「あー…………」
こみ上げてくる吐き気に眉を寄せて、ヒタキは憩い亭二階の一室で目を覚ました。
「…………頭いてぇ」
腹部に感じる重みに追い討ちをかけられつつ、ベッドに寝転んだまま朝日が差し込む自室を眺める。
部屋には自分を含めて三人の人間が寝ていた。
数枚のローブを毛布代わりに床で死んだように眠る青髪の少女と、そして自分の危険な調子の腹部を枕代わりに眠る赤髪の幼女。
「……にじゅう……ご」
謎の寝言を残して、すやすやと寝息を立てる見た目幼女なヴェルマだった。
買い物を終えて、予定通りに行った晩酌。当初はヒタキとヴェルマ、そして憩い亭の店主だけで行うはずだったそれには、何故か薬草専門店「森の囁き」で出くわした二人、ラウルとメリルが参加していた。
それぞれの店の主である二人は早々に切り上げたが、それ以外の面々は酒に溺れていた。
* * *
「わたひのおひゃけがのめにゃいのでしゅかひたきさん!! わたひはまほうちゅかいになりゅためにいえをしゅててまでここにきたのに!! あんにゃこというにゃんてひどいでしゅ!! さあさあさあ、おしゃけをのみなさい!!」
「いや、無理だから……」
「のみなしゃいといってるんでしゅ!!」
「が、ぐぅぅっ……………っ!!」
* * *
昨晩のメリル・カナートの凶行を思い出したヒタキは、腹の上ですやすやと眠るヴェルマを、苦い顔で無言のまま激しく揺すった。
「ん……ねむい、もうすこし……」
「…………俺、吐きそう」
「…………」
暫しの沈黙。そして、
「…………っ!!?」
ヴェルマは目を見開いて飛び起きた。
「おはよ、ヴェルさん。調子、どうだ?」
「……ああ、おはよう。最悪な寝覚めだよ。心臓に悪い冗談は止めてくれ」
「いや、冗談じゃなくてマジだって。飲まされ過ぎた」
頭も痛いしとぼやくヒタキを、ヴェルマ疑うように半眼で睨んだ。
「メリルに飲まされてはいたが、あまり酔ってはいなかっただろう。この子がまともに喋れなくなった後は、上手に逃げていたし」
「酔うとか以前に、物理的に胃に入らない量だったんだって」
夢を全否定されて頭に来ていたのか、ヒタキは昨晩酔っ払ったメリルに殺されかけた。酒瓶を口に突っ込まれて。
「まあ、子どもが酒を飲むと、ろくな事にはならないといういい例だ。――教訓、飲酒は大人になってから、だな」
見た目十歳なヴェルマの言葉だが、何故か異常なほど説得力があった。この世は謎だらけだ。
もしかすると昨晩彼女が蒸留酒を美味しそうに大量に飲んでいたからかも知れないと、ヒタキは微妙に複雑な心境でそう思いながら、すやすやと昨日知り合ったばかりの他人の部屋で熟睡する、青髪の自称「知的で冷静でクールな魔術のエキスパートの卵」な少女を、遠い目で見た。
「で……これ、どうする?」
自分で勝手に酔い潰れた自称「卵」が目覚める気配は、それはもう見事なほど皆無だった。
「…………むにゃ……まほう……」
* * *
迷宮都市には、資源がない。
耕すべき田畑がなければ掘り起こす鉱山も、狩猟や採集のために入る森や山も、魚が泳ぐ川や海もない。
故に迷宮都市には、農業を初めとして、酪農、漁業などを生業とする者は存在しない。
しかし迷宮都市には、迷宮がある。
そして、探索者がいた。
「――――て言うわけで、迷宮の中に溢れてる食料とかを、探索者が都市に持ち帰るんだ」
「なるほど、道理で。それにしてもここは……」
迷宮の六十一階層、ヒタキとヴェルマの目の前には茫洋とした麦畑が広がっていた。
波打つ金色の大海原に、ヴェルマは呆然として思わずと言った様子でため息を吐く。
「壮観、としか言いようがないな。十階層は薄暗い石造りの遺跡のような場所だったから、迷宮内部にこのような場所があるとは思っていなかった」
「他にも森とか海辺とか、色々あったぞ。まあ、ここまで食料に特化した場所はなかったけど」
「そうか。やはりでたらめだな、ここは。それにしても、レベル27の私が良くここまで来れたものだ」
「いや、それを言ったら俺なんて1だぞ。実際逃げに徹すれば、何とかなるもんなんだって。何でみんな、わざわざ倒そうとするんだろうな」
六十一階層から七十階層は、食材が溢れている点を除けば、他の階層と大差ない。草原にも麦畑にも魔物が徘徊しているし、罠もある。
それを身をもって体験したからこそ、ヴェルマはヒタキを呆れた目で見た。
「言っておくが、普通は無理だぞ。お前の察知能力は異常だ」
「まあ、俺の場合は魔物に見つかったら、ほとんど終わりみたいなもんだからな。生存本能ってやつだろ」
「……そういうものか」
全く納得できていない様子ながらもヴェルマは深くは言及せずに、その瞳を再度黄金の海へと向けた。
ヒタキとヴェルマが揃って迷宮の六十一階層にまで赴いた理由。それは、憩い亭店主ジン・リッパーの依頼を受けたためだった。
ささやかな宴会を行なった日から数えて五日後である今日は、ヒタキとヴェルマにとっては何時も通りの日常だったが、店主にとっては違った。
お手頃な価格を売りにする憩い亭では、少しでも原価を安くするために食材を直接探索者から仕入れている。今朝方、契約していたその探索者が、死んだという報せが入ったらしい。
そこで次の探索者が見つかるまでの繋ぎとして、つい先日俗に迷宮の食糧庫と呼ばれる階層に入ったヒタキに白羽の矢が立ったのだ。
「ところでヒタキ」
「ん?」
「とりあえずの繋ぎとして、と言われて安請け合いしていたが、そう簡単に次の探索者が見つかると思うか?」
「あー……、普通なら難しいんだろうけどな」
相変わらず鋭いヴェルマの指摘に、ヒタキは少し考えて頭を掻きながら続ける。
「あんまりいないんだろうしな、わざわざこの階層に留まってる人って。探索者の過半数が六十階を超えるまでに死ぬか探索者を辞めるかだって話だし。だけどまあ、店長って人脈あるらしいから」
「ふふ、なるほどな。それなら、問題はない」
何故か微笑むヴェルマに、ヒタキは首を傾げる。微笑まれる理由が全くわからなかった。
「まあ、いいや。そろそろ行くけど、ヴェルさん、準備できてるか?」
「何時でもいいぞ、私は」
緊急時に何時でも使えるように左腕の篭手に貼り付けた、店主から支給された一枚二百万デルという超高級魔術具・転移符に苦笑と共に視線を落とした後、ヴェルマは腰の細身の剣の柄に一度触れて頷いた。
「じゃあ、作戦通りによろしく」
「任せろ」
大地を蹴り駆け出したヒタキを、ヴェルマが後ろから追う。波打つ黄金の麦畑に飛び込んだ二人は、手当たりしだいに麦を引きちぎり背負った袋に詰め込んで行く。
無尽蔵とも言える天然の食糧を抱えるこの階層に、活気はあまりない。収穫に夢中になるばかりに、麦畑に潜み獲物を狙う魔物に何時の間にか周囲を囲まれ、命を落とす探索者が多くいるからだ。
中堅所の実力者には危険で、しかも地味な作業の割りには、実入りがよくない。
多くの者に敬遠されるには、十分過ぎる理由だった。
視界の悪さで忌み嫌われる広大な麦畑の中を、しかしヒタキは迷うことなくジグザグに折れ曲がる軌道を描き疾走する。
黄金の稲穂の下に隠れ潜む魔物を的確に察知して回避し、二人は走り続ける。
――だが、幾ら敵を避けて通ろうと、何時までも気づかれずにいられるはずがない。
ヒタキの見据える先、黄金の稲穂の下に、一体の魔物が潜んでいる。
しかし、迂回するわけにはいかなかった。今道を逸れれば、他の魔物を引き寄せることになる。
「前方、一点集中」
右の人差し指で前方を指し示しサインを送り、ヒタキは上体を更に前に倒し込みながら地を蹴り、加速した。同時に足を止めたヴェルマの左手が踊り、宙に魔術文字を描く。
二人の行動開始より三秒。残り十数歩の距離まで近づいたその時、敵が二人の接近を知覚。
黄金の海から、漆黒の大鎌が飛び出す。次いで現れるのは、額に一本の角を持つ純白の体毛に覆われた小型の獣。
ホーンラビット・サイズは、自らの身体の数倍はある生体武器である大鎌を大きく後ろに構えながら、凄まじい跳躍力を発揮してヒタキに迫る。
「……っ!」
一瞬で消失した間合いと、黒い影に切り裂かれる稲穂に強く目を見開きながら、それでもヒタキは全身の筋肉を瞬時に稼働させた。
頭から飛び込むようにしてホーンラビットの上に逃れたヒタキの下で、稲穂が綺麗な円形に刈り取られる。
付加スキル《魔術補助・強化(中)》
クラススキル《魔術付加》
ヴェルマによって編まれた術式が輝き、中級魔術「雷の雨」と二つのスキルが発動し、右手に持つ細身の剣「祝福の旋律」に強化された中級魔術が宿る。
そして彼女は魔術によって帯電したその剣を、助走をつけ全力で大鎌を振るったばかりのホーンラビットへと投擲した。
本来ならば指定した座標の上空から幾条かの雷撃が降り注ぐ魔術は、しかし一本の剣に収束され、一条の光となって敵を射抜かんと空を駆ける。
キィィィィイイ――――ッ!!
しかし雷の剣は、ホーンラビットが咄嗟に大鎌から放った魔力の刃と凄まじい高音を奏でながら衝突し、その勢いを失う。
ランクFのヴェルマとランクDのホーンラビットの間にある力量差は、例え魔術を使いスキルの補助を得ようと、決して覆るようなものではなかった。
不意打ち気味に放たれた魔術を破ったホーンラビットは、ヴェルマを鋭い野生の瞳で睨み据える。
そしてその特化した速度で敵の命を刈り取らんと大地を蹴った――――その瞬間、背後からヒタキの蹴りを食らい、目標であるヴェルマを大きく超えて飛んで行った。
何とか無事に怪我することなく着地した後、気配を殺してホーンラビットに近づいていたヒタキは、ほっと一息吐いて安心する。
ああ、死ななくてよかった。
そしてヒタキとヴェルマは、素早く剣と刈られた麦を回収して、再び走り始めたのだった。
Party name : No name
Name : ヒタキ
Guardian : 慈愛の女神ライア
Rank : F
Level : 1
Class : ウォーリア
Skill : Nothing
Name : ヴェルマ
Guardian : 天秤の女神アリア
Rank : F
Level : 27
Class : マジックナイト
Skill : 対物・魔力鎧 対魔・魔力鎧 魔術付加
* * *
「…………」
何時にも増して口数が少ないヴェルマを横目で見ながら、ヒタキは低いところにある赤い頭に手を伸す。
「ヒタキ」
が、しかし、ヴェルマの鋭い眼光に威圧され、中途半端な位置でその手を止めた。
疲れている頑張り屋さんな彼女を労おうとしただけなのに、とヒタキは割と本気で落ち込んだ。
既に日が沈んでいる迷宮都市を西に向かって進む二人の背には、一晩かけて収穫した麦を詰め込んだ袋が背負われている。迷宮の中で半日以上走り回っていた二人の顔には、疲れの色が濃く浮かんでいた。
「それにしても、凄まじい体力だな。加護を受けている私でも、かなりきつかったというのに。私もそれなりに鍛えていたつもりだったのだが」
「まあ、ここに来てからずっとあんな感じだったから、体力だけはついたんだと思う」
迷宮は深く潜れば深く潜るほど、広くなって行く構造だ。ヒタキはそこを毎日ひたすら走り回っていたのだから、レベルが上がっていなくとも鍛えられてはいた。
「そのうちヴェルさんも慣れるだろ」
「慣れるまで続けるつもりはないがな」
「あ、そうか」
既に深夜を過ぎた時刻。例え夜が最も騒がしくなる歓楽区と言えど、人通りはあまり多くなかった。酒場帰りらしき幾人かと偶にすれ違いながら、二人はゆっくりと会話を交わしながら憩い亭への道を進む。
「ヒタキ、明日はどうするつもりだ。また夜から探索に行くのか?」
「うん、今日はそのために手伝ってもらったんだし。店長の手伝いもいいけど、早く下に行かないと」
「……店長に聞いたのだがな、毎日迷宮に潜る人間はそうはいないそうだ。敵が強く、そして一階一階が広くなる五十階以上では特に」
「へえ、そうなんだ」
少しだけ低くなったヴェルマの声に、ヒタキは目を瞬かせながとりあえず相槌を打つ。そんなヒタキに僅かに苦笑を浮かべながら、ヴェルマは続けた。
「転移符、だったか? あれにしてもそうだが、一枚しかない物を、お前は何の躊躇いもなく私に渡す」
「え? だって俺がヴェルさんに手伝ってって頼んだんだから、当然だろ」
「当然ではない。普通の思考が出来るならば、他人に一本しかない命綱を渡してまで効率を求めはしない。勿論、毎日毎日自ら進んで死にに行くような真似もしない」
「…………」
やっと、理解できた。
ヒタキは少しだけ困って、無言のまま無意味に黒い髪を掻く。
今までは確かに在った一線。互いに深くは干渉しないという暗黙の了解。
ヴェルマは敢えて、一歩を踏み込んで来たのだ。一歩を踏み込んでまで、忠告しようとしているのだ。
「出過ぎた真似だ。それどころか、不必要な行為だ。しかし、私はお前に死んでほしくない。だから、一つだけ言わせてもらうぞ」
「……うん」
「ヒタキ、お前には夢があるのだろう? だったら、もう少し命を大事にしろ。今日お前の戦い方を見て、そう思わずにはいられなかった」
ヴェルマの嘘偽りのない、本音の言葉。それ以上でもそれ以下でもない、思うがままの心からの言葉。
「……ヴェルさん」
――――しかしヒタキはその言葉に答えることなく、ヴェルマの手を取り強引に引き寄せた。
「ヒタ――」
「静かに」
開かれた口を片手で塞ぎ、ヒタキはそのままヴェルマの小さな体を抱えるようにして、建物と建物の間に伸びる細い路地に素早く入り込む。何事かともがくヴェルマを後ろから抱きしめたまま、ヒタキは耳元に囁く。
「面倒ごとっぽい。このままやり過ごそう」
ヒタキの声と同時に、先ほどまでいた通りから金属同士がぶつかり合うけたたましい音が鳴り響いた。
「それで?」
抵抗をやめて大人しくなったヴェルマは、同意の代わりに状況を説明しろと透き通るような翠の瞳で訴える。ヒタキは静かに虚空を見つめ、音源である通りの気配を探った。
「四人、だな。二人が何か喧嘩してるみたいで、って……」
「どうした?」
途中で止められた言葉に眉根を寄せ、ヴェルマが問いかけたその瞬間、
「無駄だ。俺の目には、貴様の剣など止まって見える」
「…………」
無駄に芝居がかった知っているような知っていないような微妙な背伸びをした声に、二人は揃って閉口した。
それから盛大な舌打ちと罵詈雑言が響き渡り、ヒタキとヴェルマが隠れる路地へと足音が近づいてくる。そして金属製の軽鎧を身に着けた見知らぬ男が、抜き身の剣を手にしたまま逃げるようにして目の前を通り過ぎていった。
状況から察するに、今の男が争っていた一方だろう。よって乱闘はすでに終わっているはずだ。
「…………」
「で、どうしようか」
「やり過ごすのだろう?」
無言で男が走り去った後の通りを見つめていたヴェルマは、面倒だと言わんばかりのヒタキの声に振り返ってきょとんと首を傾げる。
何故か小さな赤い頭を撫でてしまいそうになり、ヒタキも不思議な思いで一杯のまま首を傾げて続けた。
「メリルがいるんだ」
「メリル?」
「うん、メリル」
こくりと頷くヒタキに、ヴェルマは納得が行かない様子で眉を寄せる。数日前に薬草店で知り合ったばかりの魔術師の少女の名前が、今ここで出てくるとは思ってもいなかったのだろう。
「リョウ、だったか? 何故メリルがあの子どもと……いや、そんなことよりメリルは無事か?」
「争ってはない、と思う。怪我も、してたって大したことはない……っていうかヴェルさん、何か俺のこと試してないか? 言っとくけど、そんな細かいとこまでは分かんないぞ」
「個人を特定出来るのならば、と思ってな。それより、行くぞ」
「え、行くのか……」
面倒くさい。素直にそう思ったヒタキに、ヴェルマは溜め息を吐きながら通りに視線を戻した。
「私だって進んであの失礼極まりない子どもと関わりたくはない。だがな、その分メリルが心配だ。まあ、別にお前は来なくてもいいがな、メリルの様子を見てくるだけなのだから」
「そっか。じゃあ、俺は隠れとくから」
ヒタキは迷うことなく行ってらっしゃいと手を振った。わざわざあんな目立つ人と知り合いになりたくないと、切実にそう思いながら。
「……ああ、行ってくる」
小さく頷いて路地から出たヴェルマの目は、心なしか冷たかった。
何でだろうと若干落ち込みながら、ヴェルマの背を見送ったヒタキは静かに真上に跳躍する。
杞憂だよな、ほんと……。
普段なら絶対にやらないようなことをしている自分に疑問を持ちながらも、ヒタキは迷うことなく正面の壁を片足で蹴り更に上に飛び、反対側の建物の窓枠に指をかける。そのまま一気に体を持ち上げ、窓枠を足場に三度跳躍、そして二階建ての建物の屋上に降り立った。
「毒されてんのかな、俺」
頭をボリボリと気怠げに掻きながら、眼下のヴェルマを見やる。堂々と歩む尊大で冷静沈着な彼女は、基本的にお人好しなのだ。
溜め息を吐きながらも苦笑して、ヒタキは移動を開始する。建物の上から上へと飛び移りながら腰に巻いているローブを身に纏い、そして息を殺した。
* * *
夜の闇に浮かぶ三つの人影。迷宮都市を照らす道端の魔石灯の光は、近づくにつれて三人のシルエットを鮮明にして行く。
自らの気配を隠すことなく、真っ直ぐその人影に向かって歩むヴェルマ。靴が石畳を踏みしめる度に生じる音は彼女の小柄な体故に小さいが、しかし静謐な深夜の通りに溶けて消えることはなかった。
「……?」
ヴェルマの存在に最も早く気付いたのは、三つある人影の内で唯一見知らないものだった。
長身のその人物がヴェルマの方を振り向くと、揺れる金色の長い髪が街灯の明かりを受け夜の闇の中で艶やかに光る。一瞬その高い身長故に男かと思ったが、大引く開いた服の胸元には揺れる程の膨らみがあり、膝丈のスカートからすらりと伸びる足は細い。その人物は十代半ばの成長期にある少年少女と並べば、頭一つ分は高い長身の女性だった。
「あれ? ヴェルマちゃ、ヴェルマさんじゃないですか。奇遇ですね、こんな時間に。今からお帰りですか?」
長身の女性の視線を追ってヴェルマに気付いたメリルが、ぺこりと礼儀正しく頭を下げて「こんばんはと」挨拶をして来る。軽く頷き挨拶を返し、ヴェルマは小さく首を傾げて無言のまま瞳だけでメリルに尋ねた。
「あ、えと、紹介しますね。というか、是非紹介したい方がいるんです! あ、でも、そう言えばヒタキさんはご一緒じゃないんですか? ヒタキさんにも是非知っておいてもらいたかったんですけど……」
「ん? ヒタキは、今は一緒ではない。伝えたいことがあるなら、私から伝えておこう」
青い後ろ髪を嬉しそうに揺らしながらきょろきょろとヒタキの姿を探すメリル。予想外の彼女の反応に少し驚きながらも、ヴェルマは続きを促した。
「あ、そうなんですか。それじゃあ、ヴェルマさんに紹介しますね。こちらの男性は、私をパーティーに入れて下さったリョウ・アカツキさんです。知っているかもしれないですけど、リョウさんは今迷宮都市を騒がしている期待の新星なんですよ! それに『白銀の神子』なんていう二つ名までお持ちの、凄い方なんです! あ、それで――」
「――大丈夫よ、メリルちゃん。私は自分で自己紹介するわ」
何処かで聞いたことがあるような説明を、まるで自分のことのように自慢気に嬉しそうに目を輝かせながらしていたメリルの顔が不意に曇ったその時、長身の女性がおっとりとした口調でゆっくりと言葉を挟んだ。
目尻が下がった青色の瞳の女性の顔立ちは整っており、その垂れた目の印象が強い美貌はとても柔らかく暖かい。
「はじめまして、ヴェルマさん。私はミリア・フロマージュです、今後とも末永く……あら? 何か違うような気がするけれど、いいのかしら? よくわからないけれど、よろしくお願いしますね。こちらのお二人には、ちょっと喧嘩してしまった恋人に差し向けられた方に、剣で切られそうになっていた所を助けていただいたの。まったくもう、あの人ったら乱暴なんだから。ねえ?」
おっとりとゆっくりと衝撃の自己紹介をして来た、ミリアと名乗った女性。あまり知りたくない類の身の上話を、何故か柔らかく上品に微笑みながら語られたヴェルマは、とりあえず全部無視して挨拶を返そうとして、
「ああ、こち――」
「あら、そう言えば私、七時間くらい前にお友達と夕食を一緒に食べようって約束していたような……。まあ、どうしましょう。困ったわね」
全然困ったように見えない彼女が、全く人の話を聞いていないことに気付いた。
「リョウ君、メリルちゃん、ごめんなさいね。今日はもう遅いし、お礼はまた今度するわ。それじゃあ、またね」
ミリアは色々と自己完結して、別れの言葉を述べる。そして相も変わらず派手な黄金鎧を纏った銀髪の少年に近づき、その額にそっと口付けを落とした。
「ありがとう、守ってくれて。格好良かったわ」
最早展開に着いて行く気もないヴェルマは、冷めた瞳で僅かに頬を赤らめて去っていったミリアを見送る。
これで漸く邪魔者がいなくなった。ヴェルマはそう内心で溜め息を吐き、満足げな視線をミリアの背に送るリョウ・アカツキと、何故か不満げに頬を膨らませている自称知的でクールな未来の偉大な魔術師を交互に見据える。
既にこの時点で、目的はほぼ達成されていた。そもそもヴェルマは、胡散臭い少年とメリルが共にいる理由を確かめに来ただけだ。メリルが自らの意志で少年のパーティーに入っているのならば、それはもう他人が口を出すことではない。
故にもう、これ以上詮索する必要はない。だと言うのに、ヴェルマはもう一歩だけ踏み込もうとしている。死に場所を探してこの地に迷い込んだ自分が、他人の心配とは本当に失笑ものだ。
――――確実にあのお人好しの影響だろうな……。
小さく溜め息を吐いて、ヴェルマは未だにふてくされているメリルに問い掛ける。
「薬草店の店主に紹介されたのか?」
「え? いえ、違いますよ。リョウさんが声を掛けて下さったんです、迷宮に潜ろうとしていた私に。お陰様で無事に初の探索を終えられたんですよ」
「ふむ、そうか。それは良かったな」
希望とは違う返答への落胆を微笑の裏に隠し、ヴェルマはこの場は去ろうと足を動かしかけるが、
「君は、あの時の子か……。驚いたな、メリルの友人だったのか」
リョウ・アカツキの妙に気取った言葉に、正確には『子ども』といったようなニュアンスの単語に、ぴたりと足を止めた。
「それに、レベルもかなり上がっている。ふ、頑張っているようだな」
板についていない淡い笑みを浮かべたアカツキの手が、ヴェルマの赤い髪を撫でようと持ち上げられるが、しかし彼女はそれを片手で払った。
「あまり馴れ馴れしくされるのは好きではない」
「……?」
途中で打ち払われた手を見て、アカツキは年頃の少年らしく動揺を露わにした。そして数瞬だけその赤と黒の左右異色の瞳を揺らした後、納得したように何事か呟く。
聞き取れなかった耳慣れない単語に眉根を寄せたヴェルマは、しかし次の瞬間以前にも体験した、否、以前の何倍もの不快感に反射的に胸を押さえる。
胸が――正確には、この都市に来てから胸に刻まれた、天秤を模した神の印が不快に疼く。
ぞくりと、嫌な汗が背中を伝い落ちる。
「貴様、何を…………」
謎の感覚に戸惑うヴェルマを見つめるリョウ・アカツキの黒かった片目が、何時の間にか赤く染まっていることを認識したその瞬間、目の前が真っ暗になった。
* * *
「ヒタキ、か……?」
背後から聞こえる、背中に庇った幼い容姿をしたヴェルマの戸惑い気味だがしっかりした声に安堵しつつ、ヒタキは目の前の少年を細めた目で睥睨する。
すぐ隣の建物から飛び降りると同時に、ヴェルマの腰から抜き放った細身の剣。その剣の腹で少年の赤い両眼を隠した体勢のまま、ヒタキは取れてしまったフードを直しもせずに詰問する。
「あんた――今、何するつもりだった?」
「な、何だよ、お前……」
「今聞いてるのは、俺だ。まあ、何するつもりかなんてこの際どうでもいい。だけど、これ以上ヴェルさんに変な真似はするなよ」
動揺からか、瞳に宿っていた不穏な魔力は霧散する。それを確かめたヒタキは手首で剣を返し、リョウ・アカツキの首筋に刃を軽く押し当てた。
――――これ以上妙な真似をするつもりなら、その首を落とすという意志を込めて。
少年がゴクリと生唾を呑み込む様を一瞥し、ヒタキは剣を引いてヴェルマの腰の鞘に納めた。
「じゃあヴェルさん、帰ろっか」
「……ああ、そうだな」
そして後ろのヴェルマに声をかけ、二人で並んで憩い亭へと再び歩き始める。メリルに軽く会釈をし、硬直している派手な少年の横を一瞥すらせずに通り抜けて。
「あ、勝手に剣使ってごめん。俺、何も持ってなかったから」
眉根を寄せて難しい顔をしていたヴェルマにごめんと小さく頭を下げれば、彼女は頬を緩め背伸びをしながらヒタキの黒い頭を優しくくしゃくしゃと撫でて来た。
「なに、謝る必要はないさ。元よりこの剣はお前がくれた物だろう?」
「ん、そっか。ていうかおねえさん、何か照れるんだが」
「お前が何時も私にやろうとしていることだ。これに懲りたらもう止めることだな」
「……やったら、やり返してくれんのか。うん、考えとく、後ろ向きに」
「なっ、何故そうなる!?」
無理して精一杯背伸びをする可愛くて綺麗な彼女の、小さくて暖かい手の感触が気持ち良くて、今後も是非やって欲しいと思っていたら、何故かヴェルマが驚愕に目を見開いていた。
あたふたと焦るヴェルマ。その様子を何だか穏やかな気持ちで眺めていたら、恨みがましそうに上目遣いに睨まれた。
怒らせるつもりはなかったので咄嗟に謝ろうと口を開きかけ、
「そこのローブの男、止まれ」
背後から受けた制止の言葉に、ぴたりと動きを止めた。つい先ほどヴェルマを害そうとした少年の、静かな、されど拒否を許さぬ鋭さと無視できない敵意が込められた声。
「…………」
無言のまま緩慢な動作で振り向けば、声の主であるリョウ・アカツキはやれやれと肩を竦めて見せた。
「さっきは少し驚いたぞ。ふ、まさかお前のような人間が存在しているとはな」
俺もまだまだ甘いということか、と自嘲するリョウ・アカツキ。彼の顔に浮かぶその嘲りの表情は、今までに無いほど自然なものだった。
しかしその嘲りは、言葉通りに自分に向けられたものではない。明らかにその歪んだ暗い光を宿した瞳は、ヒタキへと向けられている。
「俺のこの神眼に、隠れていたお前が映らないわけだ。知っているかもしれないが俺の目は特別でな、大気を漂う魔力の流動も、物質に宿る魔力の量さえも視認できる」
饒舌に語るリョウ・アカツキ。まるで舞台の上の役者の如く振る舞う彼は、観客に向かって朗々と語る。
先ほどからの喧騒に、何事かと建物から顔を覗かせていた者達。深夜の大通りでの不穏な空気に足を止め、ヒタキ達を遠巻きに見ていた者達。
そして、メリルとヴェルマ。
数は多くないが、それでも確かに存在する観客に――――彼は語る。
「だからこの世界の全ての生物は、少なからず魔力を持っているものだと思い込んでいた」
ヒタキがこの迷宮都市で、頑なに他の探索者を避け続けた理由を。
ヒタキがこの迷宮都市で、どうにか自らの存在を目立たぬようにしていた理由を。
ヒタキがこの迷宮都市にいながら、未だに神の加護を受けていない理由を。
ヒタキがこの迷宮で――――ひたすら逃げ続けるしかなかった、その理由を。
歪んだ恍惚を善意の仮面の裏に隠して、彼は語る。
「それがまさか――魔力を全く持たない人間がいるとはな」
哀れむように、同情するように、慰めるように、リョウ・アカツキはその瞳の奥に嘲笑を隠して、ヒタキに言った。
「神の加護でさえも、その身体では受け入れることは難しいようだが……いや、何か困ったことがあれば、俺を頼ってくれ。メリルの友人なら、俺は協力を惜しまない」
* * *
――――迷宮都市の夜はこうして終わりを迎え、そしてまた朝が訪れる。
太陽が空高く昇る頃には、迷宮都市に一つの噂が広がっていた。
博愛の神々にも、そして世界にも愛されなかった哀れな男の噂が。