憩い亭は日が暮れた後の夕食時が最も騒がしい。その時間帯より一時間早く、もはやほとんど指定席と化しているカウンターの一番端の席で夕食を取ることが、ヒタキの日常だった。閑散としている店内で時々店主と二言か三言交わし、他の探索者と入れ替わるようにして迷宮へと通い続けた五十日間。
しかしその日常を繰り返し始めて五十一日目になるこの日、ヒタキの生活に変化が訪れた。
「あー……、ミルクがうまい」
「百デルでここまで喜ぶのか。安い男だな」
「いや、おねえさん。あんた、いい人だな」
ヒタキはその日に出会った自称二十五歳の幼女に見事餌付けされていた。硬いパンをもさもさと食べて水で乾いた喉を潤していたヒタキに、同居人となるよしみで挨拶の意味も込めてミルクをご馳走しただけで、別に彼女が男にミルクを与えて餌付けする趣味を持っているわけではない。しかし客観的に見れば、数少ない知人全員が何を考えているの分からないどころか何も考えてないのではないかと疑っている、よくわからない青年の餌付けに、幼女は間違いなく成功していた。
贅沢っていいなあと本気で感動しているヒタキは、そういえばと隣で紅茶を飲む幼女の横顔を見た。
「おねえさんの名前、何ていうんだ?」
「む? ああ、そういえば自己紹介がまだだったな。私はヴェルマだ」
「ふーん、ヴェルマさんか。じゃあ今度からおねえさんのことは、ヴェルさんって呼ぼう」
勝手に愛称を決めた珍しく活動的なヒタキを、仕込みを終えて手が空いた店主は冷ややかに見下す。それこそゴミを見るような目で。
「お前、そういう趣味か。否定はせんが、汚らわしいな」
「それ、訴えたら俺が勝ちそうだ」
相変わらずの店主を暴言を聞き流したヒタキは、強面の店主の本音を冗談だと勘違いして優雅に紅茶を飲むヴェルマに、気の抜けた声で言った。
「俺がヒタキで、こっちが怪我で汚れ仕事を引退して、今はそこそこの人気店を切り盛りしてるジン・リッパーさん」
「バラすぞ。引退したのは探索者稼業だ」
「え?」
凶悪な人相の店主をまじまじと見つめるヒタキ。何を引退したのか名言されていなかったため、今に至るまで本気で元は危ないお仕事の人だと信じ込んでいた。ミルクを奢ってくれる優しくて可愛くて綺麗ないい人であるヴェルマに、本当に善意から紹介しただけで、嘘を吐く気なんてなかったのである。
ククク、と押し殺された笑い声が聞こえる。
バラされる前に逃げ出そうと腰を浮かしたヒタキだが、苦笑するヴェルマに気づいて、すとんと再び椅子に腰を下ろした。
「おねえさん?」
「いや……なに、ただ少し気が抜けただけだ。魔が蠢く天獄と噂される未知の都市に入るなり、二つの良縁に恵まれたのだからな」
ことんとカウンターにティーカップを置いたヴェルマは、唇の片端を吊り上げて、その幼なくも不思議と怜悧な印象を与える美貌に実に似合った、ニヒルな笑みを浮かべた。
――――ぼんやりとした雰囲気の適当に切りそろえた雑な黒髪の青年と、恐ろしく似合わないコック帽を被った恐ろしい人相の店主に。
「今日からよろしく頼むぞ。ヒタキ、店長」
不思議な女性に店主は無言で鼻を鳴らして、ヒタキはのろりとした動作で頭を掻いた。
「まあ、ほどほどによろしく、おねえさん」
「ん、ヴェルと呼ぶんじゃあなかったのか?」
「…………末永くよろしくな、ヴェルさん」
訂正したヒタキに、ヴェルマは鷹揚な態度で頷いてみせたのだった。
「ああ、それでいい」
* * *
今から遡ること八百年前、後に「神秘」と呼称されることになる現象が発現した。少なくとも人類にとっては初めてとなる神秘と定義される現象は、大規模な改変現象だったと伝えられている。神秘「世界改変」によって作り変えられた世界には、「魔力」と呼ばれる新たな要素が存在していた。そして魔力の発生は、生命に進化を促すことになる。
完全に魔力に適応進化した生物は、改変前と比較にならない力を手に入れた。魔力を纏う拳は易々と鉄を砕き、魔力を纏う肌は軽々と剣を弾く。魔力で式を編むことで、超常現象を引き起こすことさえ可能になる。鍛錬によって肉体におこる魔力干渉は、根本的な身体能力までもを底上げした。
生物は二百年の歳月をかけた進化の結果、鍛錬と成長によって生まれ持った魔力の限界保有量の許す限りで、身体能力を飛躍的に伸ばす魔力回路を発達させる道も、自在に操れる魔力を保存しておく魔力炉の容量を増やす道も選ぶことができるようになったのだった。
「――――以上が、魔力が生まれたことによる生命の変化。私の認識に、問題はないな?」
「あってるよ。ていうか、頑張ればそれぞれ決まった量までは魔力を持てて、その魔力を強化に使いつぶすか残しとくかを、頑張り方で決めれるってことがわかってればいいんだけど」
日が暮れて暗くなった通りを、ヒタキとヴェルマは教会に向かって歩いていた。迷宮から出てきた探索者たちとすれ違いながら、石造りの都市を人の流れに逆らい進む。
二人は今から一緒に迷宮に潜る。それは早めの夕食を終えた後に、ヴェルマから提案したことだった。教会が提供するサービスに、初心者向けの講習がある。教会から給金を貰った探索者による、迷宮探索における基本のレクチャーだ。そのことを教会で聞いていたヴェルマが、どうせならばと教会を通さずに貧困で喘いでいるヒタキを個人的に雇い今に至るのだった。
ヒタキは雇い主であり救世主であるヴェルマに、道すがら迷宮のシステムを説く。
「で、ここから加護の話になるんだけど……加護ってのは、魔力量の増加のことらしい。しかも神様からもらった魔力は、その魔力の分だけ限界保有量まで増やすんだって。で、レベルってのは受けた加護の量、要するに増えた魔力の量のことだ」
「それはまた……とんでもない話だな」
人間の魔力の限界保有量に、個人差などほとんどない。同様に他の生物も、限界は決まっている。人間が鍛えに鍛えて限界まで魔力量を増やせたとしても、魔力量に根本的な差がある種族を超えることはできないとされている。魔力が他に追随を許さないエネルギーであるが故に、魔力には魔力でしか対抗できないのだ。
「とんでもねえ話だよな、ほんとに。ちなみに到達者の二人は、外じゃあ超越者だけど、レベルにして500、人間の限界の数十、もしかしたら数百倍かの魔力を持ってたらしいぞ。立派な人外だ」
「数百倍か、狼王を打倒できるはずだな。到達者――迷宮を踏破し神界を抜けた者、か」
迷宮都市が発見されて五百年。迷宮都市から生還した人間が、二人いた。迷宮の最深部である三百階に到達した者は、迷宮都市の外に出ることができる。人を超えたその二人の人間は、生還に成功してから歿するまでの間、多くの偉業を成し遂げ多くの伝説を残した。一夜で一国を半壊させた狼王の討伐が、最も有名な話だ。
「ま、俺が言いたいことはさ、ヴェルさんが外でどれだけ鍛えてたとしても、ここじゃあある程度のレベルのやつには魔力量じゃあ絶対に勝てないってことだ」
「なるほどな、理解できた。達人と呼ばれる人間でも、この都市ではかなりの弱者というわけか。信心に神々は答えて下さる……ふん、本当に何でもありだな、ここは。まあいい、しっかりと覚えておこう」
腰に佩いている剣の柄を撫で、憮然と眉根をよせるヴェルマ。彼女の様子をぼんやりと横目で見ていたヒタキは、ふと思い出したように「そういえば」と前方に聳える巨大な石造りの教会を見る。
「ヴェルさんが加護を受ける神様の話は、教会で聞いただろ?」
「ああ、天秤の女神アリアだと言われた。炉と回路に術士系とも戦士系とも言えない、平均的な魔力の分配がされることが特徴だから、普通はある術士系統と戦士系統のクラス選択というものがないらしい。魔力回路の成長具合をステータスと言うのだったか? ステータスも平均的な伸び方をすると教えられた。……クラスチェンジをして行けば得ることになる神性スキルというのが少し特殊だと言っていたが、よくよく考えれば、個性のない退屈な女神だな」
「おねえさん、あんた、すごいな」
確かに都市に入ったばかりではあるが、加護を与えてくれる女神様に酷い言い様である。
「今のクラスはマジックナイトというらしい。ヒタキはどうなんだ?」
幼女の尊大さに何故か感心していたヒタキは、向けられた疑問の声に口を開きかけて停止し、それから不思議そうに首を傾げた。
「慈愛の女神の……何とかっていう神様で…………、えっと、戦士系統を選んで、それで……クラスの名前って何だっけ?」
加護を与えてくれる女神様の名前すら覚えていなかった。
――――それから二人は冒涜したばかりの迷宮の神々に祈りを捧げ、迷宮への入口である巨大な門を潜ったのだった。
* * *
耳障りなかん高い鳴き声を発しながら、茶色の体毛に覆われた化け猿四体が迫り来る。
振り下ろされる白い骨を、斜め前に一歩踏み出すことでかわす。右腰に引いていた剣に左手を沿え、骨を地面に叩きつけたことで隙だらけになっている化け猿に、身体ごと回転させながら斬撃を放つ。ヴェルマの身の丈ほどもある魔力を纏った剣の一閃は、敵を上下に両断した。
標的を仕留めんと飛び掛ってくる二匹に、ヒタキは迷わず背を向けて走って逃げ出した。
敵を両断したヴェルマは、返す剣でもう一匹が振るうただの骨を断ち切る。ついで繰り出した袈裟懸けの斬撃はまともに化け猿の肩口に入り、命を断った。
ヒタキは鳴き声をあげ追いかけて来る化け猿から、走って逃げ続ける。
「焼け死ね」
モンスターの血を大量に浴びたヴェルマは、しかし全く意に介さずに左手で魔術式を編む。三秒に満たない時間で空中に描かれた魔術文字が輝き、完成した下級魔術『踊る火炎』が発動。飛翔する二つの拳大の炎の塊が走る二体の敵に直撃し、炸裂する。そして燃え上がる炎に抗うことも出来ず、しばらくして二体の化け猿は絶命した。
周囲に敵がいないかと視線を巡らせた後に、ヴェルマは息一つ乱さずに剣を鞘に納めた。ヒタキも立ち止まって、ほっと一息吐く。
「はぁ……疲れた」
「お前、今回も逃げていただけだろうが」
迷宮の一階。そこに住み着いているモンスターは、弱い。魔力炉から魔力を練りだし、術式を編んだり身体に纏ったりすることで始めて、魔力は純粋な攻撃力や防御力になるというのに、魔力量も少ない上に、魔力回路ばかりが発達していて、まともな魔力炉を持たないためだ。魔力回路はあくまでも身体能力を上げるだけ。魔力回路が発達していなければ素早い動きも出来ず、重たい物も持てず、体力もすぐに尽きるが、しかし魔力炉がないと敵にダメージを与えることができない。一階のモンスターは、ほとんど攻撃と防御の手段を持っていないのだ。
その雑魚から逃げることしか出来なかったヒタキは、面倒くさそうに全身を覆い隠している灰色のローブを指差す。
「仕方ないだろ、俺、弱いんだから。俺は死にたくないから、いっつもこれで隠れて、見つかったら逃げながら進んでるんだ。で、こいつらの肉とか売ったら、ちょっとした金になるらしい。俺はやったことないけど、探索者の生計の立てかたの一つなんだと」
ヒタキは迷宮の外では、何時も腰に二つ折りにしたローブを巻いている。部屋に数種類あるそのローブの色は、ダンジョンの格階層ごとの保護色だった。
「なるほどな……それでレベル1か」
――――神の加護を受けずに五十階を抜けた前代未聞の男。一日一階を五十日間成し続けた規格外の男。
これ食えるのかな、と仕留めた獲物に首を傾げているヒタキに色々思うところがありながらも、ヴェルマは特に追求することもなく、声をかけた。目の前に白光と共に現れた、短剣を掴み取りながら。
「ふん、これが特に厳しい試練を乗り越えた者への褒美、というやつか。ヒタキ、今の戦闘でおそらくレベルも上がった。今日はもう帰ろう。いいな?」
「ん、おねえさんの好きにしたらいい。俺は、雇われてるだけなんだから」
――――その男はただの、逃亡者だった。