、もしかしたら。
きっとあの女は自分が極悪人である自覚も無いのかもしれない。
そう考えると、何となく腑に落ちる。狂人ほど自分が狂っている事に気づかないと言うのは世の常なのかもしれない。
そしてその狂人を慕い、付き従い、手足のように動く命蓮寺の連中も。例外ではないだろう。

あいつ等は何を考えて、自分の記憶を封印して改竄したのだろうか。
あいつ等は何を思って、記憶を取り戻す手がかりである蔵を撤去し。そしてそのきっかけを潰そうとしたのだろうか。
みっともなく、無様に、醜く泣き喚いていた記憶から先の記憶はまだ思い出せていなかった。
ただもう一つ、分かった事がある。
○○には記憶が無かった、自分が命蓮寺にどのような経緯で修行者として世話になったかの詳細な記憶が。
きっと、法力の力でその事に関心が行かないように思考すら縛っていたのだろう。


空白の記憶を思い出そうと努力すると、徐々に○○の顔が歪んでいく。
そして大きな舌打ちが漏れ、奥歯もギリギリとなる。
命蓮寺での生活を思い出すと、どうしてもそこを通らなければならないから。
全ての元凶であろう、聖白蓮と繰り広げた情事を。

考えれば、自分が何か違和感を感じている時、あの映像が見えた時など。
思い出すきっかけとなりえそうな事態の後は、聖白蓮はとても優しかった。優しすぎるくらいだった。
奴に手を引かれ、抱きしめられ、口付けを交わし、そして―
そこまで考えて○○は強烈な悪寒と吐き気を催した。
奴は自身を肉欲に落としこみ、満足な思考を封じていたのだった。
奴が自分を誘惑する事は何度もあった、だからその全てがきっかけ潰しではなかったとは思う。
しかし、えも言われぬ違和感を覚えた時、あの映像が脳裏をかすめたとき。
その後に奴は必ず自分を誘惑してきた。

それなのに、あの時はその事に気づかずに欲情し、あろうことか安らぎを感じてしたのだ。
人の感情とはなんともろい物なのだろうか。なんと操作のしやすい物なのだろうか。
結局自分が行ってきた“修行”と言うのはただ見た目だけを取り繕った張りぼてだったのだ。
修行者と言う体の良い身分を取り繕い、命蓮寺へと縛り付ける道具の一つとしていたのだ。
己が心一つ満足に動かす事はおろか、満足に動かされっぱなしで何が修行か。
反吐の出そうな思いだった。その張りぼてを張りぼてだと見抜けなかった自分自身がいるから、自己嫌悪とあいまり余計に。
○○は自分の弱さに、悔しさが込みあがるのを感じる。


「だがもう違う・・・全部思い出せたんだ」
しかめ面のままだったが、○○呟きと共に立ち上がった。
坊主憎ければ袈裟までと言うべきか。寝ていた布団も着ていた寝巻きもかなり乱暴に叩きつけるように扱っていた。
特にこの布団には聖白蓮との思い出が蓄積されているからなお更なのか。わざわざ蹴り上げていた。
寝巻きからいつも着用する普段着に着替えたが、本心では記憶を失う直前まで着ていた服の方がよかった。

そのまま荒々しい音を響かせながら障子を開け、閉めもせず歩を進めた。ばらけてしまった帳面もしっかりと持って。
そして、ふつふつと蔵に隠れていた時の事を思い出す。
聖白蓮と彼。この二人に一発見舞いたいと思うあの気持ちも。
あの時は心身ともに衰弱しきっていたからその考えは仕方なく脇に寄せていたが。今は違う。

自分がかつて蔵のあったあの場所で倒れていた事は。自室で寝かされていた事からもう周知の事実であろう。
命蓮寺はもとより、もしかしたら今は里にいるはずの聖白蓮にも、そこから里の連中にも伝わっているかもしれない。
間違いなく連中はまた博麗神社への道を封鎖するだろう。○○としては望む所だった。

勝機が少なくても構わない。それでも、立ちはだかる者は1人でも多く叩き伏せてやる腹積もりであった。
ただし、あの二人だけは例外だった。見つけ次第向っていくと心に決めていた。
そうなれば、○○が今向うべき場所は博麗神社ではなかった。
「里に行こう、一度暴れなければ気が収まらん」



歩を進める○○はあることに気づいた。
○○の部屋はかなり奥に配置されていた。この位置からなら、窓からも縁側からもあの空き地を見る事はない。
そして、○○の部屋の近くに聖白蓮は道場を作っていた。あれも空き地への執着をできるだけ減らす為の措置なのだろう。
しかし、最早この程度では驚かない。
里の者共をあれだけ動員できるのだ。どちらを例にとっても、造作無いはずだ。


昔の事、映像の事、蔵の事。そして失われた時間の感覚。
自分の過去に関する事を考えていても、もう○○の頭に例の鈍痛が走る事はなかった。
あの鈍痛も・・・そうなのだろう。楔の一つでない方が驚く。

「だけどもう違う」呟きと言うよりは独り言、そして独り言の割りには随分大きな声だった。
誰かが聞いていても不思議ではないくらいの大きさ。しかし、誰に聞かれようが構わなかった。
曲がり角を進むと、雲居一輪と村紗水蜜の二人の姿が目に入った。
村紗水蜜は雲居一輪に体を支えられている。随分と狼狽している様子だった、その狼狽に罪悪感があるとは思わない。
きっと、先ほどの大きな呟きも聞かれていただろう。
「お前達の植えた楔は断ち切った!もう鈍痛も無い、全部思い出せたんだ!!」
そちらの方が○○にとっては却って都合がよかった、あまり会話をしたくないから。

一輪は大層な渋面を見せて、村紗は声を押し殺して泣いていた。そして村紗は○○が声を張り上げると、一輪の胸にうずくまった。
「どれくらい思い出せたの?」
「追い掛け回されて、あったはずの蔵に隠れて・・・そこから気を失うまで全部だ」
「・・・そう。失った直後の事はまだなのね」
「ああそうだ、だけどもう鈍痛も無い。全て思い出すのは時間の問題だ」
「そう・・・鈍痛も無いの。やっぱり姐さんに言わずにかけ直せば良かったわ」
予想していたとは言え、一輪の言葉に○○はイラつきが大きくなるのを堪え切れなかった。
更に、一輪の言葉には罪悪感と言うのがかけらも感じられなかった。
一輪の声色からは、さも当然と言ったような。○○の記憶を、思考をいじり倒す事に微塵の迷いも感じられなかった。
それが○○のフラストレーションを加速させる。

「何故そんな事ができた?」
会話を続ければ続けるほど、○○の腹の虫は暴れていたが。彼女達の良心と道徳観は気になっていた。
実際、時折一輪の胸から顔を離しこちらを見る村紗は。罪悪感が感じられたから余計に。
「最善だったからよそれが。○○と姐さんの二人にとって」
「馬鹿を言うな!」
一輪の答えに○○の感情が爆発した。
「良い様におもちゃにされた俺の感情はどうなる!俺の意思は無視か!」
「記憶を取り上げられ、ごっこ遊びを強要されていたんだぞ!!」
ごっこ遊び。この表現に一輪は奥歯がギチリと鳴るのが分かった。
「ごっこ遊び何かじゃないわ。少なくとも、姐さんの貴方への愛は本物よ」

「ふざけるな!自分の思い通りに動かないなら記憶すらいじってそう動くように仕向けていたじゃないか!!」
「お前達は俺というおもちゃで、ごっこ遊びをしていただけだろうが!!」


「違う!」
それまで声も無く泣くだけだった村紗が始めて口を開いた。もちろん、その内容は○○の指摘を真っ向から否定するものだった。
「何が違うんだ!!」
「一輪の言うとおり、聖の愛は本物だよ!」
「それに・・・○○が私たちの仲間だと思ってる!もちろん今でも!それも本物なんだよ!!」
「信じられるか!!」
○○の形相に浮かび上がる青筋はどんどん太く、そして数も増えていった。
「情に訴えかけるつもりか!?それが無理ならまた肉欲で落とし込むつもりか!?」
村紗の訴えは必死そのものだった。心のそこからそう思っているようだった。
今も仲間だと思っている。この一言も普通ならば感動的で人によっては涙腺が大きく刺激されるであろう。
しかしそうなる為の方法が、常軌を逸していた。
追い掛け回し、山狩りの如く探し回り、見つけたら集団で組み伏せる。
およそ普通の方法ではなかった。健全な精神状態の者が考える、仲間の増やし方であって良いはずが無い。
真相を知らない○○にとっては・・・その考えを否定できる訳が無かった。

「・・・・・・話にならん!」
お互いの主張は平行線を辿るだけだった。
話す価値が無いと結論付けた○○は。それ以上の会話を早々に切り上げ、足早に歩を進めた。
村紗と一輪の横を通り過ぎる際、村紗が「・・・○○」とか細い声で追いすがってきたが。
その手を、○○は問答無用で払いのけた。払いのける際、○○の肘が村紗に勢いよくぶつけられる事となった。
肘をぶつけられた村紗はそのまま倒れこみ。しくしくとすすり泣いていた。
村紗がすすり泣く頃には、○○の姿は曲がり角の向こう側に行ってしまっていた。
一輪はすすり泣く村紗の背を哀しい表情でなでていた。そして―
もう片方の手で、雲山を使役するのに必要な輪を掲げようとした。

「駄目!!」
しかし、それは村紗に追いすがられてしまい。雲山を使役する事は叶わなかった。
「村紗・・・分かってるでしょう。○○が意識を失った後、落ち着かせるのにどれだけ苦労したか」
「分かってるよ・・・それで○○が壊れかけたってのも」
「だったら―」
「でも・・・もう嫌なんだよ、あんな荒っぽい真似。何で私達まで○○を傷つけなくちゃいけないの?」
かといって、このまま○○を劇場のままに行動させれば。後々により大きな傷が○○を襲う事も村紗は分かっていた。
一輪としても。今すぐに動く事が、○○の体に多少の生傷はできるが。
それでも、○○が負うであろう心の傷を一番浅く出来ると確信していた。


一輪と村紗。互いに相手の考えは分かりきっていた。
もうこれ以上○○に手を上げたくない村紗。体の傷を増やしてでも、○○が負う心の傷を少しでも減らしたい一輪。
「村紗・・・あれは貴女のせいなんかじゃないわ」
お互い心の内が痛いほどに分かるからこそ。強引に事を進めるのがためらわれた。
そのためらいこそが、あの時自分達の首を絞めた原因であるのに。それをちゃんと分かっているのに。



「貴女が・・・蔵を潰してくれたからこそ。ギリギリで上手くいったのよ」
意識を失った○○は、あの後聖と命蓮寺の皆によって丁重に看病される事となった。
しかし、聖も命蓮寺の皆も。○○の目を覚まさせるのを少しの間躊躇していた。
○○の心の中に芽生え、大木となってしまったであろう命蓮寺への不信感を超えた憎しみ。
もう、修復不可能な段階にまで、○○の心には根が張り巡らされてしまったはずだ。


「姐さん、作りましょう。○○さんの記憶を」
背中を押したのは一輪だった。
聖もその考えにはとうの昔にたどり着いていた。それがこの事態を見かけ上だけでも円満に収めるほぼ唯一の手段だとも。
でも、最後の踏ん切りがつかなかった。
思い出帳の中身を真実だと言い張ってはいるが、それでも○○の体を、特に自己に関わる記憶を弄るのに大きな罪悪感が合ったから。
「姐さん。姐さんの中に罪悪感があるなら、記憶の植え付けは私がやる。私が半ば強引にやったと解釈しても構わないわ」

ここに来て一輪の献身っぷりが目立つようになってきた。
そして、聖の中にある罪悪感を考慮し。自分に責任転換しても良いと。そこまでの事を聖に伝えたのだった。
そんな仲間の悲壮な決意に、ナズーリンも傾いた。

「・・・・・聖。覚悟を決めよう」
そして、星も一輪と同じような決意をした。
「星・・・何処に行くの?」
一輪からの有無を言わさぬ提案、その肩を持つナズーリン。聖の視線は、自身が頼りにする片腕の星に向いた。
その星は、聖の目と一輪の目をしばらく見比べたかと思うと。立ち上がり、部屋から出て行こうとした。
それに対し、聖は震える声で星を呼び止めるしかなかった。

「思い出帳を取ってきます・・・・・・すいません聖」
それが星の出した答えだった。星は一輪の肩を持つ所か、後を押す決断を下した。
ただ、星は最後に。これが最善の選択の筈なのに、その選択を進めようとする事に対し。
どうしても、一言でいいから聖に謝らなければならないような。そんな感情だけは消えなかった。
「・・・・・・・これ以外に無いの?」
顔を伏せたままで疑問を口にする村紗には。
「無いでしょうね」
強い口調で否定した。
「すいません・・・村紗」そしてまた星は謝った。今度は村紗に。

「そう・・・よね」
村紗以外の全員に決断を迫られ、そしてなし崩しに事が進んでいく様子に。聖は力なく笑っていた。



○○の記憶は思い出帳を基に作られる事となった。
○○の寝かされている部屋には。壁、床、天井。ありとあらゆる場所にお札が、経文が。
そして縄や宝具やろうそくと言った物が所狭しと配置されていた。
眠り続ける○○の体にも、聖の手によって様々な文字が書かれていた。

聖にとっては自発的にではなく、なし崩し的に行われる事となった嘘の記憶の作成。
それを○○に植え付けていく際、躊躇する様子が度々見られた。
それに対し星は「聖」と、短く名前を呼んで促し続けていた。しかし「ごめんなさい・・・聖。ごめんなさい・・・・・・○○」
聖に行動を促した後。星は小さな声で、何度も何度も聖と○○に謝り続けていた。

始めの方では、星は“すいません“という言葉を使っていた。
だが、作業が進むにつれ、何度目かの躊躇を見せた聖への促しの後に、“ごめんなさい“へと変化した。
最早星の精神状態もボロボロだった。
その謝る姿は。まるで親に怒られて、許しを請いながら泣く子供の姿にそっくりだった。
星の方も、この自分の姿が聖だけでなく皆の心に深い傷を作る事は。聡明な彼女は自覚していた。
しかし、いつ頃からか小さく泣いてしまう自分を止めなければと思う事すら出来なくなってしまった。

「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・」
座り込み、涙声を混じらせた小さな声で。聖と○○への謝罪を口にするばかりだった。



寅丸星。聖の次に頼れる存在であった彼女の崩壊は大きなダメージを与えた。
ナズーリンは星を連れて部屋を出て行こうとした。手を掴もうとする際、最後に残った責任感か。何度かナズーリンの手を払いのけた。
しかしこれ以上主に無理をさせたくなかった。かと言って強引に連れ出そうとして癇の虫を爆発させたくなかったし、そんな主の姿見たくなかった。

実際、ナズーリンの手を払いのける度に星の泣き声は徐々に大きくなっていた。
癇の虫が騒いでいる証拠だった。だから余計に、強引な手を使えなかった。

「ご主人・・・少し休もう」
ナズーリンは星の横に座り、ただ優しく声をかけることしか出来なかった。
しかし、そんなナズーリンの問いかけに星は首をぶるぶると横に振るのみであった。
「こっちにはまだ一輪と村紗もいる」
その首の振り方は。怒られ、泣きつかれて、イヤイヤと駄々をこねる子供の姿にそっくりだった。
村紗と一輪は意図的に、そんな星の姿を視界から外していた。
そうしなければ・・・自分達も堪え切れなかったから。
だが、徐々に涙声の混じるナズーリンの声だけは。嫌でも耳に入った。


壊れていく仲間達の姿を目に、そして耳にして。聖は決意をする他無かった。
○○と命蓮寺の皆、どちらか一方を選ぶ。そんな事は聖には出来なかった。
両方を守る為には。やり切るしかなかった、○○の記憶を書き換える作業を。
涙声とすすり泣きの混じる部屋で。聖は誠心誠意、作業をこなしていった。
例え偽りの記憶であろうと。せめて偽りの記憶の中では、○○には穏やかな生活を。
穏やかに生きていると言う記憶を持っていて欲しかった。
そう、○○はこの命蓮寺にとって大切な仲間の一人なのだ。
星、村紗、一輪、ナズーリンと同じく。
今も昔も、大切な仲間の一人として。昔から共に行動していたのだ。



「皆・・・もう大丈夫よ。大丈夫・・・・・・一人で出来るから」
「・・・・・・有難う」
そう言って、聖は自分と○○を残して部屋から出した。


「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・」
「ご主人、聖は気にしていない。○○も聖に任せれば大丈夫だから」
ナズーリンはぐずる星を抱え、奥の方に戻っていった。

「これが正解なんだよね?」
「そうよ・・・・・・そうじゃなきゃ救われないわ」

障子の閉められた部屋を前にして、そう一言だけ言葉を交わした。
それ以上は村紗も一輪も喋る事は無かった。二人はしばらく障子越しにろうそくの明かりで揺れる室内の影を見ていた。

そして、部屋を後にすると。障子越しにかすかに聞こえていた聖の経文を読む声はすぐに聞こえなくなった。
そうなると、辺りは静かだった。
その静かな空間に、星の“ごめんなさい”と言う声だけが。やたらとはっきり聞こえていると、村紗と一輪は感じていた。



その後何日もの間、聖は寝食も削り部屋にこもる事となった。
星が心労で塞ぎこみ、ナズーリンがほぼ付きっ切りでなだめている状況の為。対外的な仕事を出来る者が一輪と村紗の二人だけになってしまった。
しかし村紗は今回の一件で、感情の触れ幅がかなり不安定になってしまっている。
一人で行かせれば、爆発した時に止めれる者がいないし。一輪が付き添っても、結局は怒りをためてしまう。
ならば、一輪がその仕事を一手に引き受けるしか無かった。
しかし、一輪の方も里と無理に付き合いたくは無かった。少なくとも、しばらくは顔も見たくないと言うのが本音であった。


「何か用があったらこちらから連絡を入れるわ、しばらくは誰も来ないで」
そう言って門番にナズーリン、村紗、一輪の三人で作った手紙を叩き付けるのが、一輪の行った、唯一の対外的な仕事となった。
手紙の中身は要約すれば。“次に○○が人前に現れた時、昔から命蓮寺にいたように接しろ“だった。
細かい”設定”と必要な動きはその時に逐一指示すれば良い。随分場当たり的な対応だったが、細かい部分を作るには根を詰め、顔を突き合わせ長時間話し合う必要がある。
冗談ではなかった。それが例え、話し合いとは名ばかりの宣下の場であろうとも。
とにかく、顔を合わせなければいけないという状態が嫌だったのだ。

あいつ等の演技の技量に関する事ならば、気にかける必要も無いだろう。
あそこまで動けるのなら、これくらい。訳も無いはずだ。実際、○○は自身が追い掛け回されるまで演技に気づけなかったのだから。
そこまで役に徹しきれる上に。役を降りた途端、昨日までほがらかな笑顔で挨拶を交わした人間を追い詰めれる里に、恐怖を感じるが。

罪悪感などかけらも無いのだろう。あるのは○○を生贄として担ぎ込めて、土着の人間に余計な被害が出なくて済んだ事を喜ぶ気持ちだけだろう。
何と醜い事か。そんな場所に○○はずっと居を構えていたのだ、よくよく考えれば寒気がする思いだった。
ならば、間違いなく。○○は聖の庇護の下、命蓮寺と共にいた方がいい。
それが、○○にとって唯一残された幸せになれる道なのだから。一輪はそう信じて疑わなかった。

そんな内容の話を。
帰ってくるなり始めたヤケ酒の勢いで村紗と、村紗が精神の安定を求めて自分の所に呼び、優しく抱きかかえてもらっている鵺に話した際。
村紗がシクシクと泣き出し。鵺には嘲笑と哀れみを混じらせた目で見られてしまった。
酔いがさめた後、何故そんな反応をされたのか考えたが。やはり理解できなかった。
ヤケ酒で短時間に多量の酒を飲んでいたうえ、詳細な記憶もどこか宙をさまよっていた事もあり。
結局一輪は、その時の疑問は歯牙にもかけず、記憶の隅を通り越し。ゴミ箱に放り投げられる事となった。


聖は○○と主に部屋に篭り。星は寝込み、ナズーリンはそれに付き添い。
一輪は不貞寝とヤケ酒の繰り返し。村紗は鵺に甘えなければ精神の安定を保てず。
ただただ、無為な時間が過ぎていくだけだった。ナズーリンと村紗はその事に気づいてはいたが、動く気にはなれなかった。
星と一輪に至っては・・・気づいているかどうかも怪しかった。

そしてある日。
聖が篭る部屋の方向から足音が聞こえてきた。その音が聞こえてきたのは、東の空にお天道様がとうの昔に顔を出していた頃だった。
本来の命蓮寺ならばこの時間にはもうとっくに活動を開始しているが。ここ最近は下手をすれば昼頃に起きる者もいるくらいだった。


その足音が誰による物かは皆考えるまでも無く理解できた。聖以外の誰だと言うのだ。
本来の彼女達ならば、即座に聖の元に集合できただろう。
しかし。星はほぼ日々の殆どを寝てすごしていた為立ち上がる際足がもつれ、布団の上に倒れこみ。ナズーリンが引き起こした。
満足に動いていない村紗も星ほどではないが、よろける体を鵺に預けていた。
一輪は立ち上がることは出来たが。急激に体を動かした為、連日のヤケ酒の酔いが嘔吐を引き起こし、縁側からありったけをぶちまけていた。

各々が見せるその姿に、以前のような聡明さは微塵も感じられなかった。
それは聖も同じだった。目の下の隈は黒々と異彩を放ち。それだけでも十分なのに髪はボサボサ、風呂にも入っていないからか肌はべたつき。食事も間々ならなかったのか、頬がこけ、頬骨がうっすらと見える。
それでも、聖の表情は満足気だった。
その表情に、ギリギリ平静を保っているナズーリンと村紗は、もう一度深く確認する事となった。
諦めた方が、楽になれると。

縁側から吐しゃ物をぶちまける一輪を、聖は優しくその背中をさする。
さすられながら、吐しゃ物により息も絶え絶えな状況だが。その表情は聖と同じく晴れた物だった。
「上手くいったようね、姐さん」
聖の行いを祝福せんとするその言葉と表情に、二人の先の考えがより強く印象付けられたのは、言うまでもなかった。




「○○を起こす前に・・・皆身だしなみを整えて。それとお掃除もしなくちゃね」
聖は自分が何をやっているか。そこは理解していた。○○の記憶に順ずる様なしぐさを自分たちがとらなければ。
○○に打ち込んだ楔が取れてしまう事を。
その楔をより深く植え込まんとする為の工作を。聖は大層な笑顔で皆に命じた。
笑顔を浮かべているのは一輪も同じだった。「これで元通りになるわ」
そんな訳があるか。村紗はその一言を飲み込むしかなかった。
ナズーリンの方は、笑顔が戻った聖を見て元気を取り戻した星を見て。何かを諦めたようだった。

「村紗・・・しばらく私と一緒に暮らす?」
鵺はそんな村紗をおもんばかって優しい言葉をかけるが。
「いい・・・・・・聖の台本には私の存在もあるはずだから」
その差し伸べられた手を村紗は固辞し続けた。
村紗一人だけが葛藤していた。代案など最早無いのに。


聖が部屋を出て更に数日後。ようやく○○は目を覚ます事となった。
「おはよう○○」
「おはよう聖」
朝の挨拶を交わす聖の顔は直視するのが何となく気恥ずかしく、はばかれるほどの笑顔だった。
いつか夢見たほがらかな朝の風景。見た目だけは確かに取り繕えていた。


朝食の席での聖は、異常な程に○○にべったりだった。聖が一方的に○○の体に触れようとする。
聖は○○を自分の横に座らせ。特に理由も無く○○の手や腰や膝、太ももと言った場所を触っていた。
しかし―


何度目かの、聖が○○に体を預けようとする仕草の際。○○は明らかに、聖を避けた。
もっときつい言い方をすれば。拒絶したと言った方がしっくり来るような動作だった。
まるで羽虫が自分の顔の周りを飛んだときのように。そんな反射的な動きだった。
「あれ・・・?えっと・・・・・・」
○○は自分が何故このような反射的な拒否感を示したのか。理解に苦しんでいる様子だった。
○○は目をぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、こめかみを押さえ。先ほどまでの笑顔からどんどんと何かを考える、思い出すような表情へと変って行った。


「・・・ッ聖!食事中は流石にどうかと思うな」
見るに見かねたナズーリンが助け舟を入れた。が、その後どう話を転がすかは彼女もとっさに考え付かなかった。
「・・・そうだったかな?何だろう何か・・・・・・え、でもそんな常識的な事忘れて・・・・・・?」
「酒の席で言われたんじゃなかった?えっと・・・宴会じゃなくて、普通の日の晩酌で飲みすぎて」
真面目だったはずの一輪の口からすぐに酒と言う単語が出てきたことに驚けるのは後になってからだった。
それくらいに、命蓮寺の皆は切羽詰っていた。

「・・・飲みすぎ、何だよ。君達2人は・・・・・・仲が良いのは構わないが。時と場所は・・・だね」
一輪の返しに更に話を転がすナズーリンの言葉はつまり気味だった。
不自然極まりない。そうは分かっていても、落ち着いて舌を回すことができなかった。

「お酒・・・・・・・・・お酒の席・・・・・・宴会は・・・したっけ・・・・・・ここで?」
ぶつぶつ呟きながら、○○は一同を見回す。そして。
「誰?」
鵺を見た○○が呟いた言葉に重要な部分を見落としていた事に今更気づかされた。
○○は、鵺と会った事がない。
例え、聖の作った記憶に「鵺」と言う個人名が刷り込まれていても。その姿かたちを刷り込むのは容易ではないはずだ。


思わぬところから、○○は記憶を取り戻しかけていた。
「宴会は・・・やって・・・・・・・・・・・な―
楔が外れかけたその時、飛び出したのは村紗だった。
そして、村紗の鉄拳が○○を殴り飛ばした。
殴り飛ばされた○○はゴロゴロと転がり。ふすまをぶち破り、隣の部屋で大の字になって気を失ってしまった。

「ご・・・・・・ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!!!」
殴り飛ばしてすぐに。村紗は大きな声で聖に許しを請うた。
事態の悪化を早急に食い止める為とは言え。荒っぽすぎる方法だとは分かったから。

でも「ううん、村紗。悪いのは私の方よ。詰めが甘かったわ」そう言って、村紗を優しく抱きしめ許した。
「姐さん。やり直すの?」
聖と○○を交互に見比べながら、一輪は問うた。その問いに聖はだまって頷いた。
「○○を・・・もう一度あの部屋に戻しましょう。ナズーリン、運ぶのを手伝ってください」
「もう一度・・・・・・方陣などの準備をしないとな。片付けてしまったから」
最早村紗だけだった。心の中につっかえを残しているのは。傍観を決め込んでいた鵺は別として、他の三人は淡々と作業を進めていた。

「鵺。手伝ってください、事情は分かっているでしょう?」
「次は・・・映像も刷り込みます。手伝ってくれますよね?」
後ろを向いていたから。聖がぬえにどんな表情を見せているのか、村紗は確認できなかった。しかし。
ビクンと、大きな身震いをした鵺の様子で。どんな表情かは想像に難くなかった。



それから何度も聖は○○の記憶を書き換えることとなった。
聖が○○に植えようとする楔は中々食い込まなかったからだ。
そして、浅く刺さった楔は○○をいたずらに傷つけ、暴れる原因ともなった。楔が外れようとする際の○○の奇行は常軌を逸していた。
ある時は、笑顔を張り付かせたまま殴りかかったり。ある時は、命蓮寺に火をつけようとしたり。
またある時は、敷地内に響き渡る悲鳴を上げたかと思えば、泡を吹いて卒倒したり。
発作的に○○が起こす凶行、奇行。その度に誰かが○○を羽交い絞めにして取り押さえていた。
失敗続きだった。早い時は数時間、持っても数日と言う有様だった。


そして今日も、もう何度目かの失敗を示す○○の発作と凶行が合った。
星と一輪が暴れる○○を取り押さえているのを。鵺に両脇を抱えられる形で、村紗は能面の表情で見つめていた。最早涙も枯れ果てた。
星も、一輪も、そしてナズーリンも。○○の発作から来る凶行に対して明確な反撃を見せていた。
もちろん、手加減はしている。それ所か○○の凶行は彼女達人外の者にとっては取るに足らない足掻きでしかなかった。
殴りかかってくれば腕を後ろにひねり上げれるし。蹴りかかってきた足を掴んで転ばせる事も造作なかった。
聖も、○○の拳や足を紙一重で避けて。癇癪持ちの子供を落ち着かせるように抱きしめる事ができた。
ただ、村紗だけは。村紗だけは○○の凶行に対して反撃を躊躇していた。
避けるか、防御するか。他の三人のように“また失敗か”と言う表情や呟きとともに一閃を見舞う事は絶対にしなかった。
最近では避けることすらせずに防御一辺倒だった。

涙は枯れているが、情は枯れていなかった。
星や、一輪が、ナズーリンが。何の躊躇も無く○○に反撃するのは。一番最初に自分が殴り飛ばしてしまったから。
そういう自責の念があるから、どうしても反撃できなかった。しようとも思えなかった。
その殴り飛ばしてしまった事への後悔は、○○の攻撃を避けると言う選択肢も村紗から奪った。



暴れる○○の動きは。その動きこそ単調で粗雑でまるでなった物ではなかった。
武道の経験が無い村紗ですら、目で追えるし、二人のように赤子の手をひねるが如くあしらえる自信があった。
しかし、単純な力の方は少し話が違った。
○○は取り押さえられる前から聖より法力の指南を受けており、その下地が出来上がっていた。
そして度重なる記憶の改ざん。それも、もちろん聖の法力で行っている。
その副作用なのか、もう○○の腕力や脚力は人間のそれをはるかに超えていた。
平時には隠れているが、発作から来る恐慌状態のときに○○の力は全開放されていた。
防御をしている村紗の腕にもビリビリと振動が伝わる。長袖で隠してはいるが、服の下には青あざが常に出来上がっていた。


だが、その痛みをそして傷を村紗は甘んじて受け入れていた。これから何度○○が暴れようが反撃をしないと村紗だけは心に誓っていた。
「見てられない」
絶え間なく続く攻撃を防御し続け。腕のしびれすら感じなくなった頃、村紗の頭上から鵺の声が聞こえてきた。
そして、村紗の体はグイっと空へと引っ張り上げられた。
勿論、村紗を引っ張り上げたのは声の主である鵺本人であった。

「見てられないよ、村紗」
「反撃しない気持ちは分かるよ。でも食らい続ける事も無いんじゃないの」
疑問を呈する形ではなく、かなり強い口調で言外に逃げる事を勧められた。
実際、鵺は○○が引き起こす発作と凶行に出くわした際。一目散に空へと逃げていた。
幸いにも、○○はまだ飛ぶ事を覚えていない。だから確かに、そちらの方が理に叶った動きだ。
村紗はその逃げの一手を、勿論とうの昔に思いついていた。しかしそれを村紗の中にある罪悪感が許さなかった。
だから、村紗は○○からの攻撃を、防御しているとは言え受け続けていた。

「何で村紗がそんなに罪悪感を感じなきゃいけないのさ。何で村紗だけがそんな痛い思いをする必要があるのさ」
「でも・・・○○は里の人間から、そして今度は私たちからも痛めつけられてるんだよ」
「それとこれとは話が別!大体元凶は里の方にあるんだから。村紗は何も悪くない!」
口論を続ける村紗と鵺。その下では降りて来いとでも言っているのか。○○が言葉にもならない奇声で、こちらに向ってわめき続けていた。
そして駆けつけた星が、一輪が。また○○を地に叩き伏せ、羽交い絞めにした。

もう何度目なのだろう、この光景も。
今回は上空からと言う新しい条件が付いたが、それ以外は今までとなんら変わりが無い。
そして今回は遅れてやってきた聖の手により。また○○の意識は混濁する。
○○が動かなくなった事をしっかりと確認してから、鵺は村紗を地上に降ろした。
「次見かけたら問答無用で引っ張り上げるから」
降ろしてくれる際、鵺からはこう付け加えられた。先ほどと同じく、かなり強い口調で。
村紗の心のうちは見透かされていたようだ。相変わらず○○からの攻撃を受け続けようと考えている事を。



「すまない、遅れてしまった」
「いえ、二人いれば十分でした。ナズーリン、○○をいつもの部屋へ。私は道具を用意してきます」
遅れた事をわびるナズーリンに星は○○を預け、いつもの部屋に運ぶように指示する。
そして星は、いつも使う道具を慣れた手つきで運び出している。
一輪もそれに何の疑問も抱かず手伝う。村紗はこの用意が手馴れたものになっていく自分に強い嫌悪感を覚えていた。

「○○・・・ごめんね。失敗ばっかりで」
聖の顔だけは悲しそうだったが。どうにも論点がずれている。
謝罪の意を示しているのは、○○の記憶の改ざんに失敗した事に対してであって。
○○の記憶を改ざんする事には微塵の迷いも無い。
「絶対・・・絶対成功させるから・・・・・・!」
そうして何度目かの。○○の記憶を改ざんする術式が開始された。
聖が○○の手をかざす際、大粒の涙を見せていた。村紗以外の三人も沈痛な面持ちであった。


「千年分の記憶ですからね・・・どうしても矛盾が生じてしまう」
ガリガリと頭をかきながら、ぶつぶつと呟きながら。星はまた自室へと篭った。
最近の星は○○の記憶の改ざん中は。聖の妄想の産物である思い出帳を元に矛盾無く○○の記憶の原案を作る事に執心していた。
時折ナズーリンや一輪、勿論村紗にも。この内容で大丈夫なのだろうかと意見を聞いてくる。
それに対して村紗は「大丈夫だと思うよ」と言った場当たり的な意見しか言う事しかできなかった。
村紗以外の全員が、○○の記憶の改ざんを上手く行かせる事に必死であった。
村紗の心の内を把握しているのは、もう鵺だけであった。



「頭がボーっとするんだ・・・一個の事を考えにくい」
「体調を崩してるんじゃないの○○。しばらくゆっくりしたら?」
「頭が痛いとか体がだるいってのは無いんだけどね・・・・・・何だろう変な気分が収まらない」
改ざん、発作、意識の混濁、また改ざん。これの繰り返しで○○の気分は優れない日々が続いた。
今では違和感と心のモヤモヤを抱えたまま。妙な表情を浮かべるのが基本となっている。
それに対して聖は横に付き添い、それとなく○○の答えを、そして行動を誘導していた。

それでも、四六時中○○の横に聖が横に付き添う事は不自然だった。
○○に植え付けた記憶に準ずる行動をしなければ。○○に打ち込んだ楔は簡単に外れてしまった。

だから仕方なく。日々のお勤めなどの際、聖は○○から離れざるを得なかった。それは他の物も同様だった。
無理に○○と聖を一緒にし続ければ、それ自体を○○が怪しみ。またいつも通りの展開となった。
○○の心の安定と、記憶の矛盾の解消。これを両立しなければならなかった。
発作は、大体その時に起きる。しかしもとの平穏さを取り戻すには、例え○○が一人きりでも発作を起こさないと言う条件が必要だった。



○○は相変わらず気分が優れなかった。
頭が痛いわけではない、体がだるいと言うわけでもない。
考えがまとまらない。一つの事を考えていても、前から後ろから横から。いろんな物がぶつかってくる。
そんな表現をするしかなかった。一番近い適切な表現は考えがまとまらない、ではあるが。とにかくそれ以上の何かとしか言いようが無かった。
「掃き掃除でもして体を動かそうか・・・」
じっとしていると、却って○○の気分は悪くなるばかりだった。
何故だか分からないが。この部屋に余り長くいたくなかった。
この時の○○は覚えていないが、聖が○○とすごす為に選んでいるこの部屋は。
まだ平穏な日々をすごしていたあの時。○○が聖からの法力を教授するのに使っていた部屋だった。
○○の心の底にある不快感の原因はそれだった。
聖にとっては、この部屋に一番思い出が詰まっている。しかし、○○は違う感じ方をしていた、無意識のうちに。



気分転換の為に外に出た○○は、境内の一角にあった小屋からほうきを見つけ、掃き掃除を始めた。
ちり取りも持たずに。ただただ、そこらに散らばっている落ち葉を何となく一箇所に集めるだけであった。
体を動かしていても気分は一向に晴れようとはしなかった。
ぐるぐると。頭の中身が回転しているのが分かる。時折めまいにも似た感覚で、○○は目頭を押さえ棒立ちとなっていた。

「少し顔を洗いに行こう」
○○は頭をふって、気分を変える為に掃除の方を早々に仕舞いとした。
「・・・・・・あれ?」
頭を振った際。○○の視界に蔵が目に入った。
カツンと音を立てて、ほうきが石畳の上に落ちる。
その音に気を取られる事も無く。ほうきを片付けずに置いていってしてしまう事も気にせず。
○○は目に入った蔵の方へ足を向けてしまった。
折角一箇所に固めた落ち葉を踏み荒らす事にも○○は気づかず。蔵への最短距離を歩いていく。
ふらふらと、何かに取り付かれたように。そして○○は蔵の中へ入っていった。




気を紛らわす為外の空気を吸おうと、村紗は境内に出た。
そして目にした、石畳の上に置きっぱなしのほうき、不自然な散らばり方をする落ち葉。そして開け放たれたままの蔵の扉。
その境内の姿。○○がまた発作を起こしたことは明らかだった。
村紗の表情が一気に強張り、ほうきなどには目もくれずに例の蔵へと走り出した。
○○が息を潜めていた。そして○○の運命が決したあの蔵へと。


蔵の中、明り取りの窓の近くで○○は、頭を抱えながらうずくまっていた。
呻き声の一つももらさずに、ただただじっとうずくまっていた。
「○○・・・?ねぇ○○聞こえてる?気分が悪いならこんなとこじゃなくて部屋で寝た方が・・・・・・」
村紗は声をかけながら○○へと近づく。近くによると、○○の体がぶるぶると震えているのが確認できた。
「○○、寒いの?だったらなおさら部屋に戻った方が・・・・・・」
出来るだけ刺激しないように、優しい口調と言葉を持って。村紗は○○の肩に手をかけようとした。




「ヒッ!?」
―触るな。
恐らく○○は口を動かすだけで、声帯は声を発していなかった。それなのに村紗は確かに、その声をはっきりと聞いた。
その声なき声を発した○○の形相は。あらん限りの敵意に満ちた鬼の形相であった。
その鬼の形相に、村紗の口からは短い悲鳴が漏れた。


○○はその鬼の形相を維持したまま、恐怖で硬直した村紗の手を掴んだ。
「うぐ!!!」
掴まれた手に激痛が走った。ミシミシと骨がきしんでいる様な感覚だった。
○○に植え付けたはずの楔は、またどこかに飛んでいってしまった。
そしていつもと同じように○○は暴れだした。


「―!!~~!!!!」
本当に人間の声なのか。それほどまでに大きな声を轟かせながら○○は暴れた。村紗の腕を握り締めながら。
○○は、村紗が腕を握りつぶされるのではないかと。そう思うほどの怪力で握り締めていた。
「痛い!痛い!!○○離して!!大人しくしてぇ!!」
蔵に備え付けられた棚に体をぶつけられ。その衝撃で上から物が落ちてきたり。そして怪力を持ってして締め上げられる腕。
村紗は○○からの攻撃に全く防御が出来ずにいた。
相変わらず、○○は化物じみた声を轟かせながら暴れ狂っている。この声は間違いなく皆にも届いているであろう。
皆すぐに駆けつけてくれる。だがその“すぐ”が、村紗にとっては長く感じられた。

「―!?」
村紗は自分の顔面を狙っているであろう、○○の握り締められた拳を視界の正面に捉えた。
今の○○は今までとは比べ物にならない強さで暴れている。
○○は恐慌状態でありながら。自分に対する明確な殺意を発している。
この拳が自分に叩き込まれれば。ただではすまないことを村紗は直感した。

同時に。村紗の目に映った、鬼の形相を浮かべる○○の顔が。ほんの少しだけ笑っているように見えた。
きっと自分を殴り飛ばすことを考えて笑っているのだ。今度は自分が殴り飛ばす番だと思って笑っているのだ。
そして。○○の拳は加速を得た。
そのあらん限りの力で握り締められ、可能な限りの加速を得た○○の拳は。



空を切った。村紗の顔面ギリギリの所をかすめる様に。
かまいたちと言う奴なのか。村紗の頬をかすめる○○の拳は、その皮膚を裂いた。
しかし、それだけだった。とても致命傷にはなり得ない傷だった。

変わりに、村紗の拳が。また○○の顔面にめり込んだ。
今度の村紗が放った一撃は。あの時とは違った。
あの時は手加減を出来るだけの余裕があった。とにかく○○を大人しくさせる為の必要最低限の一撃だった。
しかし、今回の一撃は。本気だった。手加減をする余裕など、あるはずも無い。
人外としての。本気の一発だった。




その拳を食らった○○は。握り締めていたはずの村紗の腕も放してしまい。開け放たれた蔵の扉からすっ飛んでしまった。
そしてまたゴロゴロと。今度は固い石畳の上を転がり。木の根元にぶつかるまで、転がり続けた。
その一発は反射的な動きだった。命の危険を感じた村紗が、条件反射で動いて、出してしまった物だった。
彼方で木の根元にぶつかり、ぐったりとして動かない○○を見ても。村紗の涙腺は緩まなかった。

出るのは乾いた笑いだけだった。
そして憎悪。里に対する憎悪の炎が燃え上がった。
何故自分がこんな思いを。命の危険を感じなくてはいけないのか。
○○が見せた鬼の形相は、敵意は、殺意は。里の者に向けられるべきではないのか。
何故あいつ等は、○○をこんなにも痛めつけながら。○○を命蓮寺に担ぎ込むだけで、何もしないのか。
何故、最後の。一番しんどい部分を命蓮寺だけでやっているのか。
優しくて、朗らかで。聖とはお似合いの夫婦となれるであろう。なるはずだった○○を変えてしまったのは。
里の方じゃないか。


次に出てきたのは、○○に対する同情心と。○○の境遇を悲しむ感情だった。
握りつぶされるかと思った腕の痛みも。頬から流れ出る血も。しこたま打ち付けられた体の傷も。
全て瑣末だった。○○の置かれた今の境遇と。心の傷を考えれば。
それを考えても、村紗の涙腺は乾いたままだった。
変わりに出てきたのが決心だった。せめて、マシな方向に○○を導こうと。
そうする為に村紗の考えた、始めの第一歩は。片付けるべき物は、今目の前にあった。





境内に飛び出した聖が最初に目にしたのは。彼女のトレードマークであり、弾幕の際にも使用される錨をもってして、例の蔵を打ち壊す村紗の姿であった。
傍らでは鵺が頭を抱えて座り込んでいた。近づいた際「一緒にいくべきだった」と蚊の鳴くような声と共に泣いていた。

村紗と鵺が作り出していた光景は異様だった。
聖はまず落ち葉を枕代わりにして寝かされている○○を抱きかかえた。それから、恐る恐る村紗に声をかけた。
近くにいた鵺には何を問いかけても「村紗に聞いて」としか答えなかった。

「む・・・村紗?一体何をしているんですか・・・・・・?」
聖の声を聞いた村紗は、蔵を壊す手をピタリと止め。クルリと聖の方を向いた。
その顔はある種の興奮状態にあった。息も荒く、目は大きく見開かれていた。そして。

「無かった!こんな蔵、最初から無かった!!」
とても大きな声で、何となくずれた答えを聖に返した。
「全部壊そう!!○○が不安になる物は全部壊してしまえばいいんだよ!!」
「こわ・・・す?」
村紗は聖の答えも聞かずにとにかく自分の考えを喚き散らしていた。
「そう!!そして今○○が一番怖がる物がこの蔵だよ!!だから壊す!!」
「聖!命蓮寺の間取りも全部変えよう!!○○の為に全部変えてしまおう!!」
「良いかも知れませんね」
聖の後ろから、星が近づいてきた。その星は、村紗の考えに全面的に賛同していた。



「○○の心には・・・想像を絶する大きな傷が付きました。そしてこの蔵はその傷の象徴です。壊してしまいましょう」
「そして・・・この蔵ほどではないとは言え、何処に傷を呼び起こすものが転がっているか分かりません」
星は一呼吸置き。境内、命蓮寺の本殿、そして半壊状態の蔵を見渡した。
「いっそ命蓮寺の景観も全部変えてしまいましょう。何か建物を新しく作るのも良いかも知れませんね」

「それから聖!聖は○○の事大好きだよね!?」
「当たり前です!」
○○に対する好意に関して。聖は即答で村紗に答えた。
「○○も聖の事が大好きなんだから・・・・・・じゃあもう夫婦でいいじゃない!!」
「夫婦なら一緒の布団で寝ても良いんだから!!聖も一杯○○と接吻すればいいんんだよ、これから!!」
○○との接吻、そして寝床を共にする。
それは詰まるところ、○○と聖が恋仲からもう一歩進む事である。
それを想像した聖は、急にもじもじと気恥ずかしそうにしていた。

「姐さん、何も恥ずかしい事なんてないわ」
「間取りを変えるんなら・・・夫婦の部屋も必要だな」
後からやってきた一輪も、そしてナズーリンも。村紗の思い付きを妙案として受け取っていた。

「一杯仲良くすればいいんだよ!!お互い大好きで相思相愛なんだから!!何にもおかしくないよ!!」
「ナズーリン、ついでにここの景観も変えてしまおうと思うのですが」
「ああ、妙案だと思うよ。資材はどうする?」
「明日にでも里の方に行くわ。何とかなるでしょう」
「と言うより、何とかさせましょう。ナズーリン、景観の方はお願いします。私は命蓮寺の間取りを」
とんとん拍子で話が進んでいった。
聖は○○との甘い生活を夢想しているのか、相変わらずもじもじしていた。その顔を赤らめながら。


その様子と。遂に情が枯れて、壊れてしまった村紗。その二つを見ながら、鵺は頭を抱えるしかなかった。



すがり付こうとする村紗を跳ね除け、振り切り。荒々しい足音を響かせながら、○○は歩を進めていた。
村紗の事を考えると、どういうわけか顔面が熱くなるのを○○は感じていた。
先ほどまでの口論で荒くなる息、維持されたままの憤怒に歪む表情、そして火照る顔。
せめて息くらいは整えようと。手に顔をやり深呼吸を繰り返す。しかし歩みは止めなかった、一秒でも早くこの場を去りたかったから。

顔面に当てた手は火照りを感じた。その火照り、それは決して欲情などと言う感情ではないはずだ。きっと何かされたのだろう、村紗水蜜に。自分がまだ思い出していないだけで。
あの空き地に感じていた違和感は、思い過ごしや考えすぎなどではなかった。
○○は自身の直感を信じていた。信じた結果、今こうやって楔から解き放たれる事ができたのだからなおさらだ。
この一件に関しては。○○は直感を信じて行動する事に決めた。きっとそれが一番の道だと思ったから。


ようやく例の空き地が見える場所にまで、○○は出てきた。
○○は真っ先にかつて蔵の合った場所に。今は空き地で、ついたてがあるはずの場所に目をやった。
聖輦船の下絵が描かれているはずのついたて。そのついたての一つは、無残にも引き倒されていた。
ただの絵とは言え、聖輦船の無残な姿を見るのは何となく胸がすく気持ちだった。
近くには村紗水蜜の持ち物である碇が転がっていた。あれを使って引き倒したのだろうか。
あの碇は彼女を象徴する、彼女を説明する上でなくてはならない物のはずだ。
命の次に大事なはずのそれを野ざらしにしたまま放置している所に。○○が部屋にいないことに気づいた面々の慌てぶりが垣間見えるだろう。

次に、正門に目をやると。やはり誰かがいた。
かつて履いていた靴ではなく。仕方なくこの命蓮寺でいつも履いていた。
恐らくこれも、聖白蓮が用意したであろう下履きに足を通す。その際も、○○は正門を睨みつけたままであった。
物怖じもせず。○○はズンズンと正門へと足を進める。正門の前で○○を待っていたのは寅丸星と、彼女の従者ナズーリンであった。
2人は○○が敷地外に出るのを邪魔をする気なのか。門の中央付近に横に並んでいた。
その光景に、○○の拳に力が篭った。

寅丸星の手には。かつて○○が気を失う直前までは確かに持っていた、帳面を入れていたあの鞄が握られていた。
その鞄を返せ。そう言う前に寅丸星は、○○に鞄を投げ渡してくれた。
拍子抜けであった。てっきり○○は、自分が命蓮寺の敷地外に出ることを妨害すると思っていたから。
いや、よくよく考えれば。邪魔をすると言うならば、今までは隠していた鞄をさらけ出すと言うのにも。○○は引っ掛かる部分を感じた。
その疑問を深めるように。星とナズーリンは左右に別れ、○○に中央を譲った。
「邪魔をしないのか?」
心の奥底ではふつふつと、怒りの溶岩が煮えたぎっていたが。この場面は、努めて冷静に疑問を口にした。
「何の邪魔ですか?○○」
「俺が命蓮寺の外に出るのは。お前達にとって色々と不都合じゃないのか?」
「妙な事を聞きますね・・・・・・」
寅丸星との問答はいささか要領を得ない物であった。最も○○はそれでも構わなかった。今更まともな行動は期待していない。
「正当な理由が無いのに、家族の外出を邪魔する者がありますか」

“家族”その言葉に○○は堪忍袋の尾が切れるのが分かった。
「・・・・・・家族だと!?」
その言葉を発する寅丸星の表情が・・・余りにも穏やかだったから。尾どころか袋自体がずたずたになったのではないか。

「ええ、家族です。これまでも・・・そしてこれからも」
「黙れ!!」
今日何度目かの、喉がはちきれんばかりの○○の怒声が命蓮寺に響いた。
「あれが家族に対する仕打ちで合ってたまるか!それとも愛の鞭とでも言いたいのか!?」

○○から浴びせられる罵声に心を抉られたのか、寅丸星は顔に手をやった。表情を隠しているようだったが、明らかに困惑と・・・悲しみの色が合った。
傍らにたたずむナズーリンも。言葉こそは発しないが、目まぐるしく表情筋が動き、何ともいえない感情を映し出していた。
○○の方は全く理解が出来なかった。先の村紗水蜜と言い、この寅丸星と言い。
自身を捕まえろと指示を出したのは間違いなくこいつ等のはずだった。
あの山狩りは間違いなくこいつ等が主導していた。罪人に用いるような手法を持ってしてでも○○を捕まえようとした。
何の罪も無い人間にそんな仕打ちをすれば。そんな仕打ちを受けた者が、指示を出した輩にどんな感情を抱くか。想像に難くはないはずだ。
なのに。彼女達のかもし出す空気は、明らかに悲壮感に満ちていた。
○○はその不一致さに、いつしか気を向けることはなくなっていた。そもそも、狂人相手にまともな会話をしようとしていたのが間違っていた。
そう結論付けてしまっていた。

「ええ・・・確かに・・・・・・ですが。多分あれが、いや間違いなく。最善の方法だったんです・・・・・・」
しどろもどろになりながら、言葉を続ける寅丸星の姿に何も思うところは無かった。
「そうかい」
それ以上の答えを○○は発しなかった。その声色だけで○○の心の内を図るには十分であろう。
○○はもうそれで仕舞いにしてしまった

バラバラになった帳面を鞄にしまい。わき目も降らず、真正面だけを見据え○○は歩みを進める。
星は金魚のように口をパクパクとさせながら何事かを言おうとしている。
だが何を言おうか決めあぐねいているのか、声はすんでの所で出せないでいる。
○○が目の前を通り過ぎた辺りからは。歯を食いしばり、拳をぎゅっと握り、上下にぶんぶんと振って地団駄のような仕草を見せる。
○○は背中から星が大きく息を吐く音を聞いた。そして「・・・・・・行ってらっしゃい」それが星がようやく出せた言葉だった。
星の搾り出したこの言葉に、○○は振り返りこそしなかったが歩みを止めた。
○○の顔面はヒクヒクと口角の片端がつりあがり。怒りと嘲笑の混ざり合った顔を浮かべていた。
行ってらっしゃい。この言葉の意味する所は、つまり。○○がまだ帰ってくると思っているからに他ならないだろう。
この期に及んで。全てを思い出した○○に向って言うには余りにも趣旨のずれた一言ではないか。
○○としてはもうこの命蓮寺に戻る気等微塵も存在していない。道半ばで捕縛されるのならば自決を選ぶ腹積もりもあるほどであった。
やはり何か言い残してやろうか。そうは思ったが、ヒクヒクと動く口角の痙攣は止まらず。おかしな笑いまでもがこみ上げる始末。
この状態で、まともに言葉を発する自信が無かった。少し考え、そう思った為。振り返ることなく足を再び動かした。
「行ってらっしゃい・・・か・・・・・・ははは」
後ろではまだ見送っているであろう二人を、思いっきり嘲り笑いたいと言う衝動を抑え。○○は背中を震わせながら里へと向った。




「ご主人・・・一応ネズミにつけさせるが・・・・・・良いかな?」
小さくなっていく○○の背中を見ながら、ナズーリンは横にいる星に問う。
「・・・・・・お願いします。まぁ・・・絶対に大丈夫なんですけどね」
「発作的に死を選ばれたら目も当てられない・・・もしもの備えは無駄ではないよ」
会話に区切りをつけ、ナズーリンは手を小さく動かした。茂みがほんの少しだけカサリと動いた。
「最初に行くのは・・・里ですかね、それとも博麗神社。ナズーリンはどっちがいいですか?」
「怨みを晴らしに里に向って欲しいね・・・我々は博麗神社に行こう」

ナズーリンも星も・・・いや、命蓮寺の全員が確信している事が一つだけあった。
「事実をどう知るのが最も傷を負わずに済むかな」
「そんな物ありませんよ、ナズーリン。それを知る事そのものが、○○にとって致死的な一撃です」
○○は幻想郷から絶対に出ることが出来ないと言う事を。
「そうだね・・・確かにそうだ。里にはまだ聖がいる・・・・・・」
「ええ・・・ですから。暴れだしても止める事は可能です。我々は博麗神社に行きましょう」
「里に向ったようなら、そこから行けば良い・・・とにかく博麗の巫女とは会わせたくない」

「楔の打ち直しは・・・やはり必要だったか」
「ええ・・・でも聖だけじゃない。私達全員がもうあんな手荒な方法使いたくないと思った」
「だから・・・○○の聖への情念だけで、楔の緩みに対処しようとした。そうでしょうナズーリン」
「と言うか・・・それを提案したのは私だからね。小うるさいお目付け役も、私なら適任だ」

彼女達は○○に楔を打った。あの忌まわしい記憶を封じ込める為に、楔を奥深くまで打った。
「やはり止めるべきなのかな・・・無理矢理にでも。もう一本の楔に気づく前に」
「その楔は・・・スキマ妖怪や博麗の巫女でも絶対に解けませんからね」
そして。記憶とはまた違った場所に。彼女達の望もうが望むまいが楔がもう一本打たれた。
「今の博麗の巫女は・・・と言うか博麗の巫女と言う物は随分口が悪い。と言うのが常ですからね」
「剥き身の刃で切りつけられるようなものだよ」
その楔は、打たれた瞬間に。○○の人としての命を奪っていた。







静かでは合ったが、里全体に漂う空気は騒然としていた。
○○が記憶を取り戻した。前後も無く、その一文のみと言う簡潔な内容で書かれた文は、ナズーリンのネズミが持ってきた。
その一報を呼んだ聖は一気に顔面蒼白となった。最も、ナズーリンのネズミが文を持ってくる時点で、碌な報せではない事は確かだったが。
それだけは、有り得て欲しくなかった。せめて、○○がまた昏倒したという内容ならば、ここまでの空気は作られない。

寄り合い所の大広間には何人もの人間が座っていた。今この場には指導者層が全員集まっていた。
皆一様に落ち着きがなくなっている。だが、その中で一人だけ。諦め半分に覚悟を決めたような若い男がいた。
聖は里長も押しのけ、最上座に座っていた。それは別段不思議ではない。
問題はその若い男が次席に座っている事である。特筆すべきはそれだけではない。

こういった大広間での席次は、即その組織の中での地位に関係する。
この席で、人外の一派をまとめる存在は聖だけであった。だから聖は自動的に最上座に案内される事となる。
問題はここからだった。聖の隣に座る若い男。彼は今の里長よりもはるかに若い、それなのに次席に座る事を許されている。
横暴や下克上と言った物ではなく。人里と言う組織自体が、彼が里長より上に立つ事を許している。
それは席次以外でも顕著だった。聖と、隣に座るその男には、仰々しく茶と茶菓子が運ばれたのに。里長にはお茶のみ。他の物は茶すらない。

その理由のほぼ全てを知っている聖は、その光景を嘲笑と侮蔑の顔で見ていた。
(そう。やっぱりあの男の一族に、全ての厄介事をおっ被せているのね・・・・・・)
(里長をも超える丁重な扱いは、その対価なのね・・・随分安い気はするけど)



大広間に座る聖とその若い男以外の一同は。しきりに二人の顔を見比べている。
勿論、聖は何度か里の者と目が合った。その度に、わざとらしいほどににっこりと微笑んだ。
そうすると、目が合った物はビクンと体を波打たせたり、硬直したり、短い悲鳴を上げたり。
その姿が、聖にはたまらなく滑稽で。不愉快極まりなかった。

「茶菓子を食べて・・・茶を飲み干す時間くらいはください」
何度も顔を覗き込まれるのに嫌気がさしたのか。その男は短くこう言った。
その言葉の通り。他の物は、その男が茶と茶菓子を食べ終わるまで律儀に待っていた。
その男は饅頭を口にほお張り、ゆっくりと咀嚼し。茶もゆっくりとすする。
じっくりと味わうように。またそうする事が出来る自分を慈しむ様に。

「ふぅ・・・美味しかった」
きっと。最後に口にしたものの味を、しっかりと覚えたいのだろう。
湯飲みの底には茶の粉すら残らず。饅頭もかけらすら残らず綺麗に平らげた。
そして、飲み干した湯飲みを茶托に置く。その際、コンという音が。小さい音なのに部屋一杯に広がった。


大広間に座る者達は、男の第一声を待っていた。
男は広間に座る全員の顔を見て。ふぅ、と言う一呼吸の後にようやく言葉を発した。
「聖様と・・・それから皆さんも、逃げてください。私はここに残って、義務を果たします」

その一言に。里長も含め全員が間髪いれずに、地に額をこすり付けんとばかりにひれ伏した。
何人からは小さく。「有難うございます」と言う言葉が、何度も何度も、繰り返し呟かれていた。
「し・・・しかし・・・・・・」
「何でしょう?長殿」
その男には、里長ですら。恭しく、そして仰々しく話しかけていた。
「も・・・・・・もし。貴方様が父上と同じように・・・・・・なられたら。我々は一体・・・・・・」
「大丈夫ですよ、長殿。さすがに二代続けて、子供が父の思い出を殆ど持っていないというのは避けたいですよ私も」
「ですから・・・多少みっともなくても何とか生き残ってみますよ」
「はは・・・!有難うございます・・・!有難うございます・・・・・・!」
「で・・・ですが・・・・・・もしも、もしもの事があった場合。お子様はまだ小さい。我々は・・・我々は、誰を頼れば・・・・・・」
その男は、死すらも覚悟しているようだった。しかし、まだ小さい自分の子供を残してしまうことだけは、もしもの時の最大の心残りとして気にかけていた。
対して、里長以下の全ては。全てをあの男の一族に頼りきっていた。

長い間、人里と付き合いをしているうちに。ほんの少しだけ印象が変わった。
少なくとも、あの男の一族に関しては。聖はとても同情的だった。

「皆さんは逃げればいいんですよ。私はここで○○を待ちます。間違いなく私も恨まれてますから」
「まぁ・・・何かあっても。この方の命くらいは守れますよ」
聖の言葉にその男は座布団から跳ね降り。聖の正面に座り、深々と頭を下げた。
「あ・・・有難うございます。聖様・・・!有難うございます!」
「ですが・・・・・・ギリギリまでは私がやります。聖様は掛け軸の裏に。隠し部屋がありま―
「結構です。○○は私の最愛の人です。○○を前に隠れるなんて事、私はしません」
その男からは、不思議と卑屈さは全く感じなかった。幼い頃から刷り込まれていたのだろう。
自身が果たすべき義務を。後ろに座る者共の手によって。

「さぁ、早く逃げないと。○○が来てしまいますよ?」
段々と聖の我慢も限界が近づいていた。聖らしからぬ棘のある言葉を使ってでも、早々に視界から消したかった。
その男の後ろに座る者共を。



○○は歩く。かつて自分が追い立てられた道を・・・そのはずだった。


里から命蓮寺に続く道は、今○○が歩いているこの一本しか存在しない。
それなのに、本当にこの道で合っているのか?と言う。そういった疑問が何度も○○の頭の中を通り過ぎる。
今の○○の中には2つの記憶が交錯していた。1つは聖白蓮によって封印された記憶。
もう1つは、つい先ほどやっと取り戻す事ができた本当の記憶。
その2つが○○の頭の中で目まぐるしく交錯していた。しかし、時間をかけて考えれば。どれが嘘で何が本物なのかはどうにか判断をつけれた。
嘘の記憶を真実と誤認したくなかったから。真贋の区別は慎重に行っていた。

「もしかして・・・作り変えたのか?」
辺りを見回し、記憶の整理をしながら、○○はある結論にたどり着いた。
作り変えた。自ら発したこの一言に、○○はまた一つの事を思い出すことが出来た。
命蓮寺境内の外観と、本殿の内装。○○の脳裏の浮かぶ映像には、それが二種類あった。

1つは記憶を操られ、修行者と言う偽りの身分で命蓮寺にいた時。もう1つは騙され続けた時の記憶。
その二つの記憶が映し出す映像の間には、大きな齟齬があった。何もかもが違っていた。

「そこまで・・・・・・やるだろうな」
作り変えたとしか思えなかった。命蓮寺の境内、本殿の内装。そして、里と命蓮寺を繋ぐ沿道すらも。
かなりの大仕事のはずである。それでも、そこまでやるかとは思わなかった。ここまでの事をやるのだから。
○○の記憶を封印する上で、それが有効と判断したのなら。あいつ等にその発想を止める考えなど、あるはずも無い。


先ほどまで感じていた、妙な違和感。それは○○が嘘の記憶の楔を葬りされたからだ。
葬り去れたからこそ、違いに気づく事ができた。
この沿道は・・・いや、この沿道も。間違いなく作り変えられている。
実際思い返してみても。操られていた頃は、沿道や境内の風景、本殿の内装にここまで注意を払わなかった。
「あいつら・・・木々まで伐採したのか?」
全てが作り変えられていた。およそ、○○の知る全ての景色が。この沿道すら、印象を変えるために木々の伐採を行ったように感じられた。
道端に生える草の生長に比べれば、木々の生長はもっと遅いはずである。
よくよく思い出せば。道の曲がりくねり方などは覚えがある。しかし、木々の風合いや枝の茂り具合などには雲泥の差があった。

自然に任せて、ここまで変わるには相当の期間が必要なはずである。
時間の経過に考えをめぐらした○○はふと不安になり、○○は自分の顔を触ったり、両手を何回も見比べた。
幸いにも、皺やシミなどと言った物は見当たらない。○○は安堵のため息を漏らした。
相変わらず、○○は一体どれだけの期間、記憶を操られていたのかを分からずにいた。
だが、体を確認する限り。劇的な老化は起こっていない。気づけば浦島太郎のようなおじいさんになっていたなど・・・考えたくも無い。


劇的な老化は起こっていない。ならば、二つの記憶が映し出す映像の間にある齟齬の説明は。
最早そう思うのが自然だろう。全て、彼女たちが手を加えて作り変えたのだ。
○○はむしろ感心すら覚える始末であった。いっそ清清しい位だった、その周到さに。
「見覚えのある景色が一つもないな・・・」
感嘆の呟きと共に、○○は里への歩みを進める。





大広間にはその男と聖の二人だけが残された。
里長を始めとした一同は、部屋を出た後の動作こそ早々としていたが。部屋を出る際のお辞儀だけは、やたらと丁寧な物であった。

二人の目の前には、ここでも気を利かしてくれたのか。一つずつ急須と、茶菓子のお代わりが置かれていた。
緊張から喉が渇くのか。男はしきりに急須の中身を湯飲みに入れ、もう全てを飲み干してしまっていた。飲み干した後は湯飲みを爪でコンコンと弾いたりしていた。
食べる気になれないのか、茶菓子は少し触って皿に戻したきりだった。

そうやって○○がくるまで、ただただ時間を持て余していた。その顔は、先ほどまでと比べるとやはり強張っている印象を聖は受けた。
聖は急須にも茶菓子にも手を付けず、男の顔をずっと観察していた。
何度か目も合った。その際、他の里人に向けたようなわざとらしい微笑を浮かべる。
それでも、ほかの里人と違い。人外の存在と多少の付き合いがあり、肝が据わっているからか。少しぎこちないが、ある程度は微笑み返す事が出来ていた。


その男の顔を見れば見るほど、聖には思う所があった。
何の因果かは分からないが。その男の顔は、死んだ父親よりもまだ存命中の祖父に似ていた。
あの時は。○○の記憶を改ざんする作業の際は、この顔立ちを思い出すだけではらわたが煮えくり返っていた。
それでも、○○の記憶に矛盾を生まない為に。○○に植えた楔の意地の為。
形だけでも里と付き合ううちに、すくなくともあの男の一族に対しては、怒りや憎しみを感じることが無くなった。
今では、道場と哀れみを持った目でその一族を見ることが出来ていた。


そしてそれと同時に、徐々に聖は人里に対する恨みも消えていっていた。
変わりにに出てきたのは、侮蔑と嘲笑だった。里人の、あの男の一族に対する余りにも低い腰。
平身低頭と言う言葉ですら表現しきれないほどの卑屈さ。その卑屈さは、自分達人外のものに向けられる物に、よく似ていた。

彼の祖父や父親が、何を思っていたかは知らないが。少なくとも彼は、どうやらその卑屈さに気づいてはいないようだ。
彼が里人に向ける表情は、明らかに慈愛に満ちたものだった。
自分はこの里を守る為に働かなければならない。そういった決心も、所々に垣間見える確かな力強さを感じた。
だから余計に。聖は彼のことを可哀想な存在だと思っていた。




聖が自分の顔を覗き込んでいる。
勿論、その男は聖の視線に気づいていた。彼の顔に出来る強張りは、決して憤怒に燃えているであろう○○を待っているからだけではない。
その男の脳裏には1つの気がかりがあった。その気がかりが原因で、○○は記憶を取り戻したのではないか。

そう考えているから。自分は○○だけではなく、聖白蓮にも恨まれているのではないか、そう考えざるを得なかった。
「・・・聖様」
本当はその気がかりが考えすぎかどうかを聞くのも怖かった。
しかし、もしその考え過ぎでなかったら。何としてもその恨みは自分が一身に背負わなければならない。
自分の、子供の為にも。

「何でしょう?」
この緊迫した事態にあるにもかかわらず。聖の表情は柔和で穏やかそのものだった。
その肝の据わり方に。種族の違いをまざまざと実感させられていた。
「1つ・・・お尋ねしたいことがあります」

唇を震わしながら。ゆっくりと、丁寧に。その男は言葉を進める。
「あの祭りの日・・・私は○○様の記憶の蓋に触れてしまいました。もしかしたら・・・」
「大丈夫ですよ。あれは殆ど関係ありません」
あの祭りの日。急な突風で掘っ立て小屋の柱が、彼の息子に一直線に降ろうとした時。
勿論、彼は息子を助けようとした。
しかしその時、間の悪い事に。彼と同じように、助ける為に飛び上がった○○の上に覆いかぶさってしまった。

「多分・・・貴方が気にしているのは。貴方が○○に覆いかぶさったのが、あの蔵でのことに似ているんじゃと思ったからでしょう?」
聖の質問に、コクリとだけ頷いた。
聖の言うとおり、彼はそれを一番気にしていた。彼も勿論、○○が今は無いあの蔵で何をされたかは、よく聞かされていたから。

「ええ、まぁ。確かに似ていますね・・・・・・しかも、その状況を作ったのが他ならぬ貴方ですから」
後半部分を口にするとき、聖はわざとらしく笑って見せた。その視線と笑みに、彼は一瞬さっと顔が青ざめた。
「でも、そうなるかなり前から。○○に植えた楔は取れかかっていたわ・・・経年劣化ってやつかしら」
「だから、殆ど関係ないわ。安心なさい」
自分の行為が直接の原因ではない。そう言われて、強張った肩の力が男から明らかに抜けていくのが見て取れた。

それでも、関係がないのと。許す許さないは別問題のような気がして、チラリと聖の表情を確認した。
「疑ってるの?」
「い・・・いえ!そんな、滅相もございません」
どうやら自分の勘繰りすぎだったようだ。そう思うことにして、この話題は仕舞いにした。
「むしろ、貴方ごときで楔を外せると思ってる方が。思い上がりと言うものよ」
「は・・・申し訳ありません」
安堵と恐縮を入り混じらせながら。彼は相槌を打つ。その顔にはほんの少しだけ、生気が戻っていた。また子供に会えるかもと思い。


「所で、お祖父様はお元気なの?」
聖は話題を彼の祖父に移した。聖にとってはある意味、これは気になる事柄だったから。
聖から祖父の話を切り出され。その男は、明らかに言葉に詰まっていた。
「・・・元気では全く無いですね。もう一日中床に伏せています」
もう長くない。はっきりとそう言っていないが、十分にそう理解できた。

「鬼籍にもう半分名前を書かれてしまっています。明日どころか、今夜いきなりと言うことが合っても、不思議ではありません」
祖父の話をするその男は、明らかに落ち着きが無かった。聖の目も、まともに見れなかった。
恐ろしかったからだ。どんな表情をしているか確認するのが。

「大丈夫よ、もう余り気にしてないから」
「・・・・・・有難うございます、聖様」
「絶対に許さないけど」
深々と礼をしようとするその男に。最後の最後で釘を刺す事は忘れなかった。
礼は途中でピタリと止まった。彼の体も、表情も。寒くは無いはずなのに、ガクガクと震えていた。

余り気にしていないのは本当だった。だがこの恨みだけは忘れさせたくなかった。彼にも、彼の子供にも。






ようやく、里の正門が見えてきた。
正門には、門番らしき人間達が・・・正座の体勢で座っていた。その門番達は、○○の姿を確認すると、サッと頭を下げた。
今までは抑えていた物が、また噴出すのを○○は感じていた。
体はわなわなと震え、拳には力が篭り、顔の方もまたヒクヒクと口角が吊り上る。
だが今度の吊り上がる表情は、命蓮寺の時のような侮蔑と嘲笑ではなかった。怒りに震えながらのものだった。

頭を下げる門番の、震える体を十分に確認できる位置まで歩くと。○○は歩を止めた。
そして、何度か深呼吸を繰り返し。大声を張り上げる準備をした、今のままでは震えてまともに叫べそうに無いから。


「聖白蓮と!!!俺を嵌めた!あの男は何処だぁぁぁあああああ!!!!!」
○○の大声は。恐れおののいた門番達からの悲鳴すらかき消すほどの、轟音であった。



○○からの怒声に怯えながらも。門番達は門を中央にして、左右に分かれる形で頭を下げたままの体勢だった。
その門番達の行為は、命蓮寺の星とナズーリンの時と同じく。○○に中央を譲っていた。
命蓮寺の時と違い、門番たちが左右にズラリと並ぶその光景は壮観であった。

しかし、内面の部分は二人と決定的に違っていた。その部分は、聖だけではない。命蓮寺の全員が最も嫌っていた物だった。
しかし、激昂が最高潮を迎えた○○にそれを感じられる余裕は無いし、感じたとしても気にも留めなかったであろう。


○○としては、まだまだ叫び足りなかった。しかし、限界を超えた怒声からの、過呼吸に陥りそうなほどの荒い息遣いに、次の言葉をさえぎられていた。
「ゲホッ・・・!はぁ・・・はぁ・・・あの2人は何処にいる・・・!!」
地に額をこすりつける門番達はガタガタと震えるままだった。
最早冷静さを失っていた○○はその中の一人の首を力一杯掴み、問いただすと言う行為に出た。
「ひぃっ!ご、ご・・・ご慈悲・・・・・・・・・を!」
首を掴まれた、その運の悪い哀れな門番は震える声で嘆願する。
首を掴まれた為、絞まりつつある気道。門番は苦しそうな声も上げている。徐々に「ご慈悲を」と言う言葉もかすれていく。

それもそのはず、○○はただ首を絞めているのではない。門番を宙高くに掲げる格好を取っていた。
それ故、門番自身の体重とあいまり、余計に首が絞まる速度が速いのであった。宙高く掴みあげられた門番の足は地面を探し、ジタバタともがいている。

その姿に、ナズーリンの命で○○の後をつけているネズミはある事を思った。
まるで、正気を失った聖が。例の、あの男を宙高くに掴み上げたあの時とそっくりだと。


無論、○○の方は立ち向かわれない限り、件の二人以外の人間を害する気は無い。しかし、彼の表情、身にまとう鬼気迫る物、そして首を掴み、高く掲げると言う実力行使。
それらがある為、彼らは命の危機を感じざるを得ない。

「正直に言え。あの2人は何処だ。そしたら放してやる」
「お前達も、誰でも良いから早く言え。でないとこの男、どうするか分からんぞ!」
口調の方は幾分かは繕えても、表情は無理だった。むしろ、静かで低い声と合わさり。更なる恐怖の演出にしかならなかった。
「よ・・・寄り合い所の、お・・・おおひ、大広間で、待っておら、おられ・・・・・・」
寄り合い所の大広間。居並ぶ門番の誰かからそう聞こえた。それだけを聞いて○○は首を掴む手をポイと放り投げるような形で解放した。
解放された門番は。丁度○○の背の倍近い高さで宙を舞いながら、地面にまっさかさまに落ちていった。

人一人が地面に激突する音が辺りに響いた。その哀れな門番は涙声で小さく、有難うございますと言った。
「大広間・・・寄り合い所の大広間・・・・・・!待っていると言ったな・・・・・・!!舐めやがって!!」
ただ、その感謝の言葉が漏れた頃には。もう○○は歩みを進めていた。


○○は寄り合い所へと向う最短ルートを歩く。そこまでの道すがら、○○は誰にも会わなかった。
人の気配が全く感じられない、不気味な静けさが辺りに漂っていた。
「おい!誰もいないのか!!?」
○○も不審に思い、辺り構わず声を張り上げた。
既に寄り合い所までの道周辺の住人は、○○の邪魔になると言う事で。全員が里の端の方まで移動していた。
この里の真の姿を。ある事柄に対しては、彼の一族を筆頭に高度に組織化された。この里の事実を知らない○○にとっては。
不可解で、不愉快極まる奇妙な事象だった。

「俺はもう記憶を取り戻したぞ!お前等に何をされたかも!全部思い出した!!」
近くには誰もいないとも知らず、誰かにこの思いの丈を聞かせたくて。○○はより一層声を張り上げる。
「どうせ何処かで見ているんだろう!!あの時みたいに!アイツが俺の相談相手をするふりをして、監視していたように!!」
滑稽そのものだった。誰もいない場所で声を張り上げる○○の姿は。
「どうせまた何かやるつもりだろう!?望む所だ!!ぶちのめしてやる!!!」
ギャーギャーとわめき散らしながら。聖とあの男と○○が思っている人物の元へ、○○は進んでいく。

知らぬとは言え。まだ気づく気配すら見せぬ、記憶以外に植えられていた。もう一本の楔を見つけに。





「ご隠居様、ご報告に参りました」
里長は大広間で見せたような恭しく、そして仰々しい振る舞いである部屋に入っていった。
その部屋がある邸宅は、稗田家に勝るとも劣らぬ程に大きく、豪華だった。里の事を知らぬ者は、その邸宅を見た際。里長の家かと間違うほどだった。
「ああ!ご隠居様。どうか無理をなさらず。そのまま、寝たままで構いませぬから」
ご隠居様と呼ばれる老人は、床に伏せていた。
見るからに病に蝕まれている雰囲気がその老人には合った。そしてその病は、もう完治する事はないと言う事も。

しかし、そんな状態でありながら。老人は里長の来訪に無理に起き上がろうとした。だが、そんな老人を里長は制止した。相変わらず仰々しい声色で。
「・・・・・・孫はどうした」
起こそうとした体を再び寝床に預け。老人は目も開けず、力なくその一言だけを呟いた。
里長は頭を下げ、その問いに答えた。
「は・・・・・・ご当主様は義務を果たすと仰り・・・・・・聖様と共に寄り合い所の大広間で○○様を―
「今なんと言った!」

ご隠居様と呼ばれる、見るからに弱りきっているはずの老人から発せられたとは思えぬ、大きな声だった。
その声に驚き、ビクンと里長が頭を上げた視線の先には。力無く寝ているはずの老人が体を起こし、鬼気迫る顔つきでこちらを見据えていた。

「ご・・・ご隠居様!寝ておられなくては、お体に―
「今なんと言ったと聞いておる!!孫はどうした!!」
里長の言葉をさえぎり、老人は問いただす。
「は・・・・・・で、ですから。ご当主様は聖様と共に大広間で―
先も聞いた言葉と同じ言葉が里長から聞こえ、老人の怒りに震える顔は一気に高潮した。

「あんな化物と一緒の部屋に、一人きりにしてきたのか!!別の化物を待つために!!」
孫の不在に声を荒げる老人は。その不在の理由を聞き、更に声を大きくした。
弱っているはずの体に相当な無理をさせているのは明白だった。その為、その老人はもう肩で息を、そしてゴホゴホと咳き込み。口からは時折、吐しゃ物が漏れる。
しかし、咳き込みながらも視線は里長を捕らえ。血走る眼と、そこから放たれる眼力だけは。全く衰えなかった。

「ご・・・ご隠居様、お体の毒です故」
「愚図が!!寝てなどいられるか!!!」
寝かしつけようと近づく里長を突き飛ばし、掛け布団を払いのけ、老人は両の足で立ち上がった。
「誰か!!玄関の杖をもってこい!!誰かいないのかぁ!!」
しかし、気力に体の方が付いてゆかぬのか。声こそ大きかったが、歩く姿はとても健康な人間のそれではなかった。
ヨロヨロと、幼子よりも不安定な歩き方だった。

「ご、ご隠居様!せめてお召し物を。外は存外に寒うございます」
「そんな暇があるか!!はよう杖をもってこい!」
留める事は叶わぬと判断した年配の女中が、着替えをするよう促すが。老人は頑として杖のみの催促を続けた。
後ろでは若手の女中がオロオロと事の成り行きを見守っていたが。何人かは年配の女中の発したお召し物と言う言葉に反応した。
恐らく、老人の着替えを取りに行ったのだろう。

女中の力は、日々の家事仕事と小間使いで鍛えられたのか。歩みを進めようとする老人の体躯をしっかりと掴んで離さなかった。しかし。
「わしが死ぬのと孫が死ぬの!どちらが不味いか分かるだろうが!!」
一呼吸置いて、老人が出したその言葉の悲壮感たるや。その悲壮感に、押し止める女中の力が一瞬抜けた。
「誰かぁ!杖を!頼む!!」
女中の力が抜けた隙に、老人はまた歩き出した。先ほどよりも不安定さは増し、ヨロヨロと言うよりはグラグラと体を揺らせながら。
杖があっても、1人で出歩けるような状態ではなかった。
それは老人自身よく分かっていた、それでもなお杖を求めて叫び続ける。その声の中に徐々に涙を混じらせながら。

「・・・誰か!羽織る物をご隠居様に!!私は杖を渡します!!」
遂に女中は観念したのか。羽織る物だけを後ろの若い女中に命じ。老人の・・・死出への外出を見届ける事にした。

「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
息も絶え絶えになりながらも、老人は歩みを止めることだけは絶対にしなかった。
羽織る物も歩きながら身に付け、杖も歩きながら受け取り。履物の方も、紐も結ぶ時間も惜しいのか、つっかけの様に通すだけだった。
「お前は・・・お前は駄目だ・・・・・・お前はまだ・・・早すぎる・・・・・・」
玄関の戸も開け放したままで、うわ言の様に呟きながら。
杖があっても相変わらず体をグラグラと揺らしながら、老人は歩を進める。その眼には覚悟の色だけでなく、涙もあった。


そして、その老人が杖を持つ方とは別の、もう片方の手は。
妙な方向に、曲がっていた



○○の視界には件の寄り合い所が姿を現し、徐々にその姿は大きくなっていた。○○は笑っていた、その寄り合い所に近づくほどに。
今から自分が行をうとしている事を考えると、どうしても気分が高鳴るのを抑えきれなかった。
今○○の心中にあるのは復讐心だけだった。それのみが○○を突き動かしていた。その後の事など、何も考えていなかった。
何も考えていないからこそ、○○の行動には一切の迷いが無かった。

「うおおああああああ!!」
寄り合い所の鍵は○○の来訪が確実な為、当然開いていた。しかし、○○は扉に果ても触れず、その扉を蹴り壊して、土足のまま中へと入った。
「来てやったぞぉ!」
そのまま○○は、走るには狭い屋内を全力で駆けた。目的地は勿論、二人がいると言う大広間だ。
板張りの廊下を土足で踏み荒らす○○の足音は、間違いなく大広間にも届いているだろう。
それでよかった。今○○は自分の存在をとにかく主張したかった。自分がお前達の元に迫っていると言う事実を、あらん限りに表現したかったのだ。

駆ける○○に映し出される顔は、笑っていた。
楔から解き放たれた事による嬉しさ。そして自分達を縛っていた者に対する復讐心を晴らせる好機がやってきたから。
走りながら○○の脳裏には、かつて偽りの記憶を基に演じさせられていた頃の情景がありありと思い出される。
その中で一際○○の心に留まる映像は、聖白蓮の笑顔であった。
それらを今すぐに、この手で、全て過去へと葬り去る事が出来る。
そう出来る、すぐ傍にまで。○○はたどり着けた。
怒りよりも嬉しさの方がはるかに勝っていた。駆ける○○からは自然と大きな笑い声まで生まれていた。


そしてついに、○○はたどり着いた。
件の大広間の目の前に、自分を奈落の底へと叩き落した元凶である二人がいるこの場所に。
無論、手で開けるなどと言う丁寧な真似はしなかった。
先ほどの玄関の時と同じく、蹴り破った。
大広間の入り口に出入り口に使われているふすまは、きらびやかな装飾が施され。中に気の骨組みもある。重くて、丈夫で、豪華なつくりだった。
それを○○は、たった一発で、滅茶苦茶に蹴り破った。
破片は大広間の端にこそ届かなかったが、それでも遠い物は三分の一ぐらいの所まで飛んでいった。
滅茶苦茶に壊れるふすまを、その男はまともに見れなかった。自分もこのふすまと同じようにされると思い。
荒々しい足音が聞こえてきた頃から。その男は目をぎゅっと瞑り、奥歯を噛み締めて恐怖に耐えていた。
ふすまが蹴破られる音が聞こえた折に、確認の為にほんの少しだけ瞼を開けたが。粉々になった木片を見てすぐに恐怖からまた閉じてしまった。

もくもくと、木片などが混じった埃っぽい空気が○○の周りに立ち込める。
「来てやったぞ!お前達!!」
高らかに叫ぶ○○。自分を嵌めた、彼と目する男は大広間の端の、随分な上座の方でガタガタと震えていた。
それは良かった。それ自体は、○○の気分を少しは晴らす物だったが・・・
だが、もう1人の元凶、聖白蓮は。もう一段上の席で、いつもと変わらぬ平穏な表情を見せていた。
○○の暴走など、馬の耳に念仏でも唱えるかのように。○○の姿を見受けても、まるで動じていない様子だった。

「おはよう、○○」
それ所か、聖は○○の記憶の中にあるような。あの柔和な笑顔で朝の挨拶を口にできる程だった。
却って、その笑顔が怖かった。
その笑顔が、憤怒と歓喜が湧き上がる○○の心を一瞬冷やした。

「な、何がおはようだ!!お前は、分かっているのか!?俺が記憶を取り戻した事を!!」
一瞬感じた恐怖感を誤魔化そうと。○○は声を荒げ、聖を睨みつける。
だがそれでも、いつもと変わらぬ声色。いつもと変わらぬ物腰。いつもと変わらぬ愛おしそうな目付きで。
聖は○○の事を見つめ続けていた。
それが、一瞬感じた恐怖を増殖させる。負けたくないと言う意地から、○○は聖の目を見つめ続けるが、それが益々増殖の速度を速める。

「○○・・・・・・私はね、何処まで行っても、私だけは絶対に。未来永劫貴方の味方よ」
○○の名前を口にした一瞬だけ、聖は悲しそうな顔をした。しかしすぐに、いつもの愛しさを絡みつかせるような表情に戻った。
そこに恐怖という感情は微塵も存在し無かった。この期に及んでも、聖の心はまだ○○に寄り添っていた。

感じた恐怖は増殖を続け。怒りと歓喜に震える○○の心を侵食していった。
「ふざけるなぁ!!」
そうは叫ぶが、○○は自分でも分かっていた。明らかに狼狽の色が濃くなっていると。
○○は聖の1つしたの席で座るあの男と同じような恐怖と、今自分が感じているような狼狽を、命蓮寺の面々が見せたような取り乱し方を。
○○は聖白蓮に期待していた。
なのに、聖には恐怖の感情は生まれず。反対に自分が狼狽を否定できずにいて、自分の方が取り乱しそうだった。
「狂人が・・・!」
それ以上の言葉は出せなかった。声が震えそうで。

そのまま膠着状態が続いた。
本来流れた時間はそれほど長くは無いはずだったが。聖白蓮の顔を見ていると。体感する時間が平時の何十倍にも膨らむような錯覚を覚える。
聖白蓮の表情は相変わらず、○○を愛おしそうに見ていた。
その不気味さに、吐き気すら感じた。少しでも距離を離したく、後ずさりがしたかった。後ずさり所か、このまま逃げ出したかった。
もう○○の心に会った歓喜は恐怖に食らい尽くされてしまった。憤怒の感情も恐怖の感情で覆い尽くされようとしていた。
○○と聖の間に挟まれるその男は。言葉を発する事もできず、それ以前に目を開ける事もできず。
小さく震えるだけだった。


「聖白蓮!お前が・・・お前がこいつに俺を捕まえろと命令したんじゃないのか!!」
○○は声の震えを必死で抑えながら、彼と目する男に指をさした。
ようやく○○が進めた状況は遂にその男にも矛先が向いた。それを感じた瞬間その男はビクンと体を跳ね上がらせた。
「まぁ!○○、まだ私の事を名前で呼んでくれるのね!」
ただ1人、聖白蓮だけが喜色満面の顔つきと弾む声でいた。

「何でまだそんな声が出せるんだお前は!!」
必死に隠していた狼狽と恐怖の色も、最早隠し通す事ができなくなりつつあった。
それ程に、聖白蓮が内にはらんでいる感情だけは場の空気と余りにも合わない物だった。
その合わない何かを感じた者達が感じるのは。違和感ではなく、恐怖だった。
異常事態に頭のネジが外れたと言うよりは。本当に本心から聖白蓮は喜んでいるようにしか見えなかったから。

「だって、私の幸せはね○○。○○がいることが絶対条件なのだから」
そして二人が感じたように。聖白蓮の喜びに満ちた感情は。間違いなく本心からの物だった。
聖白蓮は○○が何をしようが。○○から何をされようが。○○と共に入れることを最上の喜びだと感じていた。


「お前は・・・・・・お前は・・・うあああああ!!!」
冷静さを失った○○は、足元に転がる先ほど蹴り破ったふすまの木片の中から適当に近くに転がっている物を掴み取り。聖白蓮に向って投げつけた。

だが。
遂に取り乱してしまった○○の姿を、声で察知したその男は。
「・・・!聖様危ない!!」
その投げつけられた木片を。○○が自分を嵌めた彼と目する男は身を挺して防いでしまった。


「あら・・・・・・むしろ余計な真似だったわ、今のは」
腕を押さえる男を見ながら。聖の表情と声は一気に冷めた物となった。
聖からすれば、今投げつけられた木片など避けるのも、素手で掴み取のも。どちらも容易い物だった。
それ所か、直撃を受けても死ぬことはないし、傷も法力の力ですぐに治してしまえる力があったし。
なにより、血を流しながらでも聖にはまだ笑いながら、いつもの表情で愛おしい○○を見つめ続ける自信があった。



男の方は腕に木片の直撃を受け、畳には血の飛沫が。足元にはポタポタと赤い点々が出来上がっていた。
「も、申し訳ありません」
痛みと出血の量を気にしながらも。男はまず聖に謝罪をした。
「俺を無視するなぁ!!」
ほんの一瞬だけだが、蚊帳の外へと置かれた○○。そして、聖白蓮に当てるはずだった木片を防がれた。
その二つが○○の癪に障った。
特に、木片を防がれた事は○○にとっては最もイラつかせる出来事だった。
○○の目測では確かに、投げつけた木片は聖白蓮に向っていた。
あの軌道ならば。まず間違いなく、体のどこかに当たっていたはず。そんな軌道を描いていたのに。
それは、急に立ちはだかったあの男であろう者に。邪魔をされた。

最終的には、○○は聖白蓮と自分を嵌めた彼。
この両方を叩き伏せるつもりでは合ったが。○○からすれば、あの時自分を奈落底へと追い落としたこいつ等には。
もう自分がやる何事も。やろうとする全ての事を邪魔されたくなかったのだ。

「お前は何でこんな化物を庇うんだ!!」
○○の疑問に、その男は答えを出したわけではないが。○○には聞こえない程度の小さな声で何かを呟いた。
聖は相変わらずその男を冷たい目で見ていたが。○○には聞こえなかったその呟きは聖には聞こえたらしく。
冷たい目は一気に怒りの表情へと変わった。

「今何を言ったあ!!」
無視された事、邪魔をされた事。そして呟きの内容は聞こえなくても分かる、今の呟きが自分をそしる内容であった事。
○○はその男との距離を一気に詰め胸倉を掴む。

「言え!!お前今俺に向かって何を言った!?」
胸倉を掴まれたその男は何も言わず。目を固く瞑り、歯を食いしばっていた。
間近で見る、○○が彼と目する。自分を嵌めた、彼と目する男の顔付きは。
想像以上に若かった。



その若い顔を見て。何故だか、○○は背筋に悪寒が走った。
「うあああああ!!!」
その悪寒を振り払うかのように大きな叫び声を上げて、彼であろう男を殴り飛ばした。
殴り飛ばしたいほどに憎い相手であるのは間違いなかった。
そして○○は力いっぱい殴り飛ばした。しかし、爽快感は感じられなかった。
殴り飛ばした後でも、悪寒は消えず。記憶の中にある彼の顔と。今目の前に転がる彼であろう男の顔の間には、何故だか大きな違和感があった。

最後の最後で。○○の中で組みあがっていた歯車は、違和感と共に滑らかに回らなくなってしまった。
説明の付かない違和感。既視感とは明らかに違う色と形をした何かが。○○の中に入り込んでいた。
「お前!アイツなのだよな・・・!?」
目の前に転がっている彼であろう男は、呻きながらまた立ち上がるが。○○からの質問には答えようとしない。
「何か言え!お前はアイツなのだろう!!アイツ以外の誰なんだって言うんだ!?」
そしてまた○○は胸倉を掴んだ。それでも、彼であろう男は頑として口を開かない。

「○○・・・そんな奴放っておいたら?本当に用があるのは私でしょう・・・・・・ねぇ○○・・・・・・」
「うるさい黙れ!!」
聖は、この場面で始めて焦りを見せた。○○が、今胸倉を掴むこの男との接近を、明らかに嫌がった。
どんなに罵倒しようが、どんなに悪態を付こうが。○○に対しては絶対に優しく微笑み続けていた聖が、である。
何かを感じずにはいられない。聖も、今胸倉を掴んでいるこの男も。何かを隠しているようだった。
そしてその何かに近づいた○○を、必死になって。これ以上近づかないように、そして引き離そうとしている。
○○はそう思った。



「孫から手を離さんかああぁぁ!!」
急に降って沸いた答えの見えない謎。その謎に対する思考は、後ろから放たれた老人特有のしゃがれた声により、少し脇にそれる事となった。
聖はそのしゃがれた声の主を確認するや「はぁー」と大きなため息をついた。
そして「もう一本の楔・・・・・・気づくわね」悲しそうな声で呟いた。



その老人は見るからに弱っていた。
腕も頬も足も、体の至る所がやせこけていた。この老人の死期はそう遠くない。
見たものの全てがそう判断するに足る特徴が体中にちりばめられていた。
なのに、眼光の鋭さだけは例外だった。
その老人の眼光だけは、未だ鋭利な刃物のような輝きを持ち。彼と思っていた男の胸倉を掴む○○を見据えていた。
○○はその眼光に見覚えが合った。既視感などと言う曖昧なものではない、確かに見た事がある。そう断言できた


その老人から罵声を浴びせられた○○は、全身に広がった悪寒が大きくなるのを感じていた。
○○はこの老人を見るのは初めて・・・のはずだった。
その老人の眼を見続けていると。何故だか○○は、かつて自分が追い立てられた時の事を、まざまざと思い出すことが出来ていた。
○○は今自分が胸倉を掴んでいる若い男と、老人の目を交互に見返していた。
「まだ気づかんのかこの化け物が」
二人の目をキョロキョロと見返していると、またその老人から口汚く罵られた。
罵られた瞬間。○○はまたゾワっとした何かを背筋に感じた。
口汚く罵られた怒りよりも。何故だか恐怖のほうを色濃く感じていた。

「おじい様・・・・・・」
「お前は黙っていろ。このケリはワシが付ける」
殴られ、締め上げられている彼から、悲痛で悲壮な呟きを老人は一蹴し○○の元へフラフラと近づく。
気力が現れているのは眼力だけで、そのほかの部分は体が全く気力に追いつけていなかった。
杖が気休め程度にしかならないくらいのフラフラとした挙動で、老人は○○に近づいてくる。
まだ歩く事もままならない幼子でも、もう少しまともに歩けるだろう。それほどまでに頼りの無い歩みであった。
結局、その老人は○○の元にたどり着く前に、前のめりになって倒れこんでしまった。
それでもなお、老人は這いずりながら○○の元へと近づいてくる。
その老人が近づくにつれ、○○の感じる悪寒は大きくなっていく。ゾワゾワと沢山の虫が這い上がるような感覚が○○の全身を覆っていく。

「そんな筈があるか!!」
地べたを這いつくばる老人に向って。○○は自分の中に降って沸いた、ある疑惑に対して声を張り上げて否定する。
その老人はとてもではないが、殴り合いなど出来る体力は持っていない。肉体的な差ならば、論ずるまでも無いのに。
○○は今この地べたをズリズリと芋虫のように這う老人を恐れていた。


「少しは察してきたようだな・・・化け物が」
格好だけを見れば、○○の方に圧倒的な、覆しようの無い分があった。
しかし、精神的な部分では。老人の方が圧倒しっぱなしであった。
「今でも昨日の事のように思い出すぞ・・・・・・よりにもよって蔵の中に隠れているとは」
「お陰で、後ろの化物尼にぶち折られた腕は。アレからずっと・・・今でもまともに動かん」

○○の脳裏にまた当時の事が鮮明に思い出される。
あの薄暗い蔵の中で見聞きした。命蓮寺の連中に自分をはめた彼が筆舌に尽くしがたい暴行を受けていた事を。
確かに、その老人の片腕は。妙な方向に折れ曲がっている。
あれだけの悲鳴を上げてしまうほどの暴行を受けたのだ。後遺症や傷が無いと考える方がおかしい。
「ほれ、もっとよく見てみろ」
老人は、何かを証明するように。ごろんと仰向けに転がり服を捲り上げた。
その体には、至る所に傷の痕が見えた。
「そんな事・・・ありえて、ありえてたまるか・・・・・・」
対する、○○の目の前にいる若い男は。綺麗な体だった。腕も真っ直ぐに伸び、傷の痕など、何処にも見受けられない。

「そんな筈があるか・・・そんな事ありえるか!浦島太郎じゃあるまいし!お前達はまた俺を謀るつもりなんだろう!!」
「それをやって何の得がある!そんなまどろっこしい真似をする意味があるか!!」
○○は老人の反論に、全く言い返すことが出来なかった。
それでも○○は必死に否定できる材料を探していた。
その為に当時の事を必死で思い出していると。ふっと○○の脳裏に、浮かんだ映像が、あることに気づかせた。

今、自分を見つめる老人の敵意に満ちた眼と。
相談に乗るふりをしながらその実自分を謀り続けた彼が、自身を追い立てる時にしていた眼。
その二つが。はっきりと重り合ったのだ。



「あ・・・あ・・・・・・うあああああ!!!」
その重なり方は、その二つの眼つきの持ち主が、他人ならば。気持ちが悪いまでにピッタリだった。
例え、血縁関係にあっても。ここまで重なり合う物ではないはずだ。
それが分かったから。○○はとても大きな声で泣き叫んだ。あの時、あの蔵の中で泣き叫んだように。


○○は掴んでいた若い男を突き飛ばし、鏡を探した。そして、大広間の端に布をかぶせられた大きな姿見を見つける。
突き飛ばされた男の呻き声や、這いつくばる老人には歯牙もかけず、シクシクと泣いている聖にも気づかず。

まともに歩く事もできず、たった半歩の距離を進んだだけで足が絡まり、無様にこけるほどの狼狽にも気づかず。
鏡までの道のりを這いずり寄った。
鏡にかけられていた布は乱暴に取り払った為、一部が千切れた。そして額を鏡にこすり付けんばかりの近さで、○○は鏡に映る自分の顔を必死で見つめる。
「有り得ない!有りえてたまるか!!そんな筈が有るか!!」
「・・・・・・有りえるんだよ」
後ろにいる老人は、そう冷たく言い放つ。老人を抱える孫の目には敵意と怯えの色がはっきりと確認できた。
○○は・・・その孫とされる男の目より。老人の眼の方が怖かった。
その眼を見ていると、○○は嫌が応にも。あの時の事が脳裏にとめどなく映し出されるから。


鏡に映る○○の顔は、かつてのままだった。自分の記憶の中にある、あの頃の姿形と何も変わっていない。
見た目だけならば。騙され、謀れた頃と変わっていない。それを判断基準に○○は数十年単位で記憶を封じ込められてはいないと結論付けていた。
それに対して老人は、○○にとっては老人の存在そのものが。導き出した結論に対する真っ向からの否定材料だった

そう、確かに感じたのだ。あの老人から、自分を謀った彼の面影を。
老人と彼は同一人物。もし、そうだとしたら。○○は1人だけ、自然の摂理と人が持つ老いると言う業に反している事となる。
そのような離れ技。人の知識しか持たぬ者には、到底不可能な所業である。
そう、ただの人の力では。


○○の後ろに誰かが立った。それは気配以前に○○が凝視する鏡の端が揺らめいた事で○○も察知した。
端にほんの一瞬映った姿でその主はすぐに分かった。
「○○・・・・・・」
むしろ、この場で○○の後ろを取れる胆力のある者が。聖白蓮以外に、誰がいようか。

「いた・・・・・・」
○○は不気味なほどにゆっくりと振り向き、聖の顔を見ながら呟く。
○○は殆ど忘れかけていたが。聖白蓮はおよそ普通の人間ではないのだ。
そう、彼女ならば出来る。
○○を、この六道の輪から逸脱させる事など。

聖の顔を見つめる○○は酷い顔をしていた。
生気というものをまるで感じさせない表情だった。

不老長寿の夢とは人が持つ業病のような物であろう。
しかし、いざその夢を手にすれば気づくはずだ。周りと共に歩めないことの地獄を。
自分以外の全ての人間が老いて、やがては荼毘に伏されるのに。
自分1人だけが若々しくあることの異様さを。
「そうだ・・・お前なら・・・・・・出来る」
そして、目の前の人物はその異様さに何ら気づくそぶりが無かった。

後悔の念が○○をただひたすらに襲う。
千年もの時間を過ごす事の意味を。千年もの時間を若々しくいることの異常さを。
そして何よりも、その状況で安定した精神状態であることの恐ろしさを。もっと早くに気づくべきだったと。


「○○・・・私はいつだって貴方の味方よ」
聖は○○をいたわるように。愛でる様に。艶かしさと穏やかさを秘めた表情で。その手で○○の頬に触ろうとする。
「よ、寄るな!触るなぁ!!」
甲高い悲鳴を上げながら○○が暴れだしても、○○の手や足が聖に力強くぶつかろうとも。
その艶かしさと穏やかさはしおれる事は無かった。

○○の蹴りが聖の腹に綺麗に吸い込まれ。さすがの聖も痛みと苦しみで尻餅を付いても。
「化け物が・・・この狂人が!!俺に何をしたぁ!!」
どれほどの罵声を浴びせられようとも。
聖の心に怒りや憎しみと言った黒々とよどんだものは生まれる気配が見えない。
「ごめんなさい・・・○○。私がもっと上手くやれていれば・・・・・・」
それ所か、聖は自分自身を責めだし、涙まで流すその姿に。○○の狂乱はより一層深まるばかりだった。

命蓮寺で罵倒と罵声をわめき散らしていた時の方が。余程健全な状態で合った。



「ああああああ!!!」
○○は後ろにあった大きな鏡台を掴んだ。
本来ならば。普通の人間の力ならば、全身を映す様な姿見を持つ鏡台。1人で動かす事などまず叶わない。
○○も、その鏡台を聖に向って押し倒すだけのつもりだった。


「おじい様!!危ない!!」
老人の孫とされる男がそう叫び。老人を抱えながら転げる。
二人が転げる前にいた場所には、鏡台が通過して行った。そしてそのまま地面に落ちることなく、壁にぶつかるまで飛んでいった。
壁にぶつかった鏡台と鏡は、鼓膜を引き裂くような音を上げて壊れてしまった。



鏡台も鏡も無残な姿を晒していた。
壁にぶつかり、鏡は鏡台ごと、鼓膜を破るような音を上げて滅茶苦茶に壊れてしまった。
人一人の全身を映せるような鏡台を、○○は一息で部屋の端から端まで投げ飛ばしてしまった。
○○からすれば、それは意図していない事態だった。本来はあの投げ飛ばしてしまった鏡台を聖白蓮に浴びせ倒す目的で掴み取ったのだ。
投げ飛ばすなど、かけらも考えていない。
そんな事が出来るような大きさと重さでない事は、見た目で十分に分かるから。
しかし、○○はその鏡台を投げ飛ばせた。たった1人で。
それが何を意味するのか、○○はどんな言葉よりも深く理解できた。

「くぁっ・・・あっ・・・・・・っ」
その事実を前に、○○の足腰は砕け上手く息をする事が出来なかった。○○は頭のどこかでまだ謀られていると考えたかったから余計に。
しかしその考えは間違っている事を、○○は自分自身の手で証明してしまった。
自分の細腕にここまでの力が篭っていると言う事は。この細腕であそこまでの事が出来る存在がどういう物か。

「大丈夫よ、○○」
聖白蓮は狼狽を続ける○○に、それでも優しく声をかける。その○○から聖に向けられる目に、明らかな敵意と恐怖の色が篭っていようと。
老人の孫は鏡台と○○を交互にみくらべている。
「寄るな!寄るなぁ!!化け物が!俺は人間だ!人間のはずなんだ!!」
聖が差し伸べる手を払いのけ、涙声で○○は叫ぶ。
○○の叫ぶ人間と言う言葉に老人の孫は鼻で笑った風に見えた。老人の顔も渋かった。
お前は何を言っているんだ、と言われそうな。その嘲り笑うような顔と、渋い表情に。○○の心にまた刃がつき立てられる。
少なくとも、この2人は○○の事を人間とは思っていない。

○○は立つ事もできずズリズリと尻を床につけながら後ずさるような形で聖との距離を離そうとする。
泣きながら、喚きながら、涙と涎を撒き散らしながら。いつかの時と寸分違わぬ表情であった。
聖はオロオロとしながら、○○に近づこうとするが。聖が近づけば○○は当然喚きながら逃げようとする。
聖が近づけば、○○の狂乱はより一層強くなる。かといって、このまま放ったらかしにしておく事など、聖には出来るはずも無く。
付かず離れずの状態で、逃げる○○を泣きそうな顔で追いかけるばかりだった。

そんな聖の眼中に老人とその孫の事など捉えられてなどいなかった。しかし、○○は違った。
○○の恐怖の対象は聖白蓮だけでなく、老人とその孫も含まれていた。
○○はその二人を見るだけで無言の圧力と言う物を感じていた。
その圧力の向う先は。○○が、まだ自分は人間だと信じたい心を、容赦なく押しつぶそうとして来る。

二人の○○を見る目は人間が人間に対してするものではなかった。
どちらかと言うと獣を見る目に近かった。躾のされていない家畜を見る目だろうか。
軒先で訳も無くぎゃんぎゃんと吠える、うるさい駄犬を見る目。
そこにあるのは蔑みだけでなく。この躾のなされていない駄犬に、何かの拍子で噛まれやしないだろうか。
そんな感情が透けて見えるような気がして。

それに加えて、老人からはあの時と同じ。里から命蓮寺のあの蔵へと追い立てられたときに向けられたあの眼付き。
狩人が獣を捕らえる様なあの眼付きが、合った。体は弱りきっているのにその眼付きだけは強力な存在感が合った。
いつか見た、その目付きがあるから。老人を抱える孫からはそれが全く感じられないから特に。
否が応にも○○は認めざるを得ない。

あの男と思って殴り飛ばしたのは。実は違っていて。
その男に抱き抱えられている、最早余命幾ばくもないその老人こそが、あの男ではないのか。
その考えは、万に一つも違わないであろう。それは○○自身、最早否定しようの無い案件であった。
だがもし、否定する事をやめれば。○○は自分自身で認めてしまう事になる。
自分が化物だと言う事を。


「そんなはずが・・・そんな事が・・・合ってたまるかああぁぁ!!」
○○は逃げ出した。聖にも、老人と若い男にも背を向けて。大広間の外に向って走り出した。
何処に逃げるのか?そんな事考えてはいない。ただ○○は遠くに行きたかった。
今自分を見つめる聖白蓮からそしてもう二人からも。
ここにいると、いつか自分は認めてしまいそうで怖かったから。


逃げようとはするが、涙で○○の視界はぐしゃぐしゃだった。一寸先に何があるかも容易に判別できない。
その上、立って歩く事も間々ならないはずの混乱ぶり。幼児のヨチヨチ歩きの方がもう少し安心して見れる程の足の絡まり方。
○○の両足は先ほど自分が壊した、ふすまの破片程度で足を捕らわれ、地面を踏みしめる事ができずに空を切った。
「あ・・・!うああ!!」
そのまま二度ほど片足で跳ねて。
「ごがああ!!?」
壁に顔面から飛び込み。ほぼ垂直に接する形で顔を壁に叩きつけらてしまう格好となった。
○○は両足が空中にある為、そのままズズズと上から下へと顔を擦り続けた。
擦ったせいで○○の顔面の皮膚の一部がはがれたのか。壁にはべっとりと○○の血が縦に伸びていった。

「○○!!」
その鮮血にまず聖は顔面が青くなり、言葉を失った。そして○○が地面に顎を打ち付け手から数瞬。やっと○○の名を叫ぶ事ができた。
「○○!○○!」
そして眼にも留まらぬ速さで。聖は○○の下へと駆けた。痛みでうなる○○の名を何度も口にしながら。
「ざわるなぁ!!」
○○は顎を打ちつけた衝撃で舌を始めとした口内にも傷を負ったのだろうか。いささか呂律が回っていなかった。

「くふふ・・・赤い・・・ぢゃんろ赤いじゃらいか!!」
口から、顔から、鼻から。顔面の至る所から血を流しながらも○○は何故か喜んでいた。
特に流れ落ちる血の赤さに喜んでいた。

「俺の血はまら赤いぞ!!と言うころは・・・俺はふるうのまだ人間なんら!!!」
回らない呂律、焦点の合ってない目でも。○○が喜んでいる事は一目瞭然だった。
「それに物凄く痛いぞ!!ちゃんろ怪我もするし痛みもあるし!何より血が赤い!!」
○○は血の赤さと怪我の痛みに、自分が人間である可能性を見出していたのだ。
ぐりぐりと両手で顔面の傷を揉みしだきながら、口に手を突っ込み舌に出来た傷を確認しながら。
○○は不気味なほどに明るい声で大笑いしていた。

「俺はまら人間なんら!!」
しかし、それはかなり強引な解釈であった。確かに人外や妖怪の体が人間とは比べ物にならないくらい丈夫であることは珍しくも無い。

それでも。聖や他の命蓮寺の面々もそうだが。
殴られれば痛いし、斬られれば傷も出来る、血も流す。傷を触ればやっぱり痛い。
それは命蓮寺勢以外の人外や妖怪だって同じである。
そして何より血の色も、人間と同じ赤である。血の色だけならば、犬や猫や鳥だって同じ色をしている。


「あははは!!ははははは・・・は・・・・・・・・・?」
しかし1つだけ人間と大きく違う点がある。
その違いは、人外や妖怪としての存在が強力な程、顕著に見る事が出来る。
「あれ・・・?何で・・・・・・?痛くない」
体の異変を感じ取った○○は、ガリガリと血に濡れた手で自分の顔面を掻きむしる。
「痛くない・・・・・・顔も・・・・・・・・・口の中も」
いつの間にか口内に感じていた痛みも消えていた。それと同時に呂律もちゃんと回るようになっていた。

「え・・・・・・何で?」
先ほどまで感じていた痛みは。もう嘘のように消えていた。
そして、顔面全体に合ったヌルヌルとした血の感触も徐々に少なくっていき。段々と乾き、粘度を失い顔や手に薄く張り付いていく。

○○の顔から笑顔は消えて。また先ほどまで見せていたように体を震わせながら、目に涙を浮かべながら、今回は自分の両手を見つめる。
「・・・・・・っ!?」

乾いた血が張り付いた手を見ながら○○はあることを思い出した。
庭に置かれた大きな釜を見て○○は記憶の片鱗を思い起こしていた。
あの時は全身に広がる悪寒と、吐き気と、頭の鈍痛で。○○はすぐに倒れこんでしまった。
それでも、片方は手のひらに爪が食い込むほど握り込み。もう片方は縁側の淵を爪が折れるほどに握り締め。
爪が食い込む痛みも折れる痛みも確かに感じた。

そして、昨晩あのついたての中で、○○は土を掘った。
土はとても固かった、とても素手では掘れない。着ている物を手に巻きつけたが、それでもやっぱり固かった。
ガリガリと固い土と小石で皮膚が破ける痛みを。確かに感じた。
どちらの痛みも、幻ではない。現実にあったものだ。


「・・・・・・見てない・・・・・・ない・・・どこにも・・・ない・・・無かった」
手を上げ、光にかざすように。手の甲と平を丁寧に丁寧に、何度も何度も○○は確認していく。
どちらの傷も、一晩寝た程度では治るはずが無い。
仮に血が止まっても、折れた爪は元には戻らないし、食い込んだ痕があるはずだし、破れた皮膚は元の厚さではないはずだ。
だが、その傷跡を。○○は見た記憶が無い。
その事を、○○は思い出してしまった。今回の事で。



○○の中にあった。○○が必死で見たくなかった事実が。今○○の目をこじ開けた。



「あ・・・・・・ああああああああああ!!!!!!!」
その長い叫びは何処まで聞こえていただろうか。
里の外にまで聞こえていたのではないのだろうか。
「○○!!」
長く、大きく、何処までにも聞こえそうな叫びを上げる○○を聖は必死に抱きしめた。
「○○!大丈夫だから!!私はずっと貴方のそばにいるから!!」
そんな聖の声も○○の大きな叫びにはかき消され、○○の耳には入らなかった。
そしてまた○○は。その叫びの中で、意識を失った。あの時の蔵と同じように。



「終わった・・・な」
○○の叫び声は余りにも大きく、場の空気を震わした。その余りの空気の震えと声の大きさに、彼の孫は思わず目を閉じていた。
声が聞こえなくなり、震えも収まった頃合に、恐る恐る目を開ければ。大広間の出入り口付近で聖白蓮の後姿が見えた。
聖はすすり泣きながらも、○○を必死に抱きかかえていた。抱えきれずにこぼれている手足はだらんとしている。きっと意識を失っているのだろう。

その様子に彼の孫は安堵のため息をひとつ付いた。まだ聖白蓮がどんな反応を見せるか分からない、この後の振舞い次第では逆上してまた命の危険を感じるかもしれない。
その可能性がある為、体の力は完全には抜けない。それでも、山は越えた。
狂乱状態の○○よりは聖白蓮の方がまだ随分話せる相手だ。
平身低頭、○○の体を気遣う言葉を使いながら、命蓮寺への帰宅を促す。これが最良の道だ。
出来るだけ穏便に、そしてさっさと帰って欲しい。その本音に気付かれていようが出来るだけ表には出さず、いつも通りの受け答えをすればいいはずだ。

「光陰矢のごとし・・・かなアイツにとっては」
ふっと口から漏れた言葉。慣用句の意味は、時間の流れは矢が飛ぶように速い。
○○にとっては長くて数年と思っていたのが、実は数十年も経っていた。それが最後に見せた狂乱の主な原因だ。
その慣用句を口にするだけで止めていれば、まだギリギリ尾を踏まずにすんだのに。
聖は涙を浮かべながらも、鬼の形相で彼の孫を睨んだ。後半の“アイツ”と言う部分に反応するように。
―しくじった。最後の最後で、怒らせるような真似をしてしまった。祖父ならば、こんな凡ミスは犯さなかっただろう。
目を伏せながら、自分の詰めの甘さに歯痒さを感じていた。

・・・・・・聖白蓮はすすり泣きを始めたばかりだった。
聖白蓮のみならず、泣き始めた者は感情が非常に昂ぶっている。そこに向って安易に話しかけるのは自殺行為だ、しばらくは刺激を与えてはならない。
すすり泣いていると言う状況でなくとも、話しかける際には細心の注意を、そして相手が完全に見えなくなるまで愚痴はこぼすな。
相手によっては愚痴すらこぼしてはならない。
幼い頃から、祖父からそう何度も言い聞かされた事を思い出していた。実際口の滑りに関して、彼は何度も祖父から怒鳴られていた。
「おじい様・・・申し訳ありません・・・・・・おじい様?」



彼はすっかり失念していた、この緊迫した事態に。終わりかけていた物がもう一つ合ったのが。
祖父は孫である彼の問いかけに、この大事な時に口が滑りしくじった事への謝罪にも、何の反応をしなくなっていた。
○○の気絶、これで山を越えたと思い、安堵したのか。その老人の顔は、妙に安らかな物だった。

顔面蒼白、その一言で彼の心理状態を言い表すには十分だった。
自分の腕の中で、先ほどまで目を開けて、意識があったのに。もうその老人は、か細い呼吸しかしていなかった。
「おじい様・・・!おじい様!」
しかし、まだか細いながらも息はある。そこに希望を見出し、返答を期待して、何度も声をかけていた。
「おじい・・・あっ・・・・・・聖様、お願いが・・・・・・」
何度目かの問いかけで、彼は聖を怒らせてしまった事を思い出した。
顔を上げると聖は自分達の方を睨まずに、また○○の方へ顔を戻していた。
表情を確認できないのが却って恐ろしかった。
「良いわよ、別に。貴方達はもう帰っても」
帰ることを許されはした、言おうとする前に望みが叶ったのでそれ自体は嬉しかったが、棘のある声だった。針のむしろには変わりなかった。
「むしろ邪魔。黙ってていても、気配すら鬱陶しいわ」
付け加えられた言葉に、殺意が篭っているのが感じ取れた。このままこの場にいれば、命が危ない。
「し・・・失礼しました」
ここまで言われると。黙って飛び出した方が良いのか、それでも一言だけは言うべきなのか、非常に悩む。
結局は一言だけ、謝罪と退出の二重の意味を込めた言葉だけ残して、祖父を抱えて飛び出したが。
どちらが良かったのか、きっとどっちを選んでも悩んでいただろう、これで良かったのかと。

出入り口を通る際、どうしても聖白蓮のそばを通らなければならない為。生きた心地がしなかった。
無駄吠えする駄犬のそばを通る時とは違う、こちらをじっと見据える狼が近くにいるような。生き死ににも関わる明確で、巨大な恐怖だった。




星は皆を連れて、里へと到着していた。
星の最大の危惧は、○○が聖を無視して博麗神社へと向う事だった。その為博麗神社に先回りし、しばらく待っていた。
しかし、幸いと言っていいのか。○○が訪れる気配は無かった。
博麗神社には来ないと判断した星は、こちらには見切りをつけ里に向ったのだった。


既に博麗神社を切り盛りする、ひいては幻想郷自体の安定を司る博麗の巫女は、○○が来た時から数えて、何度か代替わりしていた。
その為、今の博麗の巫女と○○は全く面識が無い。
それ以前に、博麗神社と○○は。○○がまだ人間であった頃から接点は非常に少なかったが。
○○は貴重な外来人である。逃がさない為に博麗の巫女自身多少の注意を払い、時期が悪いと言った嘘の理由で幻想郷への逗留を長引かせていた。
その為、○○は知らなくても当時の博麗の巫女である、博麗霊夢は○○の事を多少は知っていた。

もし、まだ博麗の巫女が霊夢の時に○○が記憶を取り戻し、博麗神社に駆け込んでいたならば。
霊夢は事の顛末を知っている為、体の良い理由で落ち着かせ、匿う振りをして。
最終的には死なない程度にぶちのめし、こちらに付き返していただろう。そうなりそうならば、まだ良い。

博麗の巫女と言うのは、いつの代も口が悪い。
全く面識も無く、知識も無い○○が狂乱状態で博麗神社に駆け込み。
分かる者には分かる、○○から発せられる大層な妖気を振りまきながら、外に出せと喚き散らせば。
きっと、落ち着かせるなどといった事はせずに。人外を外に出すわけが無い。と言った旨の言葉を、きつい調子と表現で投げつけるだろう。
そんな物、何も知らない○○が認めるわけが無い。
そのまま喚き散らせば、本格的に“退治”されるかもしれない。もしそうなったら目も当てられない。

もっとも、それ以前に。○○が博麗霊夢の顔を覚えていて、記憶の中にある博麗の巫女との齟齬に戸惑い暴れだすかもしれない。
それ以前に今の博麗の巫女の名前は“霊夢”ではないので、○○が時の流れを知りそうな要素が博麗神社には大量に合った。


数十年という時の流れ。それを知る事そのものが、○○の心にとって致命的な一撃である。
知ってしまえば、○○の狂乱はより一層高まるであろう。
そうなった際、それを止める為の存在が、事情を知っている命蓮寺以外の者であることは、最大級の不安要素である。
事情を知っているとは言え、里の者に。ただの人間に今の○○を止めれるとは思えない。止めようともしないだろう。
はなから事態収拾のための勘定には入れていなかった。


この数十年、○○は聖の愛情を受け続けてきた。
そうでなくても、まだ平和だった頃に聖からの法力指南を受け、蔵の中で法力を使い飢えと渇きをしのぎ、人を超える下地は出来上がっていた。
そのよく出来た下地に、これまた揺るぎようの無い聖の愛情を持って、種は育てられた。
もう、今の○○は。数百年の時をゆうに超えれる、命蓮寺の皆と同じ高みにまで引っ張り上げられたのだ。
博麗の巫女と言った一部の例外を除き。ただの人間に太刀打ちできる存在ではなくなった。
でも、この数十年は確かに楽しかった。聖だけではなく、星も、村紗も、一輪も、ナズーリンも、そう考えていた。
皆同じ胸中であった。○○は、この命蓮寺の一員であると、家族の1人であると。
そう断言できた。こんな事が合った、今この瞬間でも。


里の正門では所在なさげに座り込んだりうろうろしている連中がいた。
そいつらから、寄り合い所の大広間に聖がいて。○○もそちらに向かったと言う事を聞き出した。
星達の姿を見受けると、わぁわぁとざわめき出したが。星は正門の向こう、里の奥の方を見るようにして、そいつ等の事はあまり視界に入れないようにした。
とにかく簡潔に、時間をかけずに。必要最低限のことだけを、彼らの顔も見ずに聞いてさっさとその場を後にした。


「はんっ・・・見事な物だ」
寄り合い所までの道すがら、辺り一体の民家に人の気配が一切無い事に星はむしろ感心していた。
あの時から何も変わっていない、むしろ洗練されて行っているのではないか。数十年前は、途中から急ぎすぎてあんな大騒動へと発展したが。
今ならば、もう少し上手くやってのけてしまうかもしれない。もしかしたら、気付かないだけでこの数十年の間にも、いくつか仕事をこなしているかもしれない。

静か過ぎる往来を、星は苦笑交じりに見渡していた所、何かに気付いた。
「・・・今何か聞こえなかったか?」
その普段ならばありえないほどに静かな状況は。いつもならば気付かないような物を気付かせる事に繋がった。
「そう言われれば・・・何か聞こえるような気はするが」
急に立ち止まり、疑問を呈する星にナズーリンは頭上の耳をぴくぴくと動かして聞き耳を立てていた。
「誰か来るよ・・・聖かな?だったらいいんだけど」
奥の方を見つめていた村紗の希望的観測に、一輪はまず表情で否定の意を示していた。
「違うと思うわ・・・・・・」

「誰かいないのか!?医者を呼べ!早く呼んでくれ」
近づいてくる人物はどうやら男性のようだった。何かを背負いながら、くるくる回って辺りの家々に向い、焦りを込めた怒声を撒き散らしていた。

「あいつか・・・・・・」
その声の主に聞き覚えは嫌と言うほど合った。奴の孫だった。
星は奴の孫が嫌いだった。その一番の理由は、そいつの顔付きがよりにもよって父親ではなく、祖父である奴に随分似ていたから。
そして、自分達と会う際の平身低頭っぷりも。その奴に似た顔とあいまり、いつかの事を強く思い起こさせるから余計に。
以前、何かの会合で。奴の孫が○○の事を“あれ”と表現した事があった。
失言である事は明白だった。その言葉に聖は茶菓子を口に運ぶ手がピタリと止まり、奴は面白いくらいに顔が青くなっていた。
名前すら省いたその表現の仕方に、聖の目の前だと言うのに星は感情を抑える気も無く、湯飲み茶碗を思いっきり投げつけた事を思い出した。

聖はそれ以上の激昂を諌めて制止こそしたが。湯飲み茶碗を投げつけた事に対しては。
「気持ちは分かるけど、まともに相手するだけ疲れるだけよ。こんなの」
多少、溜飲が下がったような様子で。熱い茶をぶっ掛けられ、固い湯飲みをぶち当てられ、苦痛に歪む表情を浮かべる奴の孫を、クスクスと流し見ていた。
その帰りに、聖はぼそりと呟いた。
「あの程度で激昂してたら・・・他の奴だと殺しても気が収まらないわよ?」
「アイツやアイツの孫は、まだマシな方よ、むしろ哀れに思えてくるくらいよ」
「そう思ったら、あの一族に関しては・・・あんまり怒らなくなったし、イライラも減ったわ」

そんな言葉をクスクスと笑いながら。嘲笑の意味の込められた笑いだった事はよく覚えている。
「何で誰もいないんだ!?お前達、一体何処にいるんだ!!」
奴の孫が叫ぶ声は、段々と涙交じりの物になっていた。
あの時は、星は聖が何故○○を“あれ”などと言う物のような扱い方をしているのに。何故堪える事ができたのか不思議でたまらなかった。
だが、涙声を響かせる奴の孫を見ていたら。何となく分かった気がした。

「聞いてないぞ!!ここにも人がいないなんて!!決めた事と違うじゃないか!!」
なるほど、皆怖くて逃げているのだな。正門で所在なさげにしていた連中も聖達のいる寄り合い所に近づく事すら嫌がったのか。
事前に奴等が里の者達とどんな取り決めをしていたかは知らないが、どうやらその取り決めはすっぽかされたようだ。


涙と狂乱で自分たちが見えないのだろうか。人の視力でも、星達の姿がギリギリ見える所に立っていても気付くそぶりが見えない。
地団駄のような物を踏みながら、“涙交じりの”から“泣き声”と言った方が正しい声で、奴の孫は天に向って吠えていた。

いつしか星の顔からは、最初に奴の孫を見て浮かべていたしかめっ面が無くなっていた。
「哀れだな・・・・・・」
その無様な様子に、怒りや憎しみは確かに湧かなかった。
聖の言っていた言葉の意味、今の星は確かに理解できていた。



ある意味これは面白い見世物だった。しかし、いつまでも見物している時間は無かった。
奴の孫に関しては、哀れとは思った。しかし心配や気遣いといった感情は殆ど浮かばなかった。
今星達が心配しているのは、その身を案じているのは。正気を失っているであろう○○と、いつまででも○○を愛し続けられる聖の二人だった。

歩みを再開して、奴の孫との距離が近づくにつれ。天に向かって泣き叫ぶその声が星たちの耳をつんざく。
声を張り上げれば誰かが気付くと思っているのだろうか、その場から一歩も動こうとしない。
「おい!」
適当な所まで近づいて、星は奴の孫に声をかけた。
気遣うというよりは、耳障りで鬱陶しいから仕方なくといった感じだった。

「―!?と、寅丸ざ・・・ま、ゲホッ!ぞれ、に、皆様も・・・うぇふ!えふ!がはっ!!」
急に声をかけられて、しかもその声をかけられた相手が、命蓮寺の面々。
いわゆる、里の者達が常に“様”付けで呼んで恐れている者達からであった為。
喋る事もままならず、咳き込み、過呼吸のような症状を見せていた。
そんな孫の背中に背負われている奴は、安らかな顔をしていた。
その顔に、星の眉根がピクリと動く。
○○が奴等の手により捕らえられたとき、コイツは山を越えたと感じ、全ての疲労が流れ込んだのか。安らかな顔で眠ってしまった事を思い出した。
ただしあの時はただ寝ただけだったが。今回は、もう目が覚めなさそうな眠りではあるのだが。それでもその顔は、あの時には無かった、シワなどがあっても分かる。
あの時に見せた安らかな顔と、寸分違わない表情だと言う事が。ただあの顔にそのままシワやら染みやらを付けただけである。


「人なら正門の方に沢山いたぞ」
星は立ち止まる事も無く、すれ違いざまに人気のある場所を教えただけだった。
「へ・・・ゲフッ・・・・・・あの・・・皆さん・・・・・・」
星以外のの三人は、奴の孫を完全に無視して星に付いていってしまった。
星の胸中に多少の変化はあったが。それでも、奴等の事を気にかける気も義理も時間も無い。
ただ、一言声をかけた以外は、足早に目的地に向うだけだった。

追いかけてくるような気配は感じられなかった、こられても困るだけだったが。きっと正門の方へ向かったのだろう。
それに、あの二人が外に出ていると言う事は、事態はもうほぼ終わったのだろう。
腹の底では恐れおののいている自分達に声をかける理由はもう彼には無い。
それなのに、そして今のように殆ど相手にしないような態度を取られて、声をかけるような気概や胆力があるとは思えない。

「はっ・・・・・・」
頭の端で奴の一族の事を、そしてこれから本格的に当代として活動するであろう奴の孫の事を考えていると、星は鼻で笑う事と独り言を抑えられなかった。
「お前達の方が余程生贄らしいよ」

里の人間は○○を聖への生贄として捧げようとした。
里の人間は聖を知恵も無い・・・合ったとしても悪鬼羅刹の如く暴虐を尽くし、欲望を満たそうとするような存在としか見ていなかった。
だが実際は違う、聖は○○の事を何が何でも独占しようなどとは考えていなかった。
ボロ雑巾のようになるまで○○を追い詰めたあいつ等は・・・最後は聖が○○を取って食うとでも考えていたのだろうか。
そう考えていたから、○○の心を最早治癒は見込めない程にズタズタにして、聖に付きだすことだけを考えていたのだろうか。
そんな事、絶対にありえないのに。

ボロボロになった○○を聖は献身的に世話をした。不安定な時に、殴りかかられたりしてもそれは変わらなかった。
状態が安定した後も。○○が過去の記憶を思い出し、再び苦しまないように、必死で○○の為に動いた。
今は不幸にも○○が過去の記憶を思い出してしまい、狂乱状態にある。
きっと○○は分けも分からず聖に罵声を浴びせたり、手を上げたりしていただろう。
でも、そんな程度で揺るがない事を星達は確信していた。
聖の愛情はなおも変わらず○○に降り注がれ。また○○と聖が少々見聞きするのがこっ恥ずかしい、甘い生活を送る。
そうなる事を、何が合ってもまたそこに戻ろうと聖が身を粉にして努力する事を、全員確信できていた。


しかし、里の人間の彼らに対する対応や隠している腹の底は、どうなのであろうか。
上辺と口先だけでは敬い、慕い、丁重に扱っているようだが。
実際の所は本人が気付いていないだけで、置かれている立場は○○とほぼ変わらないのではないか。
「聖の言っていた意味がようやく分かりましたよ・・・なるほど、哀れだ」



「興奮して・・・何も分かっていないんだろうな」
ネズミからの報告に合った、片腕で大の男を持ち上げた時と同じように。星はほんの少しだけ、○○が自分の体の変化に気付かず事態が終わっている事を期待した。

寄り合い所の入り口は見るも無残に破壊されていた。
足を使ったのか手を使ったのかは分からないが、生身の人がやりましたと言っても信じないだろう。
野生の熊なり猪が突っ込んだ後と言った方が、事情を知らない物は納得できる壊れ方をしていた。

廊下の床板も、所々に亀裂が走っていた。別に驚きはしなかった、むしろ踏み抜いている物がなかったのでそちらの方が意外だった。
床板には亀裂が走っているので、○○が辿った道は容易に分かった。

皆、履物など脱がず。そのまま土足で上がりこみ、亀裂を辿り二人がいるはずの場所まで向う事にした。
道中は無言であった、一体何を喋ればいいのか分からなかった。それに、下手にぎこちない会話をするよりは、皆無言の方が楽だった。


「うわ・・・・・・これ、誰の血かな」
亀裂の終点である大広間にたどり着き、壁に描かれた縦に真っ直ぐ伸びる血の跡を見て村紗が息を詰まらせた。
“誰の”とは言ったが、村紗も含めおおよその見当は付いていた。
聖か○○、どちらかの物だろう。
この程度の怪我で死ぬような事などありえないし、どちらもこれぐらいの出血量の怪我ならばすぐに治るのでそこまでの心配は必要ないが。
やはり、家族がそれなりの怪我をしたという事実は。およそ真っ当な精神を持っているならば、心に来る物があるだろう。

星はチラリと大広間の中を確認するが。足元にふすまの破片、部屋の端に鏡台の残骸がある以外は人の姿は無かった。
「おかしいですね・・・これ以上広い部屋はないし・・・・・・場の状況的にここのはず」
「ご主人、聖はこっちだ」

いぶかしんでいる所にナズーリンが呼ぶ声が聞こえた。
その声の方向に目をやると、ナズーリンは大広間に併設された水屋の入り口に立っていた。
「○○もこっちにいる・・・ただし、意識は無いが」
辛かったろうに、そんな言葉が口をついた。○○が意識をなくしているということは、恐らく発狂ですら発散できない心労から卒倒してしまったのだろう。
その心労の原因とは何かと問われれば。時の流れに気付いた、これ以外に思い当たる節は無い。


水屋の中では聖が濡れた布巾を手に○○の顔や手を必死に拭っていた。
聖の拭う○○の顔や手にはべっとりと乾いた血がこびりついていた。聖はそれを拭おうとするが量が多く、いたずらに延ばしている感があった。
時折、聖の顔が○○の顔に近づくが、口付けでは絶対にないだろう。それは聖の肩の振るえで分かった。

濡れた布で拭うには余りにも汚れが多すぎる、大量の湯でも被れば一思いに綺麗に出来るのだろうが。
残念ながらこの水屋に湯を沸かす気の利いた道具や用意は無かった。
湯の代わりに水を被せても見た目は綺麗に出来るだろうけど。そんな凍えるような仕打ちを聖が○○にするはずが無い。

だから聖は手近な布を手に取り、○○の体にこびり付いた・・・・・・恐らく、○○自身の血を丁寧にそして必死に拭っているのだろう。
聖の手にする布はもう元の白さが消えうせ、水を溜めていた瓶の中身も真っ赤に染まっていた。それが○○にへばりついた血を拭う障害になっていた。
聖は星たちに気付いているのだろうか?聖は○○を綺麗にするのに必死ですぐ後ろで見つめている星達に対する反応は何も無かった。
「・・・・・・聖」
一呼吸、二呼吸と間をおいて。ようやく意を決した星が聖に声をかけた。

「ごめんなさ星・・・もう少し待って。○○から匂いが取れないの」
そういってまた聖は○○の顔に、自分の顔を近づける。また肩の震えが大きくなった。
この水とその布ではな・・・・・・でも、それを言えば聖はより一層、悲しむだろう。
「取れないの・・・・・・全然・・・何回も、拭いてるのに」
鼻をすする音が聞こえた。泣いているのだろう、見なくても分かる。

「ごめんね・・・○○・・・・・・ごめんね・・・」
グスッ、ヒックと。鼻をすする音と、甲高い息遣いが大きくなっていく。
「星、私戻って二人のためにお湯沸かしてくるね」
そんな聖の姿にいたたまれなくなったのか、村紗がもらい泣きを浮かべながら星に許可を求めてきた。
「ええ、お願いします。二人のことは任せてください」
その言葉に村紗はコクンと頷いて、外に向って駆けて行った。

次は聖を落ち着かせて、○○と一緒に命蓮寺に帰るだけだ。
こんな汚れ切った水と布では、いつまでたっても○○は綺麗にならないし、染み付いた匂いも取れない。
「聖」
星は聖の肩に手をやり、優しく言葉をかけて行った。
「ここの少ない水と布で○○をそこまで綺麗にできただけで、大した物ですよ」
ほんとに?その言葉を言う聖の様子は。涙を手で拭い、悲しみで歪みきった顔を星に向け、そして声は、蚊の鳴くような声だった。
「勿論です。きっと・・・いや絶対に。○○も許してくれますよ」
「いつもの○○なら、絶対に許してくれますよ、聖。綺麗にし切れなかった分は、二人で風呂に入ればいい、村紗が先に帰って用意していますから」
ただし、その“いつもの○○”は。命蓮寺によって都合よく記憶を改変された○○なのだが。
そこに気づきそうな者は・・・・・・誰もいなかった。

「私はね・・・・・・もう○○には何も辛い思いなんてさせたくなかったの」
涙を拭う事も忘れ、目からダラダラと涙をこぼしながらも、聖は○○の顔を見据えていた。
「それなのに・・・・・・○○が嫌な事を思い出しそうになった時・・・それを解決し切れなかった」
独白を続ける聖の目からあふれる涙は勢いを増すばかりであった。
星はそれを止めずに、聖の思いの丈を、涙と一緒に全部吐き出させることにした。
「聖、ゆっくりでいいですから、いるのは私だけじゃありません。ナズーリンに一輪、今はいませんが、湯を沸かしに戻った村紗も」
肩を優しく抱きかかえ、そして優しく声をかけ続け。三人とも、心ならば四人全員が、聖の傍らに付き添い続けた。

「解決し切れなくて・・・嫌な事を全部思い出させちゃって・・・・・・」
「それで・・・その嫌な事に振り回されて、泣き喚く○○を・・・助けれなかった・・・・・・ずっと、オロオロしてただけだった」

○○を抱きかかえる聖の腕が、一層力みを帯びていく。
そしてギュッと。聖は嗚咽を混じらせながらも、意識を失っている○○を、力いっぱい抱きしめた。
「○○は私の事も嫌な事の一部として見ていたわ」
「・・・・・・でもね、私は・・・○○とずっと一緒にいたいの!」
それは聖の心の底からの叫びであろう。
○○を抱きかかえる聖の腕の力強さからは。絶対に離さない、誰にも渡さない、何が合っても守りたい。と言った感情が星には透けて見えたような気がした。
「守りたかったのに・・・助けたかったのに・・・・・・」
聖はまた、さめざめと泣き出した。


「聖、それで良いじゃないですか。また一緒に暮らせば良いじゃないですか・・・いつか絶対に上手くいきますよ」
○○とずっと一緒にいたい。星にも他の者にも、聖のこの思いを否定する気など毛頭無ければ、その材料も存在しないと信じていた。
「聖、貴女が○○と一緒にいたい、いようとする事に異を唱えられる謂れなど何処にもありません」
「誰にも二人の幸せを邪魔など、してはなりませんし。出来るはずがありません、私達がいますから」
「○○が聖を思う気持ちに嘘偽りは無かったんです・・・だから、やり直せます。何度でもやり直しましょう」

そう、聖には○○を守り抜く盾となる決意があった。ならば、自分達は二人を守る矛になりたかった。
あの時、毒にも薬にもなれなかったから。今度こそは二人に降りかかる魔の手は、全て叩き潰したかった。

「姐さん、命蓮寺に帰りましょう。○○と一緒に」
「聖、君は1人で抱え込みすぎている。迷惑をかけたくないと思っているのならば、むしろ心外だぞ」
「そうですよ、家族じゃないですか。○○も含めて、皆この命蓮寺の」
○○も自分達の家族。そんな表現に聖の体の強張りが少し和らいだ。浮かべる表情も、柔らかくなっているのが横からでも確かに分かった。

「今は村紗がいないから少し締まりませんが・・・一足先に命蓮寺に帰って風呂を沸かしてくれています」
「良いじゃない少し緩いくらいの方が。そっちの方が、気楽に行く事ができるわ。ね、○○」
皆からの暖かい言葉に、気力を取り戻したのか。聖は自分から立ち上がることが出来た。
「○○、村紗がお風呂を沸かしてくれているんですって。一緒に入って、サッパリして・・・またやり直しましょう」
○○を抱きかかえ、優しく声をかける聖のその姿に、星達から安堵の溜め息が漏れる。
これでやり直せる、これでまた元の少しばかり甘ったるい日常に戻る事が出来る。
「聖、風呂の中見たいに人の目が無い場所では何も言わないが・・・・・・」
ナズーリンがいつもの“役割”に則った言葉を口に出す。しかし、その顔には渋面ではなく、確かな笑みが合った。
聖と○○の甘い関係は、最早命蓮寺の維持に欠かせないものとなっていた。
「なんだか今の姐さん、また直視できない感じがしてきたわ」
「そりゃそうですよ一輪。この笑顔は本来○○の為にあるんですから。○○以外には甘すぎます」
聖にとって○○は間違いなく精神的な支柱であった。○○がいるから、○○と中睦まじくいるからこそ明るく振舞える。
そして、聖以外の者も。聖と○○の姿を見て微笑ましい気分になり、聖同様精神の安定を得る事ができていた。
ナズーリンの小言も、結局は辻褄合わせでしかない。およそ一般的な価値観と乖離しすぎないようにする為の物でしかなかった。
○○の記憶や思考に齟齬が生じぬように。ほころびが生まれればまた○○は傷ついてしまう。
命蓮寺の行動の根底には○○の存在があった。突き詰めれば、皆○○の為に動いていた。
乖離、矛盾、ほころび。これらを必死に覆い隠し、つぎはぎの様に思い出を重ねていって。
○○が過去に体験してしまった“嫌な事”から必死に遠ざけ、見えないようにしていた。
聖と○○の間に生まれる物は、笑顔だけで良い。その思想が今の命蓮寺の絶対不可侵の掟だった。
そして、これからもずっと。それが変わる事はないだろう。


「皆、ごめんなさい。心配かけちゃって、命蓮寺に戻りましょう。私たちの家に」
「村紗が先に戻ってるから、帰ったらちゃんと“ただいま”って言わないとね」
弾む聖の声。聖だけではない、これで○○も。もう大丈夫だ。
その笑顔は、朗らかそのものだった。こんな笑顔がある“家族”は幸せそのもののはずである。
そう、傍から見れば。









「―がっ!うえっはあ!!」
○○の寝覚めは最悪であった。
「え・・・あれ・・・?寝てた・・・・・・?」
まず合ったのは息苦しさだった。○○は何故だかあまり落ち着かなかった。息が詰まる、上手く呼吸をする事が出来ない。
心臓も、激しくバクバクと鼓動を打っていた。そう、まるで恐怖を前にしたときのように。
「うわ・・・・・・凄い寝汗」
何か悪い夢でも見ていたのだろうか。寝る前の事を思い出そうとするが、寝ぼけているせいか、何も思い出せなかった。

「○○、起きたのね」
手の平や顔にあふれ出していた寝汗を、敷布団や掛け布団で拭っていると。横から女性の声が聞こえた。
「あ・・・・・・聖・・・あれ・・・・・・・・・ああそうか」
頭をかきむしりながら○○は小さく呟く“またやっちゃったんだ、、まだこんなに明るいのに“その顔は、ほんの少し恥ずかしそうであった。

「うふふ」
恥ずかしそうな顔をする○○を見て。聖は一気に嬉しそうな雰囲気を爆発させ、○○に口付けを施した。
「そうよ。貴方の恋人の、聖白蓮よ」
何度も何度も、聖は○○と口付けを交わした。絡みつくのは○○の唇だけでなく、聖は全身を使って○○を抱きしめるように密着の度合いを高めていった。

その口付けの嵐は聖と○○の域が苦しくなるまで続いた。
「ふぅ・・・・・・ところで○○、起きる時苦しそうだったけど・・・・・・・・・」
心配そうに・・・と言うよりは泣きそうな顔で、聖が○○の寝覚めの悪さを心配した。
聖の、○○の頬をさする手がほんの少し震えていた。
その心配の仕方に・・・・・・○○は特に感じる所はなかった。
「大丈夫だよ、たまたま夢身が悪かっただけだと思うよ。何の夢かも忘れてるし、どうってこと無いよ」
むしろ、心配させた事に少し心を傷めるくらいだった。
この時には、もう寝汗の事など全く気にしていなかった。
横に聖がいたことから。戯れて、密着したまま寝てしまい・・・そのせいだとすら考えていた。

○○は優しく答え、頬を触っている手を上から重ね。もう片方の手で○○は聖の頬を触った。
「そう!良かったぁ・・・・・・」
聖の泣きそうな顔は一変、涙は引っ込みまた元の満面の笑みに戻った。
そしてその満面の笑みは、衰えるどころか熱を増すばかりであった。
理由は○○が聖の頬を触っているからだろうか。

聖はもっと触って、と言わんばかりに○○の手に自分の頬を擦り付ける。
聖は頬を触る○○の手に触り。その手を頬から顔へ、唇へ、そして胸のほうへいろんな所に誘導していった。
胸のほうへ誘導された辺りで○○は「あっ・・・・・・」と小さな声を空気と一緒に漏らした。
そして、とても気恥ずかしそうな表情を浮かべる。その表情を聖は愛おしそうに見つめる。
「ひ・・・聖。続きは暗くなってから・・・・・・そろそろ起きないと、ナズーリンの小言が増える」
「うふふふふ、そうね。ねぇ、○○」
「何?聖」
「起きた後もしばらく、手繋がない?」
「もちろん、いいよ」いつも通りの優しい笑顔で○○は聖の提案を受け入れる。
その笑顔に、聖はまたうふふと笑い。口づけをした



聖と手を繋いで縁側を歩いていると、ナズーリンが前方から歩いてきた。
聖と○○の姿を見受けたナズーリンは、壁に背中を預け腕組みをして○○と聖の顔を交互に確認した。
「仲良き事は美しきかな」
聖と○○がナズーリンの前を通り過ぎようとする際、ナズーリンがぼそりと呟いた。
表情を確認されるだけでも恥ずかしさを感じていた○○の羞恥心は、この呟きで更に高まり。顔がカァッと赤くなったのが、本人にも分かった。

聖の方は「ナズーリンの言うとおりね」と相変わらずうふふと言う擬音が似合いそうな笑顔で、嬉しそうに○○の手を握り締めていた。
ナズーリンの言葉に嘘偽りは無いだろう。時間と場所をわきまえずに戯れる事にいささかの苦言を呈しているだけで。
聖と○○が付き合う事には何の異論も無い、むしろ後押しをする立場にいる。それは確かに分かるし。あの言葉も半分は本心だろう。
しかし、先ほどの言葉を呟く際のナズーリンの顔がニヤ付いていた事から。もう半分は茶化されているようでは合ったが、聖にはのれんに腕押し状態だった。

聖は自身の五指を巧みに○○の指に絡ませて手をつなぎ続けている。振りほどく気など無いが、絡ませてある聖の手以外では容易には離れないだろう。
聖はずっと笑っていた。うふふ、うふふと。
「今日はなんだか特に嬉しそうだね」
○○の記憶の中にある、○○と二人でいるときの聖は常に笑っていた。
とても楽しそうに、とても嬉しそうに、とても明るく。
○○の記憶には、聖との思い出で満たされていた。
「そう言えば今日って・・・何だっけ、何も無かったのかな」
否、今の○○の記憶には、ほぼ聖の事しかなかった。ただ聖との楽しい思い出だけが。ただし、その奇異な現象に○○が気付くそぶりは無い。
「聖、今日は何をすればいいのかな?」


聖達はあれから何度も話し合った。以前と同じ轍を踏まない為に。
前回○○の記憶を改竄する作業の際、聖達は全てを作り上げようとした。千年分の記憶を全て。
だが、それは叶わなかった。土台無茶な話であったのだ、千年分の連続した記憶を矛盾無く、人工的に積み上げる事など。
だから、聖達は○○の記憶を必要最低限の物を残し、限りなく少なくした。
命蓮寺で共に住まう家族の事、自分が住んでいるのが幻想郷と言う場所である事。そして聖と恋仲である事。
その三つ以外は、全て封じ込めた。

「今日は特に何も無いわよ。だから、今日はずっと私といましょう○○」
三つの事柄以外の全てを封じ込めた。それは、○○の人生経験も同時に殆どゼロに戻してしまった。
「そうなんだ、じゃあ聖の言うとおりにそうしよう。今日は聖が人里に行く用事はないんだね」
「ええ、そうよ。今日はお留守番しなくていいのよ」
今の○○の精神年齢は、幼児のそれと大して変わりなかった。人を疑う事を全く知らないのだ。

“人里”と言う物が有る事は、仕方なく○○の知識として残しておいた。
命蓮寺が○○に行ったこの行為は、産み直しに近かった。
○○は、傍から見れば。喋る事はできるし、2本の足で矍鑠(かくしゃく)と歩き回る事も出来る。
多少の難しい表現や言い回しも出来る。しかし、それ以外はまっさらな無地の帳面とほぼ同義であった。
聖と、そして命蓮寺の皆で。このまっさらな帳面に聖と命蓮寺にとって最も都合の良い内容を書き込んでいく、これから何年もかけて。
それは、子育てに限りなく近い。但し、限りなく近いというだけで、それは似て非なるものであった。

○○が育っていく過程で、いつしか○○は「自分も聖の手伝いがしたい」と言い出すであろう。
聖を始め、命蓮寺の皆はそれは余り望んではいない。もう余り命蓮寺以外の者とは関わってほしくなかったから。特に、人里と○○。その関わりの度合いはゼロが望ましかった。
しかし、○○が聖の為を思うこの望みを、無碍に断る事などできないし。無理に拒否し、押し止めれば、それはまたほころびと成りかねない。
だから、“人里”と言う場所の知識は残しておいたのだ。
仮に、“人里”の知識を消してしまっていたら、度々外出する聖や命蓮寺の皆を見て。「自分も外に行きたい」と言い出すであろう。
そうなると、“人里”と言うものについて1から教えなければならない。

何故人里の存在を教えてくれなかったのか?何故人里で仕事をしている事を隠すような真似をしていたのか。
もし、そう問いかけられたら。その問いに対する完全な回答が、残念ながら誰にも思いつかなかったのだ。

子供と言うのは、育つに連れて好奇心が大きくなる。この命蓮寺の敷地内だけで、その好奇心を満足しきれる自信は無かったから。
今の○○は、日々の家事仕事と、聖との戯れでそれを満たす事が出来る。
しかし、いつしか外に対して興味を持つだろう。その興味を無理矢理押さえ込めば、○○は隙を見て外に出かけてしまうだろう。
もしそうなれば。○○が言う、あの奇妙な空き地に対して感じていた“何か”を確認しに、ついたての中に入っていった時と同じ結末を迎えるであろう。

だから、仕方なく○○の知識に“人里”を残したのだった。



「○○・・・・・・」
聖は手を繋ぎながら徐々に○○との距離を詰めていく。聖にとっては、○○本人は勿論の事。○○の息遣い、体温、匂い。その全てが愛おしかった。
愛おしいとは少し異なるが、○○の方も聖が出来るだけ近くに居ることを望んでいた。
記憶の操作を終え、○○を部屋に運ぶ際。聖は星からある推測を話された。


「今の○○は、聖の記憶を除けば。本当に微々たる記憶しか持ち合わせていません」
「その微々たる記憶では。己が何者なのかと言う問いかけ、この部分が非常に不安定なはずです」
「聖、今の○○の記憶は、ほぼ全て貴女で組み立てられています」
「赤子や幼児と同じと思ったほうが良い。幼子は親がいなくなると、不安になって泣き出してしまいます」
「○○が1人でいても大丈夫になるまで、どれくらいかかるかは分かりませんが。可能な限り○○のそばにいるべきだと私は考えます」


最も、星の言葉が無くとも。しばらくはそうしたであろうが。聖は星の言葉に従い。しばらくは、四六時中○○のそばに付くつもりであった。
そう、母のような気持ちで。母親が我が子を抱きしめるのに、理由など何もいらない。

○○の手を握っていた聖の手は、いつの間にか○○の腰に周り。もう片方の手も背中に回っていた。
「聖・・・・・・ここじゃ・・・・・・ああ・・・でも」
まぁいいか。最後の言葉を言い終わる前に、○○は聖の抱擁を受け入れた。聖の存在が近ければ近いほど、○○は安心感を覚えるから。
聖に抱きしめられる○○は、まるで家族に愛される子供のように。穏やかな心と表情であった。



「おやおや・・・・・・二人とも、こんな所で」
くくくと笑うように、聖とナズーリンとはまた別の人物の声が二人を茶化すように声をかけてきた。
「あっ・・・!と、寅丸さん!?」
寅丸星に抱擁の場を目撃された○○は、恥ずかしさから身をよじり、聖から離れようとするが。
「うふふ、別にいいじゃない○○。私たちの仲は皆知っているんだから」
聖はガッシリと○○の体を捕らえており、脱出は叶わなかった。
星はナズーリンと同じくニヤニヤと、微笑ましさ半分と茶化し半分で二人の様相を見物し続けていた。
「村紗、一輪。二人ともこっちに来て下さい。面白い物が見れますよー」
「ちょっと!寅丸さん!?」
しかも、星はこの場に更に自分以外の見物人を呼び寄せようとしているではないか。
より一層の恥ずかしさに直面した○○は、更に体をくねらせ、身をよじり。聖が両腕で作る、自分を捕らえる輪から抜け出そうとするが。
「ぜーったい離さない。いっそ皆に私たちの仲が良い所を見て貰いましょうよ」
「そんな!聖まで!?」
聖はそんな状況を楽しむように○○を捕らえ続ける。
○○の方は、思いっきり暴れれば聖の作るこの手で作った輪から抜け出せるとは、聖の力の入れ方から判断はしたが。
恥ずかしさは確かに感じていた。だが、同時に感じる安心感。そして、楽しそうな聖の姿を見ると・・・・・・
どうしても、身をよじると言う行為以上の事が出来なかった。



「なになにー?星、何があるの?」
「村紗ったら、おおよその見当は付いているくせに」
二人の声と足音が聞こえてくる。その二人とは、先ほど星が呼び寄せた一輪こと雲居一輪と、村紗こと村紗水蜜の二人の他はないであろう。
二人分の声と足音が聞こえた折、○○と聖の目が合った。その目が合った瞬間、聖は○○に見せ付けるようにペロリと悪戯っぽく、そしてわざとらしく見せ付けるように。舌なめずりをした。

これは不味い。そう思っても、これから聖が何か恥ずかしい事をしようと分かっていても。止める事も逃げる事も今の○○には出来なかった。
「えいっ!」
「んー!」
観念した様に○○の体から力が抜けるとほぼ同時に、聖は○○の唇を、自身の唇でふさいだ。



「うっわぁ、見てるだけでのぼせそう」
「あらあら。こんな所でイチャついてたら、またナズーリンの小言が飛ぶわよ。あら、噂をすれば姐さんと○○さんの後ろに・・・」
聖と○○の熱い口付けは命蓮寺の面々全員の元で、何度も何度も行われる事となった。
「んー!んー!」
○○は自分が考えていた。恥ずかしさの絶頂と言う物を軽々と超えた所にまで、放り投げられていた。
その光景を目撃した一輪と村紗は。例に漏れず、星やナズーリンと同じように微笑ましい物を見守りつつも茶化すように、ニヤニヤとしていた。
そして、聞こえてきた一輪の呟きが正しければ。後ろにはナズーリンの姿があるはず。彼女に至ってはこの短時間で二回もイチャ付いている所を見られた事になる。


彼女たちが自分と○○の恋路を応援する立場にいるのは、疑いようも無い事実だ。
それでも、それでもやっぱり。この状況は堪える。今日一日どんな顔をして彼女達と顔を突き合わせればいいのか。
「やれやれ・・・・・・まぁ見ているのが命蓮寺の面子だけだから。別に構わないと言えば構わないんだけどね」
「今日のお昼ご飯は何だい?甘い物を口に突っ込まれすぎたから早く塩気のあるものが食べたいよ」
○○の顔の火照りが益々大きくなっていく。一体○○の羞恥に悶える心は、どこまで高く放り投げられる事になるのだろうか。

「姐さん、○○さん。キリの良い所で切り上げてくださいね。お昼ごはんが冷めちゃいますから」
「二人ともー席はちゃんと隣どうしにしとくからねー」
「では聖、○○さん。私達は先に行っています、お幸せに」
「もういっそ接吻をしながら歩いたらどうだい?私にはキリのいいところが見つからないよ」
散々な言われようだった。段々諦めの心が広がっていくのが分かった。



「そうだ、こうすればいいんだわ」
「え、聖何を。うわぁ!」
お昼ごはんが冷めるので早く行かなければならない。しかし、○○との“触れあい”はもうしばらく続けたい。
その二つを両立する為に聖が導き出した結論は。○○を抱きかかえる事だった。
「お姫様抱っこっていうのよねこれ?村紗が教えてくれたわ」
「お姫様っ!?それって、今の状況だと・・・」
「そうね、今の状況なら○○がお姫様ね」
あっけらかんと答える聖に、体の力が益々抜けていくのが分かった。この人には敵いそうになくて。

ナズーリンの野次を実行するかのように。お姫様抱っこをされた○○は、軽い口付けを何度も受けながら皆の待つ部屋へと連れて行かれた。
その姿を見た村紗は爆笑して。ナズーリンは「ほんとに接吻しながら来た・・・」と絶句していた。



食事中も聖は止まらなかった。
村紗が気を利かして聖と○○の席を隣どうしにした効果もあってか。聖は常に○○に密着して来て、○○からすれば食事がしにくい事この上なかった。
しかも、いわゆる「はい、アーンして」程度ならばギリギリ羞恥心に耐える事ができていたが。
「んー、んー」出汁巻き卵を一切れ口にくわえて、口移しを求めてきた時は、流石に見られながらでは応じる勇気が出ず。
手で出汁巻き卵を聖の口から引っこ抜いて食した。
ちなみに、村紗は食事中ずっと爆笑していて。ナズーリンは「扇子が欲しいなあ」と呟き。
一輪は「姐さん、口移しならこっちの方がやり易いわよ」と煽り。星は「あ、お気になさらず。続けてください」とニヤニヤ顔で見守っていた。



「ひ・・・聖。先に部屋に戻ってるから」
○○は恥ずかしさに耐え切れずに、聖を置いて始めに自分が寝ていた部屋まで走っていった。
○○を1人にしたくない聖は、一瞬表情が固まったが。
命蓮寺の中、しかも自分の部屋ならば。そこまで心配はいらないと思い直し「まって、○○ー」とすぐに立ち直った。


「聖、申し訳ありませんが二つだけ報告したい事が」
「何?出来るだけ短くね」
その切り替わり方は見事としか言いようが無かった。聖は星の報告に対してすぐに威厳と威圧間を持った表情と声を作る事ができていた。

聖が○○を追おうとするこの状況での報告。それは、○○に関わる事であるのは明白だろう。
「アイツの祖父が亡くなりました」
「ああ、そうなの。意外と持ったわね。で、もう1つは?」
聖はもう奴の一族になど殆ど興味が無かった。後々の事を考えて、“人里”と言うものがあるという知識だけは○○に残したが。
しかし、それ以外の。祭りの時に行った炊き出しや、里での活動の際奴の孫が仲介役となっていた事などは全て封じ込めた。
もう聖は奴の一族と関わる気は全く無かった。○○の記憶の安定と、自分の精神衛生のために。
だから、「意外と持った」という冷たい一言で仕舞いにしてしまった。

「私の中では、こっちが本題です。あの鞄と、中に入っていた帳面。一応私が持っていますが、どうしましょう?」
星としてもそれでよかった。奴の一族との縁が切れるのなら、嬉しい限り、こちらから願いたいぐらいだったから。
星の本題は、あの鞄と帳面にあった。
○○がまだ人間だった頃に使用していた鞄と・・・今は取り壊した蔵の中で書き記した自分達への恨みつらみを、洗いざらい書き記した例の帳面。
○○の目に留めてはならないのは大前提としても。最終的な処理の仕方について聖に伺いを立てるのが筋だと星は考えたから。
だから、わざわざこうやって引き止めたのだ。帳面はともかく、鞄は最愛の人の持ち物だから。それに、星としても少々処理に困っていた。

「必要ないわ、処分して。跡形も残さないで」
「分かりました。では燃やしてしまいますね」

聖の決断は非常に早かった。
どちらも最愛の人間の持ち物のはずなのに、一秒とかからずに星に「跡形も残すな」と命じた。
そう星に命じると、またすぐに「○○~」と言うような。甘い声と表情に戻った。
その様子に星は、先行きの事に不安はいらず。上手く行きそうだと安堵した。
「聖の気合の入り方が半端じゃありませんね・・・これなら安心だ」







夕方、星は風呂焚き場に足を向けた。手には風呂敷包みがあった。その中身は例の鞄、中には勿論あの帳面をつめて。

風呂焚き場には二人の先客がいた。その先客とは、封獣ぬえと村紗水蜜の二人だった。
ぬえは村紗からもやってきた星からも背を向ける位置で、黙々と手斧を手にして、中腰の姿勢で薪を割り続けていた。
足音に気付き一度だけ星の方向に顔を向けたが。
疲れきったような、妙に生気のない顔で、表情を動かす事も無く、やって来た星に対して何の言葉漏らさず。また薪割りの作業に戻った。


村紗の方は、星に気付く事も無く。一生懸命に火を起こし続けている。
鵺の割った薪をポイポイと放り込んでいき、空気を送り込む為の中を空洞にした、木製の棒切れのような物をくわえてフーフーと吹き続けている。
「村紗、今日も風呂焚きですか?毎日有難うございます」
「え?あぁ、星か。大丈夫、好きでやってるから。おまじないみたいな物かな、私にとっては」


あの日、村紗は一足先に命蓮寺に戻り風呂を炊いて待っていてくれていた。
命蓮寺に聖達が帰ってきた際。その時には聖の気力は大分戻っていたとは言え、それは1人で立って歩ける程度の物で本調子ではない。

帰ってきた聖の様子に、村紗も皆も、まだまだ気を緩める事が出来て居なかった。
それが、村紗の炊いた風呂に聖が○○を連れて入浴し、○○の体を綺麗にし終えると。
聖の顔色が普段のそれと遜色無い程度にまで回復したのだった。
このときの聖の心労の原因は、○○の体に付いた血とその匂いが取れない事だった。
その両方が村紗の炊いた大量の湯。つまりは風呂によって綺麗にできた事なのは明白だった。

「やっと汚れも匂いも取れたわ・・・村紗ありがとう」
「大丈夫・・・もう石鹸とお湯の匂いしかしないわ。肌も元の色に戻ったし」
実際、聖は風呂から上がった後。○○の体に染み付いた匂いと、血の汚れが洗い流された事を。最も喜んでいた。
そして村紗には何度も何度も。一足先に命蓮寺に帰り、風呂を炊いておいてくれた事を感謝していた。
その喜びが忘れられないからか。あの日以来誰に言われるまでも無く、村紗は自発的に毎日の風呂焚きをやっていた。



「特に今日は○○が起きて初めての日だからね・・・聖は絶対○○と一緒に入るだろうから。気合も入るよ」
「村紗」
星の言葉が突然厳しさを帯びた声に変わった。
「あ・・・・・・ごめん。迂闊だった」
「気をつけてください」
村紗の今の発言は、もし○○に聞かれれば少々厄介な事になる可能性が高かったからだ。
それに気付いた村紗は急にシュンとした面持ちを見せた。

今村紗は危ない橋を渡った。ただ、危険を冒しているのは星の方も同じだった。
なので、村紗を戒めたのは、自分を棚に上げたような格好になってしまい。少し悪い気がした。
「大丈夫です・・・・・・私も今の村紗と同じ、危ない橋を渡ってます」
星は気落ちする村紗の横に屈み、例の鞄と帳面を。その二つを包んだ風呂敷ごと、今湯を沸かしている炎の中に放り込んだ。
「なので、早く渡りきらないと」


「星・・・これは?」
「危険な物です。かけらすら残さず、全て灰にしてください」
「この中身って一体・・・あっ・・・・・・!」
炎の中で、鞄と帳面の身包みである風呂敷が焼きはがされ、その中身が露出すると。村紗は短い声を漏らした。
その声を上げてすぐに、村紗は一気に真剣な面持ちに変わり。炎の中をまさぐるのに使う棒切れで鞄を炎の奥に突っ込み、更に薪を投入して見えなくしてしまった。
それだけに留まらず。炎に向って一生懸命に息を吹きかけ、炎の勢いを大きくしていく。

新たに投入された薪と炎。その両方で見えなくなったのを確認した星は立ち上がり、その場を後にしようとした。
「しっかり燃やしてくださいね」
去り際に残した星の言葉に対して村紗は。コクコクと黙って何度か頷くだけで、炎の勢いを維持するのに躍起になっていた。

途中から、ぬえが薪を割る手を止めて。後ろを振り向いてその様子をずっと見ていた。
風呂敷の中身は、聞かなくてもぬえには分かっていた。○○がまだ人間だった時に使っていた鞄と例の帳面だろう。
ぬえが見る村紗の横顔は、使命感を帯びたような表情をしていた。
その表情を見続けていると、ぬえは自分の顔が変な歪み方をするため。また背を向けて薪を割る作業に戻った。


件の帳面が○○が記憶を取り戻すきっかけになったのは。例の騒動の後、村紗の口から聞いた。
星が命蓮寺を飛び出す○○に、鞄を返したと言う事も一緒に。

今ぬえは、騒動の後でまた村紗の精神状態が不安定になっていないか心配で。度々こうやって一緒にいるが。
どうやらその心配は余りないようだ。決して良い意味でないと言う所がミソなのだが。

(自分の鞄と、自分の記憶を思い出す、今となっては唯一の手段である。あの帳面をくべた火で沸かしたお湯に入るんだよね・・・○○は)
(うっわー・・・・・・もう何の言葉も出ないよ)
絶対に口には出さない心の声を呟きながら。折角背を向けたと言うのに、ぬえの表情には妙な笑いが自然と込み上げる始末であった。












この日、○○が目を覚ましたあの時から数えれば初めて。聖は○○と主に外出をした。
その行く先は、残念ながら人里であったが。
○○がもう一度目を覚ましてからあれから数年経った。
幸いにも、○○に記憶を取り戻すような兆候は見られない。その精神状態は極めて安定していた。


「ねぇ、お節介じゃなければで良いんだけれど。何か聖の仕事の手伝いって出来ないかな?」
しかし、ある日の寝床で。○○の口からこの言葉を聞いた時。遂にこの時が来たと聖は身構えた。
「確かに、聖に比べれば・・・いや、命蓮寺の中じゃ自分が一番未熟なのは分かってる」
「でも、こんなに良くして貰ってる割りに、やっている仕事の量が少ないような気がするんだ」
「聖は時々人里に行ってるんだよね・・・?」
○○のこの思いは。聖としては物凄く嬉しいものでは合った。
しかし、外に出す事は。記憶を思い出すきっかけを何処で手に入れてしまうか分からない。
ましてや人里。面識の全く無かった妖怪の山などならともかく、人里には余り連れて行きたくなかった。
しかし、○○の興味関心は人里に向いていた。聖自身人里での付き合いが最も多かったから仕方のないことなのだが。


聖だけではない。もう命蓮寺は人里の大人には何も期待していない。
しかし。まだ色眼鏡を持たぬ子供相手ならばあるいは。あるいは、自分達の思想を信じてくれるのではないか。
その淡い期待を捨てきれずに、人里との付き合いはまだ続けていた。


「はい、じゃあ今日のお話はこれで終わりです」
にこやかに今日の分の説法を終える旨を口にする聖。一輪が子供たちへの説法を昔から熱心に行っていた理由が分かった気がしていた。
確かに、多少想像の斜め上を行くような行動をすることはある。でも、大人達相手に喋るよりは遥かに心労が少なかった。

しかし、親が問題だった。自分の説法を聞く時間より親の話を聞く時間の方が多い。しかし、まだ淡い期待は捨てきれていなかった。
このお辞儀も思いっきり教え込まれた物なのかと思うと。少し悲しくはなるが。

「今日は私の他に○○がいるから・・・・・・そうね、○○。何か挨拶と一緒に気の聞いたお話でもしてみない?」
「え!いや、そんな。挨拶はともかく話なんて用意してないのに」
「ことわざや慣用句を使って、ためになりそうな短い物でもいいのよ」
○○は困ったようだったが、子供たちの自分を見つめる視線を見て観念して口を開く。

「えーっと・・・○○と言います。みんな始めまして、これからよろしくお願いします」
自己紹介を終え、次に何か話す題材を探す○○を、聖は目を細くして愛おしそうに見守りながら茶をすすっていた。
「そうだなぁ・・・慣用句・・・・・・ことわざ・・・あ、1ついいのがあるな」
ただ、○○が紡いだ次の言葉に聖の心はかき乱される事となる。


「光陰、矢のごとしって言葉。皆知ってるか―
よりによって、その言葉を選ぶとは。
その慣用句を耳にした時。運悪く聖は茶をすすっていた。余りの焦りに聖はすすっていた茶を飲み込むのに失敗して、思いっきり噴出してしまった。

「ゲホッ!えふっ!!」
「聖!大丈夫!?」
話を中断して慌てて○○が駆け寄る。
「だ、大丈夫よ。ちょっと飲み込むのに失敗しちゃったわ。ごめんなさい、○○話の邪魔をしちゃって」

光陰、矢のごとし。その言葉は、○○が記憶を取り戻したあの日。○○が全ての事実に気付き、絶叫と共に気を失った後。奴の孫が口にした言葉だった。
確かに、あの時の○○にとってこの光陰、矢のごとしと言う言葉は余りにも的確だろう。
姿形の若さと相まって、○○の体感時間は実態とはかけ離れた物だったはずだから。
しかし、奴の孫がその言葉を吐いたのは。○○が気を失った後だ。聞こえていても覚えているはずはないし、何より○○の記憶はもう一度全て封じた。


ふと、一輪の言葉が脳裏によみがえる。
○○の記憶をもう一度封じ込める作業の際に言った、一輪のある提案が。
「姐さん。正直な話、鈍痛じゃ生温かったと思うの」
「次に、楔が外れそうになったら。一発で泡を吹く勢いで卒倒するようなキツイのじゃないと・・・また外れると思うの」
「姐さんが○○を傷つけるような真似、絶対にしたくないのは分かる・・・でも、楔が外れるのが一番○○が傷つく事だと思うの」
聖としては、○○が記憶に近づいた際に発動する鈍痛でさえ。断腸の思いで施したのに。
それなのに。泡を吹くような卒倒をしてしまうような術は・・・施せなかった。

しかし、1つだけ確かな事があった。
何もしなければ、今回打ち込んだこの楔も。古くなれば・・・・・・外れてしまう。



既視感 了


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